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田塚神社(窪田町上下小瀬鎮守)『虎列刺大明神』

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新型コロナの影響は計り知れないものがありますが・・今も昔のあった流行病、ここ窪田のコミセンだより5月6月号に・・『恐怖心は同じ!昔(コレラ菌)も・・・今も(新型コロナウイルス)』と題した記事・・明治12年1879年に全国でコレラが大流行したという・・このとき疫病の終息と犠牲者の冥福を祈り建立された石碑が窪田に4つあるという記事です、その一つは自分が移住した東江股の春日神社・・・4月地区掃除のとき話を聞きました、白布の泊り客からはじまり小野川温泉街に伝染して、米沢市内そして下流の窪田と瞬く間に蔓延し死者数百人が出たということだからその恐怖は計り知れない・・そのあと小野川の石碑を観に行ってましたが・・そのあとでこの記事見て残り3つある窪田の石碑先週の休みに訪ねてみました・・田塚神社の石碑・・細長い凝灰岩で読み取りにくいですが”虎列刺大明神”とあります・・

2020.07.01:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

美女塚

  • 美女塚
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米沢市塩井の地区境にある木造切妻つくりの御堂の中に地蔵がある、地区伝説の記載の中に切支丹美女の墓、小野川温泉を発見した小野小町の墓、直江兼続の遺器を埋めたとか、小笠原長時の妾の墓、などが記載されてるそうで伝説の領域を出ない・・ここと相対するように美男塚というのもあり、先週立ち寄って昨日ここ美女塚に立ち寄りました、よくこの前は通るのですが車止めて寄ったのは初めて・こんもりとした塚・木々の緑がまぶしい、地区の人が花植えたりして面倒見てるようですかね、塩井の昔話に美女塚と美男塚の間に家を建ててはいけないという物語もあるようです・お寺のお堂、お墓、道路の道筋、田んぼのあぜ道などでよく見かける地蔵様、さまざまな人々の深い苦しみを、地蔵が身代わりとなり受け止めてくれる慈悲の仏様コロナもはやく終息できるように・・

2020.06.04:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

美男塚

  • 美男塚
  • 美男塚
  • 美男塚

米沢市塩井町塩野の兼業農家さんからお米買うようになって、その田んぼで今年から田植えに稲刈り体験させてもらうことになり一昨日田植えしてみました、そこから窪田に帰るとき信号のない小道・・古い街道という感じ道で塩井小を経て福徳毘沙門天に通じる道を通るのですがその道路に塚があります、市の史跡看板があり美男塚(びなんづか)とあり、小ぶりの地蔵の他に庚申塔とかあります、看板には小野小町と深草少将の悲恋が伝わる場所とあり・深草少将は小町を慕い京都から米沢へと追ってきたものの、会うことはかなわず、時を経て病となり死に際に小町の墓の近くに埋めてほしいという遺言を残したという、この場所に埋葬し”美男塚”と名付けたという、この場所から東に1.2kmのところに向かい合わせで立つ美女塚があります。

2020.05.30:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

支倉常長(はせくらつねなが)

  • 支倉常長(はせくらつねなが)
  • 支倉常長(はせくらつねなが)
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今日から5月ですよ早いですね、山形県米沢市大字立石に関小学校がありますが、2021年4月で南原小学校と統合するとされてます、その小学校近くで生まれたのが伊達藩の家臣である支倉常長、ここに小さな資料館とその看板がある、一昨日天気も良く桜見学ついでにたちよってみた、常長がスペインに渡って400年の節目に桜の記念植樹を植えたのが2015年いま桜が満開です、伊達政宗が25歳まで常長は4歳まで米沢にいたとされているのですが4歳ではそんなに思いはないよね・・51歳でなくなってるから短いよね・・病死とあります・・元亀二年1571年生まれ1622年没、慶長18年1613年に、スペイン領メキシコ経由で、スペイン、ローマに慶長遺欧使節(けいちょうけんおうしせつ)として渡航している、施設の派遣が何の目的か誰が企画したかも不明瞭であるとされて徳川幕府キリシタンは迫害を開始していて、メキシコを経てスペインには1615年渡り1620年に帰国主目的たるメキシコとの通商は果たせなかった、命かけての渡航もむなしい、案内役のソテロは1622年マニラから日本に潜入2年後に処刑となっている、出かける慶長18年には国内情勢が大きく変化キリシタン禁教令が全国に敷かれている・・このことから一行が容易に帰国できず正使常長のみ元和6年8月仙台にやっと帰着、帰着後キリシタン御免の家とはなるが不遇のうち病死、この不遇という処置はどんなだったのでしょうか、仙台藩もキリシタンに対して迫害を開始していた本使節団はほとんど意義がなくなっていたようです・・何度か遭難にもあい出かけた常長の本当の気持ちはどんなだったのでしょうか帰国できずに帰化した人々の声を聴いてみたいものです・・

2020.05.01:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

虎列刺菩薩

  • 虎列刺菩薩
  • 虎列刺菩薩
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コレラの終息を祈願して、その死者を慰霊する石碑があると地区掃除のとき聞いて窪田のを見学した後、赤芝にコレラの石碑があると友人から以前聞いてたので気になってみてきました小野川温泉に向かう途中、置賜三十三観音札所二十五番となる赤芝観音の奥、赤芝羽黒神社にある、市内の桜は半分くらい散ってしまったのですが、ここの桜はまだ満開状態でした、神社の門から、神社境内の左に向かっていくと、石仏群がまとまってるとこにあります、大きな自然石の中央に虎列刺菩薩とはっきりと見れます、右に明治十二年八月三日、左側には村中安全と刻まれている江戸時代の文政五年(1822)に始まり明治になってもたびたび流行したコレラ、石碑はこうした状況のもと、コレラの終息祈願と死者の冥福を願ったもので、最初に発生した文政の時は明確な名前がなく、他の疫病と区別が不明瞭であったがこの流行の晩期にオランダ商人から”コレラ”という病名であることが伝えられて”虎列刺”とら当て字がなされたとあります、コロリと死んでしまうことから”虎狼痢”などの呼び名も広く用いられたという・・

2020.04.29:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]