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上中原の草木塔

  • 上中原の草木塔
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10月17日の日曜日、スキー友とこの日米沢スキー場シーズン券申し込みして昼食べた後、時間あるんで、米沢にある草木塔めぐってきた・・以前にも写真撮りしたんだけど、今度草木塔のミニチュア作ろうと思い、形がわかるように前後左右と写真撮り、大まかな寸法も図ってみた・・場所が米沢市内から館山過ぎて大峠に向かう国道121号線の三沢西部小を少し過ぎた道路沿いにのぼりが見えるんですぐわかります、元の場所からは道路改修で移動してるようです・・慶応元年(1865年)7月、草木塔とはっきり見えます、自然石は風化しないからいいですね、1.7mの高さ幅60㎝ありました、三田沢講中と施主がわかる、この地区で大切に祀られており6月に供養祭をしてるとあります・・

2021.10.21:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

米沢藩士族 雲井龍雄

  • 米沢藩士族 雲井龍雄
  • 米沢藩士族 雲井龍雄

伝国の杜から南に行って米坂線の踏切手前にある常安寺に米沢藩士族 雲井瀧雄の墓がある、道路面にその説明看板があります。雲井瀧雄は天保15年(1844年)から明治3年(1871年)と27歳の生涯とある。幕末では奥羽列藩同盟のために活躍し、明治維新後は米沢藩の推薦で新政府の集議院に努めるが、不平士族のために嘆願書を新政府に提出したことや新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が彼のもとに集まっていたことが政府転覆の陰謀とみなされ処刑されたとあります・・明治3年12月26日に判決その2日後にはに牢獄で斬首され小塚原刑場で梟首(きょうしゅ:さらしくび)という重い刑を受けている、同志13名の斬首、22人が獄死と厳しい拷問による取調べもあったはずですよね、斬首には米沢藩1名もいるようですが・郷里米沢ではその名を口にすることはタブーとされていた・後の研究では冤罪ということが明らかとなっているようです。自分の意に沿わぬものは排斥し、自分たちにつき従うものばかりを出世させ取り立て、正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りないが、官軍を名乗って規則と称している。瀧雄はその罪を問わなくてはならないと説いている・・勝てば官軍とありますが「権力を正面から批判する勢力がなければ、社会の健全な発展は図れない」というセリフがあります・・すごい人です冥福を祈ります。秋の日ちょっと寄ってみました

2021.10.14:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

十六羅漢(遊佐町)

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9月の30日鳥海山の帰りに遊佐町の十六羅漢に立ち寄りました。お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいう、吹浦海禅寺21代の和尚様が日本海での荒海にて命を失った漁師の供養と海上の安全を願って近くの村から酒田まで托鉢をしながらお金が集まると地元の石工たちを指揮して5年の歳月で明治元年22体を岩礁に刻んだということらしいです。その後明治4年に和尚71歳で自ら身を投じて守り仏になったとありました、すごいですね・・昔は現在に比べはるかに漁師は危険な仕事であったんでしょうね・・22体は結構な範囲にあります、すぐわかるものや、なかなか判別しにくいものとかあります駐車場から遊歩道的に行くことができますが奥は険しそうなんでやめましたけども・・いい景色で散策にいいとこです、駐車場にお店もあります、7月から8月にライトアップもされ奥に出羽二見という夕日スポットもあります・・来年はこの時期に鳥海山再度来たいと思います

2021.10.12:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

旧渋谷家住宅

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9月の末に庄内へと一泊で山友古希の祝い旅、鶴岡にある致道博物館に立ち寄り、そこに移築した茅葺の民家がある、文政5年(1822年)に建てられたものと言うからすごい・・その山村にある生活様式文化を残そうということで、昭和40年(1965年)に湯殿山の山麓、田麦俣から博物館へと移築したとある、昭和からでも55年も経っている・・兜造りというもの、山間にある田麦俣は土地が狭く建物の増築が困難だったために、生活空間と養蚕部屋が一つの建物にまとめられた多層の形になったと言われている、作業場、物置と上階に設けてある・・もとあった田麦俣地区は、庄内と内陸を結ぶ六十里越海棠の要所、湯殿山信仰が盛んになり、その登山口、宿場としての機能を有していて、全国から集まった参拝者が夜ともなると路上に出て、お国自慢の歌や踊りを披露して、毎晩祭りのようなにぎやかさだったとかとある、明治になると神仏分離、廃仏で出羽三山信仰が大打撃を受ける、このころ養蚕が盛んになりそこに活路を見出していくようになったということです・当時の山村の暮らしぶりいかがなものだったんでしょうかね・・・

2021.10.09:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

歴史博物館

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先週の9月29日鶴ヶ岡城跡にある藤沢周平記念館に向かうが、この日水曜日で定休日となってました・・調査せずに行って残念無念・・そんで鶴ヶ岡公園を通り抜け城跡三の丸にあたるとこにある致道博物館に行ってみました、鶴岡の歴史、文化知ることができる施設、元は庄内藩主酒井家の御用屋敷だったものを博物館として公開、入場料大人800円でした、敷地内には国指定重要文化財の旧西田川郡役所、多層民家、旧鶴岡警察署庁舎など展示物、刀剣などもありまじめに見るとけっこうな時間かかります、酒井氏庭園は書院造りで東北ではまれなんだそうです、作者も制作年代も不明、写真2枚目・・江戸時代から明治、大正と趣ある建物に庭園いいです

2021.10.06:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]