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アートワーク

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1975年(昭和50年)東芝日野工場に入社、日野は電話、ポケベル、小型無線機、マイクロ通信、監視装置などの通信機器開発製造工場でした。昭和50年はというと、大手電機会社などは、どこも4月末とか5月とか通常なら4月1日が入社日となるのが、ひとつきからふたつき、ひどいとこは年明けという自宅待機となる大不況時代でした、この2年前、日本全国のスーパーからトイレットペーパーや洗剤が消えると言う状態がおこりました”オイルショック”と呼ばれた(石油危機)がありました、原因は中東戦争、その影響で、石油が途絶える→日本は品不足になる→そんな不安が人々を買いだめ、買い占めに走らせて・・そして便乗値上げに、売り惜しみと経済が混乱し、高度成長が終焉を迎えて時代の転換期となったころです、ガソリン価格が高騰、物価は上昇、急激なインフレとそこまで高度成長を続けてきた日本経済はいっきにブレーキがかかったわけです・・今ガソリンが高騰してインフレになりそう嫌な感じです・・話は脱線したけども・・入社時はオイルショックの影響で米国はトランシーバブーム・・そこで日本は無線機輸出で盛り上がる・・日野工場も便乗というわけで生産拡大して、開発者に現場も小グループから部へと、人を集め拡大していきました。入社してすぐは無線機組み立て、そして検査を覚えると無線機の調整、修理と移って、やがて製造技術に移り、新機種の開発援助の仕事にかかわっていく・・やがて石油危機も落ち着き米国の無線機ブームは終わりました、拡大しすぎた無線機製造部門はリストラ・開発に製造含めて部は解散、この時、東芝小向では宇宙開発工場を立ち上げてる時、その宇宙開発側にかかわる電源開発部門に移りなさいと上司の課長同期がいた電源開発課に移籍することになりまして、ここが、今思うと我が人生の大きな転換期だった気がします・・初めは、いやいやで製造技術に移籍させてーーと申告していた時期がありました・・話は長くなりましたが、昭和の50年代はまだ回路解析CAD、機構CAD、プリント基板CADなんかも発達してなく、みな回路は手書き、基板設計も手作業といった時代でした、すぐには任されませんでしたが、やがて自分で回路決めて、部品表作成まで行うようになり、回路部品が決まれば、基板のレイアウトとパーン引き作業に入ります、この作業はアートワークと呼んでました・・2色(赤と緑)の色鉛筆とメッシュのレイアウトシートに部品のテンプレートで部品配置して表、裏と回路をパターンでつないでいく、終わると基板設計担当に依頼してフィルムにランドシールとパターン幅になるテープを貼って基板のフィルム原紙を作成する・・今は完全に回路作成から基板CADの設計データも一貫したCADでできるようになりましたが、昔はアートワークという言葉がぴったしのアート作業だった気がします・・回路設計者はパターンの素案まででしたが、この基板のパターン図作成は好きな時間でしたね、その時に使っていた電気部品形状テンプレート、回路シンボル、文字テンプレートにパターン用のテープは不要になったけど、今でも持ってます・・30年以上経ってると思います。

2021.11.19:li-no2:コメント(1):[過去の仕事]

ETS-ⅢからETS-Ⅵ(IES)へ(その2)

  • ETS-ⅢからETS-Ⅵ(IES)へ(その2)

HP開設して”過去の仕事”投稿最後が2018年6月でしたのでもう3年も経ってしまったんですね早いものです・・久しぶりの投稿ですけども、私が宇宙の衛星仕事にかかわった最初の衛星、きく3号の2mN級イオンエンジン装置開発1980年(昭和55年3月末)自分の結婚式前日が筑波電総研でETS-Ⅲのイオンエンジンサブシステム試験の最終日でありました、1982年秋には打ち上げ、初めての種子島出張は、このイオンエンジンのサブ試験担当が縁で関わりました、そこから間が空いて1986年より国産の2t級の静止三軸姿勢制御型の実用衛星開発が始まる、当初1992年打ち上げ予定はH- Ⅱロケット開発の遅延により2年延期されている・・衛星開発と同じくロケット開発も進んでいて、そのメインエンジン開発の難易度は高く、後にロケット開発の苦難がTVでドキュメントとして放映されていた、何度となく爆発炎上するエンジン・・その原因を探るための苦労、克服する技術者の執念のようなものを感じたものです・・入社間もない新人ど素人の私は1978年からETS‐Ⅲイオンエンジン装置の地上試験装置開発担当となり単体機器からサブシステム試験の装置全般にかかわる担当となって宇宙開発にかかわることになる、1980年頃から電源本体側の設計にもかかわっていき搭載電源初は海洋観測衛星「もも1号」(MOS-1)のSADE(ソーラアレイドライブエレクトロニクス)の機器内部電源でした、他に当時東芝青梅工場のミニコン用電源から東芝日野工場の通信機器電源、CS地上局TWT電源・東芝小向工場内のT-SAM用機器開発など1988年頃まで多様な機器の開発で電源装置のいろんな方式の電源開発経験を積むことができた・ETS-Ⅲからは6年たって、国産2tクラスの人工衛星開発が1986年から始まります、衛星の軌道制御にはイオンエンジンを採用、実用衛星のバス機器として開発が始まる2mNの実験装置から2t衛星の20mN へと電源のパワーも90Wクラスから900Wクラスと国内最大級の衛星電源開発にかかわることになっていく、衛星メーカの東芝、三菱、NECと横浜に合同会議するビルがあり私は1988年からイオンエンジン電源装置の開発主担当になる、その上司とりまとめはETS-Ⅲの時の電源装置開発主担当のOさんとなる・・後に九工大で博士号を取得する恩師でもあります・・イオンエンジン装置の開発は電源装置と制御装置がETS-Ⅲのときと同じ東芝で三菱がイオンエンジン本体とその周辺燃料系の機器担当となってます。その衛星のバス機器でも重要機器の部分試作は衛星開発が本格化する前から始まりイオンエンジン電源部分試作の高圧電源部が1987年頃から開始されました(次につづく)・・写真は後に幕張で開催されていた航空宇宙展で展示されていたETS-Ⅵのモックアップだったと思います・・

 

2021.08.19:li-no2:コメント(0):[過去の仕事]
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