HOME > 歴史探訪

コレラ大明神

  • コレラ大明神
  • コレラ大明神
  • コレラ大明神

移住した窪田町東江股にある春日神社に石碑群がありますが、ここにコレラの終息を祈願して、その死者を慰霊する石碑があると初めて聞きました、赤芝にコレラの石碑があると友人から聞いたことはあったのですが、窪田にもあったのは初耳でした、そんでネットで検索したら米沢市の歴史探訪のとこに載ってました、一部抜粋すると・・日本で初めてコレラが流行したのは文政五年(1822)で安政五年(1858)には江戸だけで20数万の死者を出す大流行があり、明治にもたびたび流行した、石碑が建てられた明治12年(1879)には全国で大流行し、死者10万人、米沢では八月に白布温泉で発生(旅行者から伝染?)、当時は川水の利用が主であり、コレラは下流の小野川・赤芝に伝染して、市街にも蔓延、死者数百人に達した、さらに下流の窪田村にも伝染し、死者42名と記録にある、石碑はこうした状況のもと、コレラの終息祈願と死者の冥福を願ったもの、赤芝羽黒神社に虎列刺菩薩碑、窪田の虎列刺大明神の石碑が建てられた、今日その石碑に手を合わせて現在のコロナの感染終息を願いました、コレラは明治16年にコッホ博士がコレラ菌を発見し、そののちに治療法も発見されて、上下水道の環境整備も進んで現在ではコレラの流行はなくなり石碑も忘れ去られている・・たびたび起こる伝染病ですがコロナもやがて治療法が確立されるんでしょうけど・明治の時代4年かかって菌の発見その後治療法の確立・・医療技術が進んだ昨今いつ決め手の治療法が見つかるのか?今日桜が満開の窪田東江俣の春日神社

2020.04.26:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

白布温泉石仏群

  • 白布温泉石仏群

昨日3月28日(土)は、コロナで3月7,8日の山形県準指導員検定日の延期した検定日でしたけどコロナの終息がおさまらず中止になって・・しかたなく休みとっていたので天元台でスキー練習、この時期になると湿り雪のざぶざぶ雪になる、整地しても深くえぐれて滑りにくくなり、変なブレーキもかかる・それよりも同じところを滑るこぶバーンの方がよく滑れるので昨日はこぶオンリーでした・・ようやくこぶバーンも緩い傾斜はなんなくクリア・・昔からある第二リフトのこぶバーンの斜面もモーグルメンバーのつくる細かいバーンは無理だけど緩いのはクリアできるようになった・・来年こそ初検定一発合格といきたいです・昨日帰りの白布温泉街の風景、まだここは雪が少し残ってます・・酒屋さん前の石仏が並んでいるところから西屋旅館を見る、昔は西屋、中屋、東屋と三軒の茅葺旅館が並んでいましたけどもいまは西屋さんだけ江戸時代の建物が残っている、創業が鎌倉時代まで遡る歴史ある古い旅館です・・今朝はまた春のなごり雪が降ってます

2020.03.29:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

牛谷家の門

  • 牛谷家の門
  • 牛谷家の門
  • 牛谷家の門
  • 牛谷家の門

いつも素通りしていた川西町の指定有形文化財となる”牛谷家の門”白鷹町に用事でお出かけしたので寄ってみた、この門元々は伊達家の家臣である大塚氏の居城の大塚城の大手門だったもの、天正19年に仙台に移封となると廃城となり、貞享3年(1686年)牛谷家の門として移築されたとある、・・牛谷家というのが代々国人領主的な存在で周囲の開墾や軍事労役を担っていた家系、国人領主は何かというと、在地に独自勢力を持つ武士たちを国人領主または土豪などと呼んでいるひと、藩主から郷土馬上の待遇を受けていたとある、身分によって屋敷の面積や形状も厳しく定められていた時代、現存する門も一般には上級武家以上しか認められていないことから当時の牛谷家の格式がうかがえます、長手門は切妻、茅葺、白漆喰仕上げ北が三間で2つの武者窓付床が板敷と土間、南側に出格子、土間で武芸の練習をしていたとされて江戸時代に建てられた大型の長屋門建築の遺構として貴重なもの、もと大塚城の大手門を移築改造したもの牛谷家がこの地に移築したとあります(川西HP参照)城はこの近くで門以外は何もないですが、伊達家が移封し上杉が入り、城は廃城米の貯蔵場所として使用していたとありその後に移築した門の奥には何があったの??絵図とかあると嬉しいけど昔の風景想像すると楽しい

2020.03.07:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松

  • 米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松
  • 米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松
  • 米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松
  • 米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松

米沢市の万世町桑山(旧万世小学校跡地)に一本松 がある、明治14年明治天皇が東北御巡幸の際 に休憩された場所として、この地を永く後世に伝える為、明治22年に記念樹として植え られたもの樹齢は推定約200 年で、樹高13メートル・枝張り約20メートルとある、またここには明治34年(1901年)旧万世小が建てられた場所であり記念の石碑がある、私の母はこの小学校を出ている近くのびっき石は遊び場で八幡原飛行場で飛行機をよく見ていたとか聞かされたものです、この場所・・東北中央道の福島大笹生~米沢北ICが開通したことにより高速道がすぐ横を通っている、その開通を記念して草木塔も建てられている米沢で一番新しい草木塔平成29年(2017年)10月21日となる”自然の恵みに感謝し草木を供養する”と刻まれている、一番古いのが米沢市田沢にある石碑、安永9年(1780年)7月19日、上杉鷹山時代に建てられたもの自然石に【草木供養塔】と刻まれている・・自然に感謝する心大事です・昨日天気悪かったが寄ってみた

2020.03.06:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

中山道坂本宿(その2)

  • 中山道坂本宿(その2)
  • 中山道坂本宿(その2)
  • 中山道坂本宿(その2)
  • 中山道坂本宿(その2)

碓氷峠を超えて坂本宿に入ると左側の宿中寄りに現在公認館となっている”酒屋脇本陣”がありその手前側碓氷峠寄りに坂本宿の面影を残す代表的な旅籠建築の”かぎや”が見られます高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家が坂本に移住して旅籠には役職にちなんで”かぎや”としたとあります、看板はひらがなでかかれてありわかりやすい、看板上の屋根下には彫り物などもあり趣があります、公民館横から入り車を止めるスペースがあり奥に小学校がありますがその入り口付近に赤いポストがありましたが、使われてなさそうな?使われてもいるようなかんじわかりません・・時間があればゆっくり散策しても飽きないところ、木曽街道六拾九次坂本の画には中央に用水路があるのがはっきりわかる、奥には刎石山(はねいしやま)が描かれていて東海道の平塚宿の高麗山ににているけどもこの奥行き感というか描き方が独特で好きです、坂本宿の次は軽井沢宿となる、碓氷峠はこの山を越えていくことになるのだが昔は歩きですから大変なものです・・東海道に中山道歩き旅余裕があればやってみたいものです

2020.01.26:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]