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館山城(米沢)その2

  • 館山城(米沢)その2
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平成28年(2016)3月に国の史跡に指定された城跡、9月の最終土曜にハイキング感覚で散策、小樽川と大樽川にはさまれた山城で国道から案内板に従って小樽川を渡ると水力発電所がある、大正9年(1920)建設とあり、現在も東北電力の管理で現役稼働していて、近代産業遺産としての評価を受けている、山城入り口に小さな案内小屋がありその中に保存会の作成した案内図があり山城コースは1時間ほどの散策ですが全体をみていたら2,3時間かかりそうな感じです、山上にある三つの曲輪と、北山麓の北館、南東山麓の東館の遺構からなります、東端の曲輪Iは最も広く虎口は北、南、そして西に開いている。北と南はそれぞれ山麓の曲輪から通じる虎口である。西の虎口は内桝形で、発掘以前は確認できなかった石垣によって固められた虎口が現在は確認することができる。また川原石が多く露出し、通路を塞ぐ形で残されており、これは枡形を使えなくする破城処理の一つで西虎口の石垣が上杉氏時代のものと考えられている。文字記録がほとんど残ってないのでどの時代に誰がというのがまだまだ不明な点がロマンを掻き立てます・・

2019.10.22:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

谷地河原堤防(直江石提)

  • 谷地河原堤防(直江石提)
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一昨日の休み直江石提公園で芋煮会した帰り道、谷地河原堤防に寄ってみました、この堤防は上杉景勝が米沢に入った頃、城下の南から北に流れる松川がたびたび氾濫を繰り返し、城下の東側に居住することも耕作もできない土地が広がっていた、この浸水被害対策として、慶長18年(1613)に完成した石積堤防です、この堤防により城下に新たな居住区と広大な農地をもたらしたとあります、400年も前の話ですがその石積堤防はしっかりとその姿をとどめているのにおどろきます、昔の絵図にのこる堤防、川の周りは松の木が多く描かれている松川のいわれですかね・・



 

2019.10.20:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

館山城(米沢)その1

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  • 館山城(米沢)その1
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平成28年3月に国の指定史跡となった館山城跡よく通りますが、いつでも行けると思うとなかなか行かずじまいでした、ようやくこの9月の最終土曜天気も良く探索に行ってきました、米沢市内から国道121号線で喜多方方面に向かうと館山城という看板がありすぐにわかります左折して橋を渡ると館山発電所が目に入り、その少し先に地蔵様があっていい感じの古い道だなーと感じます、ちょっといくと看板と柱が目に入ってきますが、その柱には”私有地につき立ち入り大歓迎”という記載!ユーモアたっぷりですこの史跡の大部分が私有地なのだそうで・・いったいどういう経緯で現在の持ち主が存在するのか、どんなかたなのかなーーと思いますね、この城は2つの川が合流する丘陵地に築かれた山城、発電所から向かいの川を渡る道は江戸時代末までは主要道路だったようで、伊達政宗が去った百年後の館山城跡を描いた絵図が和歌とともに残ってると案内看板が立ててあります、いい感じの街道といった感じこういう風景は好きですなー、川を渡る手前のところに江戸期の庚申塔が並んでいます

2019.10.01:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

鉄砲鋳造師の墓

  • 鉄砲鋳造師の墓

来年はオリンピック、前の東京オリンピックで世界の選手団の前で米沢上杉の稲富流砲術隊がその妙技を披露したことがあります・・慶長6年(1601)上杉景勝に従い米沢入りした直江兼続は城下町整備を進めて、慶長9年(1604)近江国住友村より招き、白布高湯で鉄砲火薬軍器を作らせていた、この鉄砲鋳造師”吉川惣兵工”の墓が米沢林泉寺にあります・・兼続夫妻、武田家、そして鉄砲鋳造師とお参りしてきました・・この鉄砲鋳造師は良い鉄砲を作るので鉄砲塁町に屋敷を与え、録100石を給したとあります、和泉の境からは和泉屋松右衛門が招へいされてます、来年の東京オリンピックで是非鉄砲砲術披露されると良いですがそんな話はあるのでしょうか・・白布温泉の西屋さん前広場に鋳造記念碑があり、その鋳造していた工場はさらに上の昔温泉プールがあったあたりのようですが?いずれにしても1000丁もの鉄砲つくっていたのだから相当なもの、火薬となる硫黄も採れた場所柄、秘密裏に鋳造するのは良い場所だったんですね・・その当時の鉄砲が今でも演舞披露されているものというのもすごいです

2019.09.16:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

林泉寺米沢・武田家の墓

  • 林泉寺米沢・武田家の墓
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林泉寺の武田家の墓、林泉寺米沢の中にある武田信清の墓、信清は戦国の名称武田信玄の六男、上杉景勝の正室菊姫の弟にあたる、武田家は天正3年(1575)の長篠の合戦で織田・徳川の連合軍に敗れて1582年武田家は滅んでいる、この時信清は高野山に逃れ、後に姉の嫁ぐ上杉景勝を頼り越後にと向かう、義を重んじる景勝は信清を大事な家臣として迎えている、上杉は会津そして米沢と移封されますが信清も移り、寛永19年(1642)80歳で病死とあります、結構長生きでしたね、信清は上杉家の菩提寺である林泉寺に葬られました、信清の子孫も代々米沢藩に仕え、幕末へと至っている。武田家の墓前に看板があり信清の墓の説明があります、一段と大きい五輪塔です、高さが2,3m昭和28年になって山形県の史跡に指定されてます、かっては川中島で激しく戦った上杉家を頼り、幕末まで上杉家の家臣として仕えたことは上杉家の義に厚い家風を忍ばせますね・・・・
 

2019.09.14:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]