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鶴岡公園 大賓館

  • 鶴岡公園 大賓館
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9月29日(水)山友古希祝旅へ庄内方面観光して遊佐に泊り、翌日は山友らしく鳥海登山の旅・・初日29日は快晴夏みたいな天気、鶴ケ岡城跡散策と鶴岡市出身の時代小説家、藤沢周平館を見ようと思っていったのですが水曜は定休日・・とほほーアレーの確認不足でしたね、気を取り直して致道博物館へ行く途中、大賓館という建物がひときわ目立ってました、大正4年11月10日大正天皇の御即位記念に会館。大正初期の疑似洋風建築としてバロック様式を模して造られたとある、ルネッサンス風のドームをのせた赤い尖塔屋根と白亜の殿堂は全国でもまれなデザインということです、現在は郷土の先人、偉人の業績を紹介する”郷土人物資料展示室”となっている・・手入れが行き届いてきれいに維持してる大変だろなー

2021.10.03:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

山居倉庫(酒田)

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一昨日、山友さんたちと庄内観光、お昼、海鮮市場でおなかは満杯、少し腹ごなししないとということで、海鮮市場から820mと案内板がある山居倉庫までお散歩、大人の休日クラブで吉永小百合さんがCMやポスターに起用されて一躍有名になりましたね、酒田はかつて北前船による交易で栄えた港町、その繁栄を支えた、庄内地方のコメの保存用倉庫として使われた山居倉庫、明治26年建造とあります、ケヤキの木が日差しを遮って気持ちいい風がすり抜けていく・・この日天気よくかなり暑かったんですが石畳の上は気持ちよかったです、観光物産館、庄内米歴史資料館(大人300円)もありぶらりぶらりと散策できました

2021.10.01:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

康寿橋と康寿桜

  • 康寿橋と康寿桜
  • 康寿橋と康寿桜
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一昨日、山形の山形百名山登り、目当ての山でなくなって、もう一度次の休み17日に行くことになってしまって、一昨日、時間余って山形帰り道、赤湯温泉街少し散歩・・久しぶりですけども、我が長男と同じ字を書く”康寿橋”そして”康寿桜”見てきた・・これは”こうじゅ”と読みます・・これを名前で検索すると”やすひさ、こうじゅ、やすとし”と出てきます、我が子は”やすひさ”としたけど当時この名前は他にいないだろうと思ってました・・昭和の56年うまれネットなどない時代で、いろんな本で字画とか姓名判断で悩みながらつけた名前、今は名前検索で姓名判断まで出てくる・・なんでもネット検索で調べられる便利な世の中です・この橋”めがね橋”の愛称で親しまれている洋風石造アーチ橋、明治時代文明開化・・洋風技術の導入で多く作られたもの、我が生まれ故郷川西にも洋風の建物昔は結構ありました・・南陽市には『吉田橋』『石造大鳥居』を作った名石工、吉田善之助の弟子川合兄弟の作とあります。

2021.09.12:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

しゃぎり

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いつもなら毎年、8月26日に川西町小松の諏訪神社例大祭で”しゃぎり”が、27日に”豊年獅子踊り”28日に”神送り”が行われるのですが昨年に続いてコロナで中止となってます。今年西区の山車の補修修理してるので、8月22日(日曜日)上小松西区町内のお披露目巡行がありました、山形県下では珍しい民族芸能、京都に棟梁を派遣しての制作、西区、南区、北区と旧小松村でその隣村中区新山神社でも行っていたが昭和の時代に中区はなくなってしまっている、西区の”しゃぎり”補修を行ってもう江戸時代の部分が少し残すだけとなったようです、慶応元年1964年から続く・・22日は休みとってその”しゃぎり”の山車の寸法調査で巡行前のところを測ってきました、大まかな部分だけですが・・私の模型作りはそこそこの寸法で多少デフォルメして制作するのが好き、山車の寸法などは幼馴染が以前調査した資料があってコピー持って来てくれた・・幼馴染は子の他にも獅子頭、草木塔、月夜塔なんでも調べる歴史オタクでありいろんな調査メモが大学ノートにしたためられている、今回調査した資料と合わせて山車ミニチュア版製作しようと思ってる・・いつ完成するかですが・・完全リタイヤしてからのお楽しみとなる

2021.08.24:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

萩生城跡

  • 萩生城跡
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7月3日飯豊の街ウオークで飯豊町萩生にある城跡へ、萩生駅から15分ほどでした。城は主郭の方形館に、西側に出丸を拡張した複郭式平城となっている、主郭は南北145m、東西77m、周囲を幅10m程の水堀と幅10m、高さ3m程の土塁で囲い、南西隅の高所には物見櫓(推定)が、東側には虎口の大手門が設置され、出丸は南北147m、東西64m、主郭と同様に幅10~13mの水堀と高さ3mの土塁で囲われ、応永年間(1394~1428)に当時の当主国分光信が国分氏の祈願所として恩徳時を移している。国分氏は、天正19年の伊達氏の陸奥岩出山移封に伴って城は廃城になっている、萩生城の跡地は現在でも土塁や水堀などの遺構が残っていている、一部は民家が入っているが土塁は現存しているようです・・残った国分氏の子孫は地元の石材店を営んでいます、ちなみに街道からの城の入り口に趣のある旅館が・・いい感じの建物・・

2021.07.06:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]