7月3日飯豊の街ウオークで飯豊町萩生にある城跡へ、萩生駅から15分ほどでした。城は主郭の方形館に、西側に出丸を拡張した複郭式平城となっている、主郭は南北145m、東西77m、周囲を幅10m程の水堀と幅10m、高さ3m程の土塁で囲い、南西隅の高所には物見櫓(推定)が、東側には虎口の大手門が設置され、出丸は南北147m、東西64m、主郭と同様に幅10~13mの水堀と高さ3mの土塁で囲われ、応永年間(1394~1428)に当時の当主国分光信が国分氏の祈願所として恩徳時を移している。国分氏は、天正19年の伊達氏の陸奥岩出山移封に伴って城は廃城になっている、萩生城の跡地は現在でも土塁や水堀などの遺構が残っていている、一部は民家が入っているが土塁は現存しているようです・・残った国分氏の子孫は地元の石材店を営んでいます、ちなみに街道からの城の入り口に趣のある旅館が・・いい感じの建物・・
萩生石箱遺跡
萩生の石箱遺跡、7月3日の飯豊街歩きウオークで最終ゆり園に寄って萩生駅に帰る道で立ち寄りました。ここは、昭和47年野川土地改良工事現場で小学生が縄文土器らしい破片を多数拾ったことから調査され、土器はじめ石器が多数出土、昭和49年町指定文化財、昭和61年遺跡保存会の手で住居が復元されている。今から4000年前紀元前2000年頃からの縄文中期、遺構として竪穴住居跡と炉跡が確認されている、老朽化のため2010年2棟あったものを1棟にして再復元されている、住居は直径7.8m高さ5m炉は長さ70㎝、幅40㎝の楕円凹炉がある、素焼き釜で炊飯体験とか記事がネット検索してたらでてましたね・・私は小学生の5年くらいから中学の1年までだったか?・・成島で拾った土器片そして矢じりから縄文期に興味をもって実家の川西から自転車で成島に行って土器ほり、畑の中を石器拾いしによく行ったもおでした・・基本一人で自転車でいきます、時期は雪解けを待って草が生える前に、たまに友達誘って・・そして一人で丘や丘陵地など遺跡として明確になってないとこに、もしかしたら拾えないかという場所を検討つけて行ったりした・・小学5年から6年にかけて・・中一の初めまででしたか?勝手に人の土地入ってようやったな・・成島は畑や畔なんか、かってに手スコップでかなり掘ってましたが、そういえば一度も怒られたことはなかった・・いまでは考えられないですね・・成島は土器の底が丸々と復元できる分出てきて、ボンドで張り付けて不足箇所は石膏で復元して、網代圧痕といって土器の底に敷いた編組の痕跡がはっきりと残っていて復元できるとうれしくて・・やがてその行為も冷めて、土器と石器は出身の小松小に寄付したけど今はどうなったんでしょうか・・
資福寺跡
粗大ゴミ出しに千代田クリーンセンターへと出かけた帰り、久しぶりに資福寺跡へ立ち寄る・・長井氏により創建されたのが弘安年間(1278-1287)とあり、二重に土塁をめぐらした、2百メートル四方の規模を持つ寺院で出羽における禅門の中心で多くの名僧を輩出したとある。その長井氏は伊達氏の置賜侵攻で1835年に滅亡、新しく支配した伊達氏も資福寺を長井氏と同様に帰依寺、学問寺として手厚く保護し、政宗は片倉小十郎とともに学問を学んだ寺となる。伊達家が仙台に移転した時、寺も移転、現在は紫陽花寺として有名なようです、・・この跡には堂跡と伊達家の墓が残っている・・何故墓は残ってるのか、不思議ですね・・お寺は天正19年(1591)岩出山、慶長5年(1600)に仙台谷地、寛永15年(1638)現在地に移動したとある・・仙台市青葉区にある資福寺あじさいの時期だと6月25日から7月10日頃とある、行こうと思います
雷神王神社(窪田町沖高野鎮守)『虎列刺大明神』
このところ4日連続で東京都の新型コロナウイルスの感染者が100人を上回ったと・・半数が濃厚接触者、今も昔もあった流行病、ここ米沢市窪田のコミセンだより5月6月号にのった・・『恐怖心は同じ!昔(コレラ菌)も・・・今も(新型コロナウイルス)』と題した記事にある石碑の残り一つに行ってみた・・明治12年1879年に全国でコレラが大流行したというとき疫病の終息と犠牲者の冥福を祈り建立された石碑が窪田に4つあるという記事、4つすべて確認してみました、どこも同じ凝灰岩で文字は薄く読み取りにくくなってますが)『虎列刺大明神』とあります、大明神とは・・人名、事物名、状態を表す語などの下に付けて、神に見立て、それに対する尊崇・感嘆・喜び。願望などを表す語とある・・窪田地区の4か所はすべて『虎列刺大明神』と刻まれていて小野川にあるのは『虎列刺大菩薩』となっている・・