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(56)吊るし柿とゲートボール場(駅に集う人々)

  • (56)吊るし柿とゲートボール場(駅に集う人々)
  • (56)吊るし柿とゲートボール場(駅に集う人々)

 成田駅脇のゲートボール場の写真は平成4、5年頃のものだろうか。自分たちでゲートボール場を造り、夏の暑さをものとせずに元気な掛け声が飛び交っていたことを思い出す。一方、蚕桑駅には吊るし柿が飾られていた。「食ってもいいよ」としていたが、縄ごと持って行かれることが続いて廃止したという。

 

 以前、「家族との時間」と題したエッセーの中でユーチューブ「女子高生たった一人の駅が廃止」を紹介したことがある。その中で、「駅に集う人々」を紹介しながら、「駅には残しておきたいものがある」と語られる場面がある。2枚の写真を見て、フラワー長井線が開業してから地元の人たちは、「駅に集おう」としていたように思われる。また各市町でも公民館などと合築する形で駅の改築を進めてきたようである。

 

 蚕桑駅では、開業100年にちなんで100個の吊るし柿の復活を計画しているそうだ。四季の郷駅の七夕飾りやイルミネーション、鮎貝駅の水仙ロードの取り組みもある。長井線全通100年をきっかけにして、長井線の全駅が住民が集う場所となって欲しいものだ。

 

 

 駅茶こぼれ話での紹介記事はこちらから

 →家族との時間:おらだの会 (samidare.jp)

 

 ユーチューブはこちらから

 →さよなら・・・女子高生たった一人の駅が廃止 - Bing video

 

 

【おらだの会】小口昭遺作展「長井線の今・昔」は8月19日より再開致します。週末(金・土・日)の午後1時半から4時までの開場です。なお都合により事前の告知もなく閉館とする場合もございますのでご了承ください。

2022.08.17:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(55)さようならJR列車(昭和63年)

  • (55)さようならJR列車(昭和63年)

 国鉄改革の流れの中で昭和62年(1987年)3月31日 に国鉄長井線はその歴史を閉じ、翌4月1日から東日本旅客鉄道㈱(JR)長井線となりました。史料では「サヨナラ国鉄」を実施したとされていますが、残念ながら詳しい内容はわかりません。そしてJR長井線も昭和63年 (1988年)10月24日にその仕事を終えることとなります。駅協力会の資料では、翌10月25日の山形鉄道㈱フラワー長井線営業開始日には、羽前成田駅協力会が旗で歓迎し、花束贈呈をしたとあります。

 

 みんなの希望と期待を受けて迎えられたフラワー長井線誕生の9時間前に、最後のJR列車がホームを離れていきます。そしてこの日のJR列車におじいさんと一緒に乗った想い出を語ってくれた方がいて、「おじいさんがくれた宝物」と題して紹介しました。今まで存在したものが消えてしまう瞬間を見守る駅員さん、そして孫と一緒の時間を過ごしたおじいさん。二人の胸に去来するものは何だったのでしょうか。

 

  → おじいさんがくれた宝物:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【おらだの会】写真は、小口昭遺作展「長井線の今・昔」より。8月12日~14日は駅茶は休館となります。あわせて入場券(硬券)の購入、駅スタンプの押印もできませんのでご了承ください。

2022.08.13:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(54)今日もあの娘は長井線(昭和56年)

  • (54)今日もあの娘は長井線(昭和56年)

 小口昭氏が遺した『長井線の今・昔』をとおして、成田駅100年物語をより深く見渡すことをしてきた。今回は昭和56年当時に戻ってみたい。

 

 昭和47年(1972年)の「やまがた散歩」創刊号に、長井線廃止反対を訴えた芳賀秀次郎氏のエッセー「わがうちなる長井線」が発表された。その不安が現実のものとなった時、沿線の住民と行政は団結して精一杯の廃止反対運動を繰り広げた。

 

 昭和56年(1981年)には第1回の長井線祭りが開催され、フォークグループの影法師が「今日もあの娘は長井線」のキャンペーンソングを作り盛り上げた。一方で市民号やビール列車といった企画も打ち出して利用者増を目指した。けれども、結果的には第三セクターとして存続することになるのである。

 

 あれから40年たった今年の7月26日に、国土交通省有識者検討会から「輸送密度1,000人未満に地方鉄道について、その存廃について3年で結論をだす」との提言が出された。国鉄長井線が廃止される時にもこの「輸送密度」という裁断機が落とされたのである。「今日もあの娘は長井線」という明るい音楽の陰には、廃止反対に向けた様々な取り組みがあったことを忘れてはいけないと思う。

 

 芳賀秀次郎氏のエッセーはこちらから

 → 「わがうちなる」の検索結果:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

 

 影法師の曲はこちらから

 → 成田駅の宝物(24) 開業記念レコード:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【おらだの会】写真は、小口昭遺作展『長井線の今・昔』より。8月12日~14日は駅茶は休館となります。あわせて入場券(硬券)の購入、駅スタンプの押印もできませんのでご了承ください。

2022.08.11:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(53)就職列車で(昭和30年代から)

  • (53)就職列車で(昭和30年代から)

 以前「昭和39年の光と影」と題して、東京オリンピックと国鉄改革に係る時代の動きを書いたが、この昭和39年は「ああ上野駅」という歌謡曲が発表された年でもある。長井駅ほどの混雑ではないにしても、成田駅で友達を見送った停車場の光景は今も切なく思い出される。

 

 親戚が集まり、同級生が帰って来るお盆は、家族や地域との縁と絆を確かめる時間でもあった。けれどもコロナ禍が収まらない中では、故郷の祭りも中止となり帰省もままならない。「就職列車」の記憶が失せたとしても、「家族」や「ふるさと」という言葉が死語にならないことを願いたいものだ。

 

 (20)昭和39年の光と影:おらだの会 (samidare.jp)

 

 停車場憧憬 集団就職の頃:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【おらだの会】写真は、小口昭遺作展「長井線の今・昔」より。

2022.08.09:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(52)ディーゼル列車登場(昭和29年)

  • (52)ディーゼル列車登場(昭和29年)

 成田駅100年物語も令和2年まで進んできたが、現在開催されている『長井線の今・昔』の作品をとおして、この間の物語を補強しておきたい。まずは長井市が誕生した昭和29年11月15日に86型蒸気機関車に代わって登場したディーゼル車である。

 

 これまでの史料では86型の蒸気機関車の退役に感謝するイベントは確認されていない。ディーゼル列車の登場は、長井市制施行という大きな転換期にふさわしい明るい話題であって、86型を見送るような機運に至らなかったのかもしれない。

 

 最後に客車を牽引した86型SLの記事はこちらから

→ 「鬼滅の刃」の検索結果:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【おらだの会】 小口昭遺作展は週末(金・土・日)の午後開場していますが、12日~14日は休館となります。この期間は入場券(硬券)の購入、駅スタンプの押印もできませんのでご了承ください。

2022.08.07:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]