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(33)なぜ成田駅はそのまま残ったのか

 山形鉄道㈱が誕生してからは老朽化した駅舎の改築ラッシュが続いた。平成4年(1992年)には鮎貝駅、平成6年(1994年)には蚕桑駅、平成8年(1996年)には時庭駅、平成11年(1999年)には梨郷駅が改築された。なぜ成田駅はそのまま残ったのか。

 

 その理由の一つが成田駅では、フラワー長井線の開業までに屋根の修復、煙突の修復、窓のサッシ戸化などがいち早く行われたことがあると思われる。また他の駅が市や町によって公民館等との併設で改築されたが、成田駅付近にはすでに成田地区福祉センターが昭和50年(1975年)3月に建設されており、こうした手法もとれなかったのであろう。同じく登録有形文化財に認定された西大塚駅については知る由もないが、沿線に100年を超える木造駅舎が2つも残っていることは貴重な財産であり、奇跡とも言えるだろう。

 

 ◇山形鉄道開業前の各駅の状況はこちらから

   → 山形鉄道駅舎今昔物語 | 山形鉄道株式会社 (flower-liner.jp)

 

 ◇西大塚駅との比較はこちらから

   → 駅舎探検(成田VS西大塚):おらだの会 (samidare.jp)

2022.05.21:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(32)平成8年 おらだの会発足

  • (32)平成8年 おらだの会発足

 白兎駅の開業に続いて成田駅前では「もみじ広場」が平成7年に造成されました。広場の北側に自生していたモミジの巨樹をシンボルとして、子供たちの遊び場として整備されたのでした。事業主体の「成田駅前生き生きボランティア」は地元の先輩方で花が好きな人、民謡が得意な人、餅が大好きな人、いつもニコニコと柔和な人と多士済々。この先輩達が成田駅協力会を支え、現在の駅前広場の礎を作ってくれたのでした。

 

 生き生きボランティアの皆さんはもみじ広場の建設をもって引退し、その後の活動を私たち「おらだの会」に託したのでした。おらだの会も発足後25年を過ぎました。長井線の歴史の4分の1を一緒に歩んできたことになります。写真は、おらだの会の最初の会報です。読み返してみて、ここにおらだの会の原点があるのだ、と改めて思います。

 

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 老人クラブから私たちオラダの手で守り育てよう。

 時代とともにすたれゆく駅であるが、四季の花が咲き誇る駅。

 古びた駅であっても地区住民の心が刻まれている駅。私たちの心のよりどころ。

 駅前環境をどう私たちの手で育てていくか。

 子どもたちに夢を、若者に活動の場を、高齢者に生きがいの場を

 

 

【おらだの会】もみじの樹の最後はこちらから

 → 停車場ノート’13-⑩ ありがとうモミジ翁:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

2022.05.19:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(31)白兎駅開業

  • (31)白兎駅開業

 駅協力会の資料によれば、平成元年(1989年)1月31日に白兎区で白兎駅早期建設を長井市長に陳情し、平成元年6月26日には新潟陸運局より白兎駅の新設が認可されたとある。これに合わせて駅協力会の名称も同年6月27日に、「羽前成田駅・白兎駅協力会」に変更している。白兎駅は平成元年12月16日に竣工、開業した。駐輪場やトイレなどは、平成3年1月から3月に、市の補助金を得て駅協力会が304万円で整備したという。成田駅周辺の環境整備に続いて大変な事業を果たしたものである。

 

 ホームだけの小さな駅であるが、白兎(しろうさぎ)駅という全国唯一の珍しい名前と山形県のビューポイントにも認定されている葉山連峰の眺めの良さから、訪れる人も多い。また鉄道写真家・中井精也氏が「日本の原風景の里山を象徴するローカル線」として山形鉄道を紹介した際の巻頭写真に白兎駅を掲載している。このような評価を、30年前の先輩方は予想できたでしょうか。地元から出されたという当時の陳情書をみてみたいものだ。

 

 そしてこの小さな駅には、心温まるドラマがあったのです。白兎駅から通学していた女子生徒が卒業の時に駅の管理をしてくれた老夫婦に・・。どうぞこちらをご覧ください。

→ 停車場ノート33 おじいちゃんありがとう:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【おらだの会】写真は白兎駅竣工式の様子。(「写真で見る致芳のあゆみ」より)

2022.05.05:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(30)最後の86型も生きていた

  • (30)最後の86型も生きていた
  • (30)最後の86型も生きていた

 「風と大地と猿の写真展」においでになった方から大変なことを教えてもらった。山形市十日町の第2公園に展示されている機関車は長井線を走った機関車だ、というのである。しかもその写真が「長井線の今・昔」という冊子に出ているという。さっそく駅茶にあったその冊子を見てみると、確かに同じ68691号のプレートが確認できた。

 

 鬼滅の刃の無限列車が86型をモデルにしていて、同型車が山形市内に展示されていることは紹介していたが、まさかその車両が長井線の旅客車を牽引していたとは驚きである。長井線の最後の蒸気機関車59634号が北九州市で保管されていて、さらに最後の旅客車を牽引した68691号が山形市に残っている。なんとも不思議な思いである。

 

 関連記事はこちらからどうぞ

 → 鬼滅のSLは96の前任車:おらだの会 (samidare.jp)

 → (19)旅客列車が気動車に:おらだの会 (samidare.jp)

 

【おらだの会】「長井線の今・昔」は成田駅協力会の事務局長を永く勤められた小口昭さんが平成26年に発行されたもので、モノクロ写真は同書からコピーさせていただいた。また現在の写真は上山市のYさんに提供いただいたものです。

2022.05.03:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(29)「過疎化の玄関口」を「活性化の拠点」へ

  • (29)「過疎化の玄関口」を「活性化の拠点」へ

 山形鉄道が開業した昭和63年12月、コミュニティ助成事業を導入して駅周辺の環境整備に取り組むことになった。この事業の採択にあたっては長井市の尽力があったのであろうが、駅協力会を中心としたそれまでの活動が評価されたことが十分予測される。助成申請書には次のように書かれている。

 

 「今まで駅というものは、列車に乗り降りするだけの場所という考え方が根強く、鉄道利用者が年々減少している傾向にある現在、駅前はさびれ、過疎化の玄関口とまでいわれていますが、駅は本来人の集まる場所であり、地域活性化の拠点として有効に活用すれば、地域住民のふれあいの場として活気をとりもどすことも可能であり、ひいては地域住民の足としての鉄道の斜陽化防止にも役立つと考えられます。」

 

 「過疎化の玄関口」から「活性化の拠点」へという考え方は、現在でも通用する考え方であると思う。ローカル線の持つ魅力をとおして、新しい形のコミュニティーの場としての位置づけもできるのでないか。先輩方の慧眼には今更ながら敬服する。

2022.05.01:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]