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(23)永遠の羽前成田駅長・玉置清吉さん

  • (23)永遠の羽前成田駅長・玉置清吉さん

 羽前成田駅では、昭和36年に貨物取扱いが廃止され、昭和39年には業務委託駅となり、さらに昭和59年には簡易委託駅となりました。その業務を担うことになったのが成田在住の元国鉄職員・玉置清吉さん(写真)でした。

 

 羽前成田駅協力会の総会資料によれば、昭和59年3月19日から玉置さんに業務を委託し、同年3月23日には簡易委託化に伴う対策について地元関係者会を開催し、4月11日には長井線沿線駅で最初の羽前成田駅協力会が設立されています。この迅速な動きの陰には当時の市議会議員や自治会、地区長会の役員、それに加えて長井市職員で長井線対策の中枢を担った故小口昭氏(成田久保町住民)等地区リーダーの存在があったはずである。

 

 そして地元住民が駅長にお願いしたのが玉置清吉さんだったのです。玉置さんは大正11年1月1日生まれ。息子さんのお話では15歳で国鉄に就職して定年退所後も成田駅に勤務し、70歳を迎えたことを区切りとして制服を脱ぐ決意をしたとのことです。駅協力会の資料によれば玉置さんが勤めた初年度の売り上げは、前年度比133パーセント増だったそうです。

 

 また駅周辺を四季折々の花々で埋め尽くした玉置さんは、その温和な人柄で「花の駅長」として皆に愛され、現在の羽前成田駅周辺の環境整備の基礎を作られたのでした。地元民にとってはまさに「羽前成田駅・永遠の駅長」であり、羽前成田駅の歴史に永遠に残されなければならない人物の一人だと思います。

 

【おらだの会】

玉置さんの記事はこちらから 

 花の想い出:おらだの会 (samidare.jp)

 線路の向こう側も・・・:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

2022.03.24:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(22)国鉄時代の終焉 ~ 線路を残す決意

  • (22)国鉄時代の終焉 ~ 線路を残す決意

 これまでの成田駅の歴史を整理すると次のように区分できるのではないかと思います。第1期は明治末から大正11年の成田駅開業までの「希望に溢れた時代」、第2期は大正末から昭和22年頃までの「戦争によって左荒線の夢が潰えた時代」、第3期は東京オリンピックが開催された昭和39年頃までの「鉄道全盛時代」です。しかし第3期には既に国鉄改革が叫ばれ、昭和43年には国鉄諮問委員会が長井線を含む廃止対象83路線を公表したのでした。

 

 第4期の昭和40年代から山形鉄道開業の昭和63年までは国鉄時代が終焉し、「線路を自分達で残す決意をした時代」といえるかもしれません。県や市町が昭和43年に長井線存続期成同盟会を設立し存続運動を展開する中で、地元がどのように動いたのか。羽前成田駅協力会の動きを中心に紹介したいと思います。

 

 写真は昭和47年1月の成田駅です。この年、貨物列車を牽引していた蒸気機関車はその役目を終えることになります。96を見送る駅員の姿がその後の困難を予感させるようで印象的です。

 

 

【おらだの会】写真提供:小笠原弘氏(昭和47年1月撮影)

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 → 「さよならSL」との再会:おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.22:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(21)長井駅でも貨物取扱いが廃止

  • (21)長井駅でも貨物取扱いが廃止

 昭和29年の旅客列車が気動車に代わってからも、SLは貨物列車を牽引していた。けれども昭和36年6月10日に梨郷、西大塚、時庭、羽前成田、蚕桑、鮎貝駅で貨物の取扱いが廃止となり、59634号は昭和47年に引退することとなる。

 

 昭和54年11月1日に宮内駅、今泉駅で貨物取扱いが廃止。翌年の9月10日には赤湯駅、そして最後の牙城長井駅も昭和57年11月15日に貨物取扱いが廃止となった。駅が物流の中心であった時代は終わり、主要な駅前にあった日本通運(愛称マルツウ)などの運送会社の建物も次第に姿を消すことになった。駅前の風景も変わり、長井線存続に向けた運動の時代へと入っていった。

 

さよならSLはこちらから

⇒ 「さよならSL」との再会:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【写真提供:佐久間信人氏】昭和47年「さよならSL」の際に撮影。写真右側に運送会社の建物が見える。

2022.03.10:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(20)昭和39年の光と影

  • (20)昭和39年の光と影

 長井線にディーゼルカーが導入されてから10年経った昭和39年(1964年)10月1日、東京~新大阪間に新幹線が登場した。夢の超特急である。その10日後の10月10日、アジアで初のオリンピックが開催された。日本中が熱狂の渦に沸き上がる中で、地方からは集団就職列車で若者が故郷を離れて行った。そしてこの時すでに長井線には暗い影が差していた。

 

 昭和36年6月10日に梨郷、西大塚、時庭、羽前成田、蚕桑、鮎貝駅で貨物の取扱いが廃止。昭和39年4月1日には羽前成田、蚕桑の各駅が業務委託駅となり、翌40年4月1日には梨郷、西大塚、時庭、鮎貝駅でも業務委託駅化された。

 

 以前、「成田駅の宝物Ⅰ」で使用済み用紙を利用した手作り封筒を紹介したが、そんな国鉄職員の努力をあざ笑うかのような大きな物流の変革が生まれていたのだ。昭和39年に国鉄は300億円の単年度赤字を出し、昭和41年度には繰越欠損を生じるに至った。昭和43年9月4日には国鉄諮問委員会から「廃止を検討すべき83線」が報告された。こうした動きをにらみ、昭和43年6月27日には、長井線存続既成同盟会が発足している。まさに昭和39年は光と影の分岐点であったのだと思う。

 

手作り封筒の記事はこちらから

 ⇒ 成田駅の宝物Ⅰ:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.04:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(19)旅客列車が気動車に

  • (19)旅客列車が気動車に

 長井町、長井村など1町5カ村が合併して長井市が誕生したのは昭和29年11月15日。この日、新生長井市の誕生を祝うかのように長井線の旅客列車がディーゼルカーに代わった。赤湯梨郷間開業から41年、羽前成田駅開業から32年後のことである。長井市史には「煙から解放された」とあるが、当時の市民の率直な感想であろうか。

 

 山形市の知人が昭和30年2月の車両配置表で調べてくれたところによると、この時山形機関区にはキハ45500形が12両配置されていたとのことである。そのうちの何両かが長井線に配属されたと思われる。なお45500型車両は昭和29年から30年にかけて99両製造。昭和49年から廃車が始まり昭和55年には全車が除籍されたようである。

 

 その配置表には、長井線のさよならSL列車となった蒸気機関車59634号も山形機関区に配置されていたと記されています。59634号は今も北九州市に保存されています。長井線を走った初代のディーゼルカーにも思いを寄せたい気がするのは私だけでしょうか。

 

 

【おらだの会】写真は長井市史(第4巻)より。撮影年次、車番、型式等は不明。

【追   記】この写真をご覧になった知人から連絡が入りました。「先頭車両は窓が小さいことから南東北以北向けの寒冷地仕様のキハ22形、後車がキハ17形(45000形から称号改正)とみられる。キハ22形が入っていることから撮影年次は昭和42年以降と思われる。」とのことでした。有難うございました。

2022.03.02:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]