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第19話 イルミネーションが映すもの(四季の郷駅)

  • 第19話 イルミネーションが映すもの(四季の郷駅)

 新野はイルミネーションが点灯したことを確認して、「今年も飾ることができた。よかった。」とつぶやいた。12月25日までの約1か月、四季の郷駅は明るい電飾に照らされる。町内外からも多くの見学者が訪れるようになった。最近では周辺の事業所や家庭でも協力をしてくれて、灯りの数は年々増えている。そのことも新野には嬉しかった。イルミネーション祭りは七夕祭りと共に地区の風物詩となっている。駅があるから人が集い、人と人との縁もつなぐことができるのだと新野は思う。

 

 四季の郷駅は平成19年(2007年)、フラワー長井線の17番目の駅として誕生した。この当時、土地区画整理事業が進められており、新興住宅地の利便性向上と長井線の利用拡大を企図して、新駅が建設されたのでした。土地区画整理事業のソフト部門を担う鮎貝まちづくり推進委員会は、駅が開設されると同時に七夕祭りやイルミネーション祭りを開催した。駅開業の3年後に区画整理事業が完工しました。その後は推進委員会のメンバーが中心となってイベントを実施してきましたが、新たに会を組織して事業を継続していこうと平成24年(2012年)、「四季の郷駅で楽しむ会」が発足しました。新野は初代会長からバトンを受け継ぎ平成30年(2018年)から楽しむ会の代表となったのでした。

 

 15年前、ホームしかないこの駅で七夕祭りとイルミネーションをやろうとした先輩方の先見の明に、新野は今も尊敬の念を持っている。楽しむ会の設立の時に、それまで事業を引っ張って来てくれた先輩の一人が語ってくれた。「私らは小さい時、爺さんや婆さんに手を引かれて、汽車を見に行くのが楽しみだった。そして集団就職で東京に行く友達を見送った。駅には残しておきたい記憶があるように思う。子育て住宅団地もでき、若い家族も移り始めている。この駅をとおしてみんなが楽しい想い出を重ねていって欲しい。この駅を私らの心の拠り所、まちづくりのシンボルにして欲しい。」と。

 

 会員も年をとってきたが、何とか今年もイルミネーションに灯をともすことができた。両親に手を引かれてきた子供がトナカイを見上げてはしゃいでいる。新野は思うのだった。この灯りは地域の元気を映すものであり、先輩方への感謝の思いと子供たちに贈るメッセージでもあるのだと。

 

 

 四季の郷駅の佇まいはこちらから

  → 長井線リポート(6) 四季の郷駅の畳箒・時計:おらだの会 (samidare.jp)

 

  四季の郷駅のイルミネーションはこちらから

  → イルミネーションが映すもの:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【おらだの会】本稿は鮎貝コミセンチャンネルや関係者からのお話をもとに創作したものです。写真は2020年のものです。

第18話  10年後の君たちへⅡ (鮎貝駅)

  • 第18話  10年後の君たちへⅡ (鮎貝駅)

 小学生となった娘を連れて、何年かぶりで故郷に帰って来た。娘は新幹線では立派に乗っていたが、長井線に乗り替えた途端に、「お母さん電車の窓が開けられるよ、すごい!」とはしゃぎだした。

 

 蚕桑駅を過ぎて鮎貝駅に向かう。ここからは長井線の中でも、私が特に好きな景色が展開する。そもそも長井線は高低差が少なくしかも単調な田園風景が続く路線です。そんな中で蚕桑~鮎貝間の3.3キロは、勾配12.5パーミル(1000m走って12.5m下がる傾斜。)の区間が1.3キロも続きます。西山山麓を水源とする中小の河川が幾筋も深い谷を刻み、樹木がうっそうと茂る中を疾走します。そこを抜けると一転して明るい台地が開け、雑木林の里山風景の中を駆けて行くのです。最後は台地の頂上から、最上川が造った氾濫湿原の底に真っ逆さまに落ちていきます。「お母さん、ジェットコースターみたいだよ」と娘のテンションはマックスとなるのです。

 

 娘の興奮が冷めやらぬうちに「次は鮎貝、鮎貝」との車内アナウンスが流れた。この駅は私が高校の3年間汽車通学した駅だったことを話しながらホームに降りる。目に飛び込んできたのは、木製の長大看板である。今も残るこの看板を見ていると、夏休みの暑い体育館で友達と絵を描いたあの時の光景が蘇ってきた。

 

 私が小学校6年生の時、O先生からの「山形鉄道誕生10周年を記念して、鮎貝駅に飾る看板を作ります。長井線の絵を描きたい人は職員室に来てください」との呼びかけに応えて、友達同士で参加したのだ。校長先生も来て指導してくれたし、「鮎ちゃんの絵も、りんごちゃんの絵もうまいぞ!」とほめてくれた。とても嬉しかった。

 

 校長先生は最後に「10年後きみたちはフラワー長井線と同じく二十歳になる。君たちが社会の主役になるんだぞ、頑張れよ!」と言って、看板にメッセージを挿入してくれました。あの時の校長先生とO生の優しいまなざしは、今でも鮮明に想い出されるのでした。

 

 いじめや校内暴力などの事件が毎日のように報道されています。けれども子供は昔と少しも変わっていないのだと思います。校長先生やO先生のように。子供たちと真剣に向き合ってくれる教師がいるならば、子供たちは素直に育つのだと思いたい。あれから三十年、先生は今どうしているのだろう。看板に私の名前を見つけて、はしゃいでいる娘を見ながら、この子も人生の師と呼べる人に出会って欲しいと思った。看板は色あせてはいるが、先生と友達との想い出は少しも色あせてはいないのだと思った。

 

  オンシトノ デアイ トモトノ ワカレ 

  エキニハ ソレゾレノ オモイデガ アル 

  ジュウネンゴノ ワタシタチハ 

  オンシノ トイニ 

  コタエルコトガ デキテイルノダロウカ

   

 

  長井線リポート (4)長井線でブラタモリ:おらだの会 (samidare.jp)

 

  長井線リポート(5) 10年後の君たちへ:おらだの会 (samidare.jp)

 

第17話 蚕は死して名を残す その2 (蚕桑駅)

  • 第17話 蚕は死して名を残す その2 (蚕桑駅)

 昭和15年(1940年)5月には、蚕桑村を中心とする西置賜蚕種共同施設組合が設立され事務所を長井町、山形県蚕業取締所長井支所内におき、蚕種製造所は蚕桑村横田尻に置き、蚕種を製造することになった。さらに昭和25年(1950年)6月、貞明皇太后陛下(大正天皇后)が大日本蚕糸会総裁として蚕桑村に来村され、丸川与一氏宅を視察されている。その時のことが「蚕桑の郷土誌」に書かれているのでその一部を紹介したい。

 

 

 片田舎のむさ苦しい家に皇太后陛下を奉迎できるとは思いもよらない事でした。御下問になったお言葉の一端から思いかえして、陛下は蚕糸業について実に深い御理解と専門的な御見識を持って居られるように拝察しました。

  陛下 品種は何ですか

  私  春光、銀月、秋月の3元交雑です

  陛下 毎年ですか

  私  今年初めての品種です

  陛下 初めてではなかなか苦心も多いでしょうネ。

     掃立は5月25日のようですが、遅いようですね。

     桑の関係ですか。

  私  そうです。今年は25日ですが、例年よりは

     3、4日早いのです。

  陛下 そうですか、それだけ山形の方は寒いわけですね。

 

 階上のご視察を終えられ、階下に降りられるとき階段が急で、誠に恐れ入りますと申し上げると「少し急のようですね。毎日桑を持って数回上り下りされることは随分ご苦労ですね。」との有難いお言葉にただただ感激し、感涙を覚えるばかりでありました。

 

 

【おらだの会】丸川氏の受け答えに、実直さの中にも探求心にあふれた地方人の姿が浮かび上がる。また昭和47年頃に長井線の廃止の声が出された際に「わがうちなる長井線」と題するエッセーを書いた詩人・芳賀秀次郎氏も蚕桑出身である。写真は皇后陛下がこの時訪れた五十川の大桑の樹の視察時のもの。(「写真で見る致芳」より)

 「わがうちなる長井線」はこちらから

   → わがうちなる長井線 その1:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

第17話 蚕は死して名を残す その1 (蚕桑駅)

  • 第17話 蚕は死して名を残す その1 (蚕桑駅)

 白兎駅から5分ほどすると蚕桑駅が見えて来る。蚕桑村は高玉村、横田尻村、山口村が合併して明治22年(1889年)に誕生した。合併にあたって多くの村が大きな町村名や地勢的な特徴を名前に付けたのに対して、蚕桑村は村の繁栄を養蚕業にかけるとして名付けたといわれる。明治30年10月27日の米澤新聞に、「西郡の長井町の有志者また宮内町の有力者と連合し、長井町より今泉を経て宮内町を通過し赤湯停車場に出でんとする計画ありという。」との記事が掲載されている。この当時の地域産業は養蚕と製糸業であり、長井線を実現できたのもこの産業基盤があったからであろう。蚕桑村は長井町や宮内町と比べて資本力はなかったかもしれないが、技術的な中核を担っていたのではないかと思えるのである。今、蚕桑村の当時の面影を伝えるのは蚕桑駅の南端にある「枝垂桑」の古木だけかもしれない。けれども村の名前にその名を残した。虎は死して皮を残し、蚕は死して名を残す。かなり長くなりますが、蚕桑村の200年の物語を読んでみてください。

 

 上杉藩の時代の天保3年(1832年)に書かれた「背曝(せなかあぶり)」によると下長井通り(今の長井市寺泉から草岡以北北鮎貝の辺りまで)は青苧や漆等の奨励作物ではなく、皆桑畑にしたという。当時の反当り収益で養蚕が田の2倍以上あったというのである。しかも蚕桑地区一帯は、川原前と呼ばれる砂地で風通しがよく人家からも離れていたのでハエの幼虫(ウジ虫)の害がなかったのである。ウジ虫は蛹のまま人家の屋敷周辺で越冬し、4令から5令頃食べさせる桑に産卵し、桑を通して蚕の体内に侵入する恐るべき害虫である。川原前の桑には立地条件からウジ虫の害が少なく歩桑(ブグワ)と呼ばれて普通桑よりも高価に取引されたのである。蚕桑地区は蚕種と養蚕の2本の柱をもって継続的に発展してきたのである。

 

 慶応2年(1866年)、武州血洗島の渋沢惣五郎という人が長井町横山孫助氏方に来て、田尻方面の蚕種が極めて良好との評価をして各地に販売してから、蚕種製造の本場として知られるようになったのである。渋沢氏から販売の依頼を受けた丸川儀兵エは明治4年、横浜に出張しイタリア人と面接し黄金種の品種製造を依頼されるなど、国際的なレベルの蚕種技術者と評価されている。さらに翌5年にはイタリア人デロロー氏が来朝し、渋沢氏に伴われ丸川氏宅を訪れ高玉、荒砥、五十川、長井の各蚕種製造所を視察している。まさに蚕種技術の最先端の地ではあるまいか。

 

 

【おらだの会】本稿は「白鷹町史(下巻)」、「蚕桑の郷土誌」を参考にしています。

       30年前の蚕桑駅はこちらからどうぞ

        → 30年前の蚕桑駅 ①:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

第16話 フラワー流“旅”の楽しみ方を (白兎駅)

  • 第16話 フラワー流“旅”の楽しみ方を (白兎駅)

 羽前成田駅を出ると約2キロにわたってまっすぐに北上し、ウサギの耳が描かれた可愛らしい待合室のある白兎駅に到着する。ホームに降りると西に葉山の山並みが連なり、田甫が山のふもとまで続いている。鉄道写真家 中井精也さんがフラワー長井線を「里山の風景の中をゆく鉄道の原風景を味わえる貴重な路線」と評しているが、その代表的なスポットがこの場所である。葉山は朝には朝陽を受け、夕には光輪をまとう。季節ごとに装いを変え、白兎伝説を生んだ荘厳な山容である。

 

 長井が生んだ彫刻家長沼孝三氏は、「長井の心」と題する文章で葉山を背景とする長井の風景を「世界の宝」であると称え、人間形成にとって理想的な環境であるという。以前、高校生と話す機会があって、ふるさとで一番好きな風景を訊ねたとき、「列車から眺めた葉山」との答えが返ってきた。人間形成の基礎である子供時代、思春期の時代を過ごした土地、ふるさとはどんな人にとっても格別な意味を持つものであろう。

 

 駅ノート作家の一人は、「この風景に会いにきました。会いたい風景にやっと会えました」と書いていた。自然景観への共鳴はそこに住む人だけのものではないようである。旅に出る動機や目的は人それぞれであるが、初めての土地で無人駅に降り立ち、山並みを眺めながら、心に移り行くよしなしごとを心に刻んでみるのも旅の楽しみではないだろうか。

 

 葉山神社と白兎の伝説はこちらから

   → 葉山神社 | 白兎(しろうさぎ) | 致芳ふるさとめぐり | 長井市致芳コミュニティセンター (chihou-cc.org)

 

 

 駅ノート作家の投稿はこちらから

  → この風景に会いに来ました:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【おらだの会】写真は山形鉄道㈱提供。