HOME > 長井線読切りエッセー

第20話 百年後のこの景色を その2(荒砥駅)

  • 第20話 百年後のこの景色を その2(荒砥駅)

 請願書には、私たちの憤懣をぶち上げた。衆議院で採択された我々の請願書にも「荒砥まで延長する」ことを明記していた。そして鉄道会議並びに鉄道院の告示にも「長井荒砥間」とあるではないか。翻って明治44年に、延長請願のために鉄道院に出頭陳情の際、当時の理事の三氏は「財政上の都合により目下は延長至難なるも、将来適当の時機において見るべく。而して線路は、その筋において30余年間、最上川出水表により左岸は一般に低地にしてかつ川流水源の関係上、水害多く殊に鮎貝村付近は洪水地域と認めあるをもって、線路には不適当なるのみならず停車場設置は到底不可能なり。これに反し右岸の東部は最上川水面より約十メートル以上高い。害の患いなきのみならず、後日、西村山郡の平野線に連絡上、至大の便利あるをもって、鉄道線路は無論右岸たるべく、停車場また荒砥町に設置せらるべきは何ら疑うべきにあらず。」と言明したではないか。我々の記憶には今も鮮明に残っているのだと。

 

 私はこの請願書を提出した4か月後に町長の職を辞した。この段において、荒砥駅までの延伸を実現するためのリーダーは、地元出身者でなければならないと思ったからだ。後年の地元の皆さんや歴史家からは「よそから来た町長は、何もできなかった」とのそしりを受けるかもしれない。けれどもそれは甘んじて受けなければならないであろう。

 

 町中の大通りには青杉の緑門が建てられ、軽便鉄道の開通と共に営業を始めた2軒の運送会社が、酒樽を山と積んだ大八車を、ねじり鉢巻きの若衆に引かせて練り歩いている。「大正の年も 十二の春浅く 桜にさきがけ開通の 荒砥の駅も・・」との歌が、祝賀パレードの人々によって歌われ、祝賀気分をいやが上にもわき上がらせた。町中の歓声を聞きながら、本間は改めて三番坂からの景色を眺めた。そこには荒砥の繁栄の基礎を築いてくれた最上川の流れがあった。そして未来への希望をつなぐ長井線のレールが朝陽を浴びて光っていた。本間は思った。この景色を守るのはここに生まれ、ここで育った人たちなのだ。すべてはここに生きる人々の手にあるのだと。そして思った。十年後、百年後のこの景色を見てみたいものだと。

 

 

 

【おらだの会】今年の2月13日に赤湯駅を出発したエッセーも、終着駅に到着いたしました。長らくお付き合いくださり誠にありがとうございました。長井線の旅で、これからもそれぞれの物語が紡がれていくことを期待したいものです。(本稿は荒砥町誌、白鷹町史、山形鉄道㈱、ふるさと資料館、荒砥コミュニティセンター様からの資料をもとに創作しました。)

 

 

第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)

  • 第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)
  • 第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)

 全線開通100周年を記念して書き始めたこのシリーズ。開通記念日の4月22日には間に合わなかったが、ようやく終点の荒砥駅に到着しました。どうぞご覧ください。

 

    

 大正12年4月22日朝、本間猪吉は三番坂の上にいた。一番列車が鮎貝駅を出て、黒煙を噴き上げながら最上川橋梁をわたって来るのが見えた。町のあちこちから聞こえて来る「万歳、万歳」の歓声を聞きながら、4年前のことを思いだした。本間は荒砥町の出身ではなかったが、11代町長大友惣八に乞われて助役に就任した。しかしながら大友町長が就任後わずか3か月後の大正4年12月27日に急遽辞任すると、臨時代理の職に就き大正6年8月4日には町長職に就くこととなったのである。

 

 その頃の町政の最大の課題は長井線の延伸問題であった。荒砥町における鉄道建設運動は明治44年頃から始まった。軽便鉄道長井線の計画が浮上すると同時に、梨郷から伊佐沢に抜けて荒砥までの実現を目指すものとして陳情活動を展開した。しかし「赤湯から長井まで」という鉄道院の計画は変わらなかったことから、ルートを問わずに荒砥までの延伸を要望することとなった。そして、本間が町長に就任してまもなく、大正6年12月の鉄道会議において、長井荒砥間の延長が大正8年から3か年間に敷設すべく決議されたのである。地元民にとっては10年来の悲願が達成されたとして、歓喜の声で迎えられたものだった。そして大正8年3月、鉄道院告示第2号をもって、新庄建設事務所の所管事務として「長井荒砥間」が加えられることになった。

 

 大正8年4月、いよいよ測量が開始されることになった。がしかし、実際に測量が行われたのは最上川の左岸であった。当初は、これは単に比較のための調査であろうと信じていたが、5月12日、臨時に招集された郡内町村長会で、西置賜郡長清水徳太郎氏から重大な発表がなされた。それは、長井線の延長ルートは最上川の左岸に決定したようだ、というのである。さらに鉄道院の松本建設局長が、「鉄道院の当初の計画では最上川右岸で計画していたが、今回、政治決着により左岸を通ることになった。ついては野川と最上川に2つの橋梁を建設する予算はないので、鮎貝駅を終点として、駅名を荒砥駅とせざるを得ない。」と語ったというのである。清水郡長は「この際、郡内町村一致して鮎貝より右岸の荒砥市街地まで、更に延長の請願をしなければならない。」と言明されたのでした。これを聞いた時は、愕然となった。今までの先人の努力が水泡に帰すと思った。役場に帰ってすぐに、鉄道院総裁への請願書の作成に取り掛かったのだった。

第19話 イルミネーションが映すもの(四季の郷駅)

  • 第19話 イルミネーションが映すもの(四季の郷駅)

 新野はイルミネーションが点灯したことを確認して、「今年も飾ることができた。よかった。」とつぶやいた。12月25日までの約1か月、四季の郷駅は明るい電飾に照らされる。町内外からも多くの見学者が訪れるようになった。最近では周辺の事業所や家庭でも協力をしてくれて、灯りの数は年々増えている。そのことも新野には嬉しかった。イルミネーション祭りは七夕祭りと共に地区の風物詩となっている。駅があるから人が集い、人と人との縁もつなぐことができるのだと新野は思う。

 

 四季の郷駅は平成19年(2007年)、フラワー長井線の17番目の駅として誕生した。この当時、土地区画整理事業が進められており、新興住宅地の利便性向上と長井線の利用拡大を企図して、新駅が建設されたのでした。土地区画整理事業のソフト部門を担う鮎貝まちづくり推進委員会は、駅が開設されると同時に七夕祭りやイルミネーション祭りを開催した。駅開業の3年後に区画整理事業が完工しました。その後は推進委員会のメンバーが中心となってイベントを実施してきましたが、新たに会を組織して事業を継続していこうと平成24年(2012年)、「四季の郷駅で楽しむ会」が発足しました。新野は初代会長からバトンを受け継ぎ平成30年(2018年)から楽しむ会の代表となったのでした。

 

 15年前、ホームしかないこの駅で七夕祭りとイルミネーションをやろうとした先輩方の先見の明に、新野は今も尊敬の念を持っている。楽しむ会の設立の時に、それまで事業を引っ張って来てくれた先輩の一人が語ってくれた。「私らは小さい時、爺さんや婆さんに手を引かれて、汽車を見に行くのが楽しみだった。そして集団就職で東京に行く友達を見送った。駅には残しておきたい記憶があるように思う。子育て住宅団地もでき、若い家族も移り始めている。この駅をとおしてみんなが楽しい想い出を重ねていって欲しい。この駅を私らの心の拠り所、まちづくりのシンボルにして欲しい。」と。

 

 会員も年をとってきたが、何とか今年もイルミネーションに灯をともすことができた。両親に手を引かれてきた子供がトナカイを見上げてはしゃいでいる。新野は思うのだった。この灯りは地域の元気を映すものであり、先輩方への感謝の思いと子供たちに贈るメッセージでもあるのだと。

 

 

 四季の郷駅の佇まいはこちらから

  → 長井線リポート(6) 四季の郷駅の畳箒・時計:おらだの会 (samidare.jp)

 

  四季の郷駅のイルミネーションはこちらから

  → イルミネーションが映すもの:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【おらだの会】本稿は鮎貝コミセンチャンネルや関係者からのお話をもとに創作したものです。写真は2020年のものです。

第18話  10年後の君たちへⅡ (鮎貝駅)

  • 第18話  10年後の君たちへⅡ (鮎貝駅)

 小学生となった娘を連れて、何年かぶりで故郷に帰って来た。娘は新幹線では立派に乗っていたが、長井線に乗り替えた途端に、「お母さん電車の窓が開けられるよ、すごい!」とはしゃぎだした。

 

 蚕桑駅を過ぎて鮎貝駅に向かう。ここからは長井線の中でも、私が特に好きな景色が展開する。そもそも長井線は高低差が少なくしかも単調な田園風景が続く路線です。そんな中で蚕桑~鮎貝間の3.3キロは、勾配12.5パーミル(1000m走って12.5m下がる傾斜。)の区間が1.3キロも続きます。西山山麓を水源とする中小の河川が幾筋も深い谷を刻み、樹木がうっそうと茂る中を疾走します。そこを抜けると一転して明るい台地が開け、雑木林の里山風景の中を駆けて行くのです。最後は台地の頂上から、最上川が造った氾濫湿原の底に真っ逆さまに落ちていきます。「お母さん、ジェットコースターみたいだよ」と娘のテンションはマックスとなるのです。

 

 娘の興奮が冷めやらぬうちに「次は鮎貝、鮎貝」との車内アナウンスが流れた。この駅は私が高校の3年間汽車通学した駅だったことを話しながらホームに降りる。目に飛び込んできたのは、木製の長大看板である。今も残るこの看板を見ていると、夏休みの暑い体育館で友達と絵を描いたあの時の光景が蘇ってきた。

 

 私が小学校6年生の時、O先生からの「山形鉄道誕生10周年を記念して、鮎貝駅に飾る看板を作ります。長井線の絵を描きたい人は職員室に来てください」との呼びかけに応えて、友達同士で参加したのだ。校長先生も来て指導してくれたし、「鮎ちゃんの絵も、りんごちゃんの絵もうまいぞ!」とほめてくれた。とても嬉しかった。

 

 校長先生は最後に「10年後きみたちはフラワー長井線と同じく二十歳になる。君たちが社会の主役になるんだぞ、頑張れよ!」と言って、看板にメッセージを挿入してくれました。あの時の校長先生とO生の優しいまなざしは、今でも鮮明に想い出されるのでした。

 

 いじめや校内暴力などの事件が毎日のように報道されています。けれども子供は昔と少しも変わっていないのだと思います。校長先生やO先生のように。子供たちと真剣に向き合ってくれる教師がいるならば、子供たちは素直に育つのだと思いたい。あれから三十年、先生は今どうしているのだろう。看板に私の名前を見つけて、はしゃいでいる娘を見ながら、この子も人生の師と呼べる人に出会って欲しいと思った。看板は色あせてはいるが、先生と友達との想い出は少しも色あせてはいないのだと思った。

 

  オンシトノ デアイ トモトノ ワカレ 

  エキニハ ソレゾレノ オモイデガ アル 

  ジュウネンゴノ ワタシタチハ 

  オンシノ トイニ 

  コタエルコトガ デキテイルノダロウカ

   

 

  長井線リポート (4)長井線でブラタモリ:おらだの会 (samidare.jp)

 

  長井線リポート(5) 10年後の君たちへ:おらだの会 (samidare.jp)

 

第17話 蚕は死して名を残す その2 (蚕桑駅)

  • 第17話 蚕は死して名を残す その2 (蚕桑駅)

 昭和15年(1940年)5月には、蚕桑村を中心とする西置賜蚕種共同施設組合が設立され事務所を長井町、山形県蚕業取締所長井支所内におき、蚕種製造所は蚕桑村横田尻に置き、蚕種を製造することになった。さらに昭和25年(1950年)6月、貞明皇太后陛下(大正天皇后)が大日本蚕糸会総裁として蚕桑村に来村され、丸川与一氏宅を視察されている。その時のことが「蚕桑の郷土誌」に書かれているのでその一部を紹介したい。

 

 

 片田舎のむさ苦しい家に皇太后陛下を奉迎できるとは思いもよらない事でした。御下問になったお言葉の一端から思いかえして、陛下は蚕糸業について実に深い御理解と専門的な御見識を持って居られるように拝察しました。

  陛下 品種は何ですか

  私  春光、銀月、秋月の3元交雑です

  陛下 毎年ですか

  私  今年初めての品種です

  陛下 初めてではなかなか苦心も多いでしょうネ。

     掃立は5月25日のようですが、遅いようですね。

     桑の関係ですか。

  私  そうです。今年は25日ですが、例年よりは

     3、4日早いのです。

  陛下 そうですか、それだけ山形の方は寒いわけですね。

 

 階上のご視察を終えられ、階下に降りられるとき階段が急で、誠に恐れ入りますと申し上げると「少し急のようですね。毎日桑を持って数回上り下りされることは随分ご苦労ですね。」との有難いお言葉にただただ感激し、感涙を覚えるばかりでありました。

 

 

【おらだの会】丸川氏の受け答えに、実直さの中にも探求心にあふれた地方人の姿が浮かび上がる。また昭和47年頃に長井線の廃止の声が出された際に「わがうちなる長井線」と題するエッセーを書いた詩人・芳賀秀次郎氏も蚕桑出身である。写真は皇后陛下がこの時訪れた五十川の大桑の樹の視察時のもの。(「写真で見る致芳」より)

 「わがうちなる長井線」はこちらから

   → わがうちなる長井線 その1:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)