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『米坂線の今』椿駅の1 豪邸にくつろぎの空間

  • 『米坂線の今』椿駅の1 豪邸にくつろぎの空間

 羽前椿駅は1931年(昭和6年)8月10日開業、1995年(平成7年)12月に現在の駅舎が完成した。日本家屋の豪邸風である。1985年(昭和60年)に職員無配置駅となり、簡易委託駅となった。現在、飯豊町観光協会が入所して駅業務を行っている。

 

 待合室には囲炉裏風のテーブルがあり、居るだけで楽しい、くつろげるスペースとなっている。「米坂線の歴史」や米坂線の復旧に寄せる作品などが綺麗に展示されていた。その中で目についたのが、1996年(平成8年)2月の駅舎新築祝いの川柳懸額である。

  新装の駅舎始発の旅に出る(すみれ)

  就職の子から届いた旅行券(草可)

  木造りの駅舎旅の途中下車(虚心)

 

 職員が駅に常駐していて、地元の人たちと一緒に活動している駅は、それだけで楽しい雰囲気に包まれるように思う。米坂線の駅の多くはモルタル造りであり、無人駅である。椿駅のように木造の立派な建物でなくても、待合室の中に地元の人たちとの交流の空間があったら、地域の温かな風を感じることができるだろう。小国駅までの旅で、駅の中に刻まれた人々の思いを探してみたいと思う。

2025.09.22:orada3:コメント(0):[停車場風景]

『米坂線の今』萩生駅の2 時間が止まった待合室

  • 『米坂線の今』萩生駅の2 時間が止まった待合室

 萩生駅近くには遊具のある広場がある。その広場と駅舎に隣接してトイレと休憩室が整備されている。それはまるで駅舎の離れのように見える佇まいである。駅舎正面には地元酒造会社が庭園を寄贈したことが記された「庭園寄贈」の石碑が建っている。駅前の風情は沿線各駅の中でも随一のものではないだろうか。

 

 待合室に入ると昭和62年(1987年)8月の日付のある川柳の献額が飾られている。昭和62年は国鉄からJR東日本となった年であり、長井線が第3セクターとして存続する事が決定された年でもある。その中に次の句があった。「人形の首が落ちたる廃止駅」。句の作者は今の状況を見たら、どんな句を詠むのだろうか。

 

 その隣には「萩生駅愛護会主催によるJR利用者拡大イベント」の添え書きのある集合写真があった。地元史誌(中ノ目歴史散歩:平成27年刊行)によれば、1966年(昭和41年)の駅待合室の増築を機に萩生、中、黒沢の3区と有志によって「萩生駅後援会」が組織され、その後「萩生駅愛護会」に改称されたという。掲示されている写真は2010年(平成22年)の事業参加者の様子である。同誌には「今後、利用拡大に向けた行動はもちろんのこと、廃止などの話が出ないように沿線住民が何をなすべきか、JRにもっと目を向けていこうではないか。」と記されていた。

 

 待合室を抜けてホームに出たいと思ったが、ホームへの扉には合板が打ち付けられていた。他の駅ではホームに出ることができたのだが、萩生駅ではそれも許されなくなっていた。待合室の中は2010年で時間が止まってしまい、人々の思いもその中に閉じ込められてしまったように思えた。

2025.09.20:orada3:コメント(0):[停車場風景]

『米坂線の今』萩生駅の1 駅を守る人が

  • 『米坂線の今』萩生駅の1 駅を守る人が

 萩生駅は1931年(昭和6年)8月10日開業。1994年(平成6年)12月に待合所が改修されている。駅の正面には「九里学園」と書かれたフラワーポットが3基。2年前の8月、この駅を訪ねた時にもサルビアの赤い花が咲いていた。今年も酷暑に耐えて花を咲かせていた。2年前の記事はこちらからどうぞ。

 → 無人駅の善意の花:おらだの会

 

 ただし2年前と比べると、プランターの損耗が目立って見えた。駅舎の角には「九里学園高等学校」と書かれたジョウロが置かれていた。ホーム側に歩いて行くと、草削り器が落ちていた。プランターの花に水をかけ、除草作業を行っている人がいるのだろう。列車の来ない駅を守ろうとしている人がこの駅にはいるのだ。

2025.09.18:orada3:コメント(0):[停車場風景]

『米坂線の今』今泉駅の2 みんなの思いがつながれば

  • 『米坂線の今』今泉駅の2 みんなの思いがつながれば

 カーテンが閉められた事務室の窓に、「いつもありがとうございます」のメッセージが添えられた地元児童の絵が飾られていた。これを見た感想は、昨年秋のブログに投稿しましたのでご覧いただければ幸いです。

 → 長井線祭りに思うこと(今泉駅にて):おらだの会

 

 待合室には米坂線を走った気動車・べにばな号などの写真も飾られていた。鉄道愛好者から提供されたものであろうか。さらに、豊田地区ふるさと振興会の掲示板も設置されていた。駅の所在地である豊田地区の見所を散歩コースとして紹介している。2013年(平成25年)に長井まちづくり基金助成事業を受けて制作したもののようである。

 

 今泉駅には子どもたちの声や鉄道愛好家の思い、そして地元の人たちの鉄道に対する期待の声が詰まっているように思う。駅とはもともと、そうしたものであったのかもしれない。改めて思うのは、それぞれの思いがつながっていれば・・・と。

2025.09.14:orada3:コメント(0):[停車場風景]

『米坂線の今』今泉駅の1 国鉄時代を今に伝える

  • 『米坂線の今』今泉駅の1 国鉄時代を今に伝える

 「米坂線の今」を訪ねる旅は今泉駅から出発である。今泉駅は軽便鉄道長井線の駅として1914年(大正3年)に開業。その後1926年(大正15年)に、米坂線の米沢~今泉間の開業に伴って経由駅となった。長井線とJR線の接続駅として当地方の歴史の中で、多くの物語を秘めている駅である。

 政治的には、米坂線の開通に際して、長井町側では長井駅を経由することを猛烈に陳情したが実らなかった。旧白川信号所までが今泉駅の構内扱いとなっていることは、この間の政治的な妥協の歴史を伝える証左の一つといえる。この経過については次をご覧ください。なおタイトルが「政争の駅」という過激なタイトルとなったことをお許し願いたい。

 → 長井線リポート(17)  白川橋梁からの眺め:おらだの会

 → 第9話 政争の駅 その1(今泉駅):おらだの会

 → 第9話 政争の駅 その2(今泉駅):おらだの会



 また今泉駅は、紀行作家宮脇俊三が終戦の玉音放送を聞いた駅としても有名である。上の写真のとおり、戦後80年の今でも駅前通りには旅館の看板が見える。その一つ栄屋旅館は、昭和10年頃から駅弁を売っていたという。長井線100周年にはその復刻版も販売された。現在、国鉄色の駅銘板や木製のホーム上屋、トンボが付いた横葺きのトタン屋根などは長井線側に多く残っている。駅前の風情と共に駅の佇まいは、当時の国鉄時代の姿を今に伝えている。

 → 長井線リポート(18) ザ昭和 in 今泉駅:おらだの会

 → 長井線リポート(19)  面白景色の宝石箱 in 今泉:おらだの会

2025.09.12:orada3:コメント(0):[停車場風景]