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半田助左衛門(はんだすけざえもん)

 生年不明~没年不明 東根城主・東根景佐の家臣。慶長出羽合戦の際、東根城は上杉家尾浦城将・下吉忠の部隊からの攻撃を受けた。東根城主の景佐は、主力を率いて山形城防衛に出向いていたため、城の守勢は少なかったが、奇略を用いてよく防戦したという。この時、東根城を攻めた部隊を率いていた新関新五右衛門に対し、助左衛門が一騎打ちを挑み、相手の馬が水田に足をとられた隙に討ち取った。この戦いは、鷺の森合戦と呼ばれ、その時の戦利品であるホラ貝が東根市荒宿の戸村家に伝わっているという。
2017.11.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

行沢式部(なめさわしきぶ)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。行沢楯(尾花沢市行沢)の楯主を務めたという。後世の軍記物である「最上記」によると1千石を領したという。
2017.11.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

大堀河内守(おおほりかわちのかみ)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。二藤袋楯(尾花沢市二藤袋)の楯主を務めたという。後世の軍記物である「最上記」によると2千石を領したという。
2017.11.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

沼沢藤左衛門(ぬまざわとうざえもん)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。最上家改易により野辺沢光昌は熊本藩加藤家にお預けとなり、これに供をして熊本に移ったが、後に出羽へ帰国したという。寛永三年(1626)に光昌が熊本にて病死した際、藤左衛門の弟・助左衛門がその最期を看取り、遺骨を持ち帰ったという。
2017.11.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

糟谷延元(かすやのぶもと)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。出雲守を称す。岩手県指定文化財「漆塗曵馬絵馬」(岩手県陸前高田市の観音寺所蔵)に、「奉納絵馬」「所願成就」「慶長七年(1602)壬刀(寅)六月十七日」「糟谷出雲守延元」の銘が残されている。
2017.11.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

笹原石見守(ささはらいわみのかみ)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の家老。篠原石見守とも。名は昌良か。有路但馬守とともに野辺沢満延(能登守)を支え、「能登内に有路笹原なかりせば義光公にくびを延沢」という狂歌が伝わっている。最上家改易後、笹原氏の一族が仙台藩伊達家に仕えたという。
2017.11.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

有路但馬守(ありじたじまのかみ)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の家老。笹原石見守とともに野辺沢満延(能登守)を支え、「能登内に有路笹原なかりせば義光公にくびを延沢」という狂歌が伝わっている。最上家改易後、有路家は畑沢(尾花沢市)にて帰農したという。
2017.11.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

矢口氏忠(やぐちうじただ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 矢口氏広の子。父の跡を継いで川口楯(鮭川村川口)の楯主となる。子に氏益があり、川口楯は氏広、氏忠、氏益の三代が楯主であった。最上義光の跡を継いだ最上家親の命により、清水光氏が攻め滅ぼされた際、清水の興源院で自害したという。
2017.11.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]