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高楯正福(たかだてまさとみ?)

 永禄二年(1559)~慶長二十年(1615) 高楯城(山辺町山辺)の城主。遠江守を称す。2千5百石(一説には1万2千石とも)を領した。大坂夏の陣では、江戸城留守居役であった最上家親から派遣されて参陣、57歳で討死した。菩提寺は山辺町の正福寺。
2018.01.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

近藤壱岐守(こんどういきのかみ)

 生年不明~没年不明 2千5百石を領す。最上義光は山形城三の丸の十一口にそれぞれ重臣を配置して防衛を固めた。このうち、山形城西方の小田口に配されたのが近藤壱岐守である。小田口には当時最も重要とされた煙硝庫(火薬庫)があり、その守護神として財部稲荷大明神が奉られた。後世の軍記物である「最上記」には進藤壹岐守と記載されている。
2018.01.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

大久保主馬介(おおくぼしゅめのすけ)

 生年不明~没年不明 大久保城(村山市大久保)の城主。最上家3代最上満直の三男満頼が大久保の地に入部し、大久保を名乗ったといわれるが、主馬介がその直系子孫かどうかは不明。「最上義光分限帳」によると3百石、「最上記」によると3千石を領したという。
2018.01.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

日野惣左衛門(ひのそうざえもん)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると3千石を領したという。同じく3千石を領したという日野将監光綱の一族か。
2018.01.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

小国摂津守(おぐにせっつのかみ)

 生年不明~没年不明 小国城主である小国日向守光基の一族と思われる。後世の軍記物である「最上記」によると4千石を領したという。このほか蔵増城8千石としている分限帳もある。
2018.01.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

奥村常陸介(おくむらひたちのすけ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると4千石を領したという。最上義康の暗殺に関わったとされる土肥半左衛門を討伐する際、小国日向守と山形の旗本三十六騎とともに討手として派遣されたという。
2017.12.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

長崎式部(ながさきしきぶ)

 生年不明~没年不明 長崎城(中山町長崎)の城主を務めたという。後世の軍記物である「最上記」によると7千石を領したという。長崎城は中山玄蕃朝正の居城であるとも伝わり、「最上記」には中山玄蕃7千石と長崎(永崎)式部7千石の両方が記載されている。
2017.12.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

滝沢六右衛門(たきざわろくえもん)

 生年不明~没年不明 滝沢政範の二男。最上家改易後は、本荘藩六郷家に仕え、兵粮方を務めたという。
2017.12.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]