生年不明~天正十二年(1584)
外記を称す。天正九年(1581)三月、雄勝郡仙北攻めにおいて先手を務め、その功により薄井村など七つの村を賜った。天正十二年(1584)四月、小野寺家との合戦の際に深手を負い、湯沢の地で亡くなった。重保の四歳の娘が残されたと知った最上義光は、楯岡満茂に娘の養育を命じ、後に秋保主馬の弟を娘に娶せ、小柳家の婿養子とした。
生年不明~天正十二年(1584)
外記を称す。天正九年(1581)三月、雄勝郡仙北攻めにおいて先手を務め、その功により薄井村など七つの村を賜った。天正十二年(1584)四月、小野寺家との合戦の際に深手を負い、湯沢の地で亡くなった。重保の四歳の娘が残されたと知った最上義光は、楯岡満茂に娘の養育を命じ、後に秋保主馬の弟を娘に娶せ、小柳家の婿養子とした。