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戸部正直(とべまさなお)
正保二年(1645)~寛永四年(1708) 戸部忠直の子。はじめ権三郎のち清左衛門を称す。剃髪して一閑斎と号す。十代の頃から諸国を巡って見聞を広め、奥羽地方の永禄年間から慶長年間までの軍記物語である「奥羽永慶軍記」四十巻を著した。また、慶長五年(1600)の長谷堂合戦の様子を描いた「長谷堂合戦図屏風」の作者でもある。
2019.01.18:mogapro:[▼最上家関連人物]
土屋作之亟(つちやさくのじょう)
生年不明~没年不明 野辺沢城主・野辺沢康満(光昌)に仕える。当時繁栄を誇った野辺沢銀山の山師頭。最上家改易後も山師頭を務めた。のちに銀山が廃山となったため、子孫は大石田に移転し商人として栄えた。
2018.06.27:mogapro:[▼最上家関連人物]
宝幢寺尊海(ほうどうじそんかい)
生年不明~没年不明 山形にあった宝幢寺の住職。尊海上人、宝幢御坊とも。最上義光が出陣する際には、尊海が戦勝祈願を行うのが慣例であった。天童城攻めの際、天童領との境を流れる立谷川が濁流となって行く手を阻んでいたのを、尊海が祈祷するとたちまちに水が引いたという話や、天童方が喜太郎狐の幻術を使って最上方を惑わしたのを、犬を使ってこれを打ち破ったという伝説が残る。天童城を攻め落としたのち、本丸跡に建てられた天童愛宕神社の別当に任じられ、1370石という広大な寺領を与えられた。
2017.11.27:mogapro:[▼最上家関連人物]