HOME >  ◇最上家家臣団(た行)

栃屋半右衛門(とちやはんえもん)

 生年不明~没年不明 越中土肥氏の家臣。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。最上家親により半左衛門が処断されたことから最上家を離れ、福井藩松平家に仕えた。
2018.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

土肥半左衛門(どいはんざえもん)

 生年不明~元和二年(1616) 越中弓庄城の城主であった土肥政繁の子。姉婿が下吉忠であることから、慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、下家の一党として最上家に仕えた。最上義康襲撃事件の実行犯の一人とされる。下次右衛門が横死すると下家を取り仕切るようになるが、これを妬んだ同輩の原頼秀に、越中以来の譜代の家臣達を集め謀反の兆しありと讒訴されたという。これを真に受けた最上家親から寒河江への所替を命ぜられ、その途中の倉津(天童市蔵増)にて家親の手勢に襲撃され自刃した。これにより下長門守、有沢釆女などの下一族が最上家を退去した。
2018.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋勘解由(たかはしかげゆ)

 生年不明~没年不明 高橋但馬守の子。最上家改易後、新庄藩戸澤家に仕え、谷地の代官を務めた。妻は最上家家臣の草刈虎之助の娘。
2018.03.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋但馬守(たかはしたじまのかみ)

 生年不明~没年不明 義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。もとは越前の朝倉氏に仕え、その滅亡後に最上家に仕えたという。一説には、高橋但馬守の娘が最上義光の嫡男・最上義康に嫁いだといわれている。生まれた子のうち、二男が義康の死後も生き延びて高橋姓を名乗り、後に帰農したという。
2018.03.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高楯俊福(たかだてとしとみ?)

 生年不明~没年不明 高楯正福の子。父と同じく遠江守を称す。最上家改易に際し、最上家信(義俊)に従って近江国大森に赴いた。俊福の娘は、義俊の二男である義長の妻となった。
2018.01.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高楯正福(たかだてまさとみ?)

 永禄二年(1559)~慶長二十年(1615) 高楯城(山辺町山辺)の城主。遠江守を称す。2千5百石(一説には1万2千石とも)を領した。大坂夏の陣では、江戸城留守居役であった最上家親から派遣されて参陣、57歳で討死した。菩提寺は山辺町の正福寺。
2018.01.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

滝沢六右衛門(たきざわろくえもん)

 生年不明~没年不明 滝沢政範の二男。最上家改易後は、本荘藩六郷家に仕え、兵粮方を務めたという。
2017.12.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

滝沢惟次(たきざわただつぐ)

 生年不明~没年不明 滝沢政範の長男。信濃守を称す。初め主膳を名乗り、最上家改易後に五郎兵衛に改めた。最上時代のころから父の元を離れて本城満茂に仕えていた。最上家改易後も満茂と行動を同じくし、前橋藩酒井家に仕えた。
2017.12.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]