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荒楯十郎(あらだてじゅうろう)

 生年不明~没年不明 野辺沢城主・野辺沢満延の家臣。荒楯(尾花沢市尾花沢荒楯)の楯主。尾花沢郡代を務めた。天正年間、長瀞城(東根市長瀞)の遠山外記に攻められ滅亡したという。尾花沢の荒楯不動尊には、十郎の守り本尊であった不動明王が奉られており、合格の神様として参詣者が多い。
2018.06.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子大和守(いらごやまとのかみ)

 生年不明~文禄四年(1595)? 小野寺家から庄内攻略を祝して名馬が贈られた際、その答礼に派遣されるなど、小野寺家への使者をたびたび務めたという。楯岡満茂が湯沢城(湯沢市古館山)を攻略したのち、関口城(湯沢市関口)に入城したと伝わる。小野寺家と戦った大島原の合戦にて戦死か。
2018.06.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上牛之介(いのうえうしのすけ)

 生年不明~没年不明 下次右衛門の家来。慶長出羽合戦ののち、次右衛門とともに最上家に仕え1千石を領す。後世の軍記物である「最上記」では、酒田城攻略戦の場面に寄せ手の一人として登場する。
2018.06.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小野寺八之丞(おのでらはちのじょう)

 生年不明~寛文三年(1663) 仙北小野寺氏の一族・小野寺茂道の三男。関ヶ原の戦い後に小野寺家が改易となると、父・茂道とともに西馬音内城を退去し、庄内に住んだ。のちに姉婿である土肥半左衛門を頼って最上家に仕えるが、半左衛門が上意にて切腹、八之丞も知行召し上げとなる。最上家改易後に新庄藩戸澤家に仕えた。
2018.05.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

有沢長俊(ありさわながとし)

 生年不明~寛永八年(1631) 越中土肥氏の家臣。釆女を称す。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。下吉忠の配下として小国城(鶴岡市小国)を預かり650石を領す。最上家親により半左衛門が処断されたことから最上家を離れた。船で紀州に向かう途中、難破して能登に漂着し、加賀藩前田家に仕えることとなった。孫の有沢永貞は甲州流軍学を修め、加賀藩の軍学者となった。
2018.05.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦山源左衛門(うらやまげんざえもん)

 天正三年(1575)~慶長八年(1603)※慶長十六年(1611)説あり 最上義康の重臣。義康が父・最上義光から高野山への退去を命ぜられた際に同道していた。その道中、土肥半左衛門らが率いる鉄砲隊に襲われ源左衛門は討死、義康も撃たれて負傷し、自刃した。
2018.05.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

漆山九郎兵衛(うるしやまくろうひょうえ)

 生年不明~没年不明 慶長出羽合戦において、上杉軍の大将・上泉主水泰綱に組みかかった剛の者。泰綱もろとも谷川に転げ落ち、途中で岩にぶつかって離れてしまったが、行動を共にしていた金原七蔵が泰綱を討ち取った。
2018.04.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦山筑後(うらやまちくご)

 生年不明~没年不明 主君・最上義光から三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるよう命じられた。これに対し筑後は、雑兵の手にかかる前に姫君の御首を打ち、腹を切ってお供しようと決心を固めていた。このことを知った義光は、その忠義を惜しんで筑後を留めおき、下人の中から賢い者を選んで遣わしたという。
2018.04.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]