FPのひとりごと

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まずは驚嘆した話を・・



重力波が実際に観測されたとのこと



いや凄い(んだと思う)



科学的な意味合いはほとんどわかっていないが



メディアで“ノーベル賞級”とさんざん言ってんだからそういうことでしょう



でも何が一番凄いのかというと



その存在を予測したのが 彼のアインシュタインで



彼の生きた時代には パソコンはおろか電卓さえなかったということ



だって アラ還の私が生まれる前に亡くなってるんだからね



相対性理論のような 私の頭脳を1万個繋げても理解できない理論を



全部机上の手計算でやって遂げたんだから ちょっと想像を絶する



間違いなく人類史に残る偉人中の偉人だ



偉人を語った後に こんな話はしたくないのだが・・



二人のバカが世間を騒がしている



清原和博と宮崎某だ



どっちもとびきりのバカだが 一つだけ共通点がある気がする



世の中をなめていることだ



『どうせバレやしない』からの快楽一直線 なめなきゃできない



なめきって世間を欺いてきたからこその 強烈なしっぺ返し



すべては自分が招いた結果だ 同情の余地は全くない



しかし 清原 SMAP ベッキー 甘利 宮崎 ・・



このスキャンダル 全部文春のスクープだ



文春=文藝春秋=まじめで格調高い文芸誌 なのに



どちらかというと週刊ポストや女性セブン寄りだ



まあ週刊誌としての生き残り戦略なんだろうけど



その矛先が 巨悪に向かい続けることを祈る
友達
あんまりいなかったねー
ほんの数人はいましたが
特に仲がいいわけでもなかったし・・

こんなところに4年も“幽閉”されたら
頭がおかしくなってしまうと
本気で思っていました
まわりを見ると
みんな楽しそうなんですねー
“それを”望んで得た結果だからなんでしょう

そうだ! スポーツをしよう と
ある日 キャンパスで ひらめきました
うじうじしてても らちあかんし
体を動かして 青春を謳歌しよう!! と・・

ラグビーがしたかったんです
高校でできなかったということもあるし
男のスポーツとしては MYベストでした
学内にラグビー部があるというので
さっそくグランドに足を運んでみました

その日は どこかと練習試合をしていました
海辺のグランドは 砂煙でモウモウでしたが
若い肉体がぶつかり合い 汗が飛び散ってました
でも
スコアは 大差がついていて 一方的な展開でした
よく見ると 我がチームがボロボロに負けてました
相手校は よほどの強豪校なんだろうと思って
スコアボードを見つめたら
○○農高 ん? なに! 農高=農業高校!!
はりゃー 高校生相手にボロ負け

『・・・・・・・』

二度と そのグランドに足を運ぶことは
ありませんでした

              (つづく)
我々が学生をやってた頃の進学率って
どのくらいのものだったんでしょうかねー
いまより 数十ポイント低かったんでしょうが・・
実際 学業が優秀でも就職というパターンも多かった

そんな時代に
大学に行けるだけでも
ものすごく恵まれた環境だろー!
生意気言ってんじゃねーよ!!
という声が聞こえてきます
そりゃー正にそのとおりです
私は それに反論することができません
でも
人はまったく望まない想像だにしなかった事態に
遭遇してしまったとき
誰だって 悩みもがくものだと思います
変な例えですが・・
UFOに遭遇したとき
ん ちょっとこれ変すぎるか
じゃ
町娘が 町場でお殿様に見初められて
大奥に上がるようなもんです??!
訳がわからんでしょうが的はえている!
どんな心構えでなにをしたらいいのか
まったくもって さっぱりわかりません

一応 法学科在籍ですから
法律を学ばねばならんわけですが
法律? なんの興味もありません
映画を勉強して 芸能界に行きたかったのに
六法全書持って 憲法 民法 刑法って・・・
やらねばと頭で理解しても 体がついていきません
六法全書は 試験のカンペに使ったことはあれど
条文を見るために開けたことはありません
私の部屋を訪れた同じ科の先輩が
机の上にある 数センチの埃を見て絶句してました


阿呆学部麻雀学科への転籍に時間は要しませんでした

                  (つづく)


学生時代 親友が
法政大学に いってました
アパートは豊島区の雑司ヶ谷にありました

春・夏休みには よく遊びに行きました
親友の生活費に 私の交通費が流用され
都内でバイトして交通費を工面するため
2ヶ月の長逗留をしたこともあります
でも なんだかんだいって
ここでの共同生活ほど楽しかったことはありません

まず 住まい
今にも倒壊しそうなおんぼろアパートでしたが
近くには鬼子母神があり 路面電車も走ってました
下町の情緒が まだ色濃く残り
商店街の人たちも人情味に溢れていました
私は ここが好きで 親友がまだ寝ている早朝に
鬼子母神の境内やら商店街のあちこちを散歩していました
休みの日(ってずっと休みだけど)には
荒川線に一人で乗って 遠く早稲田などにも出かけてました
銭湯があって 酒屋があって 本屋があって・・・
ほんとにいい味を出した 下町の商店街でした
(『水もれ甲介』のロケ地になってました)

大学・・
親友にくっついて 法政大学に行ってみました
これが大学だ! これがキャンパスだ!
という光景が 私の眼前に広がっていました
カルチャーショックでした
都内のナイスなロケーションに位置する大学には
歴史と伝統の重さをいやというほど感じさせられました
キャンパスには おしゃれな学生たちが闊歩し
華やいだ空気が充満し 圧倒されてしまいました
そうか やっぱり これがあこがれのキャンパス!
俺が目指していたのは これだったんだー!
同じ大学と名がついても天と地ほどの差がありました
ちょっとグランドに寄ってみたら あの江川がいました
(法政野球部の黄金時代の頃ですから・・)

後頭部を ガーンと殴られたみたいでした


畑の中のアパートの自室に戻り
『俺は何をしてるんだろー』 と自問してみました
答など出るわけはないのですが・・
自責の念にかられるだけでした

               (つづく)



当時 ご学友のファッションはというと・・

髪は 七三分け(いまや絶滅種!?)
シャツは 無地かストライプのカッターシャツ
ズボンは 吊るしのビジネススラックス
(以上2点は ダイエー等で調達)
靴は 茶か黒のビジネスシューズ
ズボンは たまにジーンズでコーディネート
これにジャケットを引っ掛ければ
団塊世代のホリデーウェアになりますが・・

これを なんのてらいもなく悪びれもせず
堂々と“着こなして”キャンパスを闊歩なさる
自分がイメージした“大学生”はどこにもいなかった
当時『ダサイ』という言葉はなかったが
まさに“超ダッサーい”の極致!!!

じゃ おまえはどうだったんだ?
と言われれば ちょっと言葉に詰まるが
“キャンパスの流行”にだけは染まらなかった
そりゃー 田舎から出てきたばかりで
“スエヒロ”のものしか着たことがないんだから
自分だって 十分ダサかったのはわかってますが
あーはなりたくないと 必死に努力しました
当時 男性向けのファッション誌には
『メンズクラブ』や『チェックメイト』がありました
自分としては“メンクラ”のアイビーやヘビーデューティーに
惹かれていましたが 地方都市にはショップがありません
なにより 雑誌に出てるような高価な服を買えるわけがありません

長髪だったし 下駄は高校から履いていたんで
『俺たちの旅』の中村雅俊をパクることにしました
近くの美容院でパーマをかけ(ミニバーグでした)
シャツは ミリタリー調のやつを着て
パンツは ベルボトムのジーンズで
足下は はだしに 下駄履き
颯爽と肩で風切って歩いていたんですが・・・

いやー いま思い出しても チョー恥ずかしい
こういうのは お坊ちゃま大学でのカウンターカルチャーでこそ
存在意義があるんであって いきなりこんな格好で出没しちゃって
我がキャンパスでは 浮きまくりだった(のでしょう)
本人 気付いていないところが ものすごく悲しい!

結局 同好の士も現れず
好奇の目にさらされるのも ほとほといやになり
ほどなくして その格好で
夜の街に 繰り出すようになっていました

                        (つづく)






ほんとは 上京して 日芸に行って
キャンパスライフを満喫するはずだった
私の未来予想図・・・・

現実は
真逆の光景が広がっていました
あのシチュエーションで
どうやったらキャンパスライフをエンジョイできるか
答えられる人がいたら 教えて欲しいほどでした
それなのに
周りの連中を見ると
それなりに 楽しそうなんですねー
なんでなんだろー? 不思議でした
地方の駅弁大学ですから
入学者は 地元出身者が多いんですが
そやつらは 妙なプライドもぶら下げてました
まあ “地元のエリート”のつもりなんでしょうねー
別に 文句を言うような事じゃあないんだけど
違和感(嫌悪感)は かなりありました

友達?
学校には ほとんどいませんでした
馴染みたくない というのが本音
当時は 第二外国語の選択で
クラス編成が決まっていましたが
ドイツ語を選択すれば まともなクラスでしたが
わざとフランス語を選択して クラスもなしでした
自分から望んで どんどん孤立してゆきました

学校に行かなくなるのに 半年かかりませんでした

                (つづく)