FPのひとりごと

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のっけからなんであるが・・

脊髄というのは脊椎の中を通る中枢神経だ
簡単に言うと 脳からの命令を体内各器官に伝えるメインケーブルだ

私は事故で このメインケーブルを損傷してしまった
このケーブルが切れていたら 死んでいたかもしれないし
たぶん 全身不随は免れなかったであろうと推測される
私は首の骨(=頚椎)の上から4番目と5番目の間に損傷がある
同じ損傷なら 上にある頚椎の方がダメージ(障害)が重くなる
私の友人は 3番目に損傷を受け ほぼ全身不随だ
ほんの数cmのことで障害の度合いは大きく変わってくる
障害者施設で重度の障害者を見ていると 私などまだまだだ・・?
とはいえ
主治医は 我が医学的障害等級は機能回復が望めないとはっきり言う
要するに いくらリハビリをがんばってもどうにもならんよ ということだ
入院して1ヶ月くらいのとき 回診に来た若い整形外科医に

 『奇跡だって起こるかもしれない』 と言われ

本人は慰めたつもりだったのかもしれないが
治る気バンバンだった私に絶望を投げつけてったことがある
学術的には彼の言うことが正しいのかもしれないが
こういう医師には 医療の“いろは”から教え直さねばなるまい

この言葉がきっかけになって 私は一転がんばらない人になってしまう
がんばらないし なにも考えたくない腑抜け人間になってしまう
人間 なにか目標とかゴールとかが見えるから努力をするのであって
回復しない!と医師に宣言された身体の約7割不全の障害者に
目標やゴールを設定しろと言われたって そいつぁーご無体ってなもんだ

ということで 事故から9ヶ月後に(ほぼ強制)退院しても
我が運動機能・各部位の可動域にはほぼなんの回復もなく
大きな大きな不安を抱えたまま自宅に戻ってきたのであった
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2011.11.28:tnwコメント(2):[メモ/その他]
先日 ラジオを聞いていてハッとさせられたことがあった

バブル崩壊以降しか知らない世代は
日本が成長していくところを見たことがない  と
不景気で停滞している日本しか知らない  と

『 ! 』 まさに“耳から”うろこだった

いやー そういうことだよねー 言われてみれば
バリバリだった頃の日本を知らない世代 いるんだねー


思えば 我が世代は『右肩上がり』しか知らない世代だ
物心がついてからは

  東京オリンピック
    
     高度経済成長

         大阪万博

            JAPAN AS No.1!

(こういうふうに書き連ねていくと 今の中国みたいだねー)
オラオラオラと肩で風切って ブイブイいわしてた時代だ
高失業率とか 就職難とか 就職氷河期とか言われている昨今
頭では理解できているつもりだし 勿論 事実に違いはないのだが
“仕事がない”という実態を現実として受け入れることができない
だって 選り好みさえしなければ仕事はいくらでもあったんだもの
そんな感覚で社会人時代のあらかたを過ごしてくればそうなるって

昇給がない ボーナスがない・・ U---m 信じられない
我がサラリーマン時代は こうだった
まず定期昇給は大前提としてあって 全く別口でのベア交渉だ
(ベアとはベースアップのこと 基本給部分の昇給額のこと)
で さらに 臨給(ボーナス)の年初一括協定(年間月数交渉)があった
いずれの項目も前年以下などということは労使共に全く想定外だった
というより上昇率の幅や昇給の額をどうするかで交渉した
『実質給与』とかいう究極のサラリーマン寄りの考え方があった
インフレ時代に“普通に”昇給していたのではインフレに飲み込まれる
インフレでの物価高を吸収する実質的な昇給を目指すというものだ
なんのことはない 普通の昇給にインフレ率分を乗っけるってことだ
こんな 今では夢のようなことが ごく普通に行われていた
ごく普通に・・


バブル崩壊を1991年とすれば そこから現在までは20年だ
この二十年間 日本は ずーっと低迷したままだ
経済だけならまだしも 政治の世界も混迷の闇の中だ
この二十年間に社会人になった世代の人にとって
日本という国は その目にはどういう風に映っているのだろうか
我々中高年の目に映る日本とは明らかに違っているんだろうと思う
私だって 日本の国力の衰退は頭ではわかっているつもりだ
でも どこかにまだ“こんなもんじゃない”と信じている部分がある
理屈抜き根拠レスの『陽はまた昇る』を無邪気に信奉する自分がいる
我々のカラダには成長神話が染み付いているのだ


このところ ずーっと感じてきたジェネレーションギャップ
それは なぜ目一杯がんばらないんだろう?という思いに凝縮される
君達! いま ここで がんばらずに どこでがんばるんだよ と
でも がんばった先のビジョンが展望できないような社会で
ただ闇雲にガンバルことに疑念が生まれるのはある意味当然だ
我々は ばかみたいに闇雲にがんばってきたが
それは成長神話を無邪気に信じられる土壌があったからだ
先に行けば行くほど暗い未来予想図しか描けない今の日本で
成長というものを実感したことのない若い世代に
ただ『ガンバレ!』と叱咤するのは“お門違い”もいいところだったんだ
やっと そこんとこ(=悲しい現実)に気付いた

しかし

『がんばる』は日本人の美徳だ
がんばらない日本に なにが残るのだろう
がんばることしか自己実現の方法を知らず
がんばることの先にしかユートピアの見つけ方を知らない我々は
これからなにを目的として生きていけばいいのだろうか

  わ か ら な い

しょうがないから“がんばって”考えていこう・・



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2011.11.26:tnwコメント(2):[メモ/その他]
ビアフラ(の悲劇)を知っている世代は相当限られている
子供の頃のことなので 事情はよくわかっていなかったが
戦争による飢餓でガリガリに痩せた子供たちの姿が忘れられない


ふと なにげに見てしまった我が肉体
それは まさしくビアフラの難民となった子供たちだった
彼らは骨と皮だけのガリガリなのに栄養失調から下腹部が膨らんでいた
彼らには何の責任もないのだが それは正視に耐えられるものではなかった

我が肉体も 一度 筋肉をあらかたそぎ落として体重49kgになった後
暴飲暴食を半年間重ねたことで 9kg増の58kgとなったのであるが
(健常者には暴飲暴食にはならないが 基礎代謝の低い私にはそうだった)
その9kgは無駄肉や油脂となり 我が下腹部にへばりついていたのだ

まあ 自分のことだから言ってもよかろうが
この世のものとは思えないほどの醜い肉体であった
だって ガリガリなのにポッチャリおなか・・ 愕然とした

へこたれました  とことん
つい一年ほど前まで ナル的ボディーをほしいままにしてきて
なにかそんな機会があれば 割れた腹筋を見せんばかりの勢いだったのに
(実際に そんなことをしていたら犯罪になっていたであろうが・・)
あまりの無様な変わり様に声を失った

でも そこが 原点になった

2011.11.24:tnwコメント(0):[メモ/その他]
入院した事のある方には 頷いてもらえると思うが
病院の食事というのは例外なく“まずい”

まず 味が薄い  味がほとんどないものもある
塩分・糖分・カロリー等の摂取制限という問題があるんだろうが
筋子・たらこ・塩辛を大好物とする小生としては“食った気がしない”
さらに 入院患者の平均年齢に合わせて 歯ごたえのないものが多い
端的に言えば『菜っ葉系』の『煮物』や『おひたし』が異常に多いのだ

こういう『味なし老人食』が入院中は延々と続くわけで
三日もすると 楽しいはずの食事が治療に思えてきて苦痛になる
私は この苦痛を9ヶ月も耐えてきた ほぼ拷問に近い


退院して 一応何でも食えることになった
スープまで全部飲み干したカップ麺の美味かったことといったらない
とにかく9ヶ月の反動で 食べるものすべてが新鮮で美味しかった
おかげで
退院直前 49kgだった我が体重は半年で58kgになった
たった半年で 9kgも太ったわけで とんでもないリバウンドだ
さて
この9kg分の“お肉”一体カラダのどこについたのだろうか?

この頃 私はマイボディーにはノーケア・ノータッチだった
もはや自分の“管理下”におけなくなったものに無関心になっていたのだ

でも ある日 入浴施設の鏡に映った我が身をなにげに見てしまった

この世のものとは思えなかった・・

2011.11.21:tnwコメント(0):[メモ/その他]
高校時代の私 ウエストが60cmちょいしかなかった
(どうでもいいことだが 藤原紀香のウエストとタメだ)
それで 身長が170cmを超えているのだから
誰に言われるまでもない 『ガリガリ君』だ

スラックスを買おうと思っても 紳士用にはサイズがなく
ときには 女性用のものを買わざるを得ないこともあった
(当時から“そういう”趣味があったんだろうって・・ かも)
特別 食が細いというわけではなかった
2時間目終了後に早弁し 昼は購買で調理パンを買って食い
部活終了後は高梨商店(学校そばのパン屋さん)で買い食いしてから晩飯
という 当時の男子高校生のカロリー摂取の標準形は維持していた
でも いくら食べても全然体重は増えなかった

大学生になった頃 体重は55kgくらいだったが
ガリガリに対するコンプレックスがあり とにかく太りたかった
こんなことを言うと 多くの女性と中高年に顰蹙をくらうのだろうが
突き出たポッコリおなかに憧れた まさに“ないものねだり”だ
炊飯器で炊いた2合のごはんを一回で完食するなどという暴挙をしながら
なんとか体重60kgのラインに達した 素直に嬉しかった

そこから 三十代後半まで 体重と体脂肪率の右肩上がりは止まらなくなり
ついには 栄光のメタボキングにまで登りつめるのであった
(ちなみに 体重はMAX70kg 体脂肪率は20%台後半だった)
で そこから今度は一念発起して脱メタボを果たし
鏡を見てうっとり自己陶酔するナル的ボディーを手に入れた後で
事故って ほとんどの筋肉を落としガリガリ君にまた逆戻りした
我が人生と同じく 急上昇&急降下のマイ・バディー・ヒストリーだ


で 今は って?
そりゃ がんばってまんがな アナタ! ・・ ?

2011.11.18:tnwコメント(0):[メモ/その他]
事故直後 私の身体は ほぼ9割が不全だった
首から上と腕・指がわずかに動く程度だった
下半身は感覚もなく 全く微動だにしなかったが
時々 ピクッ ピクッと膝が持ち上がったりしていた
おっ これは もしかして・・ などと淡い期待を抱いたが
我が意思とは無関係の 単なる痙攣の一種だった

入院2週間経過後くらいからリハビリが始まった
一日約1時間ほど 身体のいろんなところを動かしてもらうのだ
足は理学療法士の方が汗だくであちこち動かしてくれているのだが
動かしてもらっている方は まったく何も感じない エア・リハビリだ
なんだかんだで約9ヶ月もの間 リハビリをしてもらったのだが
入院直後と退院時では 身体の可動域の改善はほとんど見られなかった


入院期間9ヶ月の間 自分の身体を鏡に映すことはなかった
その直前まで毎日 鏡に向かって自己陶酔していたナルシストがだ
洗面所で首から上は毎日眺めていたが そっから下は見なかった
意識的に見なかったというのではなく そんな気にならなかった
自分の身体に起こっている変化を受け止める素地ができていなかった
まだ“諦める”心構えもなく 勇気も湧き上がってこなかったんだろう

入院して 3ヶ月目くらいに体重測定があった
特殊な測定器に車椅子ごと乗って 後で車椅子の重さを引いた
49kgだった・・
ダイエット中の女子なら小躍りするぐらいの体重なんだろうが
私のベスト体重からは16kgも落ちていた 激減だ
食事は栄養士が管理していて ほぼ完食していたので
落ちた分の体重は ほぼ筋肉の分だったんじゃないだろうか
せっかくつけた筋肉が9ヶ月でほぼ削げ落ちてしまったことになる

私は 高校までは『ガリガリ君』だった
34年後に またそこに戻ってしまったのだった

2011.11.16:tnwコメント(0):[メモ/その他]