手ノ子駅は1931年(昭和6年)8月10日、米坂東線(今泉~手ノ子)開通時に開業。2020年(令和2年)12月21日、現駅舎が完成した。8駅の中で最も新しくモダンなデザインの駅舎である。駅前には食堂や公衆電話、農協事務所跡などが見られ、往時の賑わいを感じさせる風情が残っている。
※手ノ子駅開業時の記事はこちら → 手ノ子駅(米坂線)開業記念の写真:おらだの会
飯豊町史によれば手ノ子は大永元年(1527年)に開設された越後街道の宿駅の一つであり、常備の伝馬数は36頭で領内では上小松に次ぐ規模であったといいます。駅名にもなった「手ノ子」の由来の一つに、手子(てご)と呼ばれる荷負人夫が集落にいたため、との説もあるようです。
2020年(令和3年)に策定され、2030年(令和12年)を目標とした手ノ子地区計画書の中の「現状と課題」の中に、米坂線に触れられた項目がありました。
///近い将来、新潟山形南部連絡道路(新山道路)が整備される。米坂線開通と宇津トンネル開通が地域衰退の引き金になった手ノ子地区にとって新山道路は、三度目の地域衰退の原因になるのでは、と心配する。それを乗り越えるインフラ整備など地域振興策が求められる。///
手ノ子を出ると宇津峠に向かう。SLの時代は、全国から鉄道ファンが駆けつけた撮影スポットである。全国的な人口減少時代にあって、地域は厳しい対応を迫られている。けれども手ノ子駅は、建設後5年しか経っていない。宿駅の町の新しい駅である。このまま歴史に埋もれさせるのは悲しすぎる。
『米坂線の今』手ノ子駅の1 モダンな駅舎に思う
『米坂線の今』椿駅の2 跨線橋からの眺め
ホームに出ると跨線橋が現れる。田園風景の中では、唐突に思えるような高さである。今年の1月、ここを訪れた時は、胸の高さまで雪が積もっていた。春になって雪が融けた時に、果たしてレールがあるのだろうか、と思ったものだった。
跨線橋から眺めると、椿駅の大きさがよくわかる。坂町行きの2番ホームには待合室も建っているが、合板で塞がれていた。そしてホームの区間だけが草が生えていないことに気づく。この区間の除草は誰が、どのようにしているのだろうか。
1日何本かは、ここから米坂行の折り返し運転をしていたという。ホームの先には「ようこそ手づくりのまち飯豊/飯豊連峰大日杉登山口/中津川自然休暇村白川ダム」と書かれた大きな看板が立っている。損耗が激しくススキに覆われそうであるが、この駅がまさに町振興の窓口として期待されていたことを象徴しているようだ。
【駅名の面白話】
米坂線の椿駅が開業した当時、五能線にすでに椿駅があったため「羽前椿」と命名された。昭和34年にその駅が八森駅に改称すると、紀勢本線(きのくにせん)の紀伊椿駅が昭和40年に「椿駅」に改称。米坂線の羽前椿駅や長井線の羽前成田駅は「羽前の国」にこだわったのであろうか。
『米坂線の今』椿駅の1 豪邸にくつろぎの空間
羽前椿駅は1931年(昭和6年)8月10日開業、1995年(平成7年)12月に現在の駅舎が完成した。日本家屋の豪邸風である。1985年(昭和60年)に職員無配置駅となり、簡易委託駅となった。現在、飯豊町観光協会が入所して駅業務を行っている。
待合室には囲炉裏風のテーブルがあり、居るだけで楽しい、くつろげるスペースとなっている。「米坂線の歴史」や米坂線の復旧に寄せる作品などが綺麗に展示されていた。その中で目についたのが、1996年(平成8年)2月の駅舎新築祝いの川柳懸額である。
新装の駅舎始発の旅に出る(すみれ)
就職の子から届いた旅行券(草可)
木造りの駅舎旅の途中下車(虚心)
職員が駅に常駐していて、地元の人たちと一緒に活動している駅は、それだけで楽しい雰囲気に包まれるように思う。米坂線の駅の多くはモルタル造りであり、無人駅である。椿駅のように木造の立派な建物でなくても、待合室の中に地元の人たちとの交流の空間があったら、地域の温かな風を感じることができるだろう。小国駅までの旅で、駅の中に刻まれた人々の思いを探してみたいと思う。
『米坂線の今』萩生駅の2 時間が止まった待合室
萩生駅近くには遊具のある広場がある。その広場と駅舎に隣接してトイレと休憩室が整備されている。それはまるで駅舎の離れのように見える佇まいである。駅舎正面には地元酒造会社が庭園を寄贈したことが記された「庭園寄贈」の石碑が建っている。駅前の風情は沿線各駅の中でも随一のものではないだろうか。
待合室に入ると昭和62年(1987年)8月の日付のある川柳の献額が飾られている。昭和62年は国鉄からJR東日本となった年であり、長井線が第3セクターとして存続する事が決定された年でもある。その中に次の句があった。「人形の首が落ちたる廃止駅」。句の作者は今の状況を見たら、どんな句を詠むのだろうか。
その隣には「萩生駅愛護会主催によるJR利用者拡大イベント」の添え書きのある集合写真があった。地元史誌(中ノ目歴史散歩:平成27年刊行)によれば、1966年(昭和41年)の駅待合室の増築を機に萩生、中、黒沢の3区と有志によって「萩生駅後援会」が組織され、その後「萩生駅愛護会」に改称されたという。掲示されている写真は2010年(平成22年)の事業参加者の様子である。同誌には「今後、利用拡大に向けた行動はもちろんのこと、廃止などの話が出ないように沿線住民が何をなすべきか、JRにもっと目を向けていこうではないか。」と記されていた。
待合室を抜けてホームに出たいと思ったが、ホームへの扉には合板が打ち付けられていた。他の駅ではホームに出ることができたのだが、萩生駅ではそれも許されなくなっていた。待合室の中は2010年で時間が止まってしまい、人々の思いもその中に閉じ込められてしまったように思えた。
『米坂線の今』萩生駅の1 駅を守る人が
萩生駅は1931年(昭和6年)8月10日開業。1994年(平成6年)12月に待合所が改修されている。駅の正面には「九里学園」と書かれたフラワーポットが3基。2年前の8月、この駅を訪ねた時にもサルビアの赤い花が咲いていた。今年も酷暑に耐えて花を咲かせていた。2年前の記事はこちらからどうぞ。
ただし2年前と比べると、プランターの損耗が目立って見えた。駅舎の角には「九里学園高等学校」と書かれたジョウロが置かれていた。ホーム側に歩いて行くと、草削り器が落ちていた。プランターの花に水をかけ、除草作業を行っている人がいるのだろう。列車の来ない駅を守ろうとしている人がこの駅にはいるのだ。





