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でんしゃがいっぱい

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 物置を片付けていたら、「でんしゃがいっぱい」という絵本が出てきた。こんな絵本を買っていたのかと思いつつ、ページをめくると山形新幹線の新聞の切り抜きが出てきた。

 

 山形新幹線は平成4年(1922年)7月1日が開業日である。この年は第47回国民体育大会が山形県で開催された年であり、山形新幹線と共に庄内空港も開設されるなど、交通インフラが整備された年でもある。

 

 とりわけシルバーメタリックの山形新幹線(400系)は、「銀の衝撃」と言われるほどに人気があったものである。小学校に入学したばかりの息子は鉄ちゃんではなかったが、新聞記事を絵本に張り付けたものであろう。新幹線を見たい!と思ったのかもしれない。

 

 開業から30余年を経て来月16日、山形新幹線にE8系の車両がデビューするという。子供たちにとって新幹線は、今の時代でも憧れの対象なのであろう。けれどもガタゴト走るローカル線にも愛着を持ち続けて欲しいものだ。

2024.02.16:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

ここから始まった

2月7日

 うれしいも悲しいもここから、ここから始まった。集団就職で友を見送った駅。わんぱく坊主の同級生が偉くなっていたっけ。悲しい知らせに涙流して降りた成田駅。なつかしい、なつかしい。ここから、ここから人生が始まった。間もなく、天国の皆様に会える日も近い。

 

 

【おらだの会】停車場ノートへのこの投稿は2月7日の日付となっている。折しも「駅茶こぼれ話」に、「集団就職」の連載を終了したのと同じ日であった。「くじけちゃならない人生が、あの日、ここから始まった」という「ああ上野駅」の歌詞そのままの人生を生きた人がいたのだ。そんな皆さんにとってこの駅舎でのひと時が、懐かしい友との心安らぐひと時であることを願っている。ああ成田駅!

 

 → 「ふるさと」から「ああ上野駅」へ:おらだの会 (samidare.jp)

2024.02.13:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

長井線写真コンテスト

  • 長井線写真コンテスト

 「大切な人への応援」をテーマにした長井線写真コンテストが開催中である。主催が高校生マーケティングプロジェクトで、2月3日から25日までの応募期間となっている。

 

 同プロジェクトは、事務局となっている山形県置賜総合支庁のHPによると、高校生と地域とのつながりを創出すると共に地域の魅力や価値を発信していくための取組みとして実践するもので、今年度は長井線の新たな客層開拓をテーマに実施するとのことである。

 

 大人、高校生、子どもの3部門があり、賞品もラーメン無料クーポンやもっちぃグッズの詰合せなどユニークなものとなっている。長井線を被写体として。大切な人に向けてどんな応援メッセージが表現されるのだろうか。楽しみにしたいと思う。

2024.02.10:orada3:コメント(0):[イベント情報]

「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

  • 「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

 大正から平成まで歌をとおして辿って来た。最後に白鷹町の荒砥中学校卒業生(荒十会)の同窓会誌に「集団就職列車に同行して」と題する投稿が掲載されていたので紹介したい。「集団就職」という言葉自体が消え去ろうとする現代にあって、社会の大きなうねりの中で、生徒たちと寄り添い続けた教師の姿を伝えたいと思うからである。

 

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 私は3学年の副担任として就職係を担当することになった。当時の卒業生の進路は進学、就職、自家自営がそれぞれ約3分の1くらいの割合であった。就職希望者には相談表に記入してもらい、適性検査なども実施していた。職業安定所から来たパンフレットを廊下に張り出し、それから選んでもらい、職業安定所の職員が来校し、個人面接をして決めていた。

 

 集団就職が始まったのは昭和27年(1952年)、28年(1953年)頃からで、就職列車が出るのは3月29日から30日頃だった。午前7時頃、長井駅に西置賜安定所管内の卒業生が集まり、赤湯へ向かった。長井駅ではものすごい人混みで、各校ごと校歌を歌い、長井中学などは吹奏楽を演奏して激励し送り出した。それぞれの学校の就職係が付き添い、私も担当として同行した。

 

 夜行で上野駅に朝5時ごろ到着する。上野駅には管轄の安定所ごとに幟を立てて出迎えた。駅の近くの広場で引渡しが行われたが、何といってもまだ15歳。引き取られていく生徒を見るのは辛く、もごさい(可哀そうな)ものだった。その後私たち就職係は、自校生徒の就職先を訪問した。1週間くらいはかかったと思う。中には、「すぐに帰りたい」と言い出す者もいた。住宅の一部に看板を掛けただけのような規模の小さい縫製会社などがいっぱいあった。求人票で見て考えていたイメージと違うということもあったと思う。

 

 S君は食糧組合に入ったかと思う。彼はまだまだ子供っぽさが残っており、果たして務まるかなと心配した。しかしコメの配達の仕事をして、得意先から大変めんご(可愛)がられて駄賃などをよくもらったのだという。そして米屋さんの養子に迎えられ、大変成功したと聞く。関東での同級会に私も呼ばれて出席した時、立派な社長の風格で、よく我慢して頑張ったんだなぁと思ったものだ。

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 これを読んで、中学時代の恩師の顔を想い出した。同級会で教え子の現況報告をニコニコしながら聞いてくれたものだった。先生が亡くなったとき、先生に一番叱られた友達が弔辞を読んだ。最後の「先生ありがとう」の言葉は泣き声だった。

 仰げば尊しわが師の恩。互いに睦し日頃の恩、別るる後にもやよ忘るな。「ああ上野駅」から「仰げば尊し」に漂着してしまったが、それぞれの心の故郷の中には、恩師と友との想い出があるのだと思う。

 

 

【おらだの会】写真は、荒砥中学校卒業生(荒十会)同窓会記念誌から転載。

 

2024.02.07:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

「ふるさと」から「ああ上野駅」へ

  • 「ふるさと」から「ああ上野駅」へ

 「ふるさと」から50年後の1964年(昭和39年)に、「ああ上野駅」が発表された。「サライ」の約30年前である。この時代は明治期から続く地方からの人口流出の流れが、「就職列車」という形で、国家的な掛け声のもとに進められた時代である。この歌には当時の社会情勢が強く反映されていると思う。

 

 この歌では、ふるさとに残る父母とは、「休みになったら畑仕事を手伝い、もういいと言うまで肩をもんでやるからな」という密接な関係が残っている。そして、「お店の仕事は辛いけど胸にゃデッカイ夢がある」という具体的な夢が表現されている。それは、「ふるさと」では明確に意識されずに、「サライ」では消えてしまっているものである。国民が共通して持てるような“夢”がなくなったことを示すものであろうか。

 

 ドキュメンタリー番組などでは、集団就職の辛い別れの様子が流れるが、歌い手の井沢八郎の声は明るく張りがあり、その表情には悲しさや辛さを感じなかったように思う。それは、高度経済成長へとつながる日本全体の明るさを背景にしたものであったろうか。いづれにしても私たちの駅に対する原体験や原風景も、「ああ上野駅」にあるように思えるのだ。

 

【おらだの会】写真は、上野駅広小路口にあるモニュメントだそうだが、残念ながらまだ見たことがない。

 → 停車場憧憬 集団就職の頃:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 → (53)就職列車で(昭和30年代から):おらだの会 (samidare.jp)

2024.02.04:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]