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長井線を走った蒸気機関車(1)

  • 長井線を走った蒸気機関車(1)

 7月12日(金)から「長井線を走った蒸気機関車」展を開催します。蒸気機関車(SL)は、今でも根強い人気があります。おらだの会ではこれまで、「軽便鉄道あれこれ」や「成田駅100年物語」などで随時取り上げてきましたが、今回改めて蒸気機関車の昔と今をまとめて紹介していきます。写真展と共にお楽しみください。

 

 なお今回のポスターは地元の写真愛好家・故小笠原弘さんの作品をお借りして作成させていただきました。7年前に行われた小笠原さん夫妻の写真展の記事はこちらからどうぞ。

 

 → 明日が最終日:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

長井線を走った蒸気機関車(2) 600型機関車

  • 長井線を走った蒸気機関車(2) 600型機関車

 長井線は大正2年に赤湯から梨郷駅までが開通し、その翌年は長井まで。さらに9年後に荒砥まで全線開通した。それぞれの町で開通記念ハガキなどが制作され、当時の様子が記録されているが、機関車が写っているものは少ない。そんな中で宮内町が制作した記念カードには、梨郷と宮内停車場を走る機関車の姿が見える貴重なものであるが、残念ながらその姿を正確に把握することは難しい。

 → 宮内駅開業記念カードその2:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

 

 そしてようやく「開通当時の長井線機関車」と題する写真に巡り合うことができた。それが白鷹町史(昭和52年発行)に掲載されていた上の写真である。鉄道に詳しい方のお話では600型と呼ばれる機関車で、イギリスのナスミス・ウイルソン社製で、1887年(明治20年)から1904年(明治37年)までに78両が輸入され、日本各地で主力機関車として活躍したそうである。

 

 この写真を見ると、地元の詩人であり教育者でもあった芳賀秀次郎さんが書いた「わがうちなる長井線」の一文を想い起こす。

 「その頃の汽車は、いかにも小さな箱型で、ぼくらはこれをマッチ箱と呼んでいた。これには本線を走っている立派なボギー車との比較による、やや軽侮の感じもないわけではなかった。しかし、このマッチ箱という呼名には、もっと素朴であたたかい親愛の気持ちがこめられていた。」

 

 列車を眺める子どもの姿は、フラワー長井線となった今でも見かけることができる。昔も今も、列車は子供たちにとっては心弾むものであり、マッチ箱のような車両に深い親愛の気持ちを込めて手を振っているのだろう。車掌さんが笑顔で応えてくれる姿も変わらぬものであろう。

 

 → わがうちなる長井線 その2:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

 → 長井線を走っていた機関車は:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

長井線を走った蒸気機関車(3) 当時の客車もマッチ箱

  • 長井線を走った蒸気機関車(3) 当時の客車もマッチ箱

 長井市史第3巻(昭和年版)には、当時の客車について次のように記述されています。軽便鉄道は・・・機関車も車両も小型のものであった。乗客用の車両は、俗にマッチ箱といわれたもので、乗客用の腰掛けは向かい合わせに横に区切って作られており、その区切りごとにドアがついていたから、発車停車の際は車掌がいちいちドアのカギを外したり掛けたりした。乗降口は、腰掛の数だけあった。本線を走る汽車がボギー貫通式になっているのに、軽鉄はマッチ箱列車と煙突の長い豆機関車であった・・。(第3巻 P566)

 

  マッチ箱と呼ばれていた客車の映像を探しあぐねていましたが、ようやく京都にある加悦sl広場に同じ形式と思われる車両(ハ4995)が保存されていることを知りました。上の写真は、広場を運営している宮津海陸運輸㈱の方から提供いただいたものです。

 軽便鉄道の象徴ともいわれる側面乗降式客車(旧式4輪車)は、一名マッチ箱とも蔑称されていたが、長井線にも本線並みのボギー車が運転されることになった。それは昭和5年10月1日のことである。(第3巻 P570) 

 

→ 当時の客車はマッチ箱!?:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

長井線を走った蒸気機関車(4) 最後の旅客牽引車86型

  • 長井線を走った蒸気機関車(4) 最後の旅客牽引車86型

 今、長井市内の各所に長井市市制施行70周年を祝う幟が建てられている。70年前の昭和29年11月15日に長井町、長井村など1町5か村が合併して長井市が誕生したのである。そしてこの日は、長井線の旅客列車がディーゼルカーに代わった日でもある。長井市史第4巻(昭和60年発行)には「煙から解放された」とあるが、当時の市民の率直な感想であろうか。

 

 長井市誕生に沸き立つ陰で68691号車はひっそりと退役したのではないだろうか。96型が「さよなら列車」として盛大に見送られたのに比べると雲泥の差のようにも思える。上の写真は、長井市職員として長井線問題を担当し、退職後も羽前成田駅協力会事務局長を永く務められた小口昭氏が「長井線の今・昔」に掲載しているものである。この1枚の写真が、68691号をもう一度私たちの前に登場させてくれることになるのでした。

 

 → (19)旅客列車が気動車に:おらだの会 (samidare.jp)

長井線を走った蒸気機関車(5) 最後の86型との再会

  • 長井線を走った蒸気機関車(5) 最後の86型との再会

 駅茶においでになった友人から大変なことを教えてもらった。山形市十日町の第2公園に展示されている機関車は長井線を走った機関車だ、というのである。しかもその写真が「長井線の今・昔」という冊子に出ているというのである。友人から送られた写真を見ると、確かに同じ68691号のプレートであることが確認できた。

 

 鬼滅の刃の無限列車が86型をモデルにしていて、同型車が山形市内に展示されていることは地元紙で紹介されていたが、まさかその機関車が長井線で客車を最後に牽引していたとは驚きである。小口氏が「長井線の今・昔」を残さなかったら、そして鉄道に詳しい友人との交流がなかったら、68691号との再会はなかったであろう。市制施行70周年にあたる今年、この記事を書いているのも、なんとも不思議な思いである。

 

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 → 鬼滅のSLは96の前任車:おらだの会 (samidare.jp)

 → (30)最後の86型も生きていた:おらだの会 (samidare.jp)