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第17話 蚕は死して名を残す その1 (蚕桑駅)

  • 第17話 蚕は死して名を残す その1 (蚕桑駅)

 白兎駅から5分ほどすると蚕桑駅が見えて来る。蚕桑村は高玉村、横田尻村、山口村が合併して明治22年(1889年)に誕生した。合併にあたって多くの村が大きな町村名や地勢的な特徴を名前に付けたのに対して、蚕桑村は村の繁栄を養蚕業にかけるとして名付けたといわれる。明治30年10月27日の米澤新聞に、「西郡の長井町の有志者また宮内町の有力者と連合し、長井町より今泉を経て宮内町を通過し赤湯停車場に出でんとする計画ありという。」との記事が掲載されている。この当時の地域産業は養蚕と製糸業であり、長井線を実現できたのもこの産業基盤があったからであろう。蚕桑村は長井町や宮内町と比べて資本力はなかったかもしれないが、技術的な中核を担っていたのではないかと思えるのである。今、蚕桑村の当時の面影を伝えるのは蚕桑駅の南端にある「枝垂桑」の古木だけかもしれない。けれども村の名前にその名を残した。虎は死して皮を残し、蚕は死して名を残す。かなり長くなりますが、蚕桑村の200年の物語を読んでみてください。

 

 上杉藩の時代の天保3年(1832年)に書かれた「背曝(せなかあぶり)」によると下長井通り(今の長井市寺泉から草岡以北北鮎貝の辺りまで)は青苧や漆等の奨励作物ではなく、皆桑畑にしたという。当時の反当り収益で養蚕が田の2倍以上あったというのである。しかも蚕桑地区一帯は、川原前と呼ばれる砂地で風通しがよく人家からも離れていたのでハエの幼虫(ウジ虫)の害がなかったのである。ウジ虫は蛹のまま人家の屋敷周辺で越冬し、4令から5令頃食べさせる桑に産卵し、桑を通して蚕の体内に侵入する恐るべき害虫である。川原前の桑には立地条件からウジ虫の害が少なく歩桑(ブグワ)と呼ばれて普通桑よりも高価に取引されたのである。蚕桑地区は蚕種と養蚕の2本の柱をもって継続的に発展してきたのである。

 

 慶応2年(1866年)、武州血洗島の渋沢惣五郎という人が長井町横山孫助氏方に来て、田尻方面の蚕種が極めて良好との評価をして各地に販売してから、蚕種製造の本場として知られるようになったのである。渋沢氏から販売の依頼を受けた丸川儀兵エは明治4年、横浜に出張しイタリア人と面接し黄金種の品種製造を依頼されるなど、国際的なレベルの蚕種技術者と評価されている。さらに翌5年にはイタリア人デロロー氏が来朝し、渋沢氏に伴われ丸川氏宅を訪れ高玉、荒砥、五十川、長井の各蚕種製造所を視察している。まさに蚕種技術の最先端の地ではあるまいか。

 

 

【おらだの会】本稿は「白鷹町史(下巻)」、「蚕桑の郷土誌」を参考にしています。

       30年前の蚕桑駅はこちらからどうぞ

        → 30年前の蚕桑駅 ①:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

第16話 フラワー流“旅”の楽しみ方を (白兎駅)

  • 第16話 フラワー流“旅”の楽しみ方を (白兎駅)

 羽前成田駅を出ると約2キロにわたってまっすぐに北上し、ウサギの耳が描かれた可愛らしい待合室のある白兎駅に到着する。ホームに降りると西に葉山の山並みが連なり、田甫が山のふもとまで続いている。鉄道写真家 中井精也さんがフラワー長井線を「里山の風景の中をゆく鉄道の原風景を味わえる貴重な路線」と評しているが、その代表的なスポットがこの場所である。葉山は朝には朝陽を受け、夕には光輪をまとう。季節ごとに装いを変え、白兎伝説を生んだ荘厳な山容である。

 

 長井が生んだ彫刻家長沼孝三氏は、「長井の心」と題する文章で葉山を背景とする長井の風景を「世界の宝」であると称え、人間形成にとって理想的な環境であるという。以前、高校生と話す機会があって、ふるさとで一番好きな風景を訊ねたとき、「列車から眺めた葉山」との答えが返ってきた。人間形成の基礎である子供時代、思春期の時代を過ごした土地、ふるさとはどんな人にとっても格別な意味を持つものであろう。

 

 駅ノート作家の一人は、「この風景に会いにきました。会いたい風景にやっと会えました」と書いていた。自然景観への共鳴はそこに住む人だけのものではないようである。旅に出る動機や目的は人それぞれであるが、初めての土地で無人駅に降り立ち、山並みを眺めながら、心に移り行くよしなしごとを心に刻んでみるのも旅の楽しみではないだろうか。

 

 葉山神社と白兎の伝説はこちらから

   → 葉山神社 | 白兎(しろうさぎ) | 致芳ふるさとめぐり | 長井市致芳コミュニティセンター (chihou-cc.org)

 

 

 駅ノート作家の投稿はこちらから

  → この風景に会いに来ました:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【おらだの会】写真は山形鉄道㈱提供。

第15話 逢いたい人に逢えそうな場所  (羽前成田駅)

  • 第15話 逢いたい人に逢えそうな場所  (羽前成田駅)

 羽前成田駅は、長井線が長井駅から鮎貝駅まで延伸開通した大正11年(1922年)に開業しました。洒落た半切妻のポーチが乗降客を迎える洋風基調の駅舎です。構内カウンターを支える持ち送りには幾何学的な意匠、荷物受付窓口の腰板は一枚板の掘り込み、屋根の破風板端部にも装飾的な彫りが施され、大正期からの鉄道の歴史を伝える貴重な建築と言われています。平成27年(2015年)8月4日、駅本屋が西大塚駅と共に登録有形文化財に登録されました。

 

 

 若い二人連れが、駅舎のあちこちをカメラに収めている。女の子が待合室の囲炉裏を眺めながら、「懐かしいねぇ。逢いたい人に逢えそうな場所だね。」と言った。相方も笑顔で頷いている。

 

 この駅に母と訪れたのは3年前の8月。西山の麓にある母の実家に誰も住まなくなって、お墓を東京に移す準備に来たのだった。お寺さんと親戚に挨拶をして、帰りの列車を待っていた。防雪林の間から爽やかに風がそよぎ、風鈴の音色も涼やかだった。

 

 母は問われるともなく語り始めたものでした。「この駅から高校に通ったんだ」、「就職するときには、ここでみんなに見送ってもらったものだ」。「お正月に帰った時は、お父さんがここまで迎えに来てくれた。車の中では何から話したらいいか悩んだもんだよ。」と。私はその時、故郷の家やお墓を棄てなければならない母にとって、この駅が昔のままに残っていてくれて本当によかったなと思ったものでした。

 

 今日は一人でこの駅を訪れ、母と過ごした時間を想い出している。あの時と同じ景色を眺めながら、母の人生に思いを馳せています。ここは私と母の想い出の場所、そして逢いたい人に逢える場所だと思うのです。想い出の場所を守っていてくれてありがとうございます。

第14話 学び舎と駅舎と (あやめ公園駅)

  • 第14話 学び舎と駅舎と (あやめ公園駅)

 あやめ公園駅は、平成14年(2002年)6月に長井工業高校の生徒とPTAの要望に応えて、市民団体の募金活動による寄付金で開業した駅です。待合室は内外装すべて同校の生徒をはじめとして学校職員、PTA、OB等の手作りにより建設されました。長井工業高校は、「長工生よ地域を潤す源流となれ」をモットーに、有為の若者を輩出し、地域産業を支えてきた学校です。

 同校にはかつて、昼間部の他に夜間部があり、私の叔父さんも夜間部の定時制に通った一人でした。昭和30年代から日本は高度経済成長に突入し、地方の次男、三男は集団就職列車に乗って郷里を離れていきました。家に残った長男は家業を継ぐか、工場で働くことになる。その頃は給料も安く生活は苦しかった。家計を助け貧しさから脱却するためには資格を取る必要があった。けれども高校を卒業していないとその試験を受けることもできなかった。朝8時から夕方5時まで工場で働き、6時から夜の10時まで高校の授業を受けた。家にはほとんど眠るために帰ったようなものだったそうです。4年間の課程を終えて卒業証書を社長に見せた時、「頑張ったな。おめでとう」と何度も肩を叩いてくれた。あの時のうれしさは、今でもはっきりと覚えているという。

 その定時制課程も昭和57年(1982年)3月で、20年の歴史に幕を閉じることになりました。その時の後援会長は吉田製作所㈱社長の吉田功さんだった。会長自身も定時制課程の卒業生でした。会長は、最後の式典に坂本九さんに来てもらいたくて電話をしたそうだ。当時、坂本九さんは「見上げてごらん夜の星を」を歌い、同名の映画では夜学生を演じていたのである。定時制課程に通う生徒たちは、夜空を見上げてはこの歌に励まされたそうだ。そんな思いを知る会長は、最後の卒業生8人を励ます会にぜひ来て欲しいとお願いしたのです。この申し出に九ちゃんは、ノーギャラでOKしてくれました。前の晩、上山のホテルで打ち合わせをした際に、九ちゃんの様々な苦労話を聞いたそうです。「今回はよく頑張って私を呼んでくれましたね。」と慰労された時は、実行委員一同思わずうれし泣きしたそうです。会長さんは、今度はちゃんとギャラを払って九ちゃんを呼びたいと心に決めたそうです。でも、3年後の昭和60年(1985年)8月12日、九ちゃんは日航機墜落事故で亡くなったのでした。

 

 その後、校舎の老朽化などを背景に同校の廃校が検討課題に上がります。その際も卒業生や地元企業者が中心になって同盟会を結成して、学校の存続と校舎の建て替えを実現したのでした。それは平成14年、あやめ公園駅が開業したと同じ年のことです。この駅には、長井のものづくに情熱を注いだ、人情味豊かな人々の思いが込められているように思う。

 

 

【おらだの会】写真提供:山形鉄道㈱

第13話 ある運転手のこと その2(夕暮の長井駅)

  • 第13話 ある運転手のこと その2(夕暮の長井駅)

 山形鉄道開業30周年となった平成30年の1月のこと、2週間にわたって雪が降り続いた。除雪車は午後10時頃に長井駅を出発し、翌朝4時半頃までの作業となる。6時の一番列車に間に合わせなければならないのである。除雪車には監督者と運転手と装置操作員2名が乗り込んでの作業となるのであるが、2月3日、修一は監督者として乗り込んでいた。30年間働き続けたラッセル車が梨郷駅の手前でついにダウンした。以来、列車は2週間にわたって運休となった。その間はバス代行をしたが、各学校付近の道路は交通渋滞を引き起こした。やがてJRの応援ラッセル車に応援してもらい、ようやく復旧することができたのである。この間、社員は全員殆んど不眠不休、独身社員は会社に泊まり込みの毎日であった。そんな時、列車を利用していた高校生から「応援メッセージ」をもらった。嬉しかった。けれども、氷となった雪の塊に幾度となくツルハシを振り落とすときに、涙が出てきてしょうがなかった。老いぼれの除雪車に思わず「ごめんな」と謝っていた。

 

 次の冬は、雪が少なくてほっとした。けれども、あの年のような豪雪はいつ起こるかもしれないものだ。上下分離方式と言われるが、列車や線路だけでなく、ラッセル車も、信号システムも更新しなければならない時期になっているのだ。冬を前にしての整備作業の度に、何度となく「今年までもってくれるか?」と語りかけるのであった。

 

 ここで働いた年月を総括するには時間がかかるだろう。若い社員に何も語るものはないが、この会社で働きたいと思ったその気持ちだけは忘れて欲しくないと思う。毎朝、列車に手を振ってくれた子供たち。各駅で花を育ててくれた人たち。そして朝に夕に運転席から眺めた葉山の姿が目に浮かんできた。優しい発車音を残しながら、列車がホームを離れていく。修一はそっとつぶやいた。「ありがとうYR」