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第9話 政争の駅 その1(今泉駅)

  • 第9話 政争の駅 その1(今泉駅)

 西大塚駅を出てしばらくすると今泉駅に到着する。宮脇俊三が玉音放送を聞いたことで有名な駅である。かつてこのホームにはキオスクの売店があった。また転車台の跡も残っている。長井線と米坂線は、ここから2キロほど線路を共有した後に旧白川信号場で分岐するが、そこまでが今泉駅の構内扱いとなっている。マニア垂涎のこの区間には、この地方の壮大な政治ドラマがあったのでした。

 

 「長井の奴らはけしからん。人が事情を尽くして協力を要請した事には一顧も与えず、自分の都合の良いことは図々しく訴えて来る。面を洗って出直して来い。」。小林源蔵代議士は、長井町の陳情団に怒声を上げた。事の発端は、大正8年の暮れも押し迫った頃、鉄道敷設法の改正案が新聞に公表されたことにある。すなわち今後12年以内に建設する第一期予定線に、羽越横断鉄道(現米坂線)のうち「今泉坂町線」を指定することが提案されたのである。羽越横断鉄道は明治28年に公布された鉄道敷設法に予定路線に指定されていたのだが、今日まで着工されずに地元の待望久しかったものであった。しかしながらこの報道によって置賜には二つの憤りが生まれることになった。長井町では「起点は長井にすべきだ」との憤懣であり、米沢市では「米沢からの直接線でないのか」という不満である。

 

 もともと横断線は、坂町から小国、中津川を通って米沢に至るルートを予定していた。しかしその後、小松町からの猛運動が展開された結果、小国~手ノ子~小松~米沢となったのである。鉄道省が鉄道会議に提出した案では、米沢坂町線を第一期予定線に昇格させるものであったが、すでに長井線が建設されていたことから二つの路線が並走することとなるため、鉄道会議では今泉・坂町間だけを承認することとなったのである。鉄道省出身で明治45年から衆議院議員となった小林代議士は、鉄道省関係に大きな影響力を持っており、長井線の実現にも貢献した人物であった。しかし地元の米坂線ではそれが認められず、その憤懣を長井町の陳情団にぶつけることになったのであった。

第8話 日直室のキリスト画 その2(西大塚駅)

  • 第8話 日直室のキリスト画 その2(西大塚駅)

 やがてUさんにも召集令状が届きました。入営の前日、駅に顔を見せたUさんは、私に一枚の絵を渡してこう言いました。「私が戦地から帰って来るまでこれを預かってくれないだろうか。もし無事に帰って来たその時は・・・・。今から母と親戚で最後の晩餐です。明日は宜しくお願いします。」と。そしていつもの柔和な笑顔を残して帰って行ったのでした。私は「どうかご無事で」と言うのが精一杯でした。

 

 翌日、いつもと同じように壮行の儀式が始まりました。Uさんの家では、昨夜はどんな会話が交わされたのでしょうか。Uさんは最後までお袋さんと目を合わせることはせず、遠くの空に視線を向けていました。そしてひと際大きな汽笛と長い黒煙を吐き出して、列車はホームを出て行ったのでした。

 

 戦況は刻々と悪化の一途をたどっていきました。奥羽線で働いていた友人からは、兵隊を移動させる軍臨(軍用臨時列車)に初めて乗務した時は、客車の窓は鎧戸が全部降ろされ、兵士の姿が全く見えないようになっていて、みだりに会話することも許されなかったと教えられました。また車掌として乗務していた時に空襲に合い、機銃掃射に遭遇したとも聞きました。戦争の恐怖が身近に迫っていました。この地に居て「死の恐怖」と戦うことが、遠く離れた人を思うことにつながるような気がしたものです。

 

 やがて終戦となり兵隊さんが戦地から帰って来ました。私は駅長の許しを得て、受け取ったキリストの肖像画を日直室に飾りました。そして毎朝、祈りを捧げるのが日課となっていました。けれども、Uさんが帰って来ることはありませんでした。しばらくして私は縁あってこの町を離れることになりました。十数年ぶりで訪れた駅舎は、昔のままの姿で迎えてくれました。ガラス窓の向こうに、Uさんや共に働いていた仲間の姿が蘇ってきました。優しい笑顔のキリスト画を想い出しながら、あの時代、私たちは確かにここで生きていたんだと思うのでした。

 

 

【おらだの会】 「兵隊さんの汽車~幻の戦時童謡」はこちらからどうぞ

  → 汽車ポッポの歌:おらだの会 (samidare.jp)

第8話 日直室のキリスト画 その1(西大塚駅)

  • 第8話 日直室のキリスト画 その1(西大塚駅)

 梨郷駅を出てしばらくすると置賜盆地の北のヘリにあたる山林を右手に、左手には国道113号線が並走し、その先には最上川に架かる幸来橋が見えて来る。昔の街道との踏切を幾つか超えて、最上川に飛び込むように松川橋梁を滑走して行く。眼下には煉瓦積みの橋脚と最上川が見えて来る。ここは長井線の最大の撮影ポイントでもある。

 やがて西大塚駅に到着した。沿線で一番古い大正3年(1914年)建設のこの駅舎は、羽前成田駅と共に平成27(2015年)年に国の登録有形文化財に認定されている。両駅の細部を比較すると、マニアックな楽しみを味わうことができる。特に西大塚駅では車寄せ上部の漆喰意匠と正面に掛けられている木製梯子、そして待合室のベンチの支柱をじっくりと見てもらいたい。さて、見どころ満載の西大塚駅ですが、とても不思議なものがあります。それは宿直室に掲げられているキリストの肖像画です。特別な時以外は見ることができないこの肖像画に隠された物語を紹介しましょう。

 

 昭和12年(1937年)7月、支那事変勃発と同時に、この駅からも毎日のように出征兵士が送られるようになりました。小学校の全校生徒は駅のホームで日の丸の小旗を持ち、兵隊さんを「万歳、万歳」と送るのです。大西洋戦争が激化した昭和18年頃には、鉄道職員の男性も戦争に召集され、女性が国鉄職員として働くことになりました。私が配属された西大塚駅には駅長さんと駅長代理のUさん、一緒に採用されたMさんの4人が働いていました。Uさんは私とMさんの指導係も担当していましたが、私はUさんの優しさに次第に好意を持つようになっていました。

 

 

【おらだの会】 西大塚駅の魅力はこちらがお薦めです。

 → 待合室 ベンチの美脚:おらだの会 (samidare.jp)

第7話 「あっ、ばあちゃんだ」(梨郷駅にて)

  • 第7話 「あっ、ばあちゃんだ」(梨郷駅にて)

 車内アナウンスが次の駅が梨郷駅であると伝えている。梨郷駅は、鉄道娘の「鮎貝りんご」の名前の由来になった駅です。大正2年(1913年)10月26日の長井線開業当初は終着駅でした。当時は島式ホーム1面2線を有していましたが、駅舎側の1線が撤去されて埋め立てられ、現在は入線前の大きなカーブが名残として残っています。現在の駅舎は平成11年(1999年)に、 南陽市が新たにログハウス風の待合所として建て直したものです。それはまるで女の子が花を摘みながら駆けあがってくるような趣がある駅です。

 

 

 幼い頃の私は、おばあちゃんの手を引っ張って、この駅のホームに出かけて列車を見送るのを楽しみにしていたものです。坂を上ってホームに上がると、そこにはいつも爽やかな風が吹いていました。そしてどこまでも続く二本のレールは、私を夢の世界へと誘うようでした。高校に出かける近所のお姉さん達に「バイバーイ」「行ってらっしゃ~い」などと声をかけると、お姉さん方は笑いながら手を振り、顔なじみとなった運転手さんも苦笑いを浮かべていました。

 

 やがて高校生となった私は三年間の汽車通学を終えて、東京の大学に進学し、就職したのでした。年に何度かの帰省の時も、線路跡に植えられた桜並木の奥に、ログハウス風の駅舎が見えて来る瞬間が大好きだった。迎えに来てくれたばあちゃんを見つけて、その胸に飛びつきたい思いが込み上げてきたものだ。その時の思いは、今でもはっきりと蘇って来る。

 

 窓から進行方向を見ていた二歳の娘が叫んだ。「あ、ばあちゃんだ」。ドアが開き、娘はばあちゃんのもとに駆けていく。ばあちゃんとなった母は、腰をかがめて孫を迎えている。東京の人と結婚することを報告した時、「お前が幸せになってくれれば、それで良いのだ。おめでとう。」と言ってくれた母。私ができた唯一の親孝行は、孫の顔を見せてあげられたことだろうか。母と手を繋いで坂を下りていく娘。あれはあの日の私なのだと思った。

 

 

【おらだの会】梨郷駅からの車窓風景もぜひお楽しみください

 → 長井線リポート(24) 不思議に感動できる場所:おらだの会 (samidare.jp)

第6話 落語列車「鶴の恩返し?」(おりはた駅)

  • 第6話 落語列車「鶴の恩返し?」(おりはた駅)

 この地域は古くから養蚕や製糸産業が盛んで、駅から徒歩8分の場所には「鶴の恩返し」の伝説が伝わる鶴布山珍蔵寺がある。珍蔵寺には鶴の羽で織った織物を寺の宝物にしたと伝えられ、梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれている。また地区には、「鶴の恩返し」伝説が書かれた江戸時代の古文書が残されているが、文書で残っているものとしては、日本で最も古いものだという。さて、山形鉄道に落語の得意な車掌さんがおられまして、「落語列車」を楽しんだことがあります。「鶴の恩返し」ならぬ「鶴の恩返し?」の一席をお楽しみください。

 

 昔々のこと、鶴を助けた若者がじぃさまになって、また罠に掛かっている鶴を助けたそうだ。じぃさまは助けた鶴を家に連れ帰り、休ませたそうな。やけに静かなので障子を開けてみると、もぬけの殻で、家財道具一切がなくなっていたけど。じぃさまは鶴だと思っていたげんど、鶴に変装したサギだったそうだ。これに懲りずにじぃさま、また鶴を助け、家に連れて帰ったけど。妙にその鶴が気に掛かったので、障子の隙間から覗いていると、屋根伝いにピョンピョン走って逃げて行ったど。じぃさまは鶴だと思っていたけんど、鶴の皮を被ったトビだったんだど。これが最後だと、じぃさまは、また鶴を助けて家に連れて帰ったんだど。隣りの部屋がやけに騒々しいので、障子を開けて見でみっちど、箪笥や火鉢をドンドン運び出してんなだど。じぃさまは鶴だと思っていたげんど、鶴のマークに憧れていたペリカンだったんだど。

会場は、笑いの渦かと思いましたが、皆さん妙に白けている。これが本当の「シラサギ」だった、なぁ~んちゃって。お後が宜しいようで。

 

 さて山形鉄道の車掌さんは、方言ガイドを始め様々な特技を持っているが、その一人に演劇が好きな車掌さんがいた。彼の夢は列車の中で演劇をやることだった。熊野大社の三羽のうちの一羽が脱走して列車に乗り込んでドタバタ劇を繰り返しながら白兎駅で降りて、葉山の峯に昇るストーリーなんだ、と笑いながら話してくれた。列車は、社員の夢も運んでいたのだろう。彼は若くして旅立たれたが、「演劇列車」の題名だけでも聞いておけばよかったと思う。

 

 

【おらだの会】駅舎は、昨年、地元の方々の手によってリニューアルされました。駅舎の中には子供たちが描いた絵も飾られています。