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第13話 ある運転士のこと その1(夕暮の長井駅)

  • 第13話 ある運転士のこと その1(夕暮の長井駅)

 列車は恋人たちの聖地にもなっているハート形の桜を見ながら、長井駅に到着した。ホームの西側には地元の児童生徒が書いた長大壁画がある。女性の子宮から最上川が流れ、あやめ公園や黒獅子舞を楽しみ、ついにはペンギンが飛ぶ南極に到着するという壮大な壁画である。この壮大さは、大阪万博に岡本太郎が創った「生命の起源」に匹敵するものではないか。また、現在は市役所の新築のために解体されたが、元の長井駅は昭和11年(1936年)3月29日に改築されたもので、東北の駅百選にも選定されたものである。線路の西側には防雪林があり、その樹間から差し込む夕陽は何とも言えない程に美しいものだった。

 

 

 今日が最後の勤務となる谷川修一は本社の窓辺に立ってホームを眺めていた。家の近くを長井線が走り、小さいころから鉄道大好き人間であった修一は、高校を卒業すると山形鉄道に入社した。最初は車掌業務をしながら、運転士の人と一緒に列車の整備、点検作業を勉強した。運転士が整備士を兼ねるのは東北のローカル線でも長井線ぐらいのものだ。冬は運行を終えた車両の雪を取り除く作業。気温は氷点下、温水も凍る。作業を終えるのが午前0時なんてこともざらだった。

 

 工務の仕事も教えられた。工務というのは全くの黒子である。春は、駅構内に散乱した杉葉の処理から始まる。列車がブレーキを掛けた時の火花で発火することがあるからである。夏は草刈作業とレールの確認作業である。レールが波打つほどの炎天下での作業はとても厳しいものだった。入社間もない頃で一番記憶に残っているのは、「花いっぱい運動」と称して蚕桑駅に桜の木を植えたことであった。国鉄OBやJRからの出向者、そして山鉄職員の有志が集っての活動であった。平成5年頃に三者の確執が表面化し、社長に嘆願書を出したという話を聞いていた修一にとっては、こうして一緒に汗を掛けることが嬉しかったし、地元の人と付き合えることも楽しかったものだ。地域の鉄道会社のあるべき姿を教えられたように思う。

第12話 汽車がかかったぞ~(長井駅)

  • 第12話 汽車がかかったぞ~(長井駅)

 今まで長井から赤湯まで、長井から荒砥まで客馬車が通って、人々を運んでた時代。長井町といったて、本当にまだまだ小っちゃな町で、汽車がかかった停車場の前あたりは家がぱらぱら。道の北側あたりは田んぼで、11月半ばは既に稲刈りも終わり、いなし株から二番ぼけの稲が青く延びている。大正3年11月15日、初めて汽車がかかった。

 朝早くから、のろしがどどんどどんと鳴り渡り、昼間は仮装行列、夜は提灯行列といろんな催しがあってお祝が盛大に繰り広げられた。町の人も在郷の人も、初めてかかる汽車に『ほんとにかかんなべが、誰でも乗られんなだべが』などと、たんとたまげで停車場前後にいっぱいの人が我先にと集まってきた。町長、校長、村長、町会議員、局長、無尽、銀行支店長、工場長、在郷軍人、巡査、消防団長などいろんな肩書きのある主だった人が、紋付き羽織袴でお祝いに呼ばれて、祝辞が次々と述べられて、町はお祝い一色でごったがえしだった。

 

 まっちゃど源次は、2里もとがーい山の下がら、「汽車なて、話に聞いたごどあっけんども、見だごどないがら、いってみんべぇ」と朝早く飛び起き、やげめしを腰っ骨さゆっつげで、わらじ履きで出掛けてきた。停車場付近は黒山の人だかり、2本の鉄の線がずっと向こうまで続き、黒くて大っけな物が少しづつ近づく。

 源次はたまげで「まっちゃ、早ぐ見ろ、見ろ。もみどが歩いで来たでないがえ」と言うど、側にいた年上の寅次郎が「軍艦が陸さ上がって来たでないべが」と言った。黒くて高い煙突から、ぽっぽっと、けぶを出してだんだん近寄って来る。流石のまっちゃも、ぶったまげでしまった。すると源次が、「こんがえに大っけなもみど、むじしぇっとぎ、なじょしんなだべ。」「あんまりおもだくて、ししゃましんなだべなえ」とまっちゃに聞いたが、まっちゃもなんぼ考えでも、なじょしんなだがわかんねがった。

 人々の万歳の声が、いつまでも続いた。「人力車と汽車なて、俺らんだの乗り物でないべなえ」と源次が情けなさそうに言うど「これはしたり、あんまりせわしいごど語んねで、まっちょまず。うんとかしぇで、お前だどご乗せんぞ」とまっちゃが空威張りして見せだ。その後、大正12年4月22日、待ちに待った汽車が荒砥まで開通した。かなり昔の長井史に残る大きな騒ぎであった。

 

  昼仮装夜提灯の行列に町民あげて祝う一日

  長井線歓呼の声にお出迎え上を下えの秋の夕暮れ

 

 

【おらだの会】本稿は「長井地方の方言風物誌 西山のへつり(寺嶋芳子著)」より。写真は長井市提供。

 

第11話 青春列車~長井線物語(南長井駅にて)

  • 第11話 青春列車~長井線物語(南長井駅にて)

 車内アナウンスが次の停車駅を告げる。窓越しに高校生がホームで談笑している姿が見えた。木島は、整理券とコインを運転手に渡して、ホームに降りた。白ツツジが描かれたシールが貼られたサッシ戸を開けて、待合室に入る。長い壁には列車時刻表やポスターなどに交じって「物語のある風景」と題した長井高校写真部の作品が展示されていた。木島は、飾られた作品を見ながら、「あの頃と同じだなぁ」とつぶやいた。

 

 木島は高校の3年間は、学校の近くに下宿して、週末に家に帰る生活を送っていた。クラブ活動は写真部。もともとは「帰宅部よりはいいだろう。」と入部した木島であったが、同級生が4人しかいなかったので、部長になってしまった。部長になったとたんに、羽前成田駅で活動しているおらだの会の人達と交流が生まれ、同駅の写真展を見学したり、プロの鉄道写真家の指導を受けたり、さらには初めての校外展を開催することになったのでした。展示会場となった羽前成田駅では、地元の人達の芋煮会を手伝う羽目になった。見知らぬ大人達の前で挨拶をした際の緊張感を、今も可笑しく思い出すのでした。

 

 木島が今も大事にしまっているものが二つある。一つは同級生が撮ってくれた1枚の写真で、木島ともう一人の同級生と顧問の先生が、夕方のホームでカメラを構えている写真である。もう一つが、顧問の先生が書いた第1回の校外展の挨拶文である。

 

「物語のある風景~高校生がつくる長井線物語」をテーマとし、カメラを手に沿線をめぐった生徒たちには、いったい何が見えたのでしょうか。一見するといつもと変わらない日常の風景も、そこに自分自身や友人の姿を映しこむ1枚にすることで、『あのとき、わたしは、みんなと、確かにこの場所にいた・・・』という貴重な「記憶」の1枚になったのではないでしょうか。ぜひ生徒たちには、10年後、20年後、この1枚の「記憶」を手に取ってもらい、そこに描かれた「物語」にもう一度思いをはせてもらえればと思います。ご来場になった皆さまにも、高校生が描いた「物語」を少しでも感じとっていただければ幸いです。                    長井高校写真部顧問

 

 上り列車に乗る生徒たちがホームに集まり始めた。私は、確かにみんなと、この場所にいたのだ。『長井線物語』は私にとって最高に美しい物語であった。木島は思った。それぞれの道を頑張っている友達と恩師を囲んで、その後の物語を語り合いたいものだと。

第10話 ハス田のこと (時庭駅)

  • 第10話 ハス田のこと (時庭駅)

 列車は白川橋梁を超えて北に進む。広がる田園の真ん中を北進すると防雪林に守られた時庭駅が見えて来る。この駅は開業当初は島式2面のホームを有していたが、東側のレールが取り払われ、平成8年(1996年)に公民館と併設して待合室が建てられた。

 

 私は撮り鉄の仲間から「ハスが見頃だよ。」との連絡を受けて時庭駅に向かった。お盆近くの強い日差しの中で、桃色の大輪の花が風に揺れていた。大賀ハスは約2千年前の遺跡から出土した種子を発芽させたもので「古代ハス」とも呼ばれるものである。地元の本間さんとその仲間がハス田を造り育て続け、今では人気の撮影スポットになっている。畔道で本間さんに話を伺うことができた。毎年手間がかかり、特に水の管理がたいへんなこと。そしてハス田に込めた思いを熱く語ってくれました。

 

 「わしらここで生まれて、ここで暮らしてきた。わしら、やっぱりここが好きなんだな。だから、時庭が盛り上がるように、いろんな人にここに来てもらって交流できるような名所をつくりたい。そして『元気な地域だね!』と言われるようにしたいんだ。ここだと列車からの眺めは最高だし、第一、古代ハスって名前も良いべした。」

 

 駅周辺にはグラウンドゴルフ場とハス田の他にコスモスやソバ畑を作り、四季を通して楽しめるように整備しているという。お話を伺った数年後、本間さんは体調を崩し帰らぬ人となったことを知った。本間さん亡き後、仲間が相談して「ハス保存会」を発足させ、ハス田を「本間ガーデン」と名付けて本間さんの意志を受け継いでいるという。

 

 時庭駅の駅ノートには優しいイラストに次のコメントが添えられていた。「梅雨のあいま『庭』の名を冠するその駅は、今日も綺麗に咲いていました。」。この景色には、この地に生きた一人の思いがあり、それを受け継いでいこうとする地域の人々の思いが映し込まれているのだと思った。

 

 

 

※昭和60年(1985年)頃の時庭駅はこちらから

 → 30年前の時庭駅:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)      

 

※平成28年(2016年)に行われた三駅(西大塚・時庭・成田)合同写真展の様子はこちらから

 → 三駅合同写真展:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)   

 

第9話 政争の駅 その2(今泉駅)

  • 第9話 政争の駅 その2(今泉駅)

 この鉄道敷設法改正案は、第43回帝国議会(大正9年7月1日 ~大正9年7月28日)において成立した。小林代議士の引退後、長井町衆は、同じ置賜出身の西方利馬議員を頼りに、鉄道省建設局長八田氏と交流のあった荒砥出身の佐野利器博士や長井町の資産家川崎八郎右衛門の御曹司川崎吉兵衛など、あらゆる人脈を通じて鉄道敷設法の再改正すなわち「長井起点」を目指したのでした。大正11年2月22日、政友会から西方利馬他27名の議員立法が衆議院事務局に提出された。そして27日、衆議院本会議で可決され、貴族院での審議となった。しかしながら、この改正案には今泉坂町線の他に鉄道省の技術畑からも反対の声が出されていた佐賀県内の路線変更案も含まれていた。さらに今坂線の起点を長井に変更することについては、米沢市が「米沢の繁栄を奪うもの」として改正阻止に全力を挙げたことなどもあって、この改正案は成立しなかったのである。

 

 長井町はその後も鉄道省への陳情を繰り返していたが、鉄道省から「今坂線を着工しても、白川の鉄橋は新設せず、長井線の白川鉄橋を重複利用する。さすれば将来陸羽越横断鉄道(仙台~山形~坂町)が完成した時に、萩生~長井間の鉄道新設は可能である。」との考えが出されたので、左荒線の早期実現を果たし、その先に長井駅経由の実現を目指すことにしたのでした。しかしながら「左荒線はまぼろしのまま」でその夢を閉じることになったのでした。それにしても、当時の人々は白川信号場をどんな思いで眺めたのであろうか。

 

 長井線はその後、第三セクターとなった。JRとなった米坂線のホームからは国鉄時代の看板等は一掃されたが、長井線のホームには国鉄時代の看板が多く残されている。不思議な縁を感じるのは私だけであろうか。それにしても米坂線が令和4年の水害から復旧の目途が立っていないことは心配な事である。

 

今泉駅に残る国鉄風景はこちらからどうぞ

 → 長井線リポート(19)  面白景色の宝石箱 in 今泉:おらだの会 (samidare.jp) 

 

 

【おらだの会】写真は白川信号場付近です。なお本稿は「長井を変えた横山八次局長」をもとに創作しました。