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第5話 サクランボの実る頃(おりはた駅へ)

  • 第5話 サクランボの実る頃(おりはた駅へ)

 宮内駅を出ると線路の両側にサクランボの果樹園が広がり、一家総出で作業している姿を見ることがある。やがて織機川を越えると列車の窓から手が届きそうなほどに、果樹の枝が伸びているおりはた駅に到着する。

 

 サクランボの実る頃は

 お父さんも、お母さんも、爺ちゃんも

 朝早くからサクランボ畑に出かける

 

   家に残っているのはばあちゃんとわたしと弟

 わたしの仕事は弟の子守りだ

 

 いっぷくの時間になると

 ばあちゃんが作ったミソ揚げと

 甘いお菓子を持って畑に出かける

 

 サクランボの甘い香りの下で

 輪になってみんなでいっぷくだ

 今も心に残る家族の風景だ

第4話 「ないしょ話」(宮内駅にて)

  • 第4話 「ないしょ話」(宮内駅にて)

 やがて島式ホームが見えて来た。ウサギの駅長・もっちぃが勤務する宮内駅である。三羽の兎の彫り物を見つけると幸せになるという言い伝えがある熊野大社は、ここから歩いて10分ほどの所にある。ホーム建屋に廃レールが使われていたり、国鉄時代の「指差確認」の看板が残るなど昭和の風情が残る駅舎を眺めながら、駅前広場を散策すると童謡作家結城よしをの代表作「ないしょ話」の句碑が建てられている。

 

  ないしょ  ないしょ

  ないしょの話は  アノネのネ

  ニコニコ  ニッコリ ネ  母ちゃん

  お耳へ こっそり  アノネのネ

  坊やのお願い  聞いてよネ

 

 よしを(本名・芳夫)は大正9年(1920年)宮内町に生まれた。歌人であった両親の影響を受け、詩や文章を書くのが好きな子であった。よしをは5人兄弟の長男であり、家が貧しかったため、母に甘えることを強く自制した子どもだったという。昭和9年に尋常高等小学校を卒業すると、山形市内の本屋に住み込み店員として働いた。この頃から童謡や童話などを書き始め、「ナイショ話」は昭和14年の作品である。

 

 よしをは昭和16年(1944年)に徴兵され、昭和19年1月には南方輸送任務に就いたが、船内でパラチフスが発生し、よしをも罹患した。よしをは小倉の陸軍病院に送られ、両親に看取られながら、24歳の若さで亡くなった。よしをは、制作した童謡を本にしてほしいと両親に頼んだそうである。よしをの最初で最後のお願いだったのかもしれない。亡くなる我が子の枕もとで母は童謡を歌ったという。その歌は「ナイショ話」であったろうか。「臨終の子に童謡を聞かせつつほほ伝う涙妻は拭わず」と父が詠み、母もまた「乳首吸う力さへなし二十五の兵なる吾子よ死に近き子よ」と詠んだという。

 

 こんな片田舎にも時代に翻弄された家族の悲しい物語があるのである。「ないしょ話」の隣に「童謡と昔話のまちかど」と題した碑がある。碑には「この小さな広場で皆さんが少しの間いこい、私たちの街の昔に思いをめぐらしていただくことを願っています。」と刻まれている。町にはそれぞれの歴史があり、私たちに語りかけてくるものがあるはずである。列車から降りて、街を歩いてみて欲しいものだ。

 

※宮内駅の魅力はこちらをご覧ください。

 → 長井線リポート(28) 火の用心と指差確認:おらだの会 (samidare.jp)

第3話 ここから(南陽市役所駅)

  • 第3話 ここから(南陽市役所駅)

 「次は南陽市役所、南陽市役所です。」のアナウンスと共に、私は窓の向こうを眺めた。この駅を降りて、市役所のすぐ近くに高速バスの停留所があるのである。私は5年前、高速バスに乗ってこの地域の市役所にインターンシップに来て、一か月後、ここから郷里に帰って行った。

 

 その当時私は、大学で学ぶことに意義を見つけられず、卒業して何をすべきかもわからずにいた。とりあえず卒業するための単位を得るために、ゼミの先生に言われるままに、インターン生活を始めたのだった。しかしそこで知り合った大人たちは熱かった。その大人たちは、私を一人前の大人として扱い、意見を求めてきた。私はその中で、一生懸命やるってかっこいいんだと思うようになった。何処であろうが、何の仕事であろうが、一生懸命考え悩む人間になろうと思うようになった。

 

 ここを離れる日、バス停の近くにあった回転寿司が、地元の人たちとの最後の晩餐の場所であった。そして私は実家に帰るバスに乗った。夜行バスの中で、この一か月のことを何度も何度も想い返していた。家に着いて父と母にこれからのことを話した。こんな風に両親と話すのは初めてことだった。私は大学を卒業し、福祉関係のNPOで働くことを選んだ。

 

 そして今、私の隣の席には会社で知り合った女性がいる。その当時世話になった人に彼女を紹介するために来たのであった。彼女は、窓を開けて風が入るのを楽しんでいる。昔と同じく穏やかな山並みを遠くに見ながら、列車は想い出の街へと進んでいった。私は確かに、ここから人生という旅を歩き始めたのだ。

 

 

【おらだの会】写真は、JRWH24さんの駅ノートイラスト作品です。

第2話 別れの時(赤湯駅から)

  • 第2話 別れの時(赤湯駅から)

 新幹線のドアが静かに閉まり、列車はホームを離れていった。笑顔で見送っていた家族連れの姿も消えていた。思えば学生の頃、ここから彼の元に出かけた。新調した服を着て、どんなことを話そうかと考えながら。トンネルの向こうは、いつも明るい日差しに包まれて見えた。彼はそのまま東京の会社に勤め、いつしか二人の間には、見えない溝ができていた。もう二度とこのホームで彼を見送ることはないのだと思った。跨線橋を降りるとき、その階段がどこまでも暗い世界に続いていくように思えた。振り払わなければならない想い出が重かった。

 

 運転手が跨線橋の階段を眺めている。階段を降りて来る人がもういないことを確認すると、運転席に着いた。ドアが閉まり、列車は静かに走り始めた。窓にほほをつけながら流れる景色を追っていた。先ほどまでいたホームが視界から消えた。彼との思い出を整理するには時間がかかるけれど、私はここで生きていくことを決めたのだ、と改めて自分に言い聞かせた。本線と並走していた線路は、高架橋をくぐると大きく曲がりながら分かれて行く。それぞれの鉄路の先にあるものを想いながらその景色を眺めていた。「次は南陽市役所駅です」というアナウンスが流れた。

 

 山形鉄道赤湯駅の魅力はこちらをご覧ください。

→ 長井線リポート(33) 湖畔の別荘・赤湯駅:おらだの会 (samidare.jp) 

第1話 帰郷(赤湯駅へ)

  • 第1話 帰郷(赤湯駅へ)

 東京駅の人混みをかき分けて23番線に上がる。ホームに並ぶ顔に何となく親しみを覚え、服装などにも故郷の香りを感じる。自分と同じように、初めての帰省であるような若い女性も何人か並んでいる。シルバー色(※)の列車に乗り込むと、車内ではすでに山形訛りの会話が飛び交う。啄木の歌ではないが、この大きな声の会話が、故郷への旅のプロローグのように思える。

 

 関東平野を過ぎ福島県内の丘陵地帯の上を走り抜け、一時間ほどすると福島駅に到着する。ここでつばさはやまびこ号と分かれる。つばさは、小さな車体を右に左にゆすりながら奥羽山脈を駆け上る。それはまるで何者かから解放された少年のようである。峠の最頂点を過ぎると、今度は置賜盆地の底を目指して疾走する。故郷に一刻も早く帰りたいという我が思いが乗り移ったようである。眼下に流れる沢に春は新緑、秋は紅葉のパノラマが、幾枚にもわたって車窓を駆けていくのである。この峠道での列車の喘ぎと揺れる鼓動に、旅立ちの時の思いが蘇る。

 

 車内放送が山形鉄道の待ち合わせ時間をアナウンスする。東京を出て2時間20分、列車は赤湯駅3番(※)ホームに到着した。階段を上り跨線橋を4番線に向かう。ローカル線の鉄道娘の看板が迎えてくれる。階段を降りるとフラワーの車両が暖機運転をしている。ホームにガガダン、ググダンという金属がこすれるような音が響いている。若い運転士がこちらを見て、軽く挨拶をしてくれた。私は、ラッピング列車に乗り込んだ。窓をあけて、故郷の風を胸いっぱい吸い込んだ。

 

 

【おらだの会】長井線の各駅を舞台にした物語やエッセーを連載したいと思い、突如として発車させてしまいました。ベルも聞かずに出発した妄想列車にお付き合いいただければ幸いです。