「化外」を生きるということ(闇の彼方へ…下)

  • 「化外」を生きるということ(闇の彼方へ…下)

 朝鮮や台湾、満州国の建国…。戦前の海外に対する「植民地支配」の終焉(しゅうえん)に伴い、すっかり“死語”になっていたと思っていた、この言葉が「安倍」強権政治の下で息を吹き返した感がある。「内国植民地」―。かつて、海をまたいでいた野望が今度は内向きに方向を転換したと見るべきなのかもしれない。きな臭いシグナルを感じ取った知性たちが相次いで警鐘を鳴らし始めた。たとえば―。

 作家の池澤夏樹さんが米軍普天間飛行場の辺野古「移設」問題に触れ、「沖縄は日本の植民地か」というタイトルで政府を批判したことについては7月14日付当ブログで紹介した。さらに、東日本大震災でむき出された原発事故について、東京大学大学院の高橋哲哉教授(哲学)はこう語る。「原発のリスクはまず第一に福島県民が背負っているにもかかわらず、その利益は関東地方、東京電力管内で享受されている。これは、首都圏(中央)をはじめとする都市部と地方とのあいだに、一種の植民地支配関係があることを示していないだろうか」(『犠牲のシステム/福島・沖縄』)

 「墓を暴(あば)く」という行為は究極の人権侵害である。このことに関連し「アイヌ民族の遺骨、85年ぶりに返還」―というニュ-スが最近、全国ネットのメディアで流された(7月6日付当ブログ参照)。過去ではなく、いま現在の出来事である。恵泉女学園大学の上村英明教授(社会運動)は次のように語っている。「この問題の主体であるアイヌ民族は、北海道を中心とする北方地域に伝統的に暮らしてきた『先住民族』である。…しかし、植民地主義の下では、同じ『国民』と言いながら、『文明化』の名目で、違法行為や不正が大手を振ってまかり通った」(週刊金曜日7月15日号)。

 「化外(けがい)の民」(まつろわぬ人びと)―という禍々(まがまが)しい言葉がふいによみがえってくる。たとえば、ヤマト(大和)の目に映った、こんなの描写の数々が…。

 「東国のいなかの中に、日高見国(ひたかみのくに=北上川流域か)があります。その国の人は、男も女も、髪を椎(つち=木槌)のような形に結い、体に入墨(いれずみ)をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷(エミシ)といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」(宇治谷孟著『全現代語訳 日本書紀』上)

 「蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲(す)む。毛皮を着て血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣(けだもの)ようであるという。恩は忘れるが怨(うら)みは必ず報いるという。矢を髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれ、追えば山に入る。それで昔から一度も王化に従ったことがない」(同上)

 「辺野古」移設問題をめぐり、政府は7月22日、翁長雄志・沖縄知事を相手取って、地方自治法に基づく違法確認訴訟を福岡高裁那覇支部に起こした。辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消した翁長知事が、撤回を求める政府の是正指示に従わないのは違法だとの訴えである。同じ日、国内最大の米軍北部訓練場(沖縄県東村など)の一部返還の条件として、日米が合意したヘリコプタ-着陸帯(ヘリパッド)の工事が住民を排除しながら強行された。

 「ごく一般的な広い層の『本土の沖縄化』という言葉の受けとめ方が、これまでそうであったように沖縄を見棄てておくほうが、『本土の沖縄化』よりいいではないか、というところにまでエスカレ-トはしないまでも、すくなくとも本土の日本人のエゴイズムに一条の光を投げかけて、沖縄を遠ざけるかたちに機能するのではないか、というのが僕のもっとも基本的な疑いなのだ」(『沖縄ノ-ト』)―。作家の大江健三郎さんがこう書いたのは46年前にさかのぼる。

 「本土の沖縄化」に反対という革新勢力のステレオタイプのスロ-ガンが今度は皮肉にも政府を後押しする形で現実味を帯びつつある。「急がば回れだ。最高裁で国が負けるわけはない」と政府高官がうそぶくように、合法を装った新手の「琉球」処分が着々と進行しつつある。「(沖縄が日本に属するのではない)日本が沖縄に属する」(大江、前掲書)という発想の逆転は、はなから望むべくもない。

 「植民地主義」―。漂白されたような語彙(ごい)の背後にその「原義」をうかがわせるおどろおどろしい言葉が見え隠れする。「(琉球)処分」、「(蝦夷)征伐」、「(旧土人=アイヌ)保護法」…。ヤマトには心中深く「植民地主義」という遺伝子(つまりDNA)が消すことのできない記憶として、刻印されているのかもしれない。「化外」とは「王化や国家統治の及ばない地」という意味である。ならば、現代社会をまっとうに生きるということはまさに「化外を生きる」ことではあるまいか。


 (写真は坂上田村麻呂軍蝦夷征討の図=「清水寺縁起絵巻」より。奥州市埋蔵文化財調査センタ-所蔵。インタ-ネット上に公開の写真から)

                                  ※

《ブログ閉鎖のお知らせ》
 
 花巻市議会議員になって、本日7月27日でちょうど丸6年になりました。東日本大震災と福島原発事故、集団的自衛権の行使容認と安全保障関連法の成立、オリンピック誘致を優先させた復興の遅滞と原発再稼働の強行、そして何よりも「辺野古」移設など沖縄の米軍基地をめぐる政府の強圧的な姿勢…。足元に目を転じれば、「義援金」流用疑惑や議員の暴言騒ぎ、花巻城址へのパチンコ店の立地問題、日米地位協定見直し請願の門前払いなど気の休まる暇もない日々でした。この間ずっと考え続けたのは…「3・11とは一体、何であったのか」―ということでした。
 
 戦後最大の危機ともいえるこの事態に対し、議員として個人の人間としてどう立ち向かうべきなのか。これは同時に自分自身の立ち位置を問われることでもありました。まさに暗闇を手探りする思いで、理も定まらない思いをブログに書き連ねてきました。気が付くと、いつの間にか自分が生まれ育った原郷(イーハトーブ)に立ち戻っていました。ぐるっとひと回りした末の原点回帰…。沖縄学の父といわれる伊波普猷(いはふゆう)はニ-チェの箴言(しんげん)を琉歌に託しこう歌っています。「深く掘れ己の胸中の泉/餘所たよて/水や汲まぬごとに」―

 先覚者の言葉に引き寄せられるようにして、私は今ふるさとの地に立っているのかもしれません。この琉歌は一般には「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」と訳されて流布しています。果たして、「胸中の泉」を掘り当てることはできるのだろうか。もう一度原点に立ち返り、できることなら自分の内面を穿(うが)ち直したい。そして、その源流を目指した「ニライカナイ」と「アイヌモシリ」への旅にふたたび旅立ちたい。今はそんな思いです。残された時間は多くはありません。長い間のお付き合いに感謝します。ありがとうございました。

≪追記≫
 不要不急あるいは逆に緊急事態に備え、HPは当分の間、開設したままにしておきます。
 


2016.07.27:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「賢治」異論…縄文と弥生のはざまで(闇の彼方へ…上)

  • 「賢治」異論…縄文と弥生のはざまで(闇の彼方へ…上)

 人後に落ちない「(宮沢)賢治ファン」のつもりだが、民俗芸能の剣舞を題材にした詩「原体剣舞連」(はらたいけんばひれん)にはある種の「違和」を持ち続けている。とくに、詩中の「むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)/まつくらくらの二里の洞(ほら)/わたるは夢と黒夜神(こくやじん)/首は刻まれ漬けられ…」という部分。この個所は短篇『種山ヶ原』ではもっと直截(ちょくせつ)にこう描かれている。「首は刻まれ、朱桶(しゅをけ)に埋もれ。やったぞ。やったぞ。ダ-、ダ-、ダ-スコ、ダ-ダ」

 「達谷の窟」(たっこくのいわや)は平泉・中尊寺から7キロ余りの県道沿いにある。縁起によれば、延暦20(801)年、征夷大将軍・坂上田村麻呂がここを拠点としていた蝦夷(エミシ)を討伐した記念に建立された。正式には「達谷窟毘沙門堂」と呼ばれ、田村麻呂の化身と言われる「毘沙門天」が祀(まつ)られている。そして、詩中に登場する「悪路王」こそがヤ大和(ヤマト)に最後まで抵抗したエミシの英雄―「アテルイ」だと言い伝えられている。それにしても…。「やったぞ。やったぞ」とは受難者(弱者)に寄り添うことをモット-にしているはずの賢治にしては随分と軽くはないか。

 このことに関連して、私はかつて拙著の中にこう書いた。「この詩の中に東北古代史との『断絶』を見る思いがする。私が賢治作品を『和解』あるいは『昇華』の文学と呼びたい欲求にかられるのは、こうした理由からである。しかし、和解という言葉の背後には、巧妙な仕掛けが隠されているのではないか。和解という名の『同化』が…」(『賢治の時代』)。もっと単刀直入に言うと、アテルイと賢治との似て非なるその風貌にまでさかのぼる。「縄文」と「弥生」という気の遠くなる断絶性と言っても良いかもしれない。

 「ケンジさんはどの程度まで東北人だったのだろうか」―。作家の池澤夏樹さんは宮沢賢治賞(2003年)を受賞した『言葉の流星群』の中でこんな疑問符を投げかけ、こう書いている。「現実としての東北と自然としての東北は彼の関心の中にあった。それでは、歴史の方はどうだろう。東北、なかんずく岩手県はもともとは異民族の土地であり、奪われて日本の一部になり、それからも長く辺境として位置づけられるという複雑な歴史を持っている。このような意味での東北の歴史観はケンジさんの中には意外に薄い」

 さらに、池澤さんもこの詩に言及し、こう続ける。「それにしてもこの4行(むかし達谷の悪路王…)が詩全体に与える効果はどうだろう。そこまでは単調にリズムを刻んで踊り手たちの動きをなぞるだけだった詩の運びがここでいきなり奥行きを増し、夜の闇を透かしてみて、そこに古代の悪虐なる英雄の生首をほのかに見せる。その先にはかつて東北が東北と呼ばれる前にこの地を走り回っていた勇ましく、しなやかで、自負の念の強い人々の姿があっただろうに、ケンジさんの洞察はそちらには向かわなかった」

 堀尾青史著『年譜 宮澤賢治伝』は冒頭のこんな一節から始まる。「天和、元禄のころというから17世紀のおわりに近いころ、京都から藤井将監という人が南部の花巻へきた。…この人が宮澤家の始祖といわれている。明治のはじめに藤井姓から宮澤姓にあらためた、ということである」。だとすれば、賢治の中にはヤマトの中のヤマトの血(DNA)が流れているということになる。この機会に私は以前、拙著で指摘した自説に若干の訂正を施しておきたいと思う。

 高利貸しなども手がけた「あこぎな家業」に背を向けたように、賢治の短い一生はいわゆる「弥生的」なるものと抗(あらが)い続けた人生であり、ある種「縄文的」なる作品群はその抗いが産み落とした結晶だったのではないか―と。最後に蛇足ながら、京都造形芸術大学の中路正恒教授(宗教学)は「東北出身者の中でアテルイのモデルは」と自問し、「当時、プロ野球横浜ベイスタ-ズにいた佐々木主浩投手に思いいたった」と次のように記している。

 「伝説の『悪路王』のモデルはアテルイだと見なされることが多いが、確かに悪路王には歪曲されたアテルイのイメ-ジが流れ込んでいるだろう。しかしアテルイは、ほんとうは正真正銘の『勇者』であろう。わたしは当時、『ハマの大魔神』の活躍に大いに歓喜したのだった」(『古代東北と王権』)。ついでに言うと、私にとっての現代のアテルイは作家の辺見庸さんということになろうか。そういえば、佐々木さんも辺見さんも東北・宮城の出身である。アテルイ、賢治、佐々木―この3人の風貌をとくと見比べていただければと思う。


(写真は奥州市埋蔵文化財調査センタ-に展示されている、アテルイ(悪路王)の首像(複製)=インタ-ネット上に公開の写真から)


《原体剣舞連》(全文)

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こよひ異装(いさう)のげん月のした
鶏(り)との黒尾を頭巾(づきん)にかざり
片刃(かたは)の太刀をひらめかす
原体(はらたい)村の舞手(をどりこ)たちよ
若やかに波だつむねを
アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
ふくよかにかゞやく頬を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたる景頁気(かうき)をふかみ
楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かがり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
  dah-dah-sko-dah-dah
肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び
月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
こよひ銀河と森とのまつり
准(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho! Ho! Ho!
     むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)
     まつくらくらの二里の洞(ほら)
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいつぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)をどり
     胃袋はいてぎつたぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ
四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひよううん)と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
月は射(い)そそぐ銀の矢並
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萱穂(いなづまかやぼ)のさやぎ
獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
消えてあとない天(あま)のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
               (1922、8、31)


 

2016.07.25:masuko:コメント(2):[身辺報告]

鳴く鶴、陰にあり…

  • 鳴く鶴、陰にあり…

 「イ-ヤ- ハア- それ引け、やれ引け」―。ふと、強力(ごうりき)たちの威勢のいい掛け合いを聞いたような気がした。約70年ぶりに姿を現わした花巻城址の三の丸跡(旧東公園)…木遣(や)りのリズムはその高台のあたりから流れてきたようだった。目隠しをいきなり外された時のような不思議な感覚…。以前読んだ大昔の新聞記事の一節が記憶に残っていたせいかもしれない。それにはこう書かれていた。

 「宮城縣下、石の巻の名産なる大石を用(もちゐ)る積(つも)りなりしが、花巻裏の河岸(かし)へ船にて着(ちゃく)せしを、待ちに待ちたる同發起人が人夫百人ばかりを遣(つか)はし、清水某氏が指揮をなし、旗を建てキヤリ音頭で…」(明治17年8月25日付「岩手新聞」))。花巻城の前身は「鳥谷ヶ崎城」と呼ばれていた。「崎」とは陸地が海や湖、河川などに突き出た場所を意味し、当時は旧三の丸の突端(21日付ブログ写真参照)が北上川と接していた。船で運ばれてきた巨石を高台に引き上げる光景を新聞は伝えていた。

 同紙は続けてこう綴(つづ)る。「先師(せんし)の群霊(ぐんれい)五拾余人の姓名を紙に記して、右碑の表面に貼附し…」。今から132年前の盛夏、その巨石は滴(したた)る汗と一緒に運び上げられ、東公園(当時)の一角に据えられた。高さ3㍍弱、重さはざっと5トン。「鳴く鶴、陰にあり。その子これに和す」(「易経」)―。先祖を大切にする精神を後世に伝えようと「鶴陰碑」と命名された。碑面に名前を録する時間を待てないため、仮の祝祭「群霊祭」が盛大に行われた。

 7年後の明治24(1891)年、同じ場所で正式な建碑式が営まれた。文学や武技、書画、和歌・俳諧など郷土花巻の発展に尽くした人士は194人に達していた。碑文はこう結ばれている。「生年月日、卒年(死亡)月日、年令の長短、血筋の詳細、職位などはすべて辞去した。そういうものが碑文にあっても何の役に立つものではない」。郷土出身で北海道帝国大学(現北海道大学)の初代総長だった佐藤昌介は「花巻魂にはこの鶴陰精神が宿っている」と称賛した。「咲きて匂へる花巻に/色香をそへし人々の/かぐはしき名を萬代と/かきて残せる鶴陰碑」(明治24年『楷同雑誌』第10号)―。こんな歌(「鶴陰碑」の歌)が捧げられた。

 「初代」鶴陰碑は現在、市立花巻博物館に移設・展示され、初代を模した「2代目」が武徳殿前の旧二の丸跡に建てられている。初代には液晶画面の説明があり、たとえば『武士道』の著書、新渡戸稲造の祖父、傳(つとう=1793年~1871年)の来歴については次のように記している。

 「花巻御給人の伝蔵(新渡戸)維民の長子として生まれ、学問と絵画を八重樫豊沢に学び元服後、盛岡に出て文武の道を修めました。しかし、父維民が花巻に一国一城の城主を迎える運動を行ったことが、藩主の怒りを買い、俸禄を半減された上に(維民は)下北半島の川内に左遷されました。…(傳が)最も力を発揮したのが開田事業でした。花巻の高松、西宮野目、湯本の外に、1855(安政2)年には三本木原の大開拓を藩に上申し、10年の大工事の末に869石の増反に成功し、三本木開町の父といわれました」

 23日付の地元紙は江戸時代の花巻城代の生活を記録した古文書「御次留書帳」(おつぎとめがきちょう)がこの秋にも県の有形文化財に指定される見通しになったことを伝えていた。正月の献立や家来の冠婚葬祭・相続、墓参りや登城行列、病気届などが日誌形式で56冊に記された貴重な史料である。その一方で、花巻城の記憶を刻印した鶴陰の里はその痕跡を消し去り、闇の彼方に永遠に葬り去られようとしている。

 私事にわたることを許していただけるなら、新渡戸傳ら194人の名前を揮ごうした書家の「小原東籬」(忠次郎=1852~1903年)は私の曽祖父、つまりひいじいさんに当たる。


(写真は博物館に展示されている初代「鶴陰碑」。先祖の足跡を辿る人たちが今も訪れる=花巻市高松で)

 
2016.07.23:masuko:コメント(2):[身辺報告]

往時の記憶をいまに…花巻城址の面影がくっきりと

  • 往時の記憶をいまに…花巻城址の面影がくっきりと

 「お城がこんなに立派だったとは…」「壊してしまうはもったいない」「今からでも遅くはない。まちづくりのシンボルにできないか」―。花巻城址にあった旧新興製作所跡地の建物の解体工事が進むに従い、これまで人の目から遮られていた光景がこつ然と姿と現わした。一見して、城壁と見まごう石垣が高台をぐるりと取り囲んでいる。それもそのはず。かつて、この一帯は花巻城「三の丸」の跡地で、明治6年の払い下げ後は「東公園」として一般に開放されてきた。その面影を残すたたずまいの出現に市民の間には「街なかにはやっぱり、お城が似合うね」と“あとの祭り”を悔いる声が…。

 「みちのくの電信王」と呼ばれた故谷村貞治さんがテレプリンタ-(印刷電信機)などの製造を手掛ける「新興製作所」をここに移転・立地したのは敗戦直後の昭和20(1945)年11月。高台にあった三の丸の土砂崩れを防ぎ、工場敷地を広げるために数年がかりで石垣を組んだ。当時を知る人はこう語る。「がけ崩れを防ぐための石垣にはちがいない。でも、創業者の気持ちの中には城主願望もあったのかもしれない。なにせ、谷村城なんていう人もいたからね。電信王にふさわしい居城が欲しかったのかも…」。事業は隆盛をきわめ、敷地内には建物が林立した。”谷村城“はその陰に姿を隠し、やがて市民の記憶からも消えて行った。

 「新興跡地」問題が浮上したのは1年半ほど前の平成26年12月。工業団地への移転に伴い、空き地になっていた跡地の売却をめぐって、論議が持ち上がった。結局、市当局は「利用目的がはっきりしない段階で、税金を投入することはできない」(上田東一市長)と購入を断念。代わって、パチンコ店とホ—ムセンタ—の立地を目指す不動産業者の手に渡った。かつて、東公園には花巻のまちづくりに貢献した194人の名を刻んだ「鶴陰碑」や音楽堂があった。桜の名所としても知られ、芸者さんを交えた宴(うたげ)がまちの賑わいに彩りを添えた。写真などに残された微かな記憶を呼び戻したのは皮肉にも工場群の解体工事だった。

 「盛岡だって、まちのまん中にお城があるから潤いがあるんだよね」「今回の大地震で辛うじて倒壊を免れた熊本城を見て、その復元を思う気持ちが伝わってきた」―。全国各地の城は修復に修復を重ね、復元・保存されてきた。上田市長のご先祖も江戸時代の文化年間に大改修工事の指揮を取り、「造作文士」と呼ばれた。実に城址とはその土地の歴史を今に伝える、かけがえのない遺産なのである。「城址(しろあと)の/あれ草に臥(ね)てこゝろむなし/のこぎりの音風にまじり来(く)」―。郷土の詩人・宮沢賢治は生前、東公園に寝ころびながらこう詠んだ。賢治文学の原点でもあった、その同じ場所にパチンコ店を立地しようという真逆の発想に仰天する。

 「町有地貸付ノ件」―。昭和19年11月、新興製作所への10年間の「期限付き貸与」を可決した花巻町議会(当時)はもめにもめた。「原形ヲ損ゼザルコト」「煙突ヲ設ケシメザルコト」「建物売却ノ場合ハ役場ニ優先権ヲ与ヘルコト」(議事録から)…。そしてあれから70年余り、今回の跡地問題の先導役を演じた社民党系会派の議員は市民の声だとしてこう発言した。「7年間も雨ざらしにしておくより、1日も早く更地にして商店でも大型店でも、例えばパチンコ店だとしても出店してもらうことにより、まちの活性化につながっていく」

 平成の「落城」劇はこうして幕を下ろしたのだった。「後悔先に立たず」―である。


(写真は旧三の丸(東公園)を囲むように築かれた石垣。時計を一気に巻き戻したかのような光景が街のまん中に出現した=花巻市城内の旧新興製作所跡地で)


2016.07.21:masuko:コメント(2):[身辺報告]

再び「ニンビズム」ということについて…「オキナワ」考―5

  • 再び「ニンビズム」ということについて…「オキナワ」考―5

 「沖縄の現状がつづくかぎり、公的に本土の日本人が、沖縄とそこに住む人間にたいして免罪符をあがなうことはできないし、まっとうな懺悔(ざんげ)をおこないうるということもない。沖縄からの拒絶の声とは、そのようなニセの免罪符はもとより、べったりとからみついてくる懺悔の意志をもまた、潔癖に峻拒(しゅんきょ)するところの声である」(『沖縄ノ—ト』)―。いささかストイックに過ぎるきらいもあるが、作家の大江健三郎さんがこう激白したのは沖縄復帰(1972年)の2年前のことである。

 元米兵による女性殺害・遺体遺棄事件を受け、沖縄県那覇市で6月19日に開かれた県民大会で大学生、玉城愛さん(21)は声を詰まらせながら、こう訴えた。「安倍晋三さん、日本本土にお住いの皆さん。今回の事件の第2の加害者は誰ですか?あなたたちです。しっかり沖縄に向き合っていただけませんか」(6月21日付当ブログ参照)。大江さんの激白から46年―。この間、本土から沖縄に向けられる眼差しになにがしかの変化の兆しはあったのか。女子学生の発言はまさに「峻拒」に値する激しさである。

 当ブログでも何度か言及したが、『NIMBY-ism』(ニンビズム)という言葉がある。「NIMBY」は「Not in My Back-Yard」の略語で、「それが必要なのは分かるが、うちの家の裏にはやめてくれ」…つまり迷惑施設の代名詞である。玉城さんの発言について、作家の池澤夏樹さんはこう語っている。「この論法は矛盾していると自分でも思う。騒音や犯罪、事故の危険など基地の問題を訴えれば訴えるほど、そんな危ないものは御免(ごめん)だと本土の人は言う」(14日付当ブログ参照)。ニンビズムの本質がここに凝縮されている。

 6年前の花巻市議会12月定例会で私は米軍普天間飛行場(宜野湾市)の「辺野古」(名護市)移設問題に関連し、遠慮がちにこう質問した。「当市には県内唯一の飛行場がある。沖縄の負担軽減のためにも訓練の一部を肩代わりするつもりはないか」。日本共産党市議団(2人)が反論の口火を切った。「女性暴行などの米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などありません!!」。まさにニンビズムを地で行く発言に一瞬、虚を突かれた。議論の場を提供したい―池澤流に言うならば、ある種「挑発」めいた気持ちがあったのも事実である。

 私がこの「共産党」発言にこだわり続けるのには理由がある。いやしくも「公党」を標榜する限り、どんな主張にもその根拠となる原理・原則…つまりテ-ゼ(綱領)があるはずである。日本共産党を含む革新勢力の戦後の「反戦平和」運動の柱のひとつは「安保破棄・米軍基地撤去」だった。米軍に基地を提供する根拠法は「日米安全保障条約」(とそれに付随する「日米地位協定」)に他ならない。だから、安保を破棄すれば、自動的に米軍基地の撤去が実現するという理屈は論理的には成立する。

 ところがで、現実はどうであろうか。普天間飛行場の撤去どころか、「辺野古」移設(新基地建設)に揺れているのが沖縄の実態である。伝家の宝刀であったはずのテ-ゼが皮肉にも米軍基地の固定化と増強に加担していると言わざるを得ない。そういえば最近、いわゆる革新勢力の側から「安保破棄」のスロ-ガンがあまり聞かれなくなった。なぜなのか。この間の経緯を明らかにし今後、米軍の基地問題にどう対応していくのか―。この道筋を国民に提示するのが公党としての最低限の責任ではないのか。ただ、ヒステリックに叫ぶだけなら駄々っ子の振る舞いと大差がない。

 「無責任と欺瞞」―。沖縄の基地問題に詳しい東京大学大学院の高橋哲哉教授(哲学)は「基地引き取り」論の根拠を単純明快にこう述べている。「在日米軍基地を必要とし、それを置くことの利益を享受しながら、米軍基地を置くリスクを負うことは拒否する。これは端的に言って、無責任ということではないだろうか。本土の8割という圧倒的多数の国民が日米安保条約を支持し、今後も維持したいと望んでいる。そうだとすれば、米軍基地を置くことに伴う負担やリスクは『本土』の国民が引き受けるのが当然ではなかろうか(『沖縄の米軍基地―「県外移設」を考える』)

 そして、リベラリズムの本旨を「正義」に求める、東京大学の井上達夫教授(法哲学)の弁もずばりと核心をつく。「原理主義的護憲派のほうは、自衛隊と安保が提供してくれる防衛利益を享受しながら、その正当性を認知しない。認知しないから、その利益の享受を正当化する責任も果たされない。利益を享受しながら、認知せずその正当性を認めない。私に言わせれば、これは右とか左とかに関係なく、許されない欺瞞です」(『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』)

 いわゆる「立憲主義が」が最も侵害されているのは言うまでもなく、米軍基地との共存を余儀なくされている沖縄県民である。口先で立憲主義を言い募りつつ、沖縄の民意に敵対する勢力を称して、リベラリストならぬ「ニンビスト」(他人事集団)とでも言うべきであろうか。これも繰り返しになるが、花巻市議会6月定例会で、日米地位協定の抜本的な見直しを求める市民の請願の不採択を先導したのも革新系会派に所属する議員たちだった。宮沢賢治の理想郷…イ-ハト-ブ議会における「テ-ゼなき革新」の正体はこうして暴かれた。

 戦後71年たった今も本土には結果として「オキナワ」を捨て石にしてしまう「オ-ル日本」の旗(白地に赤)がひるがえっている。この光景こそが「無責任と欺瞞」をものの見事に表象(ひょうしょう)している。この種の不誠実、いや不正義を私は好まない。


(テント村では2年前から24時間体制で座り込みが続けられている=名護市の米軍キャンプ・シュワブ前で)

 

2016.07.19:masuko:コメント(0):[議会報告]
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