平成最後の満月(ピンクムーン)―まんどろだお月様だ

  • 平成最後の満月(ピンクムーン)―まんどろだお月様だ

 

 ひねくれ者だから、「平成最後の…」と言われるとすぐに背を向けたがる癖(へき)があるが、お月さんとなると話がちがう。ネイティブアメリカンが「ピンクム-ン」と名づけたという平成最後の満月が19日夜から20日の未明にかけた中天にぽっかりと浮かんだ。妻の遺影と位牌を両腕に抱え、私は月明りの野外に佇(たたず)んだ。「花月圓融清大姉」と金箔の文字が浮き出ている。昨年夏に旅立った妻は生前、ニコニコと笑顔を絶やしたことがなかった。だから、みんなから「満月さん」と呼ばれていた。それに大の花好き。「花と月とが圓(まど)かに融(と)け合う。故人にぴったりだと思います」と住職は鼻高々だった。

 

 月は満月ばかりではない。その満ち欠けは時に不吉な予感を呼び起こすこともある。たとえば、元男性職員が19人の利用者を刺殺した「相模原障がい者施設殺傷」事件に題材を得た作家、辺見庸さんの近刊のタイトルはずばり『月』であった(2019年1月25日付当ブログ参照)。そして月といえば、私は真っ先に津軽の方言詩人、高木恭三(故人)の「冬の月」を思い出してしまう。同じ満月に向けるまなざしの落差にハッとさせられる。こんな詩である。


嬶(かが)ごと殴(ぶたら)いで戸外(おもで)サ出はれば
まんどろだお月様だ
吹雪(ふ)いだ後(あど)の吹溜(やぶ)こいで
何処(ど)サ行(え)ぐどもなぐ俺(わ)ぁ出はて来たンだ
 ──どしてあたらネ憎(にぐ)くなるのだベナ
   憎(にぐ)がるのぁ愛(めご)がるより本気ネなるもんだネ
そして今まだ愛(めご)いど思ふのぁ どしたごどだバ
ああ みんな吹雪(ふぎ)と同(おんな)しせぇ 

 

過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 

(方言詩集『まるめろ』所収、※まんどろだ=まん丸で明るいという津軽方言)

 

 新元号「令和」の典拠とされる万葉集「梅花の歌」序文はこうなっている。「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き」(書き下し文)。元号提案者と言われる中西進さんの『万葉集』はこの部分を「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き」と現代語訳している。このように、新元号の中にも「令月」という表現で月が出てくる。

 

 妻は令和にこそ生を生き延びることはできなかったが、梅や桜の季節に合わせたピンクム-ンを存分に仰ぎ見ることができたと思う。当地・花巻の桜はいまが盛りの春爛漫である。妻の霊は孫たちに見守られ、沖縄・石垣島のサンゴ礁の海に眠っている。その地で娘夫婦が営むカフェの名前も「新月」を意味する「朔(さく)」(物事の始まり)である。まんどろだお月さんに照らし出されながら、いまは亡き妻…花月圓融清大姉よ、永遠(とわ)の満月たれ――

 

 

(写真は漆黒の闇にくっきりと浮かんだ平成最後の満月(ピンクム-ン)=4月19日夜、インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~「お命ちょうだいします」

 

 「夕張炎上」(4月17日付当ブログ参照)について、札幌在住の元同僚から20日夜、以下のメ-ルが送られてきた。北炭新鉱の事故の際、坑内の延焼を防ぐため、夕張川の川水が注がれた。坑内にはまだ生死不明の十数人が残されていた。「お命ちょうだいします」という当時の社長の”宣告"に身が震えたことをまざまざと思い出す。             

 

 ブログ「追記」に触発されたわけでもありませんが、石炭博物館の現場に出かけてきました。午後3時現在、ほぼ鎮火状態とやらで、応援の消防車も撤収にかかっているところ。かすかなにおいが漂う中、ポンプで汲み上げた水が、こんどは逆に土手から浸み出して川へ流れもどっていくのを目にしましたが、ほんとうに再発火することはないのか、疑問が残ります。

 

 わたしのほかには、カメラを手にした記者が数人と、様子を見に来た何組かの夫婦連れ(いずれも地元の人と見受けられた)。話しかけてきた女性(60代か?)は、「南大夕張」や「北炭新鉱」の言葉を口にしつつ、「火災とか注水とか聞くと、とってもいや-な気持ちにさせられる」と、つぶやいていました。折しも夕張は市長・市議選のさなかですが、彼女(↑)によれば、「さすがに―」昨日は全候補が選挙運動を控えたとのことです。

 

 



 

 

 

 


 

 

「改元」恩赦と夕張放火殺人事件…夕張炎上、息を吹き返した大露頭!?

  • 「改元」恩赦と夕張放火殺人事件…夕張炎上、息を吹き返した大露頭!?

 

 「夕張保険金殺人事件を歩く」―。知人に勧められて購入した『花摘む野辺に―夕張追憶』という何とも穏やかなタイトル本の副題に眼がくぎ付けになった。35年前の1984(昭和59)年5月5日の子どもの日、北海道夕張市で炭鉱下請け会社の宿舎が全焼し、子ども2人を含む7人が死亡する大惨事が起きた。首謀者の暴力団組長夫妻が保険金目当ての放火殺人の疑いで逮捕され、13年後に戦後初めてとなる同時死刑に処せられた。本書は犠牲者の中に音信不通だったかつての同級生がいたことを知った札幌市在住の元高校教師、菊池慶一さん(86)がその消息を訪ね歩いたルポルタ-ジュである。表題はその同級生が好きだった流行歌「誰か故郷を想わざる」が出典である。

 

 この事件は私にとっても決して忘れることができない。最初は「美談の主」として、そして最後は「恩赦(おんしゃ)」騒動の当事者として―。3年前の1981(昭和56)年11月、同じ夕張市内にあった北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生。戦後北海道では最悪となる93人が死亡した。暴力団夫妻が経営する下請け会社の従業員7人もこの時、命を落とした。残された犠牲者の妻が事故直後に出産した。刑務所に服役中だった夫に代わって会社経営に辣腕(らつわん)を振るっていた妻がその名付け親だった。まだ30代半ばの利発そうな女性だった。美談に仕立て上げたのがきっかけで取材に行き来するようになった。ある時、麻雀に誘われた。隠された一面をのぞき見た思いがした。

 

 「あんたは堅気(かたぎ)だから、ヤクザ麻雀はしないから安心して…」と彼女は言った。興に乗ると、舌が滑らかになった。「指を詰める時にはね、迷うことなくスパッと…」―。身振り手振りをされた時にはさすがにザワッとしたことを覚えている。北炭事故の際、従業員にかけられていた多額の死亡保険金が振り込まれた。遺族に支払った分を除いても1億円以上が手元に残った。この時の“うま味”が犯罪の引き金になった。1987(昭和62)年3月、札幌地裁は首謀者の夫と妻に対し、殺人の共謀共同正犯の責任を認定して死刑判決を、放火の実行犯には無期懲役の判決を言い渡した。その後の展開は世間をアッと驚かせた。

 

 翌年10月になって、2人は突然控訴を取り下げ、死刑が確定した。当時、昭和天皇の病状が重篤になり、仮に天皇が崩御(ほうぎょ)すれば恩赦が行われ、死刑の執行を免れると期待したためであった。恩赦の対象となるには刑が確定していなければならない。しかし、「平成」恩赦では懲役や禁固の受刑者、死刑確定者は対象にはならなかった。当てが外れた2人は今度は一転、札幌高裁に控訴審の再開を申請したが認められず、最高裁に提出した特別抗告も1997(平成9)年5月に棄却。同年8月1日に札幌刑務所の断頭台の露と消えた。獄中で小説を書き続けた、連続ピストル射殺事件の死刑囚、永山則夫(当時48歳)にも同じ日、刑が執行されている。

 

 ちなみに、3月15日付当ブログで取り上げた金子文子と朴烈に対しては、1926(昭和2)年3月死刑判決が下されたが、翌4月5日に「天皇の慈悲」という名目で恩赦が出され、ともに無期懲役減刑された。ところが、朴烈は恩赦を拒否すると主張、文子も特赦状を刑務所長の面前で破り捨てたといわれる。文子はその後、獄中で自殺した。さて、「令和」恩赦を当て込む“塀の中”から、今度はどんなドラマが飛び出すことやら…。

 

 「これはまるで亡霊のような本です。わたしは、犠牲者の一人が同級生だったという、わずかの縁(えにし)をたよりに、友への悲しみと、閉山のただ中にあった夕張の姿を書き残したかったのです。炭鉱最盛期の喜び、閉山の悲しみ、悲喜を合わせて記憶していきたい。忘れることの幸せだけでなく、忘れないことの幸せを大切に抱えて…」―。菊池さんはあとがきにこう書いている。

 

 放火殺人事件の翌1985(昭和60)年5月、犠牲者たちが働いていた三菱南大夕張炭鉱で62人が死亡するガス爆発事故が起きた。5年後に閉山に追い込まれ、炭鉱跡地はいま、ダム湖の底に沈んでいる。最盛期、20を数えた「炭都」・夕張からヤマが消えてもう30年になる。さらに、2006(平成18)年には夕張市が財政破綻。2期8年間、そのトップの座にあった鈴木直道さん(38)が今回の統一地方選で北海道知事に当選するなど時代の変化はめまぐるしい。

 

 「夕張食う(苦)ばり、坂ばかり、ドカンとくれば死ぬばかり」―。こんなざれ歌が記憶の底に刻まれている。5月中旬、令和元年の最初の旅先として、私は菊池さんと一緒に夕張再訪の計画を立てている。恩赦騒ぎを引き起こした死刑夫妻のことを含め、日本の繁栄の捨て石にされた“苦海”のたたずまいをもう一度、まぶたによみがえらせたいと思う。記憶の風化に抗(あらが)うためにも…。

 

 

 

(写真は夕張最後のヤマとなった三菱南大夕張炭鉱事故の犠牲者を弔う慰霊碑=夕張市南部青葉町で。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~大露頭(石炭層)に引火か!?

 

 北海道夕張市高松の石炭博物館から、18日午後11時45分ごろ「白煙が見える」と消防に通報があった。市消防本部によると、1階から地下に続く見学施設の「模擬坑道」付近から出火したとみられる。坑道内に煙が充満しており、消火活動が長引く恐れがあるという。同博物館は冬季休館中で、けが人はいなかった。

 

 模擬坑道(約180メ-トル)は、かつて実際に使われていた坑道を改修したもので、石炭採掘に使う巨大な機材などを展示している。消防によると、坑道内の木枠に何らかの原因で着火し、石炭層に燃え移った可能性があるという。27日の今季のオ-プンに向けて、坑道内では18日夕まで溶接作業が行われていた。

 

 石炭博物館は、夕張市が「炭鉱から観光」のスロ-ガンのもと、1980年に開業した。財政破綻(はたん)で多くの施設が閉鎖するなかで、同博物館は石炭産業の歴史を伝える施設として資料価値が高いことから、同市が5億円をかけて大規模改修し、昨春、リニュ-アルオ-プンしていた。昨年度の入場者数は目標の1万4千人の2倍を超える約3万2千人で、破綻から再生に向けて、市ににぎわいを取り戻す施設として期待されていた(4月19日付朝日新聞「電子版」)



 

 



 

 

「令和」狂騒曲と骨踊り

  • 「令和」狂騒曲と骨踊り

 

 「ゴキッ」と骨が外れる音がして、まるで骨格標本みたいな骨たちが突然、カタカタと踊り始めた。時は2019年4月1日、スポ-ツジムでの出来事。ウォ-キングマシ-ンの前に取り付けられたテレビは国をあげての「祝祭」の幕開けを告げようとしていた。「新しい元号は令和(れいわ)であります」―。この瞬間、列島全体は元号フィ-バ-一色に包まれていった。「令和」にことさら違和をとなえるものではないが、喜色満面のわが宰相の講釈を聴きながら、何かいやな予感がした。安倍晋三首相はこう言ってのけたのだった。要旨にしては少し長くなるが、後世にとどめなくてはならない言葉である。

 

 「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい…元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものともなっています。この新しい元号も、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っております」

 

 美しすぎる文体である。であるが故に、私には「何でこの人が…」という思いが頭をもたげるのである。元号(天皇)を利用した今回の政治ショ-に異議申し立てをするメディアはほとんど見当たらない。たとえば、この日も沖縄県の辺野古新基地建設現場では土砂の投入が続けられた。本土側のお祭り騒ぎをよそに、いつものように抗議のカヌ-を漕ぎ出した作家の目取真俊さんは自身のブログにこう書きつけた。「新元号が制定されたとマスコミが馬鹿騒ぎしているが、そんな日にも辺野古では新基地建設工事が強行されている現実を伝えてほしいものだ。平成から令和に変わっても、沖縄に米軍基地を押し付ける日本政府の政策は何も変わらない」(4月1日付「海鳴りの島から」)―。安倍首相がいう「日本(人)」の中に果たして、「沖縄(とそこに住まう人たち)」は含まれているのか。「否」であろう。

 

 歯が浮くような虚飾に彩られた首相談話を耳にしながら、骨踊りはまだ、やむ気配がない。どうも、この一大祝祭を前に刊行された一冊の本に取りつかれているらしい。タイトルはずばり、『骨(こつ)踊り』(幻戯書房、2019年2月刊)。作者は反骨の“ゲリラ”作家と言われた故向井豊昭さん(1933~2008年)で、未発表の作品も収録された635ペ-ジに及ぶ大著である。この作品は後に『BARABARA』(ロ-マ字表記もバラバラになっている)と改題され、1993年に62歳で早稲田文学新人賞を受賞し、話題になった。

 

 小説の舞台は昭和天皇の崩御によって、「昭和」から「平成」へと代変わりする「昭和64(1989)年1月7日」―。「自粛」ム-ドが高まる中、そんな空気に抗(あらが)おうとする「もう一人の自分」が際限なく、自己解体していく物語である。最後はこう締めくくられる。「戻ろう。戻ってこい。外れていった22人の自分たちよ。踊って踊って踊り続けた骨踊りの一日は終わったのだ」。一部内容に手を加えた改題作ではこの部分が「ならば、これからも、BARABARAと外れ続けてやろう。種子のように外れては、不逞の輩をバラ撒くのだ」と差し替えられている。「不逞(ふてい)の輩(やから)」とは大政翼賛的な装いに対し、「ノ-」を突き付ける者たちを指すのであろう。

 

 「平成」から「令和」へ―。ふと我に返ると、万葉賛歌に彩られた祝祭ム-ドに飲み込まれようとしている自分がいた。一方で、「こうした同調圧力に屈してはいけない」と自らを叱る「もう一人」がいる。ゴキッ、ゴキッ、ゴキッ……。自己解体はまるで腑(ふ)分けのような勢いで進んでいく。私はスポ-ツジムに通い始めた時の気持ちをこう書いた。「これって、現代版の『タ-ヘル・アナトミア』(解体新書)ではないのか」(1月29日付当ブログ参照)。胸や腕、腹、背中、肩、臀部(でんぶ)。所狭しと置かれた健康器具にはまるで、腑分けした人体解剖図のような写真が張り付けられていたのである。そしていま、腑分けされたわが身の中では骨踊りに熱中する分身がいる。

 

 「25年間、ボクが小学校の教員をやった北海道の日高地方は、アイヌの人口が最も多い土地だった。ボクは日本語という血の滴(したた)る刃(やいば)を持って授業を続け、同化教育の総仕上げに加担したのである」(本文から)―。私は生前の一時期、向井さんからその稀有なる文学論を拝聴する機会があった。丸い眼鏡をかけた柔和な口元から時折、こんなギクッとするような言葉が飛び出した。終生、「自己韜晦(とうかい)」を貫き通した作家だった。

 

 そういえば、この日(4月1日)は「エイプリルフ-ル」だったな、ふと心づいた。同じ日、遠く九州の地で「忖度(そんたく)」発言をした国土交通副大臣が辞任に追い込まれ、被災地を蔑視する発言をした五輪担当大臣の更迭がこれに続いた。「四月馬鹿」ともいう。支持率の上昇にほくそ笑む安倍首相、その配下にはソンタクが習い性になってしまった国会議員や官僚たちがいる。騙(だま)した方が馬鹿だったのか、いや騙された方がもっと馬鹿だったのかもしれない。そのどちらにも与(くみ)しないため、私はこれから先も「骨踊り」を踊り続けなければならないと思っている。中世ヨ-ロッパでも「死の舞踏」と呼ばれた“骸骨踊り”(ダンス・マカブル)が流行(はやっ)たそうである。

 

 

(写真は向井豊昭小説選と名づけられた『骨踊り』の表表紙)

 

 

《追記》~若い感性

 

 新元号「令和」に関連して、18歳の女子高校生のこんな投書が13日付「朝日新聞」声欄に載った(要旨)。「5月1日から新元号『令和』の時代が始まる。このような今の日本の状態では、『美しい調和』の時代を生きていけない。調和というより、むしろ人々の意見が対立している。『令和』の時代は、政府が国民の意見を聞き入れて政治が行われる、民主主義らしい日本になってほしい。そのためにはまず『辺野古反対』の意見を政府が聞き入れるべきだ」

 

 

花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の5(玉砕の島「硫黄島」秘史=完)…「昭和」から「令和」へ

  • 花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の5(玉砕の島「硫黄島」秘史=完)…「昭和」から「令和」へ

 

●《第8話》~なにが、そうさせたか

 

 グリフィンは、彼の自殺の動機として耳にしたとして、職に就けないこと、メンツの失墜への恐れ、日記探しが叶わなかったこと、自分ひとりが生き残った罪悪感、海軍魂の壊滅、などをあげるとともに、日本に住むよりも島に朽ち果てようとの見方もあった、と述べている。そして、生前の会話で、山蔭が「この島には陸戦隊七千人を含む二万三千の部隊がいたが、助かったのは私のほかに百五十八人しかいませんよ。そう思うとつらい」と語っていた、と漏らしている。

 

 5月14日付の毎日新聞は「死はすでに覚悟」「残された遺書と記録」という見出しのトップ記事で、『遺書 私が今度硫黄島に行くについて大野(利彦)さんへ万一の場合を思いお願いしておきます。どうせ私が無事帰れない時は現在私の書いている原稿を出版していただきたいと思うのです。―中略― もしぼくが帰らない場合、せめて一人の母親への最後の孝行として、そのお金を母親のところへ送ってもらいたいのです。また私の持物も私が死んだら母親のもとへ送ってください ―後略―』

 

 山蔭光福の遺骨は13日、立川空港にもどった。戦前戦後通じて4年4ヵ月ほどの島での日々、帰国後2年3ヵ月ほどの日本での生活。19歳の青年兵士は、26歳での自死を選んだ。江東区の寄宿先に上記の内容を書き残し、10日間帰らなかったら、硫黄島での上官だった大野に渡すよう言い置いていた。遺骨を引き取りに上京したのは実兄の本美で、彼の手に遺骨と原稿が渡された。後述する山蔭喜久治さんは、本美の長男である。
 

 母親のハルは「何で死んだのか判りません」といい、上官だった大野は「身を投げた気持はあの恐ろしい戦争を体験したものだけが判るのではないでしょうか。私でも摺鉢山に登ったら飛びこまないという自信はもてない」と話している。

 

●《第9話》~山蔭家を訪ねて

 

 山蔭光福が生きていれば93歳。出身の岩手県花巻市を訪ねた。彼の生まれた昔からの花巻温泉から近いところに、畑に囲まれた静かな一軒があった。甥にあたる山蔭喜久治さんがいた。「叔父さんが帰国したのは3歳のときだったから、何も覚えていない」と言いつつ、位牌を見せてくれて、除籍謄本を取り寄せてくれた。たしかに、当時の話については進むことはなかった。ただ、仏壇に日夜線香をあげる雰囲気には、何か叔父を連想するかの静かな気配があった。喜久治さんは、派手な大型のサイドカ-を持つ。これが、生き甲斐のように思えた。記憶にない叔父との時代、年代の開きが際立ち、日本の70年間の変動の大きさを思わせた。

 

 岩手県は、戦争への人的供給源だった。戦前の農業主体の経済基盤は、大家族の生計を維持しきれず、軍隊は二男、三男たちのいい就職先であり、糊口をしのぐ場でもあった。この湯本(元稗貫郡湯本村)は明治以来、西南の役の従軍6、八甲田山雪中行軍の遭難1、日清戦争従軍13、日露戦争従軍120・戦没11、第1次大戦従軍118・戦没9、さらに満州事変から太平洋戦争までの戦没は陸軍162・海軍26・軍属7・看護婦と学徒各1、と犠牲者も相当数にのぼる(角川地名大辞典)。光福の横須賀軍務時代には、同郷の一等兵がおり、硫黄島の空爆激化のころには隣村出身の一等兵がいた。地元出身の菊池武雄は終戦直前にマニラで戦死した。

 

 戦争の記憶は次第に薄れる。そして、忘れたころに新たな戦争の準備――対外的な差別や嫌悪の情があおられ、あるいはもっともらしい理由づけによる軍事費の増大などが進められる。和平の維持高揚への外交努力が薄れていく。状況は異なるが、山蔭光福のような哀しみが再生産される土壌が生まれてくる。硫黄島のみならず、外地に眠るあの無数の遺骨は放置されたままで、国家は「徴兵制度」「国民皆兵」の政策を押し付けてきながら、その遺骨の収集・帰還の労を積極化させ、優先させる気配は乏しい。

 

 兵士たち戦死者の霊だけは、いわば政府の手で形式的、強制的に靖国神社に祀られる。戦争遂行の責任者と一緒に祀り、その矛盾をも気付かずに、権力を握る政治家たちは年に2、3回、賑々しく靖国神社の舞台に姿を見せる。批判されれば、ごくわずかな真榊(まさかき)、玉串料をポケットマネ-だと言って奉納する。
 

 それはそれとしても、遺族たちの思いは御霊(みたま)だけにあるのではない。本人の帰還が望めないなら、せめて身近な思いをとどめる遺骨にこそ触れたいのだ。形式的な御霊祀りか、肉親のせめてもの思いを遂げる遺骨の確保か。そこに、政府・政治家など権力者の、戦争犠牲者への認識の誤りがある。戦争というものへの国家の責任と義務について一過性にしか考えない。犠牲者周辺に残された悲しみの深さを知ること、そのせめてもの安らぎのためになすべき任務を果たすこと、ひいては戦争を「悪」とし、ふたたび引き起こさない大きな視点から常に取り組むこと…そのような基軸は持てないものか。

 

 山蔭光福という一兵士が巻き込まれ、思いもよらない生還と死は、多くのことを今の70年後に語り掛けている。

 

 

(写真はクリント・イ-ストウッド監督の「硫黄島」2部作。いずれも2006年公開。硫黄島を題材にした日米の映画は6作にのぼる=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~転載を終えて

 

 華やかな「令和」は血塗られた「昭和」の延長線上に存在する。この自明の理が遠くにかすんでしまうかのような元号フィ-バ-である。わずか70数年前、この足元で起きた“戦争秘話”をきちんと記憶に刻んでおきたい。読売新聞記者から小説家になった故菊村到は、「山蔭光福」の数奇な運命を題材に『硫黄島』を書いて芥川賞(1957年)を受賞。2年後には宇野重吉監督の下で映画化された。

 

芥川賞受賞作の映画化となれば、今どきならビッグニュ-スにちがいない。ところが、このことを伝え知っている地元民はほとんどいなかった。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」(戦陣訓)―。「死者」が「生者」に生まれ変わることを許さない共同体の“掟(おきて)”が光福さんを死に追いやったのではないか―こんな妄想に取りつかれてしまった。光福さんと同じ時期に出征した私の父はシベリアの凍土に没し、二度と戻ることはなかった。

 

 

 

 

 

花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の4(玉砕の島「硫黄島」秘史)…「昭和」から「令和」へ

  • 花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の4(玉砕の島「硫黄島」秘史)…「昭和」から「令和」へ

 

●《第5話》硫黄島からの帰還報道

 

 山蔭、松戸の投降の第一報は、昭和24年1月9日の朝日新聞に「硫黄島で生き残り 2名が米軍へ投降」のベタ記事として載っていた。氏名が明かされたのは11日の記事で、「ヤマカゲ・クフク(24)=仙台」「マツド・リンソキ(34)=東京」とある。米軍の発表は「1月6日投降」ともあって、間違いや文字の説明ミスがみられる。同じ紙面には、フィリピンから4000柱の遺骨が帰国した、との記事も見える。当時、新聞は表と裏の2ペ-ジだけだった。

 

 花巻に帰郷した山蔭は、すでに「故人」だった。当時としてはありがちなことではあったが、位牌に「俊興軒正龍義福清居士英霊」「昭和22年3月17日 於硫黄島戦死 海軍水兵長 行年二十二歳」とあり、光福は胸を締め付けられる思いだっただろう。また、戸籍謄本には「昭和貮拾年参月拾七日(=昭和20年3月17日、時刻不詳)硫黄島方面ニ於テ戦死」とあり、謄本にある日付は、硫黄島全滅の日だが、位牌のほうはその2年後。それは、親族が光福への思いを断ち切るまでの歳月だったか。
 

 戸籍には追記があった。「戦死による抹消の記載錯誤に付き昭和貮拾四年貮月拾壱日(=昭和24年2月11日)付…の戦死報告取消通知により同月拾九日(=19日)戸籍の記載を復活」。さらに、「昭和弐拾六年五月八日午前拾時硫黄島中央飛行場診療所で死亡」とある。この「死」とは、いったい何なのか。

 

●《第6話》~東京で就職した2年間

 

 山蔭光福は帰国後、いったん花巻に帰るが、すでに父千平は亡く、母のハルは彼女の生まれ育った実家に戻っていた。また、「勝ってくるぞと勇ましく…」と派手に送り出され、軍人としての矜持に生きてきた彼にとって、4、5年間程度のブランクだったとはいえ、日本の状況は様変わりしており、この不在の期間は大きく、郷里での居心地を悪くしていたのだろう。
 

 かつての無二の仲間であった松戸には、海軍入隊時に村の人々から餞別や見送りを受けており、「いまさら、(警察予備隊に)不合格だと村には帰れない」と話していたという。そうした事情もあって、松戸は親類である亀戸の鋳物工場の経営者を紹介、山蔭はそこに昭和26年まで働いていた。松戸によれば、山蔭は働き者でおおいに気に入られたが、先輩格の同僚にねたまれ、その後出て行ったという。そのころ、山蔭は硫黄島での上官だった上野利彦を訪ね、その世話で就職先も決まっていた。

 

●《第7話》~死を求めたか、再度の硫黄島へ

 

 山蔭は帰国後、島での逃避行の様子などを思い出しては記録していた。400字詰め1000枚近くになっていたという。しかし、本音としては島に埋め残してきた4年間の日記を取り戻したかった。その期待がいかに強かったか、推測できないではない。というのは当時、米軍統治下にあった日本からの渡航は不可能な時代だった。それでも、「日記探し」としての米軍の渡航の許可を得ることができたのだ。執念だったのか。いったい、どのような伝手をたどって実現したのだろうか。昭和26年春のことだった。

 

 時は朝鮮戦争のさなかであり、自衛隊の前身・警察予備隊が生まれ、相次いで政財界や右翼などの公職追放組2万余が解除・釈放される一方、共産党などの左翼グル-プを抑える狙いからレッドパ-ジが進められ、また社会党の鈴木茂三郎や日教組が「教え子を再び戦場に送るな」と叫ぶなど、保守・革新が激突する時代だった。戦後の新憲法のもと、非武装中立に向かおうとするかの日本が、米ソ対立の渦中にあって、米国との接近を強め、戦前の人材を蘇らせ、軍事増強の道に進む、大きな岐路に立たされた時期でもあった。

 

 5月7日、山蔭は極東空軍司令部の歴史課員スチュア-ト・グリフィンとともに、硫黄島に飛んだ。彼はジ-プで山蔭に同行し、その最期を見届けた人物である。以下は、この米軍人が記した毎日新聞記事(5月10日付)による。そのトップ記事の見出しは「太平洋への〝死の跳躍〟」「摺鉢山で硫黄島生き残りの山蔭君」「探す〝四年の洞窟日記〟」「ナゾ解けぬ彼の死」というものだった。

 

 帰国を控えた8日朝、山蔭は海に面した高地の摺鉢山へ写真を撮るために登った。ただひとり、目撃したグリフィンの発言を記事から見ておこう。「山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メ-トル離れた地点であった。山蔭君は突然両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら狭いがけの突出部から身を躍らせた。そのため落下する姿はマザマザと目撃された。険しいがけの中腹に同君の身体が最初に激突したとき、火山灰がもうもうと舞い上がった。もち論即死だったろうが、その身体は何度もがけの突出部にぶつかりゴロゴロと転がりながら、落ち込んで行った。午前10時半ごろだったろう」

 

 

 

(写真は山蔭水兵長が飛び降り自殺した硫黄島のシンボル・摺鉢山。山頂付近にはまだ、旧日本軍の銃座跡など残骸が放置されたままになっている=インタ-ネット上に公開の写真より)