コロナ禍の文学…「最後の自粛」という想像力

  • コロナ禍の文学…「最後の自粛」という想像力

 

  「これから、新しい時代が始まります。世界は、そこで生きていく価値のあるものに変わります。今しがた抑圧者の多くを片付けました…」―。2021年7月23日、「新型コロナウイルスによる災禍からの復興」をテ-マにした東京五輪は主催者側のこんなあいさつで幕を開けた。国立競技場のステ-ジには“自粛”された各国首脳の無残な死が転がっていた。コロナ禍を文学はどう表現するのか…東日本大震災の際の『想像ラジオ』(いとうせいこう著)がそうであったように、今回のパンデミックをリアルタイムで描写する手法は当面、文学という「想像力」に頼るしかない。冒頭のセリフは「コロナ禍の時代の表現」を特集した総合文芸誌「新潮」(6月号)に収録された作家、鴻池留衣さん(33)の長編『最後の自粛』の一節である。

 

 「地球温暖化研究会」を名乗る男子校の愛好会が物語の主人公である。共学化を迫る外部団体への反発から、運動が先鋭化していく。そして、高校生たちは現下のコロナ禍に遭遇する。話の筋道にはいろんな仕掛けが施されているが、23日付当ブログで触れた「正義」に対する反逆の物語として、読み解くこともできる。つまり、「自粛」を要請する側を他動詞的に“自粛する”という意味合いにおいて…。同調圧力が働くいまこそ、「表現の自由」の出番である。たとえば、文中にはこんな過激な会話が並ぶ。

 

 「だって、まるでコロナウイルスが登場するまでは、世界には死など存在しなかったような物言いじゃないですか。今まであいつらは命がけで生きてこなかったのでしょう。人間が常に死と隣り合わせであることを知らなかったのでしょう。あいつらにしてみれば、俺たちの人権などどうでもいいのでしょう。ならばこちらも、あちらの人権などどうでもいい。そうだ、社会実験だ。彼ら抑圧者にはこれから、生きるのを自粛してもらいます。人間には様々な死に方があるのだと、教えてあげます。あいつらがそれを、心底理解した暁には、今更パニクるのも馬鹿らしくなり、俺たちの自由を侵害することもなくなるのではないでしょうか」―

 

 私の脳裏には既視感のある自粛の光景として、31年前の昭和天皇の崩御(ほうぎょ)に伴う“自粛ム-ド”と東日本大震災後のそれが刻まれている。前者は「喪(も)に服す」というある種、伝統的な身の処し方として受け入れられ、後者は犠牲者の死を悼(いた)み、被災者に寄り添うという形での慎み深さを促した。ところが、今回は根本が違う。人類全体が否応なしに「死」に直面させられているという「当事者性」ゆえかもしれない。「命か経済か」―という二者択一が許されないというジレンマ、つまり“感染死”も“経済死”も同時に防がなければならないという命題を突きつけられているということなのだろう。

 

 文中にこんなくだりがある。「その後上級抑圧者を自粛し始めた。そこには政治家、知識人、裁判官、中央省庁の官僚などが含まれており、初期のリストアップにおける彼らの共通点が何だったかと言えば、他人に対して無責任に自粛を求めたことである」―。そして、「最後の自粛」は1年間延期されていた東京五輪のその日に実行に移される。この日を待ちわびていた一人がつぶやく。「新型コロナウイルスのパンデミックの影で、何か別の非常に重大な危機に人類は晒(さら)されているのではないかという指摘をしてくれる人もいたのだ」ーと…

 

 安倍晋三首相はワクチンなどの開発を急ぐ一方で、まるで来年の五輪開催にスケジュ-ルを合わせるかのように「新しい生活様式」を提示した。経済・社会活動の再開(緊急事態宣言の解除)と引き換えに、装いを新たにした“正義”(自粛の強制)が再登場したと言ってもいい。京都大学人文科学研所の藤原辰史・准教授(農業・環境史)はこう述べている。

 

 「とくにスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)がそうであったように、危機脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増えるだろう。醜い勝利イヴェントが簇生(そうせい)するのは目に見えている。だが、ウイルスに対する『勝利』はそう簡単にできるのだろうか。人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだから。…危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか」(Web岩波新書「B面の岩波新書」4月2日付「パンデミックを生きる指針」)

 

 “正義の大合唱”が抱え持つ、もうひとつの負の側面を肝に銘じておきたい。えてして、その落とし穴にはまりこむのは(かつて、私がそう命名した)「善意の人」族(ミュータント=突然変異体)と呼ばれる集団であることも歴史は教えている。そういえば、日中戦争時に国家総動員法成立の後押しをしたのが、革新を標榜する社会大衆党だったことを、ふと思い出した。コロナパンデミックは装いを新たにした”国家総動員法”を産み落としつつあるのかもしれない。

 

 

 

 

(写真は外出自粛で人影が消えた市中に出現したシカの群れ。マスクをした人間がその間を申し訳なさそうに通り過ぎていく=奈良市の奈良公園近辺で。インタ-ネットに公開の写真から)

+

 

  

 

「新しい生活様式」…新旧ストレスの狭間(はざま)にて

  • 「新しい生活様式」…新旧ストレスの狭間(はざま)にて

 

 「外出時、屋内にいるときや会話をするときは、症状がなくてもマスクを着用。歌や応援は、十分な距離かオンライン」―。5月4日に公表された「新しい生活様式」の実践例を見て一瞬、虚を突かれた。男やもめの“巣ごもり”生活でたまったストレスを解消しようとシニアの合唱団に参加したのもつかの間、コロナ禍で会場の公共施設が閉鎖されたため、「ステイホ-ム」なる新手の巣ごもりを強いられてもう、3ケ月近くになる。本日(5月25日)の緊急事態宣言の全面解除で、再開の見通しはついたものの、どうも気持ちがすっきりしない。たとえば、マスク姿で歌をうたうという奇怪なスタイルにどうにも想像力がついていけないのである。「合唱」という人類古来の表現方法は生き残れるのか…

 

 「『学校再開ガイドライン』を踏まえ、また『新しい生活様式』を心掛けても、コンク-ルでの集団による合唱は、十分な間隔をあけたり近距離での発声を避けたりすることに限界がある。主催者としてやむを得ない苦渋の判断」―。NHKは11月に予定していた小中高にまたがる全国最大規模の合唱祭(Nコン)の中止を決めた。太平洋戦争中の2回を除いて、約90年ぶりのことである。全日本合唱連盟などが主催する全日本合唱コンクール全国大会も1948年以来、初めての中止に追い込まれた。

 

 妄想が際限なく、広がる。多い場合は1万人から数千、数百人が集う年末恒例の「歓喜の歌」(ベ-ト-ベン「第9」)の大合唱は一体、どうなるのだろう。そして、紅白は?「歌う」という所作は人類のコミュニケ-ションの原初形態と言われる。今後も続くであろう「三密」防止という作法は想定外のライフスタイルを生み出しそうな気配である。”人間”喪失の現実味…

 

 気持ちが晴れない日々が続く中、長引く巣ごもり生活によるコロナ鬱(うつ)や経済的な困窮に伴う「コロナ」自殺が急増するのではないかと勝手に思い込んでいた。ところが、厚労省などの調査で4月の自殺数が前年同月比で359人少ない1455人に止まり、最近5年間では最大の縮小幅であることがわかった。今後の動きは未知数だが、とりあえずはホッと胸をなでおろした。

 

 この“ナゾ”について、ある分析はこう書いている。「皮肉なことに、ウイルスがそれらを回避するための迂回路をつくったといえるかもしれない。ステイホ-ムが求められる状況下において、好きな職場、好きな学校に行けず、楽しい時間を過ごせず、好きな人と会えなくて、それこそ死ぬほどにつらい思いをしている人が大勢いる。しかしその一方で、嫌いな職場、嫌いな学校に行かず、苦手な人、嫌いな人に会わずに済んでいることで、心から胸をなでおろしている人もいる。不謹慎であることは承知しつつも、できれば緊急事態宣言が終わってほしくない―心中ではそう願ってやまない人も、この記事の読者の中にはきっといるはずだ」(『現代ビジネス』5月24日付電子版)

 

 「できる限り後方の座席に座るよう求める」(バス)、「テ-ブルを仕切ったり、2㍍(最低1㍍)以上の間隔を空けたりする」(飲食店)、「お酌や杯の回し飲みは控える。鍋はや刺身は1人盛りに」(旅館)、「余興は大声を避け、列席者と十分な間隔を保つ。スナップ撮影は密にならないポ-ズで」(結婚式場など)、「立ち読み自粛の呼びかけ」(書店)、「小声でも聞こえるよう、遊技機や店内音楽の音量を最小限に」(パチンコ店)、「マ-ジャン卓からイスを離し、対人距離を確保。3時間ごとに牌(はい)や点棒を交換や消毒」(マ-ジャン店)…。経団連や各業界団体はこんな感染防止策の指針をまとめた。その場面にわが身を置いてみる。もうひとつの「ストレス」が襲いかかってきた。

 

 「旧型ストレス」から「新型ストレス」へ―。出社や登校拒否に悩んでいた人たちがいっときのステイホ-ムによって、こころ休まる「安寧」(あんねい)のひと時を得たのはその通りだと思う。そういえば、漫画家の五味太郎さんもこう語っていた。「それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた?居心地はよかった?普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも『早く元に戻ればいい』って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい」(4月5日付「朝日新聞」ウイズニュ-ス)

 

 ところで、“出口戦略“とやらの緊急事態宣言の解除によって、「歓喜」の瞬間を手にした側に希望の光は差し込むのであろうか。いや、このウイルスはもうすでに別種のストレスを与えようと虎視眈々(こしたんたん)と待ち構えているような気がしてならない。そして私が当面、気がかりなのは郷土の詩人、宮沢賢治のあの詩の行方である。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ…」―。「行ッテ」精神の大切さを訴えたと評されているが、「新しい日常」の下ではそばに寄り添うこと自体が難しくなってきそうな雲行きである。これはある意味で、“思想”(生き方)の根幹にかかわる重大事である。

 

 カミュは『ペスト』をこう結んでいる。「そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠(ねずみ)どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを」―。「コロナ神」(今回の災厄に身を置き続けるうちに、いつしかこのウイルスに神の称号を献上するようになってしまった)は日常生活の所作の変更などではなく、「新人世」(しんじんせい)がこの地球上に刻んできた無残な痕跡の数々を顧みることの大切さを教えているのかもしれない。

 

 

 

 

 

(写真はフェイスシ-ルド(簡易防護面)を付けたまま、伝統舞踊を披露するタイの女性たち=インターネット上に公開の写真から)

コロナ禍の中の“ルイ14世”と「非常の時」の危うさ

  • コロナ禍の中の“ルイ14世”と「非常の時」の危うさ

 

 

 「コロナ大戦争」―。国家や民族、宗教などの対立がきっかけとなった従来の「戦争」がとりあえず終わりを告げ、人類はいま共通の敵である未知なるウイルスとの間で“戦闘状態”にあるというのが一般的な認識である。とすれば、旧来型とは違った戦法・戦術が出てくるのは当然である。相変わらず、大国間での責任のなすり合いはあるものの、そんなことにかまっていては、全地球の滅亡さえ招きかねない。人類はどこに向かおうとしているのか―

 

 「非常の時、人安きをすてて人を救ふは難きかな/非常の時、人危きを冒して人を護(まも)るは貴いかな/非常の時、身の安きと危きと両(ふた)つながら忘じてただ為すべきを為すは美しいかな」―。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883―1956年)は戦中・戦後にかけて花巻に疎開し、敗戦5日前の8月10日、48人が犠牲になった空襲に遭遇した。負傷者の救護に当たった医師や看護学生の勇気をたたえのが、この詩「非常の時」である。毎年5月15日、花巻高等看護専門学校の生徒たちによって朗読されるのが恒例となっていたが、今年はコロナ禍の影響で中止された。一方でこの詩に触発され、手作りマスクにその一節を添えるなど共感の輪が広がりつつある。

 

 「フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕(ちん)は国家である』という中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない」―。その一方で同じ日、検察庁法改正に反対する検察OBの意見書が法務省に提出された。虚を突かれた。そうか、コロナ大戦争の陣頭指揮に立つのはかの“暴君”に比肩(ひけん)される我が安倍晋三首相だったというわけである。現下の状況に照らせば、医療や介護従事者、ライフラインを維持する人たちがコロナ最前線の「兵士」だとすれば、そのほかのすべての国民は「銃後の守り」に付かなければならない―という構図である。

 

 暴君が何の手も下さずに事が済むという意味では、随分とグロテスクな光景ではないか。戦前なら国家総動員法などの強権発動が必要だったが、いまや「3密を避け、自粛にご協力を」というだけで、現場兵士に対するエ-ルが澎湃(ほうはい)として湧き上がってくる。それだけではない。いつの時代にも権力者に歯向かいたくなる“不届き者”はいるのだが、いまやその監視役も銃後がきちんとやってくれる。かつてなら「自警団」と呼ばれたであろう“自粛警察”を名乗る善良なる一群がル-ル違反者をつるし上げ、県外ナンバ-の車を密告する。そして、こんなどさくさに紛れて、権力者は憲法や法律の改悪を目論む。作家の真山仁さんは「コロナと正義」というタイトルでこう書いている。

 

 「自粛要請があっても、ル-ルを守りながらギリギリの中で営業を続ける人は『非国民』とでも言うのだろうか。戦前の隣組の密告というのは、こんな雰囲気だったのだろうか、と思ってしまう。なぜ、こんなに『正しさ』に縛られてしまうのだろうか。『悪い人』が見つかる方が、安心するからかも知れない。しかし、残念ながら、新型コロナウイルス感染に悪者はいない」(5月16日付「朝日新聞」)―。その通りだと思う。旧来の戦争は「勝者」と「敗者」を生み出して決着するのが常だった。しかし、今回の「コロナ大戦争」の“敵”は目には見えない。それどころか、その神出鬼没ぶりは闘う側の自陣を混乱の極に陥れる。

 

 たとえば、「非常の時」に共感するのは例外なく「善意」に満ちた人たちであろう。しかし、私たちはこの善意が突然、「正義」に変貌する瞬間もすでに目撃している。最前線の兵士たちが感染した瞬間、「もうこっちには近寄るな」という視線の変貌を。私自身、そんなおのれの危うさにうろたえてしまう。「被害」と「加害」の内なる同居…誰しもがウイルスに感染する可能性を持っているというこの二重性こそが「コロナとの闘い」の宿命的な難しさである。この闘いには勝者も敗者もいるはずはない。

 

 「コロナの時代の新たな日常を取り戻していく。今日はその本格的なスタ-トの日だ」―。安倍首相は緊急事態宣言の一部解除を発表した今月14日、こう胸を張った。真山さんは怒りをにじませながら、書いている。「馬鹿馬鹿しいしい提案だろう。なぜなら、今は異常事態で非日常の真っただ中なのに、これを『新たな日常』などというなんて。首相は生活ル-ルの細部にまで言及した。それによってまたひとつ、新しい『正しさ』が生まれてしまった気がする。我々はいま、新型ウイルスより恐ろしい『正義』という伝染病に立ち向かう勇気を持つべきなのだ」(同上紙)

 

 「パラダイムシフト」(価値の大変革)という人類史上最大の岐路に立たされているいま、私たち一人ひとりが「ポストコロナ」の試練の中にいる。「新しい日常」はその試練の中から自分たちの手で見つけ出さなければならない。

 

 

 

(写真は“正義の味方”月光仮面を思わせる貼り紙。全員が「正義」という麻薬に取りつかれてしまいかねない=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

身ぐるみはがされ、すっぽんぽん…コロナ禍のいま、新聞が面白い

  • 身ぐるみはがされ、すっぽんぽん…コロナ禍のいま、新聞が面白い

 

 「しばらくは、離れて暮らす/『コ』と『ロ』と『ナ』/つぎ逢ふときは、『君』といふ字に」(5月11日付「朝日新聞」)―。この短歌に思わず、うなってしまった。「君」という漢字を何度か、なぞってみた。「コ」と「ロ」と「ナ」を組み合わせた結果、「君」という合成語が目の前に姿を現わした。大阪在住の会社員、タナカサダユキさん(56)が大切な人と会えないつらさと未来への希望をこの短歌に託した。「人のふり見て、我がふり直せ」…人類を恐怖のどん底に突き落とした「コロナ神」はひょっとしたら、素知らぬ顔をしてそんなメッセ-ジを発しているのかも。若干、品性にかけるが、なんかもう地球儀のストリップショ-を見るみたい。「すっぽんぽん」が満載の新聞が、だからいま面白い。

 

 東日本大震災の月命日に当たる「5月11日」は本来なら、犠牲者の追悼や復興の進み具合に紙面の多くが割かれるのが恒例だったが、今年は当然のことながら「コロナ」一色。とりあえず、同日付の朝日新聞の見出しを一面から拾い出してみると―

 

●中国式の「目」10億人追う/コロナ禍、デジタル覇権の影

●吹奏楽コンなど3大会中止

●ワクチン、いつできる?/「時期は見通しにくい」

●世界の感染400万人超

●「新冷戦」コロナが浮き彫り

●バッタ対策、コロナが拒む/アフリカ東部、国連「2千万人が食糧危機」

●感染対策に「追跡」技術/難しい個人情報の排除

●東京五輪延期/アスリ-トのメンタルは

●感染拡大、サッカ-選手の心に影

●おうちごはん、もっと楽に(巣ごもり食事の指南)

●オンラインで一緒に成長/花まる先生(一斉休校の打開策)

●小松左京、現実が後追い/感染症との闘いリアル

●できることから始めましょう!お家でおなかの脂肪対策(外出自粛に伴う製薬会社の広告)

●「歩合制」タクシ-運転手、大打撃

●感染警戒、離島の医療綱渡り/唯一の診療所、医師1人だけ

●#検察庁法改正案に抗議します/2日でツイ-ト470万件

 

 ざっと、こんな具合でタナカさんの短歌は26面で発見。途中で広告欄に目を移すとこんなものも…「山岳信仰の聖地、出羽三山ツア-/自然と信仰が息づく生まれ変わりの旅」。全28面に目を通し終わって、ハタと心づいた。「3・11」関連はゼロではないか。「それにしてもまさか」と紙面を繰り直した結果、あった、あった。21面の岩手版のコラム「3・11/その時 そして」。なんと、この日の記事が通算で3225回目だった。古巣の新聞社が頑張っているのを知り、ほっと胸をなでおろした。あれからもうすぐ、10年になる。当時の惨状がコロナ禍のいまと重なった。

 

 「去るも地獄、残るも地獄」―。あの時、放射能禍を逃れる人々の群れが列島全体に散った。そしていま、「ステイホ-ム」という名の外出自粛が強いられている。放射能(避難)とウイルス(隔離)―もしかしたら、この二つは進化論だけにしか目を向けてこなかった「文明」の落とし子…“文明禍”と言ってもいいかもしれない。

 

 ゴリラ研究専門の霊長学者で京大総長の山極寿一さん(68)は「ポストコロナ」について、こう述べている。「ウイルスが蔓延(まんえん)する時代にどんな社会が強靱(きょうじん)な抵抗力を持つのか。まずは自然破壊の手を緩めることだ。地球は私たちの目には見えない無数の細菌やウイルスがバランスを保っている。それを壊すことが未知のウイルスを呼び出し、家畜や人間の密集に乗じて感染を拡大させる。もし新しいウイルスが襲いかかった場合、それを最小限に抑え、人々の社会的絆を失わない体制を準備しておく必要がある」(5月15日付「朝日新聞」)―

 

 人類が「居場所」を失いつつあるいま、「人間の自然化」あるいは「自然の人間化」の重要性を説いたフランスの社会人類学者、レビィ・ストロ-スの名著『野生の思考』を再読してみたいと思っている。

 

 

 

(写真は「コロナ」の中に「君」を見つけたタナカさんの短歌=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記-1》~コロナが取り持ってくれた旧友との再会

 

 ちょうど60年前の今日(5月20日)未明、日米安保条約(60年安保)の改定案が数百人の警察官が議場を固める中で、強行採決された。国会周辺のデモの隊列の中に私もいた。いまに至る人生の「原点」であるが、コロナ禍に翻弄(ほんろう)され、節目のこの日を失念してしまっていた。この政治動乱を取り上げた朝日新聞のコラム「天声人語」(5月18日)に懐かしい名前を見つけた。東京国際大名誉教授の原彬久(はらよしひさ=80歳)。安保の“戦友”で、国際関係論のゼミでは机を並べた。のちに、当時の岸信介首相の「オ-ラル・ヒストリ-」(聞き書き=口述歴史)を手がけ、『戦後日本と国際政治/安保改定の政治力学』という大著で法学博士号を取得、日本公共政策学会長なども歴任した。

 

 互いの下宿先を訪ね合い、青臭い“政治論争”を重ねた「安保世代」は彼がプリンストン大学やケンブリッジ大学の客員研究員となって、政治学の道に進み、私は新聞記者を志して以来、音信が不通になっていた。「コ・ロ・ナが君を呼んでくれたんだな」―と旧友の名前をしみじみと眺めた。安保闘争の責任を取って、岸元首相は約1ケ月後に退陣を表明。コロナ対策で迷走を繰り返す安倍晋三首相はこの人の孫にあたる。検察庁法改正の今国会成立を断念したいまこそ、祖父の“引き際”に学ぶべき時ではないか。20数回に及ぶ旧友の証言録の中にはその道筋が示されている。「声なき声を声あらしめなければいかん、ということは年をとってくればだんだん、わかるんだが」―。旧友はコラムの中で、元首相のこんな言葉を紹介している

 

 

《追記ー2》~バカもんが!?土下座してあやまれ!!!

 

 当ブログで古巣の新聞社を持ち上げたとたん、政権の太鼓持ちとうわさされる黒川某(弘務検事長)と新聞記者が賭けマージャンをしていたという”文春砲”が飛び込んできた。緊急事態宣言下のしかも”三密賭博”。その中のひとりが後輩記者だとか。私が記者だった当時は、”辺境”(現場)から、権力に対して”ゲリラ戦”を仕掛ける―というのがプロとしての冥利(みようり)だった。反吐(へど)が出るとはこのこと。コロナ禍でのマージャンの作法について、経団連などがまとめた指針によると、「卓からイスを離し、対人距離を確保する」とある。でどうやって、牌(パイ)に手を伸ばすんだろうね。もともと、腰の落ち着かない”へっぴり腰”だったお前らにはぴったりのポーズだがね。黒川某が辞意!?当たり前だろ。コロナ禍を機に日本の政治は足元の市政も含めて一切合財、いったんチャラにした方が良さそうである。

 

 

 

 

 

『ペスト』(デフォ-)から『ペスト』(カミュ)へ

  • 『ペスト』(デフォ-)から『ペスト』(カミュ)へ

 

 「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」―。アルベ-ル・カミュの代表作『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫)のエピグラフにはこんな謎めいた言葉が置かれている。無人島の漂着者を描いた『ロビンソン・クル-ソ-』の著者と知られるダニエル・デフォ-が残した言葉である。カミュに先立つこと200年以上前、デフォ-も同名の作品(平井正穂訳、中公文庫)を発表している。「ペスト」のような目に見えない脅威は人と人を引き離し、監禁状態に陥れる…このエピグラフはそんなことを語っているのだろうか。

 

 今から355年前の1665年、英・ロンドンはペスト禍の猛威に見舞われ、人口の4分の一に当たる7万5千人が死亡した。当時5歳だったデフォ-は長じるに及んで、「死亡週報」や生存者の証言を集め、ノンフィクションとも呼べる手法で作品を仕上げた。疫病におびえるロンドン市民とロビンソン・クル-ソ-に共通するキ-ワ-ドは「監禁」である。当時の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の光景はまるで、もう一枚の透視画像(レントゲン)のように目の前のコロナ禍を浮き彫りにしている。「悪疫(ペスト)流行に関するロンドン市長ならびに市参事会の布告」―発生と同時に出されたこの布告(要旨)には例えば、こんな記述がある。

 

 「すべての芝居、熊攻め、賭博、歌舞音曲、剣術試合、その他の雑踏を招くような催物は一切これを禁止する。すべての饗宴、とくに当ロンドン市の商業組合の宴会、料亭、居酒屋その他の飲食店における酒宴を、追って別命あるまでいっさい厳禁する。料亭、居酒屋、コ-ヒ-店、酒蔵における過度の痛飲は、当代の悪弊であるとともにまた実に悪疫伝播の一大原因であるから、厳重に取り締まる必要がある」―。現下の足元の「緊急事態宣言」そのものである。そして、デフォ-はそんな狭間(はざま)から聞こえてくる悲鳴もきちんと、拾っている。

 

 「じゃどうしたらいいんです?わたしは飢え死にするわけにはいかんですからな。食う物がなくて死ぬくらいなら、疫病(ペスト)にかかって死んだ方がましだと思っているんです。仕事がなければ、何をやればよいというのです?こういったことでもしなければ、乞食をするだけじゃないですか」―。デフォ-の祖国・イギリスはコロナ禍による死者が3万人をはるかに超えてアメリカに次いで2番目、欧州では最悪を記録している。「ロックダウン」(都市封鎖)の段階的な解除にも踏み切った。「歴史に学ぶ」―ということはこんなにも難しいことなのだろうか。

 

 「ペスト」終息に歓喜する当時の市民の様子を、デフォーこう描写している。「どの顔にもあるひそやかな驚きと喜びの微笑がただよっていた。街頭に躍り出て互いに手を握りあって喜びあった。そのさまは、これがつい先ほどまでは、道を歩いていても互いに同じ側を歩かないように、つとめて避けていた人たちとも思えないほどだった」―。こう書いた後で、皮肉まじりに続けている。「それは以前、彼らが悲しみのあまり、演じた狂態にも劣らないものであった。それについていくらでも例をあげて示すことができるが、せっかくの彼らの喜びに『けち』をつけたくないのでよすことにする」

 

 「(放射能禍の)フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統制されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」―。安倍晋三首相は7年前、「アンダ-コントロ-ル」という言葉を使って、五輪誘致の正当化を主張した。今回のコロナ禍によって、来年に延期されたこの一大イベントの開催に向け、この人はふたたび「コロナはアンダーコントロール…」などと同じ言葉を口にするのであろうか。そして、多くの人たちはまたぞろ、コロナ勝利の凱旋行進の隊列に身を投じるのであろうか。デフォ-ではないが、これはやはり「悪夢」である。

 

 「忘却とは忘れ去ることなり」―。もはや老残の記憶になってしまった感があるが、不意に70年近く前のNHKラジオドラマ「君の名は」の有名な冒頭のナレ-ションが頭によみがえった。「忘れる」ことへの罪悪感をこのセリフは続けてこう表現している。「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」―。中世ヨ-ロッパのペスト禍が後世に残した遺訓「メメント・モリ」(死を忘るなかれ)と根っこは同じである。

 

 

 

(写真はペストを扱ったカミュとデフォ-の代表作)