請願審査に疑義あり

  • 請願審査に疑義あり

 花巻市議会は3月定例会最終日の23日、議員発議のあった「自衛隊の南ス—ダン派遣撤退を求める」意見書と「テロ等組織犯罪準備罪(共謀罪)法案の撤回を求める」意見書をそれぞれ可決した。ともに今定例会に請願として提出されていたもので、前者(提出者「平和憲法・9条をまもる花巻地域懇談会」)は付託先の総務常任委員会(阿部一男委員長ら6人)で賛成4対反対1で採択され、この日の本会議でもこの請願に基づいて、阿部議員(平和環境社民クラブ=社民系)が提出した意見書が賛成19対反対5で可決された。

 質疑の中で私は「外交や軍事・防衛、安全保障に関わる案件は、いわゆる国の専管事項と言われているが、南ス—ダンへの自衛隊の派遣はこれに該当すると考えるか」とただしたのに対し、阿部委員長は「その通りだと思う」と答えた。実は昨年6月定例会に沖縄の米軍基地問題に関連し、元米兵による女性殺害・遺体遺棄事件を受け、「日米地位協定」の改定を求める請願が一市民から提出された。ところが当時、総務常任委員会の委員だった阿部議員はなぜか、「外交など国の専管事項は地方議会の権限外だ」として、請願審査を“門前払い”にする旗振り役を演じた。結局、この請願は紹介議員の私と棄権の1人を除いた反対多数で否決されるという経緯があった。

 この二つの案件の整合性について、阿部議員はこの日「今回、専管事項という観点に立った審査はしなかった」と支離滅裂ぶりをさらけ出し、その理由についてもシドロモドロを繰り返した。「議員は、議会が言論の場であること及び合議制の機関であることを認識し、議員相互間の自由な討議を尊重しなければならない」―と定めた「花巻市議会基本条例」はもはや、死文化していることが浮き彫りになった。本来なら議会改革の先頭に立たなければならないはずの革新系会派が逆に、その阻害要因になっていると言わざるを得ない。

 また、提出者は請願事項として「自衛隊の海外派遣は憲法上疑義があるので、南ス—ダンから自衛隊を撤退させるべきだ」と主張したのに対し、阿部議員が発議した意見書ではこの「憲法」論議には一切触れず、「駆けつけ警護など新任務が付与された結果、自衛隊派遣の大義名分であるPKO参加5原則が実質的に崩れている。政府は5月末の撤退を決めたが、それを待たずに一日も早く引き上げるべきだ」とし、最後まで「自衛隊は合憲か否か」、「憲法第9条はどうあるべきか」などをめぐる本質的な議論に踏み込むことはなかった。「請願権」は憲法(第16条)で保障された国民の重要な権利であることを銘記すべきである。

 一方、後者の「共謀罪」関連の請願(提出者「日本国民救援会花巻支部」)は「法案を国会に提出しないこと」を求めていたが、政府が21日に閣議決定をして衆院に提出したため急きょ、請願を取り下げ、同じ趣旨の意見書を桜井肇議員(日本共産党)が発議。賛成13対反対11の僅差で可決された。付託先の総務常任委員会の審査では賛成2対反対3でいったん不採択となっていたが、本会議の場で賛否が逆転した。
 
 私は質疑に当たり、「沖縄の米軍基地反対運動をめぐって、リ—ダ-のひとりが約5か月間不当に勾留され、今月18日にやっと保釈された。こうした“人質司法”は明らかに共謀罪の先取りであり、予行演習とさえ言える。反原発運動など市民運動を射程に入れた法案化であるのは明白だ」(18日付当ブログ参照)と陳述した。当市議会が日米地位協定の見直し請願を否決した、その沖縄の地では基地反対派の動きが警察官や海上保安官、米軍の警備員らによって常時監視され、ビデオに収められている。本土側が見て見ぬふりをする南の島では、“共謀罪”がすでに実行に移されていることを忘れてはならない。


(写真は撤収が決まった南ス—ダン派遣の自衛隊。道路建設などライフラインの建設に貢献した=インタ—ネット上に公開の写真から)
2017.03.23:masuko:コメント(0):[議会報告]

干天の慈雨とオキナワの魂

  • 干天の慈雨とオキナワの魂

  森友、豊洲、(陸自の)日報、共謀罪…、そして、足元の議会でのギスギスしたやり取り―。ぱさぱさと乾き切った心の砂漠を癒(いや)してくれるのはやはり、言葉の力である。そんな「干天の慈雨」語録を以下にいくつか―。水俣の世界を描いた『苦海浄土―わが水俣病』で知られる、作家で詩人の石牟礼道子さんは東日本大震災6周年の今月11日、満90歳になった。私と生年月日が同じだという親近感も手伝ってか、同書は長年の座右の書である。その石牟礼さんが最近のインタビュ-で「朝鮮桃太郎」について語っている。

 「日本語の濁音を朝鮮の人たちがうまく発音できないのを、からかって唄う歌です。『むかしむかし、おちいさんとおぱあさんがおりました…』。こんな風に、朝鮮の人をバカにしたような歌を父兄会の席で教頭先生のような学校の偉い先生が唄うんです。すると父兄の人たちも一緒になってそれを真似て、歌い、踊っていました。もう、やんやの喝采です」(「週刊金曜日」3月17日号)。代用教員時代のこの体験について、石牟礼さんはこう語っている。「…『朝鮮桃太郎』のような歌を聞いたり、教科書に墨を塗る作業しながら、国家とはなんだろう、人間とは何だろうと、いつも考えていました。それが私の生涯のテ-マにもなりました」

 石牟礼さんはこう続ける。「人類、あるいは人類愛といった言葉は、聞こえはいいけれど、はたしてそれを言う資格が自分にあるのだろうか、と、いつも考えてしまうんです。人類と口に出して言う時、なんとなく引け目を感じてしまう。…私の母は、草に『おまえたちは太うなったねえ』と語りかけていました。草も人間と対等で、人間の方が上だという感覚はそこにはありませんでした」、「かつて、水俣では、学校帰りの子どもが道ばたのおばあちゃんに『こんにちは』と言うと、おばあちゃんはその子の目をじっと見つめて、『この子は魂の深か子じゃねえ』と言って、魂をほめてあげたものです。社会的な位ではなく、魂の深さが人の評価の対象だったのです」(同書)…

 この日(18日)のNHKEテレで「今よみがえるアイヌの言霊」と題する特集が放映された。この番組を見ながら、石牟礼さんが20年以上も前に書いた文章をふと思い出した。「日本語の『考える』という言葉をアイヌ語では『魂がゆれる』というのだと知りました。魂がゆれるといえば思い当たります。私たちにまだ残っているあの、語らぬ思いや数かぎりない断念です。たぶんこれは近代的な権利意識とは無縁な、表現以前のデリカシ-です。それが今も、アイヌの地に魂が安らぐ時があって、人は言葉以前に魂同士、あるいは山川草木と共にゆれあっているというのです。あらためて、病としての文明が、わたしたちの感性を覆っているのに思いあたります」(「魂ゆらぐ刻を」)

 「戦争絶滅」を訴え続けたジャ-ナリストのむのたけじさんは昨年8月21日に旅立った。101歳だった。あの世から遺言が届けられた。「私は1915年1月2日に産声を上げました。その日のほかにもう一つ、誕生日があるんです。約700万年前に人類が初めて登場し、自分の足で歩き始めたときです。人類の流れはそこから生まれ、700万歳の私が今いる。そして未来の人類につながっていく」(3月17日付「朝日新聞」再思三考―むのたけじの遺言)―。だから、むのさんはまだ生きている。当年、701万歳。「人類に引け目を感じる」石牟礼さんと「その人類を生き切り、そして生き続ける」むのさん―。時空を超えた2人の生き方こそが干天の砂漠に潤いを与える”慈雨”である。

 と、ここまで書いた時、沖縄の友人からショ-トメ-ルが届いた。「博治さん、保釈決定」とあった。米軍基地建設への反対運動中に逮捕・起訴された沖縄平和運動センタ-議長の山城博治さん(64)=威力業務妨害罪などで公判中=は18日午後8時ごろ、勾留されていた那覇拘置支所から保釈された。福岡高裁那覇支部は同日、保釈決定を不服とした那覇地検の抗告(不服申し立て)を棄却。山城さんは昨年10月17日に器物損壊容疑で逮捕されて以降、身柄拘束が続いていたが、那覇支部の決定によって、逮捕から約5カ月ぶりに釈放された。私が山城さんに会ったのは逮捕される2日前、オスプレイ着陸帯の強行建設が進められる沖縄・東村高江の現場だった。
 
 「魂(たましい)の叫び」という言葉が山城さんにピッタリである。昨年10月中旬、マイクを握る姿を間近に見て、心底、そう思った。顔全体で笑い、顔全体で泣く…。「オキナワの魂」がやっと、帰ってきた。屋根を打つ雨音が心に沁み入る。もう、春は目の前だな。ここ北の大地でも残雪の下から福寿草が顔をのぞかせている―。


(写真は支持者と抱き合って、保釈を喜ぶ山城さん=3月18日午後8時すぎ、那覇市の那覇拘置支所前で、「沖縄タイム」より)


≪追記≫
 石牟礼さんが満90歳を迎えた3月11日、東京でシンポジウム「石牟礼道子の宇宙(コスモス)」(藤原書店主催)が開かれ、民俗学者の赤坂憲雄さんらが語り合った。石牟礼さんは療養中のために参加できなかったが、新聞紙上に次のような談話(要旨)を寄せた。水俣―福島―沖縄を貫くような“魂の響き”が伝わってくる。

 「『もだえてなりと、加勢せんば(もだえることしかできなくても加勢しなければ)』という気持ちでした。何もできない私です。せめて患者さんのそばで一緒にもだえることしかできないと思ったのです。『病まん人の分まで、わたしどもが、うち背負うてゆく』。そう語った患者さんの言葉が忘れられません。みなの暮らしが豊かになる代償として、苦しみをその身に引き受けなさった。それが私でなかったのは、たまたまのことではないでしょうか」(3月22日付「朝日新聞」)



2017.03.18:masuko:コメント(0):[身辺報告]

予算委に露骨な干渉―花巻市長の横暴、極まれり

  • 予算委に露骨な干渉―花巻市長の横暴、極まれり

 「同じ趣旨の質問はすでに(と、ことさらにその議員の名前を挙げながら)他の議員がしている。委員がちゃんと聞いていたのかどうか。その時に詳細に説明している。質問をするなら、その内容を受けた形にしてほしい。そうすれば時間も効率的に使える」―。開いた口がふさがらないとは、このことだろう。16日開催の花巻市議会予算特別委員会(大原健委員長)の場で、私は花巻市が独立行政法人「都市再生機構」(UR都市機構)に対し、新図書館構想の立地調査などを委託した点についてただした。日本住宅公団が前身の同機構は大都市や地方中心都市における市街地の整備改善や賃貸住宅の供給支援などを主な業務としており、同市は2月28日、包括的な連携協力によるまちづくりの推進に関する「基本協定」を締結した。

 この件については他会派の議員が今月9日に行われた一般質問で取り上げ、上田市長はその経緯を説明した。この日、予算書に委託料として約854万円が計上されたのを受け、改めて質問したのに対し、上田市長は冒頭のように答えた。私は「質問権は議員に与えられた大切な使命。内容も質問者によって、思いも視点も違う。予算審査に対する露骨な干渉だ。この点については留意をしておきたい」と発言。大原委員長が上田市長に注意喚起する動きがなかったため、委員会終了後、小原雅道議長に対し「この市長答弁は議会全体に対する冒涜(ぼうとく)だ」として、上田市長に厳重注意するよう申し入れた。

 7年前に制定された花巻市議会基本条例は前文でこう謳っている。「花巻市議会は、二元代表制のもと、市長とともに市民の信託を受けた市の代表機関である。議会は多人数による合議制の機関として、市長は独任制の機関として、それぞれの異なる特性を生かし、市民の意思を市政に的確に反映させるために競い、協力し合いながら、市としての最高の意思決定を導く共通の使命が課せられている。…このような使命を達成するため、議会は主権者である市民の代表機関であることを常に自覚し、市民との関係、市長とその他の執行機関との関係、議会の活動原則及び議員の活動原則等を定め、市民の信託に全力で応えていくことを決意し、議会の最高規範としてこの条例を制定する」

 眼を首都・東京に向けると、国会では連日のように「森友学園」問題や南ス-ダンにおける陸上自衛隊の「日報」問題などで、攻めるも守るも必死の形相である。その一方で、「豊洲」問題で大揺れの小池百合子知事も「質問権は議員の最高の権能である」と都議を挑発する。さすが、あなたのあだ名は「ラージ」(Large=大物)。それに比べて…。上田市長は2年前の予算特別委員会でも委員長を差し置いて「その質問は予算とは関係がない」と答弁を拒否しようとしたことがあった。この人の”干渉癖“(議会軽視)はいまに始まったことではない。「言論の府」―わが賢治のふるさと「イ-ハト-ブ議会」は行政トップの強権的な姿勢で風前の灯である。


(写真は花巻市議会の議場風景。ある日の委員会審査のひとこま=花巻市花城の市役所内で)


2017.03.16:masuko:コメント(0):[議会報告]

南ス-ダン撤収と賢治の神通力!?

  • 南ス-ダン撤収と賢治の神通力!?

 「ハゲワシと少女」と題された1枚の写真が目の前にある。うずくまったまま、動く気配のない少女の背後には鋭い目をしたハゲワシの姿が…。決定的瞬間をカメラに収めた南アフリカ出身の報道写真家、ケビン・カ-タ-さんはこの写真で、1994年度のピュリッツア-賞を受賞した。内戦と飢餓に苦しむス-ダン(当時)の現状がメディアによって、全世界に発信された。称賛と同時に「なぜ、カメラマンは少女を助けなかったのか」という批判が巻き起こった。受賞式の約1カ月後、カ-タ-さんは「報道か人命か」という論争を背に受けながら、自らの命を絶った。33歳の若さだった。写真を撮った後、カ-タ-さんはハゲワシを追い払い、少女が助かったことが後で明らかになった。

 「1日に15人から25人もの幼い命が失われている」とカ-タ-さんは自殺する前に語っていた。「南ス-ダン」がス-ダン共和国から分離独立したのは2011年7月。その後、国内は民族対立を背景にした大規模な戦闘状態に突入し、周辺国に逃れた難民は150万人以上に及び、今年は100万人以上の子どもたちが栄養失調に陥るという予測もある。こんな折しも安倍晋三首相は10日、南ス-ダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣している自衛隊施設部隊を5月末までに撤収させると表明。「自衛隊の派遣は5年を過ぎ、一定の区切りを付けることができる。治安の不安はなく、PKO5原則は守られている」とその理由を述べた。

 「駆けつけ警護」―。政府は昨年11月、安全保障関連法に基づく新たな任務を付与。派遣部隊の「日報」にも「戦闘行為」と記述されるなど現地の状況は緊迫の度を加えつつある。「ひどい緊張状態がずっと続いている」(防衛省幹部)、「隊員が1人でも亡くなれば政権は吹っ飛ぶ」(自民党幹部=いずれも11日付「朝日新聞」)…。撤収の本音が見え隠れする。こうした状況変化の中で、花巻市議会の総務常任委員会(阿部一男委員長ら6人)は13日、「平和憲法・9条をまもる花巻地域懇談会」(林正文代表)から提出されていた「自衛隊の南ス-ダン派遣撤退を求める」―請願を賛成4対反対1で採択した。

 「こんな時、(宮沢)賢治なら…」―。委員のやり取りを聞きながら唐突に、「ア-サ-の『駆けつけ英語』講座」の話題を思い出した。東日本大震災をめぐって、外国人の賢治読解(10日付当ブログ参照)に刺激を受けていたせいもあるかもしれない。詩人で中原中也賞も受賞している米国人、ア-サ-・ビナ-ドさん(49)の「雨ニモマケズ」解釈も「目からウロコ」である。賢治作品が外国語(とくに英語)とある種の親和性を有しているということなのだろうか。先月、仙台市で行われた講座に参加した遠藤セツ子さん(平泉町)のニュ-スレタ-「えんどう豆」(3月8日発行、141号)から転載させていただく。

●「野原の林の下の蔭の/小さな萱ぶきの小屋にいて/東に病気の子どもあれば/行って看病してやり/西に疲れた母あれば/行ってその稲の束を負い/南に死にそうな人あれば/行って怖がらなくてもいいと言い/北に喧嘩や訴訟があれば/つまらないからやめろと言い」(前後は略)

●東、西、南の「子ども、母、死にそうな人」には『が』がない。命にかかわることなので急いで行ってやりたい気持ち(駆けつけ)を込めて助詞がない。分かりやすく2017年の日本語で言うと、「駆けつけ看病」「駆けつけ収穫」「駆けつけ死に水」。北の「喧嘩や訴訟」には『が』をつけて距離をとって行かない。「紛争地域には行かない」という憲法9条の理念を盛り込んでいる。英訳するとよく分かる。政権は憲法だけではなく「雨ニモマケズ」もつぶそうとしている。賢治の書いたこととかみ合わないことをやろうとしている…。言葉の真の意味での”駆けつけ警護”の精神はこの詩に宿っているということであろう。「ビナ-ド」流読解に思わず、うなってしまった。

 「PKO5原則は実質的に崩壊している」、「派遣部隊の中には岩手県の部隊も入っている」、「撤収は決まったが、それまでに何かあったら」…。総務常任委員会の審議は「憲法」問題という請願趣旨をそっちのけで進められた。そしてなぜか、南ス-ダンの国民が置かれている厳しい現実に向ける眼差しはほとんど伝わってこなかった。このスタンスは沖縄の「米軍基地」問題にも通じる。結局は「他人事」―。「当県の部隊が関係していなかったら、どうなのか」と思わず反問したくもなる。カ-タ-さんがハゲワシに襲われそうになった少女を撮影したのは24年前。こんな状態がいまも続いている。自衛隊員とこの少女との間に命の差はない。眼差しに差があってはならない。カ-タ-さんが切り取った、目をそむけたくなるような「現実」がそのことを私たちに教えている。

 この日の総務常任委員会では「日本国民救援会花巻支部」(高橋綱記支部長)から出されていた「テロ等組織犯罪準備罪(共謀罪)法案を国会に提出しないことを求める」―請願も審査されたが、逆に反対3対賛成2で不採択となった。20人以上の傍聴者が身を乗り出すようにして審査の成り行きを見守ったが、委員長を除く5人の委員が賛否の意見を一方的に述べただけで、反論や異論の議論は一切なかった。憲法で保障された「請願権」がないがしろにされたということである。今月23日に開かれる本会議でこの二つの請願の採否が最終的に決まる。その場で審議の内容についても問いただしたいと考えている。

 「議員は、議会が言論の場であること及び合議制の機関であることを認識し、議員相互間の自由な討議を尊重しなければならない」―花巻市議会基本条例(議員の活動原則)が泣いている。

(写真は賛否討論がうずまいた「ハゲワシと少女」の写真。遠いアフリカの地で起きていることに私たち日本人も無関心を装うことは許されない=インタ-ネット上に公開の写真から)


2017.03.13:masuko:コメント(0):[議会報告]

震災6年ーSTRONG IN THE RAIN(雨ニモマケズ)

  • 震災6年ーSTRONG IN THE RAIN(雨ニモマケズ)

 「(宮沢)賢治はどう受容され、あるいはされなかったのか」―。東日本大震災以来、そのことをずっと考え続けてきたような気がする。震災後、米国の首都・ワシントンで開かれた「日本のための祈り」や英国・ロンドンのウエストミンスタ-寺院での犠牲者追悼会で朗読されたのは、賢治の詩「雨ニモマケズ」だった。私自身、その設立に関わった被災者支援組織「ゆいっこ花巻」の趣意書にも「(賢治は)人間のおごりを戒め、『いのち』のありようを見続けました」という記述がある。あれから6年―。その初心の忘却を戒めるような一冊の本に出会った。

 『雨ニモマケズ(Strong in the Rain)―外国人記者が伝えた東日本大震災』と題する本は震災1年後、アメリカで出版されて大きな反響を呼び、昨年12月25日に日本語訳が実現した。猟師や調理師、高校生、原発作業員…。日本在住の外国人記者、ル-シ-・バ-ミンガムさんとデイヴィッド・マクニ-ルさんは「生と死」のはざまから生還した6人に寄り添うようにして取材を続けた。表紙をめくるといきなり「雨ニモマケズ」の全文が目に飛び込んでくる。そして、終章「東北魂」は賢治の詩「もうはたらくな」で閉じられている。「賢治」に挟(はさ)まれるようにして進行する物語の主人公のひとりが南相馬市(福島県)の桜井勝延市長である。

 「賢治の分身」を自認する桜井市長は震災とそれに続く福島原発事故の直撃を受け、YOU-TUBEを通じて、全世界に向け「SOS」を発信。米タイム誌「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれた。桜井市長は賢治にあこがれ、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に進んだ。「彼は宇宙人で、隠れたダ・ヴィンチだと思っている」(聞き書き『闘う市長』)とその気持ちを語っている。あの日、桜井市長は「午前中にはスタッフと打ち合わせをし、続いて地元の中学校の卒業式で数百人の若者たちに式辞を述べる予定だった。その日が終わる頃には、市の子どもたち約百人が死んでいることになった」と外国人記者は前掲書に中に書いている。「分身」が分身ではなくなった瞬間である。

 東北一の大河「北上川」の河口から約4㌔の川沿いに位置する石巻市立大川小学校では74人の児童と教職員10人が津波の犠牲になった。その壮絶な現場で2人は胸がふさがるような光景に遭遇する。「大川小学校に通っていた行方不明の子どもたちの遺体を探して、母親たちはまだ地面を掘っていた。掘削機を操作する免許を取った母親さえ何人かいた。ここでの出来事はこの津波の最大の悲劇の一つだった」―。こう記した2人は「日本人にとって、死とは何か」と問かけ、『納棺夫日記』(1993年刊)の著者、青木新門さんに会いに行く。詩人でもある青木さんが遺体を柩(ひつぎ)に納める“納棺夫”としての体験を綴った本である。

 第81回アカデミ-賞(外国語映画賞)を受賞した映画「おくりびと」(滝田洋二郎監督、2008年)はこの本が下敷きになっている。青木さんは賢治の詩「眼にて云ふ」を紹介しながら、2人にこう語った。「たとえ子どもの遺体が見つかっても、母親の悲しみは消えない。(しかし実は)彼らにはきれいな青空とすきとおった風が見えたのだ」―。青木さんはまさに修羅と化した母親の姿にこの詩を投影したかったのではないか。賢治が病没する1年前、壊血病で死線をさ迷った時の作品で、こう結ばれている。「あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが/わたしから見えるのは/やっぱりきれいな青ぞらと/すきとほった風ばかりです」

 大川小学校跡地に賢治をモチ-フにした大壁画が残っている。震災のちょうど10年前の2001年1月26日、インド西部で大地震が発生。約2万人が死亡し、16万6千人以上が重軽傷を負うという大惨事に発展した。同じ年の「平成13年卒業制作」と記され、「雨ニモマケズ」や「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という言葉とともに、世界中の子どもたちが手をつなぐ絵が描かれている。一部が津波によって削り取られているが、インドの悲劇を鎮魂する思いがじかに伝わってくる。そして、さらにその10年後を予見したかのような賢治のメッセ-ジ…。残された者たちはこの不思議を「縁(えにし)」と呼ぶのであろうか―。

 それにしても結びに置かれた、「もうはたらくな」という詩の位置づけには戸惑いを覚えてしまう。自分が肥料設計をした稲が天候不順や雷雨のため、次々に倒れてしまう。自然のなせる業(わざ)とは知りながら、賢治は肥料設計を依頼してくれた農民たちを訪ね歩き、「火のついたやうにはげましたり」、「どんな手段を用ひても辨(弁)償する」と頭を下げて回る…。今なお、12万人を超す震災避難者、うち放射能に追われて故郷を棄てた受難者は約5万6千人。その一方では「原発再稼働」の大合唱が巻き起こっている。「頭を固く縄って出て/青ざめてこはばったたくさんの顔に/一人づつぶっつかって…」(「もうはたらくな」)―。鬼神かくや、と思わせるような賢治の姿をいま見つけ出すのはもはや難しい。

  2人の外国人記者は、こうした錯綜した風景の中に「賢治」をそっと、かざしてみたのかもしれない。その上で、ル-シ-さんが「彼(賢治)の洞察力や精神性には安らぎがあった。桜井市長が愛読する理由の一つでもある」と書く一方で、デイヴィッドさんはこう記す。「震災のあと、猛烈な勢いで一気にこの本を書いてから5年が過ぎたが、いくつか驚くことがある。なかでも著しいのは、震災が過去の方法と決別させるだろうという大方の予想に反して、日本の多くの会社がいつもの仕事に戻ってしまったことだ」。「受容」と「排除」―。そのはざまに「賢治」がスッと屹立(きつりつ)してくるような気がする。

 東日本大震災と福島第一原発事故の記憶の風化が絶望的なほど加速している。2人の外国人記者の目はその尺度を図る手段として、「賢治」が依然として有効であることを私たち日本人に教えているのかもしれない。そういえば震災後、毎年欠かさずに被災地を訪れているイタリア人の女性フリ-ランサ-、アレッシア・チャラントラさんのHPにも「雨ニモマケズ」が貼りつけてある。今年はいつごろ、現われるだろうか。「3・11」の3日後に立ち上げた「ゆいっこ花巻」は“老々支援”の波に打ち勝てず、3月いっぱいで解散されることになった。そして、震災丸6年のこの日、私は77歳になった。

 震災犠牲者1万5893人、行方不明者2553人、震災関連死3523人…「福島県各地の放射線量」―こんなデータが現在もまるでけし粒みたいに新聞の片隅に載っている。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」という大切な言葉が「雨ニモマケズ」には刻まれている。


(写真は「ゆいっこ花巻」が支援の一環として実施した「日帰り温泉サ-ビス」。市内の温泉ホテルが提供してくれた大型バスは瓦礫(がれき)をかき分けながら、被災地へ向かった=2011年4月上旬、岩手県陸前高田市内で)
2017.03.10:masuko:コメント(4):[身辺報告]