沖縄から(8)…南の果ての“マラリア地獄”

  • 沖縄から(8)…南の果ての“マラリア地獄”

 

  「パイパティロ-マ」―。日本最南端の沖縄南西諸島・波照間島のさらに南の海上にこんなロマンチックな名前の幻の島があると聞いて、この島を訪れたのはもう20年以上も前のことである。この地方の方言で「パイ」とは「南」、「パティロ-マ」とは「波照間」を意味し、「人は死んだら、その霊魂は争いもない平和なパイパティロ-マへと旅立つ」と言い伝えられている。波照間島は南十字星を間近に観察できることでも知られ、私のまなうらにはまだ、流れ星の光跡がくっきりと刻まれている。

 

 最前線に送られた護衛隊やスパイ虐殺、集団強制死…。ドキュメンタリ-映画「沖縄スパイ戦史」(1月16日付当ブログ)は「軍隊とはそもそも最初から住民を守る組織ではない」という衝撃的な事実を白日の下にさらした。そして、その悪魔の手はやがて、この「星降る」島にも…

 

 沖縄戦が始まる数か月前、「山下虎雄」を名乗る若い男が波照間国民学校の教師として、赴任した。用務員をしていた西里スミさん(当時16歳)は映画の中でこう証言する。「顔は面長。毎日、木刀を下げて。ズボンはカ-キ色。初めてヤマト(日本人)を見た」。民家に下宿した男は物腰もやわらかで、すぐに島民の間に溶け込んでいった。しかし、戦局が急転すると、態度が一変した。軒下に隠し持っていた軍刀を振り回し、「西表(いりおもて)島へ移住せよ」と迫った。当時、この島はマラリアの有病地帯として恐れられていた。米軍の上陸を想定し、捕虜になった住民がスパイ活動をさせられるのを事前に防止する―というのが強制移住のねらいだった。

 

 「陸軍軍曹・酒井清」―“山下先生”の本名である。陸軍中野学校出身で、肩書は「離島残置要員特務兵」。強制移住先の西表島では島民の三分の一に当たる約500人がマラリアにかかって犠牲になった。素顔をさらけ出した酒井は今度は家畜の処分を命令した。牛や馬、豚、ヤギ、ニワトリなどその数7千以上。「米兵は肉食人種だから、その糧食を絶つ」というのが表向きに理由だったが、実は島内の製糖工場に持ち込み、秘かに燻製処理をして日本兵の胃袋に収まっていたことがのちに明らかになった。こうした酒井の横暴に抗議するため、当時の波照間国民学校の校長らが舟で西表島を脱出して、石垣島の独立混成第45旅団長に直訴。ようやく疎開命令の解除を取り付けたが、酒井は聞く耳を持たなかった。

 

 映画の中で、酒井の肉声が記録された貴重なカセットテ-プが初めて公開された。「わっはは」と高笑いをした後、酒井はこう続けている。「その~、民を虐(しいた)げてね。軍が横暴を振るうということはなかったと、私は断言できますよ」―。島民を“マラリア地獄”に突き落とした酒井は戦後を生き延びて、3回も波照間島を訪れている。約40年前の最後の訪問時の際、島民の代表19人は連署で絶縁状を突きつけた。「あなたは、今次対戦(ママ)中から今日に至るまで名前をいつわり、波照間住民をだまし、あらゆる謀略と犯罪を続けてきながら、何らその償いをせぬどころか、この平和な島に平然として、あの戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように三度来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」―。戦後、酒井は滋賀県で工場を経営していたが、骨がらみの軍国主義から抜け出すことなく一生を終えた。

 

 「いま、ネット社会では沖縄戦自体がなかったとする歴史修正主義が堂々とまかり通っている。与那国島や石垣島、宮古島などで進められている自衛隊配備は決して、過去の話ではない。波照間の悲劇と地続きだと考えなくてはならない。いや、沖縄だけでなく、日本列島全体がアメリカの防波堤になりつつある」―。映画上映会の記念講演で、監督のひとり、三上智恵さんはこう力説した。辺野古新基地建設の最前線で反対の座り込みを続けている島袋文子さん(90歳)が車いすを押しながら、三上さんに声をかけた。「沖縄戦の体験者として、その闇にメスを入れてくれてありがとうね」

 

 世代を架け橋するその光景を写真に収めながら、私は石垣島で同じ“マラリア地獄”を体験した山里節子さん(1月7日付当ブログ参照)の話を思い出していた。「自衛隊の造成現場を見ただけでは戦争の本当の恐ろしさはわからない」と道すがら、山里さんはそう言ったのだった。石垣島の島民が強制移住させられた「白水」地区はうっそうたるジャングルの中にあった。そのかたわらに「白水霊水」を売り物にする健康食品会社の作業場があった。「この島にはね、特攻基地も大きな飛行場もあったのよ。ほら、向こうの開けたあたりにね」―。私は指さすその方向に視線を向けたまま、ぼうっと立ち尽くしていた。

 

 米軍基地の固定化と日米地位協定の導入を決めた「日米安保」改定(60年安保)から19日で60年を迎えた。新条約に署名したのは当時の元岸信介総理大臣で、現安倍晋三総理大臣の祖父に当たる。この節目の日にひょんなことを思い出した。幻の泡盛といわれる波照間産の「泡波」は当時もプレミアムがつくほど高価だった。大枚をはたいてお祝い用の”益々繁盛”(二升5合瓶、4・5リットル)を買い求め、後生大事にわが家に持ち帰ったことを懐かしく思い出す。友人や知人にお振舞いをし、中身はあっという間に空になったが、この巨大なボトルはいまも私の大事な宝物である。

 

 

 

 

(写真は沖縄戦体験者の島袋さん(右)と三上監督は戦争の闇の深さを話し合った=1月13日、沖縄・読谷村の読谷村文化センタ-で)

  

沖縄から(7)…もうひとつの「桜を見る会」~ソメイヨシノとカンヒザクラ

  • 沖縄から(7)…もうひとつの「桜を見る会」~ソメイヨシノとカンヒザクラ

 

 貴様と俺とは 同期の桜/同じ兵学校の 庭に咲く/咲いた花なら 散るのは覚悟/みごと散りましょ 国のため」―。“裏の戦争”ともいわれるドキュメンタリ-映画「沖縄スパイ戦史」(三上智恵×大矢英代監督、2018年)を観ながら、太平洋戦争中、旧日本軍の間で好んで歌われた軍歌「同期の桜」の一節が唐突に口からもれた。戦死を美化する「散華」(さんげ)のシンボルがこのソメイヨシノ(染井吉野)なら、「散るな、生きろ」と叫ぶのは南の島に咲き誇るカンヒザクラ(寒緋桜)である。この映画はヤマト(日本)とウチナ―(沖縄)との気の遠くなるような精神の隔たりをふたつの「サクラ」に託した物語でもあった。

 

 敗戦1年前の1944年の晩夏、特務機関「陸軍中野学校」から42人のエリ-ト青年将校が秘かに沖縄に送り込まれた。少年ゲリラ兵の養成や軍命による強制移住、マラリア地獄、はてはスパイ虐殺…。第32軍の牛島満司令官が自決することによって、「沖縄戦」が表面上終結したとされる「6・23」(1945年)以降も北部の山岳地帯では凄惨な“秘密戦”が繰り広げられていた。青年将校たちが作戦に動員したのは、まだ10代半ばの少年たちだった。「護郷隊」と呼ばれた。映画は当時の生存者を探し当て、戦後初めてその闇を浮かび上がらせた。

 

 沖縄本島北部―国頭郡大宜味村の小高い山にカンヒザクラが花を咲かせている。植樹を続けているのは瑞慶山良光さん(91歳)。16歳の時に護郷隊に召集された。死線をさ迷った末に奇跡的に生き残ったが、長い間「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)に侵された。“兵隊幽霊”と蔑(さげす)まれ、座敷牢に閉じ込められた。その瑞慶山さんはいま、戦地に散った若い戦友69人分の苗木を手塩にかけて育てている。沖縄で「花見」と言えば、カンヒザクラを指す。1月初旬から開花が始まる。一部満開になった桜の木の下で瑞慶山さんら2人が微笑みながら、握手する場面が映画に出てくる。

 

 同じ護郷隊の一員だった高江洲義英さん(当時17歳)はこれまで「戦死」として記録されてきたが、数年前、戦友の証言から実は日本軍の軍医によって、射殺された事実が明らかになった。「破傷風から精神に異常をきたし、軍務の足手まといになる」というのがその理由だった。瑞慶山さんはショックに打ちひしがれる弟の義一さんをほころび始めたカンヒザクラの下に誘った。可憐な一重の花びらを見上げながら、二人は固く手を握り合った。「もう、忘れていいよ。わたしがここで、覚えているから」と瑞慶山さん。濃いピンクの花弁は南の島の太陽を体いっぱいに浴びながら育った護郷隊の少年たちの笑顔のように見えた。

 

 戦後、護郷隊を組織した青年将校の中には「懺悔」(ざんげ)の気持ちから、1000本以上の桜や果樹の苗木を沖縄に送り続けた人もいた。しかし、亜熱帯の地でソメイヨシノが根付くことはなかった。この桜は大和魂が息づく「ヤマト」の地でしか花を咲かせることはできまいと思う。ふと、現実に引き戻される。「桜を見る会」や「サクラを集める会」に浮かれた“同期の桜”たちよ、そろそろ、ソメイヨシノに殉じて潔(いさぎよ)く散ったらどうなのか!?(2019年12月18日付当ブログ参照)。かつて、護郷隊が生死の彷徨(ほうこう)を余儀なくされた沖縄北部のまち…読谷村でこの映画会は開かれた。誘ってくれたのは現在、辺野古新基地建設反対の最前線に立つ金城武政さんである(1月11日付当ブログ参照)。上映後、金城さんがポツリと口にした。

 

 「軍隊は住民を守ってはくれない。辺野古の現場でも自衛隊の配備が進む宮古や石垣などの南西諸島でも、護郷隊の再現が秘かに計画されているのです」―。今年の「桜(カンヒザクラ)を見る会」は羽地内海(はじないかい)を眼下に望む瑞慶山さんの桜林で2月1日に開催される。那覇市内では今月6日、カンヒザクラが開花した。平年より12日、昨年に比べて4日早い開花である。

 

 

 

 

(写真はカンヒザクラの下でかつての戦友たちを偲ぶ瑞慶山さん(左)と高江洲義一さん=インタ-ネット上に公開の映画の一シ-ンから)

 

 

沖縄から(6)…「寄り添う」意見書

  • 沖縄から(6)…「寄り添う」意見書

 

 「あなたの粘り腰が実を結びましたよ」という開口一番に私は思わず、頬(ほほ)をゆるめてしまった。新基地建設(名護市辺野古)の反対運動の先頭に立つ金城武政さん(63)に再会するのは3年ぶり。「この内容ならヤマトの人たちもさすがにそっぽを向くわけにいかんでしょうね」―。「沖縄県民の気持ちに寄り添うことを求める」意見書には沖縄における米軍基地の偏重に触れながら、簡潔にこう書かれていた。「沖縄県民が深い悲しみの中にいる今こそ、その負担の軽減につなげ、これまでの敬意と感謝を示すためにも、沖縄県民の気持ちに寄り添うべきときである」

 

 埼玉県川越市議会(三上喜久蔵議長、定数36)は昨年12月定例会に提出されていた「辺野古新基地中止」「普天間無条件返還」「沖縄県民の民意尊重」…の「3項目」請願を賛成10反対24で不採択とした。この請願には市民有志が街頭などで集めた5800筆の署名も添えられていた。議員のひとりが「川越市民のこの民意も無視することはできない」として、3項目だけを切り離して意見書を採択すべきだとする緊急動議を提出。その結果、「3項目」請願の反対に回っていた自公所属議員も一転して賛成に回り、全会一致で意見書採択が実現した。

 

 「話し合いの原点は寄り添い。互いに無知・無関心を装って反目していたのでは何ごとも始まらない」と金城さんは言い、「そのことの大切さを気づかせてくれたのは実はあんただったのさ」と言葉を継いだ。郷土の詩人、宮沢賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」をまちづくりのスロ-ガンに掲げている花巻市議会に在職中だった私は「ヤマトンチュ(本土側)が沖縄にどう向き合うべき」―を問うために金城さんを訪ねたのだった。3年ほど前の5月、その時の光景と身が震えるほどの悲劇の様相は消えることのない記憶として、私の体全体に刻み込まれている。

 

 新基地建設が進む米軍キャンプ・シュワブに近い、いまでは閑散とした商店街の一角に中央アメリカ原産のブ-ゲンビリアが今を盛りと咲き乱れていた。「アポロ」(Apollo)というロ-マ字書きの店名が辛うじて読み取れた。ベトナム戦争のさ中、その一帯を占拠した歓楽街には米ドル紙幣が乱れ飛んだ。「従業員の女性に続いて、母親も米兵の手によって命を落としました」―。閉店して久しい「アポロ」の隣に住む金城さんは母親の遺影が飾られた仏間の前で絞り出すように語り始めた。2歳の時、基地建設の景気を当て込んだ両親とともに「普天間」から移住した。母親は針仕事が得意だった。その腕を生かした布団の製造販売が大当たりした。琉球刺繍を施した布団カバ-が米兵の人気だった。「米兵による布団ドロボ-にも手を焼いたが、故国の両親へのプレゼントの注文もあった。何しろサイズが特大なんで面白いように儲かった」―

 米国は1969年7月、アポロ11号による人類初の月面着陸に成功した。「Aサイン(米軍専用)のバ-を開業したのはその直後だった。店名はこの成功にあやかって親父が付けた。当時はベトナム戦争の真っ只中。札束を握りしめた米兵たちがひっきりなしにやってきた。朝までドンチャン騒ぎの毎日だった」と金城さん。手仕事を身に付けたいと若い女性が母親に弟子入りした。バ-の人手が足りないので、店も手伝うようになった。金城さんが高校に入学した直後、この女性は別の町で米兵によって殺害された。当時、20歳だった。その顛末(てんまつ)も知らされないまま、事件はうやむやになった。

 「ベトナムからの帰還兵はいつも浴びるように酒を飲んでいた。でも、まさか…」―。金城さんは仏壇をふり向きながら、呻(うめ)くように続けた。女性殺害事件の2年後、オ-プンを前にした店に米兵が押し入った。準備中の母親から10ドルを奪ったうえ、コンクリ-トブロックで頭を殴りつけて逃走した。即死状態だった。米兵は近くのホテルに「人を殺してきた」と自首した。長期勾留されたという噂(うわさ)を聞いただけで、その後、どうなったかは知る由(よし)もなかった。まだ、52歳の余りにも若い死だった。

 

 今回再会した際、金城さんはタンスの奥からしわくちゃになった米ドル紙幣を取り出した。紙幣にはマジックで米兵の名前が書かれ、別れのメッセ-ジのようなメモも。「ベトナムに出征する兵士たちが店の壁に貼っていたものです。母親は米兵に殺されましたが、この紙幣の兵士たちの中にも生きて帰ることのできなかった若者がたくさんいます。それが戦争です。本土のあなたたちもその現実から目を背けないでください。あきらめないで、やれることをやってください」―。金城さんのこのひと言がずっと、私の背中を押し続けてくれたように思う。

 

 私は昨年6月の花巻市議会定例会に川越市議会と同趣旨の陳情を提出したが、議長を除く25人全員の反対で否決された。一方、一部の議員の発議で提案された「辺野古埋め立て反対の沖縄県民の民意を尊重すべきだとする」―意見書は賛成16、反対9で可決された。そのことを報告すると、金城さんは「何事もあきらめないことです。あなたの粘り腰が川越市議会にも通じたのだと思う」と恥ずかしいほど持ち上げてくれた。それでもうれしかった。

 

 基地建設で揺れる名護市内の飲食街で「雨ニモ負(マケ)ズ」(賢治の詩)の看板を掲げた居酒屋を見つけた。受難の記憶が刻まれた「アポロ」は店内を改装して、沖縄の有機野菜を使った食堂に生まれ変わることになっている。店名は「HeavenーHeaven」。辺野古の海が「天国」(Heaven)につながるようにとの願いが込められている。「腕を振るうのはナイチャー(本土からの移住者)の女性です。少しづつ、少しづつ…ね」―。金城さんがニッコリ微笑んで言った。

 

 

 

(写真は米兵たちが母親の経営するバーに残していったサイン入りのドル紙幣=1月9日、名護市辺野古の自宅で)


 

 

 

 

沖縄から(5)…石垣島の怒れるオバァとオジィたち

  • 沖縄から(5)…石垣島の怒れるオバァとオジィたち

 

 「沖縄本島には過去と現在の戦争が共存し、石垣島や宮古島などの先島には未来の戦争が準備されているんです」―。石垣島に伝わる古民謡「トゥバラ-マ」の唄い手としても知られる山里節子さん(82)は「いのちと暮らしを守るオバァたちの会」(20人)の代表を務めている。平均年齢75歳で、最高齢は93歳。政治資金規正法に定める正式な”政治結社”であるが、収支報告はいつも「ゼロ」である。その結社に結集するオバァたちがミサイル基地建設反対や住民投票の実施などを求めて、毎週日曜日に島のあちこちでスタンディング(抗議行動)を繰り返す。その神出鬼没ぶりはまさに“叛逆老人”の名にふさわしい。

 

 山里さんを突き動かす心の片隅にはある「贖罪(しょくざい)意識」が隠されている。小山全体が公園に指定されている「バンナ公園」の一角に「八重山戦争マラリヤ犠牲者慰霊の碑」と刻まれた花崗岩の石碑が立っている。旧日本軍は米軍上陸に備えて、島民をマラリアが猖獗(しょうけつ)する島中央の「白水」地区に強制疎開させた。国民学校1年生の時である。山里さんは辛うじて死を免れたが、家族8人のうち、母と祖父が罹患して死亡し、妹は餓死、兄は戦死した。マラリアに倒れた住民は3千人とも5千人とも言われる。山里さんは高校生の時、島内に設置された琉球文化会館で英語を学ぶ機会を得た。その英語力を買われて、米軍占領下で行われた地質調査の助手に採用された。「その時の調査が現在進行中の自衛隊配備計画の基礎データとして、利用されていると思うと…」と山里さん。

 

 「私たちは迷うことなく『憲法九条の碑』をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする」―。格調高いメッセ-ジを謳いあげた巨大な石碑が石垣市役所に近い公園に立っている。九条にちなんで、中国産の原石の重さは9トン、裏には平和の象徴「鳩」の図柄が彫られている。「鳩」は「九(きゅう)」とも読ませるという工夫である。デザインを担当したのは地元の彫刻家の潮平正道さん(86)で、23年前に建立された。マラリアの慰霊碑を手がけたのも潮平さんである。「「戦時中、軍隊は秘密保持のために住民を監視し、マラリア発生地へ強制移住させた。今度は自衛隊が同じことを繰り返そうとしている」―。叛逆老人の男性側の代表格でもあるその言は頼もしい限りである。

 

 「石垣市非核平和都市宣言」(1984年建立)と「石垣市核廃絶平和都市宣言」(2011年建立)―。「九条の碑」近くに一見するに同じ碑ではないかと見まごう二つの碑が並んで立っている。前者は革新市政時代のもので、後者は自衛隊誘致に積極的な中山義孝現市政になってからのものである。目を凝らすと「わが国憲法の崇高なる理念に基づき、非核三原則の完全実施を求めるとともに…」という前者にあった「憲法」の二文字がそっくり消えている。「九条の碑」に対する卑劣で露骨な挑戦である。

 

 「叛逆老人の全国組織をつくったら、面白そうね。北海道から沖縄まで、お金はないけど暇とパワ-を持て余しているオバァとオジィが全国で一斉に“蜂起”(ほうき)するのよ。あなたもどう!?」」と山里さんが破顔一笑した。「石垣島の怒れる若者たち」はこんな叛逆老人たちのあたたかい眼差しを背にますます、輝いて見える。日本の未来を託す希望の光がこの島にはあるような気がしてきた。

 

 

  「トゥバラ-マ」は男女が情愛を交わしながら、掛け合いで歌う仕事唄で、例えばこんな歌詞である。

 

月の光を浴びて輝く砂浜、夜の更けるのも知らないままに歌っていたあの日…… 

馬車に揺られながら稲刈りを終えるヨーンバイの道すがら、

南天にさそり座が大きなハサミをふりかざしていた夏の日…… 

雨の滴を聞きながら淋しそうに歌った母の声…… 

初めて女性と歌を掛け合い緊張のあまり声が出なかった日…… 

殺伐とした都会で望郷の念にかられて親友と声を張り上げた日…… 

走馬灯のように蘇るとぅばらーまの思い出…… 

とぅばらーま歌は、いつも暮らしの中にあった。

 

 

 

 (写真は「マラリア犠牲者慰霊の碑」の前に立つ山里さん=1月6日、石垣島中央部のバンナ公園で)

 

 

 

沖縄から(4)―石垣島の怒れる若者たち

  • 沖縄から(4)―石垣島の怒れる若者たち

 

 旅先に畏友(いゆう)のノンフィクション作家、鎌田慧さん(81)から一冊の本が届いた。『叛逆老人は死なず』。東京・永田町、沖縄、原発、震災…。亡国の現場で老骨にむち打って頑張る老いたる者たちの「叛逆老人」列伝をつづった内容で、「いまの若者の空白には、60年安保世代やそのあとの全共闘(団塊)世代など、戦後民主主義を食いつぶした者の責任がある。つぎの世代につなげる努力を怠ってきたのだ」(はじめに)と著者は手厳しい。「その責任の一端はおまえにもある」と背中を押される思いで読み進むと、「ミサイル基地にされる沖縄・南西諸島」という一節にぶつかった。その中に叛逆老人ならぬ「怒れる若者たち」が登場していた。さっそく、会いに行った。

 

 花谷史郎さん(37)はいま、石垣市議会議員の2期目である。11年前、東京農大を卒業後、ゴ-ヤ栽培の家業を継ぐためにUタ-ンした。数年前、「この島に自衛隊が来るらしい」という噂が広がった。その配備計画は「南西地域の防衛態勢の強化」(2016年)という防衛省文書で表面化した。配備先は花谷さんが暮らす集落に隣接する「平得大俣(ひらえおおまた)」地区とされ、地対空や地対艦ミサイル部隊、火薬庫、射撃場などの建設計画が秘かに進められていることがわかった。

 

 2018年3月11日の市長選に合わせた市議補選で、花谷さん「基地反対」を掲げて初当選。この時、現職の中山義孝市長はミサイル配備には一切触れない「争点隠し」に終始し、一方では大物政治家が相次いで来島して、中山支持を訴えて回った。レンタカ-での運び屋が投票所へのピストン輸送を繰り返した結果、期日前投票数が半数を超えた。こうした異常な選挙で3期目の座についた中山市長は今度は手のひらを返したように公然と「自衛隊誘致」を口にするようになった。花谷さんは半年後に行われた市議本選(定数22)で1279票を獲得して2位当選を果たし、同じUタ-ン組で、東京の週刊誌記者から転身した内原英聡さん(35)も堂々、5位に食い込んだ。この若手2人組は「ゆがふ」という会派を結成した。この地方の方言で豊かな世の中を意味する「世果報」が語源である。

 

 「全国で初めてという不名誉をさらすところだった」―。花谷さんは薄氷を踏むような“勝利”を苦虫をつぶすような表情で話した。昨年12月定例会に自民党などの市議会与党側から「石垣市自治基本条例」を廃止する提案がなされた。非自民系の与党議員2人が反対に回った結果、賛成10対反対11の僅差で廃止を免れた。この自治基本条例は2009年、県内で初めて制定され、当時は先駆的な条例化と脚光を浴びた。歯車が逆転した背景には「住民運動つぶし」が透けて見えてくる。

 

 4年間のアメリカ留学を経て、名産のマンゴ-生産に将来の夢を託す金城龍太郎さん(29)のもうひとつの肩書は「住民訴訟義務付け」訴訟の代表となっている。地方自治法(第74条)では、有権者の50分の1の連署をもって、住民の条例制定・改廃の請求権を認めている。金城さんらはこの規定に基づき、2018年2月、1万4263筆(有権者の4割強)を集めて「自衛隊誘致」の是非を問う住民投票条例の制定を求める直接請求をした。ところが、昨年2月に開かれた臨時議会は「駐屯地の造成工事が迫っている」という露骨な理由をタテにこの請求を否決した。

 

 一方の自治基本条例は「有権者の4分の1以上の連署をもって、市長に対して住民投票の実施を請求できる。市長は請求があったときは所定の手続きを経て住民投票を実施しなければならない」と定めている。金城さんらはこの規定を根拠に今度は市側に直接、住民投票の実施を迫ったが、「議会の否決によって、署名の効力は消滅した」として話し合いは平行線をたどった。このため、昨年9月19日付で住民投票の実施を義務付ける全国でも珍しい「行政訴訟」に踏み切った。

 

 「この豊かで平和な島を守りたいだけです」と金城さんは静かな口調で言った。アメリカ留学時代、白人と黒人の差別の上に「アジア人」差別がのしかかった。マンゴ-農家が広がる平得大俣地区は島の最高峰・於茂登山(526メートル)のふもとに位置する田園地帯である。「石垣ポトリ果マンゴ-」と名づけた完熟マンゴ-の生産をする金城さんの地域には約40世帯が暮らしている。台湾からの入植者や本島の米軍基地建設によって、離農した人たち、そして、本土からの移住者…。金城さんの父親もすでに自衛隊が配備されている最西端の与那国島の出身である。汗して開墾した土地がいま、ミサイル基地に姿を変えようとしている。

 

 亜熱帯の森の間から赤茶けた土砂が眼下に飛び込んできた。46ヘクタ‐ルの自衛隊用地で買収が終わったゴルフ場跡地では昨年3月から造成工事が始まった。「この一帯は於茂登山がたくわえた水の貯水池の役割を果たしている。辺野古の軟弱地盤と同じ。こんな場所に基地を造ろうとしているんです…」と花谷さん。奄美、沖縄本島、伊江島、宮古島、石垣島、与那国島…。中国や北朝鮮などを仮想敵とした「反共の防波堤」がまるで万里の長城のような弧状を描いているように見えた。南西諸島の要塞化は有事の際の“先島奪還”作戦がその最終目標である。

 

 「私たちは“ゆがふ”の実現を目指しています。ところで、先輩のイ-ハト-ブ(宮沢賢治の理想郷)の議会はどうですか」と花谷さんが問い返した。私は2期8年間の議員生活の悪夢を思い出しながら、ボソボソと口を開いた。「それが恥ずかしながら、ほとんどが無知・無関心。それどころか、沖縄問題の議論に立ちふさがるのは逆に革新を名乗る議員集団なんです」―。花谷さんは驚いたように目を丸くした。「この現実をぜひ、本土の人たちに伝えてください。この国の安全保障は南の島々が担っているのだ、と」。石垣市議会には花谷さんら30代の議員が3人もいる。若者たちの屈することのない怒りに、老残のわが身はこてんぱんに打ちのめされてしまった。

 

 

 

(写真は自衛隊の配備予定地を指さす花谷さん=1月3日午後、石垣市の平得大俣地区で)