沖縄だより⑫―「秘されし言葉」(完)

  • 沖縄だより⑫―「秘されし言葉」(完)

 「名ばかりの”返還“を喧(けん)伝するための儀式だったんですよ。現に完成したはずのヘリパットはあちこちで土砂崩れを起こし、地下水が噴き出している」―。警視庁など本土(ヤマト)の機動隊を大量動員し、東村高江地区などで建設が強行された「オスプレイ離着陸帯」(ヘリパット)の監視活動を続けている土木技師の奥間政則さんはこう言って、ずさんな手抜き工事を示す数枚の写真を広げた。約5か月間、勾留された沖縄平和運動センタ-議長の山城博治さんが不当逮捕され、作家の目取真俊さんが「土人」発言を浴びせられたのもこの現場だった。

 政府主催の米軍「北部訓練場」返還式典が名護市内で開催されたのは昨年12月22日。本島中部のヤンバルの森にある訓練場約7800ヘクタ-ルの過半に当たる約4000ヘクタ-ルが返還され、式典に参加した菅義偉官房長官は「復帰後、最大規模の返還。負担軽減に大いに資する」と胸を張った。その交換条件が新たに6カ所のヘリパットを建設することだった。「式典に合わせるために、年内完成が至上命令とされた。だから、完成はしたものの運用には耐えない”欠陥ヘリパット“。世論を欺(あざむ)くための見え透いた演出に過ぎない」と奥間さんは話し、こう続けた。「国の天然記念物のノグチゲラの巣作りは3月から6月。それが終わった後、工事は本格化する。その時が正念場です」

 「憲法9条を残したまま、自衛隊の存在を明記する」―。こんな「安倍改憲」構想が一人歩きを始めている。自衛隊のミサイル配備が予定されている宮古島や石垣島など先島地方、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の「辺野古」(名護市)移設(新基地建設)の強行やヘリパット工事の再開が間近い基地の島「オキナワ」―。そこからもれ聞こえてきたのは、「憲法のラチ外に置かれ、日米安保の重圧に苦しむ」…「戦後ゼロ年」への絶望だったような気がする。戦後72年間、「沖縄抜き」に続けられてきた「憲法・安保」論議がふたたび始まろうとしている。いつものことながら、「沖縄」問題とはそのまま「日本(ヤマト)」問題であるという認識がそこにはすっぽりと抜け落ちている。

 5月13日、「命(ぬち)どぅ宝!琉球の自己決定権の会」(与那嶺義雄共同代表、会員約80人)が設立され、「東アジアに開かれた非武装中立の琉球・沖縄を創造する」と宣言した。琉球処分による日本併合、「捨て石」とされた沖縄戦、サンフランシスコ講和条約による施政権の分断、本土復帰後も続く米兵らによる悲惨な事件・事故、そして、今また進められる実質的な基地増強…。設立に当たり「独立も辞さず」と宣言は謳(うた)っている。現代の治安維持法と言われる「共謀罪」法案、自衛隊を容認する憲法9条「改憲」構想…。新たな「琉球処分」を告げる予鈴のように私には響く。

 歴史の闇をまさぐるうちに、ふと思った。「『日毒』とはこうした怒りのマグマが堆積した言葉ではないのか」―。石垣島在住の詩人、八重洋一郎さんが同名の詩集を刊行したことについてはすでに言及した(当ブログ4月30日付「沖縄だより③」と5月10日付「沖縄だより⑧」参照)。同じ島に住む歌人の松村由利子さんから今月下旬、『短歌往来』(6月号)という月刊短歌雑誌が送られてきた。「秘されし言葉」と題して、八重さんの詩集『日毒』に思いを重ねた短歌が載っていた。


●八重山の詩人の嘆き遠つ世に封印されし言葉呼び出す
●口にすることも恐ろし辞書にない言葉の抱く闇の深さは
●初めて見る言葉なれども意味は分かる「日毒」は血の匂いを放つ
●八重山の古き文書に「日毒」とやまとの国は記されてあり
●解毒する術もたざりし琉球の民の苦しみ今も続きぬ
●長く長く秘されし言葉「日毒」に連なる一人なるか私も


(写真は問答無用の暴力で強行されたヘリパット建設の現場=2016年秋、沖縄県東村高江で。インタ-ネット上に公開の写真から)
2017.05.28:masuko:コメント(0):[身辺報告]

沖縄だより⑪―「こっち」と「あっち」と…

  • 沖縄だより⑪―「こっち」と「あっち」と…

 「これ(東日本大震災)は、まだ東北で、あっちの方だったから良かった。もっと首都圏に近かったりすると、莫大(ばくだい)な甚大な被害があったと思う」(今村雅弘復興相=当時)、「辺野古強行/対話なき『強権』の果てに、苦悩 なぜ沖縄ばかり」―。その日(4月26日付)の新聞各紙にはこんな見出しが躍(おど)っていた。新聞の束を手にして、私は新幹線の始発に飛び乗って「あっち」(東北)を後にし、「こっち」(中央=首都圏)で飛行機に乗り換え、もうひとつの「あつち」(沖縄)へと向かった。「こっち」と「あっち」と…。車中と機中で新聞をむさぼり読みながら、私は被差別部落をテ-マにした小説『橋のない川』(住井すゑ著)の描写を頭に浮かべていた。

 両岸を隔てる川には橋がない。苛酷な差別の実態がそのタイトルには込められている。かつてはベルリンの壁、そして今はメキシコの壁…。時代が移り、「こっち」と「あっち」の間にはいま、巨大な壁が築かれようとしている。そして、米軍普天間飛行場の「辺野古」(名護市)移設(新基地建設)問題で揺れる米軍基地「キャンプ・シュワブ」の周りには延々とフェンスが張り巡らされている。コンクリ-トの支柱に支えられた約3㍍のフェンスの上部は外側に折り曲げられ、有刺鉄線が巻き付いている。「米国海兵隊施設」という標識には「無断で立入ることはできません。違反者は日本国の法律に依って罰せられる」と書かれている。米軍基地の約70%が集中する沖縄はまるで「檻(おり)」の中に閉じ込められているようである。

 このフェンスを高々と超えてしまうような、もうひとつの“壁”が沖縄の前に立ちはだかっている。本土(ヤマト)との間を隔てる「差別」という名の壁である。それはあの琉球処分以来、ヤマトの権力の基底部に遺伝子のように着床し、増殖し続けてきた感情にちがいない。昨年秋、機動隊員の口から吐かれた「土人」発言がそのことを如実に物語っている。そして、「東北で良かった」発言との相似形に驚かされてしまう。そう、琉球処分と蝦夷征伐…「処分」と「征伐」の対象としての不動の支配原理が今に至るまで貫徹されていることに…。

 「日曜に想(おも)う」という朝日新聞のコラムに担当者はこう書いている。「粛々と、という言葉で押し切る政府の強権ぶりは際立ち、対話の通い路はもはやない。その高圧姿勢を支えているのは何だろう。沖縄に犠牲を強いるつもりはなくても、沖縄を『あっちのほう』とみる本土の人の意識、もしくは無意識の膨大な総体であることに疑いない」。さらに、新約聖書ヨハネ伝の「汝等(なんじら)のうち罪なき者、まず石をなげうて」―を引用して、こう続ける。「(今村)復興相の言葉は罪深い。しかし、こと沖縄に重ね合わせたとき、石を投げる資格は私たちにあるだろうか、あの復興相は私ではないか、と考え込まざるをえなかった」(5月7日付)

 一方で同じ新聞はちょうど2週間後、一面のへそに当たる「天声人語」で、奈良時代の歌人で高級官吏の大友家持(おおとものやかもち)を取り上げ、「司令官として赴いた東北でも蝦夷(えみし)制圧という難しい任務に力を尽くしている」とした上で、「家持」展を主催した関係者の言葉を借用して、こう記している。「一言でいえば円(まど)かな人。ヒュ-マニズムを重んじ、良心的でした。その分、台頭する藤原一族から圧迫されました」(5月21日付)―。「蝦夷制圧」とは言うまでもなく、「蝦夷征伐」のことである。ヤマトによるこの行為がどうして「ヒュ-マニズムで良心的」と言えるのか。天声人語といえば、大学入試試験に出題されることも多い。この新聞は受験勉強にいそしむ若い世代に「偽史」を教えていることに気が付いていないのかも知れない。

 聖書まで持ち出して殊勝な言葉を連ねる一方で、「東北で良かった」発言に屋上屋を架(か)すように「蝦夷制圧」に正統性を与える、このアンビバランスにこの新聞の偽善性が透けて見えるような気がする。一見、その発言に批判の矢を放しつつあるようで、その実、ハラの底では復興相と一緒になって、東北に向かって石を投げている張本人―それは他ならない(私自身かつて、そこに身を置いた一人である)朝日新聞ではないのか。

 住井すゑは著書の巻末に部落解放を高らかに謳(うた)った「水平社宣言」の一節を引用している。「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ」―。95年前、日本で初めて発せられた「人権」宣言である。


(写真は米軍基地との境に張り巡らされたフェンス。反対の意思表示をする旗やステッカ-がくくりつけられている=沖縄県名護市辺野古のキャンプ・シュワブ前で、インターネット上に公開の写真から)
2017.05.25:masuko:コメント(0):[身辺報告]

沖縄だより⑩―メタファ-(暗喩)としての“沖縄”

  • 沖縄だより⑩―メタファ-(暗喩)としての“沖縄”

 「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」―。その日のテレビはこんな内容の声明文を映し出し、コザ市(現沖縄市)の市街地にほど近い森の中で、行方不明になっていた米兵の幼児が死体で発見されたことを伝えていた。食堂でこのテレビを見た後、実行犯とみられる男は住まいのアパ-トに戻り、用意してあった封筒に新聞社の住所を書き、引出しにしまっておいた麦わら色の毛髪を中に入れた。那覇まで車を走らせて投函した後、男は車から抜き取ったガソリンを上着にかけ、公園の広場でライタ-をこすった。闇の中で燃え上がり、歩き、倒れた火に……

 沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊さん(56)が掌編小説『希望』の中で、沖縄の心象をこう描写したのは18年前のことである(1999年6月26日付「朝日新聞」夕刊)。わずか2千字余りの文章の中で、声明文の部分だけが太字のゴシック体になっている。この4年前の1995年、米兵3人による少女暴行事件が起きた。目取真さんは文中で男の気持ちをこう言い表している。「3名の米兵が少女を強姦した事件に、8万余の人が集まりながら何一つできなかった茶番が遠い昔のことに思える。あの日会場の隅で思ったことをやっと実行できた。後悔も感慨もなかった。ある時突然、不安に怯(おび)え続けた小さな生物の体液が毒に変わるように、自分の行為はこの島にとって自然であり、必然なのだ、と思った」

 「4・28」―。沖縄戦後史において、この日付は幾重にも苦渋の歴史を刻みこんでいる。65年前(1952年)のこの日、サンフランシスコ講和条約が発効。日本は独立を果たしたものの、沖縄は日米安保条約が支配する米国の施政権下に置かれた。日本が主権を回復したその日は沖縄にとってはそのまま「屈辱の日」となった。4年前、安倍政権はこの日を正式に「主権回復の日」とする閣議決定を行った。沖縄が念願の日本(本土)復帰を果たすのはさらに20年後の1972(昭和47)年5月15日のことである。そして、もうひとつの「4・28」が―。

 沖縄県恩納村の県道104号線―。雑木林の脇にしつらえられた仮祭壇には手向けの花や菓子、飲み物などが山のように供えられていた。1年前の2016(平成28)年4月28日、うるま市内に住む女性(当時20)が元米兵の軍属に強姦されたうえ、殺害・遺棄された現場である。まさに「屈辱」のその日に起きたという日時の合致におののいてしまう。犯人逮捕後の6月19日、那覇市内で「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める」県民大会が開催され、約6万5千人が参加した。仮祭壇に手を合わせながら、私は目取真さんが描いた光景が目の前で反転するような錯覚にとらわれた。

 地元紙の琉球新報は過去の出来事を現在の視点で再現する「沖縄戦後新聞」を発行している。2017年4月28日付(第11号)はサンフランシスコ講和条約の発効に伴う「沖縄分断」の特集である。「沖縄、日本と施政権分断」、「対日講和条約が発効/安保条約にも効力」、「米へ沖縄長期租借提案/天皇『25、50年、それ以上』」、「屈辱/『また切り捨て』」、「国策に翻弄/『ぬ-やるば—が』(沖縄はどうしたらいいのか)」…。こんな見出しが躍(おど)っている。「米軍が最も恐れた男」(TBSテレビ放映)と言われた立法院議員(当時、のちに衆議院議員など)の瀬長亀次郎(1907年―2001年)の談話が目を引く。

 「われわれの琉球がアメリカの信託統治下に置かれることなく、即時日本に復帰し、日本民族としての誇りを持ち、完全独立と平和と自由を勝ち取らんと苦闘している事実は何人もこれを拒むことはできない。…琉球人民を愛し、日本に復帰することによってのみ人民の幸福が得られることを信じている。あらゆる階層の力を組織し、われわれはこの島の反植民地闘争の先頭に立って闘うことを対日平和条約発効の今日、全日本の人民に誓うものである」―。

 今年は瀬長が希求してやまなかった日本復帰からちょうど45年。1周忌法要の翌日の4月29日、米軍普天間飛行場の移設(新基地建設)先とされる名護市辺野古の米軍「キャンプ・シュワブ」前で、被害女性の追悼と基地建設の阻止に向けた「4・28屈辱の日を忘れない」県民集会が開かれた。4日前の25日、こんな「節目」をあざけ笑うように、国はサンゴ礁とジュゴンの海を埋め立てる本格的な護岸工事に着手した。戦後72年がたったいま、瀬長がいう「反植民地闘争」どころか、国家権力による沖縄の植民地支配がますます狂暴化し、私たち本土(ヤマト)の住人も相変わらず「見て見ぬふり」を決め込んでいる。

 「今オキナワに必要なのは、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」―。太字の声明文を口の中でそっと、つぶやいてみる。切っ先が研ぎ澄まされた、この種のメタファ-(暗喩=あんゆ)はその刃(やいば)が自分自身にも向かってくる「両刃の剣」である。しかし、こうした言葉がはい上がって来ざるを得ない、その魂の根源を見定める覚悟を持たない限り、「オキナワ」は見えてこないのではないか。ひょっとすると、その深奥(しんおう)を語るにはもはや「メタファ-」という語法に頼るしかないということなのかも知れない。積年の思いを遂げ、己(おのれ)の体に火を放った男はいまも沖縄の地のあちこちに生き続けているにちがいない。


(仮祭壇には供物がたくさん、供えられていた。小説『希望』の光景が二重写しになった=5月1日、沖縄県恩納村安富租で)


≪追記≫~沖縄ではすでに“共謀罪”が実行に移されているということについては当ブログで何度か触れてきたが、5月2日付当ブログ「沖縄だより③―ブ-ゲンビリアの記憶」で紹介した金城武政さんが身をもって体験した、その恐ろしさを語っている。19日付「沖縄タイムス」に掲載された全文を以下に転載する。

                                  ※

 名護市辺野古の新基地建設に反対する金城武政さん(60)は昨年11月、威力業務妨害容疑で逮捕され、21日間身柄を拘束された。米軍キャンプ・シュワブ工事用ゲ-ト前でコンクリ-トブロックを積み上げたとする容疑を否認し、不起訴になった。19日にも衆院法務委員会で採決される「共謀罪」法案は捜査機関の権限拡大を招くと危険視。表現の自由が脅かされてはならない」と訴える。

 「金城武政だね。逮捕する」。昨年11月29日の午前8時ごろ、金城さんは自宅に押し掛けた県警の捜査員に告げられた。突然の逮捕告知に驚いて理由を尋ねると、「威力業務妨害だ。詳しくは署で話す」と答えが返ってきた。約1時間の家宅捜査では、携帯電話や預金通帳、アルバイトの給料袋まで押収された。宜野湾署に連行されると「同年1月28日から30日までの間、沖縄平和運動センタ-の山城博治議長(64)=公判中=ら3人と共謀して、ブロックを積み上げた」というスト-リ-が出来上がっていた。だが金城さんは「ゲ-ト前テント付近におり、積み上げに加わっていなかった」と反論した。

 「お前も議長の指示で積み上げたんだろう」「認めたら出してやる」。自白を迫る刑事に、金城さんは毅然と容疑を否認。携帯電話の通信記録は解析され、分厚い書類になっていた。電話した人の職業や関係、思想を聞き出す取り調べを「プライバシ-なんてお構いなし」と振り返る。積み上げは誰かの指示によらず、ゲ-ト前の市民が自主的に加わったと説明したが、刑事は山城議長らと連絡を取り合っていないか繰り返し問いただした。取り調べは逮捕容疑とは関係ない、テント資材の購入資金や抗議に加わる市民の氏名にまで及んだ。「運動の実態をつかんでつぶそうとしている」と感じて口を閉ざした。

 「共謀罪」法案は、内心の自由の侵害が懸念されると指摘する金城さん。逮捕前に、自宅付近で不審な車両と男性を目撃し、警察に監視されていたのではと振り返る。法案が成立すれば捜査機関の尾行が横行すると恐れる。一方で「成立しても、憲法が保障する表現の自由の行使をためらってはならない」と語気を強める。萎縮したら国策に異を唱えることができず、民主主義が機能しなくなる。「また逮捕するぞ」と脅す警官に屈することなく、きょうもゲ-ト前に立ち続ける。






2017.05.21:masuko:コメント(0):[身辺報告]

沖縄だより⑨―辺野古「新基地」と愛楽園

  • 沖縄だより⑨―辺野古「新基地」と愛楽園

 外壁や貯水槽に残された無数の銃弾跡が沖縄戦の壮絶さをいまに伝えていた―。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古「移設」(新基地建設)に揺れる名護市の西方、陸橋でつながれた屋我地島に「沖縄愛楽園」がある。元ハンセン病患者ら164人が生活する国立療養所である。1944(昭和19)年の「10・10」空襲―。延べ千機の米軍機が沖縄本島の各地を襲い、愛楽園もその施設の90%が破壊された。あちこちに横穴式の防空壕跡が口を開け、敷地内には「声なき子どもたちの碑」と名づけられた石碑が建っている。沖縄戦の「忘れられた戦跡」のひとつである。

 愛楽園は昭和13年に開園。沖縄戦の開戦を前に感染を恐れた旧日本軍は在宅のハンセン病患者を同園に強制隔離し、入所者は定員(450人)の倍以上の913人に膨れ上がった。「一番先にぶつかった“敵”は、米軍ではなくて、沖縄のレプラ患者(ハンセン病の蔑称)だった」という兵士の証言がのちの新聞に載っている。防空壕跡は「早田壕」と呼ばれている。当時の園長だった早田皓(ひろし)の名前から取った。苛酷な壕掘りに狩り出された患者たちは貝塚層の開削作業に次々に重軽傷を負った。米軍機による空爆は病院棟を兵舎と見間違えた結果だったが、上陸後にそこが療養施設だとわかり、戦時国際法(ハ-グ陸戦条約など)の規定により、爆撃は中止された。

 その一方で、患者たちが避難した壕内は地獄の様相を呈していた。持病の悪化に加えて、食料不足からくる餓死や中毒死…、これにアメ-バ赤痢やマラリアが加わった。死者の数は315人に上った。「三大国辱病」のひとつに名指しされたハンセン病には苦難の前史も重くのしかかった。こんな患者の証言がある「私たちにすればね、戦争があった方がよかった。…それで終戦後はいじめられないようになって。戦争して負けたんだけど、自分たちの幸せは戦争があった方がいいって」(『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』、2007年)。同じ沖縄戦の被害者でありながら、その被害を分断する差別の重層性…

 「土人、シナ人」発言を浴びせられた沖縄在住の芥川賞受賞作家の目取真俊さんはよほどの荒天でない限り、新基地建設が強行される米軍キャンプ・シュワブ前の大浦湾でカヌ-による抗議行動を続けている。カヌ-が無理なときは沖縄北部に点在する戦跡を巡ることにしている。そのひとつが屋我地島である。沖縄戦のさ中、目取真さんの一家はこの島に住んでいたことがある。その時の体験をこう書いている。「艦砲と空爆に追われ、村人たちが隠れている壕まで逃げてきた母たちは、必死に頼み込んだがなかに入れてもらえなかった。生きるか死ぬかの瀬戸際で、日本人(ヤマトウンチュ-)に差別されてきた沖縄人(ウチナ-ンチュ-)もまた、村のなかの弱者を差別したのだ」(『沖縄/草の声・根の意志』)

 5歳になる母の弟が米軍が残したガソリンを入れて、ランプに火をつけようとした瞬間、衣服に火が燃え移った。結局は助からなかったが、その時、治療をしてくれたのが愛楽園の療養所だった。目取真さんはこんなエピソ-ドを記しながら、昨年、同園を訪れた際の印象をこう語っている。「私の母は戦前・戦時中、屋我地島に住んでいた。極貧の生活だったが、愛楽園から患者の皆さんが卵を買いに来たとき、祖父母は普通に接していたという。しばらく前に交流会館を見学し、証言を読んで胸を打たれたと話していた。沖縄戦とハンセン病の差別の歴史を知ることは、基地問題を考えることと同じくらい重要なことだ」(ブログ「海鳴りの島から」)

 反対運動を力ずくで抑え込み、サンゴ礁とジュゴンが生息する南の海に土砂が投下される辺野古「新基地」建設―その陰で忘れられたように息づくハンセン病患者らの苦難の歴史…。わずかな距離を隔てて同じ市内に存在する、このあまりにも皮肉なパラドックスに怖気(おじけ)づいてしまう。その一方で、沖縄におけるもうひとつの国立ハンセン病療養所「宮古南静園」がある宮古島(宮古島市)ではミサイル部隊を含む自衛隊配備計画が浮上。国策の猛威が襲いかかりつつある。

 その常套手段は地域コミュニティの分断統治であり、それに手を貸すのは他ならない、私たち本土(ヤマト)の住人の無知・無関心―ひと言でいえば、「沖縄差別」である。「差別は差別を再生産する」―私たちはこの悪しき連鎖を断ち切らなければならない。「被差別」の最奥部にこそ、沖縄における米軍「基地」問題が存在することを自覚しなければなるまい。


(写真は敷地内にいまも残る「早田壕」の一部。忘れられた「沖縄戦」をかすかに伝える=5月3日、沖縄県名護市字済井出で)

 

 
2017.05.18:masuko:コメント(1):[身辺報告]

沖縄だより⑧―「本土復帰」45年と3本の旗

  • 沖縄だより⑧―「本土復帰」45年と3本の旗

 「日の丸少年がその旗を焼き捨てんたんだからなぁ。考えてみれば、色んな旗に振り回されてきたような戦後だった」―。沖縄が日本に復帰して45年を迎えた15日、本島中部・読谷村に住む僧侶、知花昌一さん(69)は「いまは復帰後、最悪の状況ではないのか」と語気を強めた。1972年5月15日―。この日の「本土復帰」が実現するまで、知花さんは日の丸を振り続けた。「復帰すれば、平和憲法の下で暮らせる」という一念だった。「オヤジが米兵から『妻を貸せ』と言われたり…。鬼畜生みたいな米軍の支配から1日も早く逃れたかった」

 今からちょうど30年前の1987年10月に沖縄国体が開催され、地元の読谷村はソフトボ—ル会場に選ばれた。知花さんはメインポ-ルに掲げられていた日の丸を引き下ろし、焼き捨てた。全国のメディアで大きく報道された。生まれ故郷の読谷村は米軍の上陸後、壕(チビチマガリ)に逃げ込んだ住民139人のうち、84人が「集団自決」した悲劇の地として知られる。知花さんら地元の人たちの共同制作で、鎮魂の「平和の像」が完成したのは国体開催のわずか半年前。「15年前(1972年)の本土復帰が欺瞞だったことはとっくにわかっていた。でも、日の丸を目の前に見た瞬間、集団死の凄惨な光景がそれに重なった。もう、とっさの行動だった」

 「国旗燃ヤス村ニ平和ハ早スギル 天誅(てんちゅう)ヲ下ス」―。「日の丸焼き捨て」事件の約1カ月後、「平和の像」は右翼集団によって完全に破壊された。当時、経営していたス-パ-マ-ケットが襲撃されるなどの被害も受けた。「でもね。商売は続けることはできた。日の丸に対する村の人たちの気持ちは同じだったんですよ」。器物損壊容疑で有罪が確定したが、2010年から3期連続、読谷村議を務め、4年前には僧侶(真宗大谷派)の資格を取った。「斬鬼(ざんき)の心なき者は人にあらず」(親鸞)―。知花さんはこんな言葉を口ずさみながら、「この旗を見たことがありますか」と言った。

 初めて見る旗だった。赤と青と黄色を「巴」(ともえ)状に配した不思議な図柄だった。「これは450年間、続いた琉球王朝の家紋だと言われているんです。“左三つ巴”というそうです」と知花さんは説明し、「実は…」と続けた。「10年ほど前、当時83歳だった元海兵隊員からもらったんです。『沖縄は日本の植民地。米軍はその植民地支配から解放するためにやってきた。これは大切な解放旗だ』と…。上陸する前に末端の米兵たちはそう教え込まれたというんですよ。それが真っ赤なウソだとはすぐに気が付いたけど…」。泡盛を入れる陶器には別の旗が施されていた。「1950年1月25日/米国軍政府 琉球旗設定」と記されていた。知花さんが言った。「当時の沖縄は星条旗でも日の丸でもなかった。海賊船などから漁船を守るために、この旗を船首に掲げたらしい」

 知花さんのポストカ-ドの住所は「沖縄 読谷村字波平」となっている。「国という実感がないんですね。家族は愛している。村は、島は、沖縄は愛している。でも、国となるとイメ-ジがない。だから、『県』という文字を使わない。日本の一部になりたくないんです。日本人ではあるけれど、日本を否定したい」―。知花さんはかつて、こう語っている。本来なら「アイデンティティ-」の象徴であるはずの「(国)旗」のはざまで翻弄(ほんろう)されてきた気持ちがわかるような気がした。カ-ドに印刷された「口説」には自ら作ったこんな一節がある。

 「アメリカ世(ゆ)のあわりから/平和憲法・民主主義/求めてヤマト世来たけれど/思(うむ)いこがれたヤマト世は/ヤマトの為の世の中で/人間不在の政治だけ…」―。「とすると、知花さんにとっての心の原郷ってどこになるのですか。やはり、かつての王国?」と私は問うた。しばらく、考えた後にこう答えた。「一時期、米軍が巴の琉球王国旗を“解放旗”と見たのは本当だったのかもしれない。それが占領政策の手段だったとしても…。この旗にはやっぱり、シンパシ-を感じる。でもいきなり、“琉球独立”論にはいかない。運動に排外主義があってはならない」

 知花さんは1996年4月、読谷村にあった米軍「楚辺通信所」(通称、象のオリ)が使用期限を迎えたのをきっかけに、基地内にあった所有地の返還を求める運動に立ち上がった。日本政府は翌年、米軍用地特別措置法を改正し、使用期限を事実上半永久的に延長可能としたため、裁判闘争にまで発展した。 その後、代替施設がキャンプ・ハンセン(金武町)に設置されたため、遊休施設となった所有地は延長使用期限が切れる2006年7月、知花さんに返還された。

 「たったひとつの旗に縛(しば)られることがいかに恐ろしいことか。いま、辺野古や高江で強行されている日米両国による強権支配がそのことを如実に物語っている。一方、本土の人たち(ヤマトンチュ)の多くも排他的になってきているような気がする。米軍普天間飛行場の辺野古移設はもちろんのこと県外・国外への移設にも反対だ。安保廃棄・全基地撤去を外れてはならない。戦争の悲惨さを身をもって体験させられたのが他ならぬウチナンチュだからだ。沖縄以外の“オキナワ化”は許してはならない。だからこそ、ヤマトンチュとの連帯が必要なんだ」―。知花さんは一気にこう語り、ボソッとつぶやいた。

 「あの(チェ)ゲバラだって、キュ-バ革命の後、南米からアフリカまで足を伸ばして、人間解放のたたかいに短い生涯を捧げた。大事なのは『個』。個として考え、個として連帯することではないのか」。沖縄の「本土復帰」とは一体、何だったのか―45年の節目に私たちウチナンチュはもう一度、そのことを考えなくてはならないと思う。


(写真は琉球王国の国旗をされる旗を広げる知花さん。「かつての沖縄の姿をヤマトの人たちにもぜひ、知ってほしい」=5月6日、読谷村波平の自宅で)


≪追記≫~ハサミを使って、強制排除/復帰45年の日(15日付「琉球新報」電子版)
 
 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設工事で15日午前、米軍キャンプ・シュワブのゲ—ト前で座り込む建設反対の市民らに対し、県警機動隊がはさみを取り出し、隣り合う市民同士が腰に巻き付けていたひもを切って排除した。大勢の市民と機動隊員がもみ合いとなっている混乱した現場で、警察側が刃物を使用したことに批判の声が上がりそうだ。

 ゲ—ト前には市民ら約130人が座り込んだ。午前8時40分ごろ、工事車両を基地内に入れるため、県警機動隊による市民の強制排除が始まった。複数の機動隊がはさみを持ち、強制排除されないようにと市民同士が腰に巻き付けて結んでいたひもを切った。その後、機動隊員は一人一人を持ち上げるなどして排除した。排除が完了した午前9時10分から14分にかけて、砕石などを積んだトラック16台、クレ—ン1台、コンクリ—トミキサ-車4台の計21台がシュワブ内に入った。

 この日の強制排除には県警の交通規制担当の警察官も加わった。市民らは「交通誘導を行うべき警察官が排除という実力行使をするのは初めてだ。権力の横暴だ」と批判の声を上げた。海上ではK9護岸区域にクレ-ンで砕石を投下し、重機で敷きならす作業が行われた。市民らは抗議船4隻、カヌー10艇で抗議した。午前9時半ごろ、カヌ-10艇が浮具(フロ-ト)を乗り越えたため、中城海上保安部によって一時拘束された。




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