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シンガ-ソングライタ-と「原発」―そして、炭鉱、沖縄……

  • シンガ-ソングライタ-と「原発」―そして、炭鉱、沖縄……

 「『平時』の原発はこんなふうに動いていた!」というサブタイトルに目を奪われ、著者が30代の女性シンガ-ソングライタ-だと知って二度、びっくりした。原題はずばり『原発労働者』―。「ゼロから原発を考え直すために、ひとりの音楽家が全国の原発労働者を訪ね歩き、小さな声を聴きとった貴重な証言集」と帯にある。寺尾紗穂さん(36)がそのご当人である。2年前、当時34歳の時に本書を書くきっかけになったエピソ-ドを紹介している。2003年、友人に誘われ“ドヤ街”と呼ばれる、東京・山谷の夏祭りに参加した時のことである。彼女はこう書いている。

 

 「『君の大学の校舎を建てたよ』という坂本さんというおじさんと出会った。いい校舎だな、誰が設計したんだろう、そう思うことはあっても、誰が校舎を作ったんだろう、という問いはそれまでの自分には浮かぶことがなかった。まるで校舎は最初からそこにあったものであるかのように、そこで汗を流した人たちのことが完全に思考から抜け落ちていた」―。そのしなやかな想像力の躍動にまず、感動した。「きっかけはある日突然訪れた」と寺尾さんは続ける。「その日は突然思い出したのだ。そういえば、原発で働くと被曝する、って聞いたことがあったっけ。本当なんだろうか。本当だとして、どの程度深刻なものなのだろう、と。山谷、土方、日雇い、ドヤ街、そして原発。すでに無関心ではいられなくなっている自分がいた」

 

 「原発の日雇いで/放射能で被曝したおじさんが/虫けらみたいに弱るのを/都会の夜は黙殺する/私は知らない/人を救うすべを/私は知らない/なんにも知らない/私は知らない/きれいな未来を/あるのは泥のように/続いていく日々/泥の上に花を咲かすそのすべを/私は知らない/私は知りたい」―。寺尾さんは「私は知らない」というアルバムの中でこう歌っている。『闇に消される原発被曝者』(樋口健二著)に触発され、あっという間に書き上げた。東日本大震災に伴う福島第一原発の爆発事故の前年のことである。「3・11」をまたいだ”原発取材“は全国各地に及んだ。

 

 「炉心屋は真夜中にデ-タを書き換える」、「ボヤは消さずに見て見ぬふり!!」、「アラ-ム・メ-タ-をつけていたら仕事にならない」、「燃料プル-ルに潜る外国人労働者?」、「原発施行者が一番地震を恐れている」、「定期検査の短縮で増える点検漏れ」…。原発最前線の生々しい証言がつづられている。そのうえで、寺尾さんはこう書く。「チェルノブイリや福島のような大事故となった非常時の原発ではなく、『平時の』原発で働き、日常的な定期検査やトラブル処理をこなしている人々だ。彼らの視点に立つことで、社会にとっての原発、ではなく、労働現場としての原発、労働者にとっての原発、といった角度から、原発をとらえなおしたい」

 

 この文章を読みながら、私は40年以上も前の自分と彼女を重ね合わせていた。私事にわたるが、『三井地獄からはい上がれ』という自著がある。「三池炭鉱爆発とCO患者のたたかい」という副題がついている。出版は奇しくも寺尾さんと同じ34歳の時である。昭和38(1963)年11月9日、福岡県大牟田市にあった三井三池炭鉱が戦後最悪の炭じん爆発事故を引き起こし、458人が死亡し、839人が一酸化炭素(CO)中毒という不治の病を背負わされた。「安保の敗北」(1月29日付当ブログ「ある保守論客の自裁死」参照)からわずか数年後のことである。大学出たての記者風情を一瞬のうちに打ち砕いてしまうほどの圧倒的な力で、この大災害は襲いかかってきた。本書はその実態を追ったルポルタ-ジュの形式をとっている。

 

 「近くて遠い現場」―。有明海の海底にクモの巣のように張りめぐらされた海底炭鉱の坑道は総延長が300キロ以上に及んでいる。CO中毒患者の救済を訴えた女たちが会社の制止を振り切って、坑底座り込みを敢行したことがあった。私も女たちから衣類を借り、”女装”して取材することに成功した。458人の死の現場はそのずっと先にあるはずだった。しかし、漆黒の闇が延々と伸びる地底の世界はまるで「不可視の領域」のように目の前に立ちはだかっていた。私はその時の光景について、当時こう書き記している。「ふと、思った。その空間を支配するものにとっては、無法と悪意が保障された自由の空間―それが『不可視』の領域ではないのか」

 

 寺尾さんが追跡した「原発」も周辺から遮断されているという意味では、炭鉱と同じ不可視の領域である。だからこそ、その現場に身置いた労働者の証言こそが「平時の原発」の実態を映し出す鏡になるのである。本の後半分で寺尾さんは真っすぐな気持ちを正直に吐露している。「この本は終わりを迎える。けれど、この本で明らかにできたことは、原発労働の全体からいえば、ほんの一部である。人を踏んづけて生きてきた、という感覚は消えるどころか、世間があの震災から興味を失うにつれ、強まっていく。今この瞬間も、私は人を踏んづけて生きている。そして、私が踏んづけている人々は顔のない人でも、意志のない人でもない。笑い、怒り、耐え、幸せを望む、普通の人間だ」

 

 「不可視」の領域どころか、衆人環視の下に開放された場所がある。たとえば、新基地建設が強行される沖縄県名護市の「辺野古」沖に広がる大浦湾―。周囲の目をあざけ笑うように、ジュゴンが生息する海面に埋め立て用の土砂が投下されていく。陸上では抗議する人々が次々に排除され、悲鳴と怒号か飛び交う。目の前に展開するこうした光景から、あえて目を背けようとする人間集団がいる。ヤマトンチュ(本土人)の多くがそう見える。まるで、日光・東照宮の「三猿」の態様…そう、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三匹の猿たちを髣髴(ほうふつ)させる姿である。福島原発の悲劇を遠くに葬り去ったような…。

 

 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の「辺野古」移設の是非が最大の争点である名護市長選挙は4日後の2月4日、投開票が行われる。国の”代理戦争”と言われる激しい選挙戦も、ヤマトンチュにとってはまるで「どこか」の出来事風である。

 

 

(写真はライブコンサ-トでピアノの弾き語りをする寺尾さん。エッセイストとしても活躍。東京大学大学院総合文化研究科に学士入学し、『評伝川島芳子―男装のエトランゼ』で修士号を得た=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

2018.02.01:masuko:コメント(0):[身辺報告]

ある保守論客の自裁死

  • ある保守論客の自裁死

 “転向後”のその人の著作は何冊か斜め読みした程度で、もちろん面識はない。ただ、歯切れの良いアジ演説の響きだけは脳裏の底に残っている。「その人」とは1月21日、東京の多摩川に入水(じゅすい)し、自らの命を絶った保守派の評論家、西部邁(にしべすすむ)さんのことである。享年78歳。いまを去ること58年前、彼は「ブント」(共産主義者同盟)を率いる東大教養学部自治会委員長として、「安保反対」の最前列にいた。1歳下のノンポリ私大生だった私も、連日のように国会周辺のデモの隊列に身を投じていた。時の政権は岸信介内閣。日米安保条約の改定に反対する世論が日本列島を席巻(せっけん)していた。「60年安保」闘争―である。

 

 1960(昭和35)年6月19日、「改定安保条約」(新安保)は与党のみの強行採決を経て、自然成立した。翌20日に岸内閣は総辞職したが、この間、全学連の国会突入で東大生が死亡するなど反対のうねりは国民的な運動として盛り上がっていた。一方で、ブントが主導する全学連に対しては「過激派」のレッテルが張られるなど組織内部の対立も表面化。運動は潮が引くように下火になって行った。「安保の敗北」はあの現場に身を置いた若い感性にさまざま“後遺症”を残すことになった。私は勝手に「安保DNA」と名づけている。もちろん例外もあるが、当時の仲間たちと会うと「そういえば、安保世代で出世した奴は少ないよな」という話に落ち着いた。偽善や欺瞞、虚栄、独善、怯懦(きょうだ))…。DNAの正体はこうした振る舞いに対する無意識の嫌悪感だったのかもしれない。

 

 1980年代―。表舞台から身を引いたと思っていた西部さんが「大衆社会」批判を引っさげて再登場した。大衆への不信感が“転向”を促したのかもしれない。月刊言論誌『発言者』を発刊したり、討論番組「朝まで生テレビ」(テレビ朝日系)の常連パネリストとして熱弁をふるった。

 

 私は一瞬、目を疑った。目の前に現れたのは「革命」を叫ぶ過激派ではなく、「真正保守」を標榜する論客としての彼だったからである。日本の核武装や徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配強化…。その“豹変”ぶりに呆気(あっけ)にとられ、私はその人の存在を忘れることにした。新安保条約が実は「(沖縄の)3度目の捨て石」につながる「日米地位協定」とセットになっていることに、当時の私は気が付いていなかった。その時の悔恨(かいこん)がその後、沖縄に目を向けるきっかけになったような気がする。彼との分岐点はこの辺にあったのかもしれない。

 

 余りにも唐突な自死だと思った。しかし、西部さんは昨年暮れ、あるテレビ番組で「10月22日に死ぬことに決めていたんです。でも、この日はたまたま総選挙と重なったもんで…」と語っていた。愛弟子を自認する東京工業大学の中島岳志教授(近代思想史)はこう述懐する。「自分を保つことができない状態で、延命を目的とした時間を過ごすことを、思想的に是としなかった。自分の意志で行動できる間に、自ら死を選ぶという決意を語っていた」(1月26日発行『週刊金曜日』)―。最後に会ったのは1月5日。「自分の命は、a few weeks(数週間)」とその時、西部さんは告げたという。その通りになった。妻との死別や持病への悩みを抱えていたが、「思想的な死」とは一体、どんな死なのだろうか―。

 

 かつて、西部さんと評論家の佐高信さんとの対談を取り上げたテレビ番組があった。世間では「左右の激突」と呼ばれた。当然、右が西部さんで、左が佐高さんである。約3年間続き、その内容は『思想放談』(朝日新聞社)などの本にまとめられている。「学問のすすめ」というテレビ対談(CS放送「朝日ニュ-スタ-」)で、佐高さんがあるエピソ-ドを披露している。

 

 「最初の福沢諭吉からニ-チェ、夏目漱石など関心をもつ思想家が重なっているのに驚いた。番外的に取り上げた美空ひばりでは好きな歌まで同じである。それで一緒にカラオケに行ったりしたのだが…。まもなく、西部はしばしば『サタカ君を左翼にしておくのは惜しい』と私を冷やかし、私も『西部さんは保守にしておくのは惜しい』と笑って返すようになる。私がサヨクかどうかは別にしてもである。思想的には真反対だといわれている西部と私が嗜好的にはよく似ているのだなと思った。それ以上に嫌いな人間が同じということで、2人は“同盟”している。発言に体重がかかっていない、あるいはペラペラしゃべる口先だけの人間を侮蔑するという共通感覚をもっているのである。」―。2000年11月15日、2人は参議院の憲法調査会に参考人として呼ばれた。当然のごとく、西部さんは改憲賛成派で佐高さんは反対派だった。

 

 「自裁死」の1か月前の『アエラ』(12月18日号、朝日新聞社)は西部さんとウ-マンラッシュアワ-の芸人、村本大輔さん(1月2日付当ブログ『「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と“善意の人族”』参照)との対談を掲載している。互いに意気投合し、対談は3時間にも及んだという。その中で、西部さんは現在の日米関係について辛辣(しんらつ)にこう語っている。「米国もめちゃくちゃになっているから日本を守る気なんてない。それに北朝鮮のような侵略性むき出しの国が核武装すると世界の迷惑だからつぶせと言うけど、最も侵略的なのは米国に決まっている。僕は日本人だけど、その圧倒的大多数はアメリカンデモクラシ-の名の下にアメリカの属国民になっている」―。「安倍一強」の対米追従姿勢に対する痛烈な批判である。

 

 私はこの対談を読みながら、「60年安保」の光景を思い出していた。安倍晋三首相の祖父が当時の岸信介首相である。ひょっとしたら、「日米安保」粉砕を叫んだ”革命戦士“の心中奥深くには、この「血族」の悪夢が消えることのない刻印として生きていたのではないか。文芸評論家の浜崎洋介さんは追悼文に、酒場での西部さんの言葉を紹介している。「もしもね、君が言っていることが孤立して、全世界の人間が君一人を批判してもね、いいかい絶対に引くんじゃないぞ。逆に、精力の全てを尽くして自分を立てることに集中しなさい。それが物を書くということだよ」(1月25日付「岩手日報」)

 

 「こんな国捨てて彼岸に亡命す」(1月23日付)―。朝日新聞に載った川柳である。西部さんは私にとって、安保DNAで結ばれた“戦友”のひとりだったのかもしれない。合掌

 

 

(写真はありし日の西部さん=イン-タネット上に公開の写真から)

 

2018.01.29:masuko:コメント(0):[身辺報告]

チビチリガマ―野仏に祈りを込めて…その一方では「アッ」と驚く事態も

  • チビチリガマ―野仏に祈りを込めて…その一方では「アッ」と驚く事態も

 「ガマ(洞窟)を荒らした少年たちと合宿しながら、野仏を造ろうと思っているんだ。見に来ないか。ちょっと急だけど、明日からなんだよ」―。沖縄県読谷村在住の彫刻家、金城実さん(79)さんから電話が入ったのはその前日の今月22日。せっかちな金城さんにしても、あまりにも急だ。その光景を想像しながら、ジリジリ待つこと4日間。26日付の地元紙2紙(電子版)に記事が載った。米軍が沖縄本島に上陸した翌日(昭和20)の4月2日、チビチリガマに避難した約140人のうち、83人の住民が非業の死を遂げた。肉親が殺し合いを余儀なくされた「強制集団死」の現場である。ガマの入口には金城さんらが制作した「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が建っている。

 

 まだ、遺骨などが残っているガマが荒らされたのは、昨年9月12日。数日後、県内に住む16歳~19歳の少年4人が器物損壊の疑いで逮捕された。少年たちは「肝(きも)試しだった」「心霊スポットに行こうと思った」と自供。「過去の歴史は知らなかった。大変なことをしてしまった。遺族の方々の心を傷つけてしまった」と反省の言葉を口にした。金城さんが保護司に任命されたのは、約1ケ月後。「少年たちとどう向き合おうか」と考えた時、制作中の野仏のことを思い出した。事件が起きる4カ月前、私はたまたま、金城さんのアトリエを訪れていた。

 

 ツノが生え、目玉をギョロリとむき出した新作の鬼の像がアトリエに置かれていた。怖い形相をしたその胸にまるい袋状のものが抱かれている。「鬼の遺伝子だよ。抵抗の遺伝子は必ず、進化する。そのことをイメ-ジさせた」。すぐかたわらには柔和な表情をした「野仏」(お地蔵さん)が並んでいた。顔と手足にはきれいにヤスリがかけられ、撫(な)でるとスベスベした感じがした。二つの像の間に挟まるようにして、金城さんが言った。「いいかい、まるで形相の違う像を一人の人間が作ったということだ。つまり、人間は時には鬼のように抵抗し、また時にはツノを収めて野仏のように穏やかにならなければならない。そのことを訴えたかった」―。

 

 私は事件の報に接した時の気持ちをブログに次のように記した。先の大戦で唯一、地上戦が戦われた「沖縄戦」の実態を、私も含めたヤマトンチュはどれほど知っているだろうか。そんな自責にかられたのである。…●「平和学習の成果がなかったのではないか」、「沖縄戦の風化がここまで進んでいるとは…」、「遺族たちは3度、殺された」、「よりによって地元の子が…肝試しをという動機の落差に、世代の溝の深さを思う」。このショッキングな出来事をめぐって、沖縄内外では様々な意見が相次いだ。その内容にはいちいち納得できたが、一方で「果たしてそのことを言い募るだけで事は解決するのだろうか」という思いも頭をもたげた。「その事実自体を不問に付すつもりはないが、今回の不祥事を引き起こした遠因は私たち(ヤマト)の無知・無関心ではなかったのか」(2017年9月27日付「キジムナ-とチビチリガマの”受難”」参照)

 

 あの事件から4カ月余り―。遺族や金城さんたちの願いがかない、ガマの周辺にはずらりと野仏が安置された。「作業には保護者の1人も加わった。3日間の仏像造りを終えた少年たちに安どの表情が広がった。参列者から拍手が起こった」…こんな報告をする受話器の向こうの金城さんの声もうれしそうだった。地元紙は以下のように伝えた。

 

 

 沖縄戦で住民が「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた読谷村波平の自然壕チビチリガマを損壊した少年4人が25日、ガマ入り口にある「世代を結ぶ平和の像」を制作した金城実さん(79)らとガマ周辺を清掃し、新たに仏像12体を設置した。沖縄戦や「集団自決」の事実について、チビチリガマ遺族会(与那覇徳雄会長)から話を聞き、沖縄戦最大の悲劇に数えられる「集団自決」を語り継ぐ大切さを学んだ。

 

 少年たちは23~25日、保護観察所のプログラムの一環で保護司らと共にチビチリガマを訪ねた。あらかじめ遺族会や金城さんが土台部分を制作した仏像に顔や腕を付けて完成させ、ガマ周辺に12体を設置した。3日間、ガマの中の遺骨にも手を合わせた。与那覇会長によると、少年たちは活動を終えて「歴史を知らず、大きなことを犯してしまった。今後、このような事件がないようにしたい。沖縄戦を伝えていきたい」などと述べ、改めて謝罪した。遺族の言葉にも真剣な表情でうなずいていたという。
 

 与那覇会長は「自分たちで仏像を設置したことで、これからもガマを訪ねて手を合わせてほしい」と語り、「少年たちは反省していた。作業を通して変わったと感じた」と振り返った。金城さんは「作業着を着て、黙々と仕事をしている様子を見てうれしかった。少年たちが後世に沖縄戦を伝えることを期待している」と話した。少年たちは昨年9月にガマ内部の折り鶴を引きちぎったり、遺品や看板などを破壊したりして、器物損壊の罪で逮捕され、保護観察処分を受けた。ガマの入り口に設置された平和の像にも損傷が及んでおり、遺族会は今後、少年たちと修復作業を進めていくことを検討している(26日付「琉球新報」電子版)

 

 

(写真は少年たちの手で制作された野仏たち=1月25日、沖縄県読谷村波平で。琉球新報の紙面から)

 

 

 

《追記-1》~「安倍官邸と自民が沖縄に襲いかかる」

 

 この日(26日)発行の『週刊金曜日』はこんなタイトルの特集を組んだ。近づく「名護市長選」(2月4日投開票)と「石垣市長選」(同3月11日)…。米軍普天間飛行場の「(名護市)辺野古」移設や陸上自衛隊のミサイル配備計画で揺れる両選挙に国は”総力戦“で臨んでいる。「襲いかかる」という表現がぴったりの激しい攻防をレポ-トしている。昨年3月、152日間に及ぶ不当勾留の末に保釈された、沖縄平和運動センタ-議長の山城博治さんは特集の中でこう語っている。

 

 「(翁長雄志・沖縄県知事は)もっと先の沖縄の姿を見ていた。私たちの拠(よ)って立つところは、基地ではないんだと、平和に向けての夢なんだと。武器を持たずにアジアと交歓するんだと。1千万観光客って大変ですよ。すごいですよ。そこにはヘリパッド不要、辺野古基地の邪魔、米軍はいらないんだ。基地のない美しい海、青い空から人間が降り立つ。だから、私も賭けたんです。そういう夢に」

 

《追記―2》~「何人、死んだんだ!」

 

 25日の衆院本会議で代表質問に立った共産党の志位和夫委員長が、沖縄県で相次ぐ米軍機の事故や不時着の問題を取り上げていた際、自民党の松本文明内閣府副大臣が議員席から「それで何人死んだんだ」とやじを飛ばしたことが分かった。共産党の小池晃書記局長は26日の記者会見で「本当に許しがたい発言。言語道断だ」と非難した。小池氏によると、やじは本会議場の自民党席から上がり、共産党機関紙「しんぶん赤旗」の記者が直後に取材したところ、松本氏が「僕の発言だ」と認めたという。西村康稔官房副長官は記者会見で、発言は確認していないとした上で「必要に応じて本人が発言の趣旨をしっかり説明する」と述べた(26日付「時事通信」電子版)

 

 この人物はたぶん、「チリチリガマ」の悲劇を知らないのだろう。いや、かりに知っていたとしても「どこ吹く風」ではないのか。そういえば以前、「差し入れ」を要求する失言もあった。各紙によると。同大臣は26日夕、安倍晋三首相に辞表を提出し、受理された。

 

※なら幾人亡くなりゃ国は動くのか(1月30日付「朝日川柳」

 

 

《追記―3》~巨星、墜(お)つ

 

 官房長官や自民党幹事長などを歴任した元衆院議員の野中広務(のなか・ひろむ)氏が26日に死去した。92歳だった。(中略)戦争中の召集経験があり、党内では「ハト派」として弱者への配慮を持ち続け、イラク戦争などで自衛隊の海外派遣に抵抗。親中派で北朝鮮との関係改善、沖縄問題などに尽力した(26日付「毎日新聞」電子版)。

 

  「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)に際し、特別委員会の委員長だった野中さんは可決に先立って異例の発言をした。沖縄に寄り添う発言として、今も語り継がれている。「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」ー。『週刊金曜日』がその予言が的中したことを明らかにしている。

 

※情けないヤジを憂いつつ古老逝く(同上)

 

《追記-4》~ゴルバチョフ・旧ソ連大統領からのメッセージ

 

 冷戦終結という世界史に残る偉業を成し遂げ、ノ-ベル平和賞を受賞した旧ソ連のミハイル・ゴルバチョフ元大統領(86)から沖縄の新基地反対派を激励するメッセ-ジが届けられた(1月30日付「AERAdot」より)。以下に全文を転載する。

 

 冷戦時代、オキナワに多数配備されていた核兵器に関する情報がNHKの番組(「沖縄と核」)等で明らかになったと知ったと同時に、現在もなお、オキナワに保管されているかも知れないという危惧で私は心を痛めている。この問題は県民に真実を公開する必要がある。私はこれまで「核兵器の削減」もちろん最終目標としての「核兵器の完全撤廃」および「国際問題に軍事力を使用しない」という点を主張してきた。1985年ジュネ-ブでのソ米首脳会談(私とレ-ガン大統領)で、“核戦争は一切起こしてはならない”、“核戦争下での勝利者はいない”という共同宣言を採択し、世界に発信した。

 

 こうした観点からオキナワでの軍事基地拡大に対する県民の闘いをこれまでも支持してきたし今後も支持する。オキナワは世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化を有している。従ってオキナワは軍事基地の島ではなく、人々の島であり続けなければならない。

 オキナワは自然・文化・観光資源のほか、地政学的にも恵まれており、世界の人々、文化、貿易が行き交うターミナルとしての環境が整っていると私は思う。オキナワの将来の世代のためにも、この豊かな環境を活用し平和的な発展をめざされることを切に願う。

「戦争の文化から平和への文化の移行が必要だ!」今年1月のロ-マ法王のこの言葉に私は心から賛同する。

ミハイル・ゴルバチョフ

2018年1月23日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.26:masuko:コメント(0):[身辺報告]

憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

  • 憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

 沖縄は「憲法の及ばぬ島」と呼ばれてきた。戦力の不所持と交戦権の放棄を定めた「憲法第9条2項」を見れば、その理由は歴然としている。沖縄は戦後一貫してアメリカの支配下に置かれ、日本への復帰(1972年)を経た現在に至るまで、「在日」米軍基地の約7割が置かれたままである。この間、米軍は日本の領土である「沖縄」から出撃。ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争などに参戦してきた。沖縄は「9条2項」の埒埒外(らちがい)に置かれ、さらに米軍基地がもたらす事故や騒音、女性暴行などの基本的人権の侵害にもさらされ続けている。このように、“平和”憲法は実は沖縄の犠牲の上に成り立ってきたのであり、このことに私たちヤマト(本土)の側は相変わらず、無知・無関心を決め込んでいる。

 

 「我が党は結党以来、憲法改正を党是として掲げてきた。いよいよ実現する時を迎えている」―。安倍晋三首相は22日開会の通常国会の冒頭で「2020年改憲」に意欲を見せた。その骨子は「9条2項」を維持したまま、自衛隊を明記するという内容になっている。これを先取りするように、沖縄・南西諸島の宮古島、石垣島などには中国や北朝鮮の脅威論をタテに、陸上自衛隊のミサイル配備計画が着々と進められている。この改憲が実現すれば、皮肉なことに今度は沖縄が真っ先に憲法の「及ぶ島」になる。一方、「改憲」論議が白熱化する3月下旬、天皇・皇后両陛下が沖縄訪問に旅立つ。2年前に沿岸監視隊(陸自)が配備された、日本最西端の与那国島も初めて訪れる。

 

 「アウトソ-シング」という言葉がある。直訳すると「外部委託」という意味になる。「天皇が能動的な象徴たらんとすることを、政治の側が逆手にとるリスクも出てきています。今は、天皇が進んで被災地を訪れていますが、政治がそれを利用しようという気になれば、結果的に被災者の政治への不満を天皇が和らげ、政治の不作為を覆い隠してしまうことにもなりかねません」(2017年12月2日付「朝日新聞」)―。神戸女学院大学の河西秀哉准教授(日本近現代史)はこう説明する。「政治の不作為」の最たるものが、現在に至るまでの「沖縄戦後史」である。

 

 今から43年前の1975年7月、皇太子時代の両陛下が初めて沖縄の地を踏んだ。南部戦跡の「ひめゆりの塔」で沖縄戦の説明に耳を傾けていた時、過激派から火炎瓶を投げつけられるという事件が起きた。「(沖縄に対する米国の軍事占領は)日本の主権を残したままで、25年ないし50年あるいはそれ以上の長期租借でなされるべき」(1947年9月)―。実は昭和天皇は沖縄の戦後処理について、こうした考えを米国側に伝えていたことが後にわかった。「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」―いわゆる「沖縄メッセ-ジ」と呼ばれる文書である。天皇の名のもとに「捨て石」にされた沖縄の人々の間には、「皇室」に反発する声も強かった。その日、皇太子は沖縄県民に向けたもうひとつのメッセ-ジを発表した。

 

 「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷痕を深く省み、平和への願いを未来に繋げ、共々に力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖(あがな)えるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省のうちにあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」―。さらに、事件後の12月に行われた記者会見ではこう語った。「沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを直視していくことが大事です。避けてはいけない」

 

 「6・23」(沖縄戦終結))、「8・6」(広島原爆投下)、「8・9」(長崎原爆投下)、「8・15」(日本敗戦)…両陛下は「忘れてはならない日」として、戦後の始まりとなった、この四つ日を挙げている。こんな思いを抱いた両陛下の沖縄訪問はすでに10回を数えている。

 

 一方の安倍首相は通常国会の施政方針演説でこう述べた。「日米同盟の抑止力を維持しながら、沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします。米軍機の飛行には、安全の確保が大前提であることは言うまでもありません。…最高裁の判決に従い、名護市辺野古沖への移設工事を進めます」―。小学校や保育園の上空を米軍機がわがもの顔で飛行し、大惨事につながりかねない部品が空から降ってくる。そして、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設は全額を政府が出資する、初めての自前の”米軍基地”となる。治外法権―無法地帯と化した沖縄抜きの「改憲」が強行されようとしている。

 

 来年4月30日の退位を控え、今回が最後の沖縄訪問になるとみられている。両陛下が「象徴」としての務め(アウトソ-シング)を果たしてきたことによって、「政治の不作為」が免罪されることはない。「日米安保」によって、ヤマトの安心・安全が担保されている―と多くのヤマトンチュは考えている。だとするならば、そこには”受益者負担“が生じる。沖縄に「寄り添う」ということの真意は、安倍首相の演説の中にではなく、「火炎瓶」事件の際の天皇メッセ-ジに託されている。沖縄の復権のため、私たちヤマトンチュが何をなすべきか―そのことが問われる1年になりそうだ。「辺野古」移設(実質的な新基地建設)の賛否を問う名護市長選挙は28日に告示され、2月4日に投開票される。

 

 

(写真は火炎瓶が投げつけられる瞬間をとらえた写真。皇太子夫妻は身を乗り出すようにして説明に聞き入っていた。「お怪我はありませんでしたか」と美智子妃は案内役の女性に声をかけたという=1975年7月17日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」で。当時、読売新聞のカメラマンだった山城博明さんが撮影。インターネット上に公開の写真から)

 

 

《追記-1》~相次ぐヘリ不時着

 

 23日午後8時5分ごろ、沖縄県渡名喜(となき)村で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)所属の攻撃ヘリAH1が村営ヘリポ-トに不時着した。県警によると、けが人の情報はない。日本政府関係者によると、警告灯が点灯し、事故を避けるため「予防着陸」をしたとみられるという。ヘリポートは、那覇市の西約60キロにある渡名喜島西部の港にあり、集落からは約300メ-トル。救急搬送などに使われる。島の近くには米軍の射爆撃場や訓練海域がある。

 

 政府関係者によると、米軍は「油圧系統の不具合を示す警告灯が点灯した。24日に別のヘリで整備要員を派遣し、安全が確認され次第、普天間に戻る」と説明している。(中略)県内では今月6日にうるま市の伊計島、8日には読谷村に普天間所属の米軍ヘリが不時着し、沖縄県内で米軍機の安全性への不安が高まっていた。県議会は19日、「人命に関わる重大事故につながりかねないもので、強い憤りを禁じ得ない」として、日米両政府や米軍に対する抗議決議と意見書を全会一致で可決していた(23日付「朝日新聞」電子版)

 

《追記―2》~「米軍は制御不能」と翁長知事

 

 【東京】翁長雄志知事は24日、防衛省が渡名喜村に不時着した米軍普天間飛行場所属AH1攻撃ヘリコプタ-の飛行停止を求めたものの、米軍がすぐに同型機の飛行を再開したことに対し「とんでもない話で怒り心頭だ」と厳しく批判した。米軍基地県軍用地転用促進・基地問題協議会(軍転協)の要請後、首相官邸で記者団に答えた。要請前の那覇市では「米軍が制御不能になっている。管理監督が全くできない」と批判した。

 

 翁長知事は首相官邸での取材に対し、AH1が今月2回トラブルを起こしているとして、防衛省の対応に一定の理解は示した。ただ、昨年1年に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイやCH53E大型輸送ヘリコプタ-など、AH1以外の機種でも事故やトラブルが約30件発生しているとして「この件に対してだけ強く抗議するなどというのは抜本的な解決にはならない」とくぎを刺した(25日付「琉球新報」電子版)

 

 

 

 

 

 

2018.01.24:masuko:コメント(0):[議会報告]

「無投票当選」という不作法

  • 「無投票当選」という不作法

 「こっちの方がはるかに健全ではないか」―。『黙殺』(畠山理仁著)というすごいタイトルの本を読みながら、そう思った。「落選また落選!供託金没収!それでもくじけずに再挑戦!」…。選挙の魔力に取りつかれた、いわゆる泡沫(ほうまつ)候補たちの「独自の戦い」を追ったドキュメンタリ-である。第15回開高健ノンフィクション賞(2017年)を受賞した。その一方で「選挙」の洗礼を受けない、いわゆる「無投票当選」も後を絶たない。1月告示の県内2市3町の首長選挙のうち、二戸市と洋野町ではすでに無投票当選が確定。21日には花巻市の上田東一市長も無投票で再選(2期目)された。残りの紫波、岩泉両町も同じ結果になりそうな雲行きである。

 

 13戦全敗―。著者が敬意を表してあえて「無頼系独立候補」と呼ぶ中で、一頭地を抜くのがスマイル党総裁のマック赤坂さん(69)である。彼の街頭演説の光景を著者はこんな風に描写している。「半径5メ-トルほどの誰も立ち入らない空間が自然と広がっていた。スクランブル交差点の信号が変わるたびに、男の前には大きな人波があらゆる角度から押し寄せる。しかし、まるで目に見えない結界が張られているかのように、そこには『誰もいない空間』が存在し続けた」―。いや正確にはピンクのコスチュ-ムをまとい、タンバリンを手に踊るマックさんの姿がそこにあった。「黙殺」する側の目に見えなかっただけの話である。

 

 「石原(慎太郎)都政(当時)に見捨てられた東京都民を救うのは、もう人間では無理だと思った。つまり、人智を超えたス-パ-マンか宇宙人しか都政を救える人はいない。ス-パ-マンが出馬するほど東京はどうしようもない窮状にある。『都民よ、目を覚ませ!』という大真面目なメッセ-ジを込めたんだよ。わかるだろ?」(同書)―。2012年12月の東京都知事選挙に立候補したマックさんはス-パ-マンや宇宙人のコスプレ姿で政見放送に臨み、視聴者を驚かせた。しかし、よくよく読んでみれば、至極まっとうな主張である。つまり、「黙殺」されているのが東京都民の側だという逆転の発想なのである。

 

 マックさんらを主役にしたドキュメンタリ-映画「立候補」(2013年)を手がけた映画監督の藤岡利充さんは書評にこう書いた。「日本には政治というステ-ジがある。私たちはこのステ-ジを眺め、投票で関わる。もちろん、投票せず黙殺するのも自由だ。でも長い人生で、政治に大きく魅せられる瞬間があるかもしれない。そんなとき、投票の他に立候補という自由もあると教えてくれるのが、この一冊だ」(1月7日付「岩手日報」)―。立候補者がいないのだから、当然選挙もない。人材難や現職の強み、供託金の多寡(たか)、有権者の無関心…など「無投票当選」を生み出す土壌はさまざまである。しかし、一方で「投票(選挙)の自由」を奪われた政治状況はそのまま、民主主義の破壊を意味する。

 

 岩手県立大学の田島平伸教授(地方自治論)はこう指摘する。「選挙がなければ首長の政策が伝わらず、政策が正しいのか住民の評価も分からない。住民が直接選挙で首長と議員を選ぶ二元代表制が機能不全に陥りかねない」(1月13日付「岩手日報」)―。同じ紙面で、花巻市東和町在住の77歳の男性(紙面では実名)は同市長選に関して、「無投票は市民が安心して任せるとの証し。選挙費用もかからずいいのでは」と話している。個人の意見に疑義を挟むつもりはない。しかし、「選挙」という民主主義の根幹にかかわる問題を、ただ単に「(選挙)費用」の問題に矮小化する姿勢は許されない。ただこの際、問われるべきはその意見を無批判的に紙面化したメディアの側である。結果として、現職候補に与(くみ)しているということに気が付いているのか、いないのか!?…。これって、メディアの自殺行為ではないのか。

 

 一方、今回の花巻市長選に当たっては14人(定数26人、欠員2人)の市議が上田陣営の選挙対策委員に名を連ねた。うち2人は「(選対)副本部長」の肩書を持つ副議長と議会運営委員長(市の監査委員を兼務)である。「中立的な立場にある」という“理由”で、2人は上田市政下で一度も一般質問に立ったことがない。他の自治体では議長自らが登壇(質問)したケ-スも。中立の“欺瞞”が白日の下にさらされたというわけである。議会側だけではない。昨年12月議会で私は「議会事務局長と行政職トップの総合政策部長が配偶者同士にある。ガバナンス上、問題はないか」とただした。これに対し、上田市長は「適材適所」と切って捨てた。「適材」かもしれない。しかし、双方が互いに監視・牽制し合う立場にあるガバナンス(統治システム=二元代表制)の建前からは明らかに「適所」ではない。

 

 ところで、無投票当選が決して「白紙委任」ではないことは言うまでもない。地方自治法は地方自治体におけるリコ-ル(解職請求)ついて、「通常の選挙による当選の場合は選挙後1年間はリコ-ルができない」(第84条)と規定している。その一方で同条の但し書きには「無投票当選の場合は当選翌日からでもリコ-ルが可能である」という定めもある。無投票当選に伴うリスク防止のための最低限の法規制であろう。「1強多弱」という民主主義の危機が叫ばれて久しい。それを根っこで支えているのが地方自治の腐敗ではないのか。二元代表制はとうに崩壊し、メデイアを巻き込んだ”翼賛”体制(地方議会の与党化)が着々と進んでいる。無投票当選が権力の腐敗につながるケ-スはそう珍しいことではない。その責任は当然のことながら、有権者のひとりである私自身も負わなければならない。質問権がことさらに重要な所以(ゆえん)である。

 

 何となく葬送の趣(おもむき)が感じられる、と私は思った。当たり前のことだが、対立候補がいない「無投票当選」にはあの“お祭り騒ぎ”はない。この日21日、「立候補者」はわずか8時間半後には「当選者」に姿を変えていた。ことのほかに寒い冬空の下を凍えるようにして、葬列は進んで行った。マックさんの絶叫が耳の底にこだました。「おれは変えたいんだよ、この国を」―。

 

 

(写真は掲示板に張り出された、たった一人の立候補者のポスタ-=21日午前、花巻市桜町3丁目で)

 

 

 

《追記》~当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」(1月13日付)と「祝:芥川・直木賞受賞@賢治の“背後霊”!?」(同16日付)に関しての覚え書きー。


 直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』について、花巻市・宮沢賢治記念館の学芸員、牛崎敏哉さんが「内容の史実監修と、主に本文会話の花巻言葉化つまり方言化を担当していた」(1月21日付「岩手日報」)ことを明らかにした。大阪在住の作者にしては、文中の花巻弁が流暢すぎると思っていたが、そのナゾが解けた。でも、こうした手法が厳密な意味での”単著”と言えるのかという疑問も。本書は賢治とその父政次郎との親子関係を描いているが、その生命線は二人や親族との間で交わされる方言による対話。フィクションとはいえ、心臓部ともいえるその部分が第三者の手にゆだねられていたのだとしたら、読む側の読解姿勢も変わらざるを得ない。

 

 私見を述べれば、その文学性を高めるためには逆に、構成にかかる”舞台裏”(種明かし)は極力、封印するのが小説の作法ではないかと思う。今回、その細部が公にされたことで、私自身の想像力も足踏みを余儀なくされたというのが正直な気持ちである、自身が関わった作品が、権威ある文学賞を受賞したという感激は十分に理解するにしても…。最低限、監修者の名前を付記するのがフェアではなかったか。むしろ、私などは翻訳前のダイアローグ(対話)に興味を惹かれてしまったというのが本音である。一方、芥川賞の『おらおらでひとりいぐも』はまさに作者の血肉と化した母語(遠野弁)の発語である。翻訳された方言と母語としての方言…。その力の差を見せつけられた今回の受賞劇だった。

 


 

 

 

 

 

 

 

2018.01.21:masuko:コメント(0):[議会報告]
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