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アイヌあての最古の古文書、ロシアで発見

  • アイヌあての最古の古文書、ロシアで発見

 江戸時代後期の1778(安永7)年に当時の松前藩から北海道東部のアイヌ民族の有力者に宛てた文書の原本が、ロシアのサンクトペテルブルクに残されていた。東京大史料編纂(へんさん)所などの研究チ-ムの調査で見つかった。240年前に松前藩からアイヌ民族に手渡された最古のオリジナル文書とみられ、アイヌ民族とロシアとの接点を示すものとしても注目される。

 

 文書は松前藩の「蝦夷(えぞ)地奉行」から、根室半島先端に近い「ノッカマップ」(現在の北海道根室市)を拠点としていたアイヌ民族の有力者「ションコ」に宛てたもの。交易に使われる施設の「運上小家」の火の用心に努めよ▽和人の漂流船が漂着した際は、この文書を見せて介抱の上、送り届けよ―など4項目を「定(指示)」とし、背いた者は厳罰に処すとしている。文書は東京大史料編纂所などの研究チ-ム(代表、保谷徹・東京大史料編纂所教授)が2016年10月、ロシア国立サンクトペテルブルク図書館で発見した。松前藩の文書は幕末や明治初期の混乱などでほとんど残っていないため貴重だ。

 

 共同研究者で北海道博物館の東俊佑(あずま・しゅんすけ)学芸主査(近世史)は「原本としては最も古いものとみられる。発見の経緯から、鎖国の時代にアイヌの手から蝦夷地を訪れたロシア人に文書が渡り、それがロシアで見つかったことになる。その点に意義がある」と話している。この文書から11年後の1789年、過酷な労働環境などに不満を持ったアイヌ民族が蜂起し、和人71人を殺害した「クナシリ・メナシの戦い」が発生。弓矢の名人でもあったションコは戦いを終息に導いた一人として、松前藩家老で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)の「夷酋(いしゅう)列像」(12枚)の1枚に描かれている。(11日付「毎日新聞」電子版)=9日付当ブログ『「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…」』参照

 

 

(蠣崎波響が「夷酋列像」で描いたションコの肖像画=フランス・ブザンソン美術考古博物所蔵。同日付毎日新聞から)

 

 

《注;クナシリ・メナシの戦い》~ウキペデイアなどより

 

 松前藩の『新羅之記録』には、1615(元和元)年から1621(元7年)頃、メナシ地方(現在の北海道梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。1754(宝暦4)年、松前藩家臣の知行地として国後島のほか、択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊(とまり)には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。1788(天明8)年には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された)の製造を開始すると、その労働力としてアイヌを雇うようになった。

 

 一方、アイヌの蜂起があった頃、すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784(天明4)年から蝦夷地の調査を行い、1786(天明6)年に得撫島までの千島列島を、最上徳内に探検させていた。ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシアから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって、日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。

 

 1789(寛政元)年、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり、蜂起した者たちは投降。蜂起の中心となったアイヌは処刑された。この騒動で和人71人が犠牲となった。

 

 知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した『知床日誌』によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣(や)られ、そこで漁師達の慰(なぐさ)み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾(めかけ)にされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。さらに、和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果、文化4年(1804)年に2万3797人と把握された人口が、明治6(1873)年には1万8630人に減ってしまった。

 

 1912(明治45)年5月、根室・納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、砂に埋まっている石が発見された。「横死七十一人之墓」と彫られていた。 現在、この石碑は納沙布岬の傍らに建てられている。建立は文化9(1812)年。碑文には「寛政元年5月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」(現代語訳)と刻まれている。

 

 

 

 

  

 

2018.01.11:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…

  • 「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…

 時折、新聞の広告欄に「アイヌ民族」という文字を見つけて、ギクッとすることがある。たとえば、日本の国体思想家、大川周明(故人)の『日本二千六百年史』の新聞広告については、2017年11月12日付当ブログで詳しく言及した。今年は明治維新「150周年」に当たり、その宣伝本として大々的に登場した。もうひとつはアイヌの食文化を宣伝する類(たぐい)のものである。たとえば…。「500万箱突破!本当に信じられるサプリメントを見極められるか!大注目のオオイタドリとは?厳しい環境でも生き抜いたアイヌ民族の知恵」―などと何とも仰々しい。

 

 オオイタドリは北海道や本州中部以北に生息する大型の多年草。古くから栄養強壮剤として食されてきた。アイヌ語では「イコクトゥ」と呼ばれ、若い茎を生で食べた。根茎は「虎杖根」という漢方としても使用されている。同じような野草に行者ニンニクがある。ネギ属の多年草で、北海道や近畿以北の亜高山地帯の針葉樹などの水湿地に群生している。ウキペディアによると、名前の由来は「山にこもる修験道の行者が食べたことからとも、逆にこれを食べると滋養がつきすぎて修行にならないため、食べることを禁じられたから」とも言われている。アイヌ語では「プクサ」とか「キト」と呼ばれる。一方で「アイヌネギ」という蔑称も陰でささやかれてきた。嫌な思い出がある。

 

 行者ニンニクはアイヌにとっても欠かせないは栄養食である。茎や葉、根はゆでて食べ、保存食にもした。体が暖まるので風邪薬代わりに、また熱が高い時は大きな鍋に干した葉を入れ、全身に湯気を浴びる“サウナ療法”に役立てた。また、強烈な臭(にお)いを病魔が嫌うと考え、病気が流行した時には戸口に立てて、魔除けにした。この「臭い」が「アイヌネギ」という差別語につながった。「お前ら、ネギばっかり食っているから、臭いんだよ」―。栄養満点のこの食材を決して口に運ぼうとしないアイヌの友人のことが私はいまも忘れられない。「アイヌ民族の知恵」という商魂たくましい謳い文句に接し、当時の友人の寂しげな表情を思い出したのだった。

 

 私にはぜんそくの持病がある。ある日、親しくしていたフチ(おばあさん)が「食べてごらん」と言って、紫紺色の実を差し出した。かみ続けていると、苦さがほんのりとした甘さに変わった。「ぜんそくや胃腸病にもよく効くんだよ。山は薬局みたいなもんさ」―。フチはこう言って、シケレペ(キハダの実)をポケットに入れてくれた。アイヌだけではない。最近は「長寿と癒(いや)しの島」をうたって、沖縄の食材をPRする新聞広告にもこと欠かない。このこと自体に目くじらを立てるつもりはさらさらない。でも、張り詰めた想像力の矢玉が思わぬ方向に飛んでいくことがママにある。「アイヌネギ」差別を打ち明けてくれた友人はその時、こんな風に話したのだった

 

 「最近、和人(日本人)社会では自然との共生とか、環境保護とかが叫ばれている。中にはアイヌ精神に学ぼうという人までいる。おれはこうした動きに時々、怒りを覚えるんだよ。アイヌに夢中になるというか、この思い入れがアイヌをいかに苦しめているかに和人は気がついていない。この言葉(アイヌ)がマスコミなどによって増幅される結果、いまでもまるで自然と一体となって暮らしているかのような美化されたアイヌ像が一人歩きしている。それが重荷になり、『アイヌ』から逃げ出してしまったり、逆にアイヌ自身がその言葉に酔ってしまう。普通にメシを食べ、時には酒を飲んで寝るという日常生活全体が私にとってのアイヌ文化だ」―。

 

 友人はこう話し、「観光客の中にはいまもクマの肉やサケを主食にしている、と本気で信じている人がいる。そんな時にはね」と言って、ニヤッと笑った。「ところでお客さん、チョンマゲと刀はどうしたんですか…」―。痛烈な言葉だったことをいまも覚えている。日本国内の”異文化“であるアイヌや沖縄の伝統文化を無条件に礼賛する、日本版「ミュ-タント・メッセ-」はちまたにあふれている(1月2日付の当ブログ(「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と”善意の人族“」参照)

 

 アイヌ民族の同化政策を進める「北海道旧土人保護法」が制定されたのは1899(明治32)年。そして、ウチナンチュ(沖縄人)が本土の機動隊員から「土人」呼ばわりされたのは1年ちょっと前のこと。もしかりに「善意の人族」が、南と北の地で生み育まれてきた文化をただ消費するだけの存在だとしたら…。「土人」と蔑(さげす)まされてきた受難史などにはハナから無関心だったとしたら…。蝦夷征伐から琉球処分、そしてアイヌ同化政策へと連綿と続き、いまも続いている日本列島を貫く「支配原理」への加担、つまりこれはもうひとつの、抜き差しならない「差別」ではないのか―。

 

  8日、沖縄・読谷村にふたたび、米軍ヘリが不時着した。翁長雄志知事は「本当に言葉を失うほどだ。『負担軽減』『法治国家』という言葉で押し通していくことに大変憤りを改めて感じている。日本の民主主義、地方自治が問われている。単に1機1機の不時着の問題だけではない」(9日付「琉球新報」)と述べた。もし、この種の事故が東京のど真ん中で起きたとしたら、政府やヤマトンチュはどう反応するのだろうか。「反戦」彫刻家、金城実(79)さんは不時着現場からわずか2,3分の所にアトリエを構えている。電話の向こうから、豪快な高笑いが聞こえてきた。

 

 「よ~し、わかった。ならば、誇り高き土人たる我らウチナンチュが、本物の土人である「本『土人』」(ヤマトンチュ)を見返してやろうじゃないか!!」

 

 

(写真は新聞広告に躍る「アイヌ民族」の文字=朝日新聞に掲載された広告から)

 

 

《追記》

 沖縄県警に8日午後4時50分ごろ入った連絡によると、同県読谷村の廃棄物処分場に米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)所属のAH1攻撃ヘリコプターが不時着した。ヘリには4人が乗っていたが、けが人はいないもよう。県警などによると、付近にはホテルなどがある。米軍や県警が詳しい状況を調べている。普天間飛行場所属のヘリを巡っては、6日に同県うるま市の伊計島海岸にUH1ヘリが不時着し、8日に撤去されたばかり。同飛行場所属機はCH53大型輸送ヘリの不時着、炎上や小学校運動場への窓落下、輸送機オスプレイの緊急着陸などトラブルが相次いでおり、沖縄では安全性への懸念が強まっている。

 

 小野寺五典防衛相は8日、防衛省で記者団に相次ぐ不時着について「多すぎる。沖縄の皆さんの心配は当然だ」と述べ、米側に整備の徹底や再発防止を求める考えを示した。県警などによると、米軍は着陸について、事故を避けるための「予防着陸」と説明しているという。(9日付「共同」電)

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.09:masuko:コメント(0):[身辺報告]

ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

  • ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

 「戦争」の記憶が遠のいたような気がする時、一枚の写真と対面することにしている。「焼き場に立つ少年」―。カトリック教会のロ-マ法王庁(バチカン)のフランシスコ法王がこの写真にメッセ-ジを添えたカ-ドを印刷。広く配布するよう指示していたことが分かった。1945年、米国の従軍カメラマン、故ジョ-・オダネルさんが被爆地・長崎で撮影した。カ-ドには「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめられて血のにじんだ唇に表れている」(1月3日付「朝日新聞」)とスペイン語で記されている。当時、私は5歳。背負われた弟に近い年齢である。私の父は戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアの凍土に没した。息絶えた弟を背負う兄の真っすぐな視線の先には何が見えているのであろうか―。私が戦争を考える際の「原点」の写真である。以下に過去のブログから…。

 

 

●「焼き場に立つ少年」と題する1枚の写真が目の前にある。まだあどけなさを残す少年に背負われた幼子はすでに死んでいる。長崎市の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ-・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは8年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳で没した。その著『トランクの中の日本』にはこう書かれている。

 「この少年は弟の亡骸(なきがら)を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ-という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」。文章はこう結ばれている。「彼は急に回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った」…。少年は一体、どこに向かったのであろうか。(2015年7月17日付)

●「緑の丘の麦畑/俺らが一人でいる時に/鐘が鳴ります キンコンカン/鳴る鳴る鐘は父母の/元気でいろよ言う声よ/口笛吹いて俺らは元気」(2番)…。少年の後ろ姿に「鐘の鳴る丘」の主題歌がオ-バ-ラップする。昭和22(1947)年7月から昭和25(1950)年12月まで、790回にわたって放送されたNHKのラジオドラマで、主人公は原爆や空襲、引き揚げなどで肉親を失った“戦争孤児”だった。作家の菊田一夫の原作で、主題歌の「とんがり帽子」(作詞:菊田、作曲:古関裕而)が鳴り出すと、7歳になったばかりの私はラジオにかじりついた。戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで戦病死した父親の記憶が私にはない。その”欠損感”が無意識のうちに自分自身をドラマに重ねたのかもしれない。

 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」、「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」(2017年8月10日付「朝日新聞」)―。「戦争孤児の会」代表の金田茉莉さん(82)は12万人を超えたと言われる孤児の実態について、こう語っている。

 「本日、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」―。「極秘」と記されたソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者業務管理総局作成の死亡証書(ロシア連邦国立軍事古文書館保有)にはこう書かれていた。亡き父「増子浩一」(ますこ こういち)の死亡通知が昨年夏、厚生労働省から送られてきた。日本語に部分翻訳された資料によると、「死亡年月日」は1945(昭和20)年12月30日で、「死因」は栄養失調症。埋葬地は「プリモスク地方」(沿海地方)の第4865特別軍病院「第1墓地」となっていた。極寒の炭鉱町だった。入院から死に至るまでの2週間の刻一刻を知りたいと思い、私はカルテの翻訳を専門家に頼んだ。

 遺骨伝達式の日、骨箱を母が胸に抱き、私たち3人の遺児たちは無言で家路を急いだ。遺骨代わりの木片がカランコロンと乾いた音を立てていたことだけは幼心にも覚えている。死にゆくカルテの、淡々とした記述が逆に父親の実像を浮かび上がらせてくれたような気がした。戦後70年以上、心の中に空洞を形づくってきた戦争孤児としての欠損感がす~っと、消えていくような、そんな不思議な感覚にとらわれた。私の「戦後」にやっと、終止符が打たれたのかもしれないと思った。戦争孤児の蔑称でもある“浮浪児”はいまではとっくに死語になっている。しかし、幼子を背中に負う少年の姿は未完の戦後の「実像」として、いまも私のまなうらにはっきりと刻まれている(2017年8月14日付)


(写真はフランシスコ法王が配布を命じた「焼き場に立つ少年」=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.01.06:masuko:コメント(0):[議会報告]

「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と”善意の人族“

  • 「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と”善意の人族“

 「こりゃ、まずいな」と思った。元旦恒例の“朝生”(テレビ朝日系の討論番組「朝まで生テレビ」)に出演したお笑いコンビ「ウ-マンラッシュアワ-」の村本大輔さん(37)のことである。在日米軍に対する「思いやり予算」について、「アメリカより沖縄に思いやりを…」などと鋭い政治ギャグで人気が広がっているらしい。自ら「小学生以下」と卑下する”素人目線”が、沖縄に対する「無知・無関心」(知らんふり)を決め込む本土側の世論にどう切り込んでいくのか。そんな期待を抱きながら、テレビの前に陣取った。ところが、その真っすぐな思い入れとは真逆の結果に…。

 

 「(自衛隊が)違憲というのは、何が違憲なんですか」「沖縄は元々、中国から奪い取ったもの」「僕は非武装中立の立場。侵略されたら白旗を挙げて降伏する」…。直球一本勝負の村本さんの突っ込みに並みいる論客たちも一瞬、言葉を飲み込む場面も。でもだんだん、心配になってきた。沖縄の歴史に対する知識の希薄さ、憲法9条を読んだことがないと堂々と告白する、その無邪気さ…。沖縄における米軍基地反対運動について、村本さんはツイッタ-にこう書き込んでいる。「おれらが見るべきは、右と左ではなく、ただ大好きなこの場所をただ守りたいって言う彼らの思いに耳を傾けること。現場に行って、この人たちと酒飲んで話してこい。その中の簡単には判断できないグレ-の部分、感じ取ってこい。楽に判断するな。楽に生きるな」

 

 私はテレビを見ながら、20年以上も前のある光景を思い出していた。会場を埋め尽くした観客が米国の女性作家、マルロ・モ-ガンさん(当時60歳)の講演に身を乗り出すようにして聞き入っている。「彼ら『真実の人族』は自然と一体となる名人だ。宇宙のたまものを利用しながら、秩序を乱さずに去るのだ」―。彼女が出版した『ミュ-タント・メッセ-ジ-「真実の人族」の教え』(1991年)は全米で150万部を超えるベストセラ-になり、日本語版も重版を重ねていた。オ-ストラリアの先住民族「アボリジニ-」から文明人を意味する「ミュ-タント」(突然変異種)にメッセ-ジを伝える使命を授かったという内容だった。

 

 「私たちの魂を盗んだ者として、あなたを断罪する。部族と接触した事実さえない」―。民族衣装に身を包んだ2人のアボリジニ-が抗議の声を上げた。会場は一時、騒然となった。なぜ、テレビの画面が当時の記憶に重なったのか。その時の気持ちをこう記している。「私は会場に足を運んだ人たちを『善意の人族』と呼びたい誘惑にかられた。価値観喪失の時代といわれる世紀末。自分の『生き方』を模索したいという切実な思いが会場にあふれていた。がその一方で、先住民族が背負う苦難の歴史と現状を自らの問題として、問い直そうという声はあまり聞かれなかった。心地よい響きの『ミュ-タント・メッセ-ジ』にただうっとりと耳を傾けているとしか映らない光景に、私は『善意の人族』が陥りやすい落とし穴を見た思いがした」(1997年5月1日付朝日新聞「コラム 私の見方」)。出版元はこの抗議を受け、ジャンルを「フィクション」に変更して再刊した。

 

 村本さんの純粋な気持ちを否定するつもりはさらさらない。それどころか、政治の保守化が叫ばれるいま、こうした若々しい感性こそが求められていると思う。錚々(そうそう)たる論客を相手に孤軍奮闘する姿には感動すら覚えた。がその一方で、私は一方的な思い入れが時として、目の前の落とし穴に無防備になることの危うさを思い出したのだった。あの時の「善意の人族」のように…。

 

 パネリストの一人で東京大学教授の井上達夫(法哲学)さんは、村本さんの”素人目線”について、こう語った。「君の姿勢は評価できるが、それを他人に強制してはならない。素人目線の背後に他者を見下すような愚民性が潜んではいないか」。最近は「えせ右派」と言われるらしいが、右派の漫画家として知られる小林よしのりさんは立憲民主党に入党した山尾志桜里議員(民進党)の応援団長を公言している。その小林さんはツイッタ―でこうつぶやいた。「村本は中高生でもないし、若者でもない、無知なおっさんだ。無知は罪でもある。わし自身を振り返りつつ言うが、無知は常に恥じて勉強し続けなければならない」―。彼自身の体験に根差した述懐であろう。

 

 表現はきついが、私自身への自戒を含めて、この二人の”忠告“には謙虚に耳を傾けたいと思う。偶然だが、”朝生”が放映された2018年1月1日付朝日新聞で、哲学者の柄谷行人さんは美術家、横尾忠則さんとの対談で、こう語っていた。

 

 「僕はかつて、『必読書150』という本を編纂(へんさん)したことがあります。その中で、こういうことを言いました。『我々はいま教養主義を復活させようとしているのではない。現実に立ち向かうときに教養がいるのだ』と。カントもマルクスも読まないで何が考えられるのか、と言ったのです。確かに、読む必要のある本がある。しかし、皆が読まなくてもよい。それを必要とする人が読めばいい。それは昔もスマホ時代の現代でも同じことで、本を読む人は読む、読まない人は読みません。世代の問題でもない」(読書新春特別版「何のため、本を読むのか」)

 

 カントやマルクスとまでは言わない。村本さん、今年はあなたの同伴者のつもりで、一冊でも多くの沖縄関連の本を読みたいと思う。その本を携えての沖縄行もご一緒できれば、と…。「癒(いや)しを求めて沖縄にやってくる観光客は多いが、そういう人に限って基地に足を向けることはほとんどない」―。沖縄の知人の言葉が耳元に聞こえている。「終末時計が音を刻み、終末が近づいている」(柄谷×横尾対談)―という現代社会にとっては、「村本大輔」という個性こそが必要とされているのである。言論界にとっての「自明の理」(常識=既成概念=権威主義=虚構)に対し、変則パンチ…つまり言葉の真の意味での、”まっとうな”というか、”根源的"な「正論」を繰り出せるのは、村本さん、あなたしかいないと思うからだ。

 

 今年のNHK大河ドラマは“征韓論”の西郷隆盛の生涯を描いた「西郷(せご)どん」―。お返しに、北朝鮮から「テポドン」(ミサイル)が飛んでくるかも…。たとえば、村本さんならではの、こんな政治ギャグの健在ならんことを祈りつつ―。

 

 

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年も前途多難な一年となりそうな予感の中で…。雲上の霊峰・早池峰からは、神々しい光の粒が降り注いでいます。

 

 

写真は”朝生“に出演した村本さん。左は司会の田原総一朗さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.01.02:masuko:コメント(0):[身辺報告]

再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

  • 再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

 「記憶とは何か、そして忘却とは?」―。今年は一年中、こんなことを繰り返し考えてきたような気がする。第1の敗戦(第2次世界大戦)から第2の敗戦(東日本大震災)を経たいま、私たちは何を「記憶」し、何を「忘却」してしまったのだろうか。ポスト・トゥル-ス(脱真実)、オルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)、フェイクニュ-ス(ウソ情報)…。詐欺師の口上よろしく、記憶がねつ造・改ざんされたことはなかったか。「あったこと」が「なかったこと」にされ、「なかったこと」が「あったこと」にされるという歴史(記憶)への冒涜(ぼうとく)はなかったか―。この問いに一条の道筋を与えてくれたのが、イシグロ文学の世界だったように思う。

 

 「『まるで何事もなかったみたいね。どこもかしこも生き生きと活気があって。でも下に見えるあの辺はみんな』―とわたしは下の景色のほうを手で指した―『あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったのよ。それが今はどう』」―。今年、ノ-ベル文学賞を受賞した英国在住の作家、カズオ・イシグロさん(62)のデビュ-作『遠い山なみの光』(1982年)の中にこんな一節がある。イシグロさんは長崎市で生まれ、5歳の時に海洋学者だった父に連れられ、一家で英国に移住した。日本語は片言しか話せない。だから、作者の心象に宿る「日本の記憶」はまず英語で書かれ、これが翻訳者によって日本語に訳されるという手順をたどっている。イシグロさんはこの作品について、こう語っている。

 

 「私にとっての日本は子ども時代の記憶による想像の国だった。だから、心の中の美しい思い出を、日本に来ることで壊されて自分自身が“ホ-ムレス”になってしまうことを恐れていたのかもしれない」(1989年の来日時会見)―。面白い表白である。ホ-ムレス…つまりディアスポラ(故郷喪失者)に転落する寸前にすくい取られた記憶の源流とでも言おうか―イシグロ作品が「記憶文学」と言われるゆえんでもある。

 

 英国で最も権威のあるブッカ-賞を受賞した『日の名残り』(1989年)は執事の目を通して見た大英帝国の記憶の物語である。栄光に包まれた貴族社会の没落を描くためには、微に入り細をうがった「記憶の再現」が必要だったのであろう。執事が仕える貴族が一時期、ヒトラ-と宥和(ゆうわ)関係にあることを知ってしまう。外部にもれれば、国際問題に発展するのは目に見えている。執事はその門外不出の秘密をそっと、記憶の引き出しの奥にしまい込む。執事として生きる、それが誇り高き矜持(きょうじ)であり、最低限の「品格」だったのである。貴族の元を去る時がやがて訪れる。ひとすじの涙が頬を伝う描写が出てくる。執事の人間としての”素顔”が垣間見えた瞬間である。それにしても、映画化もされたこの作品の作者が日本人であることに今更ながら驚かされてしまう。

 

 「私はしばしば、忘れることと覚えていることのはざまで葛藤する個人を書いてきた」とイシグロさんは受賞記念講演で述べている。最新作『忘れられた巨人』(2017年)の原題は「The Buried Giant」…つまり「葬られた巨人」という意味である。国家や共同体の記憶はどうあるべきかという問い返しでもある。生物学者の福岡伸一さんはこんな読み解きをしている。「彼は新しい角度から『記憶』の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。…埋もれているのは社会的な記憶だ。私たちはそれを掘り返すべきなのか。掘り起こした巨人をどのように背負うべきなのか。忘れたいけれど、忘れてはならない記憶」(2017年10月15日付「朝日新聞」)

 

 イシグロさんは日本の戦争責任について、あるインタビュ-で口ごもりながらこう語っていた。「ある国が平和と安定のため、無理やりに過去を忘れなければならない場合があるかもしれない。たとえば、ナチスドイツのように。しかし、この国(日本)は余りにも多くのことを忘れてしまったのではないか。被害者に対する贖罪(しょくざい)といったようなことを含めた総量としても圧倒的な忘却。ある意味、これは『不正義』と同義ではないか」

 

 唐突に「君の名は」という言葉が脳裏によみがえった。大ヒットした、あの長編アニメ(新海誠監督)ではない。1952年から2年間、NHKラジオで放送された、菊田一夫脚本のラジオドラマである。映画やテレビドラマ、舞台などで上演された空前のメロドラマだった。主人公の「真知子」が首に巻くマフラ-が人気になり、そのファッションがブ-ムになった。放送時間には銭湯の女湯が空っぽになった。「忘却とは忘れ去ることなり」というセリフと同時にこのドラマは幕を開ける。この名セリフを私はいまも覚えている。セリフには続きがある。「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」―。真知子と春樹は互いに愛し合いながら、すれ違ってなかなか会えない。忘れてしまったらどんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない…。

 

 「記憶」と「忘却」とは―。言ってしまえば、真知子と春樹のような関係ではないのか、とふと思ってしまう。記憶を完全に忘却の彼方に葬り去ってしまうことに対する、ある種の逡巡(しゅんじゅん)…。「記憶は忘却に抗(あらが)い、忘却は記憶を誘(いざな)う」―。その歩みがたとえ牛のごとくであったとしても、その間を行きつ戻りつする「往還」こそが、人間としての最低限の良心とか正義なのかもしれない。いや、国家(共同体)にとっても…。

 

 今年のノ-ベル平和賞には国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペ-ン」(ICAN=アイキャン)が選ばれた。広島で被爆したカナダ在住のサ-ロ-節子さん(85)が受賞の喜びをこう語った。「私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう」。イシグロさんは「ICAN」の受賞に最大限の賛辞を表し、こう述べた。「分断が危険なまでに深まる時代において、私たちは耳を澄まさなければならない。まるで埋葬された怪物が目を覚ましつつあるように、文明化された通りの下でうごめいている」(12月9日付「朝日新聞」)―。

 

 原爆に対して「加害」と「被害」という二重の記憶を抱え持つ二人にとって、「The Buried Giant」とはまさに「核の脅威」そのものに違いない。分断された世界の中で、「核」という名の「忘れられた巨人」がいままさに長い眠りからむっくりと起き上がり、悪魔の一歩を踏み出そうとしているのではないか。チャップリンがそうであったように、「核」問題とはすぐれて文学上の命題である。私たちはいま、政治の想像力がそれについていけないというジレンマの世界に生きているのかもしれない。まるで「忘却」が「記憶」を駆逐してしまったかのように…。その喜劇王はクリスマスの今日12月25日が没後40年―。

 

 

 

(写真はノ-ベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさん=インタ-ネット上の公開の写真から)

 

 

《追記-1》

 年末年始のしばらくの間、当ブログを休ませていただきます。良いお年をお迎えください。なお、「記憶と忘却と…」の初出は11月1日付の当ブログを参照。また関連として、12月12日付ブログ「チャップリンと核」、同月18日付ブログ「3・11-その時 そして…山根さん夫妻」並びに同20日付ブログ「『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…」を合わせて読んでいただければ、このテーマにかかわる私の関心の所在がご理解いただけるのではないかと思います。

 

《追記ー2》

 11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」で言及した、物理学者で宮沢賢治研究者の斎藤文一さんが今年10月20日に病気で亡くなっていたことが分かった。享年92歳。北上市出身で、新潟大学名誉教授。宮沢賢治イーハトーブ館の初代館長。長女は文芸評論家の斎藤美奈子さん。

 

《追記ー3》

 長崎で被爆、「赤い背中の少年」の写真で知られた谷口稜曄(すみてる)さんが8月3日に死去。享年88歳。「私はモルモットではない。忘却が原爆肯定へと流れることを恐れる」と訴え、核廃絶運動の象徴的存在だった(12月26日付「岩手日報」追想メモリアル)

 

《追記ー4》~沖縄の記憶から

 2017年の沖縄は基地被害で明け、基地被害で暮れたと多くの県民は思っているはずだ。それほど訓練、飛行の強行、事件、事故が繰り返し起きた1年だった。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設は4月、政府が護岸工事に着手した。12月にはN5護岸が長さ273メートルに達し、ほぼ完成した。新たにK4護岸建設の砕石投下も始まった。

 現場の環境破壊が著しい。7月に絶滅の恐れのある希少サンゴ14群体が見つかったが、沖縄防衛局の県への報告では13群体が死滅した。琉球新報社が9月に実施した世論調査では80・2%が県内移設に反対だった。「辺野古ノー」の圧倒的多数の民意を踏みにじり、環境を破壊しながら建設を強行することなど許されるはずがない。訓練強行も目に余るものがあった。嘉手納基地と津堅島訓練場水域では、米軍のパラシュート降下訓練が地元の反対を押し切って繰り返された。この訓練は以前、読谷補助飛行場で実施されていた。1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、伊江島に移転することで合意したはずだ。しかし米軍は勝手に訓練場所を拡大している。やりたい放題ではないか。

 昨年12月に名護市安部沿岸に墜落した普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイは、今年も事故や緊急着陸などを繰り返した。8月には普天間所属機がオーストラリア沖で墜落し乗員3人が死亡した。緊急着陸は6月に伊江島補助飛行場と奄美空港、8月に大分空港と相次いだ。欠陥機としか言いようがない。しかしオスプレイはすぐに飛行を再開し、現在も沖縄上空を飛び続けている。危険なのはオスプレイだけではない。普天間所属のCH53E大型ヘリの事故も相次いだ。10月、東村高江の牧草地に不時着し、炎上大破した。米軍は一方的に事故機を解体し、周辺の土壌と共に現場から持ち去った。航空危険行為等処罰違反容疑の捜査対象の当事者が公衆の面前で堂々と証拠隠滅を図った。これで法治国家といえるのか。

 CH53は12月に入って、上空から次々と部品を落下させた。宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根にプラスチック製の筒が落ち、普天間第二小学校の運動場に窓を落下させた。いずれも近くに園児と児童がいた。大切な子どもたちの命が重大な危険にさらされた。ところが政府は事故を引き合いに、辺野古移設の加速化を繰り返し主張している。萩生田光一幹事長代行は「だからこそ早く移設しなければいけないという問題も一つあると思う」と明言した。言語道断だ。危険除去を主張するなら、普天間飛行場の即時閉鎖しかない。辺野古移設を正当化するため、住民を危険にさらした事故を利用するのはもってのほかだ。住民保護を放棄した政府に「国難突破」を言う資格などない(2017年12月31日付「琉球新報」社説から

 
 

 

 

 

 

2017.12.24:masuko:コメント(0):[議会報告]
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