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“国体”は海を渡ってやってきた

  • “国体”は海を渡ってやってきた

 

 「菊(天皇)が戦前の国体だったとすれば、戦後の国体は星条旗(アメリカ)だった」―。明治維新から現代に至るまでの歴史を「国体」をキ-ワ-ドにして分析した『国体論―菊と星条旗』が注目を集めている。著者の政治学者、白井聡さんは4年前、『永続敗戦論』で敗戦の事実を否定する戦後史を白日の下にさらしたが、今回はそれを国体という概念でさらに詳細に検証している。そのスリリングな展開は本書に譲るとして、私が目を奪われたのは戦前と戦後の国体がともに沖縄を最初から埒外(らちがい)に置いていたという指摘である。先の大戦で「捨て石」にされ、いまなお米軍基地の重圧に苦しむ現実がそのことを如実に示している。

 

 「沖縄は『戦後の国体』が国民統合の機能を果たす際に、あらかじめ除外されると同時に、それが機能するために絶対に不可欠な役割を負わされた。ゆえに、『戦後の国体』、すなわち世界に類を見ない特殊な対米従属体制が国民の統合をむしろ破壊する段階に至ったいま、その矛盾が凝縮された場所=沖縄において、日本全体が逢着している国民統合の危機が最も先鋭なかたちで現れているのである」―。白井さんは沖縄の置かれた位置をずばり、こう表現している。平和憲法(戦争の放棄と象徴天皇制)―日米安保(と日米地位協定)―沖縄の犠牲(巨大な米軍基地化)……この「三位一体」が戦後の国体を根っこで支えているという論法である。

 

 作家の池澤夏樹さんは同書の書評を「沖縄は何か罰を受けているのではないだろうか」と書き出し、こう続けている。「広大な基地を押しつけられ、軍用機の騒音と米軍人の犯罪に苛(さいな)まれ、土人呼ばわりされ、あからさまに侮蔑される。異議を申し立てればまた叩(たた)かれる。これが罰でなくて何だろう。問題はいかなる罪に対する罰かということだ」(5月2日付「朝日新聞」)―。これに対する回答が「異様なる隷属」と白井さんが呼ぶ、身売りとも思える「星条旗」信仰であろう。つまり、罰せられるべきは本土の側であるという逆説である。でもなぜ、こんなことになったのか。

 

 私の場合、”アメリカ”は鼻先からやってきた。嗅(か)いだこともない、人をおびき寄せるような不思議な匂いだった。それがチョコレ-トやチュ-インガムだということがやがて、分かった。「ヘイ!カモン、ボ-イ」―。「鬼畜米英」に父親を奪われたはずの私はいつしか、進駐軍のジ-プを追い回すようになっていた。そんな光景が焼け跡のあちこちに出現した。戦後アメリカの占領政策が戦前の天皇の実質的な“退位”(象徴天皇制)と憲法9条(戦争の放棄)との引き換えによって、幕を開けたことは歴史が証明する通りである。しかしその後、肥大化の一途をたどる対米従属体制を国民全体で支え続けた正体こそが「アメリカの匂い」(豊かさ)ではなかったのか。当然のことながら、「沖縄抜きで」という留保付きで―。

 

 東京ディズニ-ランドが開園したのは35年前の1983年である。誘致先として当時、静岡県の富士山ろくに広大な土地を持つ三菱地所と、千葉県浦安市の埋め立て地を押さえる三井不動産がしのぎを削っていた。ディズニ-側の選択は周知のように「浦安」だった。『東京ディズニ-ランドの神話学』(桂英史著)にこんな記述がある。「ディズニ-ランドを訪れる人々が富士山を目の当たりにすることは、ディズニ-側にとっては明らかにデメリットである。ディズニ-ランドは、ゲストの目に見えるものすべてがディズニ-というブランドを背負ったキャラクタ-でなければならなかった」―。まるごとのアメリカナイズ(「日本=霊峰富士」隠し)である。

 

 白井さんは戦後の国体を「アメリカの日本」(占領期)→「アメリカなき日本」(安定期=ジャパン・アズ・ナンバ-ワン)→「日本のアメリカ」(現在の盲従的な対米姿勢)の三段階に分類している。集団的自衛権の行使容認、安保法制の制定、自衛隊の存在を明記した憲法改正案…。米国側の直接的な圧力がないにもかかわらずに、まるで“人身御供”(ひとみごくう)さながらの対米従属が第三段階の特色であろうか。

 

 「『お言葉』は何を語ったか」というタイトルで、『国体論』は書き始められている。2016年8月8日の「天皇」メッセ-ジについて、白井さんはこう記す。「語られることによって滲み出されたのは、今上天皇の持つ強い危機感であり、それは、煎じ詰めれば戦後民主主義の破壊・空洞化に対する危機感であった。『お言葉』によって明らかにされたのは、日本社会が解決済みとみなしてほとんど忘れ去っていた問いをめぐって、天皇その人が孤独な思索を続けてきたという事実ではなかったろうか」―。この危機感が「戦後の国体」の捨て石となった沖縄の地に向けられたことは言をまたない。現天皇(皇太子時代を含む)の沖縄訪問が実に11回に及んでいることが、そのことを雄弁に物語っている。

 

 池澤さんも前掲新聞記事をこう締めくくっている。「今上天皇の『お言葉』は退位の意思を通じて、機能する象徴天皇の姿を改めて国民の前に明示するものだった。動かなければならない。動いて、国民の傍らに膝(ひざ)をついて、祈る。弱き者の側につく。今上はそれを日本国憲法のもとにおける天皇の姿として、30年に亘(わた)って具現してきた。国体の頂点という危険な場所から距離を置くこと。貪欲(どんよく)な愚者どもの神輿(みこし)とならないこと。持てる者は放置して、何も持たない人々の側に身を置こう。天皇が働く場所は弱者の傍らしかない」

 

 「天皇制は嫌いだけれども、いまの天皇(今上天皇)は大好きだ」―。沖縄の地で「反戦」を叫ぶ彫刻家の金城実さん(79)の絞り出すような声がまだ、頭の片隅に刻み込まれている。戦後一度は”退位”させられたはずの天皇がいままさに、現代日本の危機(沖縄)を憂(うれ)いている。これ以上の歴史の皮肉があろうか。歴史は繰り返す…。「8・15」(1945年)はもうひとつの明治維新の始まりだったのかもしれない。

 

 

(写真は占領米兵のジ-プに群がる子どもたち。私もかつてはその一人だった=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.05.23:masuko:コメント(0):[マスコラム]

“傷だらけの人生”と「記憶喪失症」研究

  • “傷だらけの人生”と「記憶喪失症」研究

 

 「古い奴だとお思いでしょうが/古い奴こそ、新しいものを欲しがるもんでございます/どこに新しいものがございましょう/生まれた土地は荒れ放題/今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」―。「魂の秘境」をさ迷い歩き、「イ-ハト-ブ」を散策して娑婆(しゃば)に戻ったとたん、こんな歌が口をついて出た。仁侠節は続く。「何から何まで、真っ暗闇よ/すじの通らぬことばかり/右を向いても、左を見ても/ばかと阿呆のからみあい/どこに男の夢がある」…。「いまの世情そのものだよなぁ」とボソボソとつぶきながら、そうご存じ、鶴田浩二の「傷だらけの人生」である。

 

 と、そんな鬱々(うつうつ)たる日々を送っていたある時、「市議に脅迫文、ネットに中傷」(5月9日付「西日本新聞」)という見出しが目に飛び込んできた。今年4月、北九州市で開かれた文部科学省の前川喜平・前事務次官らの講演会で、司会を務めた同市の無所属議員、村上聡子さん(52)に対し、講演会の前後からネット上で中傷の書き込みが相次ぎ、5月には事務所に「死ね」などと書かれた郵便物が送り付けられていた―という内容だった。前川氏はいわゆる「加計学園」問題をめぐって「総理のご意向」などと書かれた文書を暴露し、政府に反旗を翻したことで知られていた。

 

 その2カ月前、名古屋市内の中学校が前川氏を招いて公開授業を開催した際、文科省が市教委に対し、授業内容や録音デ-タの提出を求めていたことが明らかになった。照会メ-ルは2回にわたり、質問項目は計28項目に上った。「前川氏が出会い系バ-に出入りしたことが不適切だという報道がある。それも踏まえた上で、招いた判断をどう認識しているか」などという項目もあった。この問題について、当時の校長だった上井靖さんはこう語った。「修了式で今回の騒動に触れ、こう伝えました。『物事を判断するのは自分ですが、正しいと思い続けるのではなく、どんどん更新してください。いろんな考えの人の話を聞くことを大事にしてください』、と」(5月10日付「朝日新聞」)

 

 2日続きのこの記事が忘れかけていた“悪夢”を呼び覚ました。その顛末とは―。東日本大震災(2011年3月11日)が発生した半年後に開かれた花巻市議会6月定例会で、全国から寄せられた義援金の一部が市予算の歳入に計上されるという地方自治法違反(いわゆる「義援金流用」疑惑)が浮上した。当時、三陸沿岸で被災した千人以上が花巻市内の旅館やホテルに避難。審議が行われたその日は定員を超える被災者が傍聴に詰めかけ、成り行きを見守っていた。

 

 「さっさと帰れ」―。休憩に入った直後、革新系会派に属するある議員(故人)が突然、傍聴席に向かって、暴言を浴びせた。訴えを聞いた私はさっそく、真相の究明を議会サイドに求めた。当の議員は「言った覚えはない」とシラを切り続けた。事態は予想外の方向に進展した。「本人は記憶がないと言っている。傍聴者の聞き違いもないとは言えない」という理由で、社民党系会派(平和環境社民クラブ)と共産党所属の議員を正副とする「議員発言調査特別委員会」が正式に設置された。傍聴に来ていた被災者のうち10人が「ちゃんと聞こえた」と証言したにもかかわらず「確証は得られなかった」として、今度は同じメンバ-による「懲罰特別委員会」が発足した。半年後の12月定例会で、私は「議会の品位を汚した」という理由で戒告処分に処せられた。

 

 「朝日新聞出身の市議がネタ元で、ねつ造記事を朝日新聞に掲載する。ヤラセの臭いがプンプンしますわね」、「民主主義のル-ル、多数決の結論にも従わず暴言を続ける71歳の悪あがき」、「あなたのボランティア活動とやら、公職選挙法違反ですよ」、「議員なんて辞めて、お遍路にでも出た方が市民が喜ぶと思いますよ」、「他人の善意を我が物顔で分配するカリスマ議員。この方のボランティアって、もしかしたら究極の選挙活動、売名行為とちゃいますか」…。処分を受けるまでの半年間で、ブログに対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の書き込みは200件以上に達した。さながら、議会の内と外からの“集団リンチ”だった。あれから7年―。

 

 「私は部下を信じている。子どもの使いじゃない。職員の側に真意をねじ曲げるような動機はそもそもない」―。「加計学園」問題をめぐって、参考人招致された柳瀬唯夫・元首相秘書官は誘致先の愛媛県側が「ウソ」の証言をしているかのような答弁を重ねた。中村時広知事は毅然として、冒頭のように発言した。私はこの言葉を聞きながら、やっと7年目にして身の潔白を晴らしてもらったような気がした。

 

 あの当時、私も一貫して「被災者が『聞いてもいない』ことを『聞いた』と言い募る動機はまったくない」と主張した。しかし、議会側は「当該議員が被災者とグルになって芝居を演じていないとも限らない…」などと周囲に吹聴していたことを後で知った。自らの権威と体面を守るため、「あったこと」を「なかったこと」にするという不正義が、しかも革新系議員の主導で強引に推し進められたのである。私の処分に反対の意思表示をした議員はわずか2人だけだった。今回の「モリカケ」騒動と瓜二つの構図である。「品位を汚された」と臆面もなく口にする鉄面皮に、私は底知れない人品の腐敗を思い知らされたことをまざまざと思い出した。

 

 「嘘をつく人は、防御ラインを必要以上にあげ、より大きく嘘をつくものだ、と知っておくことも重要です。例えば、妻から浮気を追及された夫は『その日は女性と一緒に食事をしたが、浮気はしていない』と言えばいいのに、『その日は女性と会っていない』と言いがちです。しかし、過度に嘘をつけば、2人分の食事代が書かれたレシ-トなどで面会がばれ、しどろもどろになります」(5月11日付「朝日新聞」)―。「記憶喪失症」について、弁護士の亀石倫子さんはこう語っている。一連の論評の中でも群を抜く心理分析で、目からうろことはこのこと。でも、私ごとではないので、念のため…。

 

 「なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、そういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く…馬鹿な人間でございます」。仁侠節がまた、耳の奥に聞こえ始めた。目の前には市議の村上さんや前校長の上井さん、知事の中村さん、そして前川喜平・前文科事務次官の晴れがましい顔が見え隠れする。そりゃ、そうだ。世の中、ウソつきばっかしじゃねえってことさ。いつの間にかこっちも仁侠口調になってきた。「好いた惚れたは/もともと心が決めるもの/ひとつの心に、重なる心/それが恋なら、それもよし…」―。鶴田浩二はまだ、唸(うな)っている。「嘘は泥棒の始まり」、いや「嘘から出たまこと」と言うべきか。「傷だらけのニッポン」が目の前でのたうち回っている。

 

 

 

(写真は懐かしい「傷だらけの人生」のジャケット=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.05.17:masuko:コメント(0):[マスコラム]

黄昏(たそがれ)の宮沢賢治”学会“

  • 黄昏(たそがれ)の宮沢賢治”学会“

 

 私は昨年、当ブログに「賢治、慟哭!?…学会の正体見たり(上)」と題する文章を掲載した(2017日11月18日付=資料1)。これに対し、5ケ月以上たった今年4月30日付で、宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-の富山英俊・代表理事長名で「『宮沢賢治・花巻市民の会』会報(2017年9月1日付)における本学会員に関する誤報問題等のその後の推移につきまして」(資料2)という長たらしい文書が3千人ともいわれる学会員宛てに郵送されていたことが分かった。どうしたわけか、同じ学会員である私には未だに届いていない。(なお、当時の関連記事は同月21日付と28日付の当ブログを参照のこと:アクセスはHP「イーハトーブ通信」へ)

 

 以下に資料1と資料2の私に関する部分を転載する(この文書には私以外に「花巻市民の会」の関係者3人の固有名詞が記され、A4版6ペ-ジに及んでいる)。目を皿にして、よ~くお読みいただきたい。私が言いたかった趣旨には一切言及しないで、手続きのあり方を声高に言い募(つの)る文面に腰を抜かしてしまった。そういえば、どこぞの世界でも詭弁(きべん)を弄(ろう)しながら、自己保身(つまり、忖度)に身をやつす人間が多い昨今ではある。学会が問われているのも、まさに虫唾(むしず)が走るようなこの種の精神の貧困なのである。「安倍一強」と同様、“膿(うみ)”を出すべきなのは、学会組織の側ではないのか。

 

 

 

【資料1】こともあろうに、国内外の賢治研究者らが名を連ねる「宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-」(富山英俊代表理事)が、賢治精神の実践を目指す地元愛好家の呼びかけに「待った」をかけるという前代未聞の騒動が賢治のふるさと岩手・花巻で巻き起こっている。「夜郎自大」(やろうじだい)ともいえる学会の権威主義が鎧(よろい)の下から、チラリとその正体を垣間見せたというわけである。「賢治」に背を向ける「宮沢賢治学会」とは一体、どんな組織なのか。銀河宇宙のかなたで嘆き悲しむ賢治の姿が目に浮かぶ。おそらく、賢治自身が一番嫌うであろう、この騒動の顛末(てんまつ)とは

 

 「大槌の子どもたちを支援してください。東日本大震災にも負けず、健気(けなげ)に頑張っている東の子どもたちのために募金して下さいませんか」。そのチラシにはこう書かれていた。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」というくだりが宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の中にある。「3・11」によって、壊滅的な被害を受けた三陸海岸の港町・大槌町はちょうど、賢治の生地・花巻の東方に位置している。あれから6年あまり震災の記憶が風化する中、私自身もその会員である「宮沢賢治・花巻市民の会」(阿部弥之会長、会員約30人)は今年の夏、総意で支援計画を決定。9月22日から2日間にわたって開かれる学会の定期大会での協力を申し出た。「まさに時宜を得た企画」こんな返事を期待していたのだったのだが

 

 「宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-定期大会の際の募金活動について」(平成29年8月10日付)と題する代表理事名の回答書は改めて事業計画書の提出を求めたうえで、物品販売などを除いた募金に限定する、定期大会参加者への周知は休憩時間を充てる、募金活動は9月22日のみとするなどの前提条件を付していた。「学会執行部の後ろ向きな姿勢を問う」という見出しで、市民の会の会報「おっほ便り」(9月1日発行)は「まるで門前払い。執行部は復興支援に無関心なのか」と疑義を呈した。当然のことである。しかし、事態はまるで予想もしない方向に展開した。会報の記事は事実無根だとし、今度は「訂正と謝罪」を要求。挙句の果ては謝罪文を期限までに提出しなかったという理由で、募金活動まで締め出してしまったのである。

 

 「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ//東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」。「雨ニモマケズ」の中で、賢治は受難者に寄り添うことの大切さを「行ッテ」と直截(ちょくせつ)に表現している。この「行ッテ」精神こそが賢治の思いを象徴する言葉である。事実、東日本大震災に際してはこの言葉に背中を押されたボランティアが被災地を目指し、英訳されたこの詩が全世界の追悼の場で朗読された。

 

 今回の支援活動の先頭に立った、在野の賢治研究者である鈴木守さん(市民の会、後に脱会)は呼びかけ文にこう記した。「東日本大震災が起こった頃、あちこちで『雨ニモマケズ』が引き合いに出されました。『賢治精神』を訴え、その支援に大いに資することになったと思います。しかしそれから6年が経ち、被災地のこともその支援についても次第に私達の意識の中からは遠ざかってしまっているという事実も否定できないと思います。そこで、本年度の賢治学会総会の際に『賢治精神』をちょっとだけですが実践し、三陸の被災地を支援したいと思うのですが如何でしょうか」(6月14日付「『賢治精神』プチ実践について」提案)。私自身も震災直後、仲間と支援組織「ゆいっこ」を立ち上げ、趣意書(要旨)にこう書いた。

 

 「肉親の名前を叫びながら、瓦礫(がれき)の山をさ迷う人の群れ。着のみ着のままのその体に無情の雪が降り積もる。辛うじて一命を取りとめた被災者の身に今度は餓死と凍死の危機が迫りつつあります。もう、一刻の猶予(ゆうよ)も許されません。岩手・花巻が生んだ宮沢賢治は人間のおごりを戒め、『いのち』のありようを見続けました。この『結いの精神』(ゆいっこ)は、ひとことで言えば『他人の痛み』を自分自身のものとして受け入れるということだと思います。何をやるべきか、何をやらなければならないか。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。試されているのは、わたしたち自身の側なのです」

 

 ささやかで真っすぐな願いは「宮沢賢治学会」の名のもとに踏みにじられた。かつて『宮沢賢治殺人事件』(吉田司著)という物騒なタイトルの本が出回った。今回の騒動の一方の当事者が実はその下手人だったとしたら。賢治の慟哭(どうこく)が天空からもれ聞こえてくる。「市民の会」は今月15日に開いた緊急臨時総会で、改めて学会側の真意をただすことにした。なお、鈴木さんは一連の経緯について、自身のブログ「みちのくの山野草」の中で、詳しく報告している。

 http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/aef0b3f55406a749d5883aed18946d0f

 

 

【資料2】同上ブログの「『宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-定期大会の際の募金活動について』から…挙句の果ては謝罪文を期限までに提出しなかったという理由で、募金活動まで締め出してしまったのである」の部分を引用して、こう述べる。「増子氏による記述では、鈴木氏と同様に、当該会報での『理事会では協議されなかったと聞きました』等の文言を本学会が問題としてきた事実や、(花巻市民の会)会長が謝罪文案提示を約束したのに期限を守らなかった経緯は、まったく触れられていません」ー。たったのこれだけである。

 

 

 

(写真は賢治が「イーハトーブ」(夢の国=理想郷)と名づけたイメージ図=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

2018.05.12:masuko:コメント(0):[マスコラム]

魂の秘境から秘境へ

  • 魂の秘境から秘境へ

 

 遺作となった『魂の秘境から』がやっと、届いた。朝日新聞の連載時から、言葉がまるで複雑骨折したような「コ・ト・バ」でしかなくなってしまった今の世に倦(う)み疲れた時など、何度、読み返したことだったか。筆者で水俣病患者に寄り添い続けた石牟礼道子さんが今年2月10日、90歳で旅立ったのを機に単行本にまとめられた。魂の抜け殻みたいな荒野にポツンと取り残されたような寂寥感(せきりょうかん)…。石牟礼さんが遺(のこ)してくれた「秘境」を、私は今日もさ迷い歩いている。たとえば、魂同士がこすれ合う、こんなひと節に出会うために…

 

 

●塘(とも)の斜面の石垣はわたしの幼いことからの遊び場で、ふだんはめったに人影もなく、ガゴたちの棲(す)み家(か)と思われていた。ガゴとはこのあたりに棲む化物たちの総称で、なかでも天草から来たというおせん女狐(じょきつね)が親分だと言われていた。夜中に酔っ払ってこの海岸を通る男たちは、美しい女に化けたおせん女にたぶらかされるのだそうだ。そういうところへ、よくも独りでかよったものだ。幼な心に、狐になりたい一心だったのである(2015年2月17日掲載)

 

●わたしのいまだに抱え続けているテ-マに、生命の孤独というものがある。赤児というものは、どうやっても泣き止まぬことがある。泣きやまぬ赤児の孤独と、泣き止めさせられぬ母親とが、わたしの潜在的なテ-マといってよい。人間だけではなく、動物たちにもそういう悲哀があるのではなかろうか。わたしはかつて「詩経」と題する、お経まがいの詩を作ったことがある。この世の果ての海を、蓮(はす)の葉に乗って漂うひとりの赤児の気持ちをうたったつもりだ。「無明闇中(む-みょうあんちゅう)/遠離一輪(おんり-いちりん)/流々草花(る-る-そ-げ)」(2015年6月30日掲載)

 

●澄ちゃんと土堤で苺を摘んでいると、雲が出て、にわかに陽が翳(かげ)ってくるときがある。澄ちゃんは空を見上げて、「蛙が雲の上で鳴きよるよ」と言う。そう言われると、蛙の声はたしかに雲の方から聞こえる気がする。「雲の上に田んぼのあるとじゃろうか」。すっかり、その気になってわたしは答える。ころころころころ、こ-ろころ。やっぱり雲の上から聞こえる。むかしの田園では、大地と空はひとつの息でつながっていた。だから、雲の上に田んぼがあって、そこで蛙が鳴いていると、澄ちゃんとわたしは信じることができたのだろう(2015年10月27日掲載)

 

●「道子、よう見てみれ。ピナどん(巻き貝類)が数え切れんしこおるじゃろが。逃げ足の速さ、速さ。人間にゃ聞こえんばってん、おめき合うて逃げよるぞ。追っかけて、取ろうぞ。大昔は、人間たちよりも、ここらあたりの海辺の方が賑わいじゃったろうぞ。さあ、追っかけようぞ」。母は躍るような足つきで、岩をまたぎ、腰をかがめては、磯行き篭を持ち直していた。「あ~あ、人間の暮らしちゅうもんは、窮屈なもんやなあ。ビナどんのようにはいかん。海辺は広うしてよかなあ」(2016年12月13日掲載)

 

●それは光であり、生命の源とも予兆ともいえる。山の木々、渚のビナ(貝類)ども、田んぼのビギども、街の人間たち、生きとし生けるものの吸う息、吐く息ともなって、あまねく満ちている。海と大地を幾重にも取り巻いて、宇宙までつながっている気がする。それは中空から、音となって聞こえてくることもある。天のビキどもの田植え歌は、そんな音のひとつに違いない。わたしは、これは大人になってからではあるけれど、そんな音のことを「秘音」(ひおん)と呼ぶようになった。生命の秘められた源がひととき音のかたちをとって、たまさか漏れ聞こえてくるからである(2017年2月21日掲載)

 

●母の気持ちのどこかには、心を病んだ実母おもかさまのことがあったのだろう。夫が権妻(ごんさい=妾)を囲ったことが一因か、裾を裂いた着物を引きずり、されいてゆく姿は「しんけい(神経)どん」とあだ名されていた。「唐、天竺(てんじく)…」などと終始つぶやいてもいたから、その魂はいよいよ遠ざれき(遠くまでさまようこと)していたに違いない。村の子どもたちは琵琶弾きどんたちを見ると、「かんじん(勧進=物乞いの意味)、かんじん」と囃し立てて石を投げることもあった。つぶては「しんけいどん」にも、助けに入る孫娘のわたしにも飛んできた(2017年5月25日掲載)

 

●かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやって来る漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。ところが、昭和30年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(ねこだけ)に登る」と言い習わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにもむごい最期である(2018年1月31日掲載。これが最後の原稿となった)

 

 

(磯には無数の生きものたちのざわめきが聞こえる。文中の挿入写真から=写真家、芥川仁さん撮影。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.05.08:masuko:コメント(0):[マスコラム]

「産めよ増やせよ」から強制不妊へ

  • 「産めよ増やせよ」から強制不妊へ

 

 「人間」が「人間」であるための基本原理―「生と死」がこれほどまでに弄(もてあそ)ばれた時代がかつてあったろうか。旧優性保護法(1948~1996年)下、障がい者らに対して繰り返された強制不妊手術の実態が連日のように報道されている。しかし、そのわずか10年ほど前には逆に心身にハンディを抱える人たちも戦場に駆り出されていた事実はほとんど知られていない。そして、私たちはいま、少子高齢化という時代に立たされている。生と死が国家の管理下に置かれた時、人間の尊厳も同時に収奪されることを歴史は教えている。

 

 「父さんは益々丈夫で御奉公して居りますから安心してください」(4月20日付当ブログ「いつか来た道」参照)―。先の大戦で戦病死した父親から届けられた軍事郵便には判で押したようにこう書かれていた。検閲済みの判子が押されたこの文面と敗戦のわずか4ケ月後、シベリアの捕虜収容所で「栄養失調死」したという、この気の遠くなるような乖離をどう考えたらよいのか。一橋大大学院の吉田裕教授(日本近現代軍事史)はある軍人の証言を紹介している。「1944年以降に入隊した補充兵の年齢は、いずれも30過ぎの老兵で大半は妻子持ちであった。いとしい妻子を故国に残して来た身ゆえ、当然であろう。はたから見ても顔にも態度にも、ビクビクしたところがあり、お世辞にも強い兵隊とはいえなかろう」(『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』)

 

 私の父親は敗戦前年、つまり1944年の夏、2歳と4歳と6歳の子どもと妻を残し、37歳で召集された。留守宅を気遣う文面のなどまるで、父親をモデルにしたような描写である。強制された軍事郵便とは裏腹に、ビクビクと怯(おび)えながら、兵役に服した姿がまぶたに浮かんでくる。1940(昭和15)年1月、「陸軍身体検査規則」が改正され、「身体または精神にわずかな異常があっても、軍事医学上、軍務に支障なしと判断できる者は、できるだけ徴集の栄誉に浴し得るよう、身体検査の条件を全般的に緩和した」(同書)。敗走に伴う兵力不足を穴埋めするため、“精神疾患”を持つ人たちも最前線に送られた。「根こそぎ」動員である。前掲書は以下のような悲惨な事例を紹介している。

 

 「彼は補充交代要員として、同地(浙江省杭州)に到着したが、原隊出発から同地到着の間に、ほとんど無口にして戦友と談笑せるが如きこと一度もなく常に孤独の状態にあった。部隊到着後もほとんど戦友と談笑することなく、4日目に自殺している。その後の調査によれば、本人は頭脳明晰を欠き、小学校尋常科第3学年を修了せるのみにして片仮名を書き得る程度であり、同地到着後に実施した知能検査でも、水準以下と判定されていた」―。同書はまた、「知能年齢最低5歳くらい」の知的障がい者70人からなる部隊の存在も明らかにしている。

 

 「不良な子孫の出生を防止する」―。こんな目的で旧優性保護法が制定されたのは敗戦からわずか3年後である。基本的人権を定めた新憲法下で、敗戦によって“用済み”となった精神障がいや知的障がいを持つ人たちは今度は“淘汰”(とうた)の対象となったのである。当時、議員立法の中心となった医学博士の谷口弥三郎(参院議員)はこう述べたという。「全然思慮をめぐらさず、本能のままに出産するとすれば、優秀者は減少する」。ナチス・ドイツが1933年、「遺伝病子孫予防法」を制定したのを受け、日本でも40年、「国民優性法」ができたが、手術の強制は認めていなかった。96年、「母体保護法」に改まるまでに不妊手術を強制された数は統計の残っているだけで1万6千人以上に上るという。

 

 「本当、良かったですよね。この結婚を機に、ママさんたちが『一緒に子供を産みたい』という形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください」―。2年前、菅義偉官房長官が俳優の福山雅治さんと吹石一恵さんの結婚について、こうコメントして物議をかもしたことがあった。先の大戦を前にした1939(昭和14)年9月、当時の厚生省は「結婚10訓」なるスロ-ガンを定めた。ナチスの「配偶者選択10か条」を下敷きにした内容で、「お互に健康証明書を交換しましょう/悪い遺伝の無い人を選びませう/近親結婚は成るべく避けることにしませう」などと続き、最後の10番目は「産めよ増やせよ國のため」で閉められている。

 

 「一億総活躍」とか「子育て支援」などの美辞麗句の背後に、私などはある種の“底意”を嗅ぎ取ってしまいたくなる。たとえば、自衛隊の存在を明記する憲法改正と連動しているのではないのか…などと。「憲法カフェ」を主宰する弁護士の太田啓子さんはこう話している。「憲法や政治に関心を持つ人が少ないのは、将来への想像力が欠けているからかもしれません。それは、かつての私自身もそうでした。それが出産を経験し、子どもの成長を時間軸に考える『子ども暦』で物事を考えるようになりました。自衛隊をめぐる論議でも『子どもが大人になって、戦争に行ってほしくないな』と自分ごととして考えられます」(5月2日付「朝日新聞」)

 

 菅発言が「産めよ/増やせよ/國のため」と聞こえるのは、私の空耳のせいだろうか。「生殺与奪」(せいさつよだつ)は国家権力が最も手にしたがる欲望のひとつである。日本の敗戦によって、「結婚10訓」は多くの戦争遺児を産み落とすという皮肉な結末に終わった。私もその一人である。

 

 

(写真は裁判に持ち込まれた強制不妊手術=2018年3月28日、仙台地裁で。インタ-ネット上に公開された写真から)

2018.05.04:masuko:コメント(0):[マスコラム]