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訃報―石牟礼道子さん、逝く…「石牟礼さんがもういない」(池澤夏樹)

  • 訃報―石牟礼道子さん、逝く…「石牟礼さんがもういない」(池澤夏樹)

 水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パ-キンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去した。90歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は長男道生(みちお)さん。

 

 熊本県・天草に生まれ、生後まもなく対岸の同県水俣町(現水俣市)に移住した。短歌で才能を認められ、1958年、詩人谷川雁(がん)氏らと同人誌「サ-クル村」に参加。南九州の庶民の生活史を主題にした作品を同誌などに発表した。68年には「水俣病対策市民会議」の設立に参加。原因企業チッソに対する患者らの闘争を支援した。水俣病患者の心の声に耳をすませてつづった69年の「苦海浄土 わが水俣病」は高い評価を受け、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と辞退した。以降も「苦海浄土」の第3部「天の魚」や「椿(つばき)の海の記」「流民の都」などの作品で、患者の精神的な支えになりながら、近代合理主義では説明しきれない庶民の内面世界に光をあてた。

 

 2002年には、人間の魂と自然の救済と復活を祈って執筆した新作能「不知火(しらぬい)」が東京で上演され、翌年以降、熊本市や水俣市でも披露された。晩年はパ-キンソン病と闘いながら、50年来の親交がある編集者で評論家の渡辺京二さんらに支えられ、執筆を続けた。中断したままだった「苦海浄土」第2部の「神々の村」を2004年に完成させ、3部作が完結。11年には作家池澤夏樹さん責任編集の「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一収録された。

 

 73年、水俣病関係の一連の著作で「アジアのノ-ベル賞」として知られるフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」、93年には不知火(しらぬい)の海辺に生きた3世代の女たちを描いた「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞。環境破壊による生命系の危機を訴えた創作活動に対し、01年度の朝日賞を受賞。03年に詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞を受けた。全17巻の全集(藤原書店)は13年までに刊行(14年に別巻の自伝)。他の著作に「西南役伝説」「アニマの鳥」「陽のかなしみ」「言魂(ことだま)」(故・多田富雄氏との共著)など多数。15年1月から本紙西部本社版で、17年4月から全国版でエッセー「魂の秘境から」を連載中だった。

 

 

 今年1月31日付の「魂の秘境から」―は「明け方の夢」というタイトルで、以下のような文章で閉じられている。

 

●…かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやって来る漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。

 

 ところが、昭和三十年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂(うわさ)が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(ねこだけ)に登る」と言い習わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。

 

 さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端(みずはな)に立ち合っていたのだった。

 

 

 追悼:「石牟礼さんがもういない」~池澤夏樹(作家)

 

 石牟礼さんがもういない。熊本に行っても、託麻台リハビリ病院にもトピア熊本にも石牟礼さんはいない。念のため、以前に暮らしていらしたやまもと内科の四階を覗(のぞ)いても、やはりおられない。あれらの部屋はみな空っぽになってしまった。この十年、何度となく熊本に通った。不知火海を一周して水俣に寄り、遠く高千穂へ走って夜神楽を見、一昨年の地震の惨状も確かめに行った。その他にも何かと理由を作って訪れた。すべて石牟礼さんに会うためだった。

 

 キンソン病でお首が揺れるのだが、いつもいい顔をしておられた。声が美しく、昔の話が次々に湧いて出て、お疲れを案じながらもついつい時間を忘れた。その場にいられることが何よりも嬉(うれ)しかった。何をしても上手な方で、病院の個室で炊飯器一つで煮物を作られる。これが本当においしい。いつも品のいいものを召していらして、どれも手作り。昔の布をつないで不思議な上着を仕立てられる。絵は最後まで描いておられたし、小声で歌われるのを聞いたこともある。この人の前に不細工な無能な男としてただ坐(すわ)っているのが苦しかった。身を持て余す思いがした。こちらからお渡しできるものが何一つなくて頂くばかり。それでも石牟礼さんはぼくが目の前にいることを喜んでおられる。

 

 病状を抑えるために服用している薬の副作用で頻繁に幻覚がやってくる。ここ二、三年はそういうお話が多くなった。去年の十一月に聞いたのは(今から思えば最後になったのだが)、「部屋の隅に街灯のように立つ二人の見知らぬ男」とか、「温泉で衣類を残して消えてしまった入浴客。みなで探すがいない」とか、「(昔の水俣の)とんとん村の海岸にいる。水平線に天草が見える。でも海を隔てる壁がある」というような話。 声が小さくなって口元に耳を寄せるようにして聴き取った。幻覚ではあるが、しかしそのまま石牟礼道子の文学でもある。

 

 そもそもこの人自身が半分まで異界に属していた。それゆえの現世での生きづらさが前半生での文学の軸になった。その先で水俣病の患者たちとの連帯が生まれた。彼らが「近代」によって異域に押し出された者たちだったから。それはことのなりゆきとして理解できる。でも、たぶん石牟礼道子は初めから異界にいた。そこに相互の苦しみを通じて回路が生まれたのだろう。

 

 去年、石牟礼さんは『無常の使い』という本を出された。「五〇年くらい前までわたしの村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった」と序にある。二人組で、正装で、行った先では「今日は水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、今朝方、お果てになりました」と口上を述べる。これは石牟礼さんがこれまでに書かれた追悼文を集めた一冊である。たくさんの人たちと深い魂の行き来があったことを証する名文集である。この時を迎えて読み返しながら、ここでもぼくは引け目を感じる。自分の場合はこんなに深く人々と交わることができなかった。縁を作れなかった。数少ない縁の一つが他ならぬ石牟礼さんとの出会いだった。

 

 数時間前、ぼくのもとに無常の使いが来た。「石牟礼道子さんが、今朝方、お果てになりました」と告げた(2月10日付「朝日新聞」電子版)

 

 

 

 

 

 

2018.02.10:masuko:コメント(0):[身辺報告]

85年ぶりの帰還―アイヌ遺骨…一方では”稲造給食”!?

  • 85年ぶりの帰還―アイヌ遺骨…一方では”稲造給食”!?

 

 「私のコタン、私の村/お母さんのそばへ、お父さんのそばへ/海をこえて山をこえて/鳥のように飛んでいきたい」―。「ヤイサマ」(即興歌)の調べに誘(いざな)われるようにして、白布に包まれたアイヌの遺骨がコタン(ふるさと)の墓地へと向かっている…。「85年ぶりの帰還」(藤野知明監督、2017年)と題された短編ドキュメントは、研究用に暴(あば)かれた先祖の霊がやっと墳墓の地に戻るまでを記録した作品である。確認されているだけで、全国12大学に1636体と、特定できない515箱分のアイヌの遺骨が収蔵されていることが判明している。全世界に散らばったアイヌなど先住民族の遺骨返還運動はようやく緒(ちょ)についたばかりである。

 

 2012年9月、北海道浦河町杵臼(きねうす)コタン出身の城野口ユリさんや小川隆吉さんら遺族3人が北海道大学を相手に、遺骨の返還と1人当たり300万円の慰謝料支払いを求める裁判を札幌地裁に起こした。当時、同大医学部では千体以上が確認され、敷地内の「アイヌ納骨堂」に保管されていた。約30年前、城野口さんは病床の母親に呼ばれた。「ユリ、オラはきっとあの世でご先祖さまに『オテッキナ』(アイヌ語で「叱られる」の意)される。エカシ(おじいさん)やフチ(おばあさん)、アチャ(父)、ハポ(母)のお骨を持ち去られたのを、ついに取り戻せなかったから…。代わりにユリ、ご先祖さまのお骨を必ず、取り返してくれ」―。これが遺言になった。

 

 提訴から4年後の2016年3月、大学側と和解が成立。12体分の返還が決まった。しかし、この“勝訴”を知らないまま、城野口さんは82歳で旅立った。わずか25分間の映像の中には、城野口さんがアイヌの言葉で歌う「ヤイサマ」や母親の遺言を切々と訴える姿が残されている。もうひとりの原告、小川さんには数十年前にお会いしたことがある。戦時中、北海道の炭鉱や土木現場には強制連行された朝鮮人がたくさんいた。過酷な労働に耐えかねて脱走が相次いだ。アイヌのコタンでは脱走者をこっそりとかくまい、衣類や食事を与えた。「アイヌと朝鮮人には互いに溶け合う気持ちが強かったんだよ。実はオレにも朝鮮の血が流れているんだ」とその時、小川さんはそう口にした。虚を突かれた。

 

 当時50代だったエカシはもう81歳に。あれからすでに30年以上の歳月が流れたのである。カムイノミ(神への祈り)や「イチャルパ」(先祖供養)…。アイヌプリ(伝統的なアイヌの作法)に従って土に還っていった霊たちに向かい、小川さんは「うれしいよ。ありがとう」と顔を崩した。この表情を見ながら、一方の私は「この受難も元をただせば…」といたたまれない気持ちになった。

 

 地元・花巻の偉人伝の中に「佐藤昌介」(1856年-1939年)と「新渡戸稲造」(1862-1933年)の名前が刻まれている。当地出身の佐藤は北海道帝国大学(現北海道大学)の初代総長で、「北大の父」と呼ばれる。『武士道』で知られ、国際連盟事務次長を務めた新渡戸の先祖はかつて当地に居住していた。しかし、この2人が北大の前身である札幌農学校時代に「殖(植)民学」を講義していたことは余り知られていない。いや、地元にとっては「タブ-」のひとつなのかもしれない。19世紀、欧米の学者たちが受刑者や先住民族の遺骨を集めるようになり、日本で中心的に収集を担ったのが北海道大学だった。その先導役を果たしたのがこの2人である。

 

 「新に農業を営むへき場所は、我北海道を措(お)いて他にあらさるなり、夫(そ)れ北海道の殖民は、即ち内国殖民なり…」という記述が佐藤の講義日誌に見える。井上勝生・北海道大学名誉教授(日本近代政治史)はこう書いている。「初期講義ノ-トから分かることは、(佐藤が)ニュ-ジ-ランド先住民族の土地十分の一保留法や、アメリカ合衆国インディアン保護法などを詳しく講義していた事実である。(講義ノ-ト)『殖民地政府の土蕃(どばん)に対する攻略』に記されていた。…当時の先住民族政策の最新知識であった」(『明治日本の植民地支配―北海道から朝鮮へ』)

 

 さらに、新渡戸は「北海道の殖民が大した困難を伴わなかったのは、原住民のアイヌ民族が、憶病で消滅に頻(ママ、「瀕=ひん」の間違いか)した民族だったからである」(『新渡戸稲造全集』第2巻)と書き残している。この点について、井上さんはこう指摘する。「この頃(1895年)の形質人類学では、欧米の影響を受けて、文明発展史や民族の優劣と関連させて、頭骨の形の解剖学的比較研究が、最新の学問として流行していた。…新渡戸は、頭骨の比較研究に知識と強い関心を持っていた」(同書)

 

 小川さんらの「遺骨返還」訴訟がきっかけとなり、その後も同様の裁判が相次ぎ、和解―返還が実現している。今年1月26日にはアイヌの有志団体が札幌医科大学と北海道に36体の返還を求めて提訴した。一方、昨年8月にはドイツ国内に保管されていたアイヌの頭骨1体分が返還された。海外に持ち出された遺骨が公式に返還されたのは初めてである。また、オ-ストラリア国内の博物館にも3体が保管されていることが判明しており、豪政府も返還を視野に入れた交渉に立ち上がっている。このほか、英国や米国でも存在が確認されている。

 

 和解成立後の集会で、小川さんはこう発言した。「人類学者が沖縄から持ち出した琉球人の遺骨も返還されなければならない」―。その眼差しは本土(ヤマト)を飛び越え、もう沖縄へと向かっていた。「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」(琉球大学内)は今年1月27日、アイヌ民族と連帯する、以下のような声明文(要旨)を発表した。

 

 「京都大学総合博物館に所蔵されている『百按司(むむじゃな)墓遺骨』の持ち出しは、門中(琉球の親族関係)関係者、地域住民などの了解を得たものではなかった。遺骨は日本政府による琉球の植民地化過程で奪われたのであり、人間としての尊厳や権利が大きく損なわれた国際的な人権問題だ。琉球人に対する冒涜(ぼうとく)行為への謝罪を強く要求する。研究会は琉球人・アイヌ遺骨返還に見る日本の植民地主義に強く抗議するとともに、同遺骨に関する完全な情報の公開、そして遺骨返還・再埋葬を要求する」(1月28日付「琉球新報」)―。

 

 地元で目にする、佐藤や新渡戸に関する“偉人伝説”の中には植民学に関わった過去の記述はほとんど見当たらない。私たちはもうそろそろ、足元の歴史を直視しなければならない時期を迎えているのかもしれない。

 

 

(写真は墳墓の地に向かう葬列。アイヌプリで行われた=2017年7月、映像画面から)

 

 

《追記》~食で先人知ろう 仙北小で新渡戸稲造ゆかりの給食

 

 盛岡市出身で国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(1862~1933)が好んで食べた料理を再現した給食が7日、同市の仙北小で全校児童約750人にふるまわれた。再現したのは、同市内丸にあったレストラン「公会堂多賀」で新渡戸がよく注文していたフランス料理。会食で必ず最初に出てきたというブイヤベースや、新渡戸が好んだマッシュルームのクリーム煮などを市学校栄養士会が洋食風にアレンジした。6年の北田寛人君(12)は「稲造さんも食べていたと思うとロマンを感じる」と話した(2月8日付「朝日新聞」岩手版)

 

 

2018.02.08:masuko:コメント(0):[身辺報告]

名護市長選、稲嶺氏敗北―全国的な請願(陳情)運動へ

  • 名護市長選、稲嶺氏敗北―全国的な請願(陳情)運動へ

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題が最大の争点となった名護市長選は4日に投開票され、移設を推進する政府が推す無所属新人の渡具知武豊氏(56)=自民、公明、維新推薦=が2万389票を獲得し、初当選した。移設阻止を訴えた無所属現職の稲嶺進氏(72)=社民、共産、社大、自由、民進推薦、立民支持=は1万6931票で、3458票差だった。市長が移設反対派から変わるのは8年ぶり。日米両政府が進める辺野古移設が加速していくことは確実で、移設阻止を訴える翁長雄志知事ら「オ-ル沖縄」勢力には、秋に予定される知事選に向け大きな打撃となった(1月4日付「琉球新報」電子版)

 

 今回の名護市長選はその結果の重大さとともに、私たち本土(ヤマト)の側が「沖縄」とどう関わるべきか―という重い問いかけを投げかけた。米兵による女性暴行事件やオスプレイの墜落事故、小学校などへのヘリ部品の落下、相次ぐヘリの不時着、騒音被害…。このいずれもが「基地あるがゆえ」ーである。この不条理を支えているのが、「日米安保」と「日米地位協定」であることに異論はないはずである。そして、私たち本土の「安心・安全」を担保しているのは、米軍基地の約7割が集中する沖縄であることも数字が示すとおりである。ならば、本土の側は当然のことながら、「受益者負担」を負わなければならない。この現実から目を背けることは許されない。

 

 憲法(第16条)と地方自治法(第124条)は日本国民に等しく「請願権」を認め、地方議会には「意見書」提出の権限(第99条)が付与されている。2年前、私が紹介議員になり、「日米地位協定」改定を求める請願が花巻市議会に提出された。この時は結果として不採択になったが、名護市長選の結果を重く受け止め、改めて全国規模の波状的は請願(陳情)運動の盛り上げを呼びかけたい。まず、本土の側で「せめて」やれることから、隗(かい)より始めよ、である。内容に若干、古いデ-タが残っているが、参考までに当時の請願書を以下に掲載する。提出者は宮城県気仙沼市で東日本大震災に遭遇し、その後、当市に移住した造園業の日出忠英さん(当時74歳)である。

 

(写真は新基地建設の計画予想図。基地推進派市長の当選で、移設工事に弾みがつきそう。現場での攻防も激しくなることが予想される=名護市辺野古沖の大浦湾で。インターネット上に公開の写真から)

 

 

件名;日米地位協定の抜本的な見直しについて
 

趣旨;沖縄県における元米兵による女性遺体遺棄事件を重く受け止め、米軍人・軍属らの特権を保障する「日米地位協定」の抜本的な見直しを求めること

理由;「日米地位協定」は1960(昭和35)年、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」―いわゆる「新安保」条約の締結に伴い、従来の日米行政協定に代わって条約化されました。しかし、公務中に犯罪を起こした場合、米側の裁判権が優先されるなどその不平等性が以前から指摘されてきました。

 沖縄県警のまとめによると、1972年の本土復帰以降の米軍人・軍属らによる刑法犯罪は5862件。うち、殺人や強盗、放火、強姦などの凶悪犯罪は574件(737人)に上っています。オバマ米大統領の歴史的な広島訪問を前にした5月19日、ふたたび元米兵による女性殺害・遺体遺棄という戦慄すべき事件が発生しました。オバマ大統領は「哀悼と遺憾」の意を表し、安倍晋三首相は「日本人全体に強い衝撃を与えた」と語気を強めて抗議しました。さらに、服喪期間中の今月4日には女性米兵が飲酒運転で交通事故を起こし、県民2人に怪我をさせるという悪質事犯が続きました。

 わずか0・6%の面積に米軍基地の約74%が集中する「基地の町」―沖縄県では「基地あるがゆえの悲劇だ」として、沖縄県議会をはじめ県内41市町村議会のすべてが今月中に米側に対する抗議決議や日米地位協定の抜本的な見直しを求める意見書を可決する見通しになっています。この基地偏重の実態は逆にいえば、「国民全体の安全を担保する役割の大半が沖縄に押し付けられている」ということを意味しています。

 当花巻市議会は昨年9月定例会で、安全保障関連法案の「廃止」を求める意見書を賛成多数で可決し、安倍首相ら政府関係者に提出しました。集団的自衛権の行使などを定めたこの法案よって、最大のリスクをこうむるのは当然のことながら、米軍基地の多くを抱える沖縄県です。先月28,29の両日に行われた共同通信による世論調査では協定の改定を求める世論が71%に上りました。

 花巻市は宮沢賢治の精神をまちづくりの基本にすえ、将来都市像として「イ-ハト-ブはなまき」の実現を掲げています。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という精神は私たちみんなの共有財産だと思います。5年前の東日本大震災の際も賢治の詩「雨ニモマケズ」に背中を押されるようにして、世界中から支援の手が差し伸べられました。私自身、宮城県気仙沼市で被災しましたが、賢治精神のその善意に支えられてこれまで頑張ってくることができました。現在は当市に居を移してお世話になっていますが、賢治精神の大切さを改めて実感させられる毎日です。

 基地を一方的に押しつけられ、日々、犯罪の恐怖におびえ続けなければならない沖縄県民の心に寄り添い、一日も早く日米地位協定の抜本的な見直しをするよう、本土の他の地方議会に先がけて、政府及び関係機関に意見書を提出していだきたく、ここに請願いたします。

 

平成28年6月9日
 

 

 

《追記-1》~沖縄タイムス・阿部岳記者(北部報道部)の眼

 

 直前の世論調査でも、市民の3分の2が辺野古新基地建設に反対している。それでも稲嶺進氏が落選したのは、工事がじりじりと進んだことが大きい。市民は実際に止められるという希望が持てなかった。稲嶺氏自身は公約を守り、民意を体現して阻止に動いてきた。日本が民主主義国家であるなら、工事は当然止まるはずだった。安倍政権は、既成事実を積み重ねて市民の正当な要求を葬った。民主主義の理想から最も遠い「あきらめ」というキーワードを市民の間に拡散させた。

 

 稲嶺氏の2期目が始まった2014年に辺野古の工事に着手。抗議行動を鎮圧するため本土から機動隊を導入し、16年の東村高江では自衛隊まで使った力を誇示する一方、辺野古周辺の久辺3区に極めて異例の直接補助金を投入した。今回の選挙直前には、渡具知武豊氏が当選すれば新基地容認を明言しなくても再編交付金を出すと言いだした。何でもありなら、財源を巡る政策論争は成り立たない。安倍政権は名護の選挙の構図自体を4年かけて変え、市民から選択の余地を奪った。大多数の国民がそれを黙認してきた。

 

 渡具知氏も「辺野古の『へ』の字も言わない」という戦略で、暮らしの向上と経済振興を語った。市民は反対しても工事が進むならせめて、と渡具知氏に希望を託した。基地問題からは、いったん降りることにした。それを責める資格が誰にあるだろう。民意を背負えば、小さな自治体でも強大な権力に対して異議申し立てができる。沖縄に辛うじて息づいていたこの国の民主主義と地方自治は、ついにへし折られた(1月5日付)

 

 

《追記―2》~安保・地位協定改正に国民運動を!

 

 久間章生・元防衛相、孫崎亨・元外交官、木村三浩・一水会代表が「安保・地位協定」改正で意見が一致したことが、AERAdot(2月7日付)で明らかになった。その部分を以下に転載する。

 

孫崎:やはり、日本も地位協定を変えていくために、国民運動を起こして政府を後押しする形で交渉していくべきだと思います。

久間:先ほども言ったように、旧安保から70年近くが経過して、このまま踏襲しておくのがいいのか、安保条約そのものがいるのかいらないのか、それを含めて議論しなければなりません。それで初めて地位協定の改定について検討することができるのです。

木村久間さんの地位協定を変えるためには、安保から変えないといけないとのご指摘はよくわかりました。対米自立を主張する政治家が、これから出てきたら米国も非常に困ることになるでしょう。

 

 


 

 

 

2018.02.04:masuko:コメント(0):[身辺報告]

シンガ-ソングライタ-と「原発」―そして、炭鉱、沖縄……

  • シンガ-ソングライタ-と「原発」―そして、炭鉱、沖縄……

 「『平時』の原発はこんなふうに動いていた!」というサブタイトルに目を奪われ、著者が30代の女性シンガ-ソングライタ-だと知って二度、びっくりした。原題はずばり『原発労働者』―。「ゼロから原発を考え直すために、ひとりの音楽家が全国の原発労働者を訪ね歩き、小さな声を聴きとった貴重な証言集」と帯にある。寺尾紗穂さん(36)がそのご当人である。2年前、当時34歳の時に本書を書くきっかけになったエピソ-ドを紹介している。2003年、友人に誘われ“ドヤ街”と呼ばれる、東京・山谷の夏祭りに参加した時のことである。彼女はこう書いている。

 

 「『君の大学の校舎を建てたよ』という坂本さんというおじさんと出会った。いい校舎だな、誰が設計したんだろう、そう思うことはあっても、誰が校舎を作ったんだろう、という問いはそれまでの自分には浮かぶことがなかった。まるで校舎は最初からそこにあったものであるかのように、そこで汗を流した人たちのことが完全に思考から抜け落ちていた」―。そのしなやかな想像力の躍動にまず、感動した。「きっかけはある日突然訪れた」と寺尾さんは続ける。「その日は突然思い出したのだ。そういえば、原発で働くと被曝する、って聞いたことがあったっけ。本当なんだろうか。本当だとして、どの程度深刻なものなのだろう、と。山谷、土方、日雇い、ドヤ街、そして原発。すでに無関心ではいられなくなっている自分がいた」

 

 「原発の日雇いで/放射能で被曝したおじさんが/虫けらみたいに弱るのを/都会の夜は黙殺する/私は知らない/人を救うすべを/私は知らない/なんにも知らない/私は知らない/きれいな未来を/あるのは泥のように/続いていく日々/泥の上に花を咲かすそのすべを/私は知らない/私は知りたい」―。寺尾さんは「私は知らない」というアルバムの中でこう歌っている。『闇に消される原発被曝者』(樋口健二著)に触発され、あっという間に書き上げた。東日本大震災に伴う福島第一原発の爆発事故の前年のことである。「3・11」をまたいだ”原発取材“は全国各地に及んだ。

 

 「炉心屋は真夜中にデ-タを書き換える」、「ボヤは消さずに見て見ぬふり!!」、「アラ-ム・メ-タ-をつけていたら仕事にならない」、「燃料プル-ルに潜る外国人労働者?」、「原発施行者が一番地震を恐れている」、「定期検査の短縮で増える点検漏れ」…。原発最前線の生々しい証言がつづられている。そのうえで、寺尾さんはこう書く。「チェルノブイリや福島のような大事故となった非常時の原発ではなく、『平時の』原発で働き、日常的な定期検査やトラブル処理をこなしている人々だ。彼らの視点に立つことで、社会にとっての原発、ではなく、労働現場としての原発、労働者にとっての原発、といった角度から、原発をとらえなおしたい」

 

 この文章を読みながら、私は40年以上も前の自分と彼女を重ね合わせていた。私事にわたるが、『三井地獄からはい上がれ』という自著がある。「三池炭鉱爆発とCO患者のたたかい」という副題がついている。出版は奇しくも寺尾さんと同じ34歳の時である。昭和38(1963)年11月9日、福岡県大牟田市にあった三井三池炭鉱が戦後最悪の炭じん爆発事故を引き起こし、458人が死亡し、839人が一酸化炭素(CO)中毒という不治の病を背負わされた。「安保の敗北」(1月29日付当ブログ「ある保守論客の自裁死」参照)からわずか数年後のことである。大学出たての記者風情を一瞬のうちに打ち砕いてしまうほどの圧倒的な力で、この大災害は襲いかかってきた。本書はその実態を追ったルポルタ-ジュの形式をとっている。

 

 「近くて遠い現場」―。有明海の海底にクモの巣のように張りめぐらされた海底炭鉱の坑道は総延長が300キロ以上に及んでいる。CO中毒患者の救済を訴えた女たちが会社の制止を振り切って、坑底座り込みを敢行したことがあった。私も女たちから衣類を借り、”女装”して取材することに成功した。458人の死の現場はそのずっと先にあるはずだった。しかし、漆黒の闇が延々と伸びる地底の世界はまるで「不可視の領域」のように目の前に立ちはだかっていた。私はその時の光景について、当時こう書き記している。「ふと、思った。その空間を支配するものにとっては、無法と悪意が保障された自由の空間―それが『不可視』の領域ではないのか」

 

 寺尾さんが追跡した「原発」も周辺から遮断されているという意味では、炭鉱と同じ不可視の領域である。だからこそ、その現場に身置いた労働者の証言こそが「平時の原発」の実態を映し出す鏡になるのである。本の後半分で寺尾さんは真っすぐな気持ちを正直に吐露している。「この本は終わりを迎える。けれど、この本で明らかにできたことは、原発労働の全体からいえば、ほんの一部である。人を踏んづけて生きてきた、という感覚は消えるどころか、世間があの震災から興味を失うにつれ、強まっていく。今この瞬間も、私は人を踏んづけて生きている。そして、私が踏んづけている人々は顔のない人でも、意志のない人でもない。笑い、怒り、耐え、幸せを望む、普通の人間だ」

 

 「不可視」の領域どころか、衆人環視の下に開放された場所がある。たとえば、新基地建設が強行される沖縄県名護市の「辺野古」沖に広がる大浦湾―。周囲の目をあざけ笑うように、ジュゴンが生息する海面に埋め立て用の土砂が投下されていく。陸上では抗議する人々が次々に排除され、悲鳴と怒号か飛び交う。目の前に展開するこうした光景から、あえて目を背けようとする人間集団がいる。ヤマトンチュ(本土人)の多くがそう見える。まるで、日光・東照宮の「三猿」の態様…そう、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三匹の猿たちを髣髴(ほうふつ)させる姿である。福島原発の悲劇を遠くに葬り去ったような…。

 

 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の「辺野古」移設の是非が最大の争点である名護市長選挙は4日後の2月4日、投開票が行われる。国の”代理戦争”と言われる激しい選挙戦も、ヤマトンチュにとってはまるで「どこか」の出来事風である。

 

 

(写真はライブコンサ-トでピアノの弾き語りをする寺尾さん。エッセイストとしても活躍。東京大学大学院総合文化研究科に学士入学し、『評伝川島芳子―男装のエトランゼ』で修士号を得た=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

2018.02.01:masuko:コメント(0):[身辺報告]

ある保守論客の自裁死

  • ある保守論客の自裁死

 “転向後”のその人の著作は何冊か斜め読みした程度で、もちろん面識はない。ただ、歯切れの良いアジ演説の響きだけは脳裏の底に残っている。「その人」とは1月21日、東京の多摩川に入水(じゅすい)し、自らの命を絶った保守派の評論家、西部邁(にしべすすむ)さんのことである。享年78歳。いまを去ること58年前、彼は「ブント」(共産主義者同盟)を率いる東大教養学部自治会委員長として、「安保反対」の最前列にいた。1歳下のノンポリ私大生だった私も、連日のように国会周辺のデモの隊列に身を投じていた。時の政権は岸信介内閣。日米安保条約の改定に反対する世論が日本列島を席巻(せっけん)していた。「60年安保」闘争―である。

 

 1960(昭和35)年6月19日、「改定安保条約」(新安保)は与党のみの強行採決を経て、自然成立した。翌20日に岸内閣は総辞職したが、この間、全学連の国会突入で東大生が死亡するなど反対のうねりは国民的な運動として盛り上がっていた。一方で、ブントが主導する全学連に対しては「過激派」のレッテルが張られるなど組織内部の対立も表面化。運動は潮が引くように下火になって行った。「安保の敗北」はあの現場に身を置いた若い感性にさまざま“後遺症”を残すことになった。私は勝手に「安保DNA」と名づけている。もちろん例外もあるが、当時の仲間たちと会うと「そういえば、安保世代で出世した奴は少ないよな」という話に落ち着いた。偽善や欺瞞、虚栄、独善、怯懦(きょうだ))…。DNAの正体はこうした振る舞いに対する無意識の嫌悪感だったのかもしれない。

 

 1980年代―。表舞台から身を引いたと思っていた西部さんが「大衆社会」批判を引っさげて再登場した。大衆への不信感が“転向”を促したのかもしれない。月刊言論誌『発言者』を発刊したり、討論番組「朝まで生テレビ」(テレビ朝日系)の常連パネリストとして熱弁をふるった。

 

 私は一瞬、目を疑った。目の前に現れたのは「革命」を叫ぶ過激派ではなく、「真正保守」を標榜する論客としての彼だったからである。日本の核武装や徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配強化…。その“豹変”ぶりに呆気(あっけ)にとられ、私はその人の存在を忘れることにした。新安保条約が実は「(沖縄の)3度目の捨て石」につながる「日米地位協定」とセットになっていることに、当時の私は気が付いていなかった。その時の悔恨(かいこん)がその後、沖縄に目を向けるきっかけになったような気がする。彼との分岐点はこの辺にあったのかもしれない。

 

 余りにも唐突な自死だと思った。しかし、西部さんは昨年暮れ、あるテレビ番組で「10月22日に死ぬことに決めていたんです。でも、この日はたまたま総選挙と重なったもんで…」と語っていた。愛弟子を自認する東京工業大学の中島岳志教授(近代思想史)はこう述懐する。「自分を保つことができない状態で、延命を目的とした時間を過ごすことを、思想的に是としなかった。自分の意志で行動できる間に、自ら死を選ぶという決意を語っていた」(1月26日発行『週刊金曜日』)―。最後に会ったのは1月5日。「自分の命は、a few weeks(数週間)」とその時、西部さんは告げたという。その通りになった。妻との死別や持病への悩みを抱えていたが、「思想的な死」とは一体、どんな死なのだろうか―。

 

 かつて、西部さんと評論家の佐高信さんとの対談を取り上げたテレビ番組があった。世間では「左右の激突」と呼ばれた。当然、右が西部さんで、左が佐高さんである。約3年間続き、その内容は『思想放談』(朝日新聞社)などの本にまとめられている。「学問のすすめ」というテレビ対談(CS放送「朝日ニュ-スタ-」)で、佐高さんがあるエピソ-ドを披露している。

 

 「最初の福沢諭吉からニ-チェ、夏目漱石など関心をもつ思想家が重なっているのに驚いた。番外的に取り上げた美空ひばりでは好きな歌まで同じである。それで一緒にカラオケに行ったりしたのだが…。まもなく、西部はしばしば『サタカ君を左翼にしておくのは惜しい』と私を冷やかし、私も『西部さんは保守にしておくのは惜しい』と笑って返すようになる。私がサヨクかどうかは別にしてもである。思想的には真反対だといわれている西部と私が嗜好的にはよく似ているのだなと思った。それ以上に嫌いな人間が同じということで、2人は“同盟”している。発言に体重がかかっていない、あるいはペラペラしゃべる口先だけの人間を侮蔑するという共通感覚をもっているのである。」―。2000年11月15日、2人は参議院の憲法調査会に参考人として呼ばれた。当然のごとく、西部さんは改憲賛成派で佐高さんは反対派だった。

 

 「自裁死」の1か月前の『アエラ』(12月18日号、朝日新聞社)は西部さんとウ-マンラッシュアワ-の芸人、村本大輔さん(1月2日付当ブログ『「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と“善意の人族”』参照)との対談を掲載している。互いに意気投合し、対談は3時間にも及んだという。その中で、西部さんは現在の日米関係について辛辣(しんらつ)にこう語っている。「米国もめちゃくちゃになっているから日本を守る気なんてない。それに北朝鮮のような侵略性むき出しの国が核武装すると世界の迷惑だからつぶせと言うけど、最も侵略的なのは米国に決まっている。僕は日本人だけど、その圧倒的大多数はアメリカンデモクラシ-の名の下にアメリカの属国民になっている」―。「安倍一強」の対米追従姿勢に対する痛烈な批判である。

 

 私はこの対談を読みながら、「60年安保」の光景を思い出していた。安倍晋三首相の祖父が当時の岸信介首相である。ひょっとしたら、「日米安保」粉砕を叫んだ”革命戦士“の心中奥深くには、この「血族」の悪夢が消えることのない刻印として生きていたのではないか。文芸評論家の浜崎洋介さんは追悼文に、酒場での西部さんの言葉を紹介している。「もしもね、君が言っていることが孤立して、全世界の人間が君一人を批判してもね、いいかい絶対に引くんじゃないぞ。逆に、精力の全てを尽くして自分を立てることに集中しなさい。それが物を書くということだよ」(1月25日付「岩手日報」)

 

 「こんな国捨てて彼岸に亡命す」(1月23日付)―。朝日新聞に載った川柳である。西部さんは私にとって、安保DNAで結ばれた“戦友”のひとりだったのかもしれない。合掌

 

 

(写真はありし日の西部さん=イン-タネット上に公開の写真から)

 

2018.01.29:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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