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「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と”善意の人族“

  • 「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と”善意の人族“

 「こりゃ、まずいな」と思った。元旦恒例の“朝生”(テレビ朝日系の討論番組「朝まで生テレビ」)に出演したお笑いコンビ「ウ-マンラッシュアワ-」の村本大輔さん(37)のことである。在日米軍に対する「思いやり予算」について、「アメリカより沖縄に思いやりを…」などと鋭い政治ギャグで人気が広がっているらしい。自ら「小学生以下」と卑下する”素人目線”が、沖縄に対する「無知・無関心」(知らんふり)を決め込む本土側の世論にどう切り込んでいくのか。そんな期待を抱きながら、テレビの前に陣取った。ところが、その真っすぐな思い入れとは真逆の結果に…。

 

 「(自衛隊が)違憲というのは、何が違憲なんですか」「沖縄は元々、中国から奪い取ったもの」「僕は非武装中立の立場。侵略されたら白旗を挙げて降伏する」…。直球一本勝負の村本さんの突っ込みに並みいる論客たちも一瞬、言葉を飲み込む場面も。でもだんだん、心配になってきた。沖縄の歴史に対する知識の希薄さ、憲法9条を読んだことがないと堂々と告白する、その無邪気さ…。沖縄における米軍基地反対運動について、村本さんはツイッタ-にこう書き込んでいる。「おれらが見るべきは、右と左ではなく、ただ大好きなこの場所をただ守りたいって言う彼らの思いに耳を傾けること。現場に行って、この人たちと酒飲んで話してこい。その中の簡単には判断できないグレ-の部分、感じ取ってこい。楽に判断するな。楽に生きるな」

 

 私はテレビを見ながら、20年以上も前のある光景を思い出していた。会場を埋め尽くした観客が米国の女性作家、マルロ・モ-ガンさん(当時60歳)の講演に身を乗り出すようにして聞き入っている。「彼ら『真実の人族』は自然と一体となる名人だ。宇宙のたまものを利用しながら、秩序を乱さずに去るのだ」―。彼女が出版した『ミュ-タント・メッセ-ジ-「真実の人族」の教え』(1991年)は全米で150万部を超えるベストセラ-になり、日本語版も重版を重ねていた。オ-ストラリアの先住民族「アボリジニ-」から文明人を意味する「ミュ-タント」(突然変異種)にメッセ-ジを伝える使命を授かったという内容だった。

 

 「私たちの魂を盗んだ者として、あなたを断罪する。部族と接触した事実さえない」―。民族衣装に身を包んだ2人のアボリジニ-が抗議の声を上げた。会場は一時、騒然となった。なぜ、テレビの画面が当時の記憶に重なったのか。その時の気持ちをこう記している。「私は会場に足を運んだ人たちを『善意の人族』と呼びたい誘惑にかられた。価値観喪失の時代といわれる世紀末。自分の『生き方』を模索したいという切実な思いが会場にあふれていた。がその一方で、先住民族が背負う苦難の歴史と現状を自らの問題として、問い直そうという声はあまり聞かれなかった。心地よい響きの『ミュ-タント・メッセ-ジ』にただうっとりと耳を傾けているとしか映らない光景に、私は『善意の人族』が陥りやすい落とし穴を見た思いがした」(1997年5月1日付朝日新聞「コラム 私の見方」)。出版元はこの抗議を受け、ジャンルを「フィクション」に変更して再刊した。

 

 村本さんの純粋な気持ちを否定するつもりはさらさらない。それどころか、政治の保守化が叫ばれるいま、こうした若々しい感性こそが求められていると思う。錚々(そうそう)たる論客を相手に孤軍奮闘する姿には感動すら覚えた。がその一方で、私は一方的な思い入れが時として、目の前の落とし穴に無防備になることの危うさを思い出したのだった。あの時の「善意の人族」のように…。

 

 パネリストの一人で東京大学教授の井上達夫(法哲学)さんは、村本さんの”素人目線”について、こう語った。「君の姿勢は評価できるが、それを他人に強制してはならない。素人目線の背後に他者を見下すような愚民性が潜んではいないか」。最近は「えせ右派」と言われるらしいが、右派の漫画家として知られる小林よしのりさんは立憲民主党に入党した山尾志桜里議員(民進党)の応援団長を公言している。その小林さんはツイッタ―でこうつぶやいた。「村本は中高生でもないし、若者でもない、無知なおっさんだ。無知は罪でもある。わし自身を振り返りつつ言うが、無知は常に恥じて勉強し続けなければならない」―。彼自身の体験に根差した述懐であろう。

 

 表現はきついが、私自身への自戒を含めて、この二人の”忠告“には謙虚に耳を傾けたいと思う。偶然だが、”朝生”が放映された2018年1月1日付朝日新聞で、哲学者の柄谷行人さんは美術家、横尾忠則さんとの対談で、こう語っていた。

 

 「僕はかつて、『必読書150』という本を編纂(へんさん)したことがあります。その中で、こういうことを言いました。『我々はいま教養主義を復活させようとしているのではない。現実に立ち向かうときに教養がいるのだ』と。カントもマルクスも読まないで何が考えられるのか、と言ったのです。確かに、読む必要のある本がある。しかし、皆が読まなくてもよい。それを必要とする人が読めばいい。それは昔もスマホ時代の現代でも同じことで、本を読む人は読む、読まない人は読みません。世代の問題でもない」(読書新春特別版「何のため、本を読むのか」)

 

 カントやマルクスとまでは言わない。村本さん、今年はあなたの同伴者のつもりで、一冊でも多くの沖縄関連の本を読みたいと思う。その本を携えての沖縄行もご一緒できれば、と…。「癒(いや)しを求めて沖縄にやってくる観光客は多いが、そういう人に限って基地に足を向けることはほとんどない」―。沖縄の知人の言葉が耳元に聞こえている。「終末時計が音を刻み、終末が近づいている」(柄谷×横尾対談)―という現代社会にとっては、「村本大輔」という個性こそが必要とされているのである。言論界にとっての「自明の理」(常識=既成概念=権威主義=虚構)に対し、変則パンチ…つまり言葉の真の意味での、”まっとうな”というか、”根源的"な「正論」を繰り出せるのは、村本さん、あなたしかいないと思うからだ。

 

 今年のNHK大河ドラマは“征韓論”の西郷隆盛の生涯を描いた「西郷(せご)どん」―。お返しに、北朝鮮から「テポドン」(ミサイル)が飛んでくるかも…。たとえば、村本さんならではの、こんな政治ギャグの健在ならんことを祈りつつ―。

 

 

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年も前途多難な一年となりそうな予感の中で…。雲上の霊峰・早池峰からは、神々しい光の粒が降り注いでいます。

 

 

写真は”朝生“に出演した村本さん。左は司会の田原総一朗さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.01.02:masuko:コメント(0):[身辺報告]

再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

  • 再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

 「記憶とは何か、そして忘却とは?」―。今年は一年中、こんなことを繰り返し考えてきたような気がする。第1の敗戦(第2次世界大戦)から第2の敗戦(東日本大震災)を経たいま、私たちは何を「記憶」し、何を「忘却」してしまったのだろうか。ポスト・トゥル-ス(脱真実)、オルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)、フェイクニュ-ス(ウソ情報)…。詐欺師の口上よろしく、記憶がねつ造・改ざんされたことはなかったか。「あったこと」が「なかったこと」にされ、「なかったこと」が「あったこと」にされるという歴史(記憶)への冒涜(ぼうとく)はなかったか―。この問いに一条の道筋を与えてくれたのが、イシグロ文学の世界だったように思う。

 

 「『まるで何事もなかったみたいね。どこもかしこも生き生きと活気があって。でも下に見えるあの辺はみんな』―とわたしは下の景色のほうを手で指した―『あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったのよ。それが今はどう』」―。今年、ノ-ベル文学賞を受賞した英国在住の作家、カズオ・イシグロさん(62)のデビュ-作『遠い山なみの光』(1982年)の中にこんな一節がある。イシグロさんは長崎市で生まれ、5歳の時に海洋学者だった父に連れられ、一家で英国に移住した。日本語は片言しか話せない。だから、作者の心象に宿る「日本の記憶」はまず英語で書かれ、これが翻訳者によって日本語に訳されるという手順をたどっている。イシグロさんはこの作品について、こう語っている。

 

 「私にとっての日本は子ども時代の記憶による想像の国だった。だから、心の中の美しい思い出を、日本に来ることで壊されて自分自身が“ホ-ムレス”になってしまうことを恐れていたのかもしれない」(1989年の来日時会見)―。面白い表白である。ホ-ムレス…つまりディアスポラ(故郷喪失者)に転落する寸前にすくい取られた記憶の源流とでも言おうか―イシグロ作品が「記憶文学」と言われるゆえんでもある。

 

 英国で最も権威のあるブッカ-賞を受賞した『日の名残り』(1989年)は執事の目を通して見た大英帝国の記憶の物語である。栄光に包まれた貴族社会の没落を描くためには、微に入り細をうがった「記憶の再現」が必要だったのであろう。執事が仕える貴族が一時期、ヒトラ-と宥和(ゆうわ)関係にあることを知ってしまう。外部にもれれば、国際問題に発展するのは目に見えている。執事はその門外不出の秘密をそっと、記憶の引き出しの奥にしまい込む。執事として生きる、それが誇り高き矜持(きょうじ)であり、最低限の「品格」だったのである。貴族の元を去る時がやがて訪れる。ひとすじの涙が頬を伝う描写が出てくる。執事の人間としての”素顔”が垣間見えた瞬間である。それにしても、映画化もされたこの作品の作者が日本人であることに今更ながら驚かされてしまう。

 

 「私はしばしば、忘れることと覚えていることのはざまで葛藤する個人を書いてきた」とイシグロさんは受賞記念講演で述べている。最新作『忘れられた巨人』(2017年)の原題は「The Buried Giant」…つまり「葬られた巨人」という意味である。国家や共同体の記憶はどうあるべきかという問い返しでもある。生物学者の福岡伸一さんはこんな読み解きをしている。「彼は新しい角度から『記憶』の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。…埋もれているのは社会的な記憶だ。私たちはそれを掘り返すべきなのか。掘り起こした巨人をどのように背負うべきなのか。忘れたいけれど、忘れてはならない記憶」(2017年10月15日付「朝日新聞」)

 

 イシグロさんは日本の戦争責任について、あるインタビュ-で口ごもりながらこう語っていた。「ある国が平和と安定のため、無理やりに過去を忘れなければならない場合があるかもしれない。たとえば、ナチスドイツのように。しかし、この国(日本)は余りにも多くのことを忘れてしまったのではないか。被害者に対する贖罪(しょくざい)といったようなことを含めた総量としても圧倒的な忘却。ある意味、これは『不正義』と同義ではないか」

 

 唐突に「君の名は」という言葉が脳裏によみがえった。大ヒットした、あの長編アニメ(新海誠監督)ではない。1952年から2年間、NHKラジオで放送された、菊田一夫脚本のラジオドラマである。映画やテレビドラマ、舞台などで上演された空前のメロドラマだった。主人公の「真知子」が首に巻くマフラ-が人気になり、そのファッションがブ-ムになった。放送時間には銭湯の女湯が空っぽになった。「忘却とは忘れ去ることなり」というセリフと同時にこのドラマは幕を開ける。この名セリフを私はいまも覚えている。セリフには続きがある。「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」―。真知子と春樹は互いに愛し合いながら、すれ違ってなかなか会えない。忘れてしまったらどんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない…。

 

 「記憶」と「忘却」とは―。言ってしまえば、真知子と春樹のような関係ではないのか、とふと思ってしまう。記憶を完全に忘却の彼方に葬り去ってしまうことに対する、ある種の逡巡(しゅんじゅん)…。「記憶は忘却に抗(あらが)い、忘却は記憶を誘(いざな)う」―。その歩みがたとえ牛のごとくであったとしても、その間を行きつ戻りつする「往還」こそが、人間としての最低限の良心とか正義なのかもしれない。いや、国家(共同体)にとっても…。

 

 今年のノ-ベル平和賞には国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペ-ン」(ICAN=アイキャン)が選ばれた。広島で被爆したカナダ在住のサ-ロ-節子さん(85)が受賞の喜びをこう語った。「私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう」。イシグロさんは「ICAN」の受賞に最大限の賛辞を表し、こう述べた。「分断が危険なまでに深まる時代において、私たちは耳を澄まさなければならない。まるで埋葬された怪物が目を覚ましつつあるように、文明化された通りの下でうごめいている」(12月9日付「朝日新聞」)―。

 

 原爆に対して「加害」と「被害」という二重の記憶を抱え持つ二人にとって、「The Buried Giant」とはまさに「核の脅威」そのものに違いない。分断された世界の中で、「核」という名の「忘れられた巨人」がいままさに長い眠りからむっくりと起き上がり、悪魔の一歩を踏み出そうとしているのではないか。チャップリンがそうであったように、「核」問題とはすぐれて文学上の命題である。私たちはいま、政治の想像力がそれについていけないというジレンマの世界に生きているのかもしれない。まるで「忘却」が「記憶」を駆逐してしまったかのように…。その喜劇王はクリスマスの今日12月25日が没後40年―。

 

 

 

(写真はノ-ベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさん=インタ-ネット上の公開の写真から)

 

 

《追記-1》

 年末年始のしばらくの間、当ブログを休ませていただきます。良いお年をお迎えください。なお、「記憶と忘却と…」の初出は11月1日付の当ブログを参照。また関連として、12月12日付ブログ「チャップリンと核」、同月18日付ブログ「3・11-その時 そして…山根さん夫妻」並びに同20日付ブログ「『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…」を合わせて読んでいただければ、このテーマにかかわる私の関心の所在がご理解いただけるのではないかと思います。

 

《追記ー2》

 11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」で言及した、物理学者で宮沢賢治研究者の斎藤文一さんが今年10月20日に病気で亡くなっていたことが分かった。享年92歳。北上市出身で、新潟大学名誉教授。宮沢賢治イーハトーブ館の初代館長。長女は文芸評論家の斎藤美奈子さん。

 

《追記ー3》

 長崎で被爆、「赤い背中の少年」の写真で知られた谷口稜曄(すみてる)さんが8月3日に死去。享年88歳。「私はモルモットではない。忘却が原爆肯定へと流れることを恐れる」と訴え、核廃絶運動の象徴的存在だった(12月26日付「岩手日報」追想メモリアル)

 

《追記ー4》~沖縄の記憶から

 2017年の沖縄は基地被害で明け、基地被害で暮れたと多くの県民は思っているはずだ。それほど訓練、飛行の強行、事件、事故が繰り返し起きた1年だった。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設は4月、政府が護岸工事に着手した。12月にはN5護岸が長さ273メートルに達し、ほぼ完成した。新たにK4護岸建設の砕石投下も始まった。

 現場の環境破壊が著しい。7月に絶滅の恐れのある希少サンゴ14群体が見つかったが、沖縄防衛局の県への報告では13群体が死滅した。琉球新報社が9月に実施した世論調査では80・2%が県内移設に反対だった。「辺野古ノー」の圧倒的多数の民意を踏みにじり、環境を破壊しながら建設を強行することなど許されるはずがない。訓練強行も目に余るものがあった。嘉手納基地と津堅島訓練場水域では、米軍のパラシュート降下訓練が地元の反対を押し切って繰り返された。この訓練は以前、読谷補助飛行場で実施されていた。1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、伊江島に移転することで合意したはずだ。しかし米軍は勝手に訓練場所を拡大している。やりたい放題ではないか。

 昨年12月に名護市安部沿岸に墜落した普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイは、今年も事故や緊急着陸などを繰り返した。8月には普天間所属機がオーストラリア沖で墜落し乗員3人が死亡した。緊急着陸は6月に伊江島補助飛行場と奄美空港、8月に大分空港と相次いだ。欠陥機としか言いようがない。しかしオスプレイはすぐに飛行を再開し、現在も沖縄上空を飛び続けている。危険なのはオスプレイだけではない。普天間所属のCH53E大型ヘリの事故も相次いだ。10月、東村高江の牧草地に不時着し、炎上大破した。米軍は一方的に事故機を解体し、周辺の土壌と共に現場から持ち去った。航空危険行為等処罰違反容疑の捜査対象の当事者が公衆の面前で堂々と証拠隠滅を図った。これで法治国家といえるのか。

 CH53は12月に入って、上空から次々と部品を落下させた。宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根にプラスチック製の筒が落ち、普天間第二小学校の運動場に窓を落下させた。いずれも近くに園児と児童がいた。大切な子どもたちの命が重大な危険にさらされた。ところが政府は事故を引き合いに、辺野古移設の加速化を繰り返し主張している。萩生田光一幹事長代行は「だからこそ早く移設しなければいけないという問題も一つあると思う」と明言した。言語道断だ。危険除去を主張するなら、普天間飛行場の即時閉鎖しかない。辺野古移設を正当化するため、住民を危険にさらした事故を利用するのはもってのほかだ。住民保護を放棄した政府に「国難突破」を言う資格などない(2017年12月31日付「琉球新報」社説から

 
 

 

 

 

 

2017.12.24:masuko:コメント(0):[議会報告]

『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…

  • 『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…

 今年は「盧溝橋」事件(1937=昭和12年7月)から、ちょうど80年―。児童文学者であり、雑誌『世界』の初代編集長を務めた吉野源三郎(1899-1981年)が『君たちはどう生きるか』を脱稿したのは、事件が勃発するわずか2カ月前のことである。日中戦争の泥沼に足を踏み入れようとしていたその時、その時世に遅れまいとでもいうように「日本少国民文庫」の最後の配本として、世に問われた。今年になって、漫画家、羽賀翔一さんの手で、『漫画 君たちはどう生きるか』のタイトルで出版された。活字版と漫画版を合わせて、100万部をこえるヒット。それにしてもなぜ今、「80年前の生き方」なのか―。

 

 旧制中学2年(15歳)の主人公の「コペル君」は学業優秀でスポ-ツも万能。ちょっと茶目っ気が過ぎるために級長にこそなれないが、人望はある。友人たちとの交流の中でさまざまな出来事を経験し、「ものの見方」や社会の構造といったテ-マを身に着けていくという流れになっている。著者の吉野自身、1931(昭和6)年に治安維持法違反容疑で逮捕され、この時の体験が執筆のきっかけになった。おじさんとの文通や対話を通じた”成長物語“で、たとえば「おじさんのノ-ト」にこんな一節がある。これがコペル君の名前の由来でもある。

 

 「コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることになるのだ。…しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。…しかし、宇宙の大きな審理を知るためには、その考えを捨てなければならない。それと同じようことが、世のことについてもあるのだ」

 

 「1937」という歴史の分水嶺―。作家の辺見庸さんは中国戦線に赴いた父親の記憶をなぞるような手法で『1★9★3★7』を世に問うた。12月16日、NHKEテレ「こころの時間(再放映)~『父を問う』 今と未来を生きる思索」の中で、この年代を「征(い)くみな」と読ませながら、こう語っている。「無限同心円の思考。あの時代から何も変わっていないのではないか。分列行進の時に奏でられた『抜刀隊』は80年たった今も自衛隊の観閲式で流れている。何か剣呑(けんのん)な予感というか…。だからこそ、リアルの現場から、低い視線で世界をとらえ直さなければならない」―。

 

 特定秘密保護法や集団的自衛権の行使を容認した安全保障法制、武器輸出を可能とする防衛装備移転3原則、改正組織的犯罪処罰法(共謀罪法)、そして憲法改正へ…。さらに、北朝鮮や中国脅威論が勢いを増す中で、「いつか来た道」を予感する世代が『君たちは…』を手に取っているのか、あるいは「戦争を知らない」世代が本能的にあるきな臭さを感じ取っているということなのか…。

 

  吉野本と辺見本に刺激されたせいか、私はもうひとつの”青春“を思い出し、頬を赤らめてしまった。手元に茶色に変色した一冊の文庫本がある。フランスの作家、アンドレ・ジイドの『狭き門』(淀野隆三訳)である。この作品などで、1947年にノ-ベル文学賞を受賞している。裏表紙に「1958年1月28日、誠山房書店にて」とあり、どういうわけか「千円で買い求める」と書いてある。当時の定価は70円。辺見さんと同じように私の父親も中国へ召集され、シベリアの捕虜収容所で死亡した。男の兄弟3人を育てる母子家庭にとっては大金だったに違いない。しかし、いろんな本を所望するのを見かねて工面してくれたのだろう。高校3年のそのころ、私は2級下の女子生徒に恋をしていた。評判の美しい人だった。手あかにまみれた本文中に何か所も傍線が引いてある。たとえば―。

 

 「僕にはしばしば、僕の恋だけが僕の持っている一番立派なものであり、僕のあらゆる徳はひとえにそこに懸(かか)っており、恋こそ僕を僕以上に引き上げるもの、もし恋を失ったら、きわめて平凡な資質の到達する世間並みの高さにまで再び転落するだろうと、そんなふうに思えるのだ。君と一緒になれるという希望があればこそ、あの登りにくい小径も常に坦々たる路に見えるのだ」―。この文章をほどんどそのままコピペしてラブレ-を送った。学校の靴置き場の彼女の靴の中にそっと忍ばせて…。返事は来なかった。予感した通りだった。

 

 『狭き門』の表表紙には「力つくして、狭き門より入れ」(ルカ伝第13章第24節)という聖書の一節が置かれている。「衆に迎合するなかれ」という教えである。それにしても、あの時の”高根の花“のように、よくぞこの年まで「狭き門」をこじ開けようと突っ張ってきたものだ、と我ながらつくづく思う。記者時代も市議になった今も…。「滅(めつ)にいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者おほし」というルカ伝のもうひとつの説諭に恐れをなしたためかもしれない。

 

 「君たちはどう生きるか」―という忘れかけていたメッセ-ジが思いもかけず、切なくもまっすぐに生きた青春を思い出させてくれた。そして、この本の大ヒットが歴史の忘却を戒めてくれたことに感謝したい気持ちである。惜しむらくは、懐かしいあの老舗書店の建物が3・11の被災者用住宅に生まれ変わるため、間もなく解体されることである。あの大震災の受難者を救済するための、これも時代の流れで致し方のないことである。しかし、ラブレタ-を書かせてくれたジイドの名作を私は終生、忘れることはあるまいと思う。

 

 『君たちはどう生きるか』『1★9★3★7』、そして『狭き門』に共通するのは「記憶とは何か」ということに対する絶えざる問い返しのはずである。

 

(写真はわが青春の”3点セット“。『狭き門』のあちこちにはテッシュ(とは、当時は言わなかった)ならぬチリ紙が付せん代わりに挟んである)

 

 

 

2017.12.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]

3・11-その時 そして…山根さん夫妻

  • 3・11-その時 そして…山根さん夫妻

 朝日新聞「岩手版」に東日本大震災の被災者聞き書きが連載されている。もう6年以上続いており、今月13日付からは「山根恒夫さん、豊子さん」シリ-ズ(8回)。その5回目(通算2377回目)に私が登場している。筆者は盛岡総局のシニアスタッフライタ-の木瀬公二記者。「命の恩人だと言ってましたよ」と木瀬記者から伝言があった。当時としては当たり前のこと。でも、うれしかった。あの大震災から間もなく7年になろうとしている。記憶の風化が加速する今、木瀬記者の文章と当時の私のブログを以下に再掲し、少しでも記憶を呼び戻したいと思う。

 

 

 山根恒夫さん、豊子さん夫妻が大沢温泉に着いて2週間ほどしたとき、花巻市議の増子義久さん(77)が顔を出した。震災直後から大槌町の支援に来てくれているNPOメンバ-で、避難者が連絡してくれた。増子市議は恒夫さんと同じ3月11日生まれだった。何となく親近感を感じた。被災者の一方は公費で宿泊代が支払われ、一方は自費という状況は被災者差別につながりかねない。増子市議はそう言って市や県に掛け合ってくれた。宿の人も「2人だけからお金を取るのはね」と応援してくれた。まもなく県は、山根さん夫妻の公費での避難を認めてくれた。半月清算で支払おうと用意していた宿泊代は免除され、その日までの、特別に頼んだ食費だけですんだ。

 

 しばらくすると町から仮設住宅を紹介された。8月2日、そこに入居した。そこにも増子市議はよく顔を出してくれた。花巻温泉から仮設に移ったほかの住民と同じく、石油スト-ブやラジオ、衣類などを持ってきてくれた。「心が泣いているときに、顔を見に来たよと寄ってくれるだけで安心した。力になった。10万円もらった気になった」と今でも夫妻はありがたがっている(12月17日)

 

 

【2011年7月2日付ブログから】

 

 神様のいたずらなんだろうか、あの日はちょうどオレの76歳の誕生日だったんだよ。年金を預けている銀行が誕生祝をくれるっていうんで、自転車をこいで貰いに行った。中身は皿のようだった。割れたらいかんと思って、荷台のかごにタオルを敷いて、その上に置いて…。そうして、家に戻ろうと北小(大槌北小学校)の前まで来た時、自転車ごと突き飛ばされてしまった。とにかく立ってはいられないようなすごい揺れだった。かあちゃんが表に出ていたので、「津波が来る。早く車に乗れ」と怒鳴った。そうしたら母ちゃんは親しくしている近所のおばあさんの様子を見て来るって。「その人は一人暮らしだったの。家に入ったら、何と地震で倒れた仏壇の掃除をしているじゃないの。そんな場合じゃないと外に連れ出した」(と豊子さん)。4人を車に乗せて高台へ逃げ、さらに車を捨てて上へ上へと走った。かかとまで水が追いかけてきた。まさに間一髪だった。家も何も、あの誕生祝もな~にもなくなってしまった。

 それからがまた大変だったんだよ。まるで流浪の民みたいなもんだ。避難所には3日間いただけ。難を逃れた親戚に重度の自閉症の子がいた。一緒に生活していた妹がお産で入院したので、その間、その子の世話をすることになった。無事、出産して戻ってきたので、また避難所に入ろうとしたら、もう一杯だと。仕方がないから埼玉にいる長女のアパ-トに転がり込んで、ここに約40日間。これ以上、迷惑をかけるわけがいかないと思って、以前、湯治に来たことがあるこの温泉の世話になることに。6月24日のことだ。一難去ってまた一難だ。ここには沿岸被災者が公費負担で避難しているが、あんたの場合は申し込みの期限が切れているからダメだと。そこにひょっこり現れたのがあんただったというわけだ。おかげで急きょ、公費負担でOKということになった。(この件については私も市側に再考を促したが、市の沿岸被災市町村支援本部の現場職員も公費負担を認めるよう県に働きかけていたことを付け加えておく)。

 それにしてもどういう巡り合わせなんだろうな、あんたもあの震災の日が誕生日だっていうじゃない。出会いがまるで前世から約束されていたみたいで…。孫がなぁ、「じいちゃんの誕生祝は津波だって。それを生き抜いたんだから、300歳まで生きるよ」だって。確かに漁師一筋の人生で2度も死に損なった。3度目の正直もこうやって、どっこい生きている。今回の大震災は未曽有の犠牲者を生み出した。でも、人と人とのつながりという広がりも作ってくれた。あんたもその一人だ。新しい親戚が出来たっていうわけだ。大槌の海のほっぺたが落ちるような新鮮な魚を食わせてやるからな。(傍らで豊子さんがポツリと言った。「いっそのこと、津波に流されてしまった方が良かったと考えたこともあった。でも、今こうやって生きていて、人の情けの有難さを身に染みて感じている)

 

 

(写真は温泉でくつろぐ山根さん夫妻=花巻市の大沢温泉自炊部で)
 

2017.12.18:masuko:コメント(0):[身辺報告]

”ドウリズム”としての「米軍基地」問題(続報)―工事はイケイケ

  • ”ドウリズム”としての「米軍基地」問題(続報)―工事はイケイケ

 

 「自作自演だ」「そんなところにあるのが悪い」(12月16日付「朝日新聞」)―。今回のヘリ窓の落下事故に先立ち、部品が近くの保育園の屋根で見つかった件につき、ヘイトスピ-チまがいの中傷が殺到している。作家の百田尚樹さんは1年半前、こう語った。「(米軍普天間飛行場は)もともと田んぼの中にあった。基地の周りに行けば商売になるということで人が住みだした」。この事実無根が白日の下に晒(さら)されたにも関わらず、沖縄バッシングは止まるところを知らない。「シランフ-ナ」(知らんふり)を決め込む、これはヤマトによる「沖縄差別」そのものではないか(以下、朝日記事から)

 

 

 沖縄で繰り返される米軍関係の事件事故。その被害の実態は県外には伝わらないのか。米軍ヘリの部品が屋根で見つかった宜野湾市の保育園には中傷する内容のメ-ルや電話が殺到し、関係者は心を痛める。オスプレイの大破事故が昨年起きた名護市では、相次ぐ米軍事故に抗議集会が開かれた。米軍普天間飛行場から約300メ-トルの場所にある緑ケ丘保育園には連日、なじるようなメ-ルや電話が舞い込んでくる。「自分たちでやったんだろう」「教育者として恥ずかしくないのか」……。

 

 7日午前、大きな音が響き、屋根の上で見慣れない物体が見つかった。米軍は翌日、大型ヘリCH53Eの部品だと認めた。一方で米軍は「飛行する機体から落下した可能性は低い」とした。メ-ルや電話はそれから相次ぐようになった。多くは「自作自演だ」など園側を疑い、中傷していた。ウェブにも同様の臆測が流れた。嫌がらせのメ-ルをはじく設定にしたが、それでも1日4~5通のメ-ルが毎日届き、電話もしばしばかかってきて相手は名乗らない。部品が見つかった屋根にはへこんだ痕跡があり、宜野湾署も確認している。職員や園児が「ド-ン」という衝撃音も聞いている。神谷武宏園長は「じゃあ、部品はどこから来たんですか。私たちじゃなく、米軍の管理の問題でしょう。

 

 「そんなところに保育園があるのが悪い」。そんな電話もある。園長はこう反論している。「基地より先に、住民がいた。園だって生活に必要だから、先人たちが建てたんです」。1945年の沖縄戦のさなか、米軍は旧宜野湾村の中心部を接収して滑走路を造った。住民は周囲に居住地を指定され、基地を取り囲むように市街地ができた。沖縄が米軍施政下だった64年、キリスト教の教会がこの地区に初めて造った保育園が緑ケ丘保育園だ。園の保護者たちは、園上空の米軍機の飛行禁止を求める嘆願書をつくり、全国に署名を呼びかけている。園長は「メ-ルの内容を見ると、何も知らない内地(本土)の人だろうなと思う。保護者や職員が落ち込みそうになっているが、嘆願に賛成してくれる声が大きくなって、そんな気持ちを吹き飛ばしてほしい。

 

(写真は部品落下に状況について、説明する緑ヶ丘保育園の神谷武宏園長、左メガネの人=12月7日、宜野湾市内で。インタ-ネットに公開の写真から)

 

 

★沖縄に傘で防げぬ物が落ち(16日付日報・時事川柳)

★怒りの声窓外しても届かない(同)

★官邸を基地の真横に移すべし(15日付・朝日川柳)

★人柱立たねば日米腰上げず(16日付・同)

 

《追記-1》

 

●【東京】翁長雄志知事と宜野湾市の佐喜真淳市長は15日、首相官邸で菅義偉官房長官と会談し、宜野湾市の普天間第二小学校に米軍CH53E大型ヘリの窓が落下したことに抗議し、米軍普天間飛行場の全所属機の飛行中止などを要請した。翁長知事は、普天間の米軍機を県外・国外へ長期間ロ-テ-ション配備することで負担軽減策を図るよう、米側に働き掛けることなどを政府に求めた。佐喜真市長は普天間の早期返還を訴えた。

 

 翁長知事らによると、米軍機が学校上空を飛行しないよう要請したのに対し、菅氏は米軍の飛行回避を徹底するよう米側に働き掛ける考えを示したという。県が新たに要求した普天間所属機の県外・国外へのロ-テ-ション配備は、米軍が嘉手納基地にF35A戦闘機を整備員と共に6カ月などの一定期間配備した計画を逆手に取ったもの(12月16日付「琉球新報」)

 

●普天間飛行場所属オスプレイの沖縄県名護市安部の海岸での墜落事故から1年を機に、同市辺野古の新基地建設に反対する「オ-ル沖縄会議」は15日、抗議集会を名護市21世紀の森屋内運動場で開いた。今月13日に普天間所属CH53Eヘリが宜野湾市立普天間第二小に窓を落下させるなど、相次ぐ米軍機事故に抗議しようと3千人(主催者発表)が結集。オスプレイ撤去、在沖海兵隊の撤退、県内移設によらない普天間の閉鎖・撤去などを口々に叫んだ。

 

 集会決議では、昨年12月13日のオスプレイ墜落以降も普天間所属オスプレイが今年8月にオ-ストラリアで墜落し、新石垣空港など民間空港にたびたび緊急着陸したことを踏まえ「構造的な問題を抱えた欠陥機」と断じた。また、普天間のCH53Eが今年10月に東村高江の民間地で炎上し、宜野湾市内では米軍機の部品が保育園に落下したとみられるほか、普二小への窓落下で児童が負傷する現状に「世界一危険な普天間を放置し続けてきた当事者は日米両政府。沖縄のどこにも普天間を移設する場所は存在しない」として、海兵隊撤退に加え、オスプレイの撤去、普天間所属の全機飛行停止などを要求した。

 

 登壇した稲嶺進名護市長は「あってはならない事故を止めるには普天間を閉鎖し、県外国外に持って行ってもらう。そして辺野古は造らせない」と決意を表明。事故の抗議で上京していた翁長雄志知事は「重大な事故が繰り返し発生し、県民の怒りは限界に達しつつある。オスプレイ配備撤回、普天間の県内移設断念の『建白書』の実現に不退転の決意で臨む」とのメッセ-ジを寄せた。「オ-ル沖縄会議」は週明けにも県内の日米両政府の関係機関に直接、決議を提出する予定(12月16日「沖縄タイムス」)

 

●防衛省は15日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設工事を巡り、日米両政府が護岸一か所などの造成工事の実施で新たに合意した発表した。両政府の協議機関である日米合同委員会が14日に話し合った。防衛省は実施時期について「まだ決まっていない」としている。辺野古移設の是非が争点になる来年2月の名護市長選を前にした合意で、移設を着実に進める姿勢を示す狙いがありそうだ…。(12月16日付「岩手日報」共同配信)

 

●政府は15日の閣議で、断層が近くに存在すると指摘されている米軍辺野古弾薬庫(名護市)に関し、「安全性については、問題ないと認識している」とする答弁書を決定した。沖縄県の「辺野古断層」と「楚久断層」は「位置が必ずしも正確には特定できるものではない」として、弾薬庫との位置関係を示すことは困難だとした。共産党の赤嶺政賢衆院議員の質問主意書に答えた。弾薬庫は、米軍普天間飛行場の移籍先である名護市辺野古のキャンプ・シュアブ北側に隣接している(同上)

 

●立憲民主党と希望、共産、日本維新の会、社民、「無所属の会」の野党6党派は15日、沖縄県宜野湾市の小学校に米軍ヘリコプタ-の窓が落下した事故を受け、与党に衆院安全保障委員会の閉会中審査を早期に開催するよう要求した…。(同上)

 

《追記―2》

 

●「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」―。沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊さん(57)が掌編小説『希望』の中に記した文章が衝迫的にせりあがってきた。1995年、米兵3人による少女暴行事件が起きた直後の気持ちである。沖縄の深奥(しんおう)を語るにはもはや、この種のメタファ-(暗喩=あんゆ)に頼るしかないということなのだろうか。

 

 

2017.12.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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