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Atomic-Bear(アトミック・ベア)

  • Atomic-Bear(アトミック・ベア)

 足元が揺れたと思ったら、耳をつんざくような轟音が頭上に広がった。悲鳴を上げ、誰かがしがみついている。ふり向くと、それはわが妻である―。かつて、小川原湖の自然や核燃施設などのドキュメンタリ-映画を手がけた友人の映画監督と数年ぶりに隣県の青森県に出かけた。高速道路を利用すると、わずか2時間半ほどの距離である。タッチアンドゴ-(離着陸同時訓練)を繰り返すジェット戦闘機…。たとえば、沖縄の嘉手納飛行場や普天間飛行場では当たり前のような、既視(聴)感のある光景や爆音だが、ここは本州北端の基地の町である。怯(おび)えたような妻の表情は遥か南の島では日常そのものである。この気の遠くなるような懸隔(けんかく)―。

 中核市の三沢市の四分の一(約25%)を占めるのは在日米軍(主力は空軍)「三沢基地」である。ちなみに、「辺野古」新基地建設やオスプレイ離着陸帯などの建設に翻弄(ほんろう)される沖縄県の約70%に比べ、ここは全国で第2位、本州最大の規模である。戦前、旧日本軍の空の拠点として整備され、戦後にアメリカ軍に接収された。米ソの冷戦構造をへて現在に至っており、航空自衛隊と民間航空が利用する共用施設でもある。生物多様性の宝庫ともいわれる小河原湖の白波の遥か向こうにゴルフボ-ルみたいな造形物が見えた。かつて、“象のオリ”と呼ばれた通信傍受用の巨大アンテナ群に代わって、登場したレ-ダ-サイトである。

 「本来、あるべきものが、ここにはない」―。南に向けられた目に焼き付いた、たとえば、基地反対を訴える抗議の姿がここにはない。そのことに虚を突かれた思いがした。日常と非日常の逆転劇…。案内役を買ってくれた元教員で郷土史家の川村正さん(70)が低い声でつぶやいた。「慣れって、本当に恐ろしいですね。かつては見たこともなかった光景がいつの間にか目になじんでくるというか…」。基地からほど近い場所に川村さんが手塩にかけた「歴史民俗資料館」があった。北日本最古の土偶、縄文晩期の彩色土器、そしてアイヌの影響が見られる擦文(さつもん)土器…。約2万年前から続く歴史の息遣いが伝わってきた。「基地の下は縄文だらけ。まさに原始から原子まで…。さぁ、行きましょうか」と川村さんは私たちを促した。

 北上して小一時間、突然、目の前に異様な光景が現れた。ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センタ-、再処理工場…。日本原燃(KK)が六ヶ所村に立地した”核燃”施設である。私が異様に感じたのはこれらの施設というよりも、それをぐるりと取り囲む風力発電の余りにも不釣り合いな風景だった。「アトムから自然エネルギ-へ!?」。この地方特有の風―「やませ」を利用してクルクル回る巨大風車をぼんやりと眺めていると、川村さんが一瞬、耳を疑うようなことを口にした。「実は原燃のこの敷地内には三匹のくまが住みついているんです。ある時は非常階段をよじ登って、屋上に現われたり…」―。

 しばらく、キョトンとしていた私は次の瞬間、ある小説を思い出した。作家の川上弘美さんの『神様/2011』(2011年9月)である。前作『神様』(1993年)を下敷きにしたリメイク作品だが、東日本大震災と福島第一原発事故(3・11)以来のさまざまな出来事が二つの作品に決定的な亀裂を生じさせている。両作品とも「くまにさそわれて散歩に出る」という書き出しで始まる。そのくまは最近、三つ隣の305号室に引っ越してきたばかり。散歩というよりはハイキングの方がぴったりする。行き先は歩いて20分ほどの川原。そこでは多くの人たちが泳いだり、釣りを楽しんだりしている。

 くまは突然、川に入り込み、魚を手づかみする。「今日の記念に」と言って、用意してきた粗塩を振りかけ、手際よく干物に仕上げる。2人は一緒に昼食を取り、少し昼寝をする。散歩を終えた別れ際、くまは遠慮がちに言う。「抱擁を交わしていただけますか。親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです」。互いに抱擁し、2人はそれぞれの部屋に引き返す。くまとの隔たりのなさといい、のんびりとした川原の光景といい…心象に記憶されてきた懐かしいたたずまいが眼前に広がっていく。

 ところが、後作ではその光景が一変する。道中、防護服と防塵マスクで身を固めた作業員が目立ち、家族連れが多かった川原に子どもの姿はない。「くまは、ストロンチウムにも、プルトニウムにも強いんだってな」と防護服がつぶやく。袋の中からガイガ-カウンタ-を取り出したくまが、お互いの放射線量を計測する。いつものように抱擁の儀式を終えた「わたし」は寝る前に総被爆線量を計算するのを忘れない。作者はあとがきこう書いている。「原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどもその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました」

 何とも名状しがたい複雑な気持ちを抱きながら、私たちは原子力村(六ヶ所村)を後にし、下北半島を目指した。向かう先の標識には「恐山」と書かれていた。死者の霊が集まる霊山である。この半島にも東通原発の建設が予定されている。とその時、原燃職員が三匹のくまたちの被ばく線量を測定している場面が目の前に去来した。いや、そんな錯覚にとらわれたのである。錯誤であることを私は祈った。遠いオキナワではなく、その光景は背中合わせの場所にいまもあり続けている。爆音を引きずりながら、さっきのジェット戦闘機は太平洋のかなたに機影を消した。


(写真は核燃施設の周辺には風力発電が林立。風車が強い風を受けて回っていた=8月25日、青森県六ヶ所村で)

2017.08.27:masuko:コメント(1):[身辺報告]

オキナワって、どんなトコ?

  • オキナワって、どんなトコ?

 「ちゅらさん」~16年前のNHK朝ドラを覚えていますか?きれいな海に美味しい食べ物、陽気でやさしく、家族思いの人たち…。じっさい沖縄に行くと「ホントだ!」って感じること間違いなしです。でも、チョット注意しながら歩くと「アレッ!」と感じるのもホントです。広々と広がる米軍基地の周りにギュウギュウ建ち並ぶ民家…。美しい森や住宅街の上を夜昼かまわず爆音を響かせて飛ぶ軍用機…。どうしてかなぁ~~チョット一緒に考えてみませんか―。そのチラシにこう書かれていた。肩ひじ張らない文面が気に入った。さっそく、参加を申し込んだ。

 表題のイベントを企画したのはフェアトレ-ド・ショップ「おいものせなか」(花巻市上小舟渡)を経営する新田史実子さん。「フェアトレ-ド」(公平貿易)とは、アジア諸国など発展途上国で作られた作物や製品を適正な価格で継続的に取引することによって、生産者の持続的な生活向上を支える仕組み。来年には開店25周年を迎えるが、この間、幅広い様々なイベントを催し、先月中旬には伝説の報道カメラマンと言われた福島菊次郎さん(故人)の一生を描いたドキュメンタリ-映画「ニッポンの嘘」の上映会を開いた。今回の勉強会は今月19日に予定されていた。

 「必ず、来てくださいね。どうして、こんなに無関心なんですか、沖縄って」―。イベント2日前に新田さんから電話が入った。この時点での参加希望者がわずか1人なのだという。「あきらめない、あきらめない。ヤマト(本土)の総体がほとんど無関心なんだから。たった一人から始めるつもりでなきゃ」と慰めたり、励ましたり…。残り2日間の電話攻勢が功を奏し、当日は予想を上回る16人が県内各地からかけつけた。「もう、オキナワはやめようかなと…」。こんな弱音を吐いていた新田さんがニコニコ笑っている。この日の講師は盛岡在住の牧師で、沖縄通の中原眞澄さん(70)。沖縄の受難史と現在の米軍基地の実態について、映像と資料をもとに説明し、こう問うた。

 「ヤンバルクイナ(沖縄北部にだけ生息する固有種の鳥、国の天然記念物)がもし、タンチョウ(丹頂鶴、国の特別天然記念物)だったなら、(国は生息地の)釧路湿原(北海道)に基地を造るだろうか」―。ヘリパット着陸帯の建設や「辺野古」新基地建設をこんな喩(たと)え話に託して、中原さんは沖縄に米軍基地が置かれている状況を分りやすく説明した。「でも、国が釧路湿原をつぶさないことに内心、ホット胸をなで下ろしているのは他ならない、私たち(ヤマトンチュ)ではないですか」と私は尋ねた。「だからこそ、他人事ではない、人間としての共感力と想像力が私たちには求められています」。中原さんはこう話し、続けた。「私は東日本大震災に遭遇するまでは沖縄の問題をそれほど、深刻には考えていなかった。その点、この岩手の地には震災だけではなく、ヤマトに侵略された過去の記憶が刻まれている。その分、沖縄に近い位置関係にある」

 携帯電話がブルブルッと着信を伝えた。午後2時26分―席を外して画面を見ると、敬愛する沖縄・読谷村在住の彫刻家、金城実さん(78)からだった。近況を知らせた手紙への返礼の電話だった。「いま、ちょうど沖縄のことを話している最中だったんですよ。不思議ですね」と言うと、受話器の向こうから真っ白いあごひげを震わせた豪傑笑いが耳元に響いた。「分っていたんだよ。芸術家というかオキナワ人の勘(かん)だよ。全部、お見通しさ」―。「偶然にしてもできすぎだね」と言わないところが、この長老のふところの深さと言うべきか。新田さんにこのことを伝えると、「鳥肌が立つ話ですね。オキナワ、またやろうっと」。2日前の萎(しお)れようはどこ吹く風…。それにしても何とも摩訶(まか)不思議で、楽しい一日ではあった。


(写真はこじんまりした「沖縄勉強会」―隗(かい)より始めよ=8月19日午後、花巻市内の「おいものせなか」で)

2017.08.22:masuko:コメント(0):[身辺報告]

”人づくり革命”という悪夢(続)

  • ”人づくり革命”という悪夢(続)

 「韓国人元戦犯の闘い―日本人として動員/捕虜監視の軍属に/苦しんだ死刑判決」(8月18日付「朝日新聞」)―。昨日の今日とはまさにこのこと、前日に表題の原稿をブログアップしたと思ったら、この日の紙面にはこんな大見出しが躍っていた。「8・15」の全国戦没者追悼式で、「アジア」「反省」「不戦」のひと言もなかった安倍晋三首相には目を皿にして、この特集記事を読んでいただきたい。ここにはかつて、我が日本国が好き放題に“人間をつくり替えた”―負の歴史の詳細が記されている。「心からの許しを乞う」という、その謝罪のあるべき作法をあなたにはきちんと学んで欲しいと思うからである。

 風雪が刻まれたこの人は韓国人元BC級戦犯の李鶴来(イ・ハンネ)さん(92)。李さんは太平洋戦争中、日本の植民地下にあった朝鮮半島から連合国捕虜の監視員として徴用され、泰緬(たいめん)鉄道(タイ・ミャンマ-間)の敷設現場へ。映画「戦場にかける橋」(1957年公開、英米合作)で知られる苛酷な現場では捕虜5万5千人のうち、1万人以上が死亡したと言われる。戦後の連合国によるBC級裁判(通例の戦争犯罪あるいは人道に対する罪)で、李さんは「捕虜虐待」の容疑で死刑を求刑されたが、その後減刑されて釈放された。「いつ自分の順番が来るのか、花壇の赤い花が咲くまで生きているだろうか。日本人なら無理にでも『日本のために死ぬ』と考えたでしょう。でも私は何のために、誰のために死ななければいけないのか。苦しかった」と李さんは記事の中で語っている。

 「朝鮮人」でありながら「日本人」として裁かれ、釈放後はサンフランシスコ講和条約の発効で、日本国籍が剥奪された「外国人」として、日本の補償や援護の対象からも外された。さらに祖国からは「対日協力者」として“国賊”などの烙印を押され、帰国も果せないまま現在に至っている。植民地下の朝鮮半島から軍属として徴用されたのは約3千人で、タイやジャワ、マレ-などの捕虜収容所に配属された。戦犯とされ148人うち、23人に死刑が執行され、台湾出身軍属も173人の戦犯のうち7人が処刑された。一方、イギリスやオランダ、オ-ストラリア、アメリカなどの連合軍兵士約13万2千人が捕虜となり、うち27%に当たる約3万6千人が死亡した。

 「被害者でありながら、加害者として詫(わ)びなくてはならない。本当につらい旅だった」―。1991年、李さんはBC級裁判の告訴人の一人だった当時の捕虜に許しを乞うため、オ-ストラリアに向かった。私はこのつらい道行きに同行取材した。「にらみつける元捕虜もいましたが、握手もできました。その一人が外科医で作家のエドワ-ド・ダンロップさん(故人)です。彼は収容所時代の日記を戦後発表し、私を『トカゲ』と呼び、『本当に心の小さいやつだ』と書いています。でも私が死刑判決を受け、戦後帰国できなかったことは知らなかった」。李さんは当時の思い出を今回の記事でこう語っている。

 26年前の記憶は私にとっても鮮明である。ダンロップさんは見上げるような大男だった。李さんは「ノ-・モア・ヒントク(李さんが配属された捕虜収容所)/ノ-・モア・ウォ-」と刻んだ時計を贈った。ダンロップさんは「許しと理解を込めて」とサインした自著『戦争日記』を手渡し、がっちりと李さんの手を握りながら言った。「正直、『コリアンガ-ド』に殺意を抱いたこともありました。でも、あなた方朝鮮人には責任はないのです」。当時の私の取材メモにはこう書かれている。「李さんがなぜ、日本の『戦争責任』を肩代わりさせられなければならなかったのか。なぜ、連合国の捕虜に『許し』を乞わなければならなかったのか。こんな不条理を強いたのは誰か、真に裁かれなければならないのは一体、誰なのか…」。紛れもない日本人の一人である私はその時、いたたまれない気持ちでその場に立たされていたことを今でもまざまざと思い出す。

 謝罪の旅を終えたその年の11月、李さんらは朝鮮人・韓国人戦犯たちへの謝罪と補償を求め、日本政府を相手取って裁判を起こした。99年12月、最高裁は「(救済の)立法措置が講じられていないことに不満を抱く心情は理解し得ないものではない」と述べたものの、解決は立法府の裁量的判断に委ねられるとして請求を棄却した。BC級戦犯たちにとっては、最高裁での2度目の棄却だった。「人間の尊厳」を取り戻す李さんら元戦犯のたたかいは今、超党派の国会議員連盟による救済法案づくりに引き継がれ、次の国会での成立を目指している。

 安倍首相よ!あなたは韓国・朝鮮人元BC級戦犯の刑死者が処刑時に日本国籍だったというただそれだけの理由で、靖国神社に「英霊」として合祀(ごうし)されている、この不条理をどう理解するのか。相変わらず、1965年の日韓協定で「対日請求権」は消滅、一連の問題は「解決済み」とシラを押し通すつもりなのか。あなたには、憲法改正の前にやり遂げなければならない重要課題が残されている。


(写真は二つの“祖国”に翻弄され続けた李さん。深い皺がその苦難の一生を物語っている=インタ-ネット上に公開された、8月18日付「朝日新聞」から)

2017.08.18:masuko:コメント(0):[身辺報告]

“人づくり革命”という悪夢

  • “人づくり革命”という悪夢

 「人づくり革命」―。国民の前に深々と頭を下げたこの人、つまりわが宰相の安倍晋三首相が今度は何を言うのかと思っていたら、何と言葉自体が複雑骨折を起こしているようなこんなスロ-ガンを打ち出した。「教育の無償化」「多様な企業採用と高齢者雇用」「人材投資を通じた生産性向上」など表向きは耳に心地よい政策が並ぶが、私たち“戦争孤児”世代(8月14日付当ブログ「『鐘の鳴る丘』と戦争孤児」参照)にとっては「人間改造」という過去の悪夢がよみがえってくる。「画一的な発想にとらわれない『人づくり革命』を断行し、日本をチャンスがあふれる国へと変えていく」と相変わらず威勢が良いが、「一強多弱」から私たちが学んだ教訓は「逆もまた真なり」―である。

 「美談演出/『誉の子』、『靖国で父と対面』/戦意高揚」(8月16日付「朝日新聞」)―。見出しにこう謳(うた)った記事にはこう書かれていた。「日本兵の父親が戦死したことで『誉(ほま)れの子』と呼ばれた子どもたちがいた。全国各地で選抜され、東京・九段の靖国神社に参拝。『父との体面』は美談に仕立てられ、戦意高揚に利用された」。同紙は当時の内閣情報室が発行した国策グラフ誌「写真週報」の表紙を飾った一人の少年を紹介していた。現在、山梨県南アルプス市に住む八巻春夫さん(87)―。1938年、小学5年の時に父親が中国で戦死し、1941年3月に遺児代表として、靖国神社に参拝した。写真の八巻さんは口を真一文字に結び、ほおには一筋に涙が光っている。

 「お菓子をもらったときはなんとも言われない、感無量で、本当に涙が出ました。でも、撮影前、目薬をさされました」と八巻さんは語っている。こうした遺児たちの靖国神社への集団参拝は、日中戦争が激化した1939年から1943年まで続き、新聞や雑誌、ラジオは連日、「遺児、靖国で父と再会」などと美談調を報じ、戦後の一時期も参拝は続けられた。私と同年齢の田上洋子さん(77)は中学入学直前の1953年春、熊本県から数十人の遺児とともに上京した。現在、さいたま市在住の田上さんは同紙の取材にこう語っている。「『名誉の戦死』と思わなければ遺族は救われなかったかもしれない。でも、父の死は、そんなきれいなものではない。むごいものです」

 私の母親は平成4年2月、83歳で亡くなった。ソ連軍の捕虜となり、シベリアの凍土に死した父親については、思い出話をたまに口にするだけで、戦争のことはほとんど話すことはなかった。死の数年間、国から感謝状と銀杯が届けられたことがあった。「いまさらネェ…」と言い、押し入れの奥に無造作にしまい込んだ。この銀杯がその後、どうなったかは分からない。「英霊」とか「散華」(さんげ)といった言葉をピシャリと「拒絶」したようにその時、私は思った。集団参拝の誘いは幸か不幸か私には来なかった。靖国参拝をした戦争遺児の感想文を分析した学習院大学の斉藤利彦教授(教育学)は次のように話している。

 「父親を失った悲しみすら率直に持たせてもらえない。国家指導者の思想が子どもたちの心に内面化されてしまった」(同紙)―。道徳教科書の導入と教育勅語の教材化容認、そして憲法改正へと突き進む安倍政権の「人づくり革命」とはまさに言葉とはうらはらに「画一的な人づくり」…つまりそこには、かつての「誉の子」の再生産を目論む底意(そこい)が隠されているのではないか。政治風刺コントを手がける戯作(げさく)者の松崎菊也さんがさっそく、皮肉っている。「安倍政権のスロ-ガン政治の典型だが、あまりにも厚かましい言葉。どんな人間がつくられるか全然分からないし、そんな高慢な方々には人をつくってもらいたくない」(8月6日付「岩手日報」)

 そういえば、全国戦没者追悼式(8月15日)で天皇陛下が「深い反省」というお言葉を口にしたのに対し、安倍首相の式辞には「アジア」「反省」「不戦」などの言葉はなく、一方で「希望に満ちた明るい未来」などの表現が目立った。な~るほど、この人の「人づくり革命」とはそういうことだったのかと妙に合点がいった。「その前にまず、あなたの内閣の”人づくり革命”を断行してほしい」―こんな声が風に乗って聞こえてくる昨今である。


(写真は第3次改造内閣の発足後、テレビで深々と頭を上げる安倍首相。謝罪は8秒間に及んだ=8月3日、国会内で。インタ-ネット上に公開の写真から)
2017.08.17:masuko:コメント(0):[身辺報告]

戦後72年―「鐘の鳴る丘」と戦争孤児

  • 戦後72年―「鐘の鳴る丘」と戦争孤児

 広島と長崎への原爆投下、そして敗戦…。「鎮魂(ちんこん)」の8月、私はここに掲げた一枚の写真と向き合うのが習慣になっている。「焼き場に立つ少年」と名付けられた、この写真は長崎の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ-・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは10年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳の生涯を閉じた。妻で米国在住の坂井貴美子さん(56)は没後10年の今年の原爆忌に合わせ、故オダネルの生涯をたどる『神様のファインダ- 元米従軍カメラマンの遺産』を出版した。今日15日、日本は72回目の「8・15」を迎えた。

 写真を撮影した時の光景について、オダネルは著書『トランクの中の日本』の中にこう記している。「この少年は弟の亡骸(なきがら)を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ-という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」―。文章はこう結ばれている。「彼は急に回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った」…。少年は一体、どこに向かったのであろうか。

 「緑の丘の麦畑/俺らが一人でいる時に/鐘が鳴ります キンコンカン/鳴る鳴る鐘は父母の/元気でいろよ言う声よ/口笛吹いて俺らは元気」(2番)…。少年の後ろ姿に「鐘の鳴る丘」の主題歌がオ-バ-ラップする。昭和22(1947)年7月から昭和25(1950)年12月まで、790回にわたって放送されたNHKのラジオドラマで、主人公は原爆や空襲、引き揚げなどで肉親を失った“戦争孤児”だった。作家の菊田一夫の原作で、主題歌の「とんがり帽子」(作詞:菊田、作曲:古関裕而)が鳴り出すと、7歳になったばかりの私はラジオにかじりついた。戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで戦病死した父親の記憶が私にはない。その”欠損感”が無意識のうちに自分自身をドラマに重ねたのかもしれない。

 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」、「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」(8月10日付「朝日新聞」)―。「戦争孤児の会」代表の金田茉莉さん(82)は12万人を超えたと言われる孤児の実態について、こう語っている。

 「本日、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」―。「極秘」と記されたソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者業務管理総局作成の死亡証書(ロシア連邦国立軍事古文書館保有)にはこう書かれていた。亡き父「増子浩一」(ますこ こういち)の死亡通知が昨年夏、厚生労働省から送られてきた。日本語に部分翻訳された資料によると、「死亡年月日」は1945(昭和20)年12月30日で、「死因」は栄養失調症。埋葬地は「プリモスク地方」(沿海地方)の第4865特別軍病院「第1墓地」となっていた。極寒の炭鉱町だった。入院から死に至るまでの2週間の刻一刻を知りたいと思い、私はカルテの翻訳を専門家に頼んだ。

≪25日≫~体温37・4~39・0。全体的な容体は悪くない。頭痛を訴える。アスピリンを投与
≪26日≫~体温37・1~37・6。心臓、肺は特徴なし。便通は正常
≪27日≫~体温36・9~38・3。容体は悪くない。内臓は異常なし。睡眠、便通とも正常
≪28日≫~体温38・5~39・5。頭痛を訴える。脈拍は律動的である。心臓、肺は特徴なし。血液検査
≪29日≫~体温39・7~39・9
≪30日≫~午前7時、心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名「第Ⅲ度栄養失調症」

 遺骨伝達式の日、骨箱を母が胸に抱き、私たち3人の遺児たちは無言で家路を急いだ。遺骨代わりの木片がカランコロンと乾いた音を立てていたことだけは幼心にも覚えている。死にゆくカルテの、淡々とした記述が逆に父親の実像を浮かび上がらせてくれたような気がした。戦後70年以上、心の中に空洞を形づくってきた戦争孤児としての欠損感がす~っと、消えていくような、そんな不思議な感覚にとらわれた。私の「戦後」にやっと、終止符が打たれたのかもしれないと思った。「焼き場に立つ少年」はきっと、私と同じ年頃だったにちがいない。戦争孤児の蔑称でもある“浮浪児”はいまではとっくに死語になっている。しかし、幼子を背中に負う少年の姿は未完の戦後の「実像」として、いまも私のまなうら(眼裏)にはっきりと刻まれている。


(写真は故オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」=インタ-ネット上に公開の写真から)


2017.08.14:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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