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暖冬異変ならぬ、上田「異変」…新図書館の“怪”と如月の満月と

  • 暖冬異変ならぬ、上田「異変」…新図書館の“怪”と如月の満月と

 

 公益財団法人「総合花巻病院」は医師不足や診療科目の縮小が解消されないまま、3月1日にオ-プンすることが正式に決まったが、今度はまさかと思っていた「本(理念)なし図書館」構想が明らかになった。人気(ひとけ&にんき)のない花巻中央広場や荒れ野と化した新興製作所跡地、旧料亭「まん福」の解体計画、かけ声倒れの中心市街地活性化…。そして、ついには「不動産」物件に姿を変えた“図書館”の出現である。上田(東一)ワンマン市政の無能ぶりを天下にさらすような今回の構想が公表されたのは1月29日。新年早々、「悪夢」が「正夢」になったという縁起でもない話である。ペテン、つまり詐欺まがいというのはこの種のことを言うのである。

 

 宮沢賢治や萬鉄五郎など郷土を代表する先人を紹介しながら、「新図書館整備基本構想」(平成29年8月)にはその基本方針について、こう謳われている。「市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた『学びの精神』を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し、豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して…」―。ここには曲がりなりにも図書館のあるべき姿(理念)が示されているが、今回公表された「新花巻図書館複合施設整備事業構想」はそのねらいについて、冒頭にいきなりこう記す。

 

 「本市は、将来を見越して効率的で利便性の高い暮らしやすい都市づくりに取り組んでいます。…駅前に賃貸住宅も併設する図書館複合施設を建設することは、市街地の人口密度を保ちつつ、市内の複数の拠点を公共交通でつなぐ『コンパクト・プラス・ネットワ-ク』構想の具体的な取り組みの一つです。複合施設の上層部に若者から高齢者まで対応できる様々なタイプの賃貸住宅を整備します。持続可能な街の都市形成に向けて、健康で快適な都市型生活環境を提供し、子育て世代など若年層にも魅力的なまちをつくります…」―。資料には建設予定地や整備手法、財源などの説明があるだけで、肝心の図書館の蔵書数やその種別、閲覧空間、書架の機能、司書の配置などのソフト面については一切、触れられていない。「主客転倒」―「本末転倒」とはこのことである。

 

 「仏作って、魂入れず」―。とくに図書館のような文化施設の場合、「箱もの」行政を優先させるのは“鬼門”とされている。当たり前のことである。「知のインフラ」ともいわれる図書館づくりに当たってはまず、「そこの住民にとって、どんな施設が理想的か」という入口論からスタ-トしなければならない。どこに建てるのか、どんな規模にするのか―といった問題はそれからである。最初から逆さまなのである。宮沢賢治の理想郷「イ-ハ-ト-ブ」をまちづくりのスロ-ガンに掲げ、文化都市の実現を標榜(ひょうぼう)する自治体の貧相な素顔が透けて見えてくるではないか。しかし、上田市長は当初から、図書館にはあまり熱心ではなかったようなのである。たとえば、その心臓部に当たる蔵書数について―

 

 前市政が平成25年5月、新図書館の建設に当たっての適正蔵書数を「50~65万冊」と算定したのに対し、その後に就任した上田市長は半分の30万冊に見直す考えを示し、その理由をこう述べた。「人口減が見込まれる中で利用者が蔵書数の増加ほどに増えるとは考えにくく、一層厳しさを増すと見込まれる財政状況を踏まえ、運営経費や従事者数が現状を大きく超えないよう計画の規模を見直す必要があります。蔵書数は県内他市の市立図書館と比較して突出して多いものでしたが、30万冊は花巻市の都市規模にもほぼ見合うものと考えられます」(「まちづくりと施設整備の方向」、平成26年11月)―

 

 その後、蔵書数などのソフト面の論議が深められた形跡はなく、今回の不動産まがいの構想がいきなり表面化したというのが真相である。大学入学共通テストをめぐる某大臣の「身の丈」発言を髣髴(ほうふつ)させる言葉ではあるまいか。人口比と蔵書数とを単純に比較するという、その精神の貧困さに驚いてしまう。

 

 商社勤務時代、ニュ-ヨ-クなどでの長い勤務体験のある上田市長は議会答弁などでそのことを自慢げに口にすることがあった。その大都市に世界最大級の知の殿堂と言われるニュ-ヨ-ク公共図書館(NYPL)がある。1911年に建てられ、いまでは黒人文化研究図書館や科学産業ビジネス図書館など4つの研究図書館と88に及ぶ地域分館で構成されている(2019年10月8日付当ブログ参照)。ドキュメンタリ-の巨匠、フレデリック・ワイズマン監督によって映画化(2017年公開)され、日本でも昨年5月に公開された。「図書館とはこうあるべきだ」という3時間25分に及ぶこの超大作は図書館関係者には必見の作品である。

 

 NYPLには世界中から演劇人や俳優、作家、研究者、政治家など様々な人々が集まってくる。この知の殿堂から発信された芸術作品は数限りない。一方、賢治作品は遠くクロアチア語やルーマニア語などを含め、その翻訳国数は世界一を誇る。だからたとえば、「賢治ライブラリ-」を名乗るだけで国内だけではなく、全世界から賢治研究者や愛好家を呼び寄せるのも夢ではない。というよりも、想像力豊かで柔軟なこうした発想こそが実は、図書館づくりの醍醐味なのである。「仏に魂を入れる」―というのはまさにこのこと。「イ-ハト-ブはなまき」に足を運んでも賢治の作品や関連本がきちんと、整備されていないという不満は以前から聞こえていた。ましてや、ハ-ドやソフトを含め、図書館全体の枠組み作りを外部に丸投げするというやり方は邪道そのもの…いや、行政の責任放棄と言わざるを得ない。

 

 行政トップを司る我が”宰相”よ、アメリカ時代に一度はNYPLに足を運んだことがあるとは思うが、もしなかったらば映画だけはぜひ、見てほしいと思う。いまからでも遅くはない。原点に立ち返って、構想を練り直してほしいと切に願いたい。図書館のようなビッグプロジェクトは文字通り「百年の計」だからである。ブログの再録になるが、ワイズマン監督はこう述べている。「ニュ-ヨ-ク公共図書館は最も民主的な施設です。すべての人が歓迎されるこの場所では、あらゆる人種、民族、社会階級に属する人々が積極的に図書館ライフに参加しているのです」(パンフレットから)。米国では図書館を称して「ピ-プルズ・パレス」(people's palace)と呼ぶという。「人々がより集う」という意味では、まさに“人民宮殿の名にふさわしい命名である。

 

 貧すれば、鈍する…。軽佻浮薄(けいちょうふはく)にして、かつ強権的なご仁(じん)に行政を任せていては、我がふるさとは破壊されてしまいかねない。NYPLは当市でも導入を検討している「公民連携」方式で、運営費の約4割は民間からの寄付で賄(まかな)われている。この成功例に謙虚に学ぶことから出直したらどうか。

 

 

 

(写真は雲間から顔を出した満月。「花巻市政の”暗雲”も振り払ってほしい」と思わず、手を合わせた=2月9日、花巻市桜町3丁目の自宅から)

 

 

 

《追記-1》~図書館の充実を!

 

 身内のことで恐縮だが、沖縄・石垣島に住む小学5年生の長男の孫が最終学年の生徒会長に立候補する決断をしたとして、手書きのポスタ-の写真を送ってきた。「がんばるので、一票お願いします」と書かれ、公約には「マナ-を守り、元気で本をたくさん読む学校にします」とあった。で、結果のほどは?立候補者は全部で15人。この数もすごいと思うが、最初に5~6年生の投票で6人にしぼり、最終的には3年生以上の投票で選出されるのだという。孫は第8位の次々点で涙を飲んだそうだが、「立候補しただけで偉い」とエール。親バカだと思い、ご寛恕(かんじょ)のほどを…。それにしても、孫の話になるとジジイの頬(ほほ)は緩みっぱなしになるもんですねぇ。「70歳になってから、市議に立候補した誰かさん(つまり私)に似たのかなぁ」とは娘の言

 

 

《追記―2》~ある書評家の”遺言状”

 

 岩手日報のコラム「青春広場」で14年間にわたって、本の魅力を伝え続けてきた花巻市在住の書評家・岩橋淳さんが難病の末に亡くなって、1年が過ぎた。私も彼の的を外さない書評をきっかけに何冊もの本を購入したひとりだが、その思いを共有する仲間たちがクラウドファンディングで制作費を募り、連載の書籍化に踏み切ったことを同紙が報じていた(2月7日付「風土計」)私は生前、当市の図書館関係の部署に対し「一度図書館の理念について、意見を伺ったらどうか」と持ちかけたが、担当者は同じまちに住む、この”本の目利き”の存在すら知らなかった。岩橋さんはほどなく、旅立った。「風土計」は記事をこう結んでいる。「岩橋さんの情熱が本になる。その情熱に触れた若者たちが読書好きになり、自らの世界を広げ、本と一緒に大きく羽ばたく。そんな未来への旅行者があふれてほしい」

 

 

《追記ー3》~スノームーン

 

 2月9日午後5時45分ごろ、厚い雲間から2月(如月=きさらぎ)の満月が少しづつ、顔を出し始めた。そしてやがて、雲を吹き払った中天にぽっかりと…。ネイティブアメリカンが「スノームーン」と呼ぶ冬の月である。しんしんと冷え込む寒気の中に「雪月」はさえざえと浮かんでいる。真冬に欠かせない風物詩。いやな世情を忘れさせる一瞬でもある。そういえば、亡き妻のニックネ-ムも「満月」さんだった。ふと見上げると、さっきまで纏(まと)っていた雲の衣装を、満月はどこかに脱ぎ捨てたらしい。寒くないのかい、お前は…。はるか南の島の海に眠る妻をしのび、「月桃」(作詞・作曲、海勢頭豊)を聴く。ベッドにもぐりこむ前にまたひょいっと見上げると、な~んだ、また綿入れみたいな“雲衣”にくるまっているではないか。だろう、やっぱり寒かったんだろう(上掲写真)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「南」と「北」との競作…エンタメ魂、炸裂

  • 「南」と「北」との競作…エンタメ魂、炸裂

 

 『宝島』(真藤順丈著)と『熱源』(川越宗一著)と―。沖縄を舞台にした前者は第60回(2018年下期)、アイヌ民族とポ-ランド人の文化人類学者を主人公にすえた後者は第62回(2019年下期)の直木賞受賞作である。作者はともに本土在住の41歳(受賞時)。沖縄での突然の「旅の終わり」(1月27日当ブログ参照)に伴って急きょ、帰郷した1月15日のその日に川越さんの受賞を知った。南の島の余韻が残る中で一気に読み終えた。不思議な感覚が体を貫いた。私は沖縄報告の最終回に「南と北」の視点の大切さを書き記した。そのことが図らずもこのエンタメ小説によって、日の目を見たと思ったからである。

 

 「返還によって日本(ヤマトゥ)のはしっこに加えてもらうんじゃない。国家の首都の座を獲得するのさ。戦争をしないことにした日本の平和がアメリカの傘下(さんか)に入ることで成立しているなら、その重要基地のほぼすべてを引き受ける地方が国政をつかさどるべきだとは思わないか。地図の片隅にある島だなんて先入観にとらわれるな、それは本土(ヤマトゥ)の人間が描いた地図なんだから」(2019年1月11日付当ブログ参照)。私は『宝島』の主人公のひとり、レイの激したような言葉をブログの一節に引用した。『熱源』を読みながら、レイと同じようなほとばしる熱気を感じた。

 

 426ページに及ぶ大作の『熱源』は樺太(サハリン)で生まれ、明治維新後に北海道に強制移住させられた樺太アイヌ「ヤヨマネクフ」とロシア皇帝暗殺未遂事件に巻き込まれ、樺太に流刑されたリトアニア生まれの「ブロニスワフ・ピウスツキ」(1866―1918年)の波乱万丈の交流を描いた作品である。日露戦争から第2次大戦までの長い時間軸の中で、日本とロシアという大国に翻弄(ほんろう)され続けた2人の人生ドラマはまさに“叙事詩”と呼ぶにふさわしい。ブロニスワフはのちにアイヌ女性と結婚し、ヤヨマネクフは「山辺安之助」(1867―1923年)と日本名に改名し、白瀬矗(しらせのぶ)が率いる南極探検隊に犬そり隊(樺太犬)の隊長として、参加している。ちなみにブロニスワフの弟、ヨゼフはロシアから独立した際のポ-ランド共和国の初代国家元首として知られる。文中でヤヨマネクフが独白し、会話を交わす場面が出てくる。

 

 「生きるための熱の源は、人だ。人によって生じ、遺され、継がれていく。それが熱だ。自分の生はまだ止まらない。熱が、まだ絶えていないのだから。灼けるような感覚が体に広がる。沸騰するような涙がこぼれる。熱い。確かにそう感じた」…「俺たちはどんな世界でも、適応して生きていく。俺たちはアイヌですから」、「アイヌ種族にその力があると」、「アイヌって言葉は、人って意味なんですよ」―。タイトルの由来が輪郭を形づくり、その上にレイの言葉がすう~っと重なったように気がした。

 

 文芸評論家の斎藤美奈子さんは「抵抗するフィクションを探して」(『世界』2月号)と題する論考の中で、「政治に対抗しうるフィクションの可能性」として、沖縄文学、アイヌ文学、在日文学の三分野を挙げている。とくに、今回の直木賞作品のように当事者(沖縄、アイヌ)に寄り添うべく外から参入した作品について、「#e Too」ならぬ「#ith You」文学だと絶妙に命名、こう述べている。「高度に洗練された今般のフィクションは単純な勧善懲悪を忌避する傾向が強い。抵抗する文学はだから少ない。それでも国家権力に蹂躙(じゅうりん)された記憶が染み込んでいる沖縄や北海道を舞台にした小説には、辛うじて立ち上がって戦う人々が残っており、ときにしょぼくれた読者を勇気づけ、ときにふて寝する読者を叱咤(しった)する。…歴史修正主義の台頭と、世にいうフィクションの衰退の間に因果関係はないといいきれるだろうか」

 

 「それでもどっこい、アイヌは生きている。これこの通り、おまえの前でな」―。『熱源』のページを閉じた瞬間、北海道勤務時代にアイヌのエカシ(長老)がふとつぶやいた言葉が突然、目を覚ましたのではないかと思った。『宝島』の著者、真藤さんも受賞後にこう語っている。「沖縄の複雑な諸問題は、現在の日本が抱える最大級の難題といってもいい。批判を恐れて萎縮して、精神的に距離を置いてしまうことは、ヤマトンチュがこれまで歴史的に沖縄におこなってきた『当たらず障らず』の態度と変わらない」―。#ith You」文学こそが腰の引けた“純文学系”作品に歯向かい、不遜きわまりないヤマトンチュ(本土=中央)の思想の根腐れに風穴を開けるのではないか。そんな予感がしてきた。

 

 「どれほど悲惨な現実を描いていても、沖縄エンタメ小説はどこか明るい。ウチナンチュはへこたれない。辺野古の新基地建設反対運動がなぜあれほど粘り強く続くのか。その秘密が垣間見える気さえする」と斎藤さんは論考の中で書いている。私もあの現場の人肌を感じるような“小宇宙”のたたずまいが忘れられない。漫画「ゴ-ルデンカムイ」(野田サトル著=20巻)は日露戦争を生き延びた元陸軍軍人と彼を助けたアイヌの少女、アシリパが「アイヌの金塊」をめぐって、バトルを繰り広げる壮大な物語である。まさに、現代版「ユ-カラ」(英雄叙事詩)そのものである。つけ加えるなら、宇宙物理学者で宮沢賢治の研究家でもある故斎藤文一さん(新潟大学名誉教授)は美奈子さんの父親で、隣町の北上市の出身。南極探検隊に加わった経験もある。

 

 いま、私の頭の中は南と北を行ったり来たりで、グルグルと目が回りそうである。そして、はたと心づく。私がいま立っている場所はその大昔、ヤマト(大和)の侵略を受けた“蝦夷”(えぞ=エミシ)征伐の地だった、と……。そして、ふと政治の舞台を見回すと、相変わらず、こんな発言が堂々とまかり通っている。「2千年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない。よい国だ」(麻生太郎副総理兼財務相、2020年1月13日) 最後に記録作家・故上野英信さんの“遺言状”にさらなる加筆をする無礼を許していただきたい。

 

 

筑豊よ、沖縄よ、アイヌよ、そしてエミシの末裔たちよ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 

 

(写真はエンタメ魂が炸裂する直木賞の受賞作。いまその勢いが止まらない)

 

 

沖縄から(10―完)…旅の終わりに

  • 沖縄から(10―完)…旅の終わりに

 

 今回の「旅の終わり」はまさに突然、訪れたのだった。1月10日未明の午前2時ごろ、以前から私の沖縄訪問の際に“杖”となり、“足”となってくれていたUさんが同宿したマンスリ-マンションの浴槽で倒れているのを発見した。4年前に千葉県から沖縄に移住し、私のような不案内な旅行者を観光地ではない、たとえば沖縄戦の戦跡や米軍基地の現状を肌で知ることができる現場へと解説付きで連れて行ってくれた。亡き妻をこうした場所に案内してくれたのもこの人だった。本土から訪れる人たちを乗せる「辺野古バス」の運行の手助けをしたり、かと思えば、反対派の拠点テントの中で大鍋にカレ-を仕込んでいる姿も目撃している。

 

 幸い、一命は取り留めたものの、いまも那覇に近い病院で治療を続けている。沖縄と本土をつなぐ最前線にはUさんのように、文字通り“架け橋”に徹する人たちがいる。Uさんとの出会いがなければ、沖縄の記憶を辿りたいという私の数度にわたる「沖縄訪問」も実現していなかったかもしれない。まだ、58歳。一進一退の容態を気遣いつつ、同行者としての責任を感じる日々……

 

 Uさんの身の上に起こった突然のアクシデントが30年も前の、もうひとつの「旅の終わり」の記憶を呼び覚ましたようだった。北海道勤務を終えて東京本社に転勤する際、私は当時流行(はやって)いた演歌「旅の終わりに」(冠二郎)の一節を挨拶状の冒頭にしたためた。赤面するようなキザな文章だが、現代ニッポンを照射しているという意味ではそれほど的外れではないような気もする。恥のかき捨てついでにその要旨を以下に―

 

●「春にそむいて/世間にすねて/ひとり行くのも/男のこころ…」―。吹雪が舞う北の街で、この唄を口ずさむのが好きでした。報道部有志が送別会を催してくれた翌日、残雪の山並みを眼下に見ながら、五木寛之の同じ題名の文庫本を読みふけっていました。『旅の終わりに』。津軽海峡をひとまたぎした飛行機はあっという間に「トウキョウ」に到着していました。この世界に足を踏み入れて25年。水俣病や被差別部落、そして筑豊…。中央から切り捨てられていく姿を長い間、見続けました。途中、少し寄り道をして北海道へ。ここでもまた、炭鉱閉山や農漁業の衰退、和人の侵略にさらされ続けるアイヌ民族の苦悩を知りました。そしていま、25年ぶりにトウキョウの地に立っています。

 

●地下鉄の中で分厚い本を手にした若い女性を見かけました。題名をのぞいて、ぎょっとしました。『常勝思考』。捨て石の山が地方に築かれている間に、中央は勝つことだけに熱中していたのでした。言葉の片鱗として「上昇志向」という程度の記憶しかない浦島太郎にとっては驚くべき出来事でした。「はじまり」があるから「終わり」もあります。南と北の「目」を大事にしたいと思っています(1990年4月の転勤挨拶状から)

 

 沖縄訪問の際、避けて通ることが許されない“関所”がある。「風貌からして叛逆老人。白いあご髭を長く垂らして、手を振って熱弁をふるう」(鎌田慧著『叛逆老人は死なず』)と紹介されている彫刻家の金城実さん(81)である。実は最初に金城さんに引き合わせてくれたのもUさんだった。「関所に立ち寄ってから、田舎に戻ります。早く元気になってまた、水先案内になってください」―。病室に見舞うとUさんは混濁する意識の中で、かすかにうなずいたようだった。うしろ髪がひかれる思いで、病院をあとにした。

 

 「うしろに回ってよく見てみろ」と金城さんがうす暗いアトリエの中で言った。最新作の木彫の背後に「Home-Less」(ホ-ムレス)と刻んであった。「本土に打ち捨てられた沖縄の現実を描きたかったんだよ」と金城さん。「叛逆老人の全国ネットワ-クっていうのはどうですか。南と北から“中央”をにらみ返すんですよ。オジィこそがその代表格にぴったりだと思うんです」と誘惑すると、まんざらでもないような表情で自慢のヒゲをなでまわした。この報告を閉じるに当たって、記録作家・故上野英信さんの“遺言状”(1月23日付当ブログ)について、「筑豊」を「沖縄」に置き換えた浅慮(せんりょ)を反省したい。前者の捨て石の上にいまさらに「後者」の捨て石が築かれようとしているという意味では、両者は並立でなければならない。そして、さらにつけ加えるとすれば、北のアイヌ民族の受難も…

 

 

筑豊よ、沖縄よ、アイヌよ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 

 自前の「背もたれ」を探し求める今回の旅は道半ばで終わった。しかし、この「終わりなき旅」はUさんに背中を押されるようにして、ふたたび再開されると私は確信している。二人三脚の旅を支えてくれたUさんへの心からの感謝と一日も早いカムバックを祈りつつ……

 

 

 

 

(写真は流木などを拾い集めて、ノミを振るう金城さん。”叛逆老人”の作品にはなぜか「鬼」を題材にしたものが多い=インターネット上に公開された写真より)

沖縄から(9)…“原点”が存在する

  • 沖縄から(9)…“原点”が存在する

 

 「通りすがりのパフォ-マンスに自己満足するだけではないのか」―。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設(新基地建設)現場の最前線…米軍キャンプ・シュワブのゲ-ト前を私は行ったり来たりしていた。ほぼ毎日、土砂を満載した大型ダンプカ-やコンクリ-トミキサ-車数百台がこのゲ-トから大浦湾の埋め立て現場へと向かう。朝と昼と午後の1日3回、進入を阻止しようと数十人が座り込む。島のオバァやオジィが大半で、年金生活者とおぼしき移住者や現場視察の教員や地方議員らの姿も。私を逡巡(しゅんじゅん)させていたのはある種の“後ろめたさ”だったのかもしれない。「こっちにおいで」とオバァが手招きしている。柔道の“空気投げ”でも食らったように、私は道路を横断していた。

 

 本土では最近、ほとんど感じることのない不思議な“小宇宙”がそこには広がっていた。沖縄県警の機動隊員と警備会社の警備員が前後を固め、基地内では沖縄防衛局の職員が記録用のビデオカメラを回している。一見、物々しい“敵対”の光景なのだが、この空間に身を置いてみると感覚がまるで違うのである。「ツ-ショットをお願いね」とサングラスをかけた機動隊長と腕を組むウチナンチュ(沖縄)の中年女性。「それはちょっと…」と言いつつもちゃっかりと写真に納まっている。「あなたはどこから?」と問われ、「岩手から」と応答するとすかさず「岩手からも来てるぞ~」とシュプレヒコ-ルが響き渡った。ジョギングをする米兵と日本製の小型軽トラックが目の前をすれ違った。「腹が出っ張っていたら、兵隊は務まらないさ」とクバの編み笠をかぶったオバァ。「火」と大書された軽トラには「EXPLOSIVES」(爆発物)というステッカ-が張られていた。

 

 ゲ-ト前で「カチャ-シ-」が始まった。三線(さんしん)に合わせて踊る沖縄伝統の手踊りである。機動隊員はもちろんのこと、地元出身者が多いといわれる警備員にとってもこの伝統舞踊は体に染みついているはずである。これを踊れなければ、ウチナンチュの恥とさえ言われる。「この人たちもきっと、心の中で一緒に踊っていたのではないのか」と私にはそう思えてくるのだった。「そろそろ、余興の時間は終わりにしてよろしいでしょうか」と機動隊長はハンドマイクを握った。「すみやかに歩道に出てください。従わない場合は道路交通法違反の容疑で強制排除に入ります」―

 

 カチャ-シ-が終わるタイミングに合わせたかのような“最後通告”に私は妙な感慨を覚えてしまった。「敵対の中のほんわかした連帯。そして、こうした連帯の輪に対し、総がかりで敵対しているのは他ならぬ私たちヤマトンチュ(本土)ではないのか。無知・無関心という装いをこらしながら…」―と。「暇とお金が少したまったら、また来てね。とにかく、諦めないで続けることが大切なのよ」とさっきのオバァが手を差し伸べてくれた。

 

 不意に著名な思想家で詩人の谷川雁(1923―1995年)の文章の一節が脳裏をかけめぐった。谷川は「原点が存在する」というエッセイにこう書いている。「『段々降りてゆく』よりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。…一刻の休みもなく私達は新しい子供達を創らねばならない。まだ暁闇(ぎょうあん)以前に横たわっている、あの嬰児(えいじ)のために。そのために私達は『力足を踏んで段々降りて』ゆこう。平和のために戦い、平和へののぞみを歌おう。汝、人類の生存を望むか」(1954年5月)

 

 日本最大の産炭地だった「筑豊」(福岡県)に思想の砦(とりで)としての“サ-クル村”を設立し、切り捨てられていく炭鉱労労働者の人権回復や「60年安保」闘争の戦列に加わった谷川の「原点」がこの文章に凝縮されている。谷川の同志だった記録作家、故上野英信さん(享年64歳)は1987年、病床のメモ用紙にこう書きつけた。

 

筑豊よ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 沖縄から南米に移民した一族の苦難の転変を描いた『眉屋私記』は上野の代表作のひとつである。沖縄にも心を寄せ続けていたのである。私はいま、敬愛するこの作家の“遺言状”に一部の変更を加える無礼を許していただきたいと思う。「筑豊」を「「沖縄」へと…。谷川のいう“原点”はいま、南のこの地にこそ存在していると思うからである。

 

 

 

(写真は機動隊と警備員の壁にはさまれながら、カチャ-シ-を踊るオバァやオジィたち。奇妙な連帯感が漂っていた=1月9日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲ-ト前で)

 

 

 

 

沖縄から(8)…南の果ての“マラリア地獄”

  • 沖縄から(8)…南の果ての“マラリア地獄”

 

  「パイパティロ-マ」―。日本最南端の沖縄南西諸島・波照間島のさらに南の海上にこんなロマンチックな名前の幻の島があると聞いて、この島を訪れたのはもう20年以上も前のことである。この地方の方言で「パイ」とは「南」、「パティロ-マ」とは「波照間」を意味し、「人は死んだら、その霊魂は争いもない平和なパイパティロ-マへと旅立つ」と言い伝えられている。波照間島は南十字星を間近に観察できることでも知られ、私のまなうらにはまだ、流れ星の光跡がくっきりと刻まれている。

 

 最前線に送られた護衛隊やスパイ虐殺、集団強制死…。ドキュメンタリ-映画「沖縄スパイ戦史」(1月16日付当ブログ)は「軍隊とはそもそも最初から住民を守る組織ではない」という衝撃的な事実を白日の下にさらした。そして、その悪魔の手はやがて、この「星降る」島にも…

 

 沖縄戦が始まる数か月前、「山下虎雄」を名乗る若い男が波照間国民学校の教師として、赴任した。用務員をしていた西里スミさん(当時16歳)は映画の中でこう証言する。「顔は面長。毎日、木刀を下げて。ズボンはカ-キ色。初めてヤマト(日本人)を見た」。民家に下宿した男は物腰もやわらかで、すぐに島民の間に溶け込んでいった。しかし、戦局が急転すると、態度が一変した。軒下に隠し持っていた軍刀を振り回し、「西表(いりおもて)島へ移住せよ」と迫った。当時、この島はマラリアの有病地帯として恐れられていた。米軍の上陸を想定し、捕虜になった住民がスパイ活動をさせられるのを事前に防止する―というのが強制移住のねらいだった。

 

 「陸軍軍曹・酒井清」―“山下先生”の本名である。陸軍中野学校出身で、肩書は「離島残置要員特務兵」。強制移住先の西表島では島民の三分の一に当たる約500人がマラリアにかかって犠牲になった。素顔をさらけ出した酒井は今度は家畜の処分を命令した。牛や馬、豚、ヤギ、ニワトリなどその数7千以上。「米兵は肉食人種だから、その糧食を絶つ」というのが表向きに理由だったが、実は島内の製糖工場に持ち込み、秘かに燻製処理をして日本兵の胃袋に収まっていたことがのちに明らかになった。こうした酒井の横暴に抗議するため、当時の波照間国民学校の校長らが舟で西表島を脱出して、石垣島の独立混成第45旅団長に直訴。ようやく疎開命令の解除を取り付けたが、酒井は聞く耳を持たなかった。

 

 映画の中で、酒井の肉声が記録された貴重なカセットテ-プが初めて公開された。「わっはは」と高笑いをした後、酒井はこう続けている。「その~、民を虐(しいた)げてね。軍が横暴を振るうということはなかったと、私は断言できますよ」―。島民を“マラリア地獄”に突き落とした酒井は戦後を生き延びて、3回も波照間島を訪れている。約40年前の最後の訪問時の際、島民の代表19人は連署で絶縁状を突きつけた。「あなたは、今次対戦(ママ)中から今日に至るまで名前をいつわり、波照間住民をだまし、あらゆる謀略と犯罪を続けてきながら、何らその償いをせぬどころか、この平和な島に平然として、あの戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように三度来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」―。戦後、酒井は滋賀県で工場を経営していたが、骨がらみの軍国主義から抜け出すことなく一生を終えた。

 

 「いま、ネット社会では沖縄戦自体がなかったとする歴史修正主義が堂々とまかり通っている。与那国島や石垣島、宮古島などで進められている自衛隊配備は決して、過去の話ではない。波照間の悲劇と地続きだと考えなくてはならない。いや、沖縄だけでなく、日本列島全体がアメリカの防波堤になりつつある」―。映画上映会の記念講演で、監督のひとり、三上智恵さんはこう力説した。辺野古新基地建設の最前線で反対の座り込みを続けている島袋文子さん(90歳)が車いすを押しながら、三上さんに声をかけた。「沖縄戦の体験者として、その闇にメスを入れてくれてありがとうね」

 

 世代を架け橋するその光景を写真に収めながら、私は石垣島で同じ“マラリア地獄”を体験した山里節子さん(1月7日付当ブログ参照)の話を思い出していた。「自衛隊の造成現場を見ただけでは戦争の本当の恐ろしさはわからない」と道すがら、山里さんはそう言ったのだった。石垣島の島民が強制移住させられた「白水」地区はうっそうたるジャングルの中にあった。そのかたわらに「白水霊水」を売り物にする健康食品会社の作業場があった。「この島にはね、特攻基地も大きな飛行場もあったのよ。ほら、向こうの開けたあたりにね」―。私は指さすその方向に視線を向けたまま、ぼうっと立ち尽くしていた。

 

 米軍基地の固定化と日米地位協定の導入を決めた「日米安保」改定(60年安保)から19日で60年を迎えた。新条約に署名したのは当時の元岸信介総理大臣で、現安倍晋三総理大臣の祖父に当たる。この節目の日にひょんなことを思い出した。幻の泡盛といわれる波照間産の「泡波」は当時もプレミアムがつくほど高価だった。大枚をはたいてお祝い用の”益々繁盛”(二升5合瓶、4・5リットル)を買い求め、後生大事にわが家に持ち帰ったことを懐かしく思い出す。友人や知人にお振舞いをし、中身はあっという間に空になったが、この巨大なボトルはいまも私の大事な宝物である。

 

 

 

 

(写真は沖縄戦体験者の島袋さん(右)と三上監督は戦争の闇の深さを話し合った=1月13日、沖縄・読谷村の読谷村文化センタ-で)