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「喪失」という物語

  • 「喪失」という物語

 

 「大いなる喪失は自死を招き寄せるということなのだろうか」―。妻を失って、最初に手にした本がその死(7月29日)の直前に刊行された『原民喜―死と愛と孤独の肖像』(梯久美子著)だった。月並みな表現だが、ぽっかりと穴の開いたような喪失感がこの本を手に取らせたような気がする。広島で被爆した体験を詩や小説などに表現した原(1905年―1951年3月13日)は原爆の前年に精神的な支柱だった妻を病気で失い、疎開先で自ら被爆した6年後、東京都内で鉄道自殺した。46歳の若さだった。代表作『夏の花』(晶文社版)の中に原爆の惨状を描いたこんな一節がある。

 

 「河岸に懸つてゐる梯子に手をかけながら、その儘硬直してゐる三つの死骸があつた。バスを待つ行列の死骸は立つたまま、前の人の肩に爪を立てて死んでゐた」―。原は同書の少し前でそんな光景を「どうも、超現実派の画の世界ではないかと思へるのである」と書き、あえて片仮名書きで「スベテアツタコトカ/アリエタコトナノカ/パツト剥ギトツテシマツタ/アトノセカイ」と続けている。東日本大震災で母親と妻、そして愛娘を失った知り合いの被災者が津波に襲われたがれきの荒野を被爆地と重ねて語ったことがある。身近な肉親の喪失と膨大な死者の群れ…。「そのことについて、自分の中でどう折り合いをつけたらいいものなのか」と―。

 

 『夏の花』は亡き妻の墓参の場面から始まる。著者の梯さんは原の気持ちを次のような文章からすくい取っている。「さうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけてゐたのだ。これらは『死』ではない、このやうな慌ただしい無造作な死が『死』と云へるだろうか、と。それに較べれば、お前の死はもつと重々しく、一つの纏(まと)まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆつくり営まれたのだ」(『夢と人生』)―。この文章を紹介しながら、梯さんは「妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無残さは原を打ちのめしたのである」と書いている。

 

 前述の被災者の肉親は7年たったいまも行方不明のままである。この人にとっては「慌ただしい無造作な死」さえまだ、訪れてはいない。「奥さんを大事にしてね」と逆に病弱な私の妻をいつも気遣ってくれた。その妻が旅立ったいまこそ、私は原民喜のように「無造作な死」の陰に隠された本当の「死」の意味をもう一度、確かめる旅に赴かなくてはならないのかもしれない。

 

 原は『鎮魂歌』(1949年8月)に中に絶叫するように書き付けている。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけに生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前たちは花だった。久しい久しい昔から僕が知つているものだった」―。原が自死するのはこのわずか1年半後のことである。葬儀委員長の思想家、埴谷雄高(はにやゆたか=故人)は「あなたは死によって生きていた作家でした」と弔辞を述べたという。

 

 「喪失」とはもうひとつの「生」を生き直すための里程標(りていひょう)なのだろうか―。

 

 

(写真は生前の原民喜=インターネット上に公開の写真から)

 

 

2018.09.04:masuko:コメント(0):[マスコラム]

ヒカリノミチ

  • ヒカリノミチ

 

 

 上掲の写真は東日本大震災から5か月後の2011年8月11日、私を含む有志でつくった支援組織「いわてゆいっこ花巻」が宗教学者で、当市・花巻出身の山折哲雄さん(87)を講師に招いて開催した「3・11大震災とイ-ハト-ブ」と題する講演会のポスタ-である。片隅に山折さんが震災後に書いた文章の一部が掲載されている。「言葉は無力です。そばに寄り添って祈るしかない。悲しみを共有できない負い目を背負う以外にない」(同年6月18日付「朝日新聞」)ー。このイベントの際、裏方として働いた妻はもういない。旅立って早や、1ケ月が過ぎた。この日(9月1日)、同じ会場の花巻市文化会館で開かれた「市民憲章運動推進第53回全国大会」で、山折さんは「賢治の銀河宇宙とマコトのまちづくり」をテ-マに講演した。妻の遺影をふところに忍ばせ、私は最前列で耳を傾けた。

 

 「イ-ハト-ブとは(宮沢)賢治が“人間苦”からの解放を目指した物語世界ではなかったのか」―。7年前に比べて、声はややかすれ気味だったが、「最近は妄想癖が高じて…」と“山折節”は健在だった。亡き妻は山折さんの言葉に導かれるようにして、被災者支援(ボランティア)に打ち込んでいった。今回の妻の訃報を伝え聞いた被災者の皆さんが先月中旬、焼香に訪れてくれた。「あの大震災で肉親や友人を失った皆さんのお気持ちが少し、分かったような気がします」―。不幸の度合いは比ぶべくもないと自覚しつつも、胸の奥にしまい込んでいた言葉をやっと、口にすることができたと思った。この日の歓迎アトラクションとして、賢治が生前、教鞭を取った県立花巻農業高校の鹿踊り部が賢治作品にも登場する「鹿(しし)おどり」の演武を披露した。

 

 「日ハ君臨シ  カガヤキノ/太陽系ハ  マヒルナリ/ケハシキタビノ  ナカニシテ /ワレラヒカリノ  ミチヲフム」―。賢治は当時、校歌を持たなかった生徒たちのために「精神歌」(花巻農学校精神歌)を作詞した。山折さんの話を聞きながら、私は4番目に出てくるこの歌詞こそが「イ-ハト-ブ」が目指す道行きではないかと思った。そういえば、今夏の甲子園大会で準優勝の偉業を成し遂げた秋田県立金足農業高校の校歌にも未来を暗示する内容がある。「可美しき郷  我が金足/霜しろく  土こそ凍れ/見よ草の芽に  日のめぐみ/農はこれ  たぐいなき愛/日輪の  たぐいなき愛/おおげにや  この愛/いざや いざ  共に承けて/やがて 来む  文化の黎明/この道に  われら拓かむ/われら われら  われら拓かむ」…

 

 背中合わせの両県の農業高校の生徒たちから、力をもらったような気がする。「ヒカリノミチ通信」という新しいタイトルで、私はブログを再開しようと思う。亡き妻とこの国の未来に光あれ―という願いを込めて…。「マコトノクサ通信」から「イ-ハト-ブ通信」を経て、今度は「ヒカリノミチ通信」へ―。考えてみれば、わがブログは賢治の物語世界を行ったり来たりしていたのだった。奇しくもこの日、山折さんは「里に降りてよみがえる『先祖』」と題する一文を新聞に寄せている。その一節を引用する。ちなみにこの日は95年前、約10万5千人の死者・行方不明者を出した関東大震災の日に当たっている。

 

 「戦争で死んだヒト、災害で命をおとしたヒト、それぞれの寿命を生きて去っていったヒト、みんな帰るべきところに帰っていく。…山にのぼり森に入った先祖たちは、やがてカミの変化(へんげ)、ホトケの化身としてふたたび里に降りてくる。里からの魂呼(たまよ)ばいの声に答えて降りてくるのだ。それが昔からの古式ゆかしい、人間関係ならぬ対魂関係の、素朴な姿だった」(9月1日付「朝日新聞」be面)―。旅立った妻との魂の対話はこれから、どんな形で始まるのだろうか…。私は「精神歌」を口ずさみながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 


日ハ君臨シ  カガヤキハ/ 白金ノアメ  ソソギタリ

ワレラハ黒キ  ツチニ俯(ふ)シ /マコトノクサノ  タネマケリ(1番)

 

日ハ君臨シ  穹窿(きゅうりゅう)ニ/ミナギリワタス  青ビカリ

ヒカリノアセヲ  感ズレバ/気圏ノキハミ  隈(くま)モナシ(2番)

 

日ハ君臨シ  玻璃(はり)ノマド /清澄ニシテ  寂(しず)カナリ

サアレマコトヲ  索(もと)メテハ/白亜(はくあ)ノ霧モ  アビヌベシ(3番)

 

 

(写真は復興支援と銘打った山折講演会のポスタ-)

 

 

 

 

さらば、「イ-ハト-ブ」議会―そして、さようなら、妻よーさらに、医師の本然ということについてーあぁ、無情の中部病院かな

  • さらば、「イ-ハト-ブ」議会―そして、さようなら、妻よーさらに、医師の本然ということについてーあぁ、無情の中部病院かな

 

 「新人議員にとって、そこはまさに異次元の世界だった。見るもの聞くものすべてが珍しいことばかり」(平成22年9月28日付「岩手日報」日曜論壇)という書き出しで始まる、その寄稿文はこう結ばれている。「議会改革の入り口は、まさに議場出入り口の開閉行為の是非を論じることから始めなければならない」―。アラセブ(70歳)「最後の決断」を掲げた8年前(平成22年7月)の花巻市議会議員選挙で、初当選した私は初めての9月定例会の光景に腰を抜かしてしまった。議場の出入り口に陣取った若い議会事務局員がホテルのドアマンよろしく開閉にいそしみ、胸を張った議員や市幹部が次々と入場していった。私が投稿したこの記事には「理解できぬ議員の『特権』」という見出しが付けられていた。

 

 恐るおそる議場に足を踏み入れて、二度びっくりした。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に登場する妖精たちも顔負けの魑魅魍魎(ちみもうりょう)や道化役者が跋扈(ばっこ)する不思議な世界が目の前に広がっていた。当時は民主党による政権交代に伴う沖縄の「米軍基地」問題の顕在化や、引き続いて起きた東日本大震災と福島原発事故によって、政治の真価が問われる激動の時代に立たされていた。郷土の詩人、宮沢賢治が詩「雨ニモマケズ」で訴えた、受難者に寄り添う「行ッテ」精神が脚光を浴び、全世界から支援の手が差し伸べられた。ところが、足元では…。「義援金」流用疑惑や議員による被災者への暴言(「さっさと帰れ」発言)、追及した私に対する懲罰など「イ-ハト-ブ」(賢治の理想郷)の片隅では真逆の密室劇が連日のように繰り広げられていた。

 

 あれから8年―(7月)22日、花巻市議会議員選挙が告示された。26の定数に対し、28人(現職18人、新人9人、元職1人)が立候補した。そこに私の名前はない。今回、出馬を見送って、初めて真夏の夜の“悪夢”からハッと目覚めたような気がした。いま目の前には「3・11」を思い出させる西日本豪雨の惨状が荒野のように広がっている。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」(「雨ニモマケズ」)―。賢治の警句が今さらのようによみがえってくる。震災の記憶しかり、沖縄の米軍基地問題しかり…。世の中はこの警句に逆らうように推移してきたように思える。中央も地方もこの間、一気に奈落へと転げ落ちていった。私の議員生活はまるで虚空(こくう)に向かって虚しく、叫びつつけてきた2期8年間だったのだろうか。

 

 「共産党や公明党は『保守』で、自民党と日本維新の会が『リベラル』(革新)」―。早稲田大学現代政治経済研究所などが40代以下の政治意識を調査した結果。若者の保守化傾向が浮き彫りになった。しかし、このことは同時に地方議会で「保革」の境界線があいまいになったことの証左でもあった。国政の場で「議院内閣制」が機能しなくなってきたのと歩調を合わせるようにして、地方議会の基本原則である「二元代表制」も崩壊の淵に立たされている。いわゆる「オ-ル与党化」である。

 

 例えば、当花巻市議会では議員の生命線である「質問権」が行政トップによって、蹂躙(じゅうりん)されているにもかかわらず、それに異議申し立てする議員はわずかしかいない。本来なら、議会改革を先導すべき、いわゆる「革新系」議員が”保守化”(オ-ル与党化)に手を貸すという体たらくである。任期最後に当たる6月定例会で、私は上田(東一)市政に対する総括的な質問を37分間にわたって行った(6月7日付当ブログ参照)。政治理念や政治哲学を最後に問いたいと思ったのである。「書を捨てよ、町に出よう」―。寺山修司をてらったような暴言が飛び出した。その実、寺山の真意を理解している風もなく、こう言い放った。「(増子)議員は市政に関係のない本ばかり読んでいるらしい。外の声にも耳を傾けた欲しい」

 

 忠告に従って、以前購入した『地方議員』という本を再読してみた。著者の佐々木信夫さんは岩手県出身の元東京都職員で、行政学や地方自治論のプロである。こんな文章が記されていた。「無批判的にオ-ル与党化していく議会が、どんな役割を果たすのだろうか。議会の本来持つ野党的機能などはどこかに消え、すべて首長の提案を丸呑みする、単なる追認機関となってしまう。じつはそのことが、首長などの役所ぐるみの汚職をはびこらせる要因にもつながる。議会は、執行機関との関係では与党的な行動ではなく、基本的には野党的な関係にあることが期待されている。機関対立主義という考え方がそれだ。議員はそのことを忘れて行動してはならない」

 

 上田市長は答弁の際にこうも口走った。「(増子)議員の質問は抽象的で答えようがない。見てください.ほかの議員の皆さんは市政にかかわる事柄をきちんと聞いてくださる」―。質問時間を持て余したうえ、まるで”御用聞き”みたいな質問を見せつけられてきた身としては、鼻白む思いである。議員自身が馬鹿にされていることに気が付かない―これを称して「愚民政治」というのであろう。つまり、議員だけではなく、彼らを選ぶ有権者も馬鹿にされているということである。「安倍」一強ならぬ、「上田」一強体制がこうして、着々と築かれていった。これはもう、シェイクスピアの喜劇どころか、「賢治」悲劇の極みと呼ぶしかない。

 

 「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」―。今年1月26日に逝去した元自民党幹事長の野中広務さん(享年92歳)は、「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)の採決に際し、異例の発言をした。絞り出すような口調で、野中さんは沖縄での体験を口にした。「タクシ-の運転手が突然、ブレ-キを強く踏んで車を停め、『あそこのサトウキビ畑で私の妹が殺された』と言ったかと思うと、急に泣き出した。号泣はしばらく止まらなかった」

 

 この列島の端から端まで、野中さんの思いを裏切るような方向に進んでいる。つまり、全国規模の翼賛化の動きである。加えて、最近の政治家のことばの劣化は目を覆うばかりである。森友・加計問題、公文書改ざん問題、セクハラ発言…。そして、その極めつけはオウム真理教元幹部の集団処刑と西日本豪雨が切迫するさ中、安倍晋三首相らが参加した「赤坂自民亭」なる”料亭”での酒盛り。時事芸人のプチ鹿島さんはこう語っている。「こういう時、いちいちギョッとして、反応しなくちゃいけないと思うんです。『あっ、また始まった』で済ませていたら、後で取り返しのつかないことになるんじゃないでしょうか」(7月21日付「朝日新聞」耕論「政治家/空疎なことば」)―。そういえば、私自身「ギョッとし続けた」8年間だったような気がする。

 

 今月29日、花巻市議会の新しい顔ぶれが決まる。議員としての矜持(きょうじ)を持し、正々堂々とと論陣を張ることのできる有為な議員の誕生を切に望みたい。高々と掲げられた「イ-ハト-ブはなまき」という将来都市像によもや、泥を塗ることがないように…。最後にナチスドイツと闘い続けたユダヤ系哲学者、ハンナ・アーレント(1906-1975年)の言葉を紹介して、ペンを置きたい。「凡庸なる悪」こそが政治を腐敗させる最大の要因であることを銘記しつつ…。

 

 「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました」―。これからは外野席(傍聴席)から密室劇の成り行きを見守っていきたいと思う。では、さらば「イ-ハト-ブ」議会…。改選議員(26人)による初議会(9月定例会)は8月31日、開会した。

 

 

(写真は最後の一般質問。登壇質問としては過去最長を記録した=6月7日、花巻市議会議場で)

 

 

 2期8年間にわたって、お届けしてきた議会報告(ブログ)「イ-ハト-ブ通信」(1期目は「マコトノクサ通信」)を今回をもって、閉じたいと思います。脈絡のない乱暴な文章を書き連ねてきましたが、長い間のご愛顧に心から感謝を申し上げます。また、別の形でお会いする機会のあることを願っています。酷暑が続いています。西日本の被災地の皆さま、そして、お付き合いいただいた多くの皆さまのご健康をお祈りいたします。

 

2018年7月22日

花巻市議会議員 増子 義久

 

《追記-1》

 

 花巻市議会議員選挙の投開票日の29日未明、私の波乱万丈の議員生活を寡黙に見守り続けてくれた妻が旅立った。後半生は重い病と闘い続けた75年の人生だった。人生の最後を楽しんでもらおうと思っていたのに、不憫でならない。沖縄・石垣島に住む一人娘夫婦と二人の孫たちのそばのサンゴ礁の海に眠ってほしいと思う。新聞記者と議員という生活で苦労のかけっぱなしだった。こんな荒っぽい人生を支えてくれるのはたぶん、君しかいなかった。ありがとう。さようなら。

 

 

《追記ー2》

 

 詳しくは言及しないが、数年間に及ぶ妻のがん闘病記(肺がん)を観察しながら、医療現場の荒廃を感じることが度々あった。今回の直接の死因は消化器出血による”突然死”だったが、消化器内科での診察予約日の前日に息を引き取った。この間、呼吸器内科の主治医から消化器異状(小腸)の告知があったが、予約日まで約2週間の空白があった。妻は見る見るうちにやせ細っていった。本日(8月6日)、私自身の診察が同じ主治医(呼吸器内科)の元であったため、「医療法」の骨子(いわゆる「説明と同意」原則)をコピーして手渡した。以下に転載するが、医師の本然に立ち返ってほしいという願いからである。医師不足や患者数の増加に責任を転嫁してはならない。この日は73回目の広島原爆の日であった。

 

 

第1条 この法律は、医療を受ける者による医療に関する適切な選択を支援するために必要な事項、医療の安全を確保するために必要な事項、病院、診療所及び助産所の開設及び管理に関し必要な事項並びにこれらの施設の整備並びに医療提供施設相互間の機能の分担及び業務の連携を推進するために必要な事項を定めること等により、医療を受ける者の利益の保護及び良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制の確保を図り、もつて国民の健康の保持に寄与することを目的とする。

 

第一条の二 医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、及び医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるとともに、その内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む良質かつ適切なものでなければならない。

 

第一条の四 医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、第一条の二に規定する理念に基づき、医療を受ける者に対し、良質かつ適切な医療を行うよう努めなければならない。

 

 医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない。

 

 

《追記ー3》

 

 当ブログの追記-2を書いた直後、岩手最古のジャズ喫茶オーナーで、東日本大震災で被災後、花巻市に移住していた友人の訃報が飛び込んだ。8月2日に食道がんの手術を受け、4日後の5日夕、急死したのだという。妻と同じ病院の消化器内科での出来事だった。単なる偶然だとはとても思えない。何かが欠けているのではないか。この国の劣化現象はあらゆる分野に及んでいるのかもしれない。大槌町の瓦礫の荒野の中で、レコードの破片を拾い集めたことを昨日のことのように思い出す。

 

 

《追記ー4》

 

 岩手最古のジャズ喫茶オーナーだった佐々木賢一さん(享年77 追記ー3)の葬儀・告別式が9日、ふるさとの大槌町で営まれた。東日本大震災で消失した菩提寺「江岸寺」のプレハブの仮本堂には訃報を聞きつけたジャズファンが集まった。畏友のサックス奏者、坂田明さんの「ひまわり」(同名の映画主題歌)と「家路」(ドボルザーク)が髭の賢ちゃんの遺影の前に響いた。震災直後、跡形もなく消えてしまったジャズ喫茶「クイーン」の跡地で吹いたのも同じ曲だった。辛うじて崩壊を免れた先祖の墓に賢ちゃんは、みんなに見守られながら帰っていった。妻に続いて、ジャズの奥義を教えてくれた友人が去り、今度は沖縄のこころを訴え続けた沖縄県の翁長雄志知事が旅立った。大切な人たちが次々にいなくなる。寂しい…。この日は73回目の長崎原爆の日であった。

 

 

《追記ー5》

 

 妻の診察の一件(追記ー2)で、私の主治医でもある同じ呼吸器内科の医師との信頼関係が崩れたと判断。8月6日の受診の際に看護婦を通じて、他への転院を希望し、紹介状の作成を依頼した。この際に必要な「診療情報提供料」も支払い、郵送の確約を得たが、11日までに届かなかった。ホームページを見ると、13日から3日間は盆休みの一斉休診となっており、届くのは早くても盆明けの16日以降になりそう。実は6月29日に妻の要介護・要支援認定の申請を花巻市に行ったが、必要書類である主治医の意見書の提出が遅れたため、審査判定が遅れるという経緯があった。この組織はどこまでタガが緩んでいるのか。もう、病院名を秘する必要はあるまい。当該病院はれっきとした「岩手県立中部病院」(北上市)である。

 なお、ブログ表記の市議職は8月1日をもって、「前職」になりました。肩書の訂正などデザインの衣替えを外注していますので、今しばらくお待ちください。

 

 

《追記ー6》

 

 以前から、口にするのも憚(はばか)られるようなとかくの噂がささやかれる病院ではあったが、妻が実際に治療を受けることになるまでは「まさか」という気持ちが強かった。しかし、今となっては不本意にも「やはり」という思いにさせられてしまう。本日(8月11日)、転院に必要な紹介状がやっと届いた。私とこの病院との関係はこれをもって終わるが、病院一丸となって、患者・家族に寄り添う組織作りに立ち上がってほしいと切に望みたい。

 「イーハトーブ通信」としてのブログはこの稿をもっていったん閉じ、近く新しい形で再開したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説の作法ということについて

  • 小説の作法ということについて

 

 第159回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が7月18日に行われ、前者には高橋弘希さん(38)の『送り火』、後者には島本理生(りお)さん(35)の『ファ-ストラヴ』が選ばれた。芥川賞候補にノミネ-トされたものの、他作品との類似表現が指摘されていた北条裕子さん(32)の『美しい顔』(群像新人文学賞)は選外となった。同作品は東日本大震災で被災した女子高校生が一人称の形で揺れ動く心を紡(つむ)ぐ内容。ところが、作品中にはノンフィクション作家、石井光太さんの『遺体』など3・11を題材とした5作品からの引用と思われる個所が多数見つかり、その捉え方をめぐって出版界で議論が続いていた。

 

 この件について、出版元の講談社は文芸雑誌『群像』(8月号)で、こう謝罪した。「主要参考文献として掲載号に明記すべきところ、編集部の過失により未表記でした。文献の扱いに配慮を欠き、類似した表現が生じてしまったことを、石井氏及び関係各位にお詫び申し上げます。また、東日本大震災の直後に釜石の遺体安置所で御尽力された方々に対する配慮が足りず、結果としてご不快な思いをさせたことを重ねてお詫び申し上げます」―。これに対し、『遺体』の発行元の新潮社は「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」と反論。講談社は著作権の侵害にまで及ぶものではないとして、今月4日付で自社ホ-ムペ-ジに『美しい顔』を全文公開し、読者に当否の判断を委ねている。

 

 「小説の作法とは何か」―。今回の問題は著作権のあり方などを含めた文学作品の表現形態のあり方を問うたものとして注目される。その本質的な議論は今後に期待するとして、出版に際しての「マナ-」や「ル-ル」に関し、講談社が公に謝罪したのは評価される。実は第158回直木賞を受賞した同社発行の『銀河鉄道の父』(門井慶喜著)について、同じような懸念を抱いた経緯があった。400か所以上に及ぶ文中の「方言」個所の“翻訳”が外部委託されていたにもかかわらず、その旨の表記が記載されていなかったのである。その意味では、今回の「類似表現」問題と同じ次元の構図ではないかと思う。

 

 方言表記が同書の心臓部分を形成していただけに、とくに宮沢賢治の地元・花巻には違和感を表す読者も少なからずいた。このため、私は公開質問状を講談社に送り、その見解をただした。今後の留意を促すのが本意だったため、これまで公開を控えてきたが、今回の問題に接し、当方の真意がきちんと伝わっていなかったのではないかという思いを強くした。小説の「作法」論争の一助に資すると考え、以下に全文を公開する。大手出版社が陥りやすい、読者不在の“おごり”はなかったのか―この懸念が杞憂(きゆう)に終わることを願っている。大方の読者の判断を仰ぐことができればと思う。

 

 

 

  株式会社 講談社 文芸第二出版部御中

 

《公 開 質 問 状》

 

 この度は御社発行『銀河鉄道の父』(門井慶喜著)の直木賞受賞、おめでとうございます。さて、突然のご連絡をお詫び申し上げます。私は岩手・花巻在住の増子義久(ますこよしひさ)といい、現在、花巻市議を務めています。実は本書に関連し、2018年1月21日付の地元紙「岩手日報」に同封の記事が掲載されました。宮沢賢治記念館の学芸員の立場にある筆者が、御社から依頼されたという「本文会話の花巻言葉化(方言化)」はざっと数えただけでも500か所前後に上っています。この本の生命線は何といっても宮沢賢治の父、政次郎など親族の間で交わされた方言による会話部分だと考えます。

 

 今般、同じように賢治にちなんだ作品で芥川賞を受賞した『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子著)も方言の力強さが評価されたと言われています。しかし、若竹本が“母語”としての方言であるのに対し、門井本は第三者によって“翻訳”された方言という点が決定的に違っています。昨年秋に歌人、石川啄木のうたを東日本大震災の被災地、岩手・三陸の「おんば」(おばあちゃん)たちが“翻訳”した『東北おんば訳/石川啄木のうた』(新井高子編著)が出版されました。歌人の俵万智さんは「訳というのは、単なる言葉の置き換えではない、心の共有なのだと感じました」と評しています。

 

 とりわけ、今回の芥川賞と直木賞はさながら東北弁という「方言力」の競演の趣さえありました。最近では「ありがとがんす」(賢治)、「なんもだ」(政次郎)と花巻弁を口にする二人の写真入りの新聞広告(つまり御社のPR)が紙面を飾るというフィ-バ-ぶりです。花巻人として、手放しで喜んでいいものやらと複雑な気持ちにもさせられます。以上のようなことを念頭に置きながら、以下について質問します。「土地の言葉(方言)には言霊が宿っている」―故石牟礼道子さんがのこした“遺言”が今さらのようによみがえってきます。

 

 

 

1、本書は厳密な意味で、門井さんの「単著」と言えるのか

2、方言化などの編集協力について、「付記」などの記述がないのはなぜか。今後の増刷に際して、その点を再考する考えはないか

3、編集協力のきっかけについて、上記「岩手日報」紙には「その出版社(御社)校閲部に高校の同級生Oさんが勤めており、門井さんが大阪住まいで<花巻弁>がわからないということから、私のことを紹介したのだった」と記されている。こうした安易な依頼自体が読者不在ひいては読み手への冒涜につながるとは考えなかったか

4、本作のようにその核心部分へ第三者が関与した場合の著作権の帰属はどうなるのか。末尾に「本書のコピ-、スキャン、デジタル化等の無断複製は著作権法上での例外を除いて禁じられています」と書かれているが、今回のケースとの整合性をどう考えるか。編集協力者に対する印税の配分などはどう定められているのか

5、第三者による方言化に際してはどうしても翻訳者の主観が入ると思われるが小説の作法上、その点をどう認識するか

6、方言化の第三者への依頼など今回の出版に至る経緯について、選考委員会への説明はなされたのか。選考協議はその点を踏まえたうえでなされたのか

以上

 

《追記》

 今回の直木賞受賞作品については、同じような疑問が市民から寄せられたため、開会中の花巻市議会3月定例会の一般質問(3月8日)で、学芸員としての関与の在り方などについて、市当局の見解をただした経緯があります。そのうえで、出版当事者の御社のお考えをお尋ねする次第です。2018年3月31日までに文書にてご回答をいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。なお、御社とのやり取りの経緯については、私のブログ「イ-ハト-ブ通信」に公開することもあることをつけ加えさせていただきます。

 

 2018年3月9日

 岩手県花巻市桜町3-57-11 増子 義久

 

 

 

増子義久様

拝復

 本年3月9日の消印にてお送りいただきました弊社発行の門井慶喜さんのご著作の『銀河鉄道の父』についての公開質問状にお答えいたします。

 

                   

 

1、本書は著者である門井慶喜さんが作家としての想像力を駆使して作り出した著作物であり、完全な「単著」です。本書は広く日本国民に親しまれている宮沢賢治とそのご家族を材にしております。これまでにもさまざまな形で伝えられ研究されてきました歴史的事実には従っておりますが、それは実在の人物を描く歴史時代小説としては当然のことです。しかし、賢治の父である政次郎についてはあまり多くの資料がありません。その数少ない事実は曲げないなかで、多くの場面や会話を著者はすべて自らの創意によって描いています。

2、一つの作品が出来上がるためにはさまざまな協力、影響、参照などがあり、それらを作品に付記するかどうかは個別の判断に任せられています。本書についてはすべて付記しませんでした。

3、方言指導の依頼は通常の編集作業であり、今回の依頼の経緯が「安易」「読み手への冒涜」とは考えません。

4、「核心部分へ第三者が関与した」とありますが、方言指導を受けている会話は①に記しましたようにもともとすべて著者の創作のままで、本作の方言化部分も著作権は著者に帰属すると考えています。ですから、方言指導をいただいた方へも著作権に基づく印税ではなく原稿料の形で報酬をお支払いしています。

5、本作の場合、地の分も含めた全体ではなく、会話に絞って方言指導をお願いしました。指導を受けた個所は多数かもしれませんが、それらは特定の言葉への置き換えであったり語尾の変化であったりしており、指導者の主観が大きく入るとは考えません。また、本作では指導者のご指摘を著者が一度検討して方言の度合いを調整するという手順も踏んでおりました。

6、「選考委員会」というのは直木賞を運営している日本文学振興会ということかと思いますが、前述してきましたように本作は門井慶喜さんの単著ですので、方言指導の扱いについてこちらから説明することはありませんでした。

 

以上、ご理解いただけますと幸いです。

 

敬具

2018年3月27日

東京都文京区音羽2-12-21

株式会社 講談社

第五事業局 文芸第二出版部

担当/小林龍之

 

 

 

2018.07.18:masuko:コメント(0):[マスコラム]

「平成30年7月豪雨」と被爆地・広島

  • 「平成30年7月豪雨」と被爆地・広島

 

 

 「ヤバイ、亜弥ちゃんの家が…」―。重い病を抱える妻の介護のため、一時帰省していた沖縄・石垣島在住の娘がスマホをのぞき込みながら大声をあげた。大学時代の親友で現在、広島県の東広島市に住む写真家、藤岡亜弥(46)さんからの緊急メ-ルだったらしい。「雨がすごい。すぐ裏が山だから、怖い」―。友人はすんでのところで難を逃れて無事だったが、今回の豪雨災害で最大級の被害を受けたのが広島県だった。テレビを見ながら娘がポツリと言った。「川って言えば、亜弥ちゃんは今度、太田川に焦点を当てた写真集と『アヤ子、形而上学的研究』の展示作品が評価され、木村伊兵衛賞をもらったんだよ」。同賞は写真界の「芥川賞」と言われている。さっそく、受賞作『川はゆく』(2017年、第43回木村伊兵衛賞)を取り寄せた。

 

 広島市内の中心部を流れる旧太田川は被爆地・広島を象徴する川である。全身に大やけどを負った被爆者たちが「水をください」と叫びながら、飛び込んでいった川として記憶に刻まれている。「川は血のように流れている。血は川のように流れている」―。受賞作のカバ-にはこう記されている。原爆ド-ム近くの歩道でジャンプする女子学生たち、川べりで抱擁する若い男女、広島球場の空を埋め尽くす歓喜の風船…。70年という時空を隔てた現代の風景の背後から「ヒロシマ」が影絵のように浮かび上がってくる。3年前、ニュ-ヨ-クから生まれ故郷の広島に生活の拠点を移した藤岡さんはこう語っている。「70年という時間の厚みの中で消されてしまったヒロシマの歴史を想像しながら、生活の中で見えにくくなっているヒロシマの痕跡を探そうとした」

 

 「太田川の支流のほとんどが決壊してしまった。まだ、断水したままだ」―。同じ広島県の尾道市に住む畏友(いゆう)の映画監督、森弘太(80)さんはほとほと疲れ果てたという声で現地の状況を伝えてきた。未認定の被爆者に焦点を当てた映画「河/あの裏切りが重く」(1967年、モントリオール国際映画祭招待作品)などの問題作を問うてきた森さんにとっても、今回の大災害はあの被爆の光景と重なり合うものだったらしい。外傷被爆者が登場していないという理由で、制作当時は地元広島での上映が拒否された。東日本大震災以降、福島原発事故に伴う内部被爆や広島や長崎における被爆二世・三世など新しいタイプの「被爆」に関心が向けられる中、この映画が再評価されるようになった。

 

 映画と写真という二つの「映像」技術によって、あらためて「被爆地・広島」の記憶を呼び戻してくれた「平成30年7月豪雨」―。原水爆禁止運動が社会党系と共産党系に分裂し、安保闘争が敗北した結果、アメリカの核の傘の下に身をゆだねることになった日本…。壊滅した被爆者運動の陰で、非外傷性被爆者は補償の埒外(らちがい)に置かれていた。夜の平和公園で自殺しようとしていた被爆老人を助け出すシ-ンがある。老人は「ピカがもう一度落ちればいい」と吐きすてるように言う。「河/あの裏切りが重く」は被爆者を社会から葬り去ろうとする、この国とそこに住まう人間の「冷酷」を描いて余すところがない。森さんにとって、太田川とはこの「分断」の象徴だったのである。

 

 森さんとは親子ほどの隔たりがある藤岡さんがその記憶を引き継いでいることに何か胸に迫る思いがした。藤岡さんは東広島市内のアパ-トで生活しながら、町を歩きつつ日常を撮ったスナップを写真集にまとめた。広島に向き合う時、「わかりやすい『ヒロシマ』のイメ-ジにはしたくない」と強く意識した。平和教育で戦争や原爆を学んだが、実際には戦争を知らない世代。「わからないこと」を大切に、「今の広島の姿をメモをするように撮った」という。選考委員からは「広島出身の作者が、まさに撮るべきものを撮った」と評価された。「受賞は知らなかった。あなたの娘さんの親友とはこれまた、不思議な縁だね。広島にこだわる後継者がいることに嬉しさを感じた」―。森さんの声は電話口で弾んでいた。

 

 「そういえば、亜弥は学生時代から歴史の奥をのぞき込むような視線を持っていたようだった」と娘は言った。早々と写真の世界から身を引いた娘はいま、石垣島で夫とカレ-ライス店を経営している。「遠いからしょっちゅうは来れないからね。お母さんの介護は人生最後の試練。頑張ってね」―。娘はこう言い残して、1週間の介護を終えるとそそくさと島に戻っていった。二人の幼い子を育てながらの店のやりくりだから、これも致し方あるまい。

 

 『川はゆく』をめぐりながら、私は殊勝な気持ちでわが人生の来し方を振り返える。そして、ブツブツとつぶやく。「そうか、被災者や沖縄に寄り添うことの大切さを訴えてきたつもりだが、それが本物かどうか…。今度は一番身近な存在にきちんと寄り添うことができるかどうかで、そのことが問われているっていうわけか。そう、人生の真価が試される最後の修行なのかもしれないな。それにしても、あんた、随分と大げさじゃないか。気張りすぎだよ」―。かたわらのテレビは豪雨被害がまだ拡大しつつあることを伝えている。その無残な光景と旧太田川の被爆残像とが二重写しになって、まなうらに浮かんでは消えた。この川こそが記憶の風化を峻拒(しゅんきょ)する「ヒロシマ」の生きた歴史遺産にちがいないと思った。

 

 

(写真は原爆ド-ムと女子学生のコントたストが歴史のつながり想起させる=写真集『川はゆく』から)

 

 

2018.07.13:masuko:コメント(0):[マスコラム]