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一身にして二生を経るが如し

  • 一身にして二生を経るが如し

 

 上掲の写真は58年前の1960年6月18日の国会周辺の光景である。「安保改定」反対―「岸内閣」打倒を叫んで参集した学生や労働者、市民の数はピーク時には50万人に達した。その中に闘争を主導したブント(共産主義者同盟)書記長の島成郎(しましげお)がいた。時計の針が午前零時を回ったその瞬間、日米安保条約の改定(新安保条約)は自然成立した。3日前には東大生の樺美智子さん(当時22歳)が機動隊とのもみ合いの中で圧死した。島が全学連委員長にスカウトした、北海道大学出身の唐牛健太郎(1937~1984年)はこの日は獄中にあった。「組織を賭(か)けて闘った安保闘争は、この夜の闘いとともに敗北し終熄(しゅうそく)する。私のブントそのものの敗北でもあった」(『ブント私史』)と島は書いた。その群衆の片隅に私もいた。

 

 最新刊『評伝 島成郎』(以下「評伝」)の筆者であるフリ-ジャ-ナリスト、佐藤幹夫さんは福沢諭吉の『文明論之概略』の一節…「一身にして二生を経るが如し」という書き出しで始めている。「二生」のひとつは政治活動家としての島であり、もうひとつは「ブントから沖縄へ/心病む人びとのなかへ」という副題が示すように精神科医としての島である。島や唐牛と同志的な関係を持ち、今年1月に自らの命を絶った評論家の西部邁(にしべすすむ)については1月29日付当ブログ(「ある保守論客の自裁死」)で触れた。唐牛の破天荒な人生など「60年安保」群像は『唐牛伝―敗者の戦後漂流』(佐野眞一著)に詳しい。佐藤さんは冒頭である事件を取り上げている。

 

 1968年5月8日、厚生省(当時)から派遣された島は那覇空港に到着した飛行機の中で足止めを食っていた。安保闘争を指揮したリ-ダ-に米軍側がビザを発給しなかったからである。この措置はすぐに解除され、以後、島の沖縄での医療活動は中断を挟(はさ)んで約25年に及んだ。日本共産党に反旗を翻(ひるがえ)した島ら学生運動家を中心に結成された新左翼「ブント」はわずか1年半余りで解散に追い込まれた。敗北宣言の後、島はこう語っていたという。「俺達はやっぱり沖縄に対して責任があると思う。サンフランシスコ講和条約で本土は沖縄を切り捨てたんだよ。60年の時、それをもっと尖鋭(せんえい)にやるべきだった」(「評伝」)―。新安保条約とセットで結ばれた「日米地位協定」が現在に至るまでの米軍基地の固定化につながったことを島は自覚していた。

 

 「母屋に接した6畳程のブロック造りの監置所にいれられ、外部との交通は1日2回の食事の差し入れ口である20センチメ-トル四方の小穴だけで、暗闇の中、糞便にまみれた生活を強いられている中年の女子患者を診た。離島で、これまた数年来、鎖で足を縛られたまま奥の一室に監禁されている侏儒(しゅじゅ=身体の小さいこと)の重度精神薄弱の患者さんもいる。或いは十年来、無動のまま放置され、両膝関節硬直を起こして歩行できないで、近所の人に負われ病院に連れてこられた患者さんもいた」(「評伝」)―。東大医学部に復学し、もうひとつの人生を踏み出した島はいきなり、こんな現実を突き付けられた。沖縄戦の傷跡の深さと復帰後も米軍の支配下に置かれた沖縄最前線の景色が影絵のように目の前に広がった。

 

 島は大酒のみで豪放磊落(ごうほうらいらく)だった。『唐牛伝』の中にはこんなエピソ-ドが紹介されている。「はい、お酒は大好きでした。診療が終わると、看護人、看護師らと肩を組んで宜野湾市に隣接する普天間の飲み屋街を練り歩いていました。島先生は飲むとすぐ靴を脱ぎ、靴下を脱ぐんです。そして裸足でバ-の床を歩き回る。やっぱり、人間を縛るものは靴も靴下も全部嫌いだったんじゃないですかね」。私も何度か普天間界隈に足を運んだことがある。市の中心部を米軍普天間飛行場が占拠し、その周りにへばりつくように飲食店が密集している。この現実を日々、目の当たりにしていたはずの島はまるで”封印”するかのように安保闘争や基地問題を口にすることはなかったという。ある種の贖罪感(しょくざいかん)がそうさせたのかもしれない。

 

 佐藤さんは「島の本領が何かといえば、『人と出会い、つなぐ力の強さ』である」と書き、こう続けている。「島は、精神の病理は人と人との関係における葛藤や苦しみに始まりを持つ、という病理感をもち、従って治療の場は病院ではなく、人が生きる場所、つまり地域こそが最良である治療観を、終生手放さなかった医師である」―。島が提唱した「治療共同体」構想である。「ヴ・ナロ-ド」(人民の中へ)…島の沖縄への道行きを佐藤さんは古典的な表現でこう呼んでいる。考えてみれば、島の「二生」とはブントを立ち上げた時から沖縄の苦悩の最前線に身を置いた時に至るまで「ヴ・ナロード」だったことに心づく。

 

 沖縄本島北部の瀬底島(せそこじま=国頭郡本部町)に終(つい)の住まいを定めた島は2000年10月17日午前7時30分、旅立った。まだ、69歳の若さだった。ノンフィクション作家の佐野さんは島や唐牛、西部など、さながら万華鏡みたいな「60年安保」群像を評して、こう述べている。「ブント全学連の幹部たちは、闘争終了後も、『大衆社会』に埋没することなく、己の信ずる道を進んだ。60年安保後、日本は驚異的な経済発展を遂げた。だが、なぜか不安感ばかりが募って自足できず、すべてがあっという間に消費される社会になった。『異論』はきれいに排除され、ポピュリズムと反知性主義という暴風が吹き荒れるなか、みな同じ方に向かせようとする不気味な世界になったという意味である」(『唐牛伝』)

 

 瀬底島と背中を接するようにして米軍普天間飛行場の移転先とされる名護市辺野古の新基地建設現場がある。安保闘争時の岸信介首相がその基礎(安保改定と日米地位協定)を築き、孫の安倍晋三首相が総仕上げ(安保法制と憲法改正)を強行する現場がここにある。島はかつて、こう喝破した。「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」―。島の眼(まなこ)は亡きあともその現場をにらみつけ、私の心の中のブントは今もまだ生き続けている。

 

 

(写真は「安保粉砕」を叫んで国会を包囲する人の群れ。戦後最大の示威行動といわれる=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.04.29:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「赤報隊事件」から“赤報隊”的時代へ

  • 「赤報隊事件」から“赤報隊”的時代へ

 

 「地下に潜んでいた赤報隊がついに、その正体を現したのではないか」―。幹部自衛官の「国民の敵」発言(4月20日付当ブログ参照)を知った時、刹那的にそう思った。いや、正確に言えば、“赤報隊的”な考え方に国民の側が耐性を失いかけているのではないか―という思いである。その前後、『記者襲撃―赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著)と題するノンフィクションを読んでいたせいかもしれない。元朝日新聞記者の樋田さんは事件の発生以来、取材班のキャップとして陣頭に立ち、定年退職して65歳になったいまも見えざる犯人(国民の敵)を追い続けている。「赤報隊事件」とは一体、何か―。

 

 1987年5月3日の憲法記念日のその日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に目出し帽で顔を隠した男が押し入り、散弾銃を発砲。当時29歳の記者が死亡、42歳の記者が重傷を負った。この事件を挟(はさ)んで前後3年4か月間に同じような“言論テロ”が8件相次いだが、2003年3月にすべてが時効になった。いずれの場合も「赤報隊」を名乗るグル-プから犯行声明文や脅迫状が報道機関などに送り付けられた。幕末維新、江戸騒擾(そうじょう=テロ)の一役を担(にな)ったものの、後に「偽官軍」として処刑されたのも同じ名前の赤報隊だった。伝統右翼や新右翼、暴力団系右翼…。「あなたは犯人ではないのか。そうでないのなら、その証拠を示してほしい」―。警察庁がリストアップした「9人」との息詰まるような対決が続く。

 

 「われわれは日本人である。日本にうまれ、日本にすみ、日本の自然風土を母とし、日本の伝統を父としてきた。われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である。特に、朝日は悪質である。全国の同志は、われわれの後に続き、内外の反日分子を一掃せよ」(要旨)―。8通の犯行声明文に共通するのは戦前回帰的な文言である。樋田さんが対峙したある右翼関係者が不気味な言葉を残している。「われわれにとって、捕まらないまま逃げおおせた赤報隊はまさに好都合だ。記事や言動次第では、赤報隊が再び動き出すぞ、という無言の圧力をかけ、今後も社会の重しの役割を果たしていくのだ」―。その後の事態はこの予言めいた言葉通りに推移した。

 

 「我々は赤報隊の行動を、義挙(ぎきょ=正義の行い)だとはっきり支持する立場で街宣を行う」―。4年前、2014年5月3日の憲法記念日、朝日新聞阪神支局の前に止まった街宣車からこんなアジ演説が飛び出した。前記の右翼関係者の言葉は「赤報隊に思想的に共鳴する数だけ、赤報隊は存在する」ということを暗示していたのではないか。「安倍一強」体制が着々と地歩を固め、一方では従軍慰安婦問題などで朝日新聞に対するバッシングが最高潮に達していた時期とも重なる。こんな時勢に乗じる形で、もうひとつの“赤報隊”がひょいとその素顔を見せた瞬間ではなかったのか。樋田さんは当時の動きを「2014年」問題として位置付けている。

 

 安倍晋三首相主催の「桜を見る会」が東京・新宿御苑で開かれた今月21日、大阪で「偏向報道に負けるな!安倍政権がんばれ大行進in大阪デモ」なるイベントが開かれ、「かけがえのない安倍政権を応援し、憲法改正を絶対に実現しよう」などと気炎を上げた。この催しに首相夫人が感謝のメッセ-ジを送ったというニュ-スがネット上に飛び交った。懲(こ)りない人である。首相自身の朝日バッシングも勢いを増し、今年2月には森友学園問題に絡んで、「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」と自らのフェイスブックに書き込んだ。こんな風にして、権力の外堀が埋められていくのかと思うと、背筋がゾッとする。忖度(そんたく)などという「耐性の劣化」がこれを援護する。“赤報隊的”な時代状況の顕現化は目を覆(おお)うばかりである。

 

 「『国益を損なう』『気持ち悪い」『ばか』などとは口にしたが、『おまえは国民の敵だ』という発言はしていない』―。例の暴言自衛官はこう弁明している。「屋上屋を架(か)す」とはまさにこのことではないのか。その言葉の総体が国民を敵に回していることにこの自衛官は気が付いていないらしい。かつて、西郷隆盛は相楽(さがら)総三が率いた赤報隊を後押しした。権力のお墨付きを得た件(くだん)の自衛官がもしかして、相楽を気取っているとしたら…。樋田さんは「最後に、赤報隊に呼びかける」という一文で著書を閉じている。

 

 「君たちは単なる殺人集団なのか。それとも思想犯なのか。もし思想犯ならば、一連の朝日新聞社襲撃事件を起こした経緯について、世間に知らしめたいと思わないのか。君たちが希望するなら、私は君たちの主張をじっくり聞き、世間に正確に伝えることを約束する。赤報隊よ、逃げ隠れするな」―。「森友・加計」問題をめぐる首相の関与疑惑、公文書の改ざん、財務省と国税庁のトップ官僚の相次ぐ辞任、自衛隊の日報隠し…。さしもの、独裁体制にも陰(かげ)りが見え始めているが、ここまで追い込んだのも朝日新聞の相次ぐスク-プだったことに敬意を表したい。NHKスペシャル「未解決事件―赤報隊事件」で樋田さん役を演じた俳優の草彅剛さんはこう話している。

 

 「阪神支局事件が起きた時、僕は中学生でした。事件について知らなかったのですが、知れば知るほど、自由にモノが言える、自由な社会とはなにか、考えるようになりました」―。赤報隊の申し子たちがいま、全国のあちこちに出没している。沖縄・名護市の米軍新基地建設現場(辺野古)では連日のように反対派住民が力づくで排除され、負傷者が続出している。赤報隊とは実は「安倍一強」体制の別動隊の謂(い)いであろう。その標的は今度は「琉球新報」と「沖縄タイムス」の地元2紙に向けられつつある。

 

 

(写真は「見えない」赤報隊を追い続けた30年の記録。「この十字架を死ぬまで背負っていく」と樋田さんは語っている)

 

2018.04.24:masuko:コメント(1):[身辺報告]

いつか来た道―「5・15」から「4・16」へ

  • いつか来た道―「5・15」から「4・16」へ

 

 「おまえは国民の敵だ」―。国会前の公道で国会議員に向かって、暴言を浴びせた幹部自衛官がいた。4月19日付「東京新聞」は「際立って世の中の変わりだしたのは、霞が関三年坂のお屋敷で白昼に人が殺されたあたりからだろう」という作家、永井荷風の文章を紹介し、こう続けている。「意に沿わぬ政治家への脅し、圧力と言わざるを得ない。イラク日報問題などでの自衛隊批判への不満だろうか。しかし、国民が選んだ国会議員への罵声はそのまま国民への罵声である。その行為によって、どちらが、『国民の敵』になってしまうかにどうして気がつかなかったか」―。三年坂の殺人とは1932(昭和7)年、犬養毅首相が首相官邸で青年将校に暗殺された「5・15事件」である。

 

 「父さんは益々丈夫で御奉公して居りますから安心してください。よく母さんの言う事を聞いて、父さんに負けない立派な兵隊さんになるように勉強しなさい。畑のトマトや『ささげ』等はよくなりましたか。鶏はどうなりました」―。私の手元に黄褐色に変色した軍事郵便の束がある。先の大戦に応召された父親はソ連軍の捕虜となり、シベリアの捕虜収容所で死んだ。37歳の短い人生だった。出征先の奉天(旧満州)から両親や妻、3人の子どもたちなどへ宛てた手紙は60通以上にのぼる。「近世哲学ノ発展ハ二ツノ重要ナル事件ニ依リ準備サレテイル。即チ藝術ヤ学問ニ於ケルギリシャ古典文化ノ復興ト…」。学生時代の哲学の講義ノートには几帳面な字がびっしり書き連ねられている。父親を偲ぶ、これが唯一の遺品である。「検閲済」の判子が押された文章の行間からは留守宅の生活を気遣う気持ちが伝わってくる。そして、ご奉公を尽くした末の末路は「栄養失調死」だった。

 

 軍人・軍属の戦没者数230万人中、60%以上の140万人が栄養失調による餓死か、栄養失調に伴う病死だというデ-タがある。「兵士の死」を分析した一橋大大学院の吉田裕教授(日本近現代軍事史)は近著『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』の中でこう記述している。「栄養失調の問題で重要なのは、戦争神経症とも関連する戦争栄養失調症である。…極度の痩(や)せ、食欲不振、貧血、慢性下痢などを主症とする患者が多発した。治療はきわめて困難で死亡するケ-スが多かった」―。さらに、当時の戦時資料は死に至るさまをこう記している。「ついに体はミイラ状となり、『生ける屍』(しかばね)の如くなる。ついには燃えつきるロウソクの『火が消ゆるが如く鬼籍に入る』」(同書)

 

 父親は1945年12月16日、ソ連軍の病院に収容された。2年前、厚生労働省を通じてロシア側から提供されたカルテにはこう書かれている。「全般的なだるさ、食欲不振、脚の痛み、咳、衰弱を訴える。全体的な容体は悪くない。ビタミンBとC、貧血防止用のヘマトゲン(血液製鉄剤)を投与。診断名は第Ⅰ度栄養失調症並びに気管支炎」―。そして、2週間後の12月30日午前7時、「心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名は第Ⅲ度栄養失調症」(カルテより)。まさにロウソクの火が消え入るような静謐(せいひつ)な死だった。

 

 「父さんは『名誉の戦死』ではなく、戦病死だったからねぇ…」―。母親は26年前、83歳で旅立つまで、こう言い続けた。太平洋戦争が敗色濃厚になっていた前年の昭和19年夏、父親は旧満州(中国東北部)へ応召され、約1年後に日本は敗戦を迎えた。だから、敗戦のわずか4カ月後に死亡したことになる。炭鉱という過酷な捕虜生活と貧しい食料事情…が追い打ちをかけたとはいえ、それに先立つ軍隊生活が父親の体を徐々に蝕(むしば)んでいた。精神科医の野田正彰さんは戦争栄養失調症について、こう指摘している。「実は、兵士は拒食症になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた」(『戦争と罪責』)

 

 一生、「戦病死」を悔いながら逝(い)った母親を私は不憫(ふびん)に思う。決して、国民の「敵」ではなかったはずの父親をシベリアの凍土に失った、これが230万人分の1の庶民の戦後史の一断面である。「(今回の自衛官暴言の)『4・16事件』。後になってあれが時代の変わり目だったと考え込んでみても遅い」と東京新聞のコラムは結んでいる。「5・15事件」の際、青年将校らによって撒(ま)かれたアジビラにも「国民の敵」という文字が躍(おど)っていた。いまでも時折、新聞の片隅にシベリア抑留者の死亡者名簿が掲載される。あの戦争はまだ、終わっていない。そんな中、”未決”の戦後をあざ笑うかのようにネット上では不気味な言葉が復活しつつある。国賊、非国民、売国奴……

 

 

(写真は戦地から届いた父親からの軍事郵便)
 



 

2018.04.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]

明治150年―「維新」と「戊辰」のショ-タイム

  • 明治150年―「維新」と「戊辰」のショ-タイム

 

 本来なら、寿(ことほ)ぐべきはずの「明治(維新)150年」なのだろうが、最近の「安倍一強」長州政権(官軍)は尾羽うち枯らす凋落ぶりである。片やわが「賊軍」の地に生を受けた若き英雄の活躍は目をみはるばかり。言わずと知れた大谷翔平の「二刀流」デビュ-である。こんな目まぐるしい日替わりシ-ンを見せつけられているうちに、これって逆説の「戊辰戦争」じゃないのかという妄想に取りつかれてしまった。一体、どうしたことか。米大リ-グでも大暴れした「ハマの大魔神」こと、元プロ野球選手の佐々木主浩さんの雄姿をふと、思い出したからである。

 

 戊辰(ぼしん)戦争に先立つことはるか大昔、東北・みちのくは敗者の第一歩をその地にしるすことになった。大和朝廷による「蝦夷(えぞ)征伐」である。その間、30年間に及ぶ抵抗戦争で一躍、勇名をはせたのが「アテルイ」である。宗教哲学者の中路正恒さんが“現代のアテルイ”に抜擢したのが、ハマの大魔神だった。中路さんは自著にこう書いている。「わたしは東北出身者の中からアテルイのモデルになるような人を探していた。そしてあるとき、当時プロ野球横浜ベイスタ-ズにいた佐々木主浩投手に思いいたった。佐々木投手も東北の出身(注;仙台)のはずだ。わたしは当時、『ハマの大魔神』の活躍に大いに歓喜していたのだった。わたしは、佐々木投手の今日の活躍に、アテルイのほんとうの姿を見る思いがする」(『古代東北と王権』)

 

 手放しの持ち上げようである。中路流に解釈すれば、アテルイ2世―佐々木投手の後継者が大谷二刀流ということになる。いや、アテルイが死闘を繰り広げた「胆沢の地」(現奥州市)の出身であることを考えると、大谷翔平こそがアテルイの“直系”と言えなくもない。「森友・加計」問題をめぐる公文書改ざん、“首相案件”なる怪しげな文書の出現、「なかった」はずの南ス-ダンやイラクの自衛隊日報の存在…。泣き面に蜂の相手方をあざ笑うかのように、わが「アテルイ3世」は打っては開幕からホ-ムラン3連発、投げては快刀乱麻の2連勝である。官軍(安倍城)の落城、いまや遅しと思いながら、翔平の”ショータイム”に留飲を下げる日々…。こんな光景が「維新」と「戊辰」を逆転させてしまったのか!?

 

 ふいに「ルサンチマン」という言葉が頭に浮かんだ。ウキペディアによると「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情の総量を指すらしい。蝦夷征伐から明治維新、そして現在に至るまでの、官軍に対するルサンチマンの圧倒量に我ながら驚いてしまう。その一方で、戊辰戦争で「奥羽越列藩同盟」を敗走させた「西郷どん」(NHK大河ドラマ)の人気はこのみちのくの地でも高まっているらしい。征韓論に敗れて下野した「セゴドン(西郷隆盛)」に対し、海の向こうから「テポドン」(北朝鮮が開発した弾道ミサイル)が発射されるのではないかと心配したが、現下の融和ム-ドの中でひとまず、この危機は脱したようである。

 

 薩長軍の指揮官だった西郷どんはその後の「西南の役」(西南戦争)で、新政府軍に盾突いた結果、賊軍に貶(おとし)められた。「官軍から賊軍」へ…この一本気が人気の秘密なのかもしれないが、ルサンチマンの背後からは「判官びいき」という鵺(ぬえ)みたいな言葉も頭をもたげる。「憎っくき西郷どんを許してしまう」―この心性こそが敗北の歴史を重ねてきた東北人の悲しい性(さが)であり、優しさだと思うことにしよう。「賊軍の子孫」を自認する俳優の菅原文太さん(故人)と作家の半藤一利さんが対談集『仁義なき幕末維新』の中で、歯に衣(きぬ)着せない「維新批判」(薩長史観)を展開している。

 

 佐々木投手と同じ仙台出身の文太さんがぼそっと、こんなことを言う。「あれほど薩摩と長州を嫌っていたのに、日露戦争でも何でも、戦地に送られた日本兵は文句も言わずに死んでいきましたよね。東北の部隊なんて大勢戦死してますよ。薩長史観でもって賊軍のレッテルを貼られながら生き延びた人たちでも、口をつぐんで恨みごとは一切言わないです。何も維新に限った話ではなく、その後もずっと今にいたるまで、上司やボスに利用されて棄てられても恨みごとは言わない」(同上書)。そういえば、文書改ざんをめぐる証人喚問で、体を張って「お上」を守った前国税庁長官もみちのくは福島の出だったなあ。あ~ぁ、いまなお続く”人身御供”(ひとみごくう)。「会津っぽ」は今いずこに―。

 

 「弾丸(たま)はまだ、残っとるがよう」―。ふと、あの名セリフが口元に浮かんだ東映の仁侠映画「仁義なき戦い」の中で、文太さんが放った決めゼリフである。アテルイ3世よ、遠慮は無用ぜよ。何発でもぶち込んでくれんかのう。安倍城が陥落するまで………。かたわらのテレビは財務省トップの”セクハラ”疑惑でてんやわんやである。と思っていたら、この人も辞任。一抜けた、二抜けた…この国の底抜けた!?

 

 

(写真は「戊辰戦争」の戦闘場面=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

2018.04.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「わら細工」の記憶

  • 「わら細工」の記憶

 

 「最近、随分といら立っているなぁ」と我ながら思う。何にか!?「ソンタク」とやらが闊歩(かっぽ)する世情に対してということはわかる。でも、「世の中って、こんなもんさ」とスマホやSNSなどに熱中する光景を目の当たりにすると、イライラはついそっちに向かってしまう。と一方で、「もう年なんだからさ。怒りの矛先を収めてさぁ…」ともうひとりの自分が耳元でささやいているのに気がつく。今度はそんな分身の体たらくにイラっとしてしまう。あ~ぁとため息をついていたそんな折…。『わら細工とその周辺』というタイトルをつけた冊子が送られてきた。筆者は高校、大学と一緒の阿部茂巳さん(79)。県内の高校で社会科を教えるかたわら、30年間の日曜百姓の集大成がこれである。

 

 足半(あしなか)、草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、爪子(つまご)、嬰児籠(えじこ)…。自家製のわら細工の数々が写真に収められている。「記憶の源泉」―何か大切な落とし物を見つけたような、そんな気持ち…。あれは、小学校に上がって最初の学芸会の時だったか。いきさつは忘れたが、仮装行列で物乞い、つまり「乞食」に扮することに。「ホイト(いまでは明らかな差別語だが、あの時、祖母は確かにそう言った)は草鞋をはいていたはずじゃった」とどこからか擦り切れたのを調達してきた。頭陀袋(ずだぶくろ)をぶら下げた童顔の乞食が来賓席に侵入するや、大人たちはキャ-ッと叫んで後ずさりしたっけ。「上出来じゃったぞ」と祖母…。こんな光景が湧き出る泉のように目の前に広がった。

 

 「農夫の息子よ/あなたがそれを望まないなら/先祖伝来の藁(わら)仕事なんか/けとばすがいい…」(「最上川岸」)―。因習の打破と個人の尊厳をうたい上げた、茨木のり子の詩を冒頭に掲げ、阿部さんは「50年前なら共感できたが…」と困惑の体(てい)である。「わらはコメの親」と言われる。逆もまた真なりだが、後継者不足や大型機械化の影響をもろに受け、“親子”ともども風前の瀬戸際に立たされている。「わら文化」の復権を願って、黙々とわら打ちをしていた父親に弟子入りした。花巻市と合併する前の旧東和町で百姓一本で生きてきた「テドシャ」(手達者=てだっしゃ)として知られた。とくに、嬰児籠づくりが得意だった。がんで余命半年を告げられた時、あわててビデオ一式を担ぎ、父親の指先に目を凝らした。

 

 「わら細工師」の免許皆伝に至るまでのイバラの道は本書に譲るとし、足半から草履・草鞋へと進化する履(は)き物の歴史に興味が惹かれた。足半は元々、川で鵜飼(うか)いをする際の滑り止めだった。その後、全国に普及したが、鼻緒の結び目が牛の角に似ていることから、岩手・宮古地方では「ベゴジョーリ」とも呼ばれた。足の半分しかないので、踵(かかと)に土がついてしまう。この欠点を補ったのが草履で、長旅に耐えるように踵を固定したのが草鞋である。こんな阿部説に引き込まれるようにして、遠い記憶が輪郭を描き出していった。

 

 15の春は今から63年前。いまの少子化とはまるで逆で、1クラス50人以上のクラスが全部で八つの大所帯だった。卒業アルバムの足元を注視してみると、ほぼ全員が下駄ばきである。丸眼鏡の私は高下駄をはいてすましている。そういえば、鼻緒が切れた時は蕗(ふき)の皮で応急処置をしたっけ。校内のクラブ活動のスナップ写真では短靴に交じって、半分ぐらいが草履をはいていた。ブラスバンド部でトランペットを吹いていた「タカオ」君は太い鼻緒の草履をつっかけて練習に余念がない。下駄を鳴らしながら登校し、校舎にはペタペタと草履のリズミカルな音がこだました。わが同期のわら細工師は期せずして、こんな時代の息づかいを思い出させてくれた。いま、下駄ばき姿は祭で山車を引く稚児行列に見る程度である。

 

 「母は嬰児籠の赤子の上に身を伏せて、念仏を称(とな)えていたが、やがて婚家の母のきんがまっ青になり、息も絶え絶えに駆けつけたのでやっと人心地がついたのだという」(『兄のトランク』)―.宮沢賢治が生まれた5日後の明治29(1896)年8月31日、岩手・秋田県境を震源とする「陸羽大地震」が発生、犠牲者は209人に及んだ。その時の様子を弟の清六さん(故人)は冒頭のように記している。その約2ケ月前には明治三陸大津波が発生している。

 

 阿部さんは最後の習作を父親の遺作となった「嬰児籠」に決めていた。里方で生まれた赤ちゃんが帰る時、迎えてきた婿どんにお祝いとして持たせるのが習わしだった。わら細工師たちの腕の見せどころだった。そんな実体験がこう言わせる。「母イチは実家に帰って賢治を生み、産湯をくんだ井戸が現存している。生まれたとはいえ、5日目はまだ母子が一体のようにして布団に寝ているものだろう。…母子で布団に寝ているところへの大地震で、母はとっさに赤子の身を守るため、枕元に置いてあった嬰児籠に入れ、おおいかぶさった。これが実相だろう」。清六さんが聞きまちがえたのかどうか…。いずれ、わら細工師としての説明の方がはるかに合理的である。

 

 「米俵」や「炭俵」が死語になって親しい。「俵(たわら)編みは稲づくりの総仕上げ」と師匠は口癖のように言ったという。「コメはわらの子」…「コメの良しあしは俵の原料や編み方の善悪で決まる。原料のわらを吟味して俵編みをする百姓は当然、良質の稲(コメ)づくりを心がける」―。“農の心”が伝わってきた。わら一本にこんなに豊かな文化の源(みなもと)があったとは…!?あっ,そうだ。嬰児籠と言っても若い人にとってはチンプンカンプンだろう。私の周辺では「エンツコ」と呼ばれ、農繁期など人手が足りない時に使われた。これで育ったことはないが、入って遊んだことはある。ちょっとチクチクしたが、ほんわかと温もりが伝わってきたのをかすかに覚えている。

 

●申し込みは盛岡市高松4-12-43、「わら工房」(阿部さん方)。電話;019-661-6380。定価千円(税込み)

 

 

(写真は阿部さんが創作したわら細工の数々。写真左ページは上から足半、草履、草鞋。『わら細工とその周辺』から)

2018.04.12:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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