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時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」

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  • 時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」

 「これは今という時代に息づく神謡ではないのか」―。今年の沖縄全戦没者追悼式(沖縄慰霊の日=6月23日)で朗読された平和の詩「生きる」を口ずさんでいるうちに、ふとそんな思いにとらわれた。まるで通奏低音のように、それは遠い太古からのもうひとつの詩と共鳴し合っている。最近になってそのことに心づいた。96年前、詩才を惜しまれながら19歳で世を去ったアイヌ女性、知里(ちり)幸恵が死の前年に編訳した『アイヌ神謡集』の、それが「序」だったということに。「私は、生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ…」。そして、相良倫子さん(浦添市立港川中学3年)の「生きる」をその上に重ねてみる。すう~っと、溶けあっていくような、そんな感じ。

 

 「シロカニペ/ランラン/ピシカン」(銀のしずく、降る降るまわりに)、「コンカニペ/ランラン/ピシカン」(金のしずく、降る降るまわりに)…。こんな語りで始まる梟(ふくろう)神の物語や狐、兎、獺(かわうそ)、蛙などなど『アイヌ神謡集』には自然界に住まう神々(カムイ)が一人称で語る13篇の「神謡」(カムイユカラ)が収められている。重ね詠むうちに、相良さんの詩も神に仮託した壮大な叙事詩ではないかという思いを強くした。約100年という時空を隔ててもなお、ともに10代の女性が紡ぎ出した詩文が心を揺さぶる。片や「アイヌモシリ」(人間の静かな大地=北海道)から、片や「ニライカナイ」(常世の国=沖縄)から…。この列島の南と北から聞こえてくる二つ叙事詩に私はいま、耳をそばだたせている。

 

 

 

 《アイヌ神謡集(序)》~知里幸恵

 

 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。

 

 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。

 

 嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
 

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
 

 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

 

 

 

《生きる》~相良倫子

 

 私は、生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、草の匂いを鼻孔に感じ、遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。私は今、生きている。私の生きるこの島は、何と美しい島だろう。青く輝く海、岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、山羊の嘶き、小川のせせらぎ、畑に続く小道、萌え出づる山の緑、優しい三線の響き、照りつける太陽の光。

 

 私はなんと美しい島に、生まれ育ったのだろう。ありったけの私の感覚器で、感受性で、島を感じる。心がじわりと熱くなる。私はこの瞬間を、生きている。この瞬間の素晴らしさが、この瞬間の愛おしさが、今と言う安らぎとなり、私の中に広がりゆく。たまらなく込み上げるこの気持ちをどう表現しよう。大切な今よ、かけがえのない今よ、私の生きる、この今よ。

 

 七十三年前、私の愛する島が、死の島と化したあの日。小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。草の匂いは死臭で濁り、光り輝いていた海の水面は、戦艦で埋め尽くされた。火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、燃え尽くされた民家、火薬の匂い。着弾に揺れる大地。血に染まった海。魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

 みんな、生きていたのだ。私と何も変わらない、懸命に生きる命だったのだ。彼らの人生を、それぞれの未来を。疑うことなく、思い描いていたんだ。家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。仕事があった。生きがいがあった。日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合って生きてきた、私と同じ、人間だった。それなのに。壊されて、奪われた。生きた時代が違う。ただ、それだけで。無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

 

 摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。私は手を強く握り、誓う。奪われた命に想いを馳せて、心から、誓う。私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと。全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。生きる事、命を大切にできることを、誰からも侵されない世界を創ること。平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

 あなたも、感じるだろう。この島の美しさを。あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。今を一緒に、生きているのだ。だから、きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。頭じゃなくて、その心で。戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無いことを。平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

 私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ。大好きな、私の島。誇り高き、みんなの島。そして、この島に生きる、すべての命。私と共に今を生きる、私の友。私の家族。これからも、共に生きてゆこう。この青に囲まれた美しい故郷から。真の平和を発進しよう。一人一人が立ち上がって、みんなで未来を歩んでいこう。

 

 摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている。過去と現在、未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく。

 

 

 

(写真は死の2ケ月前の知里幸恵(左)と詩を朗読する相良倫子さん=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

共産党のダッチロ-ル…どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞー国はふたたび、強権発動

  • 共産党のダッチロ-ル…どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞー国はふたたび、強権発動

 

 市議在任中、沖縄の米軍基地問題に対する日本共産党花巻市議団(2人)の無知蒙昧(もうまい)ぶりに驚かされたが、今度は東京都の小金井市議会(定数24)で、同じ共産党市議団(4人)が同問題の「国民的な議論」の必要性を求めた陳情にいったんは賛成したものの、意見書採択の段階で一転して、反対に回るという前代未聞の出来事が起きた。一枚岩の政治団体と思われてきた公党の“ダッチロ-ル”は目をおおうばかり。その背景にはいわゆる「保守系」だけでなく、「革新」を標榜する地方議員の資質の劣化と一党支配の限界も垣間見えてくる。

 

 発端は小金井市議会の9月定例会に提出された「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の代替施設(「辺野古」新基地)が必要かどうかを広く国民的に議論し、必要となれば本土で民主的に建設地を決めるよう求める」―という内容の陳情。共産党会派のほか、国政政党とつながりがない会派などの13人が賛成して採択された。自民党会派など6人が反対。公明党会派4人は退席した。これを受け、10月5日の本会議最終日で意見書を採択する段取りになっていたが、共産党市議団は態度を一変させ、以下のような反対論を展開した。このため、採択は見送られる結果になった。

 

 「共産党の米軍基地問題と沖縄の普天間基地、辺野古新基地建設についての態度は、在日米軍基地の全面撤去、基地のない平和な日本を目指す、そして普天間基地の即時閉鎖・無条件撤去、辺野古新基地建設を許さないというものだ。(陳情が)辺野古新基地建設中止を求める内容となっている点で賛成できるものと判断した。しかし、普天間基地の代替施設について、沖縄以外の全国全ての自治体を等しく候補地とすることが明記され、日本国内に米軍基地を移設することを容認する内容となっている。この点でわが党の基本的な立場と異なり、日本共産党が日本国内に米軍基地を造り強化することを容認しているとの誤解を与えるものとなっている」―。

 

 これが党本部の統一見解なら、最初からそう主張すればいいだけの話である。そうでないなら、党本部に抗(あらが)ってでも自説を堂々と押し通せばよい。それにしても、”教条主義”の教科書みたいな主張ではないか。在日米軍は「日米安保条約」とそれに付随する「日米地位協定」に存在規定がある。だからこそ、「安保廃棄・全基地撤去」が共産党の基本的なテ-ゼ(綱領)なのはある意味で当然である。私はむしろ、今回の“椿事”の背景には自党のテ-ゼにさえ「無知」であるばかりではなく、米軍基地を含む沖縄総体に対する「無関心」のなせるわざではないかとにらんでいる。これをひと言でいえば「沖縄差別」ということになろうか。

 

 その良い見本が花巻市議会での共産党市議団の振る舞いだった。当ブログで何度も言及してきたが、せっかくだからざっとおさらいをしておきたい。私は1期目の2010年12月定例会で今回の陳情と同じような趣旨で、「普天間飛行場の訓練の一部を受け入れる考えはないか」と当局の見解をただした。共産党市議団から意想外の反論が浴びせられた。「女性暴行など米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などない」―。ファシストまがいの物言いに仰天したことを覚えている。さらに、新人議員の私に向かって、慇懃無礼(いんぎんぶれい)にこうのたまわって見せた。

 

 「議員となられて半年を経過したいま、貴議員もすでに理解しておられると存じますが、議会とは市民の願いを実現するために市政に働きかけるのが仕事であり、抽象的な理念や文芸論を披歴する場ではございません。議会の権能と役割、住民の願い向上のための方策への研鑽をさらに深められ、ご活躍されることを願ってやみません」―。今年7月の市議会議員選挙で同党は議席をひとつ増やして、会派結成(3人以上)の栄誉に浴したらしい。この機会に小金井市議会の同僚議員の轍(てつ)を踏まないよう、「研鑽をさらに深められ、ご活躍されることを願ってやみません」―という有難いお言葉をそのまま、お返ししておきたい。

 

 そういえば、2年前の6月定例会に私が紹介議員になって、「日米地位協定」の抜本的な見直しを求める請願が出された際も政府側の常とう手段である「(国の)専管事項」論をタテに反対の旗を振ったのも共産党を含む、いわゆる「革新」側だった。全国市議会議長会が2年前、協定の抜本改定の議案を可決し、全国知事会も今年8月、同じ趣旨の提言を全会一致で採択し、日米両政府に提出した。こうした動きについてもこの人たちは多分、無知・無関心を決め込んでいるのだろう。もっとも、共産党本部自体も野党連立政権「国民連合政府」が実現した場合、「安保廃棄」の凍結を表明するなど立ち位置が定まっていない。沖縄の米軍基地をめぐっては「中央」も「地方」も腰の定まらないダッチロ-ルを続けている。

 

 

 

(写真は辺野古新基地(名護市)の建設が進む大浦湾の海底。スズキ目科の熱帯魚が群生する、“クマノミ城”と名づけられた光景はまるで竜宮城を思わせる=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記ー1》~沖縄からの視座

 

 共産党の変心が「残念で悔しい」という。沖縄出身で東京に住む米須清真(きよさね)さん(30)。地元の小金井市議会に出した陳情に「全面賛同」してくれた議員団が10日後に「間違っていた」と撤回した

 

▼辺野古新基地建設をやめ、普天間飛行場の代替施設が本当に必要かどうか、本土の議論を求める内容。議員から謝罪された米須さんは「公平な政策論争を求めているだけ。謝られても困る」

 

▼代替施設が必要という結論になれば本土の全自治体を候補地にする。ここがまずかった、と共産党は釈明する。日米安保反対の党方針に反するから

 

▼しかし、沖縄では安保を容認する玉城デニ-知事の当選を支えた。最終目標と現時点の選択を区別してのことだろう。とすれば、小金井でも賛成する余地はある

 

▼陳情に反対した自民党、退席した公明党も議論自体は否定できないし、していない。各党が主張を競うのがいい。どういう結論でも当事者として引き受ける責任、米軍占領下で議論の機会もなく本土の基地を押し付けられた沖縄をまた犠牲にしない公正さ。陳情の訴えはシンプルだ

 

▼論点がはっきりしたこと、東京の議員が悩んでいること自体が最初の効果と言えそうだ。同じ陳情は県議会などにも出されている。本土世論をさらに高められるか。沖縄の議員の姿勢も、大きく影響するだろう【10月10日付沖縄タイムス「大弦小弦」】

 

 

《追記ー2》~東京都文京区議会は同趣旨の請願採択

 

 文京区議会(定数34)は今年6月定例会で「沖縄の『辺野古新基地』建設の中止を国に求める」―請願を共産党区議(6人)を含めた賛成多数(自民・公明は反対)で採択、安倍晋三首相らに意見書を提出した。請願者は「文京9条連絡会」。以下に請願の内容を掲載する。花巻、小金井両市議会の共産党議員との、この天と地ほどの乖離は一体、どうすれば生じるのか。大方のご意見を伺えればと思う。

 

 

 沖縄にある米軍基地の大部分は、米軍占領下で造られたものです。米軍基地の集中に伴い、婦女暴行などの刑事犯罪が頻発し、加えてヘリコプタ-の墜落事故なども続発しており、沖縄県民の生活・安全が脅かされています。このような状況下で、沖縄県民は辺野古の新基地建設に反対しています。
 

 理由は、①沖縄にとって命の源ともいえる海を埋め立てることは認められない、②米軍基地は日本の防衛のためのものであり、その負担は全国で平等に負うべきである。沖縄だけへの押し付けは差別である、③辺野古新基地は普天間基地の代替だと政府は言っているが、強襲揚陸船の係船護岸や弾薬庫などを備えた新基地であって代替基地ではない、などです。
 

 わたしたちは、この沖縄県民の辺野古新基地建設反対の理由に賛同いたします。また、沖縄県民の反対を押し切っての新基地建設は、地方自治・民主主義の精神にも反すると考えます。これらの理由から、辺野古新基地建設は中止されるべきだと考えます。わたしたちのこのような請願の理由にご賛同いただき、下記請願を採択され、政府並びに関係省庁に対して要望書を提出していただけるよう要請いたします。

 

 

《特記―3》~東京都武蔵野市議会も

 

 武蔵野市議会は平成15年の9月定例会で、「地方自治の尊重を政府に求める意見書」を可決し、沖縄の米軍基地について、以下のように述べた。

 


 

 日本全土の0.6%の面積しかない沖縄に、在日米軍の専用施設の74%が集中しています。先日も起きた米軍機の墜落や繰り返し発生する米兵の女性に対する暴行事件など、沖縄県民はこの米軍基地に苦しめられ続けています。沖縄が、第二次世界大戦において本土防衛の捨て石とされ、総人口の5分のlにあたる12万・人の民間人が地上戦で犠牲となり、戦争終結後も1972年の本土復帰まで27年間、米軍の軍政下に置かれてきたことを考え合わせれば、これ以上の犠牲を沖縄県民に押しつけることは許されません。

 ところが、日本政府は、「世界一危険な基地」である普天間基地の返還のかわりであるとして、辺野古に新基地建設を決め、昨年11月の沖縄県知事選挙や暮れの衆議院議員選挙で、沖縄県民から、はっきりとした基地建設反対の声が示されたにもかかわらず、その建設を強行しようとしています。普天間基地も、もともと沖縄県民の土地を一方的に取り上げて作られたものです。それを返還するからと言って、どうして、ジュゴンやアオサンゴ、260種以上の絶滅危倶種を含む多様な海洋生物が生息する辺野古・大浦湾を埋め立て、環境を無残にも破壊して、辺野古に新基地を建設しなければならないのでしょう。

 
沖縄戦の最大の教訓は、「軍隊のいるところで住民は戦争に巻き込まれて死ぬ」というものです。新基地建設による基地強化は、沖縄県民を再び戦争の惨禍に巻き込む危険性を高めます。また、繰り返し示された沖縄の民意を踏みにじって、辺野古基地建設を強行することは、地方自治の侵害と言わざるを得ません。よって、武蔵野市議会は、貴職に対し、地方自治を尊重し、辺野古新基地の建設を強行しないことを求めます。以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出します。

 

 

《追記ー4》~「辺野古」、国が対抗措置

 

 【東京】岩屋毅防衛相は17日午後、名護市辺野古の新基地建設に伴う県の埋め立て承認撤回を受け、行政不服審査法に基づく対抗措置を取ったと表明した。防衛省で記者団に対し「(同法は)できるだけ迅速に問題に答えを出すために用意されている法律だ。迅速に当面の問題を解決し、目的達成に向かって進みたい」と強調し、辺野古移設を一日も早く進める考えを示した。

 防衛省は同日、石井啓一国土交通相に対して行政不服審査法に基づく審査請求と、処分が出るまで撤回の効果を止める執行停止を申し立てた。執行停止が認められば、工事は再開される見通し。行政不服審査法に基づく対抗措置を巡っては、国が「私人」になりすまして同じ政府内の省庁に救済を申し立てることへの批判がある。岩屋氏は「一般私人だけでなく、国や地方公共団体に対する処分も、審査請求ができるものになっている」と説明した。

 9月の知事選で新基地建設に反対する民意が示されたことに関しては「真摯に受け止めなければいけない」としつつ、「大きな目標を達成するために前に進ませていただきたい」と辺野古移設の必要性を語った。【10月17日付琉球新報電子版】

 

 

《追記―5》~沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」

 

 安倍政権が辺野古新基地建設工事の再開に向けて動き出した。〈石井啓一国土交通省に対して行政不服審査法に基づく審査を請求し、処分が出るまで撤回の効果を止める執行停止を求めた〉(2018年10月18日付琉球新報)。安倍首相と玉城知事の面会が行われたのは12日だ。1週間も経たずして…、というより、1度は会っておいた、というアリバイ作りだったわけだ。

 

 県知事選挙で示された8万票の大差という民意を踏みにじるだけではない。沖縄では今日から那覇市長選挙が3日攻防に入り、県議会では県民投票についての論議がなされている。そんなのどうでもいい、という姿勢をあえて示すことで、安倍政権の「本気度」を強調したということだ。なりふり構わないその姿勢は、機動隊や海保という暴力装置を前面に出して、これからも工事を強行するという宣言でもある。

 

 沖縄が憲法や民主主義の番外地に置かれている状況は、いまに始まったことではない。選挙でどういう結果を出しても政府は一顧だにしない。そういう姿勢を示すことで、沖縄県民を無力感と絶望感に陥らせ、何をやっても国には勝てない、という諦めを植えつける。これまでもくり返されてきた日本政府の手法だが、では、安倍政権の沖縄に対する凶暴な姿勢を許しているのは誰なのか。

 

 安倍首相も管官房長官も分かっているのだ。沖縄からどれだけ怒りと反発の声が上がっても、大半の日本人=ヤマトゥンチュ-が呼応して行動を起こすことはなく、政権への支持率が低下することもない。だから平気で沖縄に基地を押しつけ、暴力を行使することができる。沖縄県知事選挙から元気や希望をもらったというなら、全国各地で辺野古の工事再開を止める行動を起こしてもらいたい。行政不服審査制度を国が使う問題は、多くの専門家から批判されてきた。にもかかわらず再度その手法を使う。専門家も市民もそこまで安倍政権になめられているのだ。行動しなければ何も変わらない(10月18日付)

 

 

《特記―6》~県都・那覇市長も「辺野古」反対

 

 任期満了に伴う那覇市長選は21日投開票され、無所属現職の城間幹子氏(67)が、無所属現職で前県議の翁長政俊氏(69)=自民、公明、維新、希望推薦=を破り、2期目の当選が確実となった。城間氏は9月30日の知事選で勝利した玉城デニ-知事と同じ「オ-ル沖縄」の組織体制を維持して盤石の選挙運動を展開し、労組や企業などの組織票に加え、無党派層にも支持を広げた。

 

 「オ-ル沖縄」勢は、宜野湾市長選は落としたが、知事選、豊見城市長選に続く勝利となった。選挙結果は玉城デニ-知事の県政運営に追い風となりそうだ。那覇市長選は、子育て施策や街づくりなどを争点に論戦が繰り広げられたほか、1期4年の城間市政への評価も問われた。城間氏が当選したことで、市民は市政運営を信任した形だ。認可保育園の増設による待機児童数の減少など、安定的な市政運営が評価された(10月21日付「琉球新報」電子版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

Tomorrow Never Comes

  • Tomorrow Never Comes

 

 ハ-ドカバ-のその可愛らしい詩集は妻が母親から譲り受けた、古ぼけた岩谷堂タンスの一番下にまるで隠すようにしてあった。表題の原作が『最後だとわかっていたなら』(佐川睦訳)というタイトルで翻訳されたのは11年前。米国人女性のノ-マ・コ-ネット・マレックさんが亡き息子に捧げた詩で、1989年に発表された。「9・11」(2001年)の米国の同時多発テロを機にチェ-ンメ-ルで世界中に広がり、日本では「3・11」(2011年)の東日本大震災後のわずか半年間で16刷を重ねるヒット作となった。さらに、震災6周年の昨年の3月11日、地元紙「岩手日報」が詩の全文を掲載するなど犠牲者の死を悼(いた)む詩として、その輪はさらに広がった。

 

 「あなたが眠りにつくのを見るのが、最後だとわかっていたら/わたしはもっとちゃんとカバ-をかけて/神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう」―。詩集はこんな書き出しで始まる。あの日の光景が目の前によみがえった。妻はベットから転げ落ちるようにして死んでいた。私が発見したのは死後4時間もたってからだった。「最後だとわかっていたら」…そばにいてやれなかったことを今さらのように悔(く)いた。それにしても妻はなぜ、この本を秘かに手に入れ、タンスの奥にしまい込んでいたのか。作者のマレックさんは末期がんをわずらい、2004年に64歳で他界している。当然、震災犠牲者への鎮魂がまず、あったのだと思う、と同時に、同じ病を抱える妻が死期を悟った時の気持ちをこの詩に重ねたのではないのか。そして、私に心配をかけまいと…

 

 「お元気ですか。おばあちゃんがいなくても、ぼくたちがついてます。げんきに長生きしてください。フレ-、フレ-、がんばれ」―。敬老の日、沖縄・石垣島に住む二人の孫から葉書が届いた。妻が亡くなった時、孫たちは7歳と9歳だった。この「死」の現実に対し、どう向き合わせたらよいのか…母親である娘にも私自身にも少しの迷いがあった。私はそっと、二人の背中を押した。「おばあちゃん…」と小声で呼びかけ、二人は冷たくなった妻のひたいに手を当てた。口を真一文字に結んだ頬に、ポロリと涙のひとしずくが伝って流れていた。ひとつの「儀式」が終わったのだと私は思った。翌日の収骨の際、二人は競うようにして、骨を拾っていた。「おばあちゃんがいなくても…」―、孫たちがそのことの意味に自分たちなりに折り合いをつけ、納得してくれたと思った。

 

 妻の死の約3週間前の7月6日、オウム真理教の元代表、松本智津夫(教祖名、麻原彰晃)死刑囚ら7人の元教団幹部に対する死刑が執行された。死刑前夜でしかも豪雨災害のさ中、安倍晋三首相や執行責任者の上川陽子・法相(当時)ら自民党議員がにこやかに乾杯している写真がネット上に出回った(7月7日付当ブログ参照)。この狂乱じみた光景について、作家の辺見庸さんは「祝祭」になぞらえて、こう書いた。

 

 「死刑の光景は日本において不可視であるがゆえに、かえって幻想のスペクタクル(見世物)となり、無意識のうさ晴らし(娯楽)と化してはいないだろうか。だとすれば、この国はすでに人間の『つつしみ』というものがなにかを忘れ、倫理の根源に悖(もと)るゾ-ンに足をふみいれつつある。すなわち、日本はみように晴れやかに危うい一線をこえたのだ。…サッカ-の試合後、日本人サポ-タ-たちがみんなで会場のゴミ拾いをしたという公徳心の高さと、絞首刑の国民的受容にはどのような道徳的なバランスがたもたれているのか。不可思議である」(7月14日付「岩手日報」)

 

 「『ごめんね』や『許してね』や『ありがとう』や『気にしないで』を伝える時を持とう/そうすれば、もし明日が来ないとしても/あなたは今日を後悔しないだろうから」―。マレックさんの詩はこう結ばれている。考えて見れば、私は妻の生前にこうした言葉のひとかけらでも口にしたことがあったろうか。おそらく、なかった。「後悔、先に立たず」―を地で行くような人生だったとつくづく思う。私はこの詩集を「おばあちゃんの遺品」として、孫たちに送ろうと思っている。「死」がだんだんと遠ざけられ、あろうことか「祝祭」にまつり上げられるという狂気の時代を、これから先、生きていかなければならない幼い孫たちの「転ばぬ先の杖」として…。

 

 

(写真は妻の遺影の前に立つ、向かって右が長男の主水(=もんど、現在10歳)と次男のるん太(8歳)=2018年8月1日、花巻市内の斎場で)

 

 

 

 

大風呂敷と小風呂敷

  • 大風呂敷と小風呂敷

 

 「岩手には、想像力の風が吹いています」(1997年11月14日付)―。宮沢賢治生誕百年(1996年)の翌年、朝日新聞全国版にこんなキャッチフレ-ズの全面広告が掲載された。代表作の『風の又三郎』の一節が添えられたこの広告はこう続く。「ゆったりと風に吹かれてごらんよ、ぼくが愛したイ-ハト-ブで。銀河の彼方から、宮沢賢治はそんな言葉をつぶやくかもしれません。彼を育んだ岩手の大地や、川や、森は、生命力にあふれ、彼に育まれた人々は、シャイな笑顔とやさしさにあふれています。幾重もの自然のささやきが、ときに想像力や直感を刺激して、眠っていた自分本来の資質をはっとめざめさせてくれる…」

 

 口に出して、読んでみた。何ともこそばゆくなるような、穴があったらそっと身を隠したくなるような妙な気分になった。大風呂敷は大きいことに越したことはないが、これほど広げられればもう、脱帽するしかない。岩手県が「銀河系『想像』力。いわて」を謳い文句に「ふるさと」回帰を呼びかけた広告だが、想像力が枯渇した今となっては逆に感動的な趣きさえ感じられる。

 

 「人生には『地方暮らし』という選択肢もある」(2018年9月5日付)―。同じ朝日新聞全国版に「ふるさと回帰フェア」の開催を知らせる広告が躍っていた。あれから20年余りが流れ、またぞろ「ふるさと」ブ-ムが到来しつつある。少子高齢化の時代を控え、全国の自治体はまるで金太郎飴みたいに「移住・定住」政策を最重点に据えている。たとえば、賢治の本家本元では―。移住者への住宅取得支援やUIJタ-ン就業奨励金、新規就農者支援事業…。「イーハトーブはなまき」をまちづくりのスローガンに掲げる割には随分とみみっちい。「人口争奪戦」がどの自治体でも喫緊(きっきん)の課題になっている時だからこそ、「銀河系『想像』力」という大風呂敷をいま一度広げてほしいと思うのだが、どうも風呂敷包はどんどん、小さくなるようである。こんな募集要項を見て、腰を抜かした。

 

 「おかえりなさい。はなまきへ」という呼びかけで始まる文章にはこう書かれていた。「花巻市では、当市への移住・定住を促進する取り組みの1つとして、要件を満たす同窓会について、開催経費の一部を補助する事業を行います。花巻市に生まれ育ち、共に学んだ親しい友人たちとの懇親の中で、ふるさと花巻の魅力を再認識し、Uタ-ンを現実的に考えるきっかけづくりを応援する他、市の外から見た花巻市へのご意見をいただく取り組みを進めていくものです」―。条件によって、最大で2万円の補助金が支給されることが定められていた。トップの意向なのかもしれないが、それにしてもチマチマし過ぎる。発想そのものがけち臭い。そうでないとしたなら、逆に現場職員の想像力の貧困が透けて見えてくるではないか。ひょっとしたら、そこに介在するのは例の”忖度”(そんたく)というやつか。

 

 わらをも掴みたいという気持ちは分からないではないが、何か背筋がざわっとした。原発汚染土の貯蔵施設をめぐる某大臣(当時)の「最後は金目(かねめ)でしょ」発言を思い出す。沖縄では米軍基地の辺野古移設先の地元に自治体の頭越しに国が直接、補助金を交付するという「分断」統治がまかり通っている。「貧すれば鈍する」―金をバラまいて良しとする、その精神性の荒廃に腰が引けてしまう。そもそも、「ふるさと」とは回帰する場所なのか―。賢治は銀河宇宙をふるさとからの「退路」として用意し(と私は思っている)、「石をもて追わるるごとく」に生地を後にした石川啄木は結局、一度もふるさとの土地を踏むことはなかった(9月18日付と同21日付当ブログ参照)。「追憶」と「呪詛」(じゅそ)ー、この二つはふるさとが宿命的に抱え持つコインの裏表である。

 

 「兎(うさぎ)追いしかの山/小鮒(こぶな)釣りしかの川/夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷(ふるさと)…」―。かつて、被災地で歌われた「故郷」が「歌えない」童謡になりつつあるという。東日本大震災の津波や原発事故でふるさとを追われたままになっている人たちにとって、この歌は時に残酷でさえある。9月中旬にそんな声を特集した毎日新聞は福島県から長野県松本市に移り住んだ、いわゆる「自主避難者」の女性(36)の胸の内を紹介している。「今年6月、同市で開かれた震災のチャリティ-コンサ-トに参加すると『故郷』が流れた。つらかったのは『こころざしを果たして/いつの日にか帰らん』という歌詞。帰れるなら明日にでも帰りたいという気持ちがこみ上げた」…

 

 

 

(写真は「ふるさと」回帰を呼びかけた岩手県の広告。今となっては、この大風呂敷が妙に懐かしい)

 

 

 

《追記》~「ふろしきづつみ」

 

 10月10日付「朝日新聞」のリレ-おぴにおん欄の「ちっちゃな世界」シリ-ズ(第7回)に、大船渡市の小学校教諭、小松則也さん(60)が東日本大震災の2年後、母親からの聞き書きを絵本にして自費出版した記事が載っていた。タイトルは「ふろしきづつみ」。「大震災の翌年からボランティアが激減し、風化を実感しました。そこで私は、あの日、家族が体験したことを残そうと絵本にしました」と小松さん。絵本を売る本屋さんの名前は屋号の川戸別家から「カドベッカ書店」。庭先に「日本一小っちゃな本屋さん」という看板を立てた。イ-ハト-ブはなまきの「風呂敷包み」の中身との差は歴然。小松さんが描く世界はちっちゃいどころか、賢治の銀河宇宙が顔負けするぐらいに「でっかい」

 

 

 

 

 

「平和の鐘」と満洲国―その時、父は

  • 「平和の鐘」と満洲国―その時、父は

 

 「盗女」と題されたこの写真(上掲右側)にはこんな説明が付されている。「奉天の泥棒市場で私は、生命を死守するあの一人の女性をキャッチした。その女は露店から何かを盗んで逃げてきたのであった。追手をおそれるような、その一瞬の表情。私は、境遇がそうしなければならなかったあの女を思い出すときに、いつも苦しく胸がふさがるのである」―。旧満州(中国東北部)時代のこんな光景を私の父親もきっと、目にしていたにちがいない、とそう思う。しかし、父親は二度と日本の土を踏むことなく、敗戦の4ケ月後、シベリアの捕虜収容所で戦病死した。その“空白”を埋めてくれる写真集にようやく、出会うことができた。

 

 写真集『内村皓一』(昭和47年発行=非売品)―。戦後、当市花巻で印刷業を営んでいた写真芸術家の内村さん(1914-1993年)は昭和15(1940)年、26歳で旧満州の奉天(ほうてん=現瀋陽)に顕微鏡写真班の一員として、徴用された。遅れること、この4年後に37歳の父親も同じ奉天へ。負け戦を前にした老兵の強制的な動員だった。昭和19(1944)年7月18日消印の妻(母親)あての軍事郵便にはこうある。「いよいよ、今日立つ處(ところ)です。行先は満洲奉天、内地同様の處ですので決して御心配なく。3カ月の教育とのことですが、状勢次第では保障できません」。敗戦までのわずか1年ほどだったが、内村さんと父親は同じ奉天の地に身を置いていたことになる。

 

 「ボロ」「肉を売る女」「幻聴」「城壁の朝」「苦力」…。写真集には50点が収められ、うち20点が奉天を中心とした旧満洲時代の写真である。引き揚げの時、軍の命令で3千点ものネガが没収・焼却されたが、30数枚のフィルムをくりぬいた荷札に隠して持ち帰った。崩れ落ちた城壁の向こう側に天主教の大伽藍(だいがらん)がかすんだように、ぼんやりと浮かび上がっている。「平和の鐘」と名づけられた代表的な作品である。1960年、この写真がコンク-ルで世界最優秀賞を受賞した。内村さんはその時の気持ちを世界に向けたメッセ-ジの中で、こう語っている。

 

 「太陽が沈みかけて最後の微光がその辺りを黄金色に照らしていた。私は、望まない軍需工場に徴用されて、朝からの労働に疲れ切ったからだで奉天の城壁の方に歩いていた。…生物の幸いを願い、人類の幸福を希願して科学者も宗教家も努カしているのにもかかわらず、世界の様相はその反対の方向に進んでいるように見える。何もかも人の世の営みは賽(さい)の河原の石積みに過ぎないのではないのか。…幸運にも太陽は最後の一秒の弱い光線でその辺りを照らし、私のフィルムの前景にほんの気持ちばかりのハイライトを与えてくれた。私は夢中でシャッターを切り、躍り上がって自らの心に叫んだ『平和の鐘だ。平和の鐘だ。この戦争の中にも、外界の現象とは何の関係もなく、真の平和はわれわれ自身の中にある。そしてこの鐘の音の中に充ちている』―と」

 

 私の手元に茶褐色に変色した軍事郵便の束がある。父親が留守宅の妻や3人の子どもたちに送ってきた葉書である。たとえば、こんな文面…「敵米英に勝つまではお前たちも強い日本の男児として、よく先生や母さんの云う事を聞いて、勉強したり、種々母さんのお手伝いをし、亦(また)兄弟仲よくしなさい」―。すべてに「検閲済」のハンコが押されている。

 

 内村さんが写し撮った傀儡(かいらい)国家ー「満州国」の過酷な状況の数々を、父親も垣間見ていたはずである。写真集のページをめくるたびにその思いがますます、強くなった。その一方で、「軍国日本」を称賛する文章を肉親に宛てなければならなかった、その気の遠くなるような懸隔(けんかく)を、生きて帰った父親から直接、聞いてみたかった。それがかなわないという悔しさにずっと、翻弄(ほんろう)され続けてきた。夕霧にかすむ「平和の鐘」の明暗のコントラストに目が吸い寄せられた。ふと思った。そびえたつ教会の尖塔に向かって、父親は果たして、「平和の鐘だ。真の平和はわれわれ自身の中にある」と心の中で叫ぶことができたであろうか、それとも…

 

 本日付(4日)の朝日新聞「ひと」欄は、旧満州からの日本人引き揚げを描いた中国人画家、王希奇(ワン・シーチー)さん(58)のことを紹介していた。「戦争に勝者はない。今の平和をみんなで守らなければいけない」―。王さんのこの言葉は70年以上の時空を隔てた内村さんの言葉とそのまま、重なる。戦後の混乱期の帰国の光景を描いた、王さんの作品「一九四六」が12月2日まで舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)で開かれている。内村さんが奉天から引き揚げたのもこの年(昭和21年)である。

 

 帰国後、内村さんは花巻周辺の市井の暮らしや風景、さらに神社仏閣にもレンズを向け、詩人で彫刻家の高村光太郎から「光の詩人」と呼ばれた。昭和26年、川徳画廊で開かれた「写真作品展」に作家の森荘已池(故人)はこんな文章を寄せている。「彼の作品は瞬間と永遠の記録だ。彼の作品はすぐれた彫刻を見る感じがし、大歌劇のある楽章を聴く感じもする。彼の写した人間の皮膚の下には、血と肉と骨のほかに生きている思想と感情がある。そこには、音のないうめき、ためいき、さけびが聞こえる」

 

 

 

 (写真は写真集『内村皓一』から。左側は奉天市内で撮影された「幻聴」と題する写真。1942年代の写真が多い)