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『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…

  • 『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…

 今年は「盧溝橋」事件(1937=昭和12年7月)から、ちょうど80年―。児童文学者であり、雑誌『世界』の初代編集長を務めた吉野源三郎(1899-1981年)が『君たちはどう生きるか』を脱稿したのは、事件が勃発するわずか2カ月前のことである。日中戦争の泥沼に足を踏み入れようとしていたその時、その時世に遅れまいとでもいうように「日本少国民文庫」の最後の配本として、世に問われた。今年になって、漫画家、羽賀翔一さんの手で、『漫画 君たちはどう生きるか』のタイトルで出版された。活字版と漫画版を合わせて、100万部をこえるヒット。それにしてもなぜ今、「80年前の生き方」なのか―。

 

 旧制中学2年(15歳)の主人公の「コペル君」は学業優秀でスポ-ツも万能。ちょっと茶目っ気が過ぎるために級長にこそなれないが、人望はある。友人たちとの交流の中でさまざまな出来事を経験し、「ものの見方」や社会の構造といったテ-マを身に着けていくという流れになっている。著者の吉野自身、1931(昭和6)年に治安維持法違反容疑で逮捕され、この時の体験が執筆のきっかけになった。おじさんとの文通や対話を通じた”成長物語“で、たとえば「おじさんのノ-ト」にこんな一節がある。これがコペル君の名前の由来でもある。

 

 「コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることになるのだ。…しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。…しかし、宇宙の大きな審理を知るためには、その考えを捨てなければならない。それと同じようことが、世のことについてもあるのだ」

 

 「1937」という歴史の分水嶺―。作家の辺見庸さんは中国戦線に赴いた父親の記憶をなぞるような手法で『1★9★3★7』を世に問うた。12月16日、NHKEテレ「こころの時間(再放映)~『父を問う』 今と未来を生きる思索」の中で、この年代を「征(い)くみな」と読ませながら、こう語っている。「無限同心円の思考。あの時代から何も変わっていないのではないか。分列行進の時に奏でられた『抜刀隊』は80年たった今も自衛隊の観閲式で流れている。何か剣呑(けんのん)な予感というか…。だからこそ、リアルの現場から、低い視線で世界をとらえ直さなければならない」―。

 

 特定秘密保護法や集団的自衛権の行使を容認した安全保障法制、武器輸出を可能とする防衛装備移転3原則、改正組織的犯罪処罰法(共謀罪法)、そして憲法改正へ…。さらに、北朝鮮や中国脅威論が勢いを増す中で、「いつか来た道」を予感する世代が『君たちは…』を手に取っているのか、あるいは「戦争を知らない」世代が本能的にあるきな臭さを感じ取っているということなのか…。

 

  吉野本と辺見本に刺激されたせいか、私はもうひとつの”青春“を思い出し、頬を赤らめてしまった。手元に茶色に変色した一冊の文庫本がある。フランスの作家、アンドレ・ジイドの『狭き門』(淀野隆三訳)である。この作品などで、1947年にノ-ベル文学賞を受賞している。裏表紙に「1958年1月28日、誠山房書店にて」とあり、どういうわけか「千円で買い求める」と書いてある。当時の定価は70円。辺見さんと同じように私の父親も中国へ召集され、シベリアの捕虜収容所で死亡した。男の兄弟3人を育てる母子家庭にとっては大金だったに違いない。しかし、いろんな本を所望するのを見かねて工面してくれたのだろう。高校3年のそのころ、私は2級下の女子生徒に恋をしていた。評判の美しい人だった。手あかにまみれた本文中に何か所も傍線が引いてある。たとえば―。

 

 「僕にはしばしば、僕の恋だけが僕の持っている一番立派なものであり、僕のあらゆる徳はひとえにそこに懸(かか)っており、恋こそ僕を僕以上に引き上げるもの、もし恋を失ったら、きわめて平凡な資質の到達する世間並みの高さにまで再び転落するだろうと、そんなふうに思えるのだ。君と一緒になれるという希望があればこそ、あの登りにくい小径も常に坦々たる路に見えるのだ」―。この文章をほどんどそのままコピペしてラブレ-を送った。学校の靴置き場の彼女の靴の中にそっと忍ばせて…。返事は来なかった。予感した通りだった。

 

 『狭き門』の表表紙には「力つくして、狭き門より入れ」(ルカ伝第13章第24節)という聖書の一節が置かれている。「衆に迎合するなかれ」という教えである。それにしても、あの時の”高根の花“のように、よくぞこの年まで「狭き門」をこじ開けようと突っ張ってきたものだ、と我ながらつくづく思う。記者時代も市議になった今も…。「滅(めつ)にいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者おほし」というルカ伝のもうひとつの説諭に恐れをなしたためかもしれない。

 

 「君たちはどう生きるか」―という忘れかけていたメッセ-ジが思いもかけず、切なくもまっすぐに生きた青春を思い出させてくれた。そして、この本の大ヒットが歴史の忘却を戒めてくれたことに感謝したい気持ちである。惜しむらくは、懐かしいあの老舗書店の建物が3・11の被災者用住宅に生まれ変わるため、間もなく解体されることである。あの大震災の受難者を救済するための、これも時代の流れで致し方のないことである。しかし、ラブレタ-を書かせてくれたジイドの名作を私は終生、忘れることはあるまいと思う。

 

 『君たちはどう生きるか』『1★9★3★7』、そして『狭き門』に共通するのは「記憶とは何か」ということに対する絶えざる問い返しのはずである。

 

(写真はわが青春の”3点セット“。『狭き門』のあちこちにはテッシュ(とは、当時は言わなかった)ならぬチリ紙が付せん代わりに挟んである)

 

 

 

2017.12.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]

3・11-その時 そして…山根さん夫妻

  • 3・11-その時 そして…山根さん夫妻

 朝日新聞「岩手版」に東日本大震災の被災者聞き書きが連載されている。もう6年以上続いており、今月13日付からは「山根恒夫さん、豊子さん」シリ-ズ(8回)。その5回目(通算2377回目)に私が登場している。筆者は盛岡総局のシニアスタッフライタ-の木瀬公二記者。「命の恩人だと言ってましたよ」と木瀬記者から伝言があった。当時としては当たり前のこと。でも、うれしかった。あの大震災から間もなく7年になろうとしている。記憶の風化が加速する今、木瀬記者の文章と当時の私のブログを以下に再掲し、少しでも記憶を呼び戻したいと思う。

 

 

 山根恒夫さん、豊子さん夫妻が大沢温泉に着いて2週間ほどしたとき、花巻市議の増子義久さん(77)が顔を出した。震災直後から大槌町の支援に来てくれているNPOメンバ-で、避難者が連絡してくれた。増子市議は恒夫さんと同じ3月11日生まれだった。何となく親近感を感じた。被災者の一方は公費で宿泊代が支払われ、一方は自費という状況は被災者差別につながりかねない。増子市議はそう言って市や県に掛け合ってくれた。宿の人も「2人だけからお金を取るのはね」と応援してくれた。まもなく県は、山根さん夫妻の公費での避難を認めてくれた。半月清算で支払おうと用意していた宿泊代は免除され、その日までの、特別に頼んだ食費だけですんだ。

 

 しばらくすると町から仮設住宅を紹介された。8月2日、そこに入居した。そこにも増子市議はよく顔を出してくれた。花巻温泉から仮設に移ったほかの住民と同じく、石油スト-ブやラジオ、衣類などを持ってきてくれた。「心が泣いているときに、顔を見に来たよと寄ってくれるだけで安心した。力になった。10万円もらった気になった」と今でも夫妻はありがたがっている(12月17日)

 

 

【2011年7月2日付ブログから】

 

 神様のいたずらなんだろうか、あの日はちょうどオレの76歳の誕生日だったんだよ。年金を預けている銀行が誕生祝をくれるっていうんで、自転車をこいで貰いに行った。中身は皿のようだった。割れたらいかんと思って、荷台のかごにタオルを敷いて、その上に置いて…。そうして、家に戻ろうと北小(大槌北小学校)の前まで来た時、自転車ごと突き飛ばされてしまった。とにかく立ってはいられないようなすごい揺れだった。かあちゃんが表に出ていたので、「津波が来る。早く車に乗れ」と怒鳴った。そうしたら母ちゃんは親しくしている近所のおばあさんの様子を見て来るって。「その人は一人暮らしだったの。家に入ったら、何と地震で倒れた仏壇の掃除をしているじゃないの。そんな場合じゃないと外に連れ出した」(と豊子さん)。4人を車に乗せて高台へ逃げ、さらに車を捨てて上へ上へと走った。かかとまで水が追いかけてきた。まさに間一髪だった。家も何も、あの誕生祝もな~にもなくなってしまった。

 それからがまた大変だったんだよ。まるで流浪の民みたいなもんだ。避難所には3日間いただけ。難を逃れた親戚に重度の自閉症の子がいた。一緒に生活していた妹がお産で入院したので、その間、その子の世話をすることになった。無事、出産して戻ってきたので、また避難所に入ろうとしたら、もう一杯だと。仕方がないから埼玉にいる長女のアパ-トに転がり込んで、ここに約40日間。これ以上、迷惑をかけるわけがいかないと思って、以前、湯治に来たことがあるこの温泉の世話になることに。6月24日のことだ。一難去ってまた一難だ。ここには沿岸被災者が公費負担で避難しているが、あんたの場合は申し込みの期限が切れているからダメだと。そこにひょっこり現れたのがあんただったというわけだ。おかげで急きょ、公費負担でOKということになった。(この件については私も市側に再考を促したが、市の沿岸被災市町村支援本部の現場職員も公費負担を認めるよう県に働きかけていたことを付け加えておく)。

 それにしてもどういう巡り合わせなんだろうな、あんたもあの震災の日が誕生日だっていうじゃない。出会いがまるで前世から約束されていたみたいで…。孫がなぁ、「じいちゃんの誕生祝は津波だって。それを生き抜いたんだから、300歳まで生きるよ」だって。確かに漁師一筋の人生で2度も死に損なった。3度目の正直もこうやって、どっこい生きている。今回の大震災は未曽有の犠牲者を生み出した。でも、人と人とのつながりという広がりも作ってくれた。あんたもその一人だ。新しい親戚が出来たっていうわけだ。大槌の海のほっぺたが落ちるような新鮮な魚を食わせてやるからな。(傍らで豊子さんがポツリと言った。「いっそのこと、津波に流されてしまった方が良かったと考えたこともあった。でも、今こうやって生きていて、人の情けの有難さを身に染みて感じている)

 

 

(写真は温泉でくつろぐ山根さん夫妻=花巻市の大沢温泉自炊部で)
 

2017.12.18:masuko:コメント(0):[身辺報告]

”ドウリズム”としての「米軍基地」問題(続報)―工事はイケイケ

  • ”ドウリズム”としての「米軍基地」問題(続報)―工事はイケイケ

 

 「自作自演だ」「そんなところにあるのが悪い」(12月16日付「朝日新聞」)―。今回のヘリ窓の落下事故に先立ち、部品が近くの保育園の屋根で見つかった件につき、ヘイトスピ-チまがいの中傷が殺到している。作家の百田尚樹さんは1年半前、こう語った。「(米軍普天間飛行場は)もともと田んぼの中にあった。基地の周りに行けば商売になるということで人が住みだした」。この事実無根が白日の下に晒(さら)されたにも関わらず、沖縄バッシングは止まるところを知らない。「シランフ-ナ」(知らんふり)を決め込む、これはヤマトによる「沖縄差別」そのものではないか(以下、朝日記事から)

 

 

 沖縄で繰り返される米軍関係の事件事故。その被害の実態は県外には伝わらないのか。米軍ヘリの部品が屋根で見つかった宜野湾市の保育園には中傷する内容のメ-ルや電話が殺到し、関係者は心を痛める。オスプレイの大破事故が昨年起きた名護市では、相次ぐ米軍事故に抗議集会が開かれた。米軍普天間飛行場から約300メ-トルの場所にある緑ケ丘保育園には連日、なじるようなメ-ルや電話が舞い込んでくる。「自分たちでやったんだろう」「教育者として恥ずかしくないのか」……。

 

 7日午前、大きな音が響き、屋根の上で見慣れない物体が見つかった。米軍は翌日、大型ヘリCH53Eの部品だと認めた。一方で米軍は「飛行する機体から落下した可能性は低い」とした。メ-ルや電話はそれから相次ぐようになった。多くは「自作自演だ」など園側を疑い、中傷していた。ウェブにも同様の臆測が流れた。嫌がらせのメ-ルをはじく設定にしたが、それでも1日4~5通のメ-ルが毎日届き、電話もしばしばかかってきて相手は名乗らない。部品が見つかった屋根にはへこんだ痕跡があり、宜野湾署も確認している。職員や園児が「ド-ン」という衝撃音も聞いている。神谷武宏園長は「じゃあ、部品はどこから来たんですか。私たちじゃなく、米軍の管理の問題でしょう。

 

 「そんなところに保育園があるのが悪い」。そんな電話もある。園長はこう反論している。「基地より先に、住民がいた。園だって生活に必要だから、先人たちが建てたんです」。1945年の沖縄戦のさなか、米軍は旧宜野湾村の中心部を接収して滑走路を造った。住民は周囲に居住地を指定され、基地を取り囲むように市街地ができた。沖縄が米軍施政下だった64年、キリスト教の教会がこの地区に初めて造った保育園が緑ケ丘保育園だ。園の保護者たちは、園上空の米軍機の飛行禁止を求める嘆願書をつくり、全国に署名を呼びかけている。園長は「メ-ルの内容を見ると、何も知らない内地(本土)の人だろうなと思う。保護者や職員が落ち込みそうになっているが、嘆願に賛成してくれる声が大きくなって、そんな気持ちを吹き飛ばしてほしい。

 

(写真は部品落下に状況について、説明する緑ヶ丘保育園の神谷武宏園長、左メガネの人=12月7日、宜野湾市内で。インタ-ネットに公開の写真から)

 

 

★沖縄に傘で防げぬ物が落ち(16日付日報・時事川柳)

★怒りの声窓外しても届かない(同)

★官邸を基地の真横に移すべし(15日付・朝日川柳)

★人柱立たねば日米腰上げず(16日付・同)

 

《追記-1》

 

●【東京】翁長雄志知事と宜野湾市の佐喜真淳市長は15日、首相官邸で菅義偉官房長官と会談し、宜野湾市の普天間第二小学校に米軍CH53E大型ヘリの窓が落下したことに抗議し、米軍普天間飛行場の全所属機の飛行中止などを要請した。翁長知事は、普天間の米軍機を県外・国外へ長期間ロ-テ-ション配備することで負担軽減策を図るよう、米側に働き掛けることなどを政府に求めた。佐喜真市長は普天間の早期返還を訴えた。

 

 翁長知事らによると、米軍機が学校上空を飛行しないよう要請したのに対し、菅氏は米軍の飛行回避を徹底するよう米側に働き掛ける考えを示したという。県が新たに要求した普天間所属機の県外・国外へのロ-テ-ション配備は、米軍が嘉手納基地にF35A戦闘機を整備員と共に6カ月などの一定期間配備した計画を逆手に取ったもの(12月16日付「琉球新報」)

 

●普天間飛行場所属オスプレイの沖縄県名護市安部の海岸での墜落事故から1年を機に、同市辺野古の新基地建設に反対する「オ-ル沖縄会議」は15日、抗議集会を名護市21世紀の森屋内運動場で開いた。今月13日に普天間所属CH53Eヘリが宜野湾市立普天間第二小に窓を落下させるなど、相次ぐ米軍機事故に抗議しようと3千人(主催者発表)が結集。オスプレイ撤去、在沖海兵隊の撤退、県内移設によらない普天間の閉鎖・撤去などを口々に叫んだ。

 

 集会決議では、昨年12月13日のオスプレイ墜落以降も普天間所属オスプレイが今年8月にオ-ストラリアで墜落し、新石垣空港など民間空港にたびたび緊急着陸したことを踏まえ「構造的な問題を抱えた欠陥機」と断じた。また、普天間のCH53Eが今年10月に東村高江の民間地で炎上し、宜野湾市内では米軍機の部品が保育園に落下したとみられるほか、普二小への窓落下で児童が負傷する現状に「世界一危険な普天間を放置し続けてきた当事者は日米両政府。沖縄のどこにも普天間を移設する場所は存在しない」として、海兵隊撤退に加え、オスプレイの撤去、普天間所属の全機飛行停止などを要求した。

 

 登壇した稲嶺進名護市長は「あってはならない事故を止めるには普天間を閉鎖し、県外国外に持って行ってもらう。そして辺野古は造らせない」と決意を表明。事故の抗議で上京していた翁長雄志知事は「重大な事故が繰り返し発生し、県民の怒りは限界に達しつつある。オスプレイ配備撤回、普天間の県内移設断念の『建白書』の実現に不退転の決意で臨む」とのメッセ-ジを寄せた。「オ-ル沖縄会議」は週明けにも県内の日米両政府の関係機関に直接、決議を提出する予定(12月16日「沖縄タイムス」)

 

●防衛省は15日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設工事を巡り、日米両政府が護岸一か所などの造成工事の実施で新たに合意した発表した。両政府の協議機関である日米合同委員会が14日に話し合った。防衛省は実施時期について「まだ決まっていない」としている。辺野古移設の是非が争点になる来年2月の名護市長選を前にした合意で、移設を着実に進める姿勢を示す狙いがありそうだ…。(12月16日付「岩手日報」共同配信)

 

●政府は15日の閣議で、断層が近くに存在すると指摘されている米軍辺野古弾薬庫(名護市)に関し、「安全性については、問題ないと認識している」とする答弁書を決定した。沖縄県の「辺野古断層」と「楚久断層」は「位置が必ずしも正確には特定できるものではない」として、弾薬庫との位置関係を示すことは困難だとした。共産党の赤嶺政賢衆院議員の質問主意書に答えた。弾薬庫は、米軍普天間飛行場の移籍先である名護市辺野古のキャンプ・シュアブ北側に隣接している(同上)

 

●立憲民主党と希望、共産、日本維新の会、社民、「無所属の会」の野党6党派は15日、沖縄県宜野湾市の小学校に米軍ヘリコプタ-の窓が落下した事故を受け、与党に衆院安全保障委員会の閉会中審査を早期に開催するよう要求した…。(同上)

 

《追記―2》

 

●「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」―。沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊さん(57)が掌編小説『希望』の中に記した文章が衝迫的にせりあがってきた。1995年、米兵3人による少女暴行事件が起きた直後の気持ちである。沖縄の深奥(しんおう)を語るにはもはや、この種のメタファ-(暗喩=あんゆ)に頼るしかないということなのだろうか。

 

 

2017.12.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

“ドウリズム”としての「米軍基地」問題

  • “ドウリズム”としての「米軍基地」問題

 小学校の校庭に米軍ヘリの部品が落下した光景を目撃した刹那(せつな)、この列島に住む多くの人たちの頭には恐らく、「もしこれが、わが町、わが村だったら…」という思いが一瞬でもよぎったに違いない。仮に次の瞬間、「オキナワで良かった」とホッと胸を下ろしたとしても…。この「一瞬の思い」こそが沖縄における「米軍基地」問題の本質をほんの少しでも照らし出す一筋の道筋である。

 

 戦後、郷土の詩人・宮沢賢治が「イ-ハト-ブ」(夢の国)と名づけた、合併前の「花巻町」の町長を2期務めた政治家がいた。社会党(当時)に籍を置き、後に国政に転じた北山愛郎(1905―2002年)である。終生、国民服(中国の人民服)を着用し社会党の副委員長にまで上りつめたが、町長時代の“思想”は「ドウリズム」に徹していた。「まつりごとが『道理』にあっているか、どうか」—「愛郎的デモクラシ-」の原則はここにあった。

 

 今回の「落下」事故があった13日、共同通信社は全国47都道府県知事を対象に沖縄の「負担軽減」問題についてのアンケ-ト調査の結果を公表した。たとえば、普天間飛行場(海兵隊)所属のMVオスプレイの安全性に不安や懸念を示したのは14人で、地元沖縄の配備撤回要求に理解を示したのは10人にとどまった。設問は、①「オスプレイの飛行拡大に不安や懸念はあるか」(無回答を含む「その他」30人)、②「沖縄県の配備撤回要求に理解や共感はできるか」(同36人)、③「訓練の県外移設の賛否は」(同38人)、④「訓練の地元受け入れの賛否は」(同39人)、⑤「日米地位協定の改定は必要か」(同30人)、⑥「過去最悪の事故率について」(同31人)―。沖縄の現状にある程度の理解を示しつつも「ニンビズム」Not In My Back-Yard=わが地元に来てもらっては困る)という消極姿勢が目立った。

 

 今回のアンケ-ト調査に対し、岩手県は「(米軍基地問題は)国の専権事項だ」として賛否を明確に示さなかった。こうした自治体側を議会側が後押しするという構図も全国的な傾向になっている。

 

 7年前、この問題を取り上げた私を批判する文書(議会報告紙)が花巻市議会所属の共産党議員によって、ばらまかれた。こんな内容だった。「『沖縄の痛みを受け入れ、米軍普天間基地を花巻空港に』との趣旨のようですが、とんでもない発言が飛び出したものです。女性暴行などの米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などありません」―。しかも、「訓練の一部引き受け」という質問の趣旨をねじ曲げた悪質な内容だった。以来、公開質問状などによって、その真意を問い続けてきたが、同党所属会派は現在に至るまで口を閉ざし続けている。一方、東日本大震災の被災者から提出された「日米地位協定」の改定を求める請願審査でも、いわゆる“革新会派”が陣頭指揮を執る形で反対に回るなど自治体側を補完するという奇妙な構図になっている。

 

 「先生の声が聞こえなくなる。みんなの声も聞こえなくなる。ぼくは『もうどうでもいいや。、えんぴつをなげた」―。12月14日付「朝日新聞」天声人語は、『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(渡辺豪著)と題する本の中から、今回被害にあった普天間第二小学校の文集を紹介。作家の池澤夏樹さんがかつて、「トラックに大きなスピ-カ-を積んで日本中の学校を巡り、普天間第二小の騒音を再現してはどうか」と提案したことを伝えている。

 

  普天間飛行場をぐるりと取り囲むようにして広がる基地の町—宜野湾市の姿が掲載した写真である。この光景を凝視する時、私たちの脳裏にはどんな思いが去来するであろうか。基地と背中わせの、このたたずまいが果たして「ドウリズム」(道理)に適合していると言えるのか―。せめて今日一日だけでも、この写真から目を背けないでいたいと思う。同じismでも「ドウリズム」と「ニンビズム」とは最も遠い位置関係にある。この懸隔(けんかく)に黒々と横たわるのはウチナンチュ(沖縄)に対する、ヤマト(本土)の、気の遠くなるような「差別意識」ではないのか。フェンスを隔てて、基地と接する子どもたちの悲しみの表情が私たちすべての「思想の根本」を問うている…。

 

 

(写真は街のど真ん中に「基地」(普天間飛行場)がドカンと居座る宜野湾市。まさに”基地城下町“の様相=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

《追記》

 

●「沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校に13日、米軍ヘリコプターCH53Eの窓が落下した事故。普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画を進める政府は、相次ぐ事故に危機感を強めている。『このような事案の発生はあってはならない』。小野寺五典防衛相は13日、羽田空港で記者団にこう強調。政府は原因究明と安全が確認されるまでの間、飛行を自粛するよう在日米軍に要請した。また、外交ルートを通じて米政府に『遺憾の意』を伝えた」

 

 「山本朋広防衛副大臣も同日、防衛省でマルティネス在日米軍司令官と会談し、飛行自粛を求めた。山本氏によると、午後7時時点で、在日米軍は沖縄県内にあるCH53E13機すべての飛行を中止し、機体の安全性を確認しているという。今回事故を起こしたCH53Eの同型機は、10月に沖縄県東村高江で不時着炎上事故を起こした。だが、米軍は事故原因を明らかにしないまま同型機の飛行を再開。政府も追認した」(12月14日付「朝日新聞」電子版)

 

●「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校の校庭に米軍大型ヘリコプターCH53Eの窓が落下した事故から一夜明けた14日午前、普天間飛行場では米兵らが同型機を点検しているとみられる様子が確認された。県警の捜査員も事故機の調査に当たっている。一方、同県の翁長雄志(おなが・たけし)知事は同日午後に防衛省や外務省、在日米国大使館などを訪れて日米両政府に抗議する」

 

 「関係者によると、普天間飛行場では同日午前に米軍ヘリの離陸が確認された。CH53Eではない。米軍嘉手納基地(嘉手納町など)でも米軍機が飛び立つのが確認されたという。県は米軍に対し、沖縄県内の全米軍機の緊急総点検の実施と安全が確認されるまでの飛行中止を求めているが、県の要請は無視された形になった一方、自民党県連や公明党県本部、社民党県連も14日午前、防衛省沖縄防衛局や外務省沖縄事務所を訪れて抗議するなど沖縄では党派を超えて落下事故への反発が広がっている」(12月14日付「毎日新聞」電子版)

 

●「沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校の校庭に米軍ヘリの窓が落ちた事故を受け、翁長雄志(おながたけし)知事は14日、防衛、外務両省や米大使館を訪れ、強く抗議した。政府は福田達夫防衛政務官を沖縄に派遣し収拾に動いたが、米軍は、県が求めた在沖全米軍機の飛行中止には応じず、米軍機は次々と飛んだ。事故におびえ学校を休んだ児童もいた。事故機が所属する米軍普天間飛行場ではこの日、県警の捜査員が基地内に入って事故機や同型機の写真撮影などをした。米軍の協力を得ての調査で、米軍が日本の警察を基地内に入れて調査させるのは異例という。県警によると、米軍から『落ちたのはコックピットの右の窓』と説明があった。米軍は『緊急脱出用の窓』としている」

 

 「翁長氏は午後、防衛省で山本朋広防衛副大臣と面会。県内の全米軍機の緊急点検やそれが終わるまでの飛行停止、普天間飛行場の5年以内の運用停止などを求める抗議文を渡し『子供たちの安全にかかわる事故で、多くの県民が憤っている』と述べた。山本氏は『あってはならないことで大変遺憾だ』と応じ、窓を落としたCH53Eと同型機は日本国内では現在1機も飛行していないと説明した。ただ沖縄では14日も、普天間からを含めオスプレイなどが次々と飛び立った。翁長氏は記者団に『本当にとんでもない話。ほかの都道府県でこんなことがあったら、とても無関心ではいられないはず。日米地位協定などの見直しがいる』と強い口調で言った」

 

 「一方、福田防衛政務官は、窓が落下した普天間第二小を訪れた。学校を含む住宅密集地の上空はできるだけ避けて飛ぶという日米合意があるにもかかわらず、視察中も米軍ヘリやオスプレイが何度も上空を飛行した。福田氏は喜屋武(きゃん)悦子校長と面会し『あってはならないことが起きた。申し訳ありません』と謝罪。同席した市教育委員会の職員によると、喜屋武校長は『米軍機が学校の上空を飛ばないよう(米軍に言って)回答してほしい。ここは教育現場。最低限の安全確保をお願いします』と訴えた。市教委によると、普天間第二小は、米軍側が学校上空を飛ばないと回答するまで、体育の授業や休み時間に校庭を使わないと決めた。この日、2年生の1人が事故を怖がって休んでおり、その他の児童についても保健師や臨床心理士らが支援にあたる。福田氏は佐喜真淳市長とも面会。佐喜真市長は「生命に危険を及ぼすような落下物は極めて異常。徹底的に、政府を挙げて米軍に注意喚起、安全管理を求めてほしい」と訴えた」(12月15日付「朝日新聞」電子版)

 

宜野湾市議会大城政利議長)は15日、12月定例会の本会議で、米軍普天間飛行場所属のCH53Eヘリが普天間第二小の運動場に窓を落下させた事故に対する抗議決議を全会一致で可決した。被害を受けた児童や保護者、学校関係者への謝罪、事故原因の公表までの飛行停止などを求め、同日、全議員で米軍や沖縄防衛局など関係機関に出向き、抗議・要請する。決議では、一歩間違えれば人命に関わる深刻な事故だと指摘し『米軍の安全軽視の姿勢に激しい憤りを覚える』と強く批判。7日にも市野嵩の緑ヶ丘保育園にも同型ヘリから円筒の部品が落下したとみられる事故に触れ『市民の不安と恐怖、米軍に対する不信感は頂点に達している』と訴えている。要求項目には実効性のある再発防止策の実施とその状況の公表、飛行場の早期閉鎖返還、5年以内の運用停止の実現、日米地位協定の抜本的改定も盛り込まれた。また、11月に那覇市であった米海兵隊員による飲酒運転死亡事故に対する抗議決議も全会一致で可決された(12月15日付「沖縄タイムス」電子版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.12.14:masuko:コメント(0):[身辺報告]

チャップリンと核…もうひとつの平和賞ー沖縄でまた、あわやの事故! オスプレイ墜落から1年!!

  • チャップリンと核…もうひとつの平和賞ー沖縄でまた、あわやの事故! オスプレイ墜落から1年!!

 国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペ-ン」(ICAN=アイキャン)がノ-ベル平和賞を受賞したというニュ-スを聞きながら、もうひとりの受賞者はチャップリンではないかと、ふと思った。ヒントを与えてくれたのは知人で尾道市在住の映画監督、森弘太さん(78)。未認定の被爆者に焦点を当てた映画「河/あの裏切りが重く」(1967年、モントリオール国際映画祭招待作品)などの問題作を問うてきた森さんは先月、地元紙「中国新聞」に8回にわたって、表題のタイトルの連載を掲載した。目から鱗(うろこ)とはこのことか。「モダン・タイムス」「独裁者」「殺人狂時代」「ライムライト」…。チャ-ルズ・チャップリン(1889-1977年)の代表作はかなり見てきたつもりだが、世界三大喜劇王のキャラクタ-に圧倒され、その喜劇性の背後に隠された風刺(カリカチュア)や暗喩(メタファー)を見過ごしてこなかったか…。

 

 森さんは連載の中で、「欧州各国ではおおむね好評を博しながら、米国では長く上映禁止扱いにされ、研究者からもほぼ無視されている一本。核問題を扱った『ニュ-ヨ-クの王様』(1957年)がそれである」と指摘している。ヨ-ロッパのある小国の王様「シャドフ王」(チャップリン)は核の平和利用を提唱したことから「原爆」勢力に王位を奪われ、米国に亡命する。当時のニュ-ヨ-クは商業主義の真っただ中。俳優経験があることを見込まれ、テレビコマ-シャルに引っ張りだこになる。その一方で、念願の核によるユ-トピア建設の売込みにも余念がない。ある時、進歩主義を掲げる学校でマルクスを口にする10歳の少年と論争になる。後日、この少年の両親が非米活動委員会(いわゆる”赤狩り“=マッカーシズム)の糾問(きゅうもん)を受け、投獄されたことを知る。少年を滞在していたホテルにかくまったことが外部にもれ、シャドフ王自身もスパイ行為を疑われる。

 

 「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる」―。後世に残るこの警句は「殺人狂時代」(1947年)の中で、断頭台に立つ主演のチャックプリンの口から発せられた言葉である。この映画が「容共的」という理由で、チャップリンは米国を追われることになる。広島・長崎への原爆投下の2年後に映画が完成時、彼はこう語ったという。「現代文明がわれわれすべてを大量殺人者に変えようとしていることを表現しようとした。原子爆弾はこれまで想像もつかなかったほど残酷な武器であり、大勢の半狂人がどんどん増えていくような恐怖と不安を伴う」。10年後に公開される「ニュ-ヨ-クの王様」の構想はこの時にさかのぼるのではないか、と森さんは指摘。自伝やインタビュ-などから生の証言を集めている。たとえば―。

 

 「これは私の映画の中ではもっとも反抗的なものだ。私は、今話題になっている死にゆく文明の一部になるのはごめんだ(英紙インタビュ-;森さんの註「『死にゆく文明』」が核武装至上主義をうたう米国を指すのはいうまでもないだろう)、「原子核の分裂によって、人類は窮地に追いつめられ、考えざるをえなくされるのだ。自滅か、それとも賢明な行動か、選択はそこにある。いまや科学の圧迫がその決断を迫っているのだ」(『チャップリン自伝』・中野好夫訳)…。私がこの映画を観たのは確か高校3年の時ではなかったかと思う。非米活動委員会へ召喚(しょうかん)される途中、ホテルのエレベ-タ-内に設置された消火栓をいじっているうちに指が抜けなくなり、ホ-スを引きずったまま”法廷“へ。火事と間違えた警備員が元栓につないだため、今度は陪審員ら全員が水攻めに…。こんな展開に腹を抱えて爆笑したことと少年の雄弁ぶりぐらいしか、記憶に残っていない。

 

 チャップリンがこの映画を製作した1950年代、東西冷戦が激化する中で米国は太平洋ビギニ環礁で水爆実験をし、日本の漁船「第5福竜丸」が被曝(1954年)。さらに、25年後には「核の平和利用」はスリ-マイル島原発事故を引き起こした。しかし、チャップリンの反核思想に注目したフランス映画批評家協会はすでに1948年、彼をノ-ベル平和賞に推薦していたという事実はあまり知られていない。「もうひとりの受賞者」と呼びたい所以(ゆえん)である。「映画評論などで彼の反核喜劇の価値が『封印』されたままに見えるのはどうしたことか。リバイバル上映を望んでやまない」と森さんは連載を結んでいる。そういえば、今年はこの映画が公開されてからちょうど60年の節目に当たっている。

 

 そして、いま現在の光景はと言えば…。世界に君臨する当世風の「ニュ-ヨ-クの王様」と鬼退治に向かう桃太郎の家来よろしく、その王様に付き従う属国・ニッポンのプチ宰相。対するもう一方は、これまた一歩も引かない構えの「ピョンヤンの王様」…。チャ-ルズ・チャップリンが存命なら、この有様をどんな喜劇に仕立て上げ、その狂気の沙汰(さた)をどんな風に笑い飛ばしたであろうか。「殺人狂時代」から今年で丸70年―チャップリンの”予言”がズバリ、的中したということではないのか…。

 

(写真は「ニュヨークの王様」のポスタ-=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記-1》~ブログを見た森さんから、さっそく返信が届いた。チャップリン映画に対する日本の驚くべき対応について、詳しく書かれていた。

 

 「著名な本と知られるミック・ブロデリック編著『ヒバクシャ・シネマ』(1999年刊)では、『原爆の子』『長崎の子』から『生きものの記録』『24時間の情事』から『第五福竜丸』、そしてゴジラ映画まで36本の核映画に論及しているが、『殺人狂時代』と『ニュ-ヨ-クの王様』はタイトルすら紹介されていない。わが国唯一の映画手引書『新映画辞典』(1980年刊)も同様である。活字分野においても米国の核軍拡と原子力産業に触れることは鬼門か?争点はずしか?米国とその同盟国のボイコット弾圧から逃避する映画ジャ-ナリズムか?チャップリンの2本の映画が、映像ジャンルと活字ジャンルの両分野でボイコットされている事情は何を意味するのか」

 

 ノ-ベル平和賞の授賞式で、カナダ在住の広島の被爆者・サ-ロ-節子さん(85)が講演した(12月12日付朝刊各紙)。「あきらめるな!(がれきを)押し続けろ!動き続けろ!光が見えるだろう?そこに向かってはって行け」―。サ-ロ-さんは奇跡の生還をとげた時の救出者の声を決して忘れることはできない。70年前のチャップリンの悲痛な叫びが重なって聞こえてきた。

 

  

《追記-2》~米国の核の傘の下にある沖縄の米軍基地で13日、ふたたび大惨事になりかねない事故が発生した。事故現場に隣接する「普天間飛行場」は世界で一番、危険な基地と言われている。移設先(新基地建設)とされる「辺野古」(名護市)について、沖縄県は「(移設)反対」を主張しているが、国側の工事が現在も強行されている。ちょうど1年前のこの日、名護市沖の浅瀬に同飛行場所属のオスプレイが墜落・炎上する事故が起きている。琉球新報によると、2015年以降の米軍機からの落下事故は今回を含め、13件に上っている。なお、NHKスペシャル(BS1)のスクープドキュメント「核と沖縄」が今月17日(日)午後10時から、再放映される(9月24日付当ブログ「沖縄と核、そして北朝鮮の核・ミサイル」参照)

 

●「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校で13日午前10時10分ごろ、校庭に米軍ヘリコプタ-の窓が落下した。校庭では体育の授業が行われており、男児1人が軽いけがをした可能性があり、県警が確認している。県警によると、落下直後に小学校から『グラウンドに落下物のような物がある』と110番通報があった。落ちていたのは、90センチ四方ほどの金属製の窓枠。防衛省沖縄防衛局が米軍に問い合わせたところ、海兵隊の大型輸送ヘリCH53から窓が落ちたとの説明があったという」

 

 「県教委などによると、落下当時は2、4年生の約50人が体育の授業中だった。落下の衝撃ではねた小石が、4年生男児の左手の甲に当たったという。けがの程度は不明。学校は授業を打ち切り、全校児童を体育館に集めて安全を確認した上で、下校させるという。在沖米海兵隊は、窓の落下を認めたうえで『事態を深刻に受け止め、原因を調査している。住民に不安を与え、おわび申し上げる』とのコメントを出した。現場を視察した翁長雄志知事は、記者団に『極東の安全保障を守る中で、沖縄だけが危険な目に遭い、子どもたち、県民の生命、財産が脅かされている。差別的な安全保障のあり方を政府と米軍にしっかり伝えないといけない』と語った。宜野湾市では今月7日、同飛行場近くの保育園の屋根の上で米軍ヘリの部品が見つかっている」(13日付「朝日新聞」電子版)

 

●【東京】普天間第二小学校のグラウンドに普天間飛行場所属のCH53Eヘリコプターの窓枠が落下したことを受け、山本朋広防衛副大臣は13日、在日米軍のマルティネス司令官と防衛省で面談し、同系機の飛行自粛を求めた。児童1人がけがをしているが、山本氏は確認中として「多大な被害を与えかねない」と述べた。飛行停止は求めなかった。マルティネス司令官は「米軍の落下物であるということは間違いない」と認めた。ただ、飛行自粛については詳細を確認して、日本側に報告するとした。山本氏が会談後、記者団の取材に答えた(13日付「琉球新報」電子版)

 

●「沖縄県宜野湾市の市立普天間第二小の校庭に13日、米軍機から窓枠が落下した。同市では今月7日にも米軍機の部品とみられる円筒状の物体が緑ケ丘保育園に落下したばかり。相次ぐ落下事故は米軍基地と隣り合わせの生活の危険性を改めて示し、学校関係者らは怒りと不安の声を上げた。5年と4年の児童2人を同小に通わせている呉屋達巳さん(42)は一報を受けて学校に駆けつけた。『震えが止まらず、ドキドキしている。学校には規制線が張られて立ち入れない。これから体育館で緊急集会があるようだが、まだ詳しいことは分からない。先日も保育園に部品が落ちたばかり。許せない』と怒りをあらわにした」

 

 「3年と6年の子供2人が通う会社員男性(39)は『いつか起きると思っていたが、とうとう起きてしまった。こんな思いは沖縄の誰にも味わわせたくない。この事故によって辺野古への移設が加速しないかが一番気がかりだ』と話した。同小に隣接する幼稚園に孫を迎えに来た男性(68)は『日本にこんな危険な街はない。どこでもいいから早く普天間飛行場を動かしてほしい』と話した。(中略)7日に落下事故があった緑ケ丘保育園の神谷武宏園長(55)は保護者から普天間第二小学校で落下物があったという連絡を受けて現場に車で駆けつけた。『まだ保育園の落下事故から1週間たつかたたないかというところでとんでもない。普天間飛行場があり、上空を航空機が飛ぶ限り、こういうことが起こり続ける』と憤った」(13日付「毎日新聞」電子版)

 

●「沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校に13日午前、米軍ヘリコプターCH53Eの窓が落下した事故で、沖縄県は日本政府に対し、安全が確認されるまで県内にある米軍機全機の飛行を中止するよう求めた。全米軍機の飛行中止を求めるのは極めて異例。富川盛武副知事は午後、県庁で中嶋浩一郎防衛局長らと面会し『今回の事故は次元が違う。航空機の窓が落ちるなんて常識では考えられない。日本の安全保障体制にも影響を与えかねない』と米軍の安全管理態勢を厳しく批判。『一歩間違えば児童の命に関わった。普天間所属機はこの1年の間に事故を何度も何度も起こしているが、米軍の運用を最優先し、安全を軽視する姿勢が招いたものだとも言える』として、沖縄の全米軍機の飛行中止を求める抗議文を手渡した」

 

 「これに対し中嶋局長は、在沖米軍幹部と面会し、落ちたのはコックピットの左側の窓との説明を受けたことを明らかにした。米側はCH53Eの安全点検を行うと約束したという。沖縄県内には、普天間飛行場に海兵隊のオスプレイや輸送ヘリなどが配備されているほか、嘉手納基地には空軍のF15戦闘機や空中給油機といった大型機が配備されている。13日午前10時過ぎ、米軍のCH53Eから窓が普天間第二小の校庭に落下した。当時は体育の授業中で児童約50人がグラウンドにいた」(13日付「朝日新聞」電子版)

 

●「沖縄県警宜野湾署によると、13日午前に宜野湾市の普天間第二小学校グラウンドに落下した米軍普天間飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリの窓は台形型で四方の長さ約65~93センチ、重さ約7・7キログラム。同署によると、小学4年生の児童は『左肘辺りに何かが当たった』と話しているが、外傷はない。県警関係者によると、児童と落下地点の距離は約10メートルだったという。同署は同日午前10時15分ごろ、小学校の正門と裏門の規制を開始。午後0時36分ごろに規制を解除した」(13日付「沖縄タイムス」電子版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

2017.12.12:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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