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祝:芥川・直木賞受賞@賢治の”背後霊“!?

  • 祝:芥川・直木賞受賞@賢治の”背後霊“!?

 ポンと背中を叩かれ、振り向くと賢治がニッコリ微笑んでいた。「ちょっと、おめさん。オレのごど、忘れでねすか」…。宮沢賢治という人はひょっとして、“背後霊”ではないか―と思うことがある。16日に行われた第158回芥川・直木賞の選考会で、遠野出身で千葉県在住の若竹千佐子さん(63)のデビュ―作『おらおらでひとりいぐも』が芥川賞に、群馬県出身で大阪在住の作家、門井慶喜さん(46)の『銀河鉄道の父』が直木賞に選ばれた。前者には“賢治”が通奏低音のように出没し、後者はずばり父親、政次郎の目を通して見た「賢治像」を描いた作品である。というわけで、もうひとりの受賞者は”背後霊”としての賢治なのかも…。いずれ、昨年の第157回芥川賞を受賞した、盛岡在住の沼田真佑さんの『影裏(えいり)』に続く快挙である。

 

 「おらどの心にもあるプレ-トの東北弁はその最古層、言ってみれば手つかずの秘境に、原初の風景としてイメ-ジのように漂っているのでがす」(本文より)―。若竹本のタイトルは賢治の詩「永訣の朝」にちなんでいる。本書の主人公である「桃子さん」(74)はまもなく死に行く運命にある賢治の最愛の妹、トシの死をもう一度、生き直そうとでもするかのように自由奔放である。その背中に異界(『遠野物語』)の曙光(しょこう)が差し込んでいる。「おらだば、おめだ。おめだば、おらだ」―。つまり、人間存在にはしょせん「自他の境界」はない。死者も生者もない。最古層の東北弁を分け入った先に開けた風景はまさに「イ-ハト-ブ」、そう、そこが賢治が思い描いた”ドリームランド”だったとしたら!?…。実際、文中には賢治童話の『虔十公園林』の一節も差し挟まれている。

 

 「賢治のパトスがあちこちに埋められている」として、花巻出身の若手文芸評論家、佐藤康智さん(39)はこう書いている。土地の言葉を知る者ならではの感性が伝わってくる。「脳内の声々の、テンポの良いやりとりや、リズミカルな擬音も、賢治っぽい。声々が好き好きに語りかけてくる状況は『セロ弾きのゴ-シュ』を髣髴(ほうふつ)とさせる。桃子さんの老いや脳内の混沌を、のほほんと見つめるような、語り手の気張らない感じも賢治の童話さながらだ」(『群像』2018年2月号)。さらに、敬愛する作家の佐伯一麦さんもこう記す。「おもしぇがったな。読み終わったとき、脳内で呟(つぶや)く声があった」(1月14日付「朝日新聞」―。「脳内」なんていう言葉を聞くと、私などはとたんに腰が引けてしまう。「これって、賢治教じゃないか」と―。そういえば、かつて“脳内革命”などというイヤな言葉が徘徊していたっけなあ。

 

 賢治作品の時代性について、思想家の吉本隆明(故人)はかつてこう指摘した。「時局の匂いがなかった。反戦的だったからではなく、好戦的な現実意識と矛盾しないという意味で…」。また、歴史家の色川大吉さんは「(賢治の作品は)反戦思想にならないけれども、非戦思想の拠り所ではあったと思う」と書いている。賢治より13歳年上で、まさに「時局」とがっぷり相まみえた詩人にして彫刻家に高村光太郎(故人)がいる。太平洋・アジア戦争の火ぶたが切られた真珠湾攻撃の「開戦日」に光太郎はある詩をしたためた。圧倒されるほどの戦意高揚ぶりである。

 

 「記憶せよ、12月8日/この日世界の歴史改まる/アングロサクソンの主権/この日東亜の陸と海とに否定さる/否定するものは彼らのジャパン/眇(びょう)たる東海の国にして/また神の国たる日本なり…」―。この日から約3年半後の1945(昭和20)年5月、光太郎は宮沢家を頼って、花巻に疎開した。戦争協力を「自省」する独居自炊の生活は約7年間に及んだ。これだけの時間が必要だったのである。ところで、一方の賢治はどうだったのか。その「短命」が辛うじて、「時局」との正面衝突を回避したのではないか―という見方については、13日付当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」で言及した。つまり、賢治作品が時局にまみれることのない、ある種の「無垢(むく)性」を維持できたのも、結局は運命のなせる業(わざ)…“滑りこみセ-フ”ではなかったのか。

 

 花巻郊外に賢治の「雨ニモマケズ」詩碑が建っている。揮ごうの主は光太郎である。一敗地にまみれた光太郎が「賢治」の庇護者のように振る舞う、そんな光景が目に浮かんでくる。『教科書でおぼえた名詩』(文春文庫)にはこの二人が劈(へき)頭を飾るように並んでいる。賢治の庇護者たる光太郎は「道程」ら5編、被庇護者たる賢治は「雨ニモマケズ」ら4編…。おのれの文学の普遍性にとうに気が付いていたのは賢治自身かもしれない。だから時々、”背後霊“となって現われ、そっとささやく。「オレのごど、忘れねでけれや」。そうこうしているうちに「聖なる文学」としての地歩を築いたのではないのか。「汚れていないのはオレだけだ」と―。

 

 「唐突ですが、わたしはもう、未来の子どもたちのために何をなすべきか、それだけを、ただ賢治さんのように考えればいいのだと感じています。子どもの心が映るように、鏡を磨きたい、などと時代錯誤に思わずにいられません」(1月13日付「朝日新聞」)―。民俗学者の赤坂憲雄さんは音楽家でエッセイストの寺尾紗穂さんとの往復書簡の中で、こう述べている。こういう形での賢治の「受容」が定着しつつあるということかもしれない。これが「賢治教」(聖者伝説)に止揚(アウフヘ-ベン)しないことだけを願いたい。と思っていた矢先の門井本の受賞である。

 

 門井さんの受賞作について、聖者伝説の観点から警鐘を鳴らしたある感想文を見つけた。「読了まで時間がかかった。何回も遡(さかのぼ)る時系列と宮沢賢治や妹トシが主体かのような書きっぷりだったからか。個人的にはトシにもっと焦点を当てて欲しかった。タイトルにしては古き因習(商売人や女性には学問不要)に縛られながらも中途半端に子供に甘い父親だったな。2018年上期直木賞候補になること自体が信じられない出来だと思った」(インタ-ネット上から)―。

 

 『銀河鉄道の父』には「天才の父は大変だ!」というキャッチコピ-が張られている。門井さんは受賞作について、「誰もが知る賢治を扱うのは『固定観念との闘い』だった。世間の“聖人伝説”に『通俗的な人間だ』と異議申し立てをした」(1月17日付「岩手日報」)と語っている。「神童」は生まれながらにして神童である。これに対し、「天才」はその通俗性が強調されればされるほど、逆に「聖人性」を際立たせるという逆説もあわせ持つ。「やっぱり賢治さんって、てい(たい)したもんだなはん」―などと。私が「(門井本が)賢治に一杯食わされた」と思う所以(ゆえん)である。そういう意味で、今回の受賞は賢治の意に反した、いやもしかすると、予期した通りの”勝利宣言”だったと言えるかもしれない。

 

(写真は光太郎が揮ごうした「雨ニモマケズ」詩碑=花巻市桜町4丁目で)

 

 

2018.01.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

神出鬼没の賢治と「岩手発」文学の躍動

  • 神出鬼没の賢治と「岩手発」文学の躍動

 昨年の第157回芥川賞に盛岡在住の沼田真佑さんの『影裏(えいり)』が選ばれたのに続き、今月16日に選考会が開かれる第158回の同賞候補作(5作)に岩手ゆかりの2人がノミネ-トされるなど「岩手発」文学の躍動が著しい。遠野出身で千葉県在住の若竹千佐子さん(63)の『おらおらでひとりいぐも』(2017年11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」参照)と、盛岡に実家がある木村紅美(くみ)さん(42)の『雪子さんの足音』の2作。さらに、門井慶喜さん(46)の『銀河鉄道の父』も直木賞候補にのぼっている。そんな中で目を引くのが、我が「イ-ハト-ブはなまき」が生んだ”偉人“、宮沢賢治の神出鬼没ぶりである。「出たぞぉ~」。まるで、お化けみたい…。

 

 たとえば、若竹さんの本のタイトルは賢治の詩「永訣(えいけつ)の朝」からの援用であるし、木村さんにはずばり、『イギリス海岸 イ-ハト-ヴ短篇集』(2008年)という作品がある。また、門井さんの候補作は賢治の父親、政治郎の視点から描いた「賢治像」である。そのほか、生誕100年を迎えた絵本作家、いわさきちひろの伝記『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』(松本猛著)には、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)という賢治の言葉が思想の原点になったことが詳述されている。

 

 しかし何といっても、意表を突くのは作家活動だけでなく、舞台演出家としても知られる古川日出男さん(51)の『おおきな森』(「群像」2018年1月号)である。正式なタイトルは「木」をピラミット型に6個重ねた、作字不能な文字。連載初回で優に単行本一冊分(400字詰300枚)という分量に加え、そのスケ-ルの大きさに当方の想像力はとてもついていけない。完結を待たなければ、この宇宙規模の小説の帰趨(きすう)はようとしてとして知ることさえできない。それはさておき、この小説の中にも我が賢治が突然、出没するのである。同伴者は『堕落論』で知られる坂口安吾(1906-1955年)である。

 

 賢治の詩に「丁丁丁丁丁」(『疾中』所収)という字が何か所にもちりばめられた謎めいた作品がある。安吾がこの詩と格闘する様子を古川さんはこう描写している。「なんと直線的で、鋭角的であることか。なんと殺…殺人的であることか。釘の旁(つくり)か?はたまた釘を、ある一点に打ち込んでいるのか?ハンマ-をもって?甚だしい、甚だしいなあ、と繰り返した。そして詩の全篇を読み解こうとした。咀嚼(そしゃく)せんとした。ぜんぜん鑑賞というという次元ではなかった。まるごと感受するのだった。まず、ここには苦悶がある。このことを安吾は断じた。熱がある。ひどい発熱のせいだ、無惨な疾病の、そこに賢治は…宮沢賢治は溺れている」―。安吾に憑依(ひょうい)した賢治が目の前にいる。いや、逆か…。

 

 無頼を気取る安吾は元々、賢治に首ったけだった。たとえば、文芸評論家の小林秀雄を批判した『教祖の文学』には賢治の詩「眼にて云ふ」を引用して、こう書いている。「私は然(しか)し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や(源)実朝の歌や徒然草が何者なのか。三流品だ。私はちっとも面白くない。私も一つ見本をださう。これはたヾ素朴きはまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ」(1947年)

 

 「賢治がもう少し、余命を永らえていたら…」という問いかけは、賢治研究者の間ではある種、禁句(タブ-)の感がある。賢治は1933(昭和8)年9月21日、37歳の短い生涯を閉じたが、その1年半前に「満州国」建国が宣言されている。読み進むうちに、もうひとりの人物が姿を現した。同じ東北は山形・鶴岡出身の軍人(陸軍中将)、石原莞爾(いしはら かんじ=1889~1949年)である。満州事変の発端となった柳条湖(りゅうじょうこ)事件にかかわり、満州国建国の立役者とされた。日本の敗戦で、この国は夢幻(ゆめまぼろし)と消えた。一方、賢治が「ドリ-ムランドとしての日本岩手県である」(『注文の多い料理店』広告チラシ)と位置づけた「イ-ハト-ブ」はその後、どこへ行ったのか―。

 

 

 石原と賢治は一時期、過激な日蓮主義(法華経)を奉じる在家仏教集団「国柱会」(こくちゅうかい)に身を置いたことがある。僧侶の田中智学によって創設され、世界統一を目指す「八紘一宇」(はっこういちう)をスロ-ガンが掲げた。「世界最終戦論」を提唱した石原の原点になった思想である。ところで、賢治のドリ-ムランド(イ-ハト-ブ)の建国は果たして、成ったのか―。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と賢治は言った。古川さんに言わせれば、「世界がぜんたい幸福」=「絶対平和状態」こそが最終目的となる。しかし、賢治の死後数年を経て、日中戦争が勃発し、太平洋戦争に拡大したことは歴史の示すとおりである。そして、いま現在も世界は「戦争」の瀬戸際に立たされている。だから、古川さんは口ごもりつつ、ブツブツとこう書くのである。

 

 「…だからいまは、そこに至るまでは……、とも語られぬ言葉(――……――)をともなって読める。読もうと思えば、読めてしまう。石原莞爾ならば、そう読む。そう読み解いて、柳条湖事件を起こした」―。不気味な暗示である。「イ-ハト-ブ」建国が未完であるだけではなく、ひょっとすれば、石原が夢見たあの「偽満」(旧満州国=中国語で、ウエイマン)への道を、賢治が辿ったとでもいうのであろうか。「語られぬ言葉」を、作者は「どう語ろうとしているのか」―。

 

 賢治自身、「それ(イ-ハト-ブ)はまことにあやしくも楽しい国土である」(チラシ)と書いている。そう、満州国はかつて「王道『楽土』」と呼ばれた。何やら、意味深な響きはしないか。今後、この物語がどんな展開を見せるのか、目が離せない。そういえば、「五族協和」を掲げた満洲建国大学に学んだ記録作家の上野英信は生前、こう語っていた。「日本や中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生たち(五族)が好んで歌ったのは賢治の『精神歌』だった」。「日ハ君臨シ/カガヤキハ/白金ノアメ/ソソギタリ…」―。賢治が農学校の生徒のために作詞した、この「(花巻農学校)精神歌」はいまでも賢治関連行事では必ず、歌われている。

 

 最後に門井本にひと言―。愚作である。あこぎな商売の家業(質屋)に反抗したはずの賢治の葛藤や親子間の宗教的な対立には余り踏み込まずに、天才少年への賛歌を一族でうたい上げた「宮沢家(まき)」の愛の物語。結局は賢治に一杯食わされたというお粗末の一席ー。

 

(写真は文壇に新風を巻き起こす「岩手発」文学の数々)

 

 

《追記》

 宮沢賢治と石原莞爾の関係性に踏み込んだ著作としては『宮沢賢治殺人事件』(吉田司著、1997年)、『イ-ハト-ブと満洲国―宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷』(宮下隆二著、2007年)などがある。前者は「かりに賢治が短命でなかったら、石原らとともに満州国幻想に陥っていたのではないか」と指摘。後者は「日蓮に源流を発する同じ理想の、別の表れ。賢治が心のユ-トピアを目指したのに対し、石原は現実のユ-トピアを実現しようとした」と分析している。

 

 

2018.01.13:masuko:コメント(0):[身辺報告]

アイヌあての最古の古文書、ロシアで発見

  • アイヌあての最古の古文書、ロシアで発見

 江戸時代後期の1778(安永7)年に当時の松前藩から北海道東部のアイヌ民族の有力者に宛てた文書の原本が、ロシアのサンクトペテルブルクに残されていた。東京大史料編纂(へんさん)所などの研究チ-ムの調査で見つかった。240年前に松前藩からアイヌ民族に手渡された最古のオリジナル文書とみられ、アイヌ民族とロシアとの接点を示すものとしても注目される。

 

 文書は松前藩の「蝦夷(えぞ)地奉行」から、根室半島先端に近い「ノッカマップ」(現在の北海道根室市)を拠点としていたアイヌ民族の有力者「ションコ」に宛てたもの。交易に使われる施設の「運上小家」の火の用心に努めよ▽和人の漂流船が漂着した際は、この文書を見せて介抱の上、送り届けよ―など4項目を「定(指示)」とし、背いた者は厳罰に処すとしている。文書は東京大史料編纂所などの研究チ-ム(代表、保谷徹・東京大史料編纂所教授)が2016年10月、ロシア国立サンクトペテルブルク図書館で発見した。松前藩の文書は幕末や明治初期の混乱などでほとんど残っていないため貴重だ。

 

 共同研究者で北海道博物館の東俊佑(あずま・しゅんすけ)学芸主査(近世史)は「原本としては最も古いものとみられる。発見の経緯から、鎖国の時代にアイヌの手から蝦夷地を訪れたロシア人に文書が渡り、それがロシアで見つかったことになる。その点に意義がある」と話している。この文書から11年後の1789年、過酷な労働環境などに不満を持ったアイヌ民族が蜂起し、和人71人を殺害した「クナシリ・メナシの戦い」が発生。弓矢の名人でもあったションコは戦いを終息に導いた一人として、松前藩家老で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)の「夷酋(いしゅう)列像」(12枚)の1枚に描かれている。(11日付「毎日新聞」電子版)=9日付当ブログ『「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…」』参照

 

 

(蠣崎波響が「夷酋列像」で描いたションコの肖像画=フランス・ブザンソン美術考古博物所蔵。同日付毎日新聞から)

 

 

《注;クナシリ・メナシの戦い》~ウキペデイアなどより

 

 松前藩の『新羅之記録』には、1615(元和元)年から1621(元7年)頃、メナシ地方(現在の北海道梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。1754(宝暦4)年、松前藩家臣の知行地として国後島のほか、択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊(とまり)には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。1788(天明8)年には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された)の製造を開始すると、その労働力としてアイヌを雇うようになった。

 

 一方、アイヌの蜂起があった頃、すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784(天明4)年から蝦夷地の調査を行い、1786(天明6)年に得撫島までの千島列島を、最上徳内に探検させていた。ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシアから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって、日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。

 

 1789(寛政元)年、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり、蜂起した者たちは投降。蜂起の中心となったアイヌは処刑された。この騒動で和人71人が犠牲となった。

 

 知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した『知床日誌』によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣(や)られ、そこで漁師達の慰(なぐさ)み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾(めかけ)にされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。さらに、和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果、文化4年(1804)年に2万3797人と把握された人口が、明治6(1873)年には1万8630人に減ってしまった。

 

 1912(明治45)年5月、根室・納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、砂に埋まっている石が発見された。「横死七十一人之墓」と彫られていた。 現在、この石碑は納沙布岬の傍らに建てられている。建立は文化9(1812)年。碑文には「寛政元年5月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」(現代語訳)と刻まれている。

 

 

 

 

  

 

2018.01.11:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…

  • 「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…

 時折、新聞の広告欄に「アイヌ民族」という文字を見つけて、ギクッとすることがある。たとえば、日本の国体思想家、大川周明(故人)の『日本二千六百年史』の新聞広告については、2017年11月12日付当ブログで詳しく言及した。今年は明治維新「150周年」に当たり、その宣伝本として大々的に登場した。もうひとつはアイヌの食文化を宣伝する類(たぐい)のものである。たとえば…。「500万箱突破!本当に信じられるサプリメントを見極められるか!大注目のオオイタドリとは?厳しい環境でも生き抜いたアイヌ民族の知恵」―などと何とも仰々しい。

 

 オオイタドリは北海道や本州中部以北に生息する大型の多年草。古くから栄養強壮剤として食されてきた。アイヌ語では「イコクトゥ」と呼ばれ、若い茎を生で食べた。根茎は「虎杖根」という漢方としても使用されている。同じような野草に行者ニンニクがある。ネギ属の多年草で、北海道や近畿以北の亜高山地帯の針葉樹などの水湿地に群生している。ウキペディアによると、名前の由来は「山にこもる修験道の行者が食べたことからとも、逆にこれを食べると滋養がつきすぎて修行にならないため、食べることを禁じられたから」とも言われている。アイヌ語では「プクサ」とか「キト」と呼ばれる。一方で「アイヌネギ」という蔑称も陰でささやかれてきた。嫌な思い出がある。

 

 行者ニンニクはアイヌにとっても欠かせないは栄養食である。茎や葉、根はゆでて食べ、保存食にもした。体が暖まるので風邪薬代わりに、また熱が高い時は大きな鍋に干した葉を入れ、全身に湯気を浴びる“サウナ療法”に役立てた。また、強烈な臭(にお)いを病魔が嫌うと考え、病気が流行した時には戸口に立てて、魔除けにした。この「臭い」が「アイヌネギ」という差別語につながった。「お前ら、ネギばっかり食っているから、臭いんだよ」―。栄養満点のこの食材を決して口に運ぼうとしないアイヌの友人のことが私はいまも忘れられない。「アイヌ民族の知恵」という商魂たくましい謳い文句に接し、当時の友人の寂しげな表情を思い出したのだった。

 

 私にはぜんそくの持病がある。ある日、親しくしていたフチ(おばあさん)が「食べてごらん」と言って、紫紺色の実を差し出した。かみ続けていると、苦さがほんのりとした甘さに変わった。「ぜんそくや胃腸病にもよく効くんだよ。山は薬局みたいなもんさ」―。フチはこう言って、シケレペ(キハダの実)をポケットに入れてくれた。アイヌだけではない。最近は「長寿と癒(いや)しの島」をうたって、沖縄の食材をPRする新聞広告にもこと欠かない。このこと自体に目くじらを立てるつもりはさらさらない。でも、張り詰めた想像力の矢玉が思わぬ方向に飛んでいくことがママにある。「アイヌネギ」差別を打ち明けてくれた友人はその時、こんな風に話したのだった

 

 「最近、和人(日本人)社会では自然との共生とか、環境保護とかが叫ばれている。中にはアイヌ精神に学ぼうという人までいる。おれはこうした動きに時々、怒りを覚えるんだよ。アイヌに夢中になるというか、この思い入れがアイヌをいかに苦しめているかに和人は気がついていない。この言葉(アイヌ)がマスコミなどによって増幅される結果、いまでもまるで自然と一体となって暮らしているかのような美化されたアイヌ像が一人歩きしている。それが重荷になり、『アイヌ』から逃げ出してしまったり、逆にアイヌ自身がその言葉に酔ってしまう。普通にメシを食べ、時には酒を飲んで寝るという日常生活全体が私にとってのアイヌ文化だ」―。

 

 友人はこう話し、「観光客の中にはいまもクマの肉やサケを主食にしている、と本気で信じている人がいる。そんな時にはね」と言って、ニヤッと笑った。「ところでお客さん、チョンマゲと刀はどうしたんですか…」―。痛烈な言葉だったことをいまも覚えている。日本国内の”異文化“であるアイヌや沖縄の伝統文化を無条件に礼賛する、日本版「ミュ-タント・メッセ-」はちまたにあふれている(1月2日付の当ブログ(「ウ-マンラッシュアワ-」という知性と”善意の人族“」参照)

 

 アイヌ民族の同化政策を進める「北海道旧土人保護法」が制定されたのは1899(明治32)年。そして、ウチナンチュ(沖縄人)が本土の機動隊員から「土人」呼ばわりされたのは1年ちょっと前のこと。もしかりに「善意の人族」が、南と北の地で生み育まれてきた文化をただ消費するだけの存在だとしたら…。「土人」と蔑(さげす)まされてきた受難史などにはハナから無関心だったとしたら…。蝦夷征伐から琉球処分、そしてアイヌ同化政策へと連綿と続き、いまも続いている日本列島を貫く「支配原理」への加担、つまりこれはもうひとつの、抜き差しならない「差別」ではないのか―。

 

  8日、沖縄・読谷村にふたたび、米軍ヘリが不時着した。翁長雄志知事は「本当に言葉を失うほどだ。『負担軽減』『法治国家』という言葉で押し通していくことに大変憤りを改めて感じている。日本の民主主義、地方自治が問われている。単に1機1機の不時着の問題だけではない」(9日付「琉球新報」)と述べた。もし、この種の事故が東京のど真ん中で起きたとしたら、政府やヤマトンチュはどう反応するのだろうか。「反戦」彫刻家、金城実(79)さんは不時着現場からわずか2,3分の所にアトリエを構えている。電話の向こうから、豪快な高笑いが聞こえてきた。

 

 「よ~し、わかった。ならば、誇り高き土人たる我らウチナンチュが、本物の土人である「本『土人』」(ヤマトンチュ)を見返してやろうじゃないか!!」

 

 

(写真は新聞広告に躍る「アイヌ民族」の文字=朝日新聞に掲載された広告から)

 

 

《追記》

 沖縄県警に8日午後4時50分ごろ入った連絡によると、同県読谷村の廃棄物処分場に米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)所属のAH1攻撃ヘリコプターが不時着した。ヘリには4人が乗っていたが、けが人はいないもよう。県警などによると、付近にはホテルなどがある。米軍や県警が詳しい状況を調べている。普天間飛行場所属のヘリを巡っては、6日に同県うるま市の伊計島海岸にUH1ヘリが不時着し、8日に撤去されたばかり。同飛行場所属機はCH53大型輸送ヘリの不時着、炎上や小学校運動場への窓落下、輸送機オスプレイの緊急着陸などトラブルが相次いでおり、沖縄では安全性への懸念が強まっている。

 

 小野寺五典防衛相は8日、防衛省で記者団に相次ぐ不時着について「多すぎる。沖縄の皆さんの心配は当然だ」と述べ、米側に整備の徹底や再発防止を求める考えを示した。県警などによると、米軍は着陸について、事故を避けるための「予防着陸」と説明しているという。(9日付「共同」電)

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.09:masuko:コメント(0):[身辺報告]

ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

  • ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

 「戦争」の記憶が遠のいたような気がする時、一枚の写真と対面することにしている。「焼き場に立つ少年」―。カトリック教会のロ-マ法王庁(バチカン)のフランシスコ法王がこの写真にメッセ-ジを添えたカ-ドを印刷。広く配布するよう指示していたことが分かった。1945年、米国の従軍カメラマン、故ジョ-・オダネルさんが被爆地・長崎で撮影した。カ-ドには「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめられて血のにじんだ唇に表れている」(1月3日付「朝日新聞」)とスペイン語で記されている。当時、私は5歳。背負われた弟に近い年齢である。私の父は戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアの凍土に没した。息絶えた弟を背負う兄の真っすぐな視線の先には何が見えているのであろうか―。私が戦争を考える際の「原点」の写真である。以下に過去のブログから…。

 

 

●「焼き場に立つ少年」と題する1枚の写真が目の前にある。まだあどけなさを残す少年に背負われた幼子はすでに死んでいる。長崎市の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ-・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは8年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳で没した。その著『トランクの中の日本』にはこう書かれている。

 「この少年は弟の亡骸(なきがら)を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ-という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」。文章はこう結ばれている。「彼は急に回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った」…。少年は一体、どこに向かったのであろうか。(2015年7月17日付)

●「緑の丘の麦畑/俺らが一人でいる時に/鐘が鳴ります キンコンカン/鳴る鳴る鐘は父母の/元気でいろよ言う声よ/口笛吹いて俺らは元気」(2番)…。少年の後ろ姿に「鐘の鳴る丘」の主題歌がオ-バ-ラップする。昭和22(1947)年7月から昭和25(1950)年12月まで、790回にわたって放送されたNHKのラジオドラマで、主人公は原爆や空襲、引き揚げなどで肉親を失った“戦争孤児”だった。作家の菊田一夫の原作で、主題歌の「とんがり帽子」(作詞:菊田、作曲:古関裕而)が鳴り出すと、7歳になったばかりの私はラジオにかじりついた。戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで戦病死した父親の記憶が私にはない。その”欠損感”が無意識のうちに自分自身をドラマに重ねたのかもしれない。

 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」、「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」(2017年8月10日付「朝日新聞」)―。「戦争孤児の会」代表の金田茉莉さん(82)は12万人を超えたと言われる孤児の実態について、こう語っている。

 「本日、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」―。「極秘」と記されたソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者業務管理総局作成の死亡証書(ロシア連邦国立軍事古文書館保有)にはこう書かれていた。亡き父「増子浩一」(ますこ こういち)の死亡通知が昨年夏、厚生労働省から送られてきた。日本語に部分翻訳された資料によると、「死亡年月日」は1945(昭和20)年12月30日で、「死因」は栄養失調症。埋葬地は「プリモスク地方」(沿海地方)の第4865特別軍病院「第1墓地」となっていた。極寒の炭鉱町だった。入院から死に至るまでの2週間の刻一刻を知りたいと思い、私はカルテの翻訳を専門家に頼んだ。

 遺骨伝達式の日、骨箱を母が胸に抱き、私たち3人の遺児たちは無言で家路を急いだ。遺骨代わりの木片がカランコロンと乾いた音を立てていたことだけは幼心にも覚えている。死にゆくカルテの、淡々とした記述が逆に父親の実像を浮かび上がらせてくれたような気がした。戦後70年以上、心の中に空洞を形づくってきた戦争孤児としての欠損感がす~っと、消えていくような、そんな不思議な感覚にとらわれた。私の「戦後」にやっと、終止符が打たれたのかもしれないと思った。戦争孤児の蔑称でもある“浮浪児”はいまではとっくに死語になっている。しかし、幼子を背中に負う少年の姿は未完の戦後の「実像」として、いまも私のまなうらにはっきりと刻まれている(2017年8月14日付)


(写真はフランシスコ法王が配布を命じた「焼き場に立つ少年」=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.01.06:masuko:コメント(0):[議会報告]
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