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魂の秘境から秘境へ

  • 魂の秘境から秘境へ

 

 遺作となった『魂の秘境から』がやっと、届いた。朝日新聞の連載時から、言葉がまるで複雑骨折したような「コ・ト・バ」でしかなくなってしまった今の世に倦(う)み疲れた時など、何度、読み返したことだったか。筆者で水俣病患者に寄り添い続けた石牟礼道子さんが今年2月10日、90歳で旅立ったのを機に単行本にまとめられた。魂の抜け殻みたいな荒野にポツンと取り残されたような寂寥感(せきりょうかん)…。石牟礼さんが遺(のこ)してくれた「秘境」を、私は今日もさ迷い歩いている。たとえば、魂同士がこすれ合う、こんなひと節に出会うために…

 

 

●塘(とも)の斜面の石垣はわたしの幼いことからの遊び場で、ふだんはめったに人影もなく、ガゴたちの棲(す)み家(か)と思われていた。ガゴとはこのあたりに棲む化物たちの総称で、なかでも天草から来たというおせん女狐(じょきつね)が親分だと言われていた。夜中に酔っ払ってこの海岸を通る男たちは、美しい女に化けたおせん女にたぶらかされるのだそうだ。そういうところへ、よくも独りでかよったものだ。幼な心に、狐になりたい一心だったのである(2015年2月17日掲載)

 

●わたしのいまだに抱え続けているテ-マに、生命の孤独というものがある。赤児というものは、どうやっても泣き止まぬことがある。泣きやまぬ赤児の孤独と、泣き止めさせられぬ母親とが、わたしの潜在的なテ-マといってよい。人間だけではなく、動物たちにもそういう悲哀があるのではなかろうか。わたしはかつて「詩経」と題する、お経まがいの詩を作ったことがある。この世の果ての海を、蓮(はす)の葉に乗って漂うひとりの赤児の気持ちをうたったつもりだ。「無明闇中(む-みょうあんちゅう)/遠離一輪(おんり-いちりん)/流々草花(る-る-そ-げ)」(2015年6月30日掲載)

 

●澄ちゃんと土堤で苺を摘んでいると、雲が出て、にわかに陽が翳(かげ)ってくるときがある。澄ちゃんは空を見上げて、「蛙が雲の上で鳴きよるよ」と言う。そう言われると、蛙の声はたしかに雲の方から聞こえる気がする。「雲の上に田んぼのあるとじゃろうか」。すっかり、その気になってわたしは答える。ころころころころ、こ-ろころ。やっぱり雲の上から聞こえる。むかしの田園では、大地と空はひとつの息でつながっていた。だから、雲の上に田んぼがあって、そこで蛙が鳴いていると、澄ちゃんとわたしは信じることができたのだろう(2015年10月27日掲載)

 

●「道子、よう見てみれ。ピナどん(巻き貝類)が数え切れんしこおるじゃろが。逃げ足の速さ、速さ。人間にゃ聞こえんばってん、おめき合うて逃げよるぞ。追っかけて、取ろうぞ。大昔は、人間たちよりも、ここらあたりの海辺の方が賑わいじゃったろうぞ。さあ、追っかけようぞ」。母は躍るような足つきで、岩をまたぎ、腰をかがめては、磯行き篭を持ち直していた。「あ~あ、人間の暮らしちゅうもんは、窮屈なもんやなあ。ビナどんのようにはいかん。海辺は広うしてよかなあ」(2016年12月13日掲載)

 

●それは光であり、生命の源とも予兆ともいえる。山の木々、渚のビナ(貝類)ども、田んぼのビギども、街の人間たち、生きとし生けるものの吸う息、吐く息ともなって、あまねく満ちている。海と大地を幾重にも取り巻いて、宇宙までつながっている気がする。それは中空から、音となって聞こえてくることもある。天のビキどもの田植え歌は、そんな音のひとつに違いない。わたしは、これは大人になってからではあるけれど、そんな音のことを「秘音」(ひおん)と呼ぶようになった。生命の秘められた源がひととき音のかたちをとって、たまさか漏れ聞こえてくるからである(2017年2月21日掲載)

 

●母の気持ちのどこかには、心を病んだ実母おもかさまのことがあったのだろう。夫が権妻(ごんさい=妾)を囲ったことが一因か、裾を裂いた着物を引きずり、されいてゆく姿は「しんけい(神経)どん」とあだ名されていた。「唐、天竺(てんじく)…」などと終始つぶやいてもいたから、その魂はいよいよ遠ざれき(遠くまでさまようこと)していたに違いない。村の子どもたちは琵琶弾きどんたちを見ると、「かんじん(勧進=物乞いの意味)、かんじん」と囃し立てて石を投げることもあった。つぶては「しんけいどん」にも、助けに入る孫娘のわたしにも飛んできた(2017年5月25日掲載)

 

●かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやって来る漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。ところが、昭和30年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(ねこだけ)に登る」と言い習わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにもむごい最期である(2018年1月31日掲載。これが最後の原稿となった)

 

 

(磯には無数の生きものたちのざわめきが聞こえる。文中の挿入写真から=写真家、芥川仁さん撮影。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.05.08:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「産めよ増やせよ」から強制不妊へ

  • 「産めよ増やせよ」から強制不妊へ

 

 「人間」が「人間」であるための基本原理―「生と死」がこれほどまでに弄(もてあそ)ばれた時代がかつてあったろうか。旧優性保護法(1948~1996年)下、障がい者らに対して繰り返された強制不妊手術の実態が連日のように報道されている。しかし、そのわずか10年ほど前には逆に心身にハンディを抱える人たちも戦場に駆り出されていた事実はほとんど知られていない。そして、私たちはいま、少子高齢化という時代に立たされている。生と死が国家の管理下に置かれた時、人間の尊厳も同時に収奪されることを歴史は教えている。

 

 「父さんは益々丈夫で御奉公して居りますから安心してください」(4月20日付当ブログ「いつか来た道」参照)―。先の大戦で戦病死した父親から届けられた軍事郵便には判で押したようにこう書かれていた。検閲済みの判子が押されたこの文面と敗戦のわずか4ケ月後、シベリアの捕虜収容所で「栄養失調死」したという、この気の遠くなるような乖離をどう考えたらよいのか。一橋大大学院の吉田裕教授(日本近現代軍事史)はある軍人の証言を紹介している。「1944年以降に入隊した補充兵の年齢は、いずれも30過ぎの老兵で大半は妻子持ちであった。いとしい妻子を故国に残して来た身ゆえ、当然であろう。はたから見ても顔にも態度にも、ビクビクしたところがあり、お世辞にも強い兵隊とはいえなかろう」(『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』)

 

 私の父親は敗戦前年、つまり1944年の夏、2歳と4歳と6歳の子どもと妻を残し、37歳で召集された。留守宅を気遣う文面のなどまるで、父親をモデルにしたような描写である。強制された軍事郵便とは裏腹に、ビクビクと怯(おび)えながら、兵役に服した姿がまぶたに浮かんでくる。1940(昭和15)年1月、「陸軍身体検査規則」が改正され、「身体または精神にわずかな異常があっても、軍事医学上、軍務に支障なしと判断できる者は、できるだけ徴集の栄誉に浴し得るよう、身体検査の条件を全般的に緩和した」(同書)。敗走に伴う兵力不足を穴埋めするため、“精神疾患”を持つ人たちも最前線に送られた。「根こそぎ」動員である。前掲書は以下のような悲惨な事例を紹介している。

 

 「彼は補充交代要員として、同地(浙江省杭州)に到着したが、原隊出発から同地到着の間に、ほとんど無口にして戦友と談笑せるが如きこと一度もなく常に孤独の状態にあった。部隊到着後もほとんど戦友と談笑することなく、4日目に自殺している。その後の調査によれば、本人は頭脳明晰を欠き、小学校尋常科第3学年を修了せるのみにして片仮名を書き得る程度であり、同地到着後に実施した知能検査でも、水準以下と判定されていた」―。同書はまた、「知能年齢最低5歳くらい」の知的障がい者70人からなる部隊の存在も明らかにしている。

 

 「不良な子孫の出生を防止する」―。こんな目的で旧優性保護法が制定されたのは敗戦からわずか3年後である。基本的人権を定めた新憲法下で、敗戦によって“用済み”となった精神障がいや知的障がいを持つ人たちは今度は“淘汰”(とうた)の対象となったのである。当時、議員立法の中心となった医学博士の谷口弥三郎(参院議員)はこう述べたという。「全然思慮をめぐらさず、本能のままに出産するとすれば、優秀者は減少する」。ナチス・ドイツが1933年、「遺伝病子孫予防法」を制定したのを受け、日本でも40年、「国民優性法」ができたが、手術の強制は認めていなかった。96年、「母体保護法」に改まるまでに不妊手術を強制された数は統計の残っているだけで1万6千人以上に上るという。

 

 「本当、良かったですよね。この結婚を機に、ママさんたちが『一緒に子供を産みたい』という形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください」―。2年前、菅義偉官房長官が俳優の福山雅治さんと吹石一恵さんの結婚について、こうコメントして物議をかもしたことがあった。先の大戦を前にした1939(昭和14)年9月、当時の厚生省は「結婚10訓」なるスロ-ガンを定めた。ナチスの「配偶者選択10か条」を下敷きにした内容で、「お互に健康証明書を交換しましょう/悪い遺伝の無い人を選びませう/近親結婚は成るべく避けることにしませう」などと続き、最後の10番目は「産めよ増やせよ國のため」で閉められている。

 

 「一億総活躍」とか「子育て支援」などの美辞麗句の背後に、私などはある種の“底意”を嗅ぎ取ってしまいたくなる。たとえば、自衛隊の存在を明記する憲法改正と連動しているのではないのか…などと。「憲法カフェ」を主宰する弁護士の太田啓子さんはこう話している。「憲法や政治に関心を持つ人が少ないのは、将来への想像力が欠けているからかもしれません。それは、かつての私自身もそうでした。それが出産を経験し、子どもの成長を時間軸に考える『子ども暦』で物事を考えるようになりました。自衛隊をめぐる論議でも『子どもが大人になって、戦争に行ってほしくないな』と自分ごととして考えられます」(5月2日付「朝日新聞」)

 

 菅発言が「産めよ/増やせよ/國のため」と聞こえるのは、私の空耳のせいだろうか。「生殺与奪」(せいさつよだつ)は国家権力が最も手にしたがる欲望のひとつである。日本の敗戦によって、「結婚10訓」は多くの戦争遺児を産み落とすという皮肉な結末に終わった。私もその一人である。

 

 

(写真は裁判に持ち込まれた強制不妊手術=2018年3月28日、仙台地裁で。インタ-ネット上に公開された写真から)

2018.05.04:masuko:コメント(0):[身辺報告]

一身にして二生を経るが如し

  • 一身にして二生を経るが如し

 

 上掲の写真は58年前の1960年6月18日の国会周辺の光景である。「安保改定」反対―「岸内閣」打倒を叫んで参集した学生や労働者、市民の数はピーク時には50万人に達した。その中に闘争を主導したブント(共産主義者同盟)書記長の島成郎(しましげお)がいた。時計の針が午前零時を回ったその瞬間、日米安保条約の改定(新安保条約)は自然成立した。3日前には東大生の樺美智子さん(当時22歳)が機動隊とのもみ合いの中で圧死した。島が全学連委員長にスカウトした、北海道大学出身の唐牛健太郎(1937~1984年)はこの日は獄中にあった。「組織を賭(か)けて闘った安保闘争は、この夜の闘いとともに敗北し終熄(しゅうそく)する。私のブントそのものの敗北でもあった」(『ブント私史』)と島は書いた。その群衆の片隅に私もいた。

 

 最新刊『評伝 島成郎』(以下「評伝」)の筆者であるフリ-ジャ-ナリスト、佐藤幹夫さんは福沢諭吉の『文明論之概略』の一節…「一身にして二生を経るが如し」という書き出しで始めている。「二生」のひとつは政治活動家としての島であり、もうひとつは「ブントから沖縄へ/心病む人びとのなかへ」という副題が示すように精神科医としての島である。島や唐牛と同志的な関係を持ち、今年1月に自らの命を絶った評論家の西部邁(にしべすすむ)については1月29日付当ブログ(「ある保守論客の自裁死」)で触れた。唐牛の破天荒な人生など「60年安保」群像は『唐牛伝―敗者の戦後漂流』(佐野眞一著)に詳しい。佐藤さんは冒頭である事件を取り上げている。

 

 1968年5月8日、厚生省(当時)から派遣された島は那覇空港に到着した飛行機の中で足止めを食っていた。安保闘争を指揮したリ-ダ-に米軍側がビザを発給しなかったからである。この措置はすぐに解除され、以後、島の沖縄での医療活動は中断を挟(はさ)んで約25年に及んだ。日本共産党に反旗を翻(ひるがえ)した島ら学生運動家を中心に結成された新左翼「ブント」はわずか1年半余りで解散に追い込まれた。敗北宣言の後、島はこう語っていたという。「俺達はやっぱり沖縄に対して責任があると思う。サンフランシスコ講和条約で本土は沖縄を切り捨てたんだよ。60年の時、それをもっと尖鋭(せんえい)にやるべきだった」(「評伝」)―。新安保条約とセットで結ばれた「日米地位協定」が現在に至るまでの米軍基地の固定化につながったことを島は自覚していた。

 

 「母屋に接した6畳程のブロック造りの監置所にいれられ、外部との交通は1日2回の食事の差し入れ口である20センチメ-トル四方の小穴だけで、暗闇の中、糞便にまみれた生活を強いられている中年の女子患者を診た。離島で、これまた数年来、鎖で足を縛られたまま奥の一室に監禁されている侏儒(しゅじゅ=身体の小さいこと)の重度精神薄弱の患者さんもいる。或いは十年来、無動のまま放置され、両膝関節硬直を起こして歩行できないで、近所の人に負われ病院に連れてこられた患者さんもいた」(「評伝」)―。東大医学部に復学し、もうひとつの人生を踏み出した島はいきなり、こんな現実を突き付けられた。沖縄戦の傷跡の深さと復帰後も米軍の支配下に置かれた沖縄最前線の景色が影絵のように目の前に広がった。

 

 島は大酒のみで豪放磊落(ごうほうらいらく)だった。『唐牛伝』の中にはこんなエピソ-ドが紹介されている。「はい、お酒は大好きでした。診療が終わると、看護人、看護師らと肩を組んで宜野湾市に隣接する普天間の飲み屋街を練り歩いていました。島先生は飲むとすぐ靴を脱ぎ、靴下を脱ぐんです。そして裸足でバ-の床を歩き回る。やっぱり、人間を縛るものは靴も靴下も全部嫌いだったんじゃないですかね」。私も何度か普天間界隈に足を運んだことがある。市の中心部を米軍普天間飛行場が占拠し、その周りにへばりつくように飲食店が密集している。この現実を日々、目の当たりにしていたはずの島はまるで”封印”するかのように安保闘争や基地問題を口にすることはなかったという。ある種の贖罪感(しょくざいかん)がそうさせたのかもしれない。

 

 佐藤さんは「島の本領が何かといえば、『人と出会い、つなぐ力の強さ』である」と書き、こう続けている。「島は、精神の病理は人と人との関係における葛藤や苦しみに始まりを持つ、という病理感をもち、従って治療の場は病院ではなく、人が生きる場所、つまり地域こそが最良である治療観を、終生手放さなかった医師である」―。島が提唱した「治療共同体」構想である。「ヴ・ナロ-ド」(人民の中へ)…島の沖縄への道行きを佐藤さんは古典的な表現でこう呼んでいる。考えてみれば、島の「二生」とはブントを立ち上げた時から沖縄の苦悩の最前線に身を置いた時に至るまで「ヴ・ナロード」だったことに心づく。

 

 沖縄本島北部の瀬底島(せそこじま=国頭郡本部町)に終(つい)の住まいを定めた島は2000年10月17日午前7時30分、旅立った。まだ、69歳の若さだった。ノンフィクション作家の佐野さんは島や唐牛、西部など、さながら万華鏡みたいな「60年安保」群像を評して、こう述べている。「ブント全学連の幹部たちは、闘争終了後も、『大衆社会』に埋没することなく、己の信ずる道を進んだ。60年安保後、日本は驚異的な経済発展を遂げた。だが、なぜか不安感ばかりが募って自足できず、すべてがあっという間に消費される社会になった。『異論』はきれいに排除され、ポピュリズムと反知性主義という暴風が吹き荒れるなか、みな同じ方に向かせようとする不気味な世界になったという意味である」(『唐牛伝』)

 

 瀬底島と背中を接するようにして米軍普天間飛行場の移転先とされる名護市辺野古の新基地建設現場がある。安保闘争時の岸信介首相がその基礎(安保改定と日米地位協定)を築き、孫の安倍晋三首相が総仕上げ(安保法制と憲法改正)を強行する現場がここにある。島はかつて、こう喝破した。「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」―。島の眼(まなこ)は亡きあともその現場をにらみつけ、私の心の中のブントは今もまだ生き続けている。

 

 

(写真は「安保粉砕」を叫んで国会を包囲する人の群れ。戦後最大の示威行動といわれる=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.04.29:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「赤報隊事件」から“赤報隊”的時代へ

  • 「赤報隊事件」から“赤報隊”的時代へ

 

 「地下に潜んでいた赤報隊がついに、その正体を現したのではないか」―。幹部自衛官の「国民の敵」発言(4月20日付当ブログ参照)を知った時、刹那的にそう思った。いや、正確に言えば、“赤報隊的”な考え方に国民の側が耐性を失いかけているのではないか―という思いである。その前後、『記者襲撃―赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著)と題するノンフィクションを読んでいたせいかもしれない。元朝日新聞記者の樋田さんは事件の発生以来、取材班のキャップとして陣頭に立ち、定年退職して65歳になったいまも見えざる犯人(国民の敵)を追い続けている。「赤報隊事件」とは一体、何か―。

 

 1987年5月3日の憲法記念日のその日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に目出し帽で顔を隠した男が押し入り、散弾銃を発砲。当時29歳の記者が死亡、42歳の記者が重傷を負った。この事件を挟(はさ)んで前後3年4か月間に同じような“言論テロ”が8件相次いだが、2003年3月にすべてが時効になった。いずれの場合も「赤報隊」を名乗るグル-プから犯行声明文や脅迫状が報道機関などに送り付けられた。幕末維新、江戸騒擾(そうじょう=テロ)の一役を担(にな)ったものの、後に「偽官軍」として処刑されたのも同じ名前の赤報隊だった。伝統右翼や新右翼、暴力団系右翼…。「あなたは犯人ではないのか。そうでないのなら、その証拠を示してほしい」―。警察庁がリストアップした「9人」との息詰まるような対決が続く。

 

 「われわれは日本人である。日本にうまれ、日本にすみ、日本の自然風土を母とし、日本の伝統を父としてきた。われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である。特に、朝日は悪質である。全国の同志は、われわれの後に続き、内外の反日分子を一掃せよ」(要旨)―。8通の犯行声明文に共通するのは戦前回帰的な文言である。樋田さんが対峙したある右翼関係者が不気味な言葉を残している。「われわれにとって、捕まらないまま逃げおおせた赤報隊はまさに好都合だ。記事や言動次第では、赤報隊が再び動き出すぞ、という無言の圧力をかけ、今後も社会の重しの役割を果たしていくのだ」―。その後の事態はこの予言めいた言葉通りに推移した。

 

 「我々は赤報隊の行動を、義挙(ぎきょ=正義の行い)だとはっきり支持する立場で街宣を行う」―。4年前、2014年5月3日の憲法記念日、朝日新聞阪神支局の前に止まった街宣車からこんなアジ演説が飛び出した。前記の右翼関係者の言葉は「赤報隊に思想的に共鳴する数だけ、赤報隊は存在する」ということを暗示していたのではないか。「安倍一強」体制が着々と地歩を固め、一方では従軍慰安婦問題などで朝日新聞に対するバッシングが最高潮に達していた時期とも重なる。こんな時勢に乗じる形で、もうひとつの“赤報隊”がひょいとその素顔を見せた瞬間ではなかったのか。樋田さんは当時の動きを「2014年」問題として位置付けている。

 

 安倍晋三首相主催の「桜を見る会」が東京・新宿御苑で開かれた今月21日、大阪で「偏向報道に負けるな!安倍政権がんばれ大行進in大阪デモ」なるイベントが開かれ、「かけがえのない安倍政権を応援し、憲法改正を絶対に実現しよう」などと気炎を上げた。この催しに首相夫人が感謝のメッセ-ジを送ったというニュ-スがネット上に飛び交った。懲(こ)りない人である。首相自身の朝日バッシングも勢いを増し、今年2月には森友学園問題に絡んで、「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」と自らのフェイスブックに書き込んだ。こんな風にして、権力の外堀が埋められていくのかと思うと、背筋がゾッとする。忖度(そんたく)などという「耐性の劣化」がこれを援護する。“赤報隊的”な時代状況の顕現化は目を覆(おお)うばかりである。

 

 「『国益を損なう』『気持ち悪い」『ばか』などとは口にしたが、『おまえは国民の敵だ』という発言はしていない』―。例の暴言自衛官はこう弁明している。「屋上屋を架(か)す」とはまさにこのことではないのか。その言葉の総体が国民を敵に回していることにこの自衛官は気が付いていないらしい。かつて、西郷隆盛は相楽(さがら)総三が率いた赤報隊を後押しした。権力のお墨付きを得た件(くだん)の自衛官がもしかして、相楽を気取っているとしたら…。樋田さんは「最後に、赤報隊に呼びかける」という一文で著書を閉じている。

 

 「君たちは単なる殺人集団なのか。それとも思想犯なのか。もし思想犯ならば、一連の朝日新聞社襲撃事件を起こした経緯について、世間に知らしめたいと思わないのか。君たちが希望するなら、私は君たちの主張をじっくり聞き、世間に正確に伝えることを約束する。赤報隊よ、逃げ隠れするな」―。「森友・加計」問題をめぐる首相の関与疑惑、公文書の改ざん、財務省と国税庁のトップ官僚の相次ぐ辞任、自衛隊の日報隠し…。さしもの、独裁体制にも陰(かげ)りが見え始めているが、ここまで追い込んだのも朝日新聞の相次ぐスク-プだったことに敬意を表したい。NHKスペシャル「未解決事件―赤報隊事件」で樋田さん役を演じた俳優の草彅剛さんはこう話している。

 

 「阪神支局事件が起きた時、僕は中学生でした。事件について知らなかったのですが、知れば知るほど、自由にモノが言える、自由な社会とはなにか、考えるようになりました」―。赤報隊の申し子たちがいま、全国のあちこちに出没している。沖縄・名護市の米軍新基地建設現場(辺野古)では連日のように反対派住民が力づくで排除され、負傷者が続出している。赤報隊とは実は「安倍一強」体制の別動隊の謂(い)いであろう。その標的は今度は「琉球新報」と「沖縄タイムス」の地元2紙に向けられつつある。

 

 

(写真は「見えない」赤報隊を追い続けた30年の記録。「この十字架を死ぬまで背負っていく」と樋田さんは語っている)

 

2018.04.24:masuko:コメント(1):[身辺報告]

いつか来た道―「5・15」から「4・16」へ

  • いつか来た道―「5・15」から「4・16」へ

 

 「おまえは国民の敵だ」―。国会前の公道で国会議員に向かって、暴言を浴びせた幹部自衛官がいた。4月19日付「東京新聞」は「際立って世の中の変わりだしたのは、霞が関三年坂のお屋敷で白昼に人が殺されたあたりからだろう」という作家、永井荷風の文章を紹介し、こう続けている。「意に沿わぬ政治家への脅し、圧力と言わざるを得ない。イラク日報問題などでの自衛隊批判への不満だろうか。しかし、国民が選んだ国会議員への罵声はそのまま国民への罵声である。その行為によって、どちらが、『国民の敵』になってしまうかにどうして気がつかなかったか」―。三年坂の殺人とは1932(昭和7)年、犬養毅首相が首相官邸で青年将校に暗殺された「5・15事件」である。

 

 「父さんは益々丈夫で御奉公して居りますから安心してください。よく母さんの言う事を聞いて、父さんに負けない立派な兵隊さんになるように勉強しなさい。畑のトマトや『ささげ』等はよくなりましたか。鶏はどうなりました」―。私の手元に黄褐色に変色した軍事郵便の束がある。先の大戦に応召された父親はソ連軍の捕虜となり、シベリアの捕虜収容所で死んだ。37歳の短い人生だった。出征先の奉天(旧満州)から両親や妻、3人の子どもたちなどへ宛てた手紙は60通以上にのぼる。「近世哲学ノ発展ハ二ツノ重要ナル事件ニ依リ準備サレテイル。即チ藝術ヤ学問ニ於ケルギリシャ古典文化ノ復興ト…」。学生時代の哲学の講義ノートには几帳面な字がびっしり書き連ねられている。父親を偲ぶ、これが唯一の遺品である。「検閲済」の判子が押された文章の行間からは留守宅の生活を気遣う気持ちが伝わってくる。そして、ご奉公を尽くした末の末路は「栄養失調死」だった。

 

 軍人・軍属の戦没者数230万人中、60%以上の140万人が栄養失調による餓死か、栄養失調に伴う病死だというデ-タがある。「兵士の死」を分析した一橋大大学院の吉田裕教授(日本近現代軍事史)は近著『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』の中でこう記述している。「栄養失調の問題で重要なのは、戦争神経症とも関連する戦争栄養失調症である。…極度の痩(や)せ、食欲不振、貧血、慢性下痢などを主症とする患者が多発した。治療はきわめて困難で死亡するケ-スが多かった」―。さらに、当時の戦時資料は死に至るさまをこう記している。「ついに体はミイラ状となり、『生ける屍』(しかばね)の如くなる。ついには燃えつきるロウソクの『火が消ゆるが如く鬼籍に入る』」(同書)

 

 父親は1945年12月16日、ソ連軍の病院に収容された。2年前、厚生労働省を通じてロシア側から提供されたカルテにはこう書かれている。「全般的なだるさ、食欲不振、脚の痛み、咳、衰弱を訴える。全体的な容体は悪くない。ビタミンBとC、貧血防止用のヘマトゲン(血液製鉄剤)を投与。診断名は第Ⅰ度栄養失調症並びに気管支炎」―。そして、2週間後の12月30日午前7時、「心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名は第Ⅲ度栄養失調症」(カルテより)。まさにロウソクの火が消え入るような静謐(せいひつ)な死だった。

 

 「父さんは『名誉の戦死』ではなく、戦病死だったからねぇ…」―。母親は26年前、83歳で旅立つまで、こう言い続けた。太平洋戦争が敗色濃厚になっていた前年の昭和19年夏、父親は旧満州(中国東北部)へ応召され、約1年後に日本は敗戦を迎えた。だから、敗戦のわずか4カ月後に死亡したことになる。炭鉱という過酷な捕虜生活と貧しい食料事情…が追い打ちをかけたとはいえ、それに先立つ軍隊生活が父親の体を徐々に蝕(むしば)んでいた。精神科医の野田正彰さんは戦争栄養失調症について、こう指摘している。「実は、兵士は拒食症になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた」(『戦争と罪責』)

 

 一生、「戦病死」を悔いながら逝(い)った母親を私は不憫(ふびん)に思う。決して、国民の「敵」ではなかったはずの父親をシベリアの凍土に失った、これが230万人分の1の庶民の戦後史の一断面である。「(今回の自衛官暴言の)『4・16事件』。後になってあれが時代の変わり目だったと考え込んでみても遅い」と東京新聞のコラムは結んでいる。「5・15事件」の際、青年将校らによって撒(ま)かれたアジビラにも「国民の敵」という文字が躍(おど)っていた。いまでも時折、新聞の片隅にシベリア抑留者の死亡者名簿が掲載される。あの戦争はまだ、終わっていない。そんな中、”未決”の戦後をあざ笑うかのようにネット上では不気味な言葉が復活しつつある。国賊、非国民、売国奴……

 

 

(写真は戦地から届いた父親からの軍事郵便)
 



 

2018.04.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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