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『自由からの逃走』と現代社会、そして「平和の詩」

  • 『自由からの逃走』と現代社会、そして「平和の詩」

 

 ベトナム反戦運動や水俣病救済など幅広い社会問題に取り組み、戦後の市民運動をリ-ドしてきた社会学者で、評論家の日高六郎さんが6月7日死去した。享年101歳。中国・青島に生まれ、当時の東京帝国大学を卒業。60年安保闘争など多くの市民運動の先頭に立ち「行動する知識人」と呼ばれた。1969年、東大紛争での機動隊導入に抗議して東大教授を辞職。その後も反戦や公害、人権、憲法問題などに取り組んだ。「60年安保」世代の私にとって、その名声はつとに聞き及んでいたが、むしろドイツの社会心理学者、エ-リッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』の訳者としての記憶の方が強い。なぜ、自由から逃げ出さなければならないのか―。その逆説的な定理に私を含む当時の学生たちはとりこになった。

 

 フロム(1900―1980年)が反ナチズムの立場から同書を刊行したのは1941年…第2次世界大戦のさ中だった。日高訳の初版は10年後の1951(昭和26)年で、私の手元に残されているのは1965(昭和40)年刊の新版。茶褐色に変色した同書には何か所にも傍線が引かれている。当時、すでに27版を重ねており、「60年安保」敗北の挫折感が同書に目を向けさせたのかもしれない。例えば、フロムが強調する「ファシズム」論を読み解く個所には二重線が施されている。「資本主義はたんに人間を伝統的は束縛から解放したばかりでなく、積極的な自由を大いに増加させ、能動的批判的な、責任をもった自我を成長させるのに貢献した。しかしこれは、資本主義が発展する自由の過程に及ぼした一つの結果であり、それは同時に個人をますます孤独な孤立したものにし、かれに無意味と無力の感情を与えたのである」(同書より)―。

 

 この文章に見られるように、フロムの論拠のキ-ワ-ドは「自由」である。フロムはこうも書き記している。「われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、彼らの父祖たちが自由のために戦ったのと同じような熱心さで、自由を棄ててしまったこと。自由を求めるかわりに、自由から逃れる道をさがしたこと。他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値あるものとは信じていなかったことなどを認めざるを得ないようになった」。せっかく手にした「自由」の重荷に耐えきれなくなった末の国民大衆の姿をフロムは祖国のナチズムに見出していたのである。

 

 「新聞読まない人は、全部自民党」(6月25日付「朝日新聞」)―。こんな見出しの記事に目を引かれた。麻生太郎・副総理兼財務相が自民党支持候補が勝利した新潟知事選を引き合いに、自民支持が高いのは10~30代として「一番新聞を読まない世代だ。新聞読まない人は、全部自民党なんだ」と持論を展開したという内容だった。しかし、例の“麻生節”としては片づけることができない不気味さを感じた。日高さんは新版に際して、こう書いている。半世紀以上も前の文章である。

 

 「現代社会というこの巨大なメカニズムのなかで、人間性の回復がどのようにして可能であるのか、ナチズムに表現されるような政治的あるいは暴力的画一主義にどのように抵抗すべきであるのか、さらに人類の破滅につながる戦争の危機を克服するにはどうすればよいのか。そうしたことがらはすべてわれわれ日本人にとっても切実な関心事であろう。そうした切実な関心にたいするひとつの答えとして、この『自由からの逃走』やその他のフロムの著書は、いまなお意味を失っていないと思う」―。

 

 ネット社会の中で、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=インターネット交流サイト)でつながっている「10~30代」(新聞の未読層)は一見、無際限な「自由」を享受しているように見える。しかし、その自由が逆に彼ら若者たちの重荷になっているとしたら…。「安倍一強」体制という全体主義(ファシズム)にそのエネルギ-が収斂(しゅうれん)されつつあるとしたならば、残念ながらフロムの予言が的中したのだと認めざるをえない。私たちはまさに今、その崖っぷちに立たされているのだと思う。自由とは本来、それに伴う孤独や責任を引き受ける覚悟と互換関係にある。その覚悟がないままに「自由の海」へと抜き手を切った先に待ち構える悪夢について、フロムは未来に向けて警告しているのである。

 

 

(写真はエ-リッヒ・フロムの自画像のスケッチ画=インターネット上に公開の写真から)

 

 

『追記』~平和の詩「生きる」①

 

 「沖縄慰霊の日」に朗読された平和の詩(22日付当ブログ参照)が各方面で大きな反響を呼んでいる。そのひとつ、後藤正文さんの文章を以下に転載する(27日付「朝日新聞」)。まさに「自由からの逃走」を拒絶する真っすぐな意志がそこにはある。

 

 

 浦添市の中学3年生、相良倫子さんが「沖縄全戦没者追悼式」のプログラムのなかで行った詩の朗読の映像を見た。73年前の沖縄戦の風景に言葉が及ぶ直前、相良さんの顔がゆっくりと濁った。詩の内容と連動するように表情が変わってゆく様は、言葉たちがしっかりと相良さんの魂と結びついているように感じられた。

 

 「生きる」という題名の詩を朗読する間、持参したメモにほとんど目を落とさなかったことも、とても印象深かった。会場全体を見渡しながら、堂々と読み上げる姿に感動した。こうした式典へ児童や生徒たちが参加することに疑問を持つひとがいるかもしれない。「どうして詩の朗読を少女にさせるのか」という問いも分からなくもない。大人たちこそ、平和への願いを自らの言葉で発するべきだろう。

 

 相良さんの言葉は、誰かの想(おも)いや願望の代弁ではなかったと僕は感じた。ステレオタイプな「少女」のイメージを隠れみのにして、大人たちが押し着せたメッセージではなかった。「未来は、この瞬間の延長線上にある」という言葉にはっとさせられた。だから、平和を祈って今を生きるのだと。「過去と現在、未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく」 体が熱くなった。(ミュージシャン)

 

『追記』~平和の詩「生きる」②

 

 先日の沖縄慰霊の日追悼式で、地元の中学3年生相良倫子さんの平和の詩「生きる」の朗読に、久々鳥肌が立つような驚愕(きょうがく)を覚えた。聴き終えてふと思い浮かべたのが、「早熟の天才」と称されたフランスの詩人A・ランボ-。戦争を写実的に捉える中で、作者としての思いを印象的な言葉で紡ぎ、反戦、平和という揺るぎないテ-マをこれ以上ない散文、詩という形で表現した。個人的見方ではあるが、その言葉の錬金術は、かの偉人に通じているかのように思えた。加えて凛(りん)とした清楚(せいそ)で高潔なたたずまい。わずか7分間の朗読で文学を横切って行った少女。日本にもついに現れたかとの印象だ(7月2日付「岩手日日新聞」記者わーぷろ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.06.26:masuko:コメント(0):[マスコラム]

花崎皋平さま、長い間のご無沙汰をお許しください

  • 花崎皋平さま、長い間のご無沙汰をお許しください

 

 

 2期目の最終議会を終えて帰宅した(6月)18日午後、郵便受けに一冊の本が入っていた。「もしや」と思ったが、やはりそうだった。とげとげしい議会の応答の疲れをいやすためにと予約しておいた本である。『チュサンマとピウスツキとトミの物語 他』(未知谷刊)―。著者は北海道小樽市に住む哲学者で文筆家の花崎皋平(こうへい)さん(87)。タイトルの冒頭には「長編物語詩」とあった。アイヌ民族に寄り添い続け、時にはシャモ(和人)である己の立場に逡巡(しゅんじゅん)し、それでも一貫してぶれない生き方を学び続けてきた…それはまるで「人間賛歌」を謳った一大叙事詩のような趣だった。

 

 物語詩は文化人類学者でもあるポ-ランド人、プロニスワフ・ピウスツキ(1866-1918年)の数奇な来歴から始まる。1887年、ロシア皇帝アレキサンドル3世の暗殺未遂事件に連座したとして逮捕され、サハリン(樺太)へ。この島はチェ-ホフの『サハリン島』で知られる流刑地だった。ピウスツキはここでコタン・コロ・ニシパ(村おさ)のバフンケと知り合い、アイヌの言語や文化、民俗を研究。さらに、蝋管(ろうかん)蓄音機による肉声の録音に成功した。そのかたわら、先住民族の自助・自立・自治を訴えた「樺太アイヌ統治規定草案」を起草し、知事に提案するなどアイヌ研究に没頭した。こんな矢先、ピウスツキはバフンケの姪、チュサンマと恋に落ちる。ピウスツキ37歳、チュサンマ25歳。やがて、二人は一男一女に恵まれた。

 

 国際情勢は風雲急を告げていた。日露戦争(1904-1905年)で日本が勝利したことで、当時、ロシアとプロイセン、オ-ストリアに分割統治されていた祖国ポ-ランドにも独立の機運が高まっていた。妻子を連れての帰国を求めるピウスツキに対して、おじのバフンケは遠い異国への移住に首を縦に振らなかった。ピウスツキはひとり去り、これが永遠(とわ)の別れとなった。第一次世界大戦の終結を前にした1918年、ピウスツキはパリのセ-ヌ川に身を投じて自死した。

 

 「トミの物語」はこの文脈に重なるようにして始まる。のちに著者の妻となる「(村山)トミ」さんは1940年、クナシリ島(現北方領土)のルヤベツ村に生まれた。父は腕のいいアイヌの漁師で、7人兄妹の末っ子。敗戦で対岸の根室標津(しべつ)へ移った。「チュサンマさんと私は似ていると言われます」というトミさんの独白はこう続く。「内に思いを秘めた強いまなざしを持ち/私は 一羽で 空を舞う鷲/チュサンマさんは 原野に咲く一本の静かな黒ユリ/長じて ポ-ランド人と暮らす/私は 日本人の男に恋されて一緒に」―

 

 やがて、世は戦乱のさ中に…。ベトナム戦争から足元では伊達火力発電所や泊原発の建設反対運動、そしてアイヌ民族の人権闘争…。そんな中で、北海道大学の教員の職を辞した著者との出会いが待っていた。著者自身の作と思われる「そんなことなんでもないよ」と題する詩篇が文中に挟まれている。「下宿屋の2階四畳半/向き合っていた/「わたしアイヌなの」/「そんなことなんでもないよ」/よく言えたものだ/無知ゆえの/気休めのセリフだった/彼女は怒った/「わたしがどんな思いで言ったか あなたにはまったくわかっていない」/そのとおりだった/いったん口から出たことばを/出なかったことにすることはできない/この言葉を一生背負い/ひたいに『差別者』という烙印を自分で捺して/歩かねばならなかった」

 

 花崎さんと私は冒頭に掲げた写真(炭鉱災害)がきっかけで出会った。37年前の1981(昭和56)年10月16日、北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)でガス突出事故が発生。犠牲者93人という北海道で戦後最悪の事故となった。「エア-が弱くなった。気温が上がっているので…。エア-が来なければ終…」と書かれた遺書とともに最後の遺体が収容されたのは、事故から163日目だった。この事故が引き金となってヤマは閉山し、のちの財政破綻につながった。「本日の質草」という連載を私たち取材班は始めた。鼻先にかけてきた老眼鏡を外し「これで何とか」、そうかと思えば愛用の釣り竿を差し出し「50円が急に入用になったもんで」…。煙突から勢いよく煙が噴き出ている炭住に取材に出向くと、家の中はもぬけの殻。「夜逃げの常とう手段さ。居留守を使ってな」と隣家の男はニヤッと笑った。

 

 ある時、花崎さんから連絡が入った。温厚な語り口でこう話した。「夕張での悲惨な実態に無知だった。哲学者の端くれとして恥ずかしい。あなたの記事を読んでいると、音を立てて崩れ落ちる地域社会の姿が手に取るように分かる。ぜひ、現場を案内してほしい」―。当時、夕張新炭鉱には「本工」(正社員=直轄)のほか、掘進などの難作業には「組夫」と呼ばれる下請け作業員が従事していた。事故後に発生した坑内火災が救出の行く手を妨げていた。延焼を防ぐという名目で坑内に川水が注ぎ込まれた。坑内にはまだまだ59人が残されたままだった。生きながらの“死亡宣告”だった。斜めに傾いた組夫長屋ではヒロポンを打ちながら、仲間の救出に昼夜を徹したイレズミの男がいた。「フィリピンのスラム街よりひどい」と花崎さんは絶句した。ひと言も聞きもらすまいと身を乗り出した。この時のレポ-トは月刊誌に掲載され、大きな反響を呼んだ。

 

 アイヌ語に「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ」という言葉がある。「アイヌ(人間)の中のアイヌ(人間)」という意味になろうか。最後に搬出された炭鉱マンの遺体は幼児のように小さかった。花崎さんと私は身じろぎもしないで手を合わせ続けた。目の前の遺体に”素”(す)の人間を見たような気がした。あの時以来、私は無意識のように花崎さんの背中を追い続けてきたのかもしれない。『チュサンマとピウスツキとトミの物語 他』の終章近くに花崎さんはこう書きつけている。「チュサンマもトミも 晩年は世に隠れ/孤独に 静かに 去っていった/…流れ星 一瞬光って一瞬消える/冬の夜空に見えた いのちの姿/女が男を愛したとき/男が女を愛した時/その愛は消えない…」ー。この文章を読みながら、私は漆黒の闇を照らすキャップランプの灯りにいのちの輝きを見たように思った。

 

 人生一直線のこの哲人は、こうして幾多の著作を通じて、いつも救いの手をさし伸べてくれた。魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちを追い払う巫術(ふじゅつ)もどきもこっそりと伝授してくれた。なんと恵まれた果報者だったことか。文中に「遠山のかあさん」や「サキフチの傘寿」などとして登場するのは、北海道は浦河町姉茶に住む遠山サキ・フチ(おばあさん)のこと。アイヌ語のあれこれや野草の見分け方などを教えてもらった、私たちにとってもかけがえのないアイヌのお師匠さんである。

 

 

(写真は坑内からの救出作業に従事するする真っ黒い顔のヤマ男たち=記録集『よみがえれ炭鉱の街 夕張』から)

 

 

 

《追記》~沖縄慰霊の日(沖縄全戦没者追悼式)

 

 73年目を迎えたこの日23日、浦添市立港川中学3年、相良倫子さんの平和の詩「生きる」がニライカナイ(常世の国)の風に乗り、列島の上空を超えてアイヌモシリ(人間の静かな大地)へと届けられた。以下に全文を転載する。花崎さんは1990年春、読谷村に約3カ月間滞在し、琉球民族とアイヌ民族の歴史と文化を集めた資料集『島々は花綵(はなづな) ヤポネシア弧は物語る』の編纂に当たった。『生きる場の哲学』や『生きる場の風景』など「生きる」をテーマにした著作も多い。沖縄慰霊の日のこの日、南の島の梅雨は明けた。

 

 

私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、

心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、

草の匂いを鼻孔に感じ、

遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 

私は今、生きている。

 

私の生きるこの島は、

何と美しい島だろう。

青く輝く海、

岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、

山羊の嘶き、

小川のせせらぎ、

畑に続く小道、

萌え出づる山の緑、

優しい三線の響き、

照りつける太陽の光。

 

私はなんと美しい島に、

生まれ育ったのだろう。

 

ありったけの私の感覚器で、感受性で、

島を感じる。心がじわりと熱くなる。

 

私はこの瞬間を、生きている。

 

この瞬間の素晴らしさが

この瞬間の愛おしさが

今と言う安らぎとなり

私の中に広がりゆく。

 

たまらなく込み上げるこの気持ちを

どう表現しよう。

大切な今よ

かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

 

七十三年前、

私の愛する島が、死の島と化したあの日。

小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。

青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、

光り輝いていた海の水面は、

戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、

燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

みんな、生きていたのだ。

私と何も変わらない、

懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を。

疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。

仕事があった。生きがいがあった。

日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。

それなのに。

壊されて、奪われた。

生きた時代が違う。ただ、それだけで。

無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

 

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。

私は手を強く握り、誓う。

奪われた命に想いを馳せて、

心から、誓う。

 

私が生きている限り、

こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。

もう二度と過去を未来にしないこと。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。

生きる事、命を大切にできることを、

誰からも侵されない世界を創ること。

平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

あなたも、感じるだろう。

この島の美しさを。

あなたも、知っているだろう。

この島の悲しみを。

そして、あなたも、

私と同じこの瞬間(とき)を

一緒に生きているのだ。

 

今を一緒に、生きているのだ。

 

だから、きっとわかるはずなんだ。

戦争の無意味さを。本当の平和を。

頭じゃなくて、その心で。

戦力という愚かな力を持つことで、

得られる平和など、本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。

その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

私は、今を生きている。

みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。

一日一日を大切に。

平和を想って。平和を祈って。

なぜなら、未来は、

この瞬間の延長線上にあるからだ。

つまり、未来は、今なんだ。

 

大好きな、私の島。

誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、すべての命。

私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

 

これからも、共に生きてゆこう。

この青に囲まれた美しい故郷から。

真の平和を発進しよう。

一人一人が立ち上がって、

みんなで未来を歩んでいこう。

 

摩文仁の丘の風に吹かれ、

私の命が鳴っている。

過去と現在、未来の共鳴。

鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。

命よ響け。生きゆく未来に。

私は今を、生きていく。

 

 

 

 

 

 

2018.06.22:masuko:コメント(1):[マスコラム]

私は政務活動費で、こんな本を買いました

  • 私は政務活動費で、こんな本を買いました

 

 地方議員の調査、研究などに支給される「政務活動費」をめぐる不正使用が全国的に問題になっているが、花巻市の上田東一市長が議会側に正式に受理された収支報告書の内容(使途)に介入するという前代未聞の事態が起きている(6月7日付当ブログ「『地方政治家のあるべき理想像』―そして、真逆の市長暴言」参照)。当市の政務活動費は年額24万円で、各議員に一括支給される。「花巻市議会政務活動費の交付に関する条例」によると、交付者は市長で、議長は収支報告書の写しを市長に送付することになっている。つまり、予算執行者の市長はその使途についても知り得る立場にある。その一方で、適正な運用を期するために議長には「調査権」が与えられている。

 

 今年4月10日付で受理された私の収支内訳(平成29年度分)は「資料購入費」が195,112円。うち新聞2紙(朝日新聞と岩手日報)の購読料が75、571円で、残りの119、541円が図書購入費。また、インクカ-トレッジやコピ-用紙、文房具などの「その他の経費」が32,854円で、差し引きの残額12,034円はすでに市側に返還している。一方、花巻市議会では平成28年12月、地方議会総合研究所の広瀬和彦所長を講師に招いて、「政務活動費の効果的な運用」についての研修会を開いた。その中で、広瀬所長は図書購入費に関して、「市議としての政治活動全般に必要、有益な知識を得るための必要経費だ」としたうえで、「幅広い知見を持つためにもジャンルを超えた本を読んでほしい」と述べた。

 

 例えば私がなぜ、「沖縄」関連の図書を多く購入しているのか。そのことと地方自治との関係性について、説明したい。日米安保条約と日米地位協定によって、在日米軍は日本国内に駐留しているが、その約7割が沖縄に集中しているのは周知の事実である。私たち花巻市民を含めた国民の安心・安全を担保する役割の大半が沖縄という一地方自治体に押し付けられている。“受益者負担”という観点から見てもこれはおかしい。だから、沖縄以外の地方自治体も当然のことながら、この不条理から目を背けてならない―というのが私の基本的な立ち位置である。小学生にでも分かる理屈である。沖縄の現実を知るためにまず本を読み、現地にも何度も足を運んできた。地方議員として、当然あるべき政務活動であると考えたからである。

 

 そのうえで、私は平成27年9月定例会で上田市長にこう質(ただ)した。「政治理念あるは政治哲学として、沖縄の痛みをどのように共有していくのか」―。こんな答弁が返ってきた。「花巻市域内の問題でない以上、憲法と地方自治法に定める市の権限と役割から、当市の地方自治に直接関連するとの判断をすることはできないものと考えています」(会議録から)―。ある意味で予想された通りの答弁だったが、双方に最低限の議論のきっかけができたことは評価できた。しかし、今回は違った。政務活動費について、誰も質問していないにもかかわらず、市民の代表者で構成する議会本会議場でその中身に口出しをする無礼もさることながら、二元代表制を足蹴(あしげ)にする強権支配に「安倍一強」の投影を見る思いがした。そもそも「市政とは何か。(質問要件とされる)市の一般事務とは何か」という議論をわきに置きながら、購読本を「市政」に限定するような“誘導発言”にその底意(そこい)が浮き彫りになった。

 

 一方で、議会側にも政務活動の範囲をめぐる論争はついて回る。例えば、平成28年6月定例会に日米地位協定の抜本的な見直しを求める請願が出されたことがあった。請願者は東日本大震災の被災者で、私が紹介議員になった。地方自治法はこう定めている。「普通地方公共団体の議会は、当該普通地方公共団体の公益に関する事件につき意見書を国会又は関係行政庁に提出することができる」(第99条)―。この種の議論で必ず持ち出されるのが、いわゆる「(国の)専管事項」論と「公益」論である。その意味では行政側と立脚点は変わらない。

 

 「岩手県には米軍基地はなく、地位協定との接点はない。ただ、花巻市民も観光などで沖縄を訪れることは多く、万が一でもそうした犯罪に巻き込まれることは想定しなければならない」(詭弁としての公益論)、「議会とは市民の願いを実現するために市政に働きかけるのが仕事であり、議会の権限外」(国の専管事項論)。一見、沖縄の現実に理解を示したように振る舞いつつ、不思議なことに革新系議員が主導する形で請願は不採択になった。米兵による婦女暴行や後を絶たない米軍機の事故や騒音…。こうした受難を少しでも減らそうと沖縄の全41市町村議会は日米地位協定の改定を求める意見書を提出している。この気の遠くなるような乖離(かいり)がすべてを物語っている。例えばそれは「沖縄差別」という言葉で代替されることなのかもしれない。

 

 

 以上、市議2期目の議会最終日(6月18日)を迎えるに当たり、政務活動費と購入図書との位置づけについて、その一例として「沖縄」問題へのアプロ-チを通じて、私なりの見解を述べたつもりである。「地方自治の本旨」(憲法第92条)に直接かかわる問題でもあるからである。沖縄関連本の手引きがなかったら、一地方議会での関連質問はそもそも想定できなかったと思う。「ジャンルを超えた」読書を勧めた広瀬所長の慧眼(けいがん)に感謝したい。『書を捨てよ、町へ出よう』は寺山修司の評論集のタイトルである。そこには彼一流のアイロニ-(逆説)やレトリック(修辞)、カリカチュア(風刺)が込められている。平成29年度中に政務活動費で購入した図書の全リストを以下に掲載する(購入順)。政務活動の範囲を逸脱していると言うのなら、その理由を教えてもらいたいものである。

 

 

1、「魂でもいいから、そばにいて―3・11後の霊体験を聞く」(奥野修司、1512円)

2、「沖縄 草の声・根の意志」(目取真俊、4531円)

3、「裸足で逃げる沖縄夜の街の少女たち」(上間陽子、1836円)

4、「命こそ宝―沖縄反戦の心」(阿波根昌鴻、842円)

5、「これってホント?誤解だらけの沖縄基地」(沖縄タイムス編集局編、1836円)

6、「森友学園事件の深層『皇国ニッポン』」(週刊金曜日臨時増刊号、700円)

7、「米軍と農民―沖縄伊江島」(阿波根昌鴻、842円)

8、文芸誌「文学界」2017年7月号(文藝春秋、970円)

9、「水俣を伝えたジャ-ナリストたち」(平野 恵嗣、2052円)

10、「今こそ、韓国に謝ろう」(百田尚樹、1400円)

11、「日本中枢の狂謀」(古賀茂明、2560円、中古)

12、「沖縄を生きるということ」(新城郁夫、2561円、中古)

13、「辺野古問題をどう解決するか―新基地を作らせないための提言」(新外交イニシアティブ、2344円)

14、「在日米軍 変貌する日米安保体制」(梅林宏道、950円)

15、「醜い日本人―日本の沖縄意識」(大田昌秀、1757円、中古)

16、「スノ-デン、監視社会の恐怖を語る」(小笠原みどり、2172円、中古)

17、「永遠の道は曲りくねる」(宮内勝典、1998円)

18、「影裏/第157回芥川賞受賞」(沼田真佑、1404円)

19、文芸誌「文学界」2017年9月号(文藝春秋、970円)

20、「狂うひと―『死の棘』の妻、島尾ミホ」(梯久美子、3240円)

21、「歴史を学び、今を考える―戦争そして戦後」(内海愛子、1620円)

22、「キジムナ-Kids」(上原正三、1836円)

23、「向井豊昭傑作集/飛ぶくしゃみ」(向井豊昭、2376円)

24、「小熊英雄詩集」(小熊英雄、756円)

25、「Journalism(ジャ-ナリズム)」2017年8月号(朝日新聞出版、800円)

26、「花びら供養」(石牟礼道子、2700円)

27、「ヒストリア」(池上永一、2052円)

28、「教団X」(中村文則、864円)

29、「R帝国」(中村文則、1728円)

30、「ルポ沖縄/現場記者が見た『高江165日』」(阿部岳、1512円)

31、「知ってはいけない/隠された日本支配の構造」(矢部宏治、907円)

32、「ダ-クツ-リズム入門/日本と世界の『負の遺産』を巡礼する旅」(風来堂、1620円)

33、「2084 世界の終わり」(サルサル・ブアレム、2592円)

34、「遠い山なみの光」(カズオ・イシグロ、756円)

35、文芸誌「文藝」2017年11月号(河出書房新社、1610円)

36、「リスクと生きる/死者と生きる」(石戸諭 、3155円、中古)

37、「日本二千六百年史」(大川周明、1188円)

38、「野火」(大岡昇平、464円)

39、「野火」DVD(1798円)

40、「東北おんば訳/石川啄木のうた」(新井高子、1944年)

41、「戦争とこころ―沖縄からの提言」(沖縄戦・精神保健研究会、1944円)

42、「ニュ-ヨ-クの王様」DVD(1849円)

43、「漫画 君たちはどう生きるか」(羽賀翔一、吉野源三郎原作、1404円)

44、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎、1048円)

45、「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ、1058円)

46、「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ、864円)

47、「日の名残り」(カズオ・イシグロ、821円)

48、「日本人と象徴天皇」(NHKスペシャル取材班、778円)

49、「新宿歌舞伎町俳句一家『屍派』」(北大路翼、1728円)

50、「銀河鉄道の父」(門井慶喜、1728円)

51、「原発労働者」(寺尾紗穂、821円)

52、「黙殺/報じられない“無頼系独立候補者”たちの戦い」(畠山理仁、1728円)

53、文芸誌「群像」2018年1月号(講談社、980円)

54、「仕方ない帝国」(高橋純子、1728円)

55、文芸誌「群像」2018年2月号(講談社、980円)

56、「憲法の裏側、明日の日本は…」(井上達夫、1944円)

57、「トランプ症候群、明日の世界は…」(井上達夫、1944円)

58、「おらおらでひとりいぐも/第158回芥川賞受賞」(若竹千佐子、1296円)

59、「おひとりさまVSひとりの哲学」(上野千鶴子、821円)

60、「縄文の思想」(瀬川拓郎、907円)

61、「保守の真髄―老酔狂で語る文明の紊乱」(西部邁、907円)

62、文芸誌「群像」2018年3月号(講談社、980円)

63、文芸誌「すばる」2018年3月号(集英社、950円)

64、文芸誌「文学界」2018年3月号(文藝春秋、970円)

65、総合雑誌「世界」2018年3月号(岩波書店、918円)

66、「維新の影―近代日本一五0年、思索の旅」(姜尚中、1512円)

67、岩波講座「文学(13)―ネ-ションを超えて」(小森陽一、3672円、中古)

68、「その後の震災後文学論」(木村朗子、2160円)

69、「保守と立憲―世界によって私が変えられないために」(中島岳志、1944円)

70、「琉球独立は可能か」(川瀬俊治、2376円)

71、「人間の居場所」(田原牧、799円)

72、文芸誌「群像」2018年3月号(講談社、980円)

73、「硫黄島」(菊村到、350円)

74、「東北を置き去りにした明治維新」(星亮一、1620円)

75、「ミライミライ」(古川日出男、2484円)

76、「仁義なき幕末維新/われら賊軍の子孫」(菅原文太、864円)

77、「日本人が忘れた日本人の本質」(山折哲雄、929円)

 

 

(写真は平成29年度に購入した「沖縄」関連本の一部)

 

 

 

 

万引き家族―そして、地獄谷とドロボ-部落と

  • 万引き家族―そして、地獄谷とドロボ-部落と

 

 「直接的なきっかけは、既に死亡している親の年金を、家族が不正受給していた事件を知ったことです。『犯罪でしかつながれなかった』というキャッチコピ-が最初に思い浮かびました。血のつながっていない共同体をどう構築していけるか、ということですね。特に震災以降、世間で家族の絆(きずな)が連呼されることに居心地の悪さを感じていて。だから犯罪でつながった家族の姿を描くことによって、『絆って何だろうな』と改めて考えてみたいと思いました」―。映画「万引き家族」で第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムド-ルを受賞した是枝裕和監督は制作の動機をこう語っている。ふと、既視感に襲われた。50年近くも前の、それは“地獄谷”の光景だった。

 

 大都会の高層マンションの谷間にポツンと取り残されたような平屋の一軒家に祖母と両親、母の妹、それに父親に拾われた幼い男の子の5人が暮らしている。ある寒い日、父とその子は集合住宅の廊下にたたずんでいる少女を発見する。虐待を疑った父は少女を連れ帰り、その日から6人家族の奇妙な生活が始まる。大人たちに血のつながりはない。全員が暗い過去を持つ、いわば“偽装家族”である。頼みは家主の祖母の年金だが、足りない分は親子の連携プレ-による「万引き」で補う。約2ケ月後、「5歳の女の子が行方不明」というニュ-スがテレビに流れる。やがて「万引き家族」の危うい絆に亀裂が…。作家の角田光代さんは「理解できぬ世界は悪か」(6月8日付「朝日新聞」)と題して、映画の寄稿文にこう書いている。

 

 「この家族が、言葉に拠(よ)らず共有している暗号を、当然ながら家族以外の他者は理解できない。理解できないものを、世のなかの人はいちばんこわがる。理解するために、彼らを犯罪者というカテゴリ-に押し込める。よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズするということは、ときに、ものごとを一面化させる。その一面の裏に、側面に、奥に何があるのか、考えることを放棄させる。善だけでできている善人はおらず、悪だけを抱えた悪人もいないということを、忘れさせる」。角田さんはこう書き、自らを振り返る。「実際に起きた事件の見出しを見たときと、この映画の印象が対極くらい異なるのは、だからだ、とようやく気づく。この映画は、そんな線引きをさせないからだ」と―。

 

 「地獄谷」―。その谷は九州は筑豊・田川の、いまや悪名をとどろかす麻生太郎・財務大臣の先祖が築いた麻生炭鉱の近くにあった。ヤマの閉山によって、地底(じぞこ)を追われた人たちが肩を寄せ合うようにして暮らしていた。町方の人たちは顔をしかめながら、地獄谷と、そう呼んでいた。ボタ山(石炭ガラ)が目の前にそびえたち、谷の入り口には5階建ての精神病院が建っていた。病院から流れ出る汚水が谷底に油が浮いたような小さな池を作り、そのまわりに10数戸の長屋が軒を接していた。「線引き」を超えたいと思うのは新聞記者の習い性である。交渉の結果、その1軒に約2週間にわたって住み込み取材することに成功した。当初はまるで、人と人とを隔てる「人外境」に迷い込んだような錯覚を覚えた。

 

 臨月の若い女性のおなかがある日突然、引っ込んだ。でも、赤ちゃんの泣き声が聞こえない。件(くだん)の“妊婦さん”はかたわらのザルを指さし、ニヤッと笑った。妊娠を偽装し、扶助をだまし取っていたのだった。谷底を闊歩しながら、長屋連中との世間話に興じていた中年の男性と市街地のス-パ-でばったり出会ったことがあった。黒い眼鏡をかけた男性は右手に杖を突き、妻が介添えしていた。私に気が付いた夫婦は口に封をするようにと人差し指を口に当てた。「石炭人夫として、国には随分と貢献したからな。ま、れっきとした国家公務員というわけさ…」。谷にも戻った男性はケラケラと笑い飛ばした。長屋の住人は全員が生活保護を受給していた。

 

 「先祖からもらった大事な名前だからね。だから…」―。毎日、豚のえさを集めて回る初老の男性がいた。表札に「弓長(ゆみなが)」とあった。本名は「張(ちょう)」さん。戦時中、炭鉱労働者の不足を補うため、朝鮮半島から強制連行された。植民地化にあった当時、日本政府は強制的に名前を変えさせる「創氏改名」を押し付けた。「張を二つに分けてね。これが民族としての最低限の抵抗だったよ」と張さん。弓長さん宅は谷の住人たちのたまり場だった。みんなが張さんを気遣うようにして茶飲み話に花を咲かせた。血のつながりよりももっと濃い絆に結ばれた共同体がそこにはあった。

 

 差別的な蔑称で「ドロボ-部落」と呼ばれる集落が地獄谷の近くにあった。万引きやスリを生業(なりわい)にする集団で、周囲ではそう呼びならわしていた。作家の故結城昌治の『白昼堂々』はここを舞台とした小説である。当時はまだ「義賊(ぎぞく)」とか「義侠(ぎきょう)」といった言葉が通用する時代だった。大都会で万引きした高級反物を閉山地帯の弱者に安く分け与え、自分たちは“義賊”を気取っていたらしい。こんなエピソ-ドを聞くにつれ、「人外」とは実は線引きをする側の謂(い)ではないのか―、そんな思いにかられた。

 

 「キズナよキズナ。血縁よりもそっちよ」―。目の前の画面から甲高い声が聞こえて、我に返った。「万引き家族」の周辺には捜査の手が伸びていた。“家業”に疑問を持った息子が故意に警察に捕まったのだった。一家は離散の憂き目を余儀なくされた。それが当然の帰結だったとしても、家族を超えた真の絆をそこに見た思いがした。万引き家族と地獄谷とドロボ-部落…線引きされた内側にこそ、現代社会が手放してしまった”何か”を再発見したような気持になった。それがとても愛おしいものに感じられた。「おまえは一体、どっちの住人なのだ」と審問されているような気分にさせられた。

 

 映画公開後、是枝監督が国の祝意を辞退したというニュ-スを目にした。「映画がかつて『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですが、このような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」と是枝監督は語っていた。「万引き家族」はその言葉通りの作品だった。

 

 

(写真は「万引き家族」が全員集合。映画ポスタ-から=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

2018.06.13:masuko:コメント(0):[マスコラム]

「地方政治家のあるべき理想像」―そして、真逆の市長暴言

  • 「地方政治家のあるべき理想像」―そして、真逆の市長暴言

 

 花巻市議会6月定例会の一般質問が7日開かれ、私は師と仰ぐ元釜石市長の鈴木東民氏と元沢内村長の深沢晟雄氏(いずれも故人)の言葉を引用しながら、「地方政治家のあるべき理想像」について、上田東一市長の見解をただした。登壇しての質問が制限時間60分のうちの37分に及んだため、再質問の時間はほとんど残されていなかったが、上田市長から名誉棄損にも相当するような“とんでも発言”が飛び出した。

 

 上田市長は答弁の中で、激した表情でこう述べた。「(増子)議員は政務活動費24万円(年額)のうち、15万円以上も図書の購入に充てていると聞いている。市政に関連するのがどれ位かは分からないが、本ばかり読んでいないで、市民の声にも耳を傾けてほしい。勉強をするのは立派なことではあるが、自分に近いお友達とだけ付き合うのではなく、書斎を出て地元の行事にも顔を出してもらいたい」―。私はわが耳を疑い、抗議した。「思想・信条、尊厳にかかわる暴言だ。撤回してほしい」。上田市長はグダグダ弁解がましい言葉を繰り返しながら、傲慢に言い放った。「議員が不快に思うのなら、その部分は訂正する」ー。品性のひとかけらもない、あの人を食ったような財務大臣の発言と重なった。以下の質問の中にある鈴木、深沢両氏の発言とじっくり読み比べてほしい。

 

 

 

 議席番号2番、無所属・無会派の増子義久です。今回は議員2期目としては最後の一般質問の機会になりますので、まず過去4年間の議員活動を総括し、さらに上田市政の政策課題についても私なりに検証したいと思います。そのうえで、将来に向けた地方政治家(市長)としての理念あるいは自画像について伺いたいと考えます。4年間をトータルに振り返りたいと思いますので、質問の時間がこれまでより若干、長くなることをご理解ください。

 

 さて、私は平成26年の市議2期目の立候補に際し、「いざ、『イ-ハト-ブ』の建国へ」―をスロ-ガンに掲げました。当市が将来都市像として、「市民パワをひとつに歴史と文化で拓く/笑顔の花咲く温(あった)か都市(まち)/イハトブはなまき」―を標榜しているのを受け、一議員としてその実現に少しでも寄与したいと考えたからです。いうまでもなく「イ-ハトブ」とは当市が生んだ宮沢賢治による造語で、童話集『注文の多い料理店』の広告チラシがその出典とされています。厳密を期するため、その部分を読み上げます。「イ-ハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパ-ンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリ-ムランドとしての日本岩手県である」

 

 文中に出てくる「大小クラウス」はアンデルセンの『小クラウスと大クラウス』、「少女アリス」はルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』、「テパーンタール砂漠」はインドの詩人タゴ-ルの詩篇「旅人の国」と「渡し守」、「イヴン王国」はトルストイの『イワンのばか』からの引用ではないかと言われています。この文章だけからも賢治の心象世界の無限性が伝わってきます。

 

 私はいわゆるマニフェストではこう訴えました。「東日本大震災、とくに福島第一原発事故をきっかけに、『自然との共生』を説いた賢治精神がふたたび脚光を浴びています。記憶の風化が叫ばれる今こそ、この精神をベ-スにした賢治の理想郷―『イ-ハト-ブ』の建国を急がなければなりません」―。その上で、次の4つの「建国」事業の実現を公約に掲げました。

 

①~「震災と賢治」に関する常設コ-ナ-の設置や平泉―花巻―遠野―沿岸被災地などを結ぶ「理念型観光」ルートの確立

②~羅須地人協会や「下の畑」など賢治精神の発信基地でもある「花南地区」の時空間の充実

③~賢治の生家やゆかりの建物などを生かした「賢治の息遣いが聞こえる」中心市街地の活性化

④~「雨ニモマケズ」精神(受難者や弱者へのまなざし)の具現化

 

 時あたかもこの年に初当選を果たした上田東一市長は3月定例会において「賢治のまちづくり」について、以下のように述べられました。「まず、宮沢賢治さんの生誕地であることを誇りとするということ。それから賢治さんの精神、いろいろな角度がありますけれども、それを学んでいくこと。それから、賢治さんが雨ニモマケズの中で言っております、我慢強さとか忍耐強さを忘れないこと。それから助けが必要な人に対して、ごく自然に手を差し伸べる。こういうことが賢治精神の中にあるだろうと思うのです。それを生かして市民の皆様と一緒になってまちづくりを進めていきたいと、そのように考えております」(会議録から)

 

 前置きがいささか長くなってしまいましたが、以下、何点か具体的にお聞きしたいと思います。今年3月31日付の岩手日報に「『元気なまち』復活へ」と題する上田市長へのインタビュ-記事が掲載されています。残念ながら、私が公約で訴えた「建国」事業に関しては具体化した施策はほとんど見当たりませんでした。ひとえに私自身の力不足であったと反省しています。

 

 上田市長はこのインタビュ-の中で、1期目の総括と2期目に向けた決意について、①人口減少対策、②市街地の再生、③交流人口の拡大、④防災力の強化―の4つを重点施策に挙げ、具体的なプロジェクトの推進・継続を約束しています。例えば、総合花巻病院の旧厚生病院跡地への移転整備事業、医療費助成や保育料の負担軽減、子育て世帯への移住支援、総合支所の強化、観光資源を生かしたインバウンド政策の推進、新花巻図書館の整備計画―など少子高齢化社会に向けたインフラ整備に積極的に取り組んでいることが強調されていました。

 

 こうしたプロジェクト、とくに総合花巻病院の移転整備事業と新図書館建設を推進するために導入されたのが、コンパクトシテイ・プラス・ネットワ-クと呼ばれる「立地適正化計画」だと考えます。平成30年5月現在で、都市機能誘導区域と居住誘導区域を含む計画を策定した自治体は全国で123市町村にも上っており、当市は全国で3番目の平成28年6月に策定しています。市税の減少を補う財源確保は喫緊の課題であり、有利な国の補助制度を活用するというのは行政の手法としては当然のことなのだろうと思います。

 

 ところで、上田市長が初めて立候補した際のマニフェストの冒頭には「花巻に新しい風を!」―というスロ-ガンが掲げられていました。「風」と言えば、まず賢治作品が思い当たります。『風の又三郎』や『注文の多い料理店』などその多くの作品では風が「どぅ~」と吹けば、目の前の光景ががらりと変わってしまいます。つまり「風」は賢治にとっては変革のシグナルでもありました。さて、上田市長はどんな「風」を吹かせてくれるのであろうか。「これまでになかった、何か新しいことを実現してくれるのではないか」―市民の大きな関心もこの一点に注がれました。

 

 ところが、1期4年を経過したいま、その「新しい風」つまり政策における「上田色」がもうひとつ見えてこないというのが私を含めた大方の市民の実感ではないかと思います。期待感が過剰に大きかっただけにその乖離(かいり)も随分と目立つようになりました。例えば、先ほどの立地適正化計画など国の各種制度に過度に依存することによって、逆に自治体側の自由裁量の範囲が狭められたことがその原因のひとつではないかという指摘もあります。合併特例債やまちづくり基金、財政調整基金などを有効に活用して、上田色を思い切って前面に出した政策を進めることはできないのかという声もあちらこちらから耳に入るようになりました。ここで、お尋ねします。2期目の上田市政がスタ-トした現在、市長は花巻市にどのような「新しい風」を吹かせようとしているのか、上田色をどう打ち出そうとしているのか―その辺の思いを語っていただければと思います。

 

 さて、上田市長はことあるごとに、この立地適正化計画が全国で3番目に策定されたことをしきりに喧伝(けんでん)されておられます。その位置づけに特段の異論はありませんし、限られた期限内で計画の策定に当たった現場の職員には敬意を表します。ただ、策定の順位争いを聞かされれば聞かされるほど、何かそぞろ虚しい気分になってしまいます。なぜなのか。計画の中身を時間をかけてじっくり練り上げるいとまもなく、現場の職員が国から降りてくる膨大な業務にきりきり舞いさせられているのではないかと想像するからです。とくに次々に繰り出されるいわゆる「アベノミクス」以降、その業務量は益々増えているのではないかと思います。

 

 当市の職員として総務課長の経験もあり、現在、市の教育委員とコミュニティアドバイザ-でもある役重眞喜子さんの論考が雑誌『ガバナンス』1月号に掲載されています。例えば「地方創生」のように市町村に策定を求める計画が増加の傾向にあることを踏まえた上で、役重さんはこう述べておられます。

 

 「こうして職員の膨大な時間と労力が奪われるのだが、もっと深刻な問題はそのメンタリティの変化である。上ばかり見て住民を見ない。事務をこなすことに汲々とし、地域に出ていくモチベ-ションが低下する。このままでは『住民力』という自治体職員の最大の武器を自ら失いかねない」として、こう続けています。「さらに悪いのは、首長自身が国やメディア受けする“パッと見”の良い施策に傾倒するケースであり、管理職がこれを追認、若手職員は上の顔色とSNSの『いいね!』の数に一喜一憂。こうなるともはや庁舎内は『やらされ感』、『ソンタク』という見えないガスが充満し、窒息寸前に…。こうならないうちに、打つべき手はないだろうか」

 

 私自身、こうした職場環境の変化―風通しの悪さが肝心の計画の中身に微妙な影響を与えているのではないかと思うことがあります。愛媛県今治市への獣医学部の新設で取りざたされている「加計ありき」ではありませんが、例えば、総合花巻病院の移転に関しても、病院側からの働きかけというよりは、むしろ市側の事情で行政側が主導した「立地適正化計画ありき」ではなかったか?という疑念が病院内からももれ聞こえてきます。また、佐々木忍副市長がいみじくも「至難の技」と言った「医師確保」についても結局、明確な展望が示されないままに建設工事が着工されました。「至難の技」というのは「事実上、不可能」と言っているのと同義語だと思います。「仏作って、魂入れず」ということにならないかという懸念の声が開業医の間からも出ています。地域住民に寄り添い、そのニ-ズがきちんと計画に反映されているかどうか。「計画」のための「計画」になってはいないか―。そういう懸念や疑念だと思います。

 

 さらに「過労死」が社会問題化する中、「働き方改革関連法案」が強行採決されるなど職場の労働環境への関心が過去にないほどの高まりを見せています。当市においても職場によっては、仕事量が膨大に増えるという悪循環に陥り、職員の過重労働や心身の健康面を気遣う声が庁内外からも伝わってくるようになりました。役重さんは現場経験を踏まえた上で、いわゆる一般論として述べられたのだとは思いますが、それにしても随分と手厳しい指摘です。最近、国政の場-とくにいわゆる「森友・加計」問題をめぐって、行政が歪められているのではないかという疑念が大きな社会問題になっています。こうした危機が地方自治体にも及んでいるのではないか、「ガバナンス」(統治能力)が低下しているのではないか―という観点に立ち、止むに止まれない気持ちから思い切った提言に及んだのだと推察します。

 

 ちなみに、当市にゆかりのある新渡戸稲造は『武士道』(奈良本辰也訳)の中で「忠義」について、こう述べています。「おのれの良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲(いけにえ)にする者に対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は『佞臣(ねいしん)』すなわち無節操なへつらいをもって、主君の機嫌をとる者、あるいは『寵臣(ちょうしん)』すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄して、主君の意を迎えようとする者として軽蔑された」―。「忖度(そんたく)」をこれほど的確に言い当てた言葉をほかには知りません。

 

 役重さんは論考を次のような印象的な話しで結んでいます。「私がこれまで最も尊敬した自治体職員、それは学校給食センタ-の栄養士と調理員さんだ。厳しい安全基準を懸命に守りつつ、彼女らは笑顔で言った。『今日は地元の野菜とつゆを使ったから、絶対完食よ』―そんな日、食缶はきっと空で戻ってきた。『残食が多いから、このクラスは来週風邪が流行るわよ』と言えば、必ずそうなった。彼女らには、食缶の向こうにいつも子どもたちの顔が見えていたのである」―。目の前にその現場の光景が浮かんで来るような気持にさせられます。

 

 「忖度」という言葉は昨年の流行語大賞に選ばれました。役重さんはこの提言の中で、忖度とは対極に位置する関係―つまり、地域とつながり、住民から顔が見える「住民プロフェッショナル」になることの大切さを訴えています。ずばり核心を突く指摘で、私たち地方議員も含めた地方政治家の姿勢が問われているのだと思います。この点について、同じ地方政治家としての立場から、何かご感想があればお聞かせください。

 

 さて、今年4月10日付岩手日報の「日曜論壇」に当市在住の男性が「横丁の灯 消え寂しさ」というタイトルの原稿を寄せていました。釜石名物の「橋上市場」が15年前に撤去され、今度は東日本大震災で被災し、仮設店舗で細々と営業を続けていた「呑ん兵衛横丁」の灯りが消えたことを惜しむ内容でした。

 

 甲子川にかかる橋上市場はイタリア・フィレンツェとここ釜石にしかない珍しい形式で、露天商の救済のために建設されたと言われています。また、呑ん兵衛横丁は先の大戦で夫など肉親を失った戦災未亡人の職場を確保するために作られ、作家の故井上やすしさんのお母さんも働いていたことでも有名になりました。寄稿文はこう結ばれていました。「橋上市場と呑ん兵衛横丁という、かけがえのない釜石の遺産。この二つを発案したかつての釜石市長、鈴木東民が生きていれば、この問題をどうとらえただろうか」―。また、東日本大震災で被災し、現在、東和町に移住している男性もある時、「東民さんが生きていたら、この大震災にどう向き合っただろうか。あの人の決断力があったならば…」とふと、洩らしたことがありました。

 

 現在、朝日新聞の全国版でルポライタ-の鎌田慧さんの伝記(聞き書き)が連載されていますが、その鎌田さんに『反骨 鈴木東民の生涯』という大著があります。この本によると、釜石に隣接する当時の唐丹村に生まれた鈴木東民は東京大学を卒業後、いったん朝日新聞に入社し、その後、いまの電通の特派員となってドイツへ渡りました。帰国後に読売新聞に入社、外報部長などを歴任。この間、徹底した反ナチス報道が原因で職場を失うことになります。戦後、読売新聞に復帰し、有名な「読売大争議」を指導しましたが、今度はGHQによって追放されるという波乱万丈の人生を送りました。

 

 郷里に戻った東民は昭和30年5月、60歳で釜石市長に当選。42年に落選するまで3期12年を務め、市長落選後に立候補した市議選ではトップ当選を果たして、周囲をあっと言わせました。市長当時、釜鉄(当時の富士製鉄釜石製鉄所)から排出される降下ばいじんは「世界一」と言われ、東民は盛岡など5市2町1村に呼びかけて「岩手県公害防止対策協議会」を結成、その後の全国的な「公害反対運動」の先駆けを作ったことでも知られています。鎌田さんは同書の中で、東民が市長落選後、親族に宛てた手紙を紹介しています。こんな内容です。

 

 「公害阻止のため釜鉄とたたかい、ぼくは市長選に敗れて釜石を追われたが、ぼくの代わりにサケがやってきた。公害を阻止したおかげである。民主主義を招来するために、戦争に反対し、起訴され、職を奪われ、強制疎開させられ、餓死一歩手前まで追いつめられたぼくの一生は、弱者の一生だった。現在の社会では正義を守ろうとする者は強者にはなれない」。鎌田さんは東民の一生について、「鈴木東民はたしかに彼の敵と闘いつづけた。が、彼はもっとも自分自身と闘いつづけけていたのだった」と同書のあとがきに書いています。

 

 もうひとり、「生命行政」を貫き通した、故沢内村長の深沢晟雄(ふかさわまさお)にも触れたいと思います。上田市長も以前、地元紙のインタビュ-に答え、深沢村長を尊敬する地方政治家の一人に挙げていたと記憶しています。鈴木東民が釜石市長として、獅子奮迅の働きをしていた昭和35年、深沢村長は国の反対を押し切って、65歳以上の医療費無料化を実現し、翌36年には60歳への引き下げと1歳未満の乳児の無料化に踏み切りました。この時の名言がいまに語り継がれています。

 

 「国民健康保険法には違反するかもしれないが、憲法違反にはなりませんよ。憲法が保障している健康で文化的な生活すらできない国民がたくさんいる。訴えるならそれも結構、最高裁まで争います。本来国民の生命を守るのは国の責任です。しかし国がやらないのなら私がやりましょう。国は後からついてきますよ」

 

 現在、老人医療費は有料になっていますが、深沢村長の予言通り、昭和44年に秋田県と東京都が無料化し、昭和48年には国が70歳以上を対象に無料化の実施に踏み切りました。沢内村は深沢村長の理念を受け継ぎ、その後も村単独で無料化を続けました。しかし、平成17年に湯田町と合併して西和賀町となった際、約45年にわたる老人医療費無料の歴史に幕を下ろすことになりました。

 

 鈴木東民と深沢晟雄に共通するのは、弱者に寄り添うという姿勢だと思います。私はこの二人を地方政治家の師と仰いで議員生活を送ってきたつもりですが、結局、足元にも及ばなかったという悔恨だけが残っています。ここで、お尋ねします。上田市長が理想とする地方政治家には深沢村長以外にどんな方がおられるでしょうか、この際、ぜひお聞かせ願います。

 

 ところで、今年は明治維新150年に当たりますが、私たち東北人にとっては「戊辰戦争」150年ということになります。新政府軍(西軍)側についた秋田・佐竹藩に対し、奥羽越列藩同盟は兵を向けました。いわゆる「秋田戦争」です。花巻城下からも多くの武士が参戦しました。その意味で、花巻城址は貴重な歴史遺産でもあります。

 

 城跡の高台にはかつて、東公園と呼ばれた市民の憩いの場があり、その一角に「はなまき」のまちづくりに貢献した194人の名前を刻んだ「鶴陰碑」が建っていました。その中の一人が上田市長のご先祖に当たる「上田弥四郎氏」です。儒者としても知られましたが、建築関係にも造詣が深く「造作文士」と呼ばれたと記されています。江戸・文化年間の城の大改修工事の陣頭指揮に当たったのが、この上田氏でした。一方、鶴陰碑を揮ごうした「小原東離」(忠太郎)は、秋田戦争にも加わった私の曽祖父です。縁(えにし)の不思議に驚いたことを覚えています。

 

 さて、この花巻城址(旧新興製作所跡地)の取得をめぐっては上田市政と私を含む議会側の一部とが対立する形になりました。上田市長は「利用目的が決まっていない物件に市民の税金を投入するわけにはいかない」と主張。私たちは「由緒ある土地を取得し、将来のまちづくりに有効利用すべきではないか」と反論しましたが、結局、市側は取得を断念することになり、現在に至っています。国道沿いにある花巻城址にはいま、コンクリ-ト殻などの残骸が放置されたままになっています。本来ならパチンコ店やホームセンタ―が建設される予定でしたが、土地取得者らのトラブルによって、無惨な姿をさらし続けているのが実態です。ふと、150年前の光景がまなうらに浮かびました。戊辰戦争に敗残した当時の無念が二重写しになったのでした。

 

 上田市長は第三者の手に移った以上、今後、この問題が市政課題にはなり得ないという見解の取っているようですが、戊辰戦争150年の今年、あの遠い記憶を呼び戻してくれる光景が目の前に現存しているという、歴史の巡り合わせにある種の感動すら覚えます。午前中の近村議員の質問にも城跡の一部を取得し、「花巻城・城跡公園」の整備を要望する内容が含まれていました。戊辰戦争など幾多の苦難をくぐり抜けてきた、かけがえのない「歴史遺産」の価値をそこに見出しているからだと思います。上田市長は花巻城址のあの無残な姿を見て、どのような思いにかられるのか―何かありましたならば、お答えください。

 

 最後になります。アメリカでの生活が長い上田市長はご存じかもしれませんが、ニュ-ヨ-ク州北部のオンタリオ湖南岸とカナダにまたがる保留地に6つのインディアン部族で構成される部族国家集団があります。シックス・ネイションズとも呼ばれる「イロコイ連邦」です。この部族集団はすべての武器を土に埋め、戦争と武器の放棄を宣言しました。“憲法”ともいえる「イロコイ連邦憲章」の中にこんな一節があります。「どんなことでも7世代先(セブンス・ジェネレ-ション)のことを考えて決めなくてはならない」―。一方の賢治は「イ-ハト-ブ」を「ドリ-ムランド」(夢の国)と呼んでいます。

 

 以上、議員2期目の総括と上田市政の検証をるる述べさせていただきました。こうしたことを踏まえた上で、上田市長が花巻の未来に向け、どんな展望や夢を抱いているのか、理想とする政治家像をどう描いているのか―忌憚のないお話をいただければ幸いです。長広舌(ちょうこうぜつ)を重ねたことをご容赦ください。登壇質問にしては異例の長さになりましたが、最後までご清聴ありがとうございました。これで登壇しての質問を終わります。

 

 

(写真は2期目のマニフェストや選挙用はがき。「イ-ハト-ブ」の建国を謳った)

 

 

 

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