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チビチリガマ―野仏に祈りを込めて…その一方では「アッ」と驚く事態も

  • チビチリガマ―野仏に祈りを込めて…その一方では「アッ」と驚く事態も

 「ガマ(洞窟)を荒らした少年たちと合宿しながら、野仏を造ろうと思っているんだ。見に来ないか。ちょっと急だけど、明日からなんだよ」―。沖縄県読谷村在住の彫刻家、金城実さん(79)さんから電話が入ったのはその前日の今月22日。せっかちな金城さんにしても、あまりにも急だ。その光景を想像しながら、ジリジリ待つこと4日間。26日付の地元紙2紙(電子版)に記事が載った。米軍が沖縄本島に上陸した翌日(昭和20)の4月2日、チビチリガマに避難した約140人のうち、83人の住民が非業の死を遂げた。肉親が殺し合いを余儀なくされた「強制集団死」の現場である。ガマの入口には金城さんらが制作した「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が建っている。

 

 まだ、遺骨などが残っているガマが荒らされたのは、昨年9月12日。数日後、県内に住む16歳~19歳の少年4人が器物損壊の疑いで逮捕された。少年たちは「肝(きも)試しだった」「心霊スポットに行こうと思った」と自供。「過去の歴史は知らなかった。大変なことをしてしまった。遺族の方々の心を傷つけてしまった」と反省の言葉を口にした。金城さんが保護司に任命されたのは、約1ケ月後。「少年たちとどう向き合おうか」と考えた時、制作中の野仏のことを思い出した。事件が起きる4カ月前、私はたまたま、金城さんのアトリエを訪れていた。

 

 ツノが生え、目玉をギョロリとむき出した新作の鬼の像がアトリエに置かれていた。怖い形相をしたその胸にまるい袋状のものが抱かれている。「鬼の遺伝子だよ。抵抗の遺伝子は必ず、進化する。そのことをイメ-ジさせた」。すぐかたわらには柔和な表情をした「野仏」(お地蔵さん)が並んでいた。顔と手足にはきれいにヤスリがかけられ、撫(な)でるとスベスベした感じがした。二つの像の間に挟まるようにして、金城さんが言った。「いいかい、まるで形相の違う像を一人の人間が作ったということだ。つまり、人間は時には鬼のように抵抗し、また時にはツノを収めて野仏のように穏やかにならなければならない。そのことを訴えたかった」―。

 

 私は事件の報に接した時の気持ちをブログに次のように記した。先の大戦で唯一、地上戦が戦われた「沖縄戦」の実態を、私も含めたヤマトンチュはどれほど知っているだろうか。そんな自責にかられたのである。…●「平和学習の成果がなかったのではないか」、「沖縄戦の風化がここまで進んでいるとは…」、「遺族たちは3度、殺された」、「よりによって地元の子が…肝試しをという動機の落差に、世代の溝の深さを思う」。このショッキングな出来事をめぐって、沖縄内外では様々な意見が相次いだ。その内容にはいちいち納得できたが、一方で「果たしてそのことを言い募るだけで事は解決するのだろうか」という思いも頭をもたげた。「その事実自体を不問に付すつもりはないが、今回の不祥事を引き起こした遠因は私たち(ヤマト)の無知・無関心ではなかったのか」(2017年9月27日付「キジムナ-とチビチリガマの”受難”」参照)

 

 あの事件から4カ月余り―。遺族や金城さんたちの願いがかない、ガマの周辺にはずらりと野仏が安置された。「作業には保護者の1人も加わった。3日間の仏像造りを終えた少年たちに安どの表情が広がった。参列者から拍手が起こった」…こんな報告をする受話器の向こうの金城さんの声もうれしそうだった。地元紙は以下のように伝えた。

 

 

 沖縄戦で住民が「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた読谷村波平の自然壕チビチリガマを損壊した少年4人が25日、ガマ入り口にある「世代を結ぶ平和の像」を制作した金城実さん(79)らとガマ周辺を清掃し、新たに仏像12体を設置した。沖縄戦や「集団自決」の事実について、チビチリガマ遺族会(与那覇徳雄会長)から話を聞き、沖縄戦最大の悲劇に数えられる「集団自決」を語り継ぐ大切さを学んだ。

 

 少年たちは23~25日、保護観察所のプログラムの一環で保護司らと共にチビチリガマを訪ねた。あらかじめ遺族会や金城さんが土台部分を制作した仏像に顔や腕を付けて完成させ、ガマ周辺に12体を設置した。3日間、ガマの中の遺骨にも手を合わせた。与那覇会長によると、少年たちは活動を終えて「歴史を知らず、大きなことを犯してしまった。今後、このような事件がないようにしたい。沖縄戦を伝えていきたい」などと述べ、改めて謝罪した。遺族の言葉にも真剣な表情でうなずいていたという。
 

 与那覇会長は「自分たちで仏像を設置したことで、これからもガマを訪ねて手を合わせてほしい」と語り、「少年たちは反省していた。作業を通して変わったと感じた」と振り返った。金城さんは「作業着を着て、黙々と仕事をしている様子を見てうれしかった。少年たちが後世に沖縄戦を伝えることを期待している」と話した。少年たちは昨年9月にガマ内部の折り鶴を引きちぎったり、遺品や看板などを破壊したりして、器物損壊の罪で逮捕され、保護観察処分を受けた。ガマの入り口に設置された平和の像にも損傷が及んでおり、遺族会は今後、少年たちと修復作業を進めていくことを検討している(26日付「琉球新報」電子版)

 

 

(写真は少年たちの手で制作された野仏たち=1月25日、沖縄県読谷村波平で。琉球新報の紙面から)

 

 

 

《追記-1》~「安倍官邸と自民が沖縄に襲いかかる」

 

 この日(26日)発行の『週刊金曜日』はこんなタイトルの特集を組んだ。近づく「名護市長選」(2月4日投開票)と「石垣市長選」(同3月11日)…。米軍普天間飛行場の「(名護市)辺野古」移設や陸上自衛隊のミサイル配備計画で揺れる両選挙に国は”総力戦“で臨んでいる。「襲いかかる」という表現がぴったりの激しい攻防をレポ-トしている。昨年3月、152日間に及ぶ不当勾留の末に保釈された、沖縄平和運動センタ-議長の山城博治さんは特集の中でこう語っている。

 

 「(翁長雄志・沖縄県知事は)もっと先の沖縄の姿を見ていた。私たちの拠(よ)って立つところは、基地ではないんだと、平和に向けての夢なんだと。武器を持たずにアジアと交歓するんだと。1千万観光客って大変ですよ。すごいですよ。そこにはヘリパッド不要、辺野古基地の邪魔、米軍はいらないんだ。基地のない美しい海、青い空から人間が降り立つ。だから、私も賭けたんです。そういう夢に」

 

《追記―2》~「何人、死んだんだ!」

 

 25日の衆院本会議で代表質問に立った共産党の志位和夫委員長が、沖縄県で相次ぐ米軍機の事故や不時着の問題を取り上げていた際、自民党の松本文明内閣府副大臣が議員席から「それで何人死んだんだ」とやじを飛ばしたことが分かった。共産党の小池晃書記局長は26日の記者会見で「本当に許しがたい発言。言語道断だ」と非難した。小池氏によると、やじは本会議場の自民党席から上がり、共産党機関紙「しんぶん赤旗」の記者が直後に取材したところ、松本氏が「僕の発言だ」と認めたという。西村康稔官房副長官は記者会見で、発言は確認していないとした上で「必要に応じて本人が発言の趣旨をしっかり説明する」と述べた(26日付「時事通信」電子版)

 

 この人物はたぶん、「チリチリガマ」の悲劇を知らないのだろう。いや、かりに知っていたとしても「どこ吹く風」ではないのか。そういえば以前、「差し入れ」を要求する失言もあった。各紙によると。同大臣は26日夕、安倍晋三首相に辞表を提出し、受理された。

 

※なら幾人亡くなりゃ国は動くのか(1月30日付「朝日川柳」

 

 

《追記―3》~巨星、墜(お)つ

 

 官房長官や自民党幹事長などを歴任した元衆院議員の野中広務(のなか・ひろむ)氏が26日に死去した。92歳だった。(中略)戦争中の召集経験があり、党内では「ハト派」として弱者への配慮を持ち続け、イラク戦争などで自衛隊の海外派遣に抵抗。親中派で北朝鮮との関係改善、沖縄問題などに尽力した(26日付「毎日新聞」電子版)。

 

  「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)に際し、特別委員会の委員長だった野中さんは可決に先立って異例の発言をした。沖縄に寄り添う発言として、今も語り継がれている。「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」ー。『週刊金曜日』がその予言が的中したことを明らかにしている。

 

※情けないヤジを憂いつつ古老逝く(同上)

 

《追記-4》~ゴルバチョフ・旧ソ連大統領からのメッセージ

 

 冷戦終結という世界史に残る偉業を成し遂げ、ノ-ベル平和賞を受賞した旧ソ連のミハイル・ゴルバチョフ元大統領(86)から沖縄の新基地反対派を激励するメッセ-ジが届けられた(1月30日付「AERAdot」より)。以下に全文を転載する。

 

 冷戦時代、オキナワに多数配備されていた核兵器に関する情報がNHKの番組(「沖縄と核」)等で明らかになったと知ったと同時に、現在もなお、オキナワに保管されているかも知れないという危惧で私は心を痛めている。この問題は県民に真実を公開する必要がある。私はこれまで「核兵器の削減」もちろん最終目標としての「核兵器の完全撤廃」および「国際問題に軍事力を使用しない」という点を主張してきた。1985年ジュネ-ブでのソ米首脳会談(私とレ-ガン大統領)で、“核戦争は一切起こしてはならない”、“核戦争下での勝利者はいない”という共同宣言を採択し、世界に発信した。

 

 こうした観点からオキナワでの軍事基地拡大に対する県民の闘いをこれまでも支持してきたし今後も支持する。オキナワは世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化を有している。従ってオキナワは軍事基地の島ではなく、人々の島であり続けなければならない。

 オキナワは自然・文化・観光資源のほか、地政学的にも恵まれており、世界の人々、文化、貿易が行き交うターミナルとしての環境が整っていると私は思う。オキナワの将来の世代のためにも、この豊かな環境を活用し平和的な発展をめざされることを切に願う。

「戦争の文化から平和への文化の移行が必要だ!」今年1月のロ-マ法王のこの言葉に私は心から賛同する。

ミハイル・ゴルバチョフ

2018年1月23日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.26:masuko:コメント(0):[身辺報告]

憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

  • 憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

 沖縄は「憲法の及ばぬ島」と呼ばれてきた。戦力の不所持と交戦権の放棄を定めた「憲法第9条2項」を見れば、その理由は歴然としている。沖縄は戦後一貫してアメリカの支配下に置かれ、日本への復帰(1972年)を経た現在に至るまで、「在日」米軍基地の約7割が置かれたままである。この間、米軍は日本の領土である「沖縄」から出撃。ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争などに参戦してきた。沖縄は「9条2項」の埒埒外(らちがい)に置かれ、さらに米軍基地がもたらす事故や騒音、女性暴行などの基本的人権の侵害にもさらされ続けている。このように、“平和”憲法は実は沖縄の犠牲の上に成り立ってきたのであり、このことに私たちヤマト(本土)の側は相変わらず、無知・無関心を決め込んでいる。

 

 「我が党は結党以来、憲法改正を党是として掲げてきた。いよいよ実現する時を迎えている」―。安倍晋三首相は22日開会の通常国会の冒頭で「2020年改憲」に意欲を見せた。その骨子は「9条2項」を維持したまま、自衛隊を明記するという内容になっている。これを先取りするように、沖縄・南西諸島の宮古島、石垣島などには中国や北朝鮮の脅威論をタテに、陸上自衛隊のミサイル配備計画が着々と進められている。この改憲が実現すれば、皮肉なことに今度は沖縄が真っ先に憲法の「及ぶ島」になる。一方、「改憲」論議が白熱化する3月下旬、天皇・皇后両陛下が沖縄訪問に旅立つ。2年前に沿岸監視隊(陸自)が配備された、日本最西端の与那国島も初めて訪れる。

 

 「アウトソ-シング」という言葉がある。直訳すると「外部委託」という意味になる。「天皇が能動的な象徴たらんとすることを、政治の側が逆手にとるリスクも出てきています。今は、天皇が進んで被災地を訪れていますが、政治がそれを利用しようという気になれば、結果的に被災者の政治への不満を天皇が和らげ、政治の不作為を覆い隠してしまうことにもなりかねません」(2017年12月2日付「朝日新聞」)―。神戸女学院大学の河西秀哉准教授(日本近現代史)はこう説明する。「政治の不作為」の最たるものが、現在に至るまでの「沖縄戦後史」である。

 

 今から43年前の1975年7月、皇太子時代の両陛下が初めて沖縄の地を踏んだ。南部戦跡の「ひめゆりの塔」で沖縄戦の説明に耳を傾けていた時、過激派から火炎瓶を投げつけられるという事件が起きた。「(沖縄に対する米国の軍事占領は)日本の主権を残したままで、25年ないし50年あるいはそれ以上の長期租借でなされるべき」(1947年9月)―。実は昭和天皇は沖縄の戦後処理について、こうした考えを米国側に伝えていたことが後にわかった。「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」―いわゆる「沖縄メッセ-ジ」と呼ばれる文書である。天皇の名のもとに「捨て石」にされた沖縄の人々の間には、「皇室」に反発する声も強かった。その日、皇太子は沖縄県民に向けたもうひとつのメッセ-ジを発表した。

 

 「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷痕を深く省み、平和への願いを未来に繋げ、共々に力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖(あがな)えるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省のうちにあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」―。さらに、事件後の12月に行われた記者会見ではこう語った。「沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを直視していくことが大事です。避けてはいけない」

 

 「6・23」(沖縄戦終結))、「8・6」(広島原爆投下)、「8・9」(長崎原爆投下)、「8・15」(日本敗戦)…両陛下は「忘れてはならない日」として、戦後の始まりとなった、この四つ日を挙げている。こんな思いを抱いた両陛下の沖縄訪問はすでに10回を数えている。

 

 一方の安倍首相は通常国会の施政方針演説でこう述べた。「日米同盟の抑止力を維持しながら、沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします。米軍機の飛行には、安全の確保が大前提であることは言うまでもありません。…最高裁の判決に従い、名護市辺野古沖への移設工事を進めます」―。小学校や保育園の上空を米軍機がわがもの顔で飛行し、大惨事につながりかねない部品が空から降ってくる。そして、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設は全額を政府が出資する、初めての自前の”米軍基地”となる。治外法権―無法地帯と化した沖縄抜きの「改憲」が強行されようとしている。

 

 来年4月30日の退位を控え、今回が最後の沖縄訪問になるとみられている。両陛下が「象徴」としての務め(アウトソ-シング)を果たしてきたことによって、「政治の不作為」が免罪されることはない。「日米安保」によって、ヤマトの安心・安全が担保されている―と多くのヤマトンチュは考えている。だとするならば、そこには”受益者負担“が生じる。沖縄に「寄り添う」ということの真意は、安倍首相の演説の中にではなく、「火炎瓶」事件の際の天皇メッセ-ジに託されている。沖縄の復権のため、私たちヤマトンチュが何をなすべきか―そのことが問われる1年になりそうだ。「辺野古」移設(実質的な新基地建設)の賛否を問う名護市長選挙は28日に告示され、2月4日に投開票される。

 

 

(写真は火炎瓶が投げつけられる瞬間をとらえた写真。皇太子夫妻は身を乗り出すようにして説明に聞き入っていた。「お怪我はありませんでしたか」と美智子妃は案内役の女性に声をかけたという=1975年7月17日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」で。当時、読売新聞のカメラマンだった山城博明さんが撮影。インターネット上に公開の写真から)

 

 

《追記-1》~相次ぐヘリ不時着

 

 23日午後8時5分ごろ、沖縄県渡名喜(となき)村で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)所属の攻撃ヘリAH1が村営ヘリポ-トに不時着した。県警によると、けが人の情報はない。日本政府関係者によると、警告灯が点灯し、事故を避けるため「予防着陸」をしたとみられるという。ヘリポートは、那覇市の西約60キロにある渡名喜島西部の港にあり、集落からは約300メ-トル。救急搬送などに使われる。島の近くには米軍の射爆撃場や訓練海域がある。

 

 政府関係者によると、米軍は「油圧系統の不具合を示す警告灯が点灯した。24日に別のヘリで整備要員を派遣し、安全が確認され次第、普天間に戻る」と説明している。(中略)県内では今月6日にうるま市の伊計島、8日には読谷村に普天間所属の米軍ヘリが不時着し、沖縄県内で米軍機の安全性への不安が高まっていた。県議会は19日、「人命に関わる重大事故につながりかねないもので、強い憤りを禁じ得ない」として、日米両政府や米軍に対する抗議決議と意見書を全会一致で可決していた(23日付「朝日新聞」電子版)

 

《追記―2》~「米軍は制御不能」と翁長知事

 

 【東京】翁長雄志知事は24日、防衛省が渡名喜村に不時着した米軍普天間飛行場所属AH1攻撃ヘリコプタ-の飛行停止を求めたものの、米軍がすぐに同型機の飛行を再開したことに対し「とんでもない話で怒り心頭だ」と厳しく批判した。米軍基地県軍用地転用促進・基地問題協議会(軍転協)の要請後、首相官邸で記者団に答えた。要請前の那覇市では「米軍が制御不能になっている。管理監督が全くできない」と批判した。

 

 翁長知事は首相官邸での取材に対し、AH1が今月2回トラブルを起こしているとして、防衛省の対応に一定の理解は示した。ただ、昨年1年に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイやCH53E大型輸送ヘリコプタ-など、AH1以外の機種でも事故やトラブルが約30件発生しているとして「この件に対してだけ強く抗議するなどというのは抜本的な解決にはならない」とくぎを刺した(25日付「琉球新報」電子版)

 

 

 

 

 

 

2018.01.24:masuko:コメント(0):[議会報告]

「無投票当選」という不作法

  • 「無投票当選」という不作法

 「こっちの方がはるかに健全ではないか」―。『黙殺』(畠山理仁著)というすごいタイトルの本を読みながら、そう思った。「落選また落選!供託金没収!それでもくじけずに再挑戦!」…。選挙の魔力に取りつかれた、いわゆる泡沫(ほうまつ)候補たちの「独自の戦い」を追ったドキュメンタリ-である。第15回開高健ノンフィクション賞(2017年)を受賞した。その一方で「選挙」の洗礼を受けない、いわゆる「無投票当選」も後を絶たない。1月告示の県内2市3町の首長選挙のうち、二戸市と洋野町ではすでに無投票当選が確定。21日には花巻市の上田東一市長も無投票で再選(2期目)された。残りの紫波、岩泉両町も同じ結果になりそうな雲行きである。

 

 13戦全敗―。著者が敬意を表してあえて「無頼系独立候補」と呼ぶ中で、一頭地を抜くのがスマイル党総裁のマック赤坂さん(69)である。彼の街頭演説の光景を著者はこんな風に描写している。「半径5メ-トルほどの誰も立ち入らない空間が自然と広がっていた。スクランブル交差点の信号が変わるたびに、男の前には大きな人波があらゆる角度から押し寄せる。しかし、まるで目に見えない結界が張られているかのように、そこには『誰もいない空間』が存在し続けた」―。いや正確にはピンクのコスチュ-ムをまとい、タンバリンを手に踊るマックさんの姿がそこにあった。「黙殺」する側の目に見えなかっただけの話である。

 

 「石原(慎太郎)都政(当時)に見捨てられた東京都民を救うのは、もう人間では無理だと思った。つまり、人智を超えたス-パ-マンか宇宙人しか都政を救える人はいない。ス-パ-マンが出馬するほど東京はどうしようもない窮状にある。『都民よ、目を覚ませ!』という大真面目なメッセ-ジを込めたんだよ。わかるだろ?」(同書)―。2012年12月の東京都知事選挙に立候補したマックさんはス-パ-マンや宇宙人のコスプレ姿で政見放送に臨み、視聴者を驚かせた。しかし、よくよく読んでみれば、至極まっとうな主張である。つまり、「黙殺」されているのが東京都民の側だという逆転の発想なのである。

 

 マックさんらを主役にしたドキュメンタリ-映画「立候補」(2013年)を手がけた映画監督の藤岡利充さんは書評にこう書いた。「日本には政治というステ-ジがある。私たちはこのステ-ジを眺め、投票で関わる。もちろん、投票せず黙殺するのも自由だ。でも長い人生で、政治に大きく魅せられる瞬間があるかもしれない。そんなとき、投票の他に立候補という自由もあると教えてくれるのが、この一冊だ」(1月7日付「岩手日報」)―。立候補者がいないのだから、当然選挙もない。人材難や現職の強み、供託金の多寡(たか)、有権者の無関心…など「無投票当選」を生み出す土壌はさまざまである。しかし、一方で「投票(選挙)の自由」を奪われた政治状況はそのまま、民主主義の破壊を意味する。

 

 岩手県立大学の田島平伸教授(地方自治論)はこう指摘する。「選挙がなければ首長の政策が伝わらず、政策が正しいのか住民の評価も分からない。住民が直接選挙で首長と議員を選ぶ二元代表制が機能不全に陥りかねない」(1月13日付「岩手日報」)―。同じ紙面で、花巻市東和町在住の77歳の男性(紙面では実名)は同市長選に関して、「無投票は市民が安心して任せるとの証し。選挙費用もかからずいいのでは」と話している。個人の意見に疑義を挟むつもりはない。しかし、「選挙」という民主主義の根幹にかかわる問題を、ただ単に「(選挙)費用」の問題に矮小化する姿勢は許されない。ただこの際、問われるべきはその意見を無批判的に紙面化したメディアの側である。結果として、現職候補に与(くみ)しているということに気が付いているのか、いないのか!?…。これって、メディアの自殺行為ではないのか。

 

 一方、今回の花巻市長選に当たっては14人(定数26人、欠員2人)の市議が上田陣営の選挙対策委員に名を連ねた。うち2人は「(選対)副本部長」の肩書を持つ副議長と議会運営委員長(市の監査委員を兼務)である。「中立的な立場にある」という“理由”で、2人は上田市政下で一度も一般質問に立ったことがない。他の自治体では議長自らが登壇(質問)したケ-スも。中立の“欺瞞”が白日の下にさらされたというわけである。議会側だけではない。昨年12月議会で私は「議会事務局長と行政職トップの総合政策部長が配偶者同士にある。ガバナンス上、問題はないか」とただした。これに対し、上田市長は「適材適所」と切って捨てた。「適材」かもしれない。しかし、双方が互いに監視・牽制し合う立場にあるガバナンス(統治システム=二元代表制)の建前からは明らかに「適所」ではない。

 

 ところで、無投票当選が決して「白紙委任」ではないことは言うまでもない。地方自治法は地方自治体におけるリコ-ル(解職請求)ついて、「通常の選挙による当選の場合は選挙後1年間はリコ-ルができない」(第84条)と規定している。その一方で同条の但し書きには「無投票当選の場合は当選翌日からでもリコ-ルが可能である」という定めもある。無投票当選に伴うリスク防止のための最低限の法規制であろう。「1強多弱」という民主主義の危機が叫ばれて久しい。それを根っこで支えているのが地方自治の腐敗ではないのか。二元代表制はとうに崩壊し、メデイアを巻き込んだ”翼賛”体制(地方議会の与党化)が着々と進んでいる。無投票当選が権力の腐敗につながるケ-スはそう珍しいことではない。その責任は当然のことながら、有権者のひとりである私自身も負わなければならない。質問権がことさらに重要な所以(ゆえん)である。

 

 何となく葬送の趣(おもむき)が感じられる、と私は思った。当たり前のことだが、対立候補がいない「無投票当選」にはあの“お祭り騒ぎ”はない。この日21日、「立候補者」はわずか8時間半後には「当選者」に姿を変えていた。ことのほかに寒い冬空の下を凍えるようにして、葬列は進んで行った。マックさんの絶叫が耳の底にこだました。「おれは変えたいんだよ、この国を」―。

 

 

(写真は掲示板に張り出された、たった一人の立候補者のポスタ-=21日午前、花巻市桜町3丁目で)

 

 

 

《追記》~当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」(1月13日付)と「祝:芥川・直木賞受賞@賢治の“背後霊”!?」(同16日付)に関しての覚え書きー。


 直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』について、花巻市・宮沢賢治記念館の学芸員、牛崎敏哉さんが「内容の史実監修と、主に本文会話の花巻言葉化つまり方言化を担当していた」(1月21日付「岩手日報」)ことを明らかにした。大阪在住の作者にしては、文中の花巻弁が流暢すぎると思っていたが、そのナゾが解けた。でも、こうした手法が厳密な意味での”単著”と言えるのかという疑問も。本書は賢治とその父政次郎との親子関係を描いているが、その生命線は二人や親族との間で交わされる方言による対話。フィクションとはいえ、心臓部ともいえるその部分が第三者の手にゆだねられていたのだとしたら、読む側の読解姿勢も変わらざるを得ない。

 

 私見を述べれば、その文学性を高めるためには逆に、構成にかかる”舞台裏”(種明かし)は極力、封印するのが小説の作法ではないかと思う。今回、その細部が公にされたことで、私自身の想像力も足踏みを余儀なくされたというのが正直な気持ちである、自身が関わった作品が、権威ある文学賞を受賞したという感激は十分に理解するにしても…。最低限、監修者の名前を付記するのがフェアではなかったか。むしろ、私などは翻訳前のダイアローグ(対話)に興味を惹かれてしまったというのが本音である。一方、芥川賞の『おらおらでひとりいぐも』はまさに作者の血肉と化した母語(遠野弁)の発語である。翻訳された方言と母語としての方言…。その力の差を見せつけられた今回の受賞劇だった。

 


 

 

 

 

 

 

 

2018.01.21:masuko:コメント(0):[議会報告]

祝:芥川・直木賞受賞@賢治の”背後霊“!?

  • 祝:芥川・直木賞受賞@賢治の”背後霊“!?

 ポンと背中を叩かれ、振り向くと賢治がニッコリ微笑んでいた。「ちょっと、おめさん。オレのごど、忘れでねすか」…。宮沢賢治という人はひょっとして、“背後霊”ではないか―と思うことがある。16日に行われた第158回芥川・直木賞の選考会で、遠野出身で千葉県在住の若竹千佐子さん(63)のデビュ―作『おらおらでひとりいぐも』が芥川賞に、群馬県出身で大阪在住の作家、門井慶喜さん(46)の『銀河鉄道の父』が直木賞に選ばれた。前者には“賢治”が通奏低音のように出没し、後者はずばり父親、政次郎の目を通して見た「賢治像」を描いた作品である。というわけで、もうひとりの受賞者は”背後霊”としての賢治なのかも…。いずれ、昨年の第157回芥川賞を受賞した、盛岡在住の沼田真佑さんの『影裏(えいり)』に続く快挙である。

 

 「おらどの心にもあるプレ-トの東北弁はその最古層、言ってみれば手つかずの秘境に、原初の風景としてイメ-ジのように漂っているのでがす」(本文より)―。若竹本のタイトルは賢治の詩「永訣の朝」にちなんでいる。本書の主人公である「桃子さん」(74)はまもなく死に行く運命にある賢治の最愛の妹、トシの死をもう一度、生き直そうとでもするかのように自由奔放である。その背中に異界(『遠野物語』)の曙光(しょこう)が差し込んでいる。「おらだば、おめだ。おめだば、おらだ」―。つまり、人間存在にはしょせん「自他の境界」はない。死者も生者もない。最古層の東北弁を分け入った先に開けた風景はまさに「イ-ハト-ブ」、そう、そこが賢治が思い描いた”ドリームランド”だったとしたら!?…。実際、文中には賢治童話の『虔十公園林』の一節も差し挟まれている。

 

 「賢治のパトスがあちこちに埋められている」として、花巻出身の若手文芸評論家、佐藤康智さん(39)はこう書いている。土地の言葉を知る者ならではの感性が伝わってくる。「脳内の声々の、テンポの良いやりとりや、リズミカルな擬音も、賢治っぽい。声々が好き好きに語りかけてくる状況は『セロ弾きのゴ-シュ』を髣髴(ほうふつ)とさせる。桃子さんの老いや脳内の混沌を、のほほんと見つめるような、語り手の気張らない感じも賢治の童話さながらだ」(『群像』2018年2月号)。さらに、敬愛する作家の佐伯一麦さんもこう記す。「おもしぇがったな。読み終わったとき、脳内で呟(つぶや)く声があった」(1月14日付「朝日新聞」―。「脳内」なんていう言葉を聞くと、私などはとたんに腰が引けてしまう。「これって、賢治教じゃないか」と―。そういえば、かつて“脳内革命”などというイヤな言葉が徘徊していたっけなあ。

 

 賢治作品の時代性について、思想家の吉本隆明(故人)はかつてこう指摘した。「時局の匂いがなかった。反戦的だったからではなく、好戦的な現実意識と矛盾しないという意味で…」。また、歴史家の色川大吉さんは「(賢治の作品は)反戦思想にならないけれども、非戦思想の拠り所ではあったと思う」と書いている。賢治より13歳年上で、まさに「時局」とがっぷり相まみえた詩人にして彫刻家に高村光太郎(故人)がいる。太平洋・アジア戦争の火ぶたが切られた真珠湾攻撃の「開戦日」に光太郎はある詩をしたためた。圧倒されるほどの戦意高揚ぶりである。

 

 「記憶せよ、12月8日/この日世界の歴史改まる/アングロサクソンの主権/この日東亜の陸と海とに否定さる/否定するものは彼らのジャパン/眇(びょう)たる東海の国にして/また神の国たる日本なり…」―。この日から約3年半後の1945(昭和20)年5月、光太郎は宮沢家を頼って、花巻に疎開した。戦争協力を「自省」する独居自炊の生活は約7年間に及んだ。これだけの時間が必要だったのである。ところで、一方の賢治はどうだったのか。その「短命」が辛うじて、「時局」との正面衝突を回避したのではないか―という見方については、13日付当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」で言及した。つまり、賢治作品が時局にまみれることのない、ある種の「無垢(むく)性」を維持できたのも、結局は運命のなせる業(わざ)…“滑りこみセ-フ”ではなかったのか。

 

 花巻郊外に賢治の「雨ニモマケズ」詩碑が建っている。揮ごうの主は光太郎である。一敗地にまみれた光太郎が「賢治」の庇護者のように振る舞う、そんな光景が目に浮かんでくる。『教科書でおぼえた名詩』(文春文庫)にはこの二人が劈(へき)頭を飾るように並んでいる。賢治の庇護者たる光太郎は「道程」ら5編、被庇護者たる賢治は「雨ニモマケズ」ら4編…。おのれの文学の普遍性にとうに気が付いていたのは賢治自身かもしれない。だから時々、”背後霊“となって現われ、そっとささやく。「オレのごど、忘れねでけれや」。そうこうしているうちに「聖なる文学」としての地歩を築いたのではないのか。「汚れていないのはオレだけだ」と―。

 

 「唐突ですが、わたしはもう、未来の子どもたちのために何をなすべきか、それだけを、ただ賢治さんのように考えればいいのだと感じています。子どもの心が映るように、鏡を磨きたい、などと時代錯誤に思わずにいられません」(1月13日付「朝日新聞」)―。民俗学者の赤坂憲雄さんは音楽家でエッセイストの寺尾紗穂さんとの往復書簡の中で、こう述べている。こういう形での賢治の「受容」が定着しつつあるということかもしれない。これが「賢治教」(聖者伝説)に止揚(アウフヘ-ベン)しないことだけを願いたい。と思っていた矢先の門井本の受賞である。

 

 門井さんの受賞作について、聖者伝説の観点から警鐘を鳴らしたある感想文を見つけた。「読了まで時間がかかった。何回も遡(さかのぼ)る時系列と宮沢賢治や妹トシが主体かのような書きっぷりだったからか。個人的にはトシにもっと焦点を当てて欲しかった。タイトルにしては古き因習(商売人や女性には学問不要)に縛られながらも中途半端に子供に甘い父親だったな。2018年上期直木賞候補になること自体が信じられない出来だと思った」(インタ-ネット上から)―。

 

 『銀河鉄道の父』には「天才の父は大変だ!」というキャッチコピ-が張られている。門井さんは受賞作について、「誰もが知る賢治を扱うのは『固定観念との闘い』だった。世間の“聖人伝説”に『通俗的な人間だ』と異議申し立てをした」(1月17日付「岩手日報」)と語っている。「神童」は生まれながらにして神童である。これに対し、「天才」はその通俗性が強調されればされるほど、逆に「聖人性」を際立たせるという逆説もあわせ持つ。「やっぱり賢治さんって、てい(たい)したもんだなはん」―などと。私が「(門井本が)賢治に一杯食わされた」と思う所以(ゆえん)である。そういう意味で、今回の受賞は賢治の意に反した、いやもしかすると、予期した通りの”勝利宣言”だったと言えるかもしれない。

 

(写真は光太郎が揮ごうした「雨ニモマケズ」詩碑=花巻市桜町4丁目で)

 

 

2018.01.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

神出鬼没の賢治と「岩手発」文学の躍動

  • 神出鬼没の賢治と「岩手発」文学の躍動

 昨年の第157回芥川賞に盛岡在住の沼田真佑さんの『影裏(えいり)』が選ばれたのに続き、今月16日に選考会が開かれる第158回の同賞候補作(5作)に岩手ゆかりの2人がノミネ-トされるなど「岩手発」文学の躍動が著しい。遠野出身で千葉県在住の若竹千佐子さん(63)の『おらおらでひとりいぐも』(2017年11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」参照)と、盛岡に実家がある木村紅美(くみ)さん(42)の『雪子さんの足音』の2作。さらに、門井慶喜さん(46)の『銀河鉄道の父』も直木賞候補にのぼっている。そんな中で目を引くのが、我が「イ-ハト-ブはなまき」が生んだ”偉人“、宮沢賢治の神出鬼没ぶりである。「出たぞぉ~」。まるで、お化けみたい…。

 

 たとえば、若竹さんの本のタイトルは賢治の詩「永訣(えいけつ)の朝」からの援用であるし、木村さんにはずばり、『イギリス海岸 イ-ハト-ヴ短篇集』(2008年)という作品がある。また、門井さんの候補作は賢治の父親、政治郎の視点から描いた「賢治像」である。そのほか、生誕100年を迎えた絵本作家、いわさきちひろの伝記『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』(松本猛著)には、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)という賢治の言葉が思想の原点になったことが詳述されている。

 

 しかし何といっても、意表を突くのは作家活動だけでなく、舞台演出家としても知られる古川日出男さん(51)の『おおきな森』(「群像」2018年1月号)である。正式なタイトルは「木」をピラミット型に6個重ねた、作字不能な文字。連載初回で優に単行本一冊分(400字詰300枚)という分量に加え、そのスケ-ルの大きさに当方の想像力はとてもついていけない。完結を待たなければ、この宇宙規模の小説の帰趨(きすう)はようとしてとして知ることさえできない。それはさておき、この小説の中にも我が賢治が突然、出没するのである。同伴者は『堕落論』で知られる坂口安吾(1906-1955年)である。

 

 賢治の詩に「丁丁丁丁丁」(『疾中』所収)という字が何か所にもちりばめられた謎めいた作品がある。安吾がこの詩と格闘する様子を古川さんはこう描写している。「なんと直線的で、鋭角的であることか。なんと殺…殺人的であることか。釘の旁(つくり)か?はたまた釘を、ある一点に打ち込んでいるのか?ハンマ-をもって?甚だしい、甚だしいなあ、と繰り返した。そして詩の全篇を読み解こうとした。咀嚼(そしゃく)せんとした。ぜんぜん鑑賞というという次元ではなかった。まるごと感受するのだった。まず、ここには苦悶がある。このことを安吾は断じた。熱がある。ひどい発熱のせいだ、無惨な疾病の、そこに賢治は…宮沢賢治は溺れている」―。安吾に憑依(ひょうい)した賢治が目の前にいる。いや、逆か…。

 

 無頼を気取る安吾は元々、賢治に首ったけだった。たとえば、文芸評論家の小林秀雄を批判した『教祖の文学』には賢治の詩「眼にて云ふ」を引用して、こう書いている。「私は然(しか)し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や(源)実朝の歌や徒然草が何者なのか。三流品だ。私はちっとも面白くない。私も一つ見本をださう。これはたヾ素朴きはまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ」(1947年)

 

 「賢治がもう少し、余命を永らえていたら…」という問いかけは、賢治研究者の間ではある種、禁句(タブ-)の感がある。賢治は1933(昭和8)年9月21日、37歳の短い生涯を閉じたが、その1年半前に「満州国」建国が宣言されている。読み進むうちに、もうひとりの人物が姿を現した。同じ東北は山形・鶴岡出身の軍人(陸軍中将)、石原莞爾(いしはら かんじ=1889~1949年)である。満州事変の発端となった柳条湖(りゅうじょうこ)事件にかかわり、満州国建国の立役者とされた。日本の敗戦で、この国は夢幻(ゆめまぼろし)と消えた。一方、賢治が「ドリ-ムランドとしての日本岩手県である」(『注文の多い料理店』広告チラシ)と位置づけた「イ-ハト-ブ」はその後、どこへ行ったのか―。

 

 

 石原と賢治は一時期、過激な日蓮主義(法華経)を奉じる在家仏教集団「国柱会」(こくちゅうかい)に身を置いたことがある。僧侶の田中智学によって創設され、世界統一を目指す「八紘一宇」(はっこういちう)をスロ-ガンが掲げた。「世界最終戦論」を提唱した石原の原点になった思想である。ところで、賢治のドリ-ムランド(イ-ハト-ブ)の建国は果たして、成ったのか―。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と賢治は言った。古川さんに言わせれば、「世界がぜんたい幸福」=「絶対平和状態」こそが最終目的となる。しかし、賢治の死後数年を経て、日中戦争が勃発し、太平洋戦争に拡大したことは歴史の示すとおりである。そして、いま現在も世界は「戦争」の瀬戸際に立たされている。だから、古川さんは口ごもりつつ、ブツブツとこう書くのである。

 

 「…だからいまは、そこに至るまでは……、とも語られぬ言葉(――……――)をともなって読める。読もうと思えば、読めてしまう。石原莞爾ならば、そう読む。そう読み解いて、柳条湖事件を起こした」―。不気味な暗示である。「イ-ハト-ブ」建国が未完であるだけではなく、ひょっとすれば、石原が夢見たあの「偽満」(旧満州国=中国語で、ウエイマン)への道を、賢治が辿ったとでもいうのであろうか。「語られぬ言葉」を、作者は「どう語ろうとしているのか」―。

 

 賢治自身、「それ(イ-ハト-ブ)はまことにあやしくも楽しい国土である」(チラシ)と書いている。そう、満州国はかつて「王道『楽土』」と呼ばれた。何やら、意味深な響きはしないか。今後、この物語がどんな展開を見せるのか、目が離せない。そういえば、「五族協和」を掲げた満洲建国大学に学んだ記録作家の上野英信は生前、こう語っていた。「日本や中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生たち(五族)が好んで歌ったのは賢治の『精神歌』だった」。「日ハ君臨シ/カガヤキハ/白金ノアメ/ソソギタリ…」―。賢治が農学校の生徒のために作詞した、この「(花巻農学校)精神歌」はいまでも賢治関連行事では必ず、歌われている。

 

 最後に門井本にひと言―。愚作である。あこぎな商売の家業(質屋)に反抗したはずの賢治の葛藤や親子間の宗教的な対立には余り踏み込まずに、天才少年への賛歌を一族でうたい上げた「宮沢家(まき)」の愛の物語。結局は賢治に一杯食わされたというお粗末の一席ー。

 

(写真は文壇に新風を巻き起こす「岩手発」文学の数々)

 

 

《追記》

 宮沢賢治と石原莞爾の関係性に踏み込んだ著作としては『宮沢賢治殺人事件』(吉田司著、1997年)、『イ-ハト-ブと満洲国―宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷』(宮下隆二著、2007年)などがある。前者は「かりに賢治が短命でなかったら、石原らとともに満州国幻想に陥っていたのではないか」と指摘。後者は「日蓮に源流を発する同じ理想の、別の表れ。賢治が心のユ-トピアを目指したのに対し、石原は現実のユ-トピアを実現しようとした」と分析している。

 

 

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