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いつか来た道―「5・15」から「4・16」へ

  • いつか来た道―「5・15」から「4・16」へ

 

 「おまえは国民の敵だ」―。国会前の公道で国会議員に向かって、暴言を浴びせた幹部自衛官がいた。4月19日付「東京新聞」は「際立って世の中の変わりだしたのは、霞が関三年坂のお屋敷で白昼に人が殺されたあたりからだろう」という作家、永井荷風の文章を紹介し、こう続けている。「意に沿わぬ政治家への脅し、圧力と言わざるを得ない。イラク日報問題などでの自衛隊批判への不満だろうか。しかし、国民が選んだ国会議員への罵声はそのまま国民への罵声である。その行為によって、どちらが、『国民の敵』になってしまうかにどうして気がつかなかったか」―。三年坂の殺人とは1932(昭和7)年、犬養毅首相が首相官邸で青年将校に暗殺された「5・15事件」である。

 

 「父さんは益々丈夫で御奉公して居りますから安心してください。よく母さんの言う事を聞いて、父さんに負けない立派な兵隊さんになるように勉強しなさい。畑のトマトや『ささげ』等はよくなりましたか。鶏はどうなりました」―。私の手元に黄褐色に変色した軍事郵便の束がある。先の大戦に応召された父親はソ連軍の捕虜となり、シベリアの捕虜収容所で死んだ。37歳の短い人生だった。出征先の奉天(旧満州)から両親や妻、3人の子どもたちなどへ宛てた手紙は60通以上にのぼる。「検閲済」の判子が押された文章の行間からは留守宅の生活を気遣う気持ちが伝わってくる。ご奉公を尽くした末の末路は「栄養失調死」だった。

 

 軍人・軍属の戦没者数230万人中、60%以上の140万人が栄養失調による餓死か、栄養失調に伴う病死だというデ-タがある。「兵士の死」を分析した一橋大大学院の吉田裕教授(日本近現代軍事史)は近著『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』の中でこう記述している。「栄養失調の問題で重要なのは、戦争神経症とも関連する戦争栄養失調症である。…極度の痩(や)せ、食欲不振、貧血、慢性下痢などを主症とする患者が多発した。治療はきわめて困難で死亡するケ-スが多かった」―。さらに、当時の戦時資料は死に至るさまをこう記している。「ついに体はミイラ状となり、『生ける屍』(しかばね)の如くなる。ついには燃えつきるロウソクの『火が消ゆるが如く鬼籍に入る』」(同書)

 

 父親は1945年12月16日、ソ連軍の病院に収容された。2年前、厚生労働省を通じてロシア側から提供されたカルテにはこう書かれている。「全般的なだるさ、食欲不振、脚の痛み、咳、衰弱を訴える。全体的な容体は悪くない。ビタミンBとC、貧血防止用のヘマトゲン(血液製鉄剤)を投与。診断名は第Ⅰ度栄養失調症並びに気管支炎」―。そして、2週間後の12月30日午前7時、「心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名は第Ⅲ度栄養失調症」(カルテより)。まさにロウソクの火が消え入るような静謐(せいひつ)な死だった。

 

 「父さんは『名誉の戦死』ではなく、戦病死だったからねぇ…」―。母親は26年前、83歳で旅立つまで、こう言い続けた。太平洋戦争が敗色濃厚になっていた前年の昭和19年夏、父親は旧満州(中国東北部)へ応召され、約1年後に日本は敗戦を迎えた。だから、敗戦のわずか4カ月後に死亡したことになる。炭鉱という過酷な捕虜生活と貧しい食料事情…が追い打ちをかけたとはいえ、それに先立つ軍隊生活が父親の体を徐々に蝕(むしば)んでいた。精神科医の野田正彰さんは戦争栄養失調症について、こう指摘している。「実は、兵士は拒食症になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた」(『戦争と罪責』)

 

 一生、「戦病死」を悔いながら逝(い)った母親を私は不憫(ふびん)に思う。決して、国民の「敵」ではなかったはずの父親をシベリアの凍土に失った、これが230万人分の1の庶民の戦後史の一断面である。「(今回の自衛官暴言の)『4・16事件』。後になってあれが時代の変わり目だったと考え込んでみても遅い」と東京新聞のコラムは結んでいる。「5・15事件」の際、青年将校らによって撒(ま)かれたアジビラにも「国民の敵」という文字が躍(おど)っていた。いまでも時折、新聞の片隅にシベリア抑留者の死亡者名簿が掲載される。あの戦争はまだ、終わっていない。そんな中、”未決”の戦後をあざ笑うかのようにネット上では不気味な言葉が復活しつつある。国賊、非国民、売国奴……

 

 

(写真は戦地から届いた父親からの軍事郵便)
 



 

2018.04.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]

明治150年―「維新」と「戊辰」のショ-タイム

  • 明治150年―「維新」と「戊辰」のショ-タイム

 

 本来なら、寿(ことほ)ぐべきはずの「明治(維新)150年」なのだろうが、最近の「安倍一強」長州政権(官軍)は尾羽うち枯らす凋落ぶりである。片やわが「賊軍」の地に生を受けた若き英雄の活躍は目をみはるばかり。言わずと知れた大谷翔平の「二刀流」デビュ-である。こんな目まぐるしい日替わりシ-ンを見せつけられているうちに、これって逆説の「戊辰戦争」じゃないのかという妄想に取りつかれてしまった。一体、どうしたことか。米大リ-グでも大暴れした「ハマの大魔神」こと、元プロ野球選手の佐々木主浩さんの雄姿をふと、思い出したからである。

 

 戊辰(ぼしん)戦争に先立つことはるか大昔、東北・みちのくは敗者の第一歩をその地にしるすことになった。大和朝廷による「蝦夷(えぞ)征伐」である。その間、30年間に及ぶ抵抗戦争で一躍、勇名をはせたのが「アテルイ」である。宗教哲学者の中路正恒さんが“現代のアテルイ”に抜擢したのが、ハマの大魔神だった。中路さんは自著にこう書いている。「わたしは東北出身者の中からアテルイのモデルになるような人を探していた。そしてあるとき、当時プロ野球横浜ベイスタ-ズにいた佐々木主浩投手に思いいたった。佐々木投手も東北の出身(注;仙台)のはずだ。わたしは当時、『ハマの大魔神』の活躍に大いに歓喜していたのだった。わたしは、佐々木投手の今日の活躍に、アテルイのほんとうの姿を見る思いがする」(『古代東北と王権』)

 

 手放しの持ち上げようである。中路流に解釈すれば、アテルイ2世―佐々木投手の後継者が大谷二刀流ということになる。いや、アテルイが死闘を繰り広げた「胆沢の地」(現奥州市)の出身であることを考えると、大谷翔平こそがアテルイの“直系”と言えなくもない。「森友・加計」問題をめぐる公文書改ざん、“首相案件”なる怪しげな文書の出現、「なかった」はずの南ス-ダンやイラクの自衛隊日報の存在…。泣き面に蜂の相手方をあざ笑うかのように、わが「アテルイ3世」は打っては開幕からホ-ムラン3連発、投げては快刀乱麻の2連勝である。官軍(安倍城)の落城、いまや遅しと思いながら、翔平の”ショータイム”に留飲を下げる日々…。こんな光景が「維新」と「戊辰」を逆転させてしまったのか!?

 

 ふいに「ルサンチマン」という言葉が頭に浮かんだ。ウキペディアによると「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情の総量を指すらしい。蝦夷征伐から明治維新、そして現在に至るまでの、官軍に対するルサンチマンの圧倒量に我ながら驚いてしまう。その一方で、戊辰戦争で「奥羽越列藩同盟」を敗走させた「西郷どん」(NHK大河ドラマ)の人気はこのみちのくの地でも高まっているらしい。征韓論に敗れて下野した「セゴドン(西郷隆盛)」に対し、海の向こうから「テポドン」(北朝鮮が開発した弾道ミサイル)が発射されるのではないかと心配したが、現下の融和ム-ドの中でひとまず、この危機は脱したようである。

 

 薩長軍の指揮官だった西郷どんはその後の「西南の役」(西南戦争)で、新政府軍に盾突いた結果、賊軍に貶(おとし)められた。「官軍から賊軍」へ…この一本気が人気の秘密なのかもしれないが、ルサンチマンの背後からは「判官びいき」という鵺(ぬえ)みたいな言葉も頭をもたげる。「憎っくき西郷どんを許してしまう」―この心性こそが敗北の歴史を重ねてきた東北人の悲しい性(さが)であり、優しさだと思うことにしよう。「賊軍の子孫」を自認する俳優の菅原文太さん(故人)と作家の半藤一利さんが対談集『仁義なき幕末維新』の中で、歯に衣(きぬ)着せない「維新批判」(薩長史観)を展開している。

 

 佐々木投手と同じ仙台出身の文太さんがぼそっと、こんなことを言う。「あれほど薩摩と長州を嫌っていたのに、日露戦争でも何でも、戦地に送られた日本兵は文句も言わずに死んでいきましたよね。東北の部隊なんて大勢戦死してますよ。薩長史観でもって賊軍のレッテルを貼られながら生き延びた人たちでも、口をつぐんで恨みごとは一切言わないです。何も維新に限った話ではなく、その後もずっと今にいたるまで、上司やボスに利用されて棄てられても恨みごとは言わない」(同上書)。そういえば、文書改ざんをめぐる証人喚問で、体を張って「お上」を守った前国税庁長官もみちのくは福島の出だったなあ。あ~ぁ、いまなお続く”人身御供”(ひとみごくう)。「会津っぽ」は今いずこに―。

 

 「弾丸(たま)はまだ、残っとるがよう」―。ふと、あの名セリフが口元に浮かんだ東映の仁侠映画「仁義なき戦い」の中で、文太さんが放った決めゼリフである。アテルイ3世よ、遠慮は無用ぜよ。何発でもぶち込んでくれんかのう。安倍城が陥落するまで………。かたわらのテレビは財務省トップの”セクハラ”疑惑でてんやわんやである。と思っていたら、この人も辞任。一抜けた、二抜けた…この国の底抜けた!?

 

 

(写真は「戊辰戦争」の戦闘場面=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

2018.04.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「わら細工」の記憶

  • 「わら細工」の記憶

 

 「最近、随分といら立っているなぁ」と我ながら思う。何にか!?「ソンタク」とやらが闊歩(かっぽ)する世情に対してということはわかる。でも、「世の中って、こんなもんさ」とスマホやSNSなどに熱中する光景を目の当たりにすると、イライラはついそっちに向かってしまう。と一方で、「もう年なんだからさ。怒りの矛先を収めてさぁ…」ともうひとりの自分が耳元でささやいているのに気がつく。今度はそんな分身の体たらくにイラっとしてしまう。あ~ぁとため息をついていたそんな折…。『わら細工とその周辺』というタイトルをつけた冊子が送られてきた。筆者は高校、大学と一緒の阿部茂巳さん(79)。県内の高校で社会科を教えるかたわら、30年間の日曜百姓の集大成がこれである。

 

 足半(あしなか)、草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、爪子(つまご)、嬰児籠(えじこ)…。自家製のわら細工の数々が写真に収められている。「記憶の源泉」―何か大切な落とし物を見つけたような、そんな気持ち…。あれは、小学校に上がって最初の学芸会の時だったか。いきさつは忘れたが、仮装行列で物乞い、つまり「乞食」に扮することに。「ホイト(いまでは明らかな差別語だが、あの時、祖母は確かにそう言った)は草鞋をはいていたはずじゃった」とどこからか擦り切れたのを調達してきた。頭陀袋(ずだぶくろ)をぶら下げた童顔の乞食が来賓席に侵入するや、大人たちはキャ-ッと叫んで後ずさりしたっけ。「上出来じゃったぞ」と祖母…。こんな光景が湧き出る泉のように目の前に広がった。

 

 「農夫の息子よ/あなたがそれを望まないなら/先祖伝来の藁(わら)仕事なんか/けとばすがいい…」(「最上川岸」)―。因習の打破と個人の尊厳をうたい上げた、茨木のり子の詩を冒頭に掲げ、阿部さんは「50年前なら共感できたが…」と困惑の体(てい)である。「わらはコメの親」と言われる。逆もまた真なりだが、後継者不足や大型機械化の影響をもろに受け、“親子”ともども風前の瀬戸際に立たされている。「わら文化」の復権を願って、黙々とわら打ちをしていた父親に弟子入りした。花巻市と合併する前の旧東和町で百姓一本で生きてきた「テドシャ」(手達者=てだっしゃ)として知られた。とくに、嬰児籠づくりが得意だった。がんで余命半年を告げられた時、あわててビデオ一式を担ぎ、父親の指先に目を凝らした。

 

 「わら細工師」の免許皆伝に至るまでのイバラの道は本書に譲るとし、足半から草履・草鞋へと進化する履(は)き物の歴史に興味が惹かれた。足半は元々、川で鵜飼(うか)いをする際の滑り止めだった。その後、全国に普及したが、鼻緒の結び目が牛の角に似ていることから、岩手・宮古地方では「ベゴジョーリ」とも呼ばれた。足の半分しかないので、踵(かかと)に土がついてしまう。この欠点を補ったのが草履で、長旅に耐えるように踵を固定したのが草鞋である。こんな阿部説に引き込まれるようにして、遠い記憶が輪郭を描き出していった。

 

 15の春は今から63年前。いまの少子化とはまるで逆で、1クラス50人以上のクラスが全部で八つの大所帯だった。卒業アルバムの足元を注視してみると、ほぼ全員が下駄ばきである。丸眼鏡の私は高下駄をはいてすましている。そういえば、鼻緒が切れた時は蕗(ふき)の皮で応急処置をしたっけ。校内のクラブ活動のスナップ写真では短靴に交じって、半分ぐらいが草履をはいていた。ブラスバンド部でトランペットを吹いていた「タカオ」君は太い鼻緒の草履をつっかけて練習に余念がない。下駄を鳴らしながら登校し、校舎にはペタペタと草履のリズミカルな音がこだました。わが同期のわら細工師は期せずして、こんな時代の息づかいを思い出させてくれた。いま、下駄ばき姿は祭で山車を引く稚児行列に見る程度である。

 

 「母は嬰児籠の赤子の上に身を伏せて、念仏を称(とな)えていたが、やがて婚家の母のきんがまっ青になり、息も絶え絶えに駆けつけたのでやっと人心地がついたのだという」(『兄のトランク』)―.宮沢賢治が生まれた5日後の明治29(1896)年8月31日、岩手・秋田県境を震源とする「陸羽大地震」が発生、犠牲者は209人に及んだ。その時の様子を弟の清六さん(故人)は冒頭のように記している。その約2ケ月前には明治三陸大津波が発生している。

 

 阿部さんは最後の習作を父親の遺作となった「嬰児籠」に決めていた。里方で生まれた赤ちゃんが帰る時、迎えてきた婿どんにお祝いとして持たせるのが習わしだった。わら細工師たちの腕の見せどころだった。そんな実体験がこう言わせる。「母イチは実家に帰って賢治を生み、産湯をくんだ井戸が現存している。生まれたとはいえ、5日目はまだ母子が一体のようにして布団に寝ているものだろう。…母子で布団に寝ているところへの大地震で、母はとっさに赤子の身を守るため、枕元に置いてあった嬰児籠に入れ、おおいかぶさった。これが実相だろう」。清六さんが聞きまちがえたのかどうか…。いずれ、わら細工師としての説明の方がはるかに合理的である。

 

 「米俵」や「炭俵」が死語になって親しい。「俵(たわら)編みは稲づくりの総仕上げ」と師匠は口癖のように言ったという。「コメはわらの子」…「コメの良しあしは俵の原料や編み方の善悪で決まる。原料のわらを吟味して俵編みをする百姓は当然、良質の稲(コメ)づくりを心がける」―。“農の心”が伝わってきた。わら一本にこんなに豊かな文化の源(みなもと)があったとは…!?あっ,そうだ。嬰児籠と言っても若い人にとってはチンプンカンプンだろう。私の周辺では「エンツコ」と呼ばれ、農繁期など人手が足りない時に使われた。これで育ったことはないが、入って遊んだことはある。ちょっとチクチクしたが、ほんわかと温もりが伝わってきたのをかすかに覚えている。

 

●申し込みは盛岡市高松4-12-43、「わら工房」(阿部さん方)。電話;019-661-6380。定価千円(税込み)

 

 

(写真は阿部さんが創作したわら細工の数々。写真左ページは上から足半、草履、草鞋。『わら細工とその周辺』から)

2018.04.12:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「むかしむかし」から『ミライミライ』へ―「挑発的な思考実験}

  • 「むかしむかし」から『ミライミライ』へ―「挑発的な思考実験}

 

 「むかしむかし、詩人たちは銃殺された」―。作家、古川日出男さんの最新作『ミライミライ』はこんな衝撃的な書き出しで始まる。時は1972年2月上旬、場所は札幌市内を流れる豊平川河畔。処刑されたのは「北海道の日本人」でその数は全部で32人。一方、刑を執行する側はソ連兵で、罪状は「アイヌ文化の搾取や掠奪(りゃくだつ)」などとなっている。「あったかもしれないもうひとつの歴史」―。第二次世界大戦後、敗戦国である日本はアメリカとソ連に分割統治され、ソ連に統治される北海道では旧日本軍の兵士らが抗ソ連のゲリラ戦を展開していた。さて、本書では被処刑者も処刑者も「アイヌ」に対しては植民者と措定(そてい)されているようである。だとしたら、何故!?

 

 古川作品のスケールは途方もない。だから、想像力の射程を能(あた)う限り広げ、合わせてそれ相応の胆力(たんりょく)も準備しなければならない。「ソ連、北海道を占領」(1945年)、「抗ソ武装組織、網走刑務所を強襲」(1950年)、「印日連邦(インディアニッポン)誕生」(1952年)、「ヒップポップグル-プ『最新“』(サイジン)結成」(200X年)、「日本州への核武装要求」(2016年)…。冷戦下で主権を回復した日本はインドとの間で連邦国家を形成する。本土復帰後もロシアの基地が残った、その北海道の地で産声を上げた4人の若者による「最新”」。新しいリズムの「ニップノップ」が生まれ、それが世界を席巻(せっけん)する。日本列島縦断公演の途中、世界中に名声をはせるMC(司会&ラッパー)が盛岡で誘拐(ゆうかい)されるが、公演は続行される。

 

 「小説は本当に読まれなくなってきている。読むのに体力が要るから。それでも生き残っている強者(つわもの)の読者向けに、その強者が唸って卒倒するような本を書けるようでなければ…」(新潮社『波』)―。作者は本作の執筆に当たって、こんな挑発をしている。「むかし―いま―みらい」…。まさに卒倒しかねないほどの目まぐるしい展開である。その一方で、冒頭の不気味な一節が頭にまとわりついて離れない。文中にはアイヌ語に由来する地名があちこちに散りばめられ、そもそもヒット曲「ニップノップ」もいかにもアイヌ風ではないか。以下のような会話が交わされる部分がある。

 

 「北海道がなかった。そこにアイヌがいた。それから、北海道が現われて、そこに和人(わじん)が入植した。和人っていうのは、日本人だ。入植っていうのは、侵出だ。さて、こういうのは、ソ連と何が違うのか?お父ちゃんが考えるにな、これはつまり、ソ連と同じだ」―。「最新“」に危急が迫る時に決まって、現われるのはヒグマと化した”熊人間”である。アイヌ民族にとって、羆(ひぐま)は最高神(キムンカムイ)に位置づけられる。だから、銃殺刑に処せられた罪状には、「たとえば羆の霊を歌うにせよ、それをアイヌ人の熊送り(イヨマンテ)の儀式を下敷きにして語る」(本書)―という詩作の手法も「搾取や掠奪」とみなされるのである。

 

 「日本州に核を配備しろ。日本州は核武装しろ。それを私は要求する」―。最終公演地の沖縄・那覇で「最新“」は誘拐されているMCからのメッセ-ジを受け取る。「人質解放か、核武装化か」―。行政トップが苦渋の表情で語る場面がある。「本土復帰の前にはね、核が、あったからねえ。あったんだ。アメリカの基地の敷地内にあった。嘉手納(かでな)の空軍基地に、それから辺野古(へのこ)。あと、この那覇にも、核兵器は貯蔵されてましたからねえ。それが、日本州に核ミサイル配備、となると、沖縄には再配備になる。なんのための復帰だったかねえ。翻弄(ほんろう)されてばかりだねえ」

 

 「最新“」は決死の覚悟で人質になっているMCの救出作戦を練り上げる。「核武装を阻止するために」…とここまで読み解くのが精一杯だった。古川さんは「沖縄を見るということになったときにもう、鏡の中で反転された像みたいに北海道が見えてきた」(『波』)と書いている。作者は「もうひとつの歴史」―つまり「ソ連占領」という”偽史“を描くことによって、「北」と「南」の、言葉の真の意味での「正史」(植民地化史とその抵抗史)をよみがえらせようと目論んだのではないのか。作家で読みの達人でもある佐藤優さんが総合文芸雑誌『新潮』(5月号)で、古川さんの「ミライミライ」論を展開している。さっそく、注文した。私の浅読みの部分はこの論作で補ってもらうことにする。

 

 最近、北と南を行ったり来たりする自分にふと、気が付くことがある。”みちのく”(東北=蝦夷)と呼ばれた、かつてのプレ植民地ー「化外(けがい)の地」(王化の及ばない地)に生を受けた末裔の宿命なのかもしれない。両眼にヒグマとジュゴンが群れ遊ぶ姿が浮かんでは消える。

 

 

(写真は古川さんの最新作『ミライミライ』の表紙。未来を見つめる少女の視線が深い=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~「挑発的な思考実験」

 

 「優れたテキストは複数の解釈を可能にする。それだから、この小説を書評することはとても難しい。切り口によって、まったく異なる姿が浮かび上がってくるからだ。パラレルワ-ルド(並行世界)を描いた作品と読むこともできるし、地政学を加味した国際インテリジェンス小説と解釈することもできる。音楽小説でもある」(『新潮』5月号)―。本日(4月9日)届いた文芸誌の中で、作家の佐藤優さんは「挑発的な思考実験」のタイトルでこう書いていた。そのうえで、「最新”」のヒット曲「ニップノップ」の思想の土着性に着目、その多様性に未来を展望している。

 

 本書のテ-マでもある「核」について、作者の古川さんはある対談でこう述べている。「個人的には、沖縄で米軍ヘリが落ちたことより、核開発をしている国が発射したミサイルが上空を通過したことの方が大騒ぎになるのは不思議な気がします。通過しただけで落ちていないわけですからね。その意味では、核は人間が持っている恐怖心やネガティブな感情を映し出す鏡だといえます。今の世界で最も巨大な問題だからこそ、そこに映し出される妄想の量たるやすさまじいものがある。できることは冷静に考えることしかありません。誰かが考えた『悪いシミュレ-ション』に合わせて現実は動きます。それに対抗できうるのは『良きシミュレ-ション』だけで、そこには小説の可能性がある」ー。そして、こうした心理状態を作品の中で「パラノイア」(偏執症)と位置付けている。

 

 「(古川さんの)直感と感情を、仮想の歴史の中で展開した観念小説として読んでみたい」という佐藤さんは『ミライミライ』の読後感をこう結んでいる。「本作品のテーマである日本の核武装要求もパラノイアの具現化だ。本稿を執筆している2018年3月時点でも、トランプ政権の北朝鮮政策や、森友学園問題をめぐる財務省の公文書改竄(かいざん)問題にしても、きれいに解析することを試みるとパラノイアになってしまうのである。その意味で『ミライミライ』は、優れた小説にとどまらず、現下日本と国際社会のリアリティを読み解くための手引きの書でもある」(同書)―。「思考実験」こそが小説読みの醍醐味である。そこには百態百様の切り口がある。そのひとつが佐藤さんのいう「パラレルワールド」(北=北海道vs南=沖縄)の視点に立った私の読みなのかもしれない。

 

 

 

 

 

2018.04.08:masuko:コメント(1):[身辺報告]

ヤイコシラムスイエ

  • ヤイコシラムスイエ

 

 「最近、筑紫(哲也、2008年没)さんの番組で、アイヌ音楽と、神を迎える踊りを見ることがありました。その中で、日本語の『考える』という言葉をアイヌ語では、『魂がゆれる』というのだと知りました」(『週刊金曜日』3月30日号)―。「ミナマタ」に寄り添い続け、今年2月10日に90歳の生涯を閉じた作家で詩人の石牟礼道子さんを追悼する特集に「魂ゆらぐ刻を」と題する文章が掲載されている。25年前、石牟礼さんが同誌の編集委員に名を連ねた際、自身の立ち位置について触れた文章である。当時、TBSのニュ-スキャスタ-をしていた筑紫さんのこの番組を私も鮮明に記憶している。出演したのは北海道・屈斜路湖畔を拠点に活動しているアイヌ詞曲舞踊団「モシリ」(アイヌ語で大地の意)だった。石牟礼さんは続けて、こう記している。

 

 「魂がゆれるといえば思い当たります。私たちにまだ残っているあの、語らぬ思いや数かぎりない断念です。たぶんこれは近代的な権利意識とは無縁な、表現以前のデリカシ-です。それが今も、アイヌの地に魂の安らぐ時があって、人は言葉以前に魂同士、あるいは山川草木と共にゆれあっているというのです。あらためて、病としての文明が、わたしたちの感性を覆(おお)っているのに思いあたります。妙な色の、鱗(うろこ)のようなそれを、脱ぎ捨てたい願望と共に」

 

 「ヤイコシラムスイエ」―。モシリを主宰する豊岡征則さんは番組で、こんなアイヌ語を紹介した。「yay(ヤイ=自分自身)・ko(コ=に対し)・si(シ=自らの)・ram(ラム=心を)・suye(スイエ=揺らす)」…。日本語の「考える」に相当するアイヌ語である。日本語に解読しながら、こう話した。「日本人はよく、頭を使って『考える』という。でもアイヌは頭ではなく、心を揺らして『考える』。魂を大切にするということだと思う」―。代表作『苦海浄土/わが水俣病』などで知られる石牟礼さんは患者・家族との「魂のふれあい」を求め続けた人だった。批評家の若松英輔さんは追悼特集にこう書いている。「古い言葉だが、彼女に出会って、私のなかで決定的によみがえった言葉が『生類』(しょうるい)である。人類は、生類の一部であるあるとき、はじめて人類たりうる。しかし、人類は、いつしか生類とのつながりを自らの手で断ち切ったのではないか」

 

 「沖縄戦の戦跡にアイヌの祈りを捧げたい」―。もう30年以上も前のことになるが、モシリの全国公演に同行して、沖縄まで行ったことがあった。そのひとつ、沖縄戦終焉(しゅうえん)の地―本島南部・糸満市にある沖縄平和祈念公園(摩文仁の丘)ではカムイノミ(神への祈り)とイチャルパ(先祖供養)の儀式が営まれ、古式にのっとったアイヌ舞踊が宙に舞った。当時の光景が石牟礼さんの文章と重なった。

 

 「風土の神々や、感性の安らぐところを自ら封じこめてきた時代に追いつめられたあげく、近頃わたしは、舗装された地面を割って芽吹いている蓬(よもぎ)や葦(あし)をみつけて歩きます。その小さな芽立ちに、遠い世のメッセ-ジが聞こえるからです。…とりあえず今のぞましい文化のイメ-ジとして、かのアイヌ女性たちの、神を招く手つきが強く灼(や)きつけられています。魂の位相の高さを見る思いでした。言葉の真の意味で慎(つつ)ましき節度とは、このようにさしのべられる指や、脚の自然だったのかと思ったことでした。…微塵の媚(こび)もない入神の表情と躯(からだ)の動きでした。それに何よりも可愛らしいのでした。長い黒髪が、天と地とを、掃(は)いておりました」

 

 豊岡さんには「アトゥイ(atuy)」というアイヌ名がある。「海」という意味である。「この島に来ると、神々の気配を感じる」―。摩文仁の丘の前に広がるサンゴ礁の海を眺めながら、豊岡さんがポツリと言った。ニライカナイ(常世「とこよ」の国=琉球)とアイヌモシリ(人間の静かな大地=北海道)とは地続きなんだ、とその時思った。アイヌ語に日本語の「自然」に該当する言葉はない。森羅万象(しんらばんしょう)…つまり、この宇宙に存在する一切のものをアイヌの人々は「カムイ」(神)と呼ぶのである。

 

 たとえばひとつ―。夕方にふと、風がやむ「夕凪(ゆうなぎ)」ことを「レラオヌマンイペ」(風の夕食)と表現する。解読すると「rera(レラ=風が)・ onuman (オヌマン=夕方に)・ipe(イペ=食事する)」となる。「そりゃ、ひっきりなしに飛び回っているんだもん。腹もペコペコになるべや」―。にやりと笑ったエカシ(長老)のしたり顔がまだ、記憶の底にこびりついている。「風」もまた当然、カムイである。

 

 “神の国”として知られる沖縄・久高島に伝わる秘祭「イザイホウ」と、アイヌ女性の「フッタレチュイ」(黒髪の踊り)を交差させながら、石牟礼さんは「魂ゆらぐ刻を」を閉じている。

 

 

(写真は黒髪を揺らしながら、舞台狭しと踊るアイヌ女性=インタ-ネット上に公開の写真から。「モシリ」の舞台とは関係ありません)

2018.04.05:masuko:コメント(0):[身辺報告]