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賢治、慟哭!?…神話づくり(中)

  • 賢治、慟哭!?…神話づくり(中)

 ヒドリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」(原文)―。宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の中の「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であるという、いわゆる「ヒドリ・ヒデリ」論争はすでに決着がついているようで、実はそうでもないらしい。ある日突然、再燃することもある「賢治」読解のキ-ワ-ドでもある。しかし、今回の”賢治精神”の実践をめぐる対立の背後には、もうひとつのベクトルが働いているような気がしてならない。誤解を恐れずに言うならば、文学上における「植民地主義」―中央の権威を地方に及ぼそうとする過程で、往々にして見られる非文学的な意志の謂(い)いである。

 

 後段の「サムサノナツ」(冷害)に対応する言葉として、「ヒデリ」(日照り)と解釈するのが自然だというのが誤記説の根拠である。このあまりにも無造作な対偶詩法に異議を唱えたのが地元の賢治研究者、照井謹二郎さん(故人)である。財団法人宮沢賢治記念会の理事長を務めたこともある照井さんは生前、私にこう語った。「この地方一帯では昔から『日照り(旱魃=かんばつ)に飢渇(けかち)=凶作)なし』と言われてきた。農家が最も恐れたのは冷害だった。だから、『ヒドリ』は『日取り』つまり日雇い給金と解すべきだ。当時の農民の最大の悩みは現金収入の確保。だから手間仕事をしながら日銭を稼いだ。原文にはあくまでも忠実にあるべきだ」―。そして、こう続けた。「研究者の95%までが『ヒデリ』と考えているし、『ヒドリ』では賢治の宗教性に富んだ悲しみの涙がなくなってしまう。中央の偉い先生から、そう説得された」

 

 「言葉の収奪」―。賢治文学の根っこを形成する風土性とその風土を抱きしめるようにして立ち上がる言葉たち…照井さんの話を思い出しながら、ふいに賢治の言葉が奪われていくような戦慄(せんりつ)を覚えた。「宮沢賢治・花巻市民の会」の会員である八重樫新治さんも「雨ニモマケズ」受難史を検証した結果、もうひとつの「ヒドリ」にたどり着いた。「誤記説は単なる改変ではなく、改ざんである」と主張する八重樫さんは自著…『詩「雨ニモマケズ」のマコトを索(もと)めて』の中にこう書いている。切迫した”水争い”の光景が目の前に浮かんでくるような文脈である。

 

 「ヒドリノトキとは、田に水を引く日程を決める時期という意味です。毎年この時期はやってきます。田植えが始まる前に、水引きの日程を決める相談が行われるのですが、そこでは本家すじの大農民と分家に当たる小農民との力関係が顕(あら)われます。また集落ごとに水引き権利の大小があるので、そこにも力関係が顕われてくるのです。そうした現実を踏まえて、限られた水量をどのように管理しながら給水していくか、その給水日程を決めることが『日取り決め』、あるいは簡略化して『ヒドリ』と呼ばれたのです」

 

 「だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後まで一緒だがら あいやぁ、そういうおめは誰なのよ 決まってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだば、おらだ」―。第54回文藝賞(河出書房新社)を最年長で受賞した若竹千佐子さん(63)の『おらおらでひとりいぐも』は速射砲のような方言の書き出しで始まる(11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」参照)。「永訣(えいけつ)の朝」の一節をタイトルに据えたように、文中でもたとえば『虔十(けんじゅう)公園林』を引用するなど賢治の影響を受けていることがわかる。『遠野物語』の遠野出身で、現在は千葉県に住む若竹さんは対談で、こう語っている。

 

 「でも私なんかいま、逆に土俗性に回帰して、親がここから羽ばたいて欲しいと思っていた遠野の風土とか、そういうものに帰っていきたいと思っています。家といった形では残せなくても、父や母の想いは、言葉で残してあげたいと思います。だから、私のベ-スは土俗性とか方言なんですが、それで生活感の滲む言葉の厚さを描きたいと思っています」(『文藝』2017年冬号)―。照井さんや八重樫さんが「ヒドリ」に投影したと同じ思いが伝わってくる。

 

 『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)は賢治作品を網羅した一級資料として評価されてきたが、「雨ニモマケズ」に関しては「ヒデリ(日照り)」説に依拠している。この編集に携わったフランス文学者で、賢治研究者の入沢康夫さんは「この問題(「ヒドリ・ヒデリ」論争)は、学問的には当時すでにはっきりと答えがでていたのであり、もはや議論の余地は無いと考えるに到っていた」(平成13年3月発行「宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-会報」30号)と述べている。形式的な詩的技法を優先させるあまり、その風土性を一刀両断する物言いである。いったん打ち立てた「仮説」が否定されることに極端に憶病になるのは、権威主義のなせる業(わざ)でもある。

 

 『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『羅須地人協会の終焉―その真実―』、『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』…。「宮沢賢治・花巻市民の会」のメンバ-で、地道な研究を重ねてきた鈴木守さんが「ほどんど無視か黙殺。学問の自由が危機に瀕している」とポツリと言った。いわゆる「文学研究」に恒久的な「定説」はあり得ない。そこに至る道筋は不断の「仮説検証」しかない。だからこそ、研究者はあらゆる「仮説」に対し、あくまでも謙虚でなければならない。私は「宮沢賢治学会」の背後に植民地主義の澱(おり)のようなものを見たような気がする。

 

(写真は農民指導に明け暮れた賢治。下界の騒動をどんな思いで見ているのだろうか=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2017.11.21:masuko:コメント(0):[身辺報告]

賢治、慟哭!?…学会の正体みたり(上)

  • 賢治、慟哭!?…学会の正体みたり(上)

 こともあろうに、国内外の賢治研究者らが名を連ねる「宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-」(富山英俊代表理事)が、“賢治精神”の実践を目指す地元愛好家の呼びかけに「待った」をかけるという前代未聞の騒動が賢治のふるさと―岩手・花巻で巻き起こっている。「夜郎自大」(やろうじだい)ともいえる学会の権威主義が鎧(よろい)の下から、チラリとその正体を垣間見せたというわけである。「賢治」に背を向ける「宮沢賢治学会」とは一体、どんな組織なのか。銀河宇宙のかなたで嘆き悲しむ賢治の姿が目に浮かぶ。おそらく、賢治自身が一番嫌うであろう、この騒動の顛末(てんまつ)とは―。

 

 「大槌の子どもたちを支援してください。東日本大震災にも負けず、健気(けなげ)に頑張っている東の子どもたちのために募金して下さいませんか」―。そのチラシにはこう書かれていた。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」というくだりが宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の中にある。「3・11」によって、壊滅的な被害を受けた三陸海岸の港町・大槌町はちょうど、賢治の生地・花巻の東方に位置している。あれから6年あまり…震災の記憶が風化する中、私自身もその会員である「宮沢賢治・花巻市民の会」(阿部弥之会長、会員約30人)は今年の夏、総意で支援計画を決定。9月22日から2日間にわたって開かれる学会の定期大会での協力を申し出た。「まさに時宜を得た企画」―こんな返事を期待していたのだったのだが…。

 

 「宮沢賢治学会イ-ハト-ブセンタ-定期大会の際の募金活動について」(平成29年8月10日付)と題する代表理事名の回答書は…改めて事業計画書の提出を求めたうえで、①物品販売などを除いた募金に限定する、②定期大会参加者への周知は休憩時間を充てる、③募金活動は9月22日のみとする―などの前提条件を付していた。「学会執行部の後ろ向きな姿勢を問う」という見出しで、市民の会の会報「おっほ便り」(9月1日発行)は「まるで門前払い。執行部は復興支援に無関心なのか」と疑義を呈した。当然のことである。しかし、事態はまるで予想もしない方向に展開した。会報の記事は事実無根だとし、今度は「訂正と謝罪」を要求。挙句の果ては謝罪文を期限までに提出しなかったという理由で、募金活動まで締め出してしまったのである。

 

 「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ/…/東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」―。「雨ニモマケズ」の中で、賢治は受難者に寄り添うことの大切さを「行ッテ」と直截(ちょくせつ)に表現している。この「行ッテ」精神こそが賢治の思いを象徴する言葉である。事実、東日本大震災に際してはこの言葉に背中を押されたボランティアが被災地を目指し、英訳されたこの詩が全世界の追悼の場で朗読された。

 

 今回の支援活動の先頭に立った、在野の賢治研究者である鈴木守さん(市民の会)は呼びかけ文にこう記した。「東日本大震災が起こった頃、あちこちで『雨ニモマケズ』が引き合いに出されました。『賢治精神』を訴え、その支援に大いに資することになったと思います。しかしそれから6年が経ち、被災地のこともその支援についても次第に私達の意識の中からは遠ざかってしまっているという事実も否定できないと思います。そこで、本年度の賢治学会総会の際に『賢治精神』をちょっとだけですが実践し、三陸の被災地を支援したいと思うのですが如何でしょうか」(6月14日付「『賢治精神』プチ実践について」提案)―。私自身も震災直後、仲間と支援組織「ゆいっこ」を立ち上げ、趣意書(要旨)にこう書いた。

 

 「肉親の名前を叫びながら、瓦礫(がれき)の山をさ迷う人の群れ。着のみ着のままのその体に無情の雪が降り積もる。辛うじて一命を取りとめた被災者の身に今度は餓死と凍死の危機が迫りつつあります。もう、一刻の猶予(ゆうよ)も許されません。岩手・花巻が生んだ宮沢賢治は人間のおごりを戒め、『いのち』のありようを見続けました。この『結いの精神』(ゆいっこ)は、ひとことで言えば『他人の痛み』を自分自身のものとして受け入れるということだと思います。何をやるべきか、何をやらなければならないか―。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。試されているのは、わたしたち自身の側なのです」

 

 ささやかで真っすぐな願いは「宮沢賢治学会」の名のもとに踏みにじられた。かつて『宮沢賢治殺人事件』(吉田司著)という物騒なタイトルの本が出回った。今回の騒動の一方の当事者が実はその下手人だったとしたら…。賢治の慟哭(どうこく)が天空からもれ聞こえてくる。「市民の会」は今月15日に開いた緊急臨時総会で、改めて学会側の真意をただすことにした。なお、鈴木さんは一連の経緯について、自身のブログ「みちのくの山野草」の中で、詳しく報告している。(http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/aef0b3f55406a749d5883aed18946d0f

 

 

(写真は当時の町長ら職員40人が犠牲になった大槌町の旧役場庁舎。保存か撤去か―をめぐって議論が続いている=2011年4月4日、大槌町で)

 

 

 

 

2017.11.18:masuko:コメント(1):[身辺報告]

映画「野火」再考~市川版から塚本版へ

  • 映画「野火」再考~市川版から塚本版へ

 集団的自衛権の行使を可能とした「安全保障」関連法の制定などによって、私たちはいま、原理的には戦後で一番「戦争」に近い立ち位置にあると言っても過言ではない。先の総選挙では憲法9条に自衛隊を明記し、戦争への道を加速させようとする安倍一強を含む「改憲」勢力が圧勝した。「NO・MORE・WAR」(戦争反対)という声が次第にか細くなってきているような気がしてならない。戦争の記憶が遠のいたということだけで済まされるのか。一方では大量の遺体切断事件(「座間」事件)に見られるような凄惨な出来事に直面させられるという現実もある。ひょっとすると、「狂気」という名の不条理は戦時と平時をまたいで跋扈(ばっこ)し始めているのかもしれない。

 

 作家、大岡昇平の代表作『野火』(1954年)は市川崑と塚本晋也という二人の監督によって、映画化されている(11月4日付当ブログ「たとえば、戦争を記憶するということ」参照)。いずれも太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島で起きた飢餓地獄を描いているが、同じ原作を扱ったこの二つの作品(市川版・1959年、塚本版・2015年)には「戦争」に対する微妙な距離感がある。たとえば、カニバリズム(人肉食)の描写の仕方―。原作の記述は次のようになっている。田村一等兵がサルの肉を食わされた際の文章である。

 

 「その時の記憶は、干(ほ)いたボ-ル紙の味しか、残していない。しかしそれから幾度も同じものを食べて、私はそれが肉であったのを知っている。干いて固かったが、部隊を出て以来何カ月も口にしたことのない、あの口腔(こうこう)に染(し)みる脂肪の味であった。…肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった」(本文より)―。市川版の画面では田村は「歯ぐきがガタガタだ」と言って、肉を一気に吐き出してしまう。その描写について「観客に『食べなくてよかった』と感じさせるための変更である」と製作者側は語っている。公開されたのは1959年。まだ、戦争のトラウマが色濃く残っていた時期だったということだろうか。

 

 同じ場面が塚本版では一変する。ムシャムシャと噛(か)みながら、その動きには一段と力がこもる。やがて、目からは涙が…。近くの草原に切り取られた足首が転がっている。「お前、俺を猿と間違えたんじゃないか」と田村が不安げな表情でつぶやく。サルの肉が人肉だとウスウス気が付いていたことを暗示するセリフである。「正気」と「狂気」のはざまを行き来する田村がある決断を迫られる瞬間がやってくる。原作の後半部分にこんな下りがある。「後ろで炸裂音(さくれつおん)が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎ取った。私は地に落ちたその肉の泥(どろ)を払い、すぐに口に入れた。私の肉を食べるのは、明らかに私の自由であった」―。仲間から手りゅう弾を投げつけられ、大けがをした時の文章である。

 

 この場面は市川版には一切、出てこない。一方の塚本版ではまるで喉(のど)を鳴らすがごときの食ベっぷりである。「肩から血を流し、自分の肉を咀嚼(そしゃく)しながら、(サルの肉を分けてくれた戦友の)永松を見つめる田村」と脚本にある。この余りにも生々しい光景を見ながら、私は反射的に思った。「田村はカニバリズムからの決別をこの行為、つまり他人ではなく自分自身を食うという振る舞いにかけたのではなかったのか」―。塚本監督は映写会の際のト-クショ-でこう語った。「あの戦争だけでなく、つい最近の東日本大震災も記憶の彼方に置き忘れつつある。だからこそ、よりリアリステックな演出を目指した」。市川版と塚本版との間には60年もの時の隔たりがある。戦争の記憶が遠のけば遠のくほど、逆に戦争に近づきたくなる―というパラドックス(不条理)におののいてしまう。

 

 新聞やテレビで「座間」事件が報じられない日はない。刹那(せつな)、この所業こそがカニバリズムの一歩手前ではないかと思ってしまう。「飽食」という平時の“狂気”ほど不気味なものはない。「狂気そのものをモチ-フにした正気の映画」(塚本版)…私たちはいまこそ、あの戦争の記憶を手元に引き寄せなければならない。

 

(写真は市川版の一場面。この先にカニバリズムの恐怖が…。左端が船越英二が演じた田村一等兵=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

2017.11.15:masuko:コメント(0):[身辺報告]

大川周明とアイヌ民族、そして沖縄

  • 大川周明とアイヌ民族、そして沖縄

 「戦前は『不敬』で軍部・右翼が弾圧、戦後は『危険』でGHQが発禁にした歴史書!待望の新書化、日米両政府が封印した不都合な真実とは!?」―。10月末、新聞各紙におどろおどろしい宣伝文が載った。不敬罪削除37か所を復原したというこの本のタイトルは『日本二千六百年史』―。筆者は日本の思想家、大川周明(おおかわしゅうめい、1886~1957年)。満鉄調査部などに勤務し、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受けた。近代日本の西洋化に対決する一方で、アジア主義と日本精神の復興を提唱し、”大東亜戦争“を主導した一人とみなされた。

 

 東京裁判では民間人としては唯一、A級戦犯として起訴された。休廷中、前に座っていた東條英機・元首相の禿げ頭をペタペタ叩き、結局、精神障害として不起訴になった。罪逃れの芝居だったのかどうかその真偽が不明のままだが、晩年はコーラン全文を翻訳するなど数奇な人生を送った。この得体のしれない人物に対して、私は「敬して遠ざける」あるいは「触らぬ神に祟(たた)りなし」という立ち位置を持してきた。いまこの時期の復刻についての詮索(せんさく)はさておき、一方で「日本はアイヌ民族の国土であった」というキャッチコピ-に目を奪われた。こんな内容の記述である。

 

 「もし吾らの憶測に大過なくば、初め日本は恐らくアイヌ民族の国土であった。この憶測の根拠となるものは南は九州より北は奥羽に至るまで、日本の地名はほとんどアイヌ語らしきことである。…果たしてしかりとすればアイヌ民族は日本諸島の先住者であり、日本民族は彼らに後れて到着ものとせねばならぬ」(本文より)―。タイトルにある「二千六百年」とは一般に「皇紀二千六百年」と呼ばれるもので、1940(昭和15)年が神武天皇の即位から2600年目に当たることを指している。つまり、本書は天皇を頂点とした「大和朝廷」の正当性を主張するのがねらいであったはずである。

 

 注目されるのは書かれた時期である。日本が戦争の泥沼に足を踏み入れつつあった昭和14年6月、私が生まれる1年前に本書は刊行された。時代の波に受け、たちまちベストセラ-になったが、大川が主張する“アイヌ起源説”が軍部や右翼の一部から天皇に対する「不敬罪」に当たると指弾され、削除や訂正を余儀なくされた。アイヌ民族の同化政策を進める「北海道旧土人保護法」が制定されたのは1899(明治32)年。全面戦争を前にした日本にとっては「単一民族国家」の確立こそが急務だった。大川の歴史認識の可否にも大いに問題はあったが、天皇の統治権を提唱する「国体明徴(めいちょう)」運動の下では到底許されない“過激思想”だったということであろう。

 

 沖縄戦と広島・長崎への原爆投下を経て、日本の敗北が決定的になった時、今度はGHQ(連合国総司令部)がアイヌ民族の動きに注意を喚起し始めていた。米ソの対立が顕在化しつつあった敗戦2年後、GHQはアイヌ協会(当時)の長老4人を集めた。私が入手した録音テ-プにはこんな会話が残されている。

 

●GHQ:あなた方は日本人ですか。それとも特別なアイヌ人ですか。独立をするのであれば、今ですよ。
●長老:我々は日本人です。特殊な人種ではありません。だから、そういう(独立の)考えは毛頭ありません。北海道全体のアイヌを集めても、わずか3万6千人程度です。独立をする気持ちはありません。
●GHQ:いま独立をしないで、後になって日本人とは絶対に喧嘩をしないでくださいね。

 

 GHQはこの時、長老に対して現金30万円を渡している。当時としてはかなりの高額である。「独立」を断念させるための工作ではなかったのか。北海道を対ソ防衛の拠点にしようという米側の目論見があったことがうかがえる。大川のこの“奇書”を日米両政府が封印した所以(ゆえん)である。

 

 この原稿を書いていた時、傍らのテレビが「熱き島を撮る/沖縄の写真家・石川真生」(11月11日ETV特集)と題する特集を放映していた。これまた不思議な偶然である。石川真生(まお)さん(64)は米軍統治下の沖縄で生まれ育ち、写真家になって43年。ずっと沖縄で生きる人たちにレンズを向けてきた。数年前から始めたのが「大琉球写真絵巻」の制作。薩摩藩の琉球侵攻から沖縄戦を経た米軍統治、返還後も続く米軍基地の重圧、最近の高江・辺野古の新基地建設まであらゆる場面を創作写真で表現する。「写真を撮りながら、沖縄の歴史を学んだ。小さな島だけど沖縄人はずっと抵抗し続けてきた」と石川さんは語った。

 

 亡霊のような思想家に促されながら、いつしか迷路を彷徨(さまよ)っているような気分になった。ハタと心づいた。蝦夷征伐から琉球処分、アイヌ同化政策…。『日本二千六百年史』とは皮肉にも辺境を切り捨て、国家統一を成しとげるまでの「支配原理」を教える反面教師の役割を担っていたのだ、と。だから、たまにはこの種の奇観(きかん)本も読むに足るべし。そういえば、来年は明治150年―。この節目に合わせた「復古」の動きもチラホラと…。

 

(写真は東京裁判の法廷内でのちに絞首刑になる東條英機・元首相の頭を叩く大川周明=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

2017.11.12:masuko:コメント(0):[身辺報告]

Ora Orade Shitori egumo

  • Ora Orade Shitori egumo

 「永訣(えいけつ)の朝」は宮沢賢治が最愛の妹トシの死を悼(いた)んだ挽歌として知られるが、一か所だけ表題のようなロ-マ字書きになっている。日本語に変換すると「おら おらで しとり えぐも」となり、標準語に直せば「私は私ひとりで行くのだ」とでもなろうか。賢治のこのフレ-ズを下敷きにした『おらおらでひとりいぐも』が新人作家の登竜門である第54回文藝賞(河出書房新社)を受賞した。著者は岩手・遠野生まれで、木更津市在住の若竹千佐子さん(63)。初めての作品が最年長での受賞となった。選考委員の一人、文芸評論家の斎藤美奈子さんは「石牟礼道子や森崎和江をはじめて読んだときの興奮を思い出した」と評した。私自身、九州在住のお二人にはいまに至るまで影響を受け続けている。どちらも地霊とも呼べる土地の言葉を大切にする作家である。

 

 主人公は東北出身の74歳の女性「桃子さん」で、若竹さんの分身でもある。24歳で上京し、同郷の夫と結婚。2児に恵まれたが、15年前に夫に先立たれた。孤独や老い、衰え…。桃子さんはそんな境遇に晒(さら)されながらも、はじめて取り戻した「自由」をまるで謳歌でもするようにパワフルに生きていく。その「生」の原動力がふるさとの言葉である。若竹さんは受賞の言葉をこう語っている。「人生の最終局面、婆さんが手にするのはいったい何だろうか。異界を自由に行き来し、生者も死者も同じ場に集い語らって何の不思議もない境地。老いの積極性を描きたい。滅びの美しさを描きたい。そうやって一人生きる私の老いを乗り越えたい」(『文藝』2017年冬号)。読み進むうちに『遠野物語』の光景が重なった。たとえば、「サムトの婆」というこんな話―。

 

●黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは、他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)というところの民家にて、若き娘、梨(なし)の樹(き)の下に草履(ぞうり)を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日、親類知音(ちいん)の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰りきたれり。「いかにして帰ってきたか」と問えば、「人々に逢(あ)いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かん」とて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、「きょうはサムトの婆(ばば)が帰ってきそうな日なり」と言う(第8話)

 

 「ほだった」(そうだった)、「おらばり」(自分だけ)。「まぶる」(見守る)、「おべでる」(覚えている)…。突然、むき出しの東北方言が出てくる。この地の出身の私にはすぐに合点がいくが、方言を解しない他の地域の人たちは果たして理解できるだろうか。前後の文脈を丹念に読んでいけば、その意味が輪郭を伴って浮き上がってくる。方言の強さを強調するための手練の筆使いである。主人公の桃子さんの口を借りれば、方言とはかくなるものである。

 

 「いつの間にか東北弁でものを考えている。晩げなのおかずは何にすべから、おらどはいったい何者だべ、まで卑近も抽象も、たまげだごどにこの頃は全部東北弁なのだ。というか、有り体にいえば、おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。…で、おらどの心にもあるプレ-トの東北弁はその最古層、言ってみれば手つかずの秘境に、原初の風景としてイメ-ジのように漂っているのでがす。そったに深いど手が届かないがどいうど、そでもねぐ、おらは、おらが、と一声呼びかければ、漂うイメ-ジそわそわと凝集凝結して言葉となり、手つかずの秘境の心蘇る。…んだがら東北弁がある限り、ある意味恐ろしいごどだども、おらが顕わになるのだす、そでねべが」(本文より)

 

 私は2000(平成12)年、定年を迎えた。前年、東北芸術工科大学に「東北文化研究センタ-」が設立され、柳田(国男)民俗学の研究者である赤坂憲雄さん(現学習院大学教授)らが「東北学」の重要性を提唱していた。ふるさとへ戻るかどうか迷っていたある日、東京駅前の大手書店にふらりと立ち寄った。柳田の『遠野物語』が山積みされていた。パラパラとめくると、懐かしい風景や言葉が目に飛び込んできた。戻ろうと、その時に思った。

 

 つけ加えると、ピリリとワサビのきいた文芸批評に定評がある斎藤さんのお父さんは元新潟大学名誉教授(物理学)の斎藤文一さんで、隣の北上市出身である。オ-ロラ研究の第一人者でもある文一さんには『宮沢賢治と銀河体験』、『宮沢賢治 四次元の展開』などの賢治本もたくさんある。「おらおらでひとりいぐも」という若竹さんのひとり旅が思わぬ縁(えにし)をプレゼントしてくれた。「永訣の朝」は方言を交えたこんな呼びかけで始まる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ(あめゆじゆとてちてけんじや=雨雪(みぞれ)を取ってきてください)」―。Ora Orade Shitori egumo」…トシの道行きが眼前に浮かんだような気がした。

 

(写真は若竹さんの受賞作が載った『文藝』2017年冬号)

 

 

2017.11.08:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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