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政界の”狙撃手“と革新市長

  • 政界の”狙撃手“と革新市長

 「憲法をないがしろにしたこの法案を通すことは、市民の命を守らなければならない市長として断じて容認することはできません」―。「安全保障関連法」(安保法制=2015年9月30日公布)の国会審議が大詰めを迎えていた約2年半前、私は花巻市議会9月定例会である首長の発言を引用しながら、「国政と地方自治」との関わりについて上田東一市長の見解をただした。件(くだん)の首長とは兵庫県宝塚市の中川智子市長(現在3期目)である。冒頭の文章は中川市長が広報たからづか(2015年8月号)の「市長からの手紙」に掲載した意見表明である。今年1月26日に逝去した元自民党幹事長の野中広務さん(享年92歳)が実は中川市長の“政治の師”だったことを初めて知った。「政治」の本来のあるべき姿を教えられたような気がした。

 

 「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」―。「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)の採決に際し、特別委員会の委員長だった野中さんが異例の発言をした。「不穏当な発言」として、会議録から一部が削除された。発言に先立ち、野中さんは沖縄での辛い体験を披歴している。「タクシ-の運転手が突然、ブレ-キを強く踏んで車を停め『あそこのサトウキビ畑で私の妹が殺された』と言ったかと思うと、急に泣き出した。号泣はしばらく止まらなかった。しかも、やったのは米軍ではなかった(つまり、旧日本軍だった)」

 

 朝日新聞編集委員の秋山訓子さんがこの先の物語について、紹介していた。「当時、これを聞いて感動のあまり、矢も盾もたまらず野中事務所に走っていった国会議員がいた。社民党の一年生議員だった中川智子氏だ。ちょうど野中氏も自室にいて、中川氏の勢いに驚かれながらも会うことができた。『私は、今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった。私も沖縄には同じ思いです』。夜、中川氏が議員宿舎に帰ると郵便受けに野中氏からのメモが入っていた。『これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい』。携帯電話の番号があった」(2月15日付「朝日新聞」ザ・コラム=要旨)―。政界の”狙撃手“と恐れられていた実力者と物おじしない「おばさんパワ-」との不思議な邂逅(かいこう)だった。

 

 「いい話だな」と思った。その背後にある種の政治的な思惑があったとしても、何か思想・信条を越えた「同志」としての絆(きずな)みたいなものを感じたからである。互いにそれを支えたのは、弱者に寄り添う眼差しなのだろうと思う。後日談は続く。「中川氏は薬害ヤコブ病の患者救済や介助犬といった身体障害者補助犬法などに取り組んだ。野中氏だけでなく多くの与党の実力者に声をかけて巻き込んで、辛抱強くことを進めて法律を作った。2期務めて2003年の選挙で落選後、国政を去る。2009年、宝塚市長選に出馬した。市長が連続して収賄で逮捕という前代未聞の出来事の後だった。野中氏に相談すると『やりなさい』と背中を押してくれた。応援にも来てくれた」(同上コラム)

 

 「安保法制」国会の際、中川市長は全国市長会の総会の場でこう呼びかけた。「国民の6割が慎重審議を求め、8割が十分な説明がなされていないと感じているという世論調査もある。市長の最大の責任は市民の命を守ること。市長会として一切、議論しないことは将来に禍根を残す」(2015年6月11日付「朝日新聞」)。この会議に同席した、一方の上田市長は私の質問に対し、当時、以下のように答弁している。

 

 「地方自治法第1条の2において、地方公共団体は住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものと定められている。この規定により、防衛、軍事、安全保障などは国の所管であり、地方公共団体にはその権限はないと理解している。安保法制のかなめである沖縄の米軍基地、とくに喫緊(きっきん)の課題である米軍普天間飛行場の辺野古移転問題と地方自治のかかわりについては、花巻市域内の問題でない以上、憲法と地方自治法に定める市の権限と役割から、当市の地方自治に直接関連すると判断することはできないものと考える」(平成27年9月定例会会議録から=要旨)

 

 野中さんが亡くなった9日後の今年2月4日、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設(新基地建設)の是非が問われた名護市長選で、自民党や公明党など政府与党が推す基地容認派が新市長に選ばれた。野中さんが言い残した“遺言”などはどこ吹く風、「軍靴」の響きがふたたび、遠音のように覆(おお)い始めた。この時を待つかのようにして建設工事はさらに、加速されつつある。ヤマト(本土)の自治体のほとんどは相変わらず、見て見ぬふりを決め込み、永田町界隈は「一強多弱」という名の大政翼賛会に成り果てた。政治家としての使命感に燃えた同志的な結びつきはもう夢のかなたにかすんでしまったかのようである。

 

 野中さんは自らが被差別部落の出身であることを隠さなかった。「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」―と差別感情丸出しの発言をしたのは麻生太郎・副総理である。実はこの人の系列である麻生財閥が経営した「麻生炭鉱」(福岡・筑豊)は強制連行した朝鮮人を酷使した「圧政ヤマ」として知られる。閉山後、炭鉱跡地のあちこちから朝鮮人を含む遺骨がたくさん出てきた。炭鉱長屋の土壁から人骨がにゅっと、飛び出していたという信じられないような出来事もあった。私自身、その現場を取材した一人である。

 

 

 

写真は在りし日の野中さん。「ハト」派的な一面も兼ね備えていた=インタ-ネット上に公開の写真から)

2018.02.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「BARABARA」―向井豊昭の世界

  • 「BARABARA」―向井豊昭の世界

 「朝は股の真ん中からくる。鶏のように首をもたげた陰茎を、今朝もまた布団の中の五本の指が握りしめていた」―。こんな書き出しで始まるこの小説は冒頭の行為をアイヌ語で解読する。「しゅいん(手淫)する」→「yayokoyki」(ヤヨコイキ)→「yay(自分の)+o(陰部)+koyki(いじめる)」―。「知里真志保の『分類アイヌ語辞典』にはこんな言葉が見られるが、『いじめる』とは、うまく言い当てたものである」…。のっけから、一発見舞われた気分になる。故向井豊昭さんの『BARABARA』は厄介な振る舞いを演じそうな自分を断ち切り、際限なく自己解体していく物語である。

 

 向井さんのサインのある同書の日付は「1999年3月11日」―。どうして私の誕生日になっているのかは判然としないが、初対面が19年前だったことはわかる。こんな過激な文章を書く人とは一体、どんな人物なのか。恐る恐る面会を申し入れた。「あぁ、いいですよ」。落ち合ったのは山手線の高田馬場駅だったと記憶している。大柄なその人の眼はメガネの奥で柔和に笑っていた。ひとり芝居の観劇や場末の居酒屋での文学談義…。お付き合いは2008年、75歳で亡くなるまで断続的に続いた。この出会いが私自身の立ち位置に大きな影響を与えてくれたと思っている。

 

 東京生まれの向井さんは東京大空襲に遭遇し、祖母のふるさとである現在の青森県むつ市へ疎開。高校を卒業後、県内の小学校で教鞭をとったが、29歳の時に北海道日高管内の小学校に転出。そこでの「アイヌ子弟」との出会いがその後の人生を決定的にした。アイヌの差別や貧困をテ-マにした作品を手がけ、教員仲間と「北海道ウタリ(アイヌ語で「仲間」の意)と教育を守る会」を立ち上げた。自らの偽善に気づかされたのはその活動のさ中である。ガリ版刷りの手書きの私家本『手』に向井さんはこう記している。「アイヌ語を滅ぼしたものの言葉(日本語)で、アイヌの復権を唱えている」―。そして10年後、アイヌの教育現場から“逃亡”する。

 

 「ゴキッ!骨の外れるような痛みを残して、自分が二つに割れていく。振り返ると、眼鏡を外したもう一人の自分が枕に頭をのせていた」―。制止する手を振りほどき、割れた方の自分はその日の始まりである朝食を普段通りに取る。本作の文中には南千住界隈(東京都荒川区)の風景も出てくる。そのひとつが「小塚原(こづかっぱら)回向院」―かつての刑場の跡である。近くに蘭学者の杉田玄白や前野良沢らが刑死者の腑(ふ)分け(解剖)に立ち会ったことを記念した「観臓記念碑」(1922年建立)が建っている。『解体新書』の扉を模した御影石の碑文にはこんなことが書かれている。「玄白等はオランダ語の解剖書タ-ヘル・アナトミアを持って来て、その図と実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた」―。

 

 ゴキッ、ゴキッ、ゴキッ……。自己解体はまるで腑分けのような勢いで進んでいく。代替教員である中年の男は教え子の膨(ふく)らみ始めた胸にいやらしい視線を送ったり、校長に暴力をふるいかねない素振りを見せる。そのたびにゴキッ、ゴキッ。そして、昭和最後の日を迎える。皇居に向かう人波は絶えない。それに誘(いざな)われるようにして、男は妻とひとり息子を連れて二重橋へ。あまりの人ごみのために「楠木正成」像へと予定を変える。「像に近づき見上げると、正成の両頬に流れるものがあった。涙ではない。鳩のオシッコの跡である。忠君愛国など気にも留めない、鳩は平和の使者だったのだ」―。向井さんは小説を以下のように結んでいる。

 

 「ならば、これからも、BARABARA(文中ではロ-マ字が実際にバラバラの配置になっている)と外れ続けてやろう。種子のように外れては、不逞の輩をバラ撒くのだ。アスファルトの道路のひびにもぐり込み、発芽の時をじっと待つのだ。頬がふくらむ。まるで億兆の種子をふくんだようだった」―。世の中の意に沿うよう忠実に「割れてきた」ことへの意趣返しの捨てゼリフみたいにも聞こえる。

 

 「人と人とを隔て、差別と抑圧を産み出す『境界』。その解体を目論み、死の直前までゲリラ的な執筆活動を持続した反骨の作家」―と帯に書かれている。4年前、『向井豊昭傑作集/飛ぶくしゃみ』(岡和田晃編著)が発刊され、文壇から黙殺され続けてきた「向井文学」に光が当てられた。今月号(3月)の文芸誌『すばる』は文芸評論家、山城むつみさんの評論「カイセイエ―向井豊昭と鳩沢佐美夫」を掲載している。鳩沢(故人)は『コタンに死す』や『沙流川』などで知られるアイヌの作家である。「カイセイエ」とは向井の作品『脱穀』に由来し、アイヌ語で「人間の抜け殻」を意味するという。向井文学をひも解く重要なキ-ワ-ドのひとつである。

 

 「《ここ》の視野と《そこ》の視野は非対称的で、その空間は不均質である。…私が《そこ》という言葉で念頭に置いているのは、さしあたり、旧日本帝国の植民地ないし準植民地だった朝鮮半島、台湾、沖縄、北海道である。《ここ》という言葉で念頭に置いているのは、さしあたり、それらに対する、いわゆる“内地”あるいは“本土”である。『さしあたり』と断るのは、《ここ》にも《そこ》は散在するし、逆に《そこ》にも《ここ》は点在するからである」―。山城さんはこうした前提に立ちながら、向井文学の「自覚」性に注目している。前掲『脱穀』の中で向井さんはこう繰り返している。

 

 「まぎれもない侵略者の家系に、わたしはつながっているのだった」、「わたしがアイヌの子ども達を日本語で教育する以上、それは帝国主義的同化政策の仕上げに加担していることなのだ」……。その一方で、作品のあちこちにはたとえば、教え子のアイヌの少女に向けられる隠微な眼差しが見え隠れする。被差別者を上から見下ろすようなに差別者の位置関係が垣間見える。「この種の非対称的な欲動(よくどう)が内部でうごいていることを自らに偽らなかった点で傑出した作家だ」と山城さんは書いている。独りよがりな“加害者意識”が先行し、アイヌの前に頭をたれるだけで良しとする安易な慈悲心がそこにはない。私が北海道(アイヌモシリ)や沖縄(ニライカナイ)に向き合う際の立ち位置として学んだのは、自己欺瞞を隠そうとしない向井さんのそんな姿勢だった。

 

 鳩沢は「アイヌの…」と呼ばれるのを嫌ったという。「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」という意味である。向井さんがバラバラに自己解体を試みた背後には本当の「人間」に立ち戻りたいという思いがあったからかもしれない。鳩沢がそう願ったように…。『BARABARA』が早稲田文学新人賞を受賞した時、唯一、評価したのはフランス文学者で映画評論家の蓮實重彦さんだった。「野蛮な言葉」というタイトルでこう書いている。「言葉が感性をまがまがしく刺激する凶器であることを、文学は忘れてしまったのだろうか。…ここで断言できるのは、今月号の文芸雑誌を飾る文壇作家たちの作品のどれにもまして、この作品の言葉が鈍い興奮をあたりに行きわたらせているという一点につきている」(1995年12月21日付「朝日新聞」)

 

 私たちはいまこそ、虚飾にまみれた己自身をバラバラに解体し、その臓腑(ぞうふ)のありさまをまじまじと見据えなければなるまい。抜け殻となった「人間」復権のためにも…。

 

 

(写真は妻の恵子さんが描いた油絵「豊昭像」と贈呈されたサイン本。「BARABARAは花のたね」とバラバラに書かれている)

 

 

 

2018.02.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

生と死、そして「果てる」ということ

  • 生と死、そして「果てる」ということ

 「生」とは何か、そして「死」とは!?……年明け早々から、のっぴきならない命題を背負わされてしまった。火付け役は言わずと知れた芥川賞作品『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子著)である。岩手・遠野出身の63歳。デビュ-作がいきなり受賞するという快挙だった。そのキ-ワ-ドは「ひとり」―。タイトルの由来は宮沢賢治の詩「永訣の朝」に出てくるロ-マ字書きの有名な一節ーOraOradeShitoriegumo」である。死出に旅立とうとする妹トシとの別れを詠った詩だが、この「Shitori」に比べ「ひとり」の方はやけに賑やかなのだ。一体、どうしたことなのか―。

 

  「おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる。おらの思考は、今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。おらの心の内側にどやって住んでんだが。あ、そだ。小腸の柔毛(じゅうもう)突起のよでねべが。それでもいい、おらの心がおらに乗っ取られでも」―。主人公の「桃子」さんは現在、74歳。東京オリンピックの時に東北のふるさとを飛び出して早や50年。15年前に夫を亡くしていまは一人暮らし、のはずなのだが…。桃子さんは絶えず、誰かと話している。どうも桃子さんの分身たちのようなのだが、心のどこかで夫との「死別」を喜んでいるような気配も感じられる。桃子さんの口からふと、もれる。

 

 「周造(夫)は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我れの力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった。なんと業の深いおらだったか。それでもおらは自分を責めね。責めではなんね。周造とおらは繋がっている。今でも繋がっている。周造はおらを独り生がせるために死んだ。はがらいなんだ」―。夫の死がもたらしてくれた「ひとり」のはずだったが、桃子さんはまいまも夫と一緒に生きているようなのである。「生の躍動」を発散する“桃子さん”フィ-バ-に世間が沸いていた時、ひとりの老年の男が冬空の東京・多摩川にわが身を沈めた。

 

 保守派の論客、西部邁さんの「自裁死」(享年78歳)―つまり「自死」(ひとり死)である(1月29日付当ブログ「ある保守論客の自裁死」参照)。遺書の体裁をとった絶筆『保守の真髄―老酔狂で語る文明の紊乱』(2017年12月20日)の最後に「人工死に瀕するほかない状況で、病院死と自裁死のいずれをとるか」という一節を設け、こう語っている。「病院死を自然死と呼ぶなどというフェイク(嘘)の言葉遣いを含めて病院死を選ぶ者が圧倒的に多く、自裁死を変死扱いする風潮があるのが述者(西部)には、不満であるというよりも、解せないのである。それは『死に方は生き方だ』ということを考えない者たちの抱くふしだらな思考習慣からきた病院依存症にすぎないのではないか」

 

 西部さんと私は同じ「60年安保」世代である。ブログでも言及したように、この世代に共通するのは「安保DNA」とも呼べる、青臭くも頑固な”矜持(きょうじ)”みたいなものを後生大事に手放さないでいることである。だから、西部さんの死を「思想死」と名づける向きもある。私自身、そんな気もするし、そうでもないような気もする。妻の真智子さんは4年前、8年間の闘病の末に亡くなった。学生運動の“同志”でもあった妻を、西部さんは付きっきりで看病した。その間、『妻と僕―寓話と化す我らの死』(2008年)と題する本を上梓(し)している。「死して生きる」―。西部さんの自裁死は、実は真智子さんとの「生」を「生き直す」ための予定された旅立ちではなかったのか。桃子さんが死別した夫の周造と生き直しているように…。

 

 「お果てになりました」―。土地の言葉で「無常の使い」というその知らせは未明の静寂が運んでくれたような気がした。水俣病患者に寄り添い続けてきた作家の石牟礼道子さんには生前、何度かお会いしたことがある。作家のいとうせいこうさんが言うように「チャ-ミングな巫女(みこ)」(2月11日付「朝日新聞」)のような方だった。90歳の生涯を石牟礼さんは「あの世」と「この世」を行ったり来たりしていたのではなかったか。ふと、そう思う。最後にその間を取り持つのが「死」を告知するこの無常の使いなのだという。作家の池澤夏樹さんが追悼文の中で、その生きざまをこう語っている(2月10日付当ブログ参照)。

 

 「そもそもこの人自身が半分まで異界に属していた。それゆえの現世での生きづらさが前半生での文学の軸になった。その先で水俣病の患者たちとの連帯が生まれた。彼らが『近代』によって異域に押し出された者たちだったから。それはことのなりゆきとして理解できる。でも、たぶん石牟礼道子は初めから異界にいた。そこに相互の苦しみを通じて回路が生まれたのだろう」―。苦海に沈んだ患者家族の霊魂たちとの交感、加害企業・チッソに凛(りん)として向き合うその眼差し…。「生と死」を同時に共有していたという意味で、石牟礼さんはこの二つを超越して、文字通り「果てた」のだと思う。

 

 桃子さんの「生」に始まり、この一カ月余りの間に二つの大きな悲報に接した。70台の後半を迎えた私がその分、「あっち」に近づいたということである。立て続けの「喪失感」は計りしれない。石牟礼さんに代わって、今度は“元気印”の桃子さんに背中を押してもらおうと思う。ちょっとすまし顔で、石牟礼さんが森羅万象(しんらばんしょう)の真ん中にちょこんと座っているのが遠くの方に見える…。合掌

 

 

(写真は芥川賞を受賞した若竹さん。「ひとり」論争に一石を投じた=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.02.13:masuko:コメント(0):[身辺報告]

訃報―石牟礼道子さん、逝く…「石牟礼さんがもういない」(池澤夏樹)

  • 訃報―石牟礼道子さん、逝く…「石牟礼さんがもういない」(池澤夏樹)

 水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パ-キンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去した。90歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は長男道生(みちお)さん。

 

 熊本県・天草に生まれ、生後まもなく対岸の同県水俣町(現水俣市)に移住した。短歌で才能を認められ、1958年、詩人谷川雁(がん)氏らと同人誌「サ-クル村」に参加。南九州の庶民の生活史を主題にした作品を同誌などに発表した。68年には「水俣病対策市民会議」の設立に参加。原因企業チッソに対する患者らの闘争を支援した。水俣病患者の心の声に耳をすませてつづった69年の「苦海浄土 わが水俣病」は高い評価を受け、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と辞退した。以降も「苦海浄土」の第3部「天の魚」や「椿(つばき)の海の記」「流民の都」などの作品で、患者の精神的な支えになりながら、近代合理主義では説明しきれない庶民の内面世界に光をあてた。

 

 2002年には、人間の魂と自然の救済と復活を祈って執筆した新作能「不知火(しらぬい)」が東京で上演され、翌年以降、熊本市や水俣市でも披露された。晩年はパ-キンソン病と闘いながら、50年来の親交がある編集者で評論家の渡辺京二さんらに支えられ、執筆を続けた。中断したままだった「苦海浄土」第2部の「神々の村」を2004年に完成させ、3部作が完結。11年には作家池澤夏樹さん責任編集の「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一収録された。

 

 73年、水俣病関係の一連の著作で「アジアのノ-ベル賞」として知られるフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」、93年には不知火(しらぬい)の海辺に生きた3世代の女たちを描いた「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞。環境破壊による生命系の危機を訴えた創作活動に対し、01年度の朝日賞を受賞。03年に詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞を受けた。全17巻の全集(藤原書店)は13年までに刊行(14年に別巻の自伝)。他の著作に「西南役伝説」「アニマの鳥」「陽のかなしみ」「言魂(ことだま)」(故・多田富雄氏との共著)など多数。15年1月から本紙西部本社版で、17年4月から全国版でエッセー「魂の秘境から」を連載中だった。

 

 

 今年1月31日付の「魂の秘境から」―は「明け方の夢」というタイトルで、以下のような文章で閉じられている。

 

●…かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやって来る漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。

 

 ところが、昭和三十年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂(うわさ)が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(ねこだけ)に登る」と言い習わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。

 

 さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端(みずはな)に立ち合っていたのだった。

 

 

 追悼:「石牟礼さんがもういない」~池澤夏樹(作家)

 

 石牟礼さんがもういない。熊本に行っても、託麻台リハビリ病院にもトピア熊本にも石牟礼さんはいない。念のため、以前に暮らしていらしたやまもと内科の四階を覗(のぞ)いても、やはりおられない。あれらの部屋はみな空っぽになってしまった。この十年、何度となく熊本に通った。不知火海を一周して水俣に寄り、遠く高千穂へ走って夜神楽を見、一昨年の地震の惨状も確かめに行った。その他にも何かと理由を作って訪れた。すべて石牟礼さんに会うためだった。

 

 キンソン病でお首が揺れるのだが、いつもいい顔をしておられた。声が美しく、昔の話が次々に湧いて出て、お疲れを案じながらもついつい時間を忘れた。その場にいられることが何よりも嬉(うれ)しかった。何をしても上手な方で、病院の個室で炊飯器一つで煮物を作られる。これが本当においしい。いつも品のいいものを召していらして、どれも手作り。昔の布をつないで不思議な上着を仕立てられる。絵は最後まで描いておられたし、小声で歌われるのを聞いたこともある。この人の前に不細工な無能な男としてただ坐(すわ)っているのが苦しかった。身を持て余す思いがした。こちらからお渡しできるものが何一つなくて頂くばかり。それでも石牟礼さんはぼくが目の前にいることを喜んでおられる。

 

 病状を抑えるために服用している薬の副作用で頻繁に幻覚がやってくる。ここ二、三年はそういうお話が多くなった。去年の十一月に聞いたのは(今から思えば最後になったのだが)、「部屋の隅に街灯のように立つ二人の見知らぬ男」とか、「温泉で衣類を残して消えてしまった入浴客。みなで探すがいない」とか、「(昔の水俣の)とんとん村の海岸にいる。水平線に天草が見える。でも海を隔てる壁がある」というような話。 声が小さくなって口元に耳を寄せるようにして聴き取った。幻覚ではあるが、しかしそのまま石牟礼道子の文学でもある。

 

 そもそもこの人自身が半分まで異界に属していた。それゆえの現世での生きづらさが前半生での文学の軸になった。その先で水俣病の患者たちとの連帯が生まれた。彼らが「近代」によって異域に押し出された者たちだったから。それはことのなりゆきとして理解できる。でも、たぶん石牟礼道子は初めから異界にいた。そこに相互の苦しみを通じて回路が生まれたのだろう。

 

 去年、石牟礼さんは『無常の使い』という本を出された。「五〇年くらい前までわたしの村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった」と序にある。二人組で、正装で、行った先では「今日は水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、今朝方、お果てになりました」と口上を述べる。これは石牟礼さんがこれまでに書かれた追悼文を集めた一冊である。たくさんの人たちと深い魂の行き来があったことを証する名文集である。この時を迎えて読み返しながら、ここでもぼくは引け目を感じる。自分の場合はこんなに深く人々と交わることができなかった。縁を作れなかった。数少ない縁の一つが他ならぬ石牟礼さんとの出会いだった。

 

 数時間前、ぼくのもとに無常の使いが来た。「石牟礼道子さんが、今朝方、お果てになりました」と告げた(2月10日付「朝日新聞」電子版)

 

 

 

 

 

 

2018.02.10:masuko:コメント(0):[身辺報告]

85年ぶりの帰還―アイヌ遺骨…一方では”稲造給食”!?

  • 85年ぶりの帰還―アイヌ遺骨…一方では”稲造給食”!?

 

 「私のコタン、私の村/お母さんのそばへ、お父さんのそばへ/海をこえて山をこえて/鳥のように飛んでいきたい」―。「ヤイサマ」(即興歌)の調べに誘(いざな)われるようにして、白布に包まれたアイヌの遺骨がコタン(ふるさと)の墓地へと向かっている…。「85年ぶりの帰還」(藤野知明監督、2017年)と題された短編ドキュメントは、研究用に暴(あば)かれた先祖の霊がやっと墳墓の地に戻るまでを記録した作品である。確認されているだけで、全国12大学に1636体と、特定できない515箱分のアイヌの遺骨が収蔵されていることが判明している。全世界に散らばったアイヌなど先住民族の遺骨返還運動はようやく緒(ちょ)についたばかりである。

 

 2012年9月、北海道浦河町杵臼(きねうす)コタン出身の城野口ユリさんや小川隆吉さんら遺族3人が北海道大学を相手に、遺骨の返還と1人当たり300万円の慰謝料支払いを求める裁判を札幌地裁に起こした。当時、同大医学部では千体以上が確認され、敷地内の「アイヌ納骨堂」に保管されていた。約30年前、城野口さんは病床の母親に呼ばれた。「ユリ、オラはきっとあの世でご先祖さまに『オテッキナ』(アイヌ語で「叱られる」の意)される。エカシ(おじいさん)やフチ(おばあさん)、アチャ(父)、ハポ(母)のお骨を持ち去られたのを、ついに取り戻せなかったから…。代わりにユリ、ご先祖さまのお骨を必ず、取り返してくれ」―。これが遺言になった。

 

 提訴から4年後の2016年3月、大学側と和解が成立。12体分の返還が決まった。しかし、この“勝訴”を知らないまま、城野口さんは82歳で旅立った。わずか25分間の映像の中には、城野口さんがアイヌの言葉で歌う「ヤイサマ」や母親の遺言を切々と訴える姿が残されている。もうひとりの原告、小川さんには数十年前にお会いしたことがある。戦時中、北海道の炭鉱や土木現場には強制連行された朝鮮人がたくさんいた。過酷な労働に耐えかねて脱走が相次いだ。アイヌのコタンでは脱走者をこっそりとかくまい、衣類や食事を与えた。「アイヌと朝鮮人には互いに溶け合う気持ちが強かったんだよ。実はオレにも朝鮮の血が流れているんだ」とその時、小川さんはそう口にした。虚を突かれた。

 

 当時50代だったエカシはもう81歳に。あれからすでに30年以上の歳月が流れたのである。カムイノミ(神への祈り)や「イチャルパ」(先祖供養)…。アイヌプリ(伝統的なアイヌの作法)に従って土に還っていった霊たちに向かい、小川さんは「うれしいよ。ありがとう」と顔を崩した。この表情を見ながら、一方の私は「この受難も元をただせば…」といたたまれない気持ちになった。

 

 地元・花巻の偉人伝の中に「佐藤昌介」(1856年-1939年)と「新渡戸稲造」(1862-1933年)の名前が刻まれている。当地出身の佐藤は北海道帝国大学(現北海道大学)の初代総長で、「北大の父」と呼ばれる。『武士道』で知られ、国際連盟事務次長を務めた新渡戸の先祖はかつて当地に居住していた。しかし、この2人が北大の前身である札幌農学校時代に「殖(植)民学」を講義していたことは余り知られていない。いや、地元にとっては「タブ-」のひとつなのかもしれない。19世紀、欧米の学者たちが受刑者や先住民族の遺骨を集めるようになり、日本で中心的に収集を担ったのが北海道大学だった。その先導役を果たしたのがこの2人である。

 

 「新に農業を営むへき場所は、我北海道を措(お)いて他にあらさるなり、夫(そ)れ北海道の殖民は、即ち内国殖民なり…」という記述が佐藤の講義日誌に見える。井上勝生・北海道大学名誉教授(日本近代政治史)はこう書いている。「初期講義ノ-トから分かることは、(佐藤が)ニュ-ジ-ランド先住民族の土地十分の一保留法や、アメリカ合衆国インディアン保護法などを詳しく講義していた事実である。(講義ノ-ト)『殖民地政府の土蕃(どばん)に対する攻略』に記されていた。…当時の先住民族政策の最新知識であった」(『明治日本の植民地支配―北海道から朝鮮へ』)

 

 さらに、新渡戸は「北海道の殖民が大した困難を伴わなかったのは、原住民のアイヌ民族が、憶病で消滅に頻(ママ、「瀕=ひん」の間違いか)した民族だったからである」(『新渡戸稲造全集』第2巻)と書き残している。この点について、井上さんはこう指摘する。「この頃(1895年)の形質人類学では、欧米の影響を受けて、文明発展史や民族の優劣と関連させて、頭骨の形の解剖学的比較研究が、最新の学問として流行していた。…新渡戸は、頭骨の比較研究に知識と強い関心を持っていた」(同書)

 

 小川さんらの「遺骨返還」訴訟がきっかけとなり、その後も同様の裁判が相次ぎ、和解―返還が実現している。今年1月26日にはアイヌの有志団体が札幌医科大学と北海道に36体の返還を求めて提訴した。一方、昨年8月にはドイツ国内に保管されていたアイヌの頭骨1体分が返還された。海外に持ち出された遺骨が公式に返還されたのは初めてである。また、オ-ストラリア国内の博物館にも3体が保管されていることが判明しており、豪政府も返還を視野に入れた交渉に立ち上がっている。このほか、英国や米国でも存在が確認されている。

 

 和解成立後の集会で、小川さんはこう発言した。「人類学者が沖縄から持ち出した琉球人の遺骨も返還されなければならない」―。その眼差しは本土(ヤマト)を飛び越え、もう沖縄へと向かっていた。「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」(琉球大学内)は今年1月27日、アイヌ民族と連帯する、以下のような声明文(要旨)を発表した。

 

 「京都大学総合博物館に所蔵されている『百按司(むむじゃな)墓遺骨』の持ち出しは、門中(琉球の親族関係)関係者、地域住民などの了解を得たものではなかった。遺骨は日本政府による琉球の植民地化過程で奪われたのであり、人間としての尊厳や権利が大きく損なわれた国際的な人権問題だ。琉球人に対する冒涜(ぼうとく)行為への謝罪を強く要求する。研究会は琉球人・アイヌ遺骨返還に見る日本の植民地主義に強く抗議するとともに、同遺骨に関する完全な情報の公開、そして遺骨返還・再埋葬を要求する」(1月28日付「琉球新報」)―。

 

 地元で目にする、佐藤や新渡戸に関する“偉人伝説”の中には植民学に関わった過去の記述はほとんど見当たらない。私たちはもうそろそろ、足元の歴史を直視しなければならない時期を迎えているのかもしれない。

 

 

(写真は墳墓の地に向かう葬列。アイヌプリで行われた=2017年7月、映像画面から)

 

 

《追記》~食で先人知ろう 仙北小で新渡戸稲造ゆかりの給食

 

 盛岡市出身で国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(1862~1933)が好んで食べた料理を再現した給食が7日、同市の仙北小で全校児童約750人にふるまわれた。再現したのは、同市内丸にあったレストラン「公会堂多賀」で新渡戸がよく注文していたフランス料理。会食で必ず最初に出てきたというブイヤベースや、新渡戸が好んだマッシュルームのクリーム煮などを市学校栄養士会が洋食風にアレンジした。6年の北田寛人君(12)は「稲造さんも食べていたと思うとロマンを感じる」と話した(2月8日付「朝日新聞」岩手版)

 

 

2018.02.08:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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