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「STAR/SAND」―賢治と沖縄、そして震災7年、そしてあぁ公文書「改ざん」…

  • 「STAR/SAND」―賢治と沖縄、そして震災7年、そしてあぁ公文書「改ざん」…

 

 沖縄本島の本部港からフェリ-で約30分、真っ平らな島の中でそこだけが恐竜のように首をもたげている。「タッチュ-」(城山)の名で知られるグスク(城跡)で、標高は約172メ-トル。この島こそが「沖縄戦の縮図」と呼ばれた伊江島である。私がここを訪れたのは昨年5月。南西部の海岸線には大小のガマ(洞窟)がワニのように口を開けている。「ニャティヤガマ」はその中でも最大級の面積を誇り、「千人洞(ガマ)」の名前も持つ。沖縄戦のさ中、島民たちが防空壕として身を隠したのがその名の由来である。太平洋戦争末期の1944年、旧日本軍はこの島に東洋一の飛行場を建設したが、翌年4月には米軍が上陸。わずか6日間の戦闘で、島民の3分の1に当たる約1500人の命が奪われた。

 

 映画「STAR/SAND―星砂物語」(日豪合作、2017年公開)は、「卑怯な」日本兵と「憶病な」米兵…つまり、敵味方の“脱走兵”がニャティヤガマに身をひそめながら、共同生活を送る場面から始まる。監督は「戦場のメリ-クリスマス」(大島渚監督、1987年)で助監督を務めた、米国生まれでオ-ストラリア在住の作家、演出家のロジャ-・パルバ-スさん。青春時代、ベトナム戦争に遭遇したパルバ-スさんはその不条理に疑問を抱き、祖国を捨てた。以来、「戦時下において、“戦わない”裏切り」―をテ-マに掲げ、3年前、映画化の原作となる『星砂物語』を日本語で執筆・出版した。映画は以下のような展開で進行する。

 

 日系アメリカ人の母を持つ16歳の少女が日本に帰国し、ふとしたきっかけでこの島に住み着くことに。実はサンゴ礁の海に散らばる「星砂」に興味があったのだった。星の形の粒子からなる砂状の海洋性堆積物で、この砂には永遠の生命が宿っていると島の人たちは信じていた。二人の脱走兵と少女との間には不思議な連帯感みたいなものが築かれていくが、米兵の狙撃で負傷した日本兵の兄の出現で事態は一変する。「皇軍兵士」を誇る兄は憶病で裏切り者の二人を殺してしまう。それを見た少女も背後からその兄を突き殺す―。少女はガマでの出来事を日記に残して島を去る。戦後70年を経て、この存在を知った女子学生が卒業論文の資料として、日記をたどる形で戦争のむごさ…ガマの中で繰り広げられた「地獄」を追体験していく―。

 

 殺害される直前、脱走米兵が少女からプレゼントされた星砂を夜空に向かって放り投げるシ-ンがある。海底に沈んでいた星砂は一瞬のうちに天空に舞い上がり、銀河宇宙は満天の星空に姿を変える。皇軍兵士の栄光と狂気、そして破滅…。気の遠くなるようなアンビバレンスの背後にふと、宮沢賢治の物語世界が広がっていくような気がした。

 

 「Strong in the rain/Strong in the wind…」―。賢治の詩「雨ニモマケズ」の英訳などで知られるパルバ-スさんは著名な賢治研究者でもある。2008年には第18回宮沢賢治賞を受賞している。2月24日、盛岡で行われた映写会で舞台あいさつに立った際、私はこう問うた。「この映画に賢治の精神はどのように投影されているのか」―。パルバ-スさんは待ってましたとばかりに、ニッコリ微笑みながら答えた。「生前、賢治はせいぜい関西までしか足を延ばしていない。しかし、その精神は広大無辺だ。星砂のシ-ンでは賢治の『よだかの星』や『銀河鉄道の夜』などを無意識のうちにイメ-ジしていた。銀河宇宙のように生命はひとつにつながっている。そのことを訴えたかった。沖縄を舞台にした“賢治映画”かもしれない」

 

 伊江島には琉歌にちなんで「ヌチドゥタカラ(命が宝)の家」と名付けられた反戦平和資料館がある。「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ(聖書)/基地をもつ国は基地で亡び/核をもつ国は核で亡ぶ」―。入口の壁にはこんな文字が大書されている。「沖縄のガンジ-」と呼ばれた阿波根昌鴻(あわごん しょうこう=1901年―2002年)が生涯をかけて捧げた非暴力・平和運動の生きた証しがここに収められている。パルバ-スさんは映画のねらいについて「非暴力の戦争映画を作りたかった」と語った。ロケ地をこの島に定めたのも決して偶然の巡り合わせではなかったのである。

 

 「If someone is near death in the south/He goes and says, ‘Don’t be afraid’」(南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ=パルバ-スさん訳「雨ニモマケズ」の一節から)―。銀河鉄道に運ばれるようにして、賢治の声は確かにニライカナイ(南の島)に届いていた。映画を見ながら、そう思った。

 

 と、ここまで書いて新聞をみやると、一面トップの大見出しが目に飛び込んできた。「沖縄本島にミサイル部隊/『地対艦』検討、中国牽制を強化」(2月27日付「朝日新聞」)―。政府が地対艦誘導弾(SSM)の部隊を沖縄本島に配備する方向で本格的な検討に入った―ことを伝えていた。日本最西端の与那国島には2年前から陸上自衛隊の沿岸監視部隊が置かれており、政府の計画では南西諸島(先島)の宮古島と石垣島にはSSM部隊のほか、SAM(地対空誘導弾)部隊の配備がすでに決まっている。「南西」脅威論に名を借りた“捨て石作戦”に他ならない。憲法に「自衛隊」の存在を明記するという“底意”がこれではっきりしたではないか。在日米軍と日本の自衛隊とが結託した、平成最後の置き土産としてのさらなる「琉球処分」―がその正体である。

 

 化けの皮がはがされたというのに…アベシンゾウよ、政府・与党の面々よ、居直りを続けるのはもう、いい加減にやめんか!!追っかけるように公文書”改ざん”事件が浮上!!!国会周辺には「アベヤメロ」コール!!!!

 

★いつまでも本土の出城にされる島(2月28日付「朝日川柳」)

★知らず知らず「先軍政治」に染まりだし(同上)

★どう生きるかが大事だってよ安倍総理(同上)

 

 

(写真はニャティヤガマの中で日本兵(満島真之助)と向き合う少女(織田梨沙)=インタ-ネット上に公開の映画シ-ンから)

 

 

 

《追 悼》―震災7年と白銀さん

 

 

 2018年3月11日午後2時46分、東日本大震災から7年を迎えた。今年1月吉日の日付で被災者の白銀照男さん(69)から転居通知が届いた。「この度、震災以前に暮らしていた近くに家を再建しました。母と妻、娘の3人はまだ行方不明のままですが、必ず見つかると信じ祈りながら前へと進んでいきます。避難所や仮設住宅での6年10カ月を経て、息子夫婦と孫2人の5人暮らしです」

 

 新住所は岩手県上閉伊郡大槌町安渡2丁目7番3号ー。「安渡」(あんど)の地名を見てホッとさせられた。忘却を峻拒(しゅんきょ)するすべての「記憶」がこの地名には刻まれているからである。「安渡」とは元々「安堵」(あんど)の意が込められた命名だったにちがいない。震災直後、白銀さんは「3人がわが家に戻ってくる時、迷子になったら困る。だから…」と話していた。冬の長かった東北・岩手の地にも遅い春が駆け足でやってきた。近く、新居を訪ねてみようと思う。

 

 「3・11大震災とイーハトーブ」、「三陸の未来に光あれ」…。仲間たちと企画した追悼イベントのポスターがまだ、書斎の壁に貼られたままである。「かあさ~ん、はち子、美由紀…」―、がれきの荒野に肉親を捜し求める、白銀さんの声がいまも耳の奥にこだましている。震災7年のこの日、朝茶を飲もうと戸棚を開くと、愛用の湯飲み茶わんが割れているのに気が付いた。一瞬、不吉な予感がした。破壊された土偶には生命再生の願いが込められているとも言われる。そのことをふと、思い出した。いや、この意想外の符合に実は内心、戦(おのの)きながら一日中、考え続けた末にたどり着いたというのが正直な気持ちである。7年目の節目が被災地の真の再生につながることを心から祈りたい。この日、私も78回目の誕生日を迎えた。

 

 He does not consider himself/In whatever occurs…his understanding/Comes from observation and experience/And he never loses sight of thingsアラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ=パルバースさん訳「雨ニモマケズ」から)

 

 

山城議長らに有罪判決

 

 

 名護市辺野古の新基地建設や東村高江の米軍北部訓練場ヘリコプター発着場建設に対する抗議活動を巡り、威力業務妨害や公務執行妨害・傷害などの罪に問われた山城博治沖縄平和運動センター議長(65)ら3人の判決公判が14日午後1時半、那覇地裁で開かれた。柴田寿宏裁判長は議長に懲役2年(求刑懲役2年6月)、執行猶予3年を言い渡した。ほか2人も猶予刑を言い渡した。うち一人は一部無罪とした。弁護団は判決を不服として即時控訴した。

 

 起訴状によると、山城議長は2016年1月に名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ工事用ゲート前でブロックを積み上げ、資材搬入の業務を妨害したとされる。弁護側は資材搬入を止めるためのブロックを積み上げ行為について、威力業務妨害を適用することは「表現の自由を侵害し違憲だ」などと主張し、器物損壊を除く各事案で無罪を訴えていた。那覇地裁周辺には議長らの支援者が多く駆け付け、拳を挙げて無罪を強く訴えていた【3月14日付琉球新報電子版】

 

 

 

《ブログ休載のお知らせ》

 

 

 私的な事情で恐縮ですが、妻の病気看護に専念するため、当ブログ「イ-ハト-ブ通信」をしばらくの間、休載させていただきます。これまでのご愛顧とご叱正に心より感謝を申し上げます。地方議会の片隅に身を置きながら、その内と外に垣間見えた出来事や現象をただ日記風に書き記したもので、アクセスしていただいた皆様方の心証は度外視した内容でした。失礼の段、お許しください。

 

 生地を同じくする宮沢賢治については当ブログでも何度か取り上げてきましたが、最終回も賢治だったことに我ながら驚いています。でも、単なる「賢治論」ではなく、その射程に「沖縄」が入っていたことに内心、ホッとしています。というのも、私自身の立ち位置の中で「賢治と沖縄」は密接不可分の関係にあるからです。「汝(なんじ)の立つところを深く掘れ、其処(そこ)に泉あり」―。沖縄学の祖、伊波普猷(いは ふゆう)の言葉を噛みしめています。またお会いできる日まで、お元気で…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.02.28:masuko:コメント(0):[身辺報告]

新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」と金子兜太、そして…

  • 新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」と金子兜太、そして…

 「駐車場雪に土下座の跡残る」―。ホスト同士のけんかの落とし前をつけた証(あかし)なのだろうか。切っ先鋭いが言葉がよどんだ空気を切り裂いていくような俳句が大都会の片隅から聞こえてくる。「俳句」という文字がなければ、きっとあの筋の組織だと思うだろうが、「屍(しかばね)派」はれっきとした俳句集団である。ニ-トやバ-テンダ-、元ホスト、女装家、前科のあるミュ-ジシャン…。月に一回、日本屈指の歓楽街・新宿歌舞伎町のビルの一角にあるたまり場「砂の城」に個性豊かな面々が集まってくる。酒を飲みながらの句会を仕切るのが北大路翼(きたおうじつばさ)さん(39)である。昨年暮、『アウトロ-俳句』を出版した。

 

 真冬、冷たい水のウォシュレットに見舞われた体験を本人はこう詠う、「ウォシュレットの設定変へた奴殺す」―。横浜出身で、小学生の時に種田山頭火の俳句に出会い、この世界にのめりこんだ。新宿コマ劇場の解体をきっかけに「変わりゆく歌舞伎町」をツイッタ-で投句。これを知った俳句好きの”はみ出し者”たちが集まり始めた。彼はこう語る。「屍派にはドロップアウトした経験を持つ、はみ出し者が多かった。みんなと同じであることを強要される社会に居心地の悪さを感じ、距離を置いていた」、「そういう人に限って、真面目すぎるのだ。俳句を上手く詠むためには、社会の見方を少し変えることが一歩となる。その力が身につけば、生きるのは少し楽になるに違いない。俳句は現代を生き抜くための処方箋なのだ」

 

 「アベ政治を許さない」―。「安保法制」の是非を巡って国論が二分した時、野太い筆文字のプラカ-ドが全国津々浦々に掲げられた。筆主の俳人、金子兜太さんが2月20日に亡くなった。享年98歳。太平洋戦争中、海軍の主計中尉としてトラック諸島に赴任。目の前で次々に倒れていく餓死者を目の当たりにした。この時の体験が後に「社会性俳句」の旗手としての地位を不動のものとした。置き去りにした仲間たちへの鎮魂をこう詠っている。「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」―。「反戦平和」を訴え続け、安保法制や沖縄の基地問題、米国のトランプ大統領、北朝鮮情勢などを俳句に託すなど「生涯現役」を貫いた。

 

 「KY」(2007年流行語大賞)から「忖度」(2017年同大賞)へ―。KYは「空気を読む」のローマ字略語。医師の鎌田實さんは自著『空気は読まない』の中にこう書いている。「KYって初めて聞いたとき、なんのことだかわからなかった。『空気が読めないヤツ』のことだと教えてもらった。KYって言われたくなくて、みんなが、空気にとらわれはじめた。…昔、みんなが空気感染して、なんだかわからないうちに、ぼくたちの国は戦争をしてしまった。『空気』ばかり読んでいると、あの時代のように、人は、自分の意見や意思を、見失ってしまうのではないだろうか」

 

 「読む」空気があったうちはまだ良かった。わずか10年間の間に私たちは「読むべき空気」さえも自失した「忖度」という名の世界を生きているのではないか。周囲を見渡すと、ヒラメみたいな“上目使い”ばかりである。卑近な例をひとつ―。本来は部下に向けられるべき目線が…係長→課長→部長→副市長→市長へと上昇志向を続けるってな具合。「そりゃそうだよ。『上だ』(上田市政)だもんな」とはある皮肉屋の弁である。議会だって、同じ穴のむじな…九ちゃんの意には決して沿ってはいない「上を向いて歩こう」の大合唱である。

 

 「言葉は凶器である」(2月16日当ブログ「『BARABARA』-向井豊昭の世界」参照)―。屍派の俳人たちや金子さんらは「凶器としての言葉」を携え、よどんだ空気に立ち向かって行った。「忖度」世界にはもはや空気だけではなく、語るべき言葉さえも見当たらない。鎌田さんは自著を以下のように結んでいる。私たちはいま、その言説とは真逆の世界を生きていると思えば間違いはない。上から強制されるのではなく、自らが率先して手を貸す「新手のファシズム」である。

 

 「空気は、人に、街に、時代に伝染する。じわじわ広がり、いつの間にか、気分を高揚させたり停滞させたりする。ときには、景気さえ左右し、経済を動かす。ときには、国を間違った方向に動かす。ときには、人間の行動や生き方までも、操っていく。まわりから浮きたくないと、必死で空気を読む。空気にとらわれる。結局、小さな生き方から出られない。気概を忘れていく。気が抜けていく。心が鬱々(うつうつ)としてくる。空気に流されるな。空気をつくり出せ。空気をよどますな。空気をかきまわせ。それが新しい生き方になる。それが新しい時代をつくり出す。信じていい。空気は…読まない」―。

 

 ”ヒラメ人間”に席巻(せっけん)された感のある、この国はどんよりとよどんだ空気にすっぽりと覆(おお)われている。今日、確定申告をしてきた。「忖度」長官が住まう霞が関の中央官庁には連日、「納税者一揆」の抗議デモが押しかけているらしい。「失言癖」のある例の財務相が納税者を小バカにする発言をしでかし、世間は炎上気味。一揆衆よ!空気を、言葉を取り戻すために頑張れ。気のせいか、この日応対した税務職員は随分と丁寧だった。

 

(写真は自身が編纂した『アウトロ-俳句』を手にする北大路さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.02.23:masuko:コメント(0):[身辺報告]

政界の”狙撃手“と革新市長

  • 政界の”狙撃手“と革新市長

 「憲法をないがしろにしたこの法案を通すことは、市民の命を守らなければならない市長として断じて容認することはできません」―。「安全保障関連法」(安保法制=2015年9月30日公布)の国会審議が大詰めを迎えていた約2年半前、私は花巻市議会9月定例会である首長の発言を引用しながら、「国政と地方自治」との関わりについて上田東一市長の見解をただした。件(くだん)の首長とは兵庫県宝塚市の中川智子市長(現在3期目)である。冒頭の文章は中川市長が広報たからづか(2015年8月号)の「市長からの手紙」に掲載した意見表明である。今年1月26日に逝去した元自民党幹事長の野中広務さん(享年92歳)が実は中川市長の“政治の師”だったことを初めて知った。「政治」の本来のあるべき姿を教えられたような気がした。

 

 「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」―。「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)の採決に際し、特別委員会の委員長だった野中さんが異例の発言をした。「不穏当な発言」として、会議録から一部が削除された。発言に先立ち、野中さんは沖縄での辛い体験を披歴している。「タクシ-の運転手が突然、ブレ-キを強く踏んで車を停め『あそこのサトウキビ畑で私の妹が殺された』と言ったかと思うと、急に泣き出した。号泣はしばらく止まらなかった。しかも、やったのは米軍ではなかった(つまり、旧日本軍だった)」

 

 朝日新聞編集委員の秋山訓子さんがこの先の物語について、紹介していた。「当時、これを聞いて感動のあまり、矢も盾もたまらず野中事務所に走っていった国会議員がいた。社民党の一年生議員だった中川智子氏だ。ちょうど野中氏も自室にいて、中川氏の勢いに驚かれながらも会うことができた。『私は、今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった。私も沖縄には同じ思いです』。夜、中川氏が議員宿舎に帰ると郵便受けに野中氏からのメモが入っていた。『これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい』。携帯電話の番号があった」(2月15日付「朝日新聞」ザ・コラム=要旨)―。政界の”狙撃手“と恐れられていた実力者と物おじしない「おばさんパワ-」との不思議な邂逅(かいこう)だった。

 

 「いい話だな」と思った。その背後にある種の政治的な思惑があったとしても、何か思想・信条を越えた「同志」としての絆(きずな)みたいなものを感じたからである。互いにそれを支えたのは、弱者に寄り添う眼差しなのだろうと思う。後日談は続く。「中川氏は薬害ヤコブ病の患者救済や介助犬といった身体障害者補助犬法などに取り組んだ。野中氏だけでなく多くの与党の実力者に声をかけて巻き込んで、辛抱強くことを進めて法律を作った。2期務めて2003年の選挙で落選後、国政を去る。2009年、宝塚市長選に出馬した。市長が連続して収賄で逮捕という前代未聞の出来事の後だった。野中氏に相談すると『やりなさい』と背中を押してくれた。応援にも来てくれた」(同上コラム)

 

 「安保法制」国会の際、中川市長は全国市長会の総会の場でこう呼びかけた。「国民の6割が慎重審議を求め、8割が十分な説明がなされていないと感じているという世論調査もある。市長の最大の責任は市民の命を守ること。市長会として一切、議論しないことは将来に禍根を残す」(2015年6月11日付「朝日新聞」)。この会議に同席した、一方の上田市長は私の質問に対し、当時、以下のように答弁している。

 

 「地方自治法第1条の2において、地方公共団体は住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものと定められている。この規定により、防衛、軍事、安全保障などは国の所管であり、地方公共団体にはその権限はないと理解している。安保法制のかなめである沖縄の米軍基地、とくに喫緊(きっきん)の課題である米軍普天間飛行場の辺野古移転問題と地方自治のかかわりについては、花巻市域内の問題でない以上、憲法と地方自治法に定める市の権限と役割から、当市の地方自治に直接関連すると判断することはできないものと考える」(平成27年9月定例会会議録から=要旨)

 

 野中さんが亡くなった9日後の今年2月4日、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設(新基地建設)の是非が問われた名護市長選で、自民党や公明党など政府与党が推す基地容認派が新市長に選ばれた。野中さんが言い残した“遺言”などはどこ吹く風、「軍靴」の響きがふたたび、遠音のように覆(おお)い始めた。この時を待つかのようにして建設工事はさらに、加速されつつある。ヤマト(本土)の自治体のほとんどは相変わらず、見て見ぬふりを決め込み、永田町界隈は「一強多弱」という名の大政翼賛会に成り果てた。政治家としての使命感に燃えた同志的な結びつきはもう夢のかなたにかすんでしまったかのようである。

 

 野中さんは自らが被差別部落の出身であることを隠さなかった。「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」―と差別感情丸出しの発言をしたのは麻生太郎・副総理である。実はこの人の系列である麻生財閥が経営した「麻生炭鉱」(福岡・筑豊)は強制連行した朝鮮人を酷使した「圧政ヤマ」として知られる。閉山後、炭鉱跡地のあちこちから朝鮮人を含む遺骨がたくさん出てきた。炭鉱長屋の土壁から人骨がにゅっと、飛び出していたという信じられないような出来事もあった。私自身、その現場を取材した一人である。

 

 

 

写真は在りし日の野中さん。「ハト」派的な一面も兼ね備えていた=インタ-ネット上に公開の写真から)

2018.02.20:masuko:コメント(0):[身辺報告]

「BARABARA」―向井豊昭の世界

  • 「BARABARA」―向井豊昭の世界

 「朝は股の真ん中からくる。鶏のように首をもたげた陰茎を、今朝もまた布団の中の五本の指が握りしめていた」―。こんな書き出しで始まるこの小説は冒頭の行為をアイヌ語で解読する。「しゅいん(手淫)する」→「yayokoyki」(ヤヨコイキ)→「yay(自分の)+o(陰部)+koyki(いじめる)」―。「知里真志保の『分類アイヌ語辞典』にはこんな言葉が見られるが、『いじめる』とは、うまく言い当てたものである」…。のっけから、一発見舞われた気分になる。故向井豊昭さんの『BARABARA』は厄介な振る舞いを演じそうな自分を断ち切り、際限なく自己解体していく物語である。

 

 向井さんのサインのある同書の日付は「1999年3月11日」―。どうして私の誕生日になっているのかは判然としないが、初対面が19年前だったことはわかる。こんな過激な文章を書く人とは一体、どんな人物なのか。恐る恐る面会を申し入れた。「あぁ、いいですよ」。落ち合ったのは山手線の高田馬場駅だったと記憶している。大柄なその人の眼はメガネの奥で柔和に笑っていた。ひとり芝居の観劇や場末の居酒屋での文学談義…。お付き合いは2008年、75歳で亡くなるまで断続的に続いた。この出会いが私自身の立ち位置に大きな影響を与えてくれたと思っている。

 

 東京生まれの向井さんは東京大空襲に遭遇し、祖母のふるさとである現在の青森県むつ市へ疎開。高校を卒業後、県内の小学校で教鞭をとったが、29歳の時に北海道日高管内の小学校に転出。そこでの「アイヌ子弟」との出会いがその後の人生を決定的にした。アイヌの差別や貧困をテ-マにした作品を手がけ、教員仲間と「北海道ウタリ(アイヌ語で「仲間」の意)と教育を守る会」を立ち上げた。自らの偽善に気づかされたのはその活動のさ中である。ガリ版刷りの手書きの私家本『手』に向井さんはこう記している。「アイヌ語を滅ぼしたものの言葉(日本語)で、アイヌの復権を唱えている」―。そして10年後、アイヌの教育現場から“逃亡”する。

 

 「ゴキッ!骨の外れるような痛みを残して、自分が二つに割れていく。振り返ると、眼鏡を外したもう一人の自分が枕に頭をのせていた」―。制止する手を振りほどき、割れた方の自分はその日の始まりである朝食を普段通りに取る。本作の文中には南千住界隈(東京都荒川区)の風景も出てくる。そのひとつが「小塚原(こづかっぱら)回向院」―かつての刑場の跡である。近くに蘭学者の杉田玄白や前野良沢らが刑死者の腑(ふ)分け(解剖)に立ち会ったことを記念した「観臓記念碑」(1922年建立)が建っている。『解体新書』の扉を模した御影石の碑文にはこんなことが書かれている。「玄白等はオランダ語の解剖書タ-ヘル・アナトミアを持って来て、その図と実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた」―。

 

 ゴキッ、ゴキッ、ゴキッ……。自己解体はまるで腑分けのような勢いで進んでいく。代替教員である中年の男は教え子の膨(ふく)らみ始めた胸にいやらしい視線を送ったり、校長に暴力をふるいかねない素振りを見せる。そのたびにゴキッ、ゴキッ。そして、昭和最後の日を迎える。皇居に向かう人波は絶えない。それに誘(いざな)われるようにして、男は妻とひとり息子を連れて二重橋へ。あまりの人ごみのために「楠木正成」像へと予定を変える。「像に近づき見上げると、正成の両頬に流れるものがあった。涙ではない。鳩のオシッコの跡である。忠君愛国など気にも留めない、鳩は平和の使者だったのだ」―。向井さんは小説を以下のように結んでいる。

 

 「ならば、これからも、BARABARA(文中ではロ-マ字が実際にバラバラの配置になっている)と外れ続けてやろう。種子のように外れては、不逞の輩をバラ撒くのだ。アスファルトの道路のひびにもぐり込み、発芽の時をじっと待つのだ。頬がふくらむ。まるで億兆の種子をふくんだようだった」―。世の中の意に沿うよう忠実に「割れてきた」ことへの意趣返しの捨てゼリフみたいにも聞こえる。

 

 「人と人とを隔て、差別と抑圧を産み出す『境界』。その解体を目論み、死の直前までゲリラ的な執筆活動を持続した反骨の作家」―と帯に書かれている。4年前、『向井豊昭傑作集/飛ぶくしゃみ』(岡和田晃編著)が発刊され、文壇から黙殺され続けてきた「向井文学」に光が当てられた。今月号(3月)の文芸誌『すばる』は文芸評論家、山城むつみさんの評論「カイセイエ―向井豊昭と鳩沢佐美夫」を掲載している。鳩沢(故人)は『コタンに死す』や『沙流川』などで知られるアイヌの作家である。「カイセイエ」とは向井の作品『脱穀』に由来し、アイヌ語で「人間の抜け殻」を意味するという。向井文学をひも解く重要なキ-ワ-ドのひとつである。

 

 「《ここ》の視野と《そこ》の視野は非対称的で、その空間は不均質である。…私が《そこ》という言葉で念頭に置いているのは、さしあたり、旧日本帝国の植民地ないし準植民地だった朝鮮半島、台湾、沖縄、北海道である。《ここ》という言葉で念頭に置いているのは、さしあたり、それらに対する、いわゆる“内地”あるいは“本土”である。『さしあたり』と断るのは、《ここ》にも《そこ》は散在するし、逆に《そこ》にも《ここ》は点在するからである」―。山城さんはこうした前提に立ちながら、向井文学の「自覚」性に注目している。前掲『脱穀』の中で向井さんはこう繰り返している。

 

 「まぎれもない侵略者の家系に、わたしはつながっているのだった」、「わたしがアイヌの子ども達を日本語で教育する以上、それは帝国主義的同化政策の仕上げに加担していることなのだ」……。その一方で、作品のあちこちにはたとえば、教え子のアイヌの少女に向けられる隠微な眼差しが見え隠れする。被差別者を上から見下ろすようなに差別者の位置関係が垣間見える。「この種の非対称的な欲動(よくどう)が内部でうごいていることを自らに偽らなかった点で傑出した作家だ」と山城さんは書いている。独りよがりな“加害者意識”が先行し、アイヌの前に頭をたれるだけで良しとする安易な慈悲心がそこにはない。私が北海道(アイヌモシリ)や沖縄(ニライカナイ)に向き合う際の立ち位置として学んだのは、自己欺瞞を隠そうとしない向井さんのそんな姿勢だった。

 

 鳩沢は「アイヌの…」と呼ばれるのを嫌ったという。「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」という意味である。向井さんがバラバラに自己解体を試みた背後には本当の「人間」に立ち戻りたいという思いがあったからかもしれない。鳩沢がそう願ったように…。『BARABARA』が早稲田文学新人賞を受賞した時、唯一、評価したのはフランス文学者で映画評論家の蓮實重彦さんだった。「野蛮な言葉」というタイトルでこう書いている。「言葉が感性をまがまがしく刺激する凶器であることを、文学は忘れてしまったのだろうか。…ここで断言できるのは、今月号の文芸雑誌を飾る文壇作家たちの作品のどれにもまして、この作品の言葉が鈍い興奮をあたりに行きわたらせているという一点につきている」(1995年12月21日付「朝日新聞」)

 

 私たちはいまこそ、虚飾にまみれた己自身をバラバラに解体し、その臓腑(ぞうふ)のありさまをまじまじと見据えなければなるまい。抜け殻となった「人間」復権のためにも…。

 

 

(写真は妻の恵子さんが描いた油絵「豊昭像」と贈呈されたサイン本。「BARABARAは花のたね」とバラバラに書かれている)

 

 

 

2018.02.16:masuko:コメント(0):[身辺報告]

生と死、そして「果てる」ということ

  • 生と死、そして「果てる」ということ

 「生」とは何か、そして「死」とは!?……年明け早々から、のっぴきならない命題を背負わされてしまった。火付け役は言わずと知れた芥川賞作品『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子著)である。岩手・遠野出身の63歳。デビュ-作がいきなり受賞するという快挙だった。そのキ-ワ-ドは「ひとり」―。タイトルの由来は宮沢賢治の詩「永訣の朝」に出てくるロ-マ字書きの有名な一節ーOraOradeShitoriegumo」である。死出に旅立とうとする妹トシとの別れを詠った詩だが、この「Shitori」に比べ「ひとり」の方はやけに賑やかなのだ。一体、どうしたことなのか―。

 

  「おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる。おらの思考は、今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。おらの心の内側にどやって住んでんだが。あ、そだ。小腸の柔毛(じゅうもう)突起のよでねべが。それでもいい、おらの心がおらに乗っ取られでも」―。主人公の「桃子」さんは現在、74歳。東京オリンピックの時に東北のふるさとを飛び出して早や50年。15年前に夫を亡くしていまは一人暮らし、のはずなのだが…。桃子さんは絶えず、誰かと話している。どうも桃子さんの分身たちのようなのだが、心のどこかで夫との「死別」を喜んでいるような気配も感じられる。桃子さんの口からふと、もれる。

 

 「周造(夫)は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我れの力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった。なんと業の深いおらだったか。それでもおらは自分を責めね。責めではなんね。周造とおらは繋がっている。今でも繋がっている。周造はおらを独り生がせるために死んだ。はがらいなんだ」―。夫の死がもたらしてくれた「ひとり」のはずだったが、桃子さんはまいまも夫と一緒に生きているようなのである。「生の躍動」を発散する“桃子さん”フィ-バ-に世間が沸いていた時、ひとりの老年の男が冬空の東京・多摩川にわが身を沈めた。

 

 保守派の論客、西部邁さんの「自裁死」(享年78歳)―つまり「自死」(ひとり死)である(1月29日付当ブログ「ある保守論客の自裁死」参照)。遺書の体裁をとった絶筆『保守の真髄―老酔狂で語る文明の紊乱』(2017年12月20日)の最後に「人工死に瀕するほかない状況で、病院死と自裁死のいずれをとるか」という一節を設け、こう語っている。「病院死を自然死と呼ぶなどというフェイク(嘘)の言葉遣いを含めて病院死を選ぶ者が圧倒的に多く、自裁死を変死扱いする風潮があるのが述者(西部)には、不満であるというよりも、解せないのである。それは『死に方は生き方だ』ということを考えない者たちの抱くふしだらな思考習慣からきた病院依存症にすぎないのではないか」

 

 西部さんと私は同じ「60年安保」世代である。ブログでも言及したように、この世代に共通するのは「安保DNA」とも呼べる、青臭くも頑固な”矜持(きょうじ)”みたいなものを後生大事に手放さないでいることである。だから、西部さんの死を「思想死」と名づける向きもある。私自身、そんな気もするし、そうでもないような気もする。妻の真智子さんは4年前、8年間の闘病の末に亡くなった。学生運動の“同志”でもあった妻を、西部さんは付きっきりで看病した。その間、『妻と僕―寓話と化す我らの死』(2008年)と題する本を上梓(し)している。「死して生きる」―。西部さんの自裁死は、実は真智子さんとの「生」を「生き直す」ための予定された旅立ちではなかったのか。桃子さんが死別した夫の周造と生き直しているように…。

 

 「お果てになりました」―。土地の言葉で「無常の使い」というその知らせは未明の静寂が運んでくれたような気がした。水俣病患者に寄り添い続けてきた作家の石牟礼道子さんには生前、何度かお会いしたことがある。作家のいとうせいこうさんが言うように「チャ-ミングな巫女(みこ)」(2月11日付「朝日新聞」)のような方だった。90歳の生涯を石牟礼さんは「あの世」と「この世」を行ったり来たりしていたのではなかったか。ふと、そう思う。最後にその間を取り持つのが「死」を告知するこの無常の使いなのだという。作家の池澤夏樹さんが追悼文の中で、その生きざまをこう語っている(2月10日付当ブログ参照)。

 

 「そもそもこの人自身が半分まで異界に属していた。それゆえの現世での生きづらさが前半生での文学の軸になった。その先で水俣病の患者たちとの連帯が生まれた。彼らが『近代』によって異域に押し出された者たちだったから。それはことのなりゆきとして理解できる。でも、たぶん石牟礼道子は初めから異界にいた。そこに相互の苦しみを通じて回路が生まれたのだろう」―。苦海に沈んだ患者家族の霊魂たちとの交感、加害企業・チッソに凛(りん)として向き合うその眼差し…。「生と死」を同時に共有していたという意味で、石牟礼さんはこの二つを超越して、文字通り「果てた」のだと思う。

 

 桃子さんの「生」に始まり、この一カ月余りの間に二つの大きな悲報に接した。70台の後半を迎えた私がその分、「あっち」に近づいたということである。立て続けの「喪失感」は計りしれない。石牟礼さんに代わって、今度は“元気印”の桃子さんに背中を押してもらおうと思う。ちょっとすまし顔で、石牟礼さんが森羅万象(しんらばんしょう)の真ん中にちょこんと座っているのが遠くの方に見える…。合掌

 

 

(写真は芥川賞を受賞した若竹さん。「ひとり」論争に一石を投じた=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

2018.02.13:masuko:コメント(0):[身辺報告]
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