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憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

  • 憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

 沖縄は「憲法の及ばぬ島」と呼ばれてきた。戦力の不所持と交戦権の放棄を定めた「憲法第9条2項」を見れば、その理由は歴然としている。沖縄は戦後一貫してアメリカの支配下に置かれ、日本への復帰(1972年)を経た現在に至るまで、「在日」米軍基地の約7割が置かれたままである。この間、米軍は日本の領土である「沖縄」から出撃。ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争などに参戦してきた。沖縄は「9条2項」の埒埒外(らちがい)に置かれ、さらに米軍基地がもたらす事故や騒音、女性暴行などの基本的人権の侵害にもさらされ続けている。このように、“平和”憲法は実は沖縄の犠牲の上に成り立ってきたのであり、このことに私たちヤマト(本土)の側は相変わらず、無知・無関心を決め込んでいる。

 

 「我が党は結党以来、憲法改正を党是として掲げてきた。いよいよ実現する時を迎えている」―。安倍晋三首相は22日開会の通常国会の冒頭で「2020年改憲」に意欲を見せた。その骨子は「9条2項」を維持したまま、自衛隊を明記するという内容になっている。これを先取りするように、沖縄・南西諸島の宮古島、石垣島などには中国や北朝鮮の脅威論をタテに、陸上自衛隊のミサイル配備計画が着々と進められている。この改憲が実現すれば、皮肉なことに今度は沖縄が真っ先に憲法の「及ぶ島」になる。一方、「改憲」論議が白熱化する3月下旬、天皇・皇后両陛下が沖縄訪問に旅立つ。2年前に沿岸監視隊(陸自)が配備された、日本最西端の与那国島も初めて訪れる。

 

 「アウトソ-シング」という言葉がある。直訳すると「外部委託」という意味になる。「天皇が能動的な象徴たらんとすることを、政治の側が逆手にとるリスクも出てきています。今は、天皇が進んで被災地を訪れていますが、政治がそれを利用しようという気になれば、結果的に被災者の政治への不満を天皇が和らげ、政治の不作為を覆い隠してしまうことにもなりかねません」(2017年12月2日付「朝日新聞」)―。神戸女学院大学の河西秀哉准教授(日本近現代史)はこう説明する。「政治の不作為」の最たるものが、現在に至るまでの「沖縄戦後史」である。

 

 今から43年前の1975年7月、皇太子時代の両陛下が初めて沖縄の地を踏んだ。南部戦跡の「ひめゆりの塔」で沖縄戦の説明に耳を傾けていた時、過激派から火炎瓶を投げつけられるという事件が起きた。「(沖縄に対する米国の軍事占領は)日本の主権を残したままで、25年ないし50年あるいはそれ以上の長期租借でなされるべき」(1947年9月)―。実は昭和天皇は沖縄の戦後処理について、こうした考えを米国側に伝えていたことが後にわかった。「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」―いわゆる「沖縄メッセ-ジ」と呼ばれる文書である。天皇の名のもとに「捨て石」にされた沖縄の人々の間には、「皇室」に反発する声も強かった。その日、皇太子は沖縄県民に向けたもうひとつのメッセ-ジを発表した。

 

 「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷痕を深く省み、平和への願いを未来に繋げ、共々に力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖(あがな)えるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省のうちにあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」―。さらに、事件後の12月に行われた記者会見ではこう語った。「沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを直視していくことが大事です。避けてはいけない」

 

 「6・23」(沖縄戦終結))、「8・6」(広島原爆投下)、「8・9」(長崎原爆投下)、「8・15」(日本敗戦)…両陛下は「忘れてはならない日」として、戦後の始まりとなった、この四つ日を挙げている。こんな思いを抱いた両陛下の沖縄訪問はすでに10回を数えている。

 

 一方の安倍首相は通常国会の施政方針演説でこう述べた。「日米同盟の抑止力を維持しながら、沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします。米軍機の飛行には、安全の確保が大前提であることは言うまでもありません。…最高裁の判決に従い、名護市辺野古沖への移設工事を進めます」―。小学校や保育園の上空を米軍機がわがもの顔で飛行し、大惨事につながりかねない部品が空から降ってくる。そして、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設は全額を政府が出資する、初めての自前の”米軍基地”となる。治外法権―無法地帯と化した沖縄抜きの「改憲」が強行されようとしている。

 

 来年4月30日の退位を控え、今回が最後の沖縄訪問になるとみられている。両陛下が「象徴」としての務め(アウトソ-シング)を果たしてきたことによって、「政治の不作為」が免罪されることはない。「日米安保」によって、ヤマトの安心・安全が担保されている―と多くのヤマトンチュは考えている。だとするならば、そこには”受益者負担“が生じる。沖縄に「寄り添う」ということの真意は、安倍首相の演説の中にではなく、「火炎瓶」事件の際の天皇メッセ-ジに託されている。沖縄の復権のため、私たちヤマトンチュが何をなすべきか―そのことが問われる1年になりそうだ。「辺野古」移設(実質的な新基地建設)の賛否を問う名護市長選挙は28日に告示され、2月4日に投開票される。

 

 

(写真は火炎瓶が投げつけられる瞬間をとらえた写真。皇太子夫妻は身を乗り出すようにして説明に聞き入っていた。「お怪我はありませんでしたか」と美智子妃は案内役の女性に声をかけたという=1975年7月17日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」で。当時、読売新聞のカメラマンだった山城博明さんが撮影。インターネット上に公開の写真から)

 

 

《追記-1》~相次ぐヘリ不時着

 

 23日午後8時5分ごろ、沖縄県渡名喜(となき)村で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)所属の攻撃ヘリAH1が村営ヘリポ-トに不時着した。県警によると、けが人の情報はない。日本政府関係者によると、警告灯が点灯し、事故を避けるため「予防着陸」をしたとみられるという。ヘリポートは、那覇市の西約60キロにある渡名喜島西部の港にあり、集落からは約300メ-トル。救急搬送などに使われる。島の近くには米軍の射爆撃場や訓練海域がある。

 

 政府関係者によると、米軍は「油圧系統の不具合を示す警告灯が点灯した。24日に別のヘリで整備要員を派遣し、安全が確認され次第、普天間に戻る」と説明している。(中略)県内では今月6日にうるま市の伊計島、8日には読谷村に普天間所属の米軍ヘリが不時着し、沖縄県内で米軍機の安全性への不安が高まっていた。県議会は19日、「人命に関わる重大事故につながりかねないもので、強い憤りを禁じ得ない」として、日米両政府や米軍に対する抗議決議と意見書を全会一致で可決していた(23日付「朝日新聞」電子版)

 

《追記―2》~「米軍は制御不能」と翁長知事

 

 【東京】翁長雄志知事は24日、防衛省が渡名喜村に不時着した米軍普天間飛行場所属AH1攻撃ヘリコプタ-の飛行停止を求めたものの、米軍がすぐに同型機の飛行を再開したことに対し「とんでもない話で怒り心頭だ」と厳しく批判した。米軍基地県軍用地転用促進・基地問題協議会(軍転協)の要請後、首相官邸で記者団に答えた。要請前の那覇市では「米軍が制御不能になっている。管理監督が全くできない」と批判した。

 

 翁長知事は首相官邸での取材に対し、AH1が今月2回トラブルを起こしているとして、防衛省の対応に一定の理解は示した。ただ、昨年1年に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイやCH53E大型輸送ヘリコプタ-など、AH1以外の機種でも事故やトラブルが約30件発生しているとして「この件に対してだけ強く抗議するなどというのは抜本的な解決にはならない」とくぎを刺した(25日付「琉球新報」電子版)

 

 

 

 

 

 

2018.01.24:masuko:コメント(0):[議会報告]

「無投票当選」という不作法

  • 「無投票当選」という不作法

 「こっちの方がはるかに健全ではないか」―。『黙殺』(畠山理仁著)というすごいタイトルの本を読みながら、そう思った。「落選また落選!供託金没収!それでもくじけずに再挑戦!」…。選挙の魔力に取りつかれた、いわゆる泡沫(ほうまつ)候補たちの「独自の戦い」を追ったドキュメンタリ-である。第15回開高健ノンフィクション賞(2017年)を受賞した。その一方で「選挙」の洗礼を受けない、いわゆる「無投票当選」も後を絶たない。1月告示の県内2市3町の首長選挙のうち、二戸市と洋野町ではすでに無投票当選が確定。21日には花巻市の上田東一市長も無投票で再選(2期目)された。残りの紫波、岩泉両町も同じ結果になりそうな雲行きである。

 

 13戦全敗―。著者が敬意を表してあえて「無頼系独立候補」と呼ぶ中で、一頭地を抜くのがスマイル党総裁のマック赤坂さん(69)である。彼の街頭演説の光景を著者はこんな風に描写している。「半径5メ-トルほどの誰も立ち入らない空間が自然と広がっていた。スクランブル交差点の信号が変わるたびに、男の前には大きな人波があらゆる角度から押し寄せる。しかし、まるで目に見えない結界が張られているかのように、そこには『誰もいない空間』が存在し続けた」―。いや正確にはピンクのコスチュ-ムをまとい、タンバリンを手に踊るマックさんの姿がそこにあった。「黙殺」する側の目に見えなかっただけの話である。

 

 「石原(慎太郎)都政(当時)に見捨てられた東京都民を救うのは、もう人間では無理だと思った。つまり、人智を超えたス-パ-マンか宇宙人しか都政を救える人はいない。ス-パ-マンが出馬するほど東京はどうしようもない窮状にある。『都民よ、目を覚ませ!』という大真面目なメッセ-ジを込めたんだよ。わかるだろ?」(同書)―。2012年12月の東京都知事選挙に立候補したマックさんはス-パ-マンや宇宙人のコスプレ姿で政見放送に臨み、視聴者を驚かせた。しかし、よくよく読んでみれば、至極まっとうな主張である。つまり、「黙殺」されているのが東京都民の側だという逆転の発想なのである。

 

 マックさんらを主役にしたドキュメンタリ-映画「立候補」(2013年)を手がけた映画監督の藤岡利充さんは書評にこう書いた。「日本には政治というステ-ジがある。私たちはこのステ-ジを眺め、投票で関わる。もちろん、投票せず黙殺するのも自由だ。でも長い人生で、政治に大きく魅せられる瞬間があるかもしれない。そんなとき、投票の他に立候補という自由もあると教えてくれるのが、この一冊だ」(1月7日付「岩手日報」)―。立候補者がいないのだから、当然選挙もない。人材難や現職の強み、供託金の多寡(たか)、有権者の無関心…など「無投票当選」を生み出す土壌はさまざまである。しかし、一方で「投票(選挙)の自由」を奪われた政治状況はそのまま、民主主義の破壊を意味する。

 

 岩手県立大学の田島平伸教授(地方自治論)はこう指摘する。「選挙がなければ首長の政策が伝わらず、政策が正しいのか住民の評価も分からない。住民が直接選挙で首長と議員を選ぶ二元代表制が機能不全に陥りかねない」(1月13日付「岩手日報」)―。同じ紙面で、花巻市東和町在住の77歳の男性(紙面では実名)は同市長選に関して、「無投票は市民が安心して任せるとの証し。選挙費用もかからずいいのでは」と話している。個人の意見に疑義を挟むつもりはない。しかし、「選挙」という民主主義の根幹にかかわる問題を、ただ単に「(選挙)費用」の問題に矮小化する姿勢は許されない。ただこの際、問われるべきはその意見を無批判的に紙面化したメディアの側である。結果として、現職候補に与(くみ)しているということに気が付いているのか、いないのか!?…。これって、メディアの自殺行為ではないのか。

 

 一方、今回の花巻市長選に当たっては14人(定数26人、欠員2人)の市議が上田陣営の選挙対策委員に名を連ねた。うち2人は「(選対)副本部長」の肩書を持つ副議長と議会運営委員長(市の監査委員を兼務)である。「中立的な立場にある」という“理由”で、2人は上田市政下で一度も一般質問に立ったことがない。他の自治体では議長自らが登壇(質問)したケ-スも。中立の“欺瞞”が白日の下にさらされたというわけである。議会側だけではない。昨年12月議会で私は「議会事務局長と行政職トップの総合政策部長が配偶者同士にある。ガバナンス上、問題はないか」とただした。これに対し、上田市長は「適材適所」と切って捨てた。「適材」かもしれない。しかし、双方が互いに監視・牽制し合う立場にあるガバナンス(統治システム=二元代表制)の建前からは明らかに「適所」ではない。

 

 ところで、無投票当選が決して「白紙委任」ではないことは言うまでもない。地方自治法は地方自治体におけるリコ-ル(解職請求)ついて、「通常の選挙による当選の場合は選挙後1年間はリコ-ルができない」(第84条)と規定している。その一方で同条の但し書きには「無投票当選の場合は当選翌日からでもリコ-ルが可能である」という定めもある。無投票当選に伴うリスク防止のための最低限の法規制であろう。「1強多弱」という民主主義の危機が叫ばれて久しい。それを根っこで支えているのが地方自治の腐敗ではないのか。二元代表制はとうに崩壊し、メデイアを巻き込んだ”翼賛”体制(地方議会の与党化)が着々と進んでいる。無投票当選が権力の腐敗につながるケ-スはそう珍しいことではない。その責任は当然のことながら、有権者のひとりである私自身も負わなければならない。質問権がことさらに重要な所以(ゆえん)である。

 

 何となく葬送の趣(おもむき)が感じられる、と私は思った。当たり前のことだが、対立候補がいない「無投票当選」にはあの“お祭り騒ぎ”はない。この日21日、「立候補者」はわずか8時間半後には「当選者」に姿を変えていた。ことのほかに寒い冬空の下を凍えるようにして、葬列は進んで行った。マックさんの絶叫が耳の底にこだました。「おれは変えたいんだよ、この国を」―。

 

 

(写真は掲示板に張り出された、たった一人の立候補者のポスタ-=21日午前、花巻市桜町3丁目で)

 

 

 

《追記》~当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」(1月13日付)と「祝:芥川・直木賞受賞@賢治の“背後霊”!?」(同16日付)に関しての覚え書きー。


 直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』について、花巻市・宮沢賢治記念館の学芸員、牛崎敏哉さんが「内容の史実監修と、主に本文会話の花巻言葉化つまり方言化を担当していた」(1月21日付「岩手日報」)ことを明らかにした。大阪在住の作者にしては、文中の花巻弁が流暢すぎると思っていたが、そのナゾが解けた。でも、こうした手法が厳密な意味での”単著”と言えるのかという疑問も。本書は賢治とその父政次郎との親子関係を描いているが、その生命線は二人や親族との間で交わされる方言による対話。フィクションとはいえ、心臓部ともいえるその部分が第三者の手にゆだねられていたのだとしたら、読む側の読解姿勢も変わらざるを得ない。

 

 私見を述べれば、その文学性を高めるためには逆に、構成にかかる”舞台裏”(種明かし)は極力、封印するのが小説の作法ではないかと思う。今回、その細部が公にされたことで、私自身の想像力も足踏みを余儀なくされたというのが正直な気持ちである、自身が関わった作品が、権威ある文学賞を受賞したという感激は十分に理解するにしても…。最低限、監修者の名前を付記するのがフェアではなかったか。むしろ、私などは翻訳前のダイアローグ(対話)に興味を惹かれてしまったというのが本音である。一方、芥川賞の『おらおらでひとりいぐも』はまさに作者の血肉と化した母語(遠野弁)の発語である。翻訳された方言と母語としての方言…。その力の差を見せつけられた今回の受賞劇だった。

 


 

 

 

 

 

 

 

2018.01.21:masuko:コメント(0):[議会報告]

ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

  • ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

 「戦争」の記憶が遠のいたような気がする時、一枚の写真と対面することにしている。「焼き場に立つ少年」―。カトリック教会のロ-マ法王庁(バチカン)のフランシスコ法王がこの写真にメッセ-ジを添えたカ-ドを印刷。広く配布するよう指示していたことが分かった。1945年、米国の従軍カメラマン、故ジョ-・オダネルさんが被爆地・長崎で撮影した。カ-ドには「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめられて血のにじんだ唇に表れている」(1月3日付「朝日新聞」)とスペイン語で記されている。当時、私は5歳。背負われた弟に近い年齢である。私の父は戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアの凍土に没した。息絶えた弟を背負う兄の真っすぐな視線の先には何が見えているのであろうか―。私が戦争を考える際の「原点」の写真である。以下に過去のブログから…。

 

 

●「焼き場に立つ少年」と題する1枚の写真が目の前にある。まだあどけなさを残す少年に背負われた幼子はすでに死んでいる。長崎市の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ-・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは8年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳で没した。その著『トランクの中の日本』にはこう書かれている。

 「この少年は弟の亡骸(なきがら)を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ-という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」。文章はこう結ばれている。「彼は急に回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った」…。少年は一体、どこに向かったのであろうか。(2015年7月17日付)

●「緑の丘の麦畑/俺らが一人でいる時に/鐘が鳴ります キンコンカン/鳴る鳴る鐘は父母の/元気でいろよ言う声よ/口笛吹いて俺らは元気」(2番)…。少年の後ろ姿に「鐘の鳴る丘」の主題歌がオ-バ-ラップする。昭和22(1947)年7月から昭和25(1950)年12月まで、790回にわたって放送されたNHKのラジオドラマで、主人公は原爆や空襲、引き揚げなどで肉親を失った“戦争孤児”だった。作家の菊田一夫の原作で、主題歌の「とんがり帽子」(作詞:菊田、作曲:古関裕而)が鳴り出すと、7歳になったばかりの私はラジオにかじりついた。戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで戦病死した父親の記憶が私にはない。その”欠損感”が無意識のうちに自分自身をドラマに重ねたのかもしれない。

 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」、「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」(2017年8月10日付「朝日新聞」)―。「戦争孤児の会」代表の金田茉莉さん(82)は12万人を超えたと言われる孤児の実態について、こう語っている。

 「本日、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」―。「極秘」と記されたソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者業務管理総局作成の死亡証書(ロシア連邦国立軍事古文書館保有)にはこう書かれていた。亡き父「増子浩一」(ますこ こういち)の死亡通知が昨年夏、厚生労働省から送られてきた。日本語に部分翻訳された資料によると、「死亡年月日」は1945(昭和20)年12月30日で、「死因」は栄養失調症。埋葬地は「プリモスク地方」(沿海地方)の第4865特別軍病院「第1墓地」となっていた。極寒の炭鉱町だった。入院から死に至るまでの2週間の刻一刻を知りたいと思い、私はカルテの翻訳を専門家に頼んだ。

 遺骨伝達式の日、骨箱を母が胸に抱き、私たち3人の遺児たちは無言で家路を急いだ。遺骨代わりの木片がカランコロンと乾いた音を立てていたことだけは幼心にも覚えている。死にゆくカルテの、淡々とした記述が逆に父親の実像を浮かび上がらせてくれたような気がした。戦後70年以上、心の中に空洞を形づくってきた戦争孤児としての欠損感がす~っと、消えていくような、そんな不思議な感覚にとらわれた。私の「戦後」にやっと、終止符が打たれたのかもしれないと思った。戦争孤児の蔑称でもある“浮浪児”はいまではとっくに死語になっている。しかし、幼子を背中に負う少年の姿は未完の戦後の「実像」として、いまも私のまなうらにはっきりと刻まれている(2017年8月14日付)


(写真はフランシスコ法王が配布を命じた「焼き場に立つ少年」=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.01.06:masuko:コメント(0):[議会報告]

再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

  • 再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

 「記憶とは何か、そして忘却とは?」―。今年は一年中、こんなことを繰り返し考えてきたような気がする。第1の敗戦(第2次世界大戦)から第2の敗戦(東日本大震災)を経たいま、私たちは何を「記憶」し、何を「忘却」してしまったのだろうか。ポスト・トゥル-ス(脱真実)、オルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)、フェイクニュ-ス(ウソ情報)…。詐欺師の口上よろしく、記憶がねつ造・改ざんされたことはなかったか。「あったこと」が「なかったこと」にされ、「なかったこと」が「あったこと」にされるという歴史(記憶)への冒涜(ぼうとく)はなかったか―。この問いに一条の道筋を与えてくれたのが、イシグロ文学の世界だったように思う。

 

 「『まるで何事もなかったみたいね。どこもかしこも生き生きと活気があって。でも下に見えるあの辺はみんな』―とわたしは下の景色のほうを手で指した―『あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったのよ。それが今はどう』」―。今年、ノ-ベル文学賞を受賞した英国在住の作家、カズオ・イシグロさん(62)のデビュ-作『遠い山なみの光』(1982年)の中にこんな一節がある。イシグロさんは長崎市で生まれ、5歳の時に海洋学者だった父に連れられ、一家で英国に移住した。日本語は片言しか話せない。だから、作者の心象に宿る「日本の記憶」はまず英語で書かれ、これが翻訳者によって日本語に訳されるという手順をたどっている。イシグロさんはこの作品について、こう語っている。

 

 「私にとっての日本は子ども時代の記憶による想像の国だった。だから、心の中の美しい思い出を、日本に来ることで壊されて自分自身が“ホ-ムレス”になってしまうことを恐れていたのかもしれない」(1989年の来日時会見)―。面白い表白である。ホ-ムレス…つまりディアスポラ(故郷喪失者)に転落する寸前にすくい取られた記憶の源流とでも言おうか―イシグロ作品が「記憶文学」と言われるゆえんでもある。

 

 英国で最も権威のあるブッカ-賞を受賞した『日の名残り』(1989年)は執事の目を通して見た大英帝国の記憶の物語である。栄光に包まれた貴族社会の没落を描くためには、微に入り細をうがった「記憶の再現」が必要だったのであろう。執事が仕える貴族が一時期、ヒトラ-と宥和(ゆうわ)関係にあることを知ってしまう。外部にもれれば、国際問題に発展するのは目に見えている。執事はその門外不出の秘密をそっと、記憶の引き出しの奥にしまい込む。執事として生きる、それが誇り高き矜持(きょうじ)であり、最低限の「品格」だったのである。貴族の元を去る時がやがて訪れる。ひとすじの涙が頬を伝う描写が出てくる。執事の人間としての”素顔”が垣間見えた瞬間である。それにしても、映画化もされたこの作品の作者が日本人であることに今更ながら驚かされてしまう。

 

 「私はしばしば、忘れることと覚えていることのはざまで葛藤する個人を書いてきた」とイシグロさんは受賞記念講演で述べている。最新作『忘れられた巨人』(2017年)の原題は「The Buried Giant」…つまり「葬られた巨人」という意味である。国家や共同体の記憶はどうあるべきかという問い返しでもある。生物学者の福岡伸一さんはこんな読み解きをしている。「彼は新しい角度から『記憶』の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。…埋もれているのは社会的な記憶だ。私たちはそれを掘り返すべきなのか。掘り起こした巨人をどのように背負うべきなのか。忘れたいけれど、忘れてはならない記憶」(2017年10月15日付「朝日新聞」)

 

 イシグロさんは日本の戦争責任について、あるインタビュ-で口ごもりながらこう語っていた。「ある国が平和と安定のため、無理やりに過去を忘れなければならない場合があるかもしれない。たとえば、ナチスドイツのように。しかし、この国(日本)は余りにも多くのことを忘れてしまったのではないか。被害者に対する贖罪(しょくざい)といったようなことを含めた総量としても圧倒的な忘却。ある意味、これは『不正義』と同義ではないか」

 

 唐突に「君の名は」という言葉が脳裏によみがえった。大ヒットした、あの長編アニメ(新海誠監督)ではない。1952年から2年間、NHKラジオで放送された、菊田一夫脚本のラジオドラマである。映画やテレビドラマ、舞台などで上演された空前のメロドラマだった。主人公の「真知子」が首に巻くマフラ-が人気になり、そのファッションがブ-ムになった。放送時間には銭湯の女湯が空っぽになった。「忘却とは忘れ去ることなり」というセリフと同時にこのドラマは幕を開ける。この名セリフを私はいまも覚えている。セリフには続きがある。「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」―。真知子と春樹は互いに愛し合いながら、すれ違ってなかなか会えない。忘れてしまったらどんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない…。

 

 「記憶」と「忘却」とは―。言ってしまえば、真知子と春樹のような関係ではないのか、とふと思ってしまう。記憶を完全に忘却の彼方に葬り去ってしまうことに対する、ある種の逡巡(しゅんじゅん)…。「記憶は忘却に抗(あらが)い、忘却は記憶を誘(いざな)う」―。その歩みがたとえ牛のごとくであったとしても、その間を行きつ戻りつする「往還」こそが、人間としての最低限の良心とか正義なのかもしれない。いや、国家(共同体)にとっても…。

 

 今年のノ-ベル平和賞には国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペ-ン」(ICAN=アイキャン)が選ばれた。広島で被爆したカナダ在住のサ-ロ-節子さん(85)が受賞の喜びをこう語った。「私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう」。イシグロさんは「ICAN」の受賞に最大限の賛辞を表し、こう述べた。「分断が危険なまでに深まる時代において、私たちは耳を澄まさなければならない。まるで埋葬された怪物が目を覚ましつつあるように、文明化された通りの下でうごめいている」(12月9日付「朝日新聞」)―。

 

 原爆に対して「加害」と「被害」という二重の記憶を抱え持つ二人にとって、「The Buried Giant」とはまさに「核の脅威」そのものに違いない。分断された世界の中で、「核」という名の「忘れられた巨人」がいままさに長い眠りからむっくりと起き上がり、悪魔の一歩を踏み出そうとしているのではないか。チャップリンがそうであったように、「核」問題とはすぐれて文学上の命題である。私たちはいま、政治の想像力がそれについていけないというジレンマの世界に生きているのかもしれない。まるで「忘却」が「記憶」を駆逐してしまったかのように…。その喜劇王はクリスマスの今日12月25日が没後40年―。

 

 

 

(写真はノ-ベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさん=インタ-ネット上の公開の写真から)

 

 

《追記-1》

 年末年始のしばらくの間、当ブログを休ませていただきます。良いお年をお迎えください。なお、「記憶と忘却と…」の初出は11月1日付の当ブログを参照。また関連として、12月12日付ブログ「チャップリンと核」、同月18日付ブログ「3・11-その時 そして…山根さん夫妻」並びに同20日付ブログ「『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…」を合わせて読んでいただければ、このテーマにかかわる私の関心の所在がご理解いただけるのではないかと思います。

 

《追記ー2》

 11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」で言及した、物理学者で宮沢賢治研究者の斎藤文一さんが今年10月20日に病気で亡くなっていたことが分かった。享年92歳。北上市出身で、新潟大学名誉教授。宮沢賢治イーハトーブ館の初代館長。長女は文芸評論家の斎藤美奈子さん。

 

《追記ー3》

 長崎で被爆、「赤い背中の少年」の写真で知られた谷口稜曄(すみてる)さんが8月3日に死去。享年88歳。「私はモルモットではない。忘却が原爆肯定へと流れることを恐れる」と訴え、核廃絶運動の象徴的存在だった(12月26日付「岩手日報」追想メモリアル)

 

《追記ー4》~沖縄の記憶から

 2017年の沖縄は基地被害で明け、基地被害で暮れたと多くの県民は思っているはずだ。それほど訓練、飛行の強行、事件、事故が繰り返し起きた1年だった。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設は4月、政府が護岸工事に着手した。12月にはN5護岸が長さ273メートルに達し、ほぼ完成した。新たにK4護岸建設の砕石投下も始まった。

 現場の環境破壊が著しい。7月に絶滅の恐れのある希少サンゴ14群体が見つかったが、沖縄防衛局の県への報告では13群体が死滅した。琉球新報社が9月に実施した世論調査では80・2%が県内移設に反対だった。「辺野古ノー」の圧倒的多数の民意を踏みにじり、環境を破壊しながら建設を強行することなど許されるはずがない。訓練強行も目に余るものがあった。嘉手納基地と津堅島訓練場水域では、米軍のパラシュート降下訓練が地元の反対を押し切って繰り返された。この訓練は以前、読谷補助飛行場で実施されていた。1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、伊江島に移転することで合意したはずだ。しかし米軍は勝手に訓練場所を拡大している。やりたい放題ではないか。

 昨年12月に名護市安部沿岸に墜落した普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイは、今年も事故や緊急着陸などを繰り返した。8月には普天間所属機がオーストラリア沖で墜落し乗員3人が死亡した。緊急着陸は6月に伊江島補助飛行場と奄美空港、8月に大分空港と相次いだ。欠陥機としか言いようがない。しかしオスプレイはすぐに飛行を再開し、現在も沖縄上空を飛び続けている。危険なのはオスプレイだけではない。普天間所属のCH53E大型ヘリの事故も相次いだ。10月、東村高江の牧草地に不時着し、炎上大破した。米軍は一方的に事故機を解体し、周辺の土壌と共に現場から持ち去った。航空危険行為等処罰違反容疑の捜査対象の当事者が公衆の面前で堂々と証拠隠滅を図った。これで法治国家といえるのか。

 CH53は12月に入って、上空から次々と部品を落下させた。宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根にプラスチック製の筒が落ち、普天間第二小学校の運動場に窓を落下させた。いずれも近くに園児と児童がいた。大切な子どもたちの命が重大な危険にさらされた。ところが政府は事故を引き合いに、辺野古移設の加速化を繰り返し主張している。萩生田光一幹事長代行は「だからこそ早く移設しなければいけないという問題も一つあると思う」と明言した。言語道断だ。危険除去を主張するなら、普天間飛行場の即時閉鎖しかない。辺野古移設を正当化するため、住民を危険にさらした事故を利用するのはもってのほかだ。住民保護を放棄した政府に「国難突破」を言う資格などない(2017年12月31日付「琉球新報」社説から

 
 

 

 

 

 

2017.12.24:masuko:コメント(0):[議会報告]

花巻市長―ご乱心「行状劇」(全四幕)

  • 花巻市長―ご乱心「行状劇」(全四幕)

 

●第一幕~『前代未聞』

 

 「まず、議員が先ほど触れたコ-ポレ-ト・ガバナンスについてですが…」―。花巻市議会12月定例会の私の一般質問(12月6日)に対し、上田東一市長は答弁をこう切り出した。当局側との申し合わせによって、質問内容は事前通告制になっており、今回は締め切り2日前の11月20日に提出。この際、担当職員に質問の背景などを説明するのが習わしになっている。質問時間は全部で1時間(60分以内)と決められており、質問内容の概要を登壇して説明した後、市長答弁を聞き、それを受けて再質問をするという段取りになっている。だから、当局側とはこの時間内での1分1秒を争う緊迫した対決となる。

 

 さて、質問したことにきちんと答弁しないことはママいや結構あるが、質問していないことに延々と答弁するということは寡聞(かぶん)にして聞いたことがない。今回、あらためて質疑の録音記録を再生してみて、その“前代未聞”の出来事が実際にあったことに気が付いた。最初は当方の思い違いかと思ったが、通告書や登壇原稿のどこを探しても「コ-ポレ-ト・ガバナンス」という言葉は出てこない。つまり、上田市長は質問していないことに答弁していたことが明らかになった。議場内での質疑応答が通告内容から逸脱することは双方にとって、厳に慎まなければならないル-ルである。今年、国会で「あったことをなかったこと」するという「加計」論議に関心が集ったが、わが足元では「なかったことがあったこと」なるという真逆の珍事に…。でも、どうして!?

 

 質問前日の11月5日付ブログで、私は一般質問への傍聴を呼びかける予告記事を掲載した(「12月定例会―ガバナンスのあり方を問う」、後に「12月定例会で”暴言”騒動―市長、ご乱心」へ改題)。その中で市民が質問趣旨を理解しやすいようにと前文で「コ-ポレ-ト・ガバナンス」(企業統治)について若干、言及した。善意に解釈すれば、上田市長が事前にこのブログを見て、私が登壇の際に同じ表現を使ったと勘違いしたことも考えられる。だとすれば、それほど目くじらを立てることでもあるまい。しかし、米国暮らしが長く、最高学府で法律を学んだ上田市長の立て板に水のような“長舌”は止まることを知らなかった。これに費やした時間はざっと10分間。逆に言えば、私の再質問の時間がその分、奪われることになった。

 

●第二幕~『時間がなくなる!!…あせる質問者』

 

 やっと、通告した質問への答弁に移った上田市長の懇切丁寧な説明はさらに、延々と続いた。私の手元には5項目の質問に対する「再質問」が17項目にわたって準備されていた。時計とにらめっこしながら、次第に焦ってきた。「これで終わります」と上田市長が降壇した時、議場内の時計はすでに45分が経過したことを示していた。残された再質問の時間はわずか15分前後しかない。いずれも重要な質問だが、時間が限られているので瞬時に優先順位を判断しなければならない。市民から寄せられた要望をもとに②「職員の再任用制度の運用と『理事』職の新設」と、⑤「市役所での共稼ぎ職員に対する人事管理上の対応」―の2点を取り上げることにした。⑤の再質問に移った時、目の前の時計は「あと5分」を示す秒針表示に変わっていた。そして、信じられないことが起こった。

 

●第三幕~『天地の逆転劇』

 

 ⑤の再質問の中で私は、当局側と議会側との間のあるべき姿を示した「二元代表制」を念頭に配偶者同士が双方にまたがって配置されることの是非について問いただした。そうした実態があることを前提とした質問だったが、当然のことながら属性にかかわる質問ではなく、一般論としての見解をただしたつもりだった。これに対し、上田市長はいきなり「それは具体的にどなたのことでしょうか」と逆に聞いてきた。質問者に対する当局側の質問は「反問権」と呼ばれ、議長の許可が必要になる。そのことに触れないまま、小原雅道議長は答弁を促した。私は不本意ながら、その個人名を明らかにした。

 

 「通告の内容は職員を特定するものではありません。『職務設置に関する規則』についての質問であるので、ご留意ください」―。突然、小原議長が私に向かって、こう告げた。一瞬、キツネにつままれたような気がした。この留意発言は本来「個人名を明かせ」と求めた上田市長に向けられるべきものではなかったのか。結局、議事運営の流れの中で私は「市長の側がそう求めたからだ」と答えた。ところが、摩訶不思議…。この最後の発言から数十秒間が録音記録には残されていないことが分かった。操作ミスか装置の故障か…。私にとっては重要な「証拠」発言だけにこの「ナゾの数十秒」は永遠のナゾとして、残ることになった。

 

●第四幕~『場外乱闘』

 

 普通ならこの行状劇は第三幕で幕を下ろす予定だったが、どうも問屋はそうは下ろしてくれなかった。定年退職した職員を再任用する制度は平成25年度から始まった。これに関連し、28年2月1日施行で「再任用に関する規程」が定められ、退職時の職務給が7級(部長級)の場合、再任用時の職務級は4級以下(課長補佐級)とする―と改正された。さらに、29年3月28日付の「行政組織規則」改正に伴い、「理事」職の新設が可能となり、今年度から理事1人が起用された。新設理由には「上司の命を受け、特定事項についての調査、企画及び立案に参画する」とあり、行政課題が広範囲にわたる昨今、この種の職種の必要性はむしろ高まっていると言える。

 

 こうした前提に立ち、私は実際の処遇が「7級」のままであることについて、その理由をただした。担当部長は「職務の困難度等に応じてこれに寄り難いとして、市長が特に認めた場合は、この限りでない」(「規程」第5条の4)と定めた条項を説明したうえで、「これを適用した」と答えた。これで一件落着と思いきや、最後の質問者が登壇する直前に“場外乱闘”が勃発したのだった。当然のことながら、私はこの質問に際しても個人名を口にしてはいない。質問の趣旨が人事管理(ガバナンス)の全般にわたることであるからである。ところが―。

 

 「やあ、〇〇さん(新理事の名前)。こっちは規則に従って手続きを進めているだけだ。個人情報に関することにいちいち答弁する必要はないんだよ。質問する方も質問する方だ」―。遅れて議場に入ってきた上田市長が突然、大声でこうわめき散らした。正直に答弁した担当部長に対する叱責なのか、あるいは質問者の私に対する当てこすりなのか…。ひょっとして、上田市長にとっては降ってわいた”災難”だったのかもしれない。しかし、個人情報を守る立場にある行政トップが逆にそのことに無頓着であることに私はゾッとさせられた。休憩時間内だったとはいえ、この事態に議場内は一瞬、凍り付いたような雰囲気に包まれた。行状劇はこうして最初と最後に実に不可解な印象を残したまま、フィナ-レを迎えたのだった。当局側と議会側はある種の”共犯関係“にあるのではないか―。残念ながら、そんな疑念がますます深まったような思いにさせられた。そういえば、あの大震災直後、ある議員が傍聴席の被災者に向かって、「さっさと帰れ」と暴言を吐いたことがあった。そして、今回の市長の”暴言”騒動―何とも似た者同士ではないか。

 

 

●閉幕に当たって……

 

 「イ-ハト-ブ劇場」(花巻市議会)で演じられた戯作の一方の主役である私は不思議な感慨を覚えた。たとえば、二元代表制にからんだ「共稼ぎ」問題―。上田市長は「適材適所の人事配置で、男女共同参画の考えからも何ら問題は生じない」と答えた。この認識に異議を唱えるつもりはさらさらない。同時に私は総務大臣を務めた元鳥取県知事の片山善博さん(早稲田大学教授)の「二元代表制」についての言葉を思い出した。「『(車の)両輪』は車軸で繋がっているが、通常二つの『車輪』には適度な距離がある。ところが、現実の多くの(ほとんどの)自治体では、『両輪』の間にほとんど距離がない。ぴったりくっついている。両輪が癒着した『一輪車』である。」(『世界』2016年12月号)―。今回の質問はこの認識に背中を押された結果だったことに触れておきたい。「一輪車」とは?理想的な配偶者像というイメ-ジとして…。

 

 ここまで書いてきて、「フェイクニュ-ス」という言葉が不意に口元に浮かんだ。「虚偽ニュ-ス」という意味で、米国のトランプ大統領が連発して波紋を呼んでいる。この種の言説が世界を席巻(せっけん)しつつあるようだ。すでに言及したように「あったことをなかったことにする」というある種の詐術が横行する一方で、私の質問に対しては危うく「なかったことがあったこと」になるという逆さまが成立するところだった。そこに悪意がなかったとしても、上田市長の冒頭答弁に私自身が即座に反論できなかったことに、この言説の怖さが潜んでいる。「戦争は平和である」―。イギリス人作家、ジョ-ジ・オ-ウェルの小説『1984年』に掲げられた独裁国家のスロ-ガンが現実味を帯びて迫ってくる…。想像力の射程がそこまで伸びていきそうな攻防劇だった。自らを戒める教訓として、記憶にとどめておきたい。「忖度」(そんたく)と「排除」が飛び交った激動の年も間もなく、幕を閉じる。

 

 なお、私の一般質問は12月10日(日)午後2時から、コミュニティFMラジオ「エフエムワン」(78・7MHz)で放送される(再放送は12月23日午後2時から)。合わせてお聞きいただければ、議場の様子がさらに臨場感をもって伝わると思います。

 

《追記》

 同上の「エフエムワン」で質疑内容を改めて確認しようとしたが、放送時間の関係からか、インターネット中継では収録されていた、小原雅道議長の”留意”発言以降のやり取りがカットとされていた。

 

 

(写真はジリジリしながら、再質問の原稿をチェックする質問者、つまり私=12月6日午前10時過ぎ、花巻市議会議場の再質問席で)

 

 

 

 

2017.12.09:masuko:コメント(0):[議会報告]