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春爛漫大公演―「イ-ハト-ブ劇場」(全三幕)

  • 春爛漫大公演―「イ-ハト-ブ劇場」(全三幕)

 

 「一個の妖怪がヨ-ロッパを徘徊している――共産主義の妖怪が…」―。『共産党宣言』(序文)にならって言えば、「一個の(忖度という名の)妖怪が日本全国を徘徊している――全体主義の妖怪が…」とでもなろうか。しかもまるでパンデミック(感染爆発)みたいに…。官庁の中の官庁と言われる財務省の公文書「改ざん」事件が朝日新聞のスク-プによって、その氷山の一角が明らかにされつつある。かつて、同じ職場に身を置いた一人として、後輩たちの頑張りに敬意を表しつつ、足元への感染度合を検証するために一計を案じてみた。突破口は議員にとっての生命線―「質問権」である。花巻市議会3月定例会の予算特別委員会で繰り出した質問は全部で25項目。その質疑応答の中から垣間見えてきたのは、地方自治の大原則である「二元代表制」が無惨にも崩壊しつつある姿だった。「イ-ハト-ブ劇場」は3月22日、閉幕した。

 

 

【第一幕】~「酒気帯び運転もご心配なく!?」

 

 花巻市は総務省が提唱する「地域おこし協力隊」の活用に積極的に取り組んできた。現在の隊員は10人で、ぶどう農家の支援(大迫町)などで大きな成果を上げている。応募条件の中で目を引くのが隊員に対する公用車の貸与。他の自治体でも同じような制度を導入しているが、当市の特長は私用に利用することも認めていることである。これに関連し、上田東一市長は同僚議員の一般質問にこう答弁した。「事故についても酒気帯び運転なども含めてすべて(市が加入する保険で)カバ-するので、ご心配はいらない」。一瞬、耳を疑った。言葉は政治家の命である。口にするのも憚(はばか)られるというのはこんな類(たぐい)の発言を指す。

 

 予算特別委員会(照井省三委員長=社民党系「平和環境社民クラブ」所属)に場を移したのを受け、私は問うた。「あえて酒気帯び運転に触れた真意がわからない。政治家として不適切な発言だと思う。撤回する用意はないか」―。撤回に応じる素振りを見せない上田市長に代わって、逆に私の質問を封じたのは照井委員長の方だった。いわく―「ここは予算審議の場。撤回を求めるのはふさわしくない」。予算執行の最高責任者の言質を問うた意味がこの委員長にはどうも理解できないらしい。私はすかさず挙手をした。「この種の発言を看過し、そのまま会議録に残すことは議会の品位にもかかわる。この場を借りて遺憾の意を表しておきたい」。公正中立を逸脱する委員長采配に一抹の不安を抱いたが、事態はより深刻な方向に進展していった。信じられないことが起こった。

 

 

【第2幕】~「質疑妨害、そして証拠隠滅!?」」

 

 当市は平成30年度当初予算に「第3子以降保育料負担軽減事業」として、約3千8百万円を計上した。少子化対策に前向きに取り組む施策と評価したうえで、私はその政策形成過程をただした。「花巻市議会基本条例」はその13条で「議会は市長が提案する重要な政策について、その政策水準を高めることに資するため」―として①必要とする背景、②提案に至るまでの経緯、③財源措置、④将来にわたるコスト計算など6項目の説明を求めることを定めている。この事業についての現場の事務事業評価(行政評価)にはこう書かれていた。「年齢制限の撤廃による対象範囲の拡大や補助率の拡充が考えられるが、どちらの場合も事業費が倍増することから、現在の市単独事業としての拡大は困難と考えられる」

 

 私は現場の認識と“政治判断“との調整…つまり予算編成のかなめの部分を問うたつもりだった。突然、後部の議席から怒声交じりの声が背中越しに聞こえてきた。一問一答形式の質疑の間に別の議員が割って入るのは余程の緊急事態以外には考えられない。よく聞き取れなかったが、「質問自体が予算審議になじまない」と主張しているらしかった。議事の混乱を避けるため、私は質問をいったん留保。休憩時間帯にこの間の経緯の説明を求めた。「動議と受け止め、発言を許可した」というのが照井委員長の言い分だった。議会事務局側に録音の再生を申し出てまた、腰を抜かしてしまった。その部分の発言は正式に委員長の許可を得ない、いわゆる「不規則」発言と判断し、録音していなかったことがわかった。

 

 つまりはこういうことである。不規則発言によって、私の質問が妨害されたうえ、その証拠となる録音記録も存在しないという摩訶不思議な出来事が起きていたのである。事務局側の録音停止の判断に疑義を差しはさむものではない。それにしても、まるで阿吽(あうん)の呼吸でも図ったみたいなこの“偶然の一致”…。お見事と言うしかない。

 

 それにしても、何とも既視感のある光景ではないか―。現在に至るまで国政を揺るがしている「森友・加計」問題……「あったこと」が「なかったこと」にされ、目の前では公文書が改ざんざれるという前代未聞の不祥事が連日のように報道されている。その正体こそが「忖度(そんたく)という名の妖怪」に他ならない。中央―地方を問わず、その背後にうごめくのは「一強」をほしいままにする“権力”の存在である。二元代表制の行司役であるべきはずの予算委員長がそのボディガ-ドになり下がった構図がすかし絵のように浮かび上がった。太鼓持ち、茶坊主、腰ぎんちゃく、幇間(ほうかん)、佞臣(ねいしん)…。こんな言葉が浮かんでは消えた。

 

 

【第三幕】~「誤解は招くが、『不適切』ではない!?」

 

 当市中心部の国道沿いに「景観」を損(そこ)ないかねない空間が放置されたままになっている。かつて、漢字テレププリンタ-などの生産で戦後花巻の復興に貢献した「新興製作所」跡地である。3年前に仙台市内の不動産業者が取得し、建物の解体工事は終了したものの、コンクリ-トガラや残土などは未撤去のまま。請負業者と代金の支払いをめぐって裁判沙汰になった末、当該地が競売にかけられるなど今後の展開は不透明の状態が続いている。この件について、同僚議員が一般質問で「景観から受けるマイナスイメ-ジ」という観点から対応をただしたのに対し、上田市長は以下のように答弁した。

 

 「建物内に存在したアスベスト除去は完了しており、最大の健康被害の心配はなくなった。とりあえず、この段階に至っただけでもまだマシだ。コンクリ-トガラの撤去など今後の景観保全については第一義的には土地所有者の責任に帰す。もし、市側が撤去するとすれば、1億5千万円以上の経費がかかる。これだけ莫大な経費を税金で賄うのはいかがなものか。税金投入の是非については最終的には議員の判断にゆだねられるが、今後も進展が見込まれない限り、新興跡地の景観保全にかかわる質問はもうしないでほしい」―。同僚議員がこの市長答弁に対し、「質問権」の侵害という立場から異議申し立てを行い、後日の議会運営委員会で協議することになった。

 

 花巻市まちづくり総合計画「第2期中期プラン」(平成29年~31年度)の中には市街地再生の重点戦略として「景観形成の推進」があげられ、地域との協働による良好な景観の保全を謳(うた)っている。私はこのプランを根拠にその取り組みについてただそうとした。と、今度は二元代表制の一方の当事者である上田市長が「予算審議に関係はあるのか」と口出しをした。この手の横やりはいまに始まったことではない。私は当局と議会双方による理不尽な質問封じに対し、気色ばんで反論した。担当部長が手を挙げたのはしばらくたってからである。ボソボソと蚊の鳴くような声でつぶやいた。「当初予算には景観保全にかかわる経費は計上していません」。都合の悪い質問には口をふさぎ、議会側がそれをバックアップするという曲芸技である。

 

 「確かに誤解を招くような発言だったが、前後の文脈から読み解くと必ずしも『不適切』とまでは言えない」―。予算特別委員会最終日の16日に開かれた議会運営委員会(中村初彦委員長ら7人)は結果として、上田市長の質問権の侵害を“免罪”する決定を賛成多数で可決した。反対したのはわずか2人だけ。議員にとって“命綱”ともいえる質問権は当の議員たちによって葬り去られた。「自殺行為」とはこのことである。

 

 

【公演を終えるにあたって】

 

 

 永田町界隈で飛び交っている「一部の職員」という語法が気にかかる。「森友」問題に関連し、「常識が壊れた」という遺書を残して自殺した職員はさらにその末端に位置する職員だった。私にも思い当たるふしがある。上田市長が新興跡地の保存や保全を訴えてきた議員を「一部の議員」と切って捨てたことがあったからである。一世を風靡(ふうび)し、もはや忘れ去られてしまった感がある、例の「排除」(小池都知事)の論理である。もっとも「忖度」と「排除」とはコインの裏表の関係にあることに変わりはない。そもそも、花巻市議会に「二元代表制」を求めること自体が幻想だったことに、今さらながら気がついた。不徳のいたすところである。

 

 「忖度」を拒絶し、文部科学省を追われた前川喜平・前事務次官に対するバッシングが続いている。前次官が天下り問題にかかわって辞職したことや出会い系バ―を利用していたことなどを指摘し、文科省が講演先の中学校に対し、講演内容の提示を求めていることが明らかになった。双方の間を国会議員が取り持った結果、忖度によって教育の中立性が侵害される事態となった。かつての“検閲”を彷彿(ほうふつ)させるに十分である。「忖度の先にあったのは“集団リンチ”だった」―こんな光景がふいに目の前に広がった。私自身、「イ-ハト-ブ劇場」の役回りを演じながら、そのことをいやというほど思い知らされたからである。

 

 英国人作家、ジョ-ジ・オ-ウエルの代表作『1984』の中で描かれる独裁国家(ビッグ・ブラザ-)には平和、豊富、真理、愛情の4省が置かれている。「真理省」は歴史記録や公文書の改ざん、架空の人物のでっち上げ、「愛情省」は反体制分子に対する尋問や拷問、処刑などを主要な任務にしていた。皮肉にもそのディストピア(暗黒郷)が海を飛び越えて、日本に出現したということなのか。今年の流行語大賞には昨年の「忖度」に続いて、「改ざん」が有力候補になるらしい。「SONTAKU」はもはや世界共通語として定着している。民主主義の根幹が全国津々浦々で音を立てて崩れ落ちようとしている。この国を根っこで支えてきた「理非曲直」…つまり、物ごとの分別が腐臭を放っている。

 

 

(写真は3月定例会で質問に立つ筆者。質問権は議員にとっての生命線であり、二元代表制を守備する最前線に位置する=3月8日、花巻市議会議場で)

 

 

《注》~二元代表制(憲法第93条)

 「議会の議員」と「市長」を市民が直接選挙で選ぶ制度のことで、「議院内閣制」の国会で国会議員が総理大臣を選んでいることと違い、どちらも市民の代表であることから、議会と市長は対等の機関として、お互いに抑制、協力することで緊張感を保ちながら自治体の運営に取り組む制度のこと。(平成22年6月制定の「花巻市議会基本条例」説明文より)

 

 

《ブログ再開のお知らせ》

 

 妻の病状が安定したため、3月22日からブログを再開します。約1か月間の休載でしたが、国の内外には風雲急を告げる出来事が相次いでいます。わが足元も例外ではありません。一刻の猶予も許されないという切羽詰まった気持ちです。掲載間隔が少し長くなると思いますが、以前にも増したご愛顧、ご叱正をよろしくお願い申し上げます。ニッポン沈没の危機を実感させられる毎日です。

 

 

 

 

2018.03.22:masuko:コメント(0):[議会報告]

憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

  • 憲法の「及ばぬ島」から「及ぶ島」へ

 沖縄は「憲法の及ばぬ島」と呼ばれてきた。戦力の不所持と交戦権の放棄を定めた「憲法第9条2項」を見れば、その理由は歴然としている。沖縄は戦後一貫してアメリカの支配下に置かれ、日本への復帰(1972年)を経た現在に至るまで、「在日」米軍基地の約7割が置かれたままである。この間、米軍は日本の領土である「沖縄」から出撃。ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争などに参戦してきた。沖縄は「9条2項」の埒埒外(らちがい)に置かれ、さらに米軍基地がもたらす事故や騒音、女性暴行などの基本的人権の侵害にもさらされ続けている。このように、“平和”憲法は実は沖縄の犠牲の上に成り立ってきたのであり、このことに私たちヤマト(本土)の側は相変わらず、無知・無関心を決め込んでいる。

 

 「我が党は結党以来、憲法改正を党是として掲げてきた。いよいよ実現する時を迎えている」―。安倍晋三首相は22日開会の通常国会の冒頭で「2020年改憲」に意欲を見せた。その骨子は「9条2項」を維持したまま、自衛隊を明記するという内容になっている。これを先取りするように、沖縄・南西諸島の宮古島、石垣島などには中国や北朝鮮の脅威論をタテに、陸上自衛隊のミサイル配備計画が着々と進められている。この改憲が実現すれば、皮肉なことに今度は沖縄が真っ先に憲法の「及ぶ島」になる。一方、「改憲」論議が白熱化する3月下旬、天皇・皇后両陛下が沖縄訪問に旅立つ。2年前に沿岸監視隊(陸自)が配備された、日本最西端の与那国島も初めて訪れる。

 

 「アウトソ-シング」という言葉がある。直訳すると「外部委託」という意味になる。「天皇が能動的な象徴たらんとすることを、政治の側が逆手にとるリスクも出てきています。今は、天皇が進んで被災地を訪れていますが、政治がそれを利用しようという気になれば、結果的に被災者の政治への不満を天皇が和らげ、政治の不作為を覆い隠してしまうことにもなりかねません」(2017年12月2日付「朝日新聞」)―。神戸女学院大学の河西秀哉准教授(日本近現代史)はこう説明する。「政治の不作為」の最たるものが、現在に至るまでの「沖縄戦後史」である。

 

 今から43年前の1975年7月、皇太子時代の両陛下が初めて沖縄の地を踏んだ。南部戦跡の「ひめゆりの塔」で沖縄戦の説明に耳を傾けていた時、過激派から火炎瓶を投げつけられるという事件が起きた。「(沖縄に対する米国の軍事占領は)日本の主権を残したままで、25年ないし50年あるいはそれ以上の長期租借でなされるべき」(1947年9月)―。実は昭和天皇は沖縄の戦後処理について、こうした考えを米国側に伝えていたことが後にわかった。「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」―いわゆる「沖縄メッセ-ジ」と呼ばれる文書である。天皇の名のもとに「捨て石」にされた沖縄の人々の間には、「皇室」に反発する声も強かった。その日、皇太子は沖縄県民に向けたもうひとつのメッセ-ジを発表した。

 

 「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷痕を深く省み、平和への願いを未来に繋げ、共々に力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖(あがな)えるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省のうちにあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」―。さらに、事件後の12月に行われた記者会見ではこう語った。「沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを直視していくことが大事です。避けてはいけない」

 

 「6・23」(沖縄戦終結))、「8・6」(広島原爆投下)、「8・9」(長崎原爆投下)、「8・15」(日本敗戦)…両陛下は「忘れてはならない日」として、戦後の始まりとなった、この四つ日を挙げている。こんな思いを抱いた両陛下の沖縄訪問はすでに10回を数えている。

 

 一方の安倍首相は通常国会の施政方針演説でこう述べた。「日米同盟の抑止力を維持しながら、沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします。米軍機の飛行には、安全の確保が大前提であることは言うまでもありません。…最高裁の判決に従い、名護市辺野古沖への移設工事を進めます」―。小学校や保育園の上空を米軍機がわがもの顔で飛行し、大惨事につながりかねない部品が空から降ってくる。そして、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設は全額を政府が出資する、初めての自前の”米軍基地”となる。治外法権―無法地帯と化した沖縄抜きの「改憲」が強行されようとしている。

 

 来年4月30日の退位を控え、今回が最後の沖縄訪問になるとみられている。両陛下が「象徴」としての務め(アウトソ-シング)を果たしてきたことによって、「政治の不作為」が免罪されることはない。「日米安保」によって、ヤマトの安心・安全が担保されている―と多くのヤマトンチュは考えている。だとするならば、そこには”受益者負担“が生じる。沖縄に「寄り添う」ということの真意は、安倍首相の演説の中にではなく、「火炎瓶」事件の際の天皇メッセ-ジに託されている。沖縄の復権のため、私たちヤマトンチュが何をなすべきか―そのことが問われる1年になりそうだ。「辺野古」移設(実質的な新基地建設)の賛否を問う名護市長選挙は28日に告示され、2月4日に投開票される。

 

 

(写真は火炎瓶が投げつけられる瞬間をとらえた写真。皇太子夫妻は身を乗り出すようにして説明に聞き入っていた。「お怪我はありませんでしたか」と美智子妃は案内役の女性に声をかけたという=1975年7月17日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」で。当時、読売新聞のカメラマンだった山城博明さんが撮影。インターネット上に公開の写真から)

 

 

《追記-1》~相次ぐヘリ不時着

 

 23日午後8時5分ごろ、沖縄県渡名喜(となき)村で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)所属の攻撃ヘリAH1が村営ヘリポ-トに不時着した。県警によると、けが人の情報はない。日本政府関係者によると、警告灯が点灯し、事故を避けるため「予防着陸」をしたとみられるという。ヘリポートは、那覇市の西約60キロにある渡名喜島西部の港にあり、集落からは約300メ-トル。救急搬送などに使われる。島の近くには米軍の射爆撃場や訓練海域がある。

 

 政府関係者によると、米軍は「油圧系統の不具合を示す警告灯が点灯した。24日に別のヘリで整備要員を派遣し、安全が確認され次第、普天間に戻る」と説明している。(中略)県内では今月6日にうるま市の伊計島、8日には読谷村に普天間所属の米軍ヘリが不時着し、沖縄県内で米軍機の安全性への不安が高まっていた。県議会は19日、「人命に関わる重大事故につながりかねないもので、強い憤りを禁じ得ない」として、日米両政府や米軍に対する抗議決議と意見書を全会一致で可決していた(23日付「朝日新聞」電子版)

 

《追記―2》~「米軍は制御不能」と翁長知事

 

 【東京】翁長雄志知事は24日、防衛省が渡名喜村に不時着した米軍普天間飛行場所属AH1攻撃ヘリコプタ-の飛行停止を求めたものの、米軍がすぐに同型機の飛行を再開したことに対し「とんでもない話で怒り心頭だ」と厳しく批判した。米軍基地県軍用地転用促進・基地問題協議会(軍転協)の要請後、首相官邸で記者団に答えた。要請前の那覇市では「米軍が制御不能になっている。管理監督が全くできない」と批判した。

 

 翁長知事は首相官邸での取材に対し、AH1が今月2回トラブルを起こしているとして、防衛省の対応に一定の理解は示した。ただ、昨年1年に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイやCH53E大型輸送ヘリコプタ-など、AH1以外の機種でも事故やトラブルが約30件発生しているとして「この件に対してだけ強く抗議するなどというのは抜本的な解決にはならない」とくぎを刺した(25日付「琉球新報」電子版)

 

 

 

 

 

 

2018.01.24:masuko:コメント(0):[議会報告]

「無投票当選」という不作法

  • 「無投票当選」という不作法

 「こっちの方がはるかに健全ではないか」―。『黙殺』(畠山理仁著)というすごいタイトルの本を読みながら、そう思った。「落選また落選!供託金没収!それでもくじけずに再挑戦!」…。選挙の魔力に取りつかれた、いわゆる泡沫(ほうまつ)候補たちの「独自の戦い」を追ったドキュメンタリ-である。第15回開高健ノンフィクション賞(2017年)を受賞した。その一方で「選挙」の洗礼を受けない、いわゆる「無投票当選」も後を絶たない。1月告示の県内2市3町の首長選挙のうち、二戸市と洋野町ではすでに無投票当選が確定。21日には花巻市の上田東一市長も無投票で再選(2期目)された。残りの紫波、岩泉両町も同じ結果になりそうな雲行きである。

 

 13戦全敗―。著者が敬意を表してあえて「無頼系独立候補」と呼ぶ中で、一頭地を抜くのがスマイル党総裁のマック赤坂さん(69)である。彼の街頭演説の光景を著者はこんな風に描写している。「半径5メ-トルほどの誰も立ち入らない空間が自然と広がっていた。スクランブル交差点の信号が変わるたびに、男の前には大きな人波があらゆる角度から押し寄せる。しかし、まるで目に見えない結界が張られているかのように、そこには『誰もいない空間』が存在し続けた」―。いや正確にはピンクのコスチュ-ムをまとい、タンバリンを手に踊るマックさんの姿がそこにあった。「黙殺」する側の目に見えなかっただけの話である。

 

 「石原(慎太郎)都政(当時)に見捨てられた東京都民を救うのは、もう人間では無理だと思った。つまり、人智を超えたス-パ-マンか宇宙人しか都政を救える人はいない。ス-パ-マンが出馬するほど東京はどうしようもない窮状にある。『都民よ、目を覚ませ!』という大真面目なメッセ-ジを込めたんだよ。わかるだろ?」(同書)―。2012年12月の東京都知事選挙に立候補したマックさんはス-パ-マンや宇宙人のコスプレ姿で政見放送に臨み、視聴者を驚かせた。しかし、よくよく読んでみれば、至極まっとうな主張である。つまり、「黙殺」されているのが東京都民の側だという逆転の発想なのである。

 

 マックさんらを主役にしたドキュメンタリ-映画「立候補」(2013年)を手がけた映画監督の藤岡利充さんは書評にこう書いた。「日本には政治というステ-ジがある。私たちはこのステ-ジを眺め、投票で関わる。もちろん、投票せず黙殺するのも自由だ。でも長い人生で、政治に大きく魅せられる瞬間があるかもしれない。そんなとき、投票の他に立候補という自由もあると教えてくれるのが、この一冊だ」(1月7日付「岩手日報」)―。立候補者がいないのだから、当然選挙もない。人材難や現職の強み、供託金の多寡(たか)、有権者の無関心…など「無投票当選」を生み出す土壌はさまざまである。しかし、一方で「投票(選挙)の自由」を奪われた政治状況はそのまま、民主主義の破壊を意味する。

 

 岩手県立大学の田島平伸教授(地方自治論)はこう指摘する。「選挙がなければ首長の政策が伝わらず、政策が正しいのか住民の評価も分からない。住民が直接選挙で首長と議員を選ぶ二元代表制が機能不全に陥りかねない」(1月13日付「岩手日報」)―。同じ紙面で、花巻市東和町在住の77歳の男性(紙面では実名)は同市長選に関して、「無投票は市民が安心して任せるとの証し。選挙費用もかからずいいのでは」と話している。個人の意見に疑義を挟むつもりはない。しかし、「選挙」という民主主義の根幹にかかわる問題を、ただ単に「(選挙)費用」の問題に矮小化する姿勢は許されない。ただこの際、問われるべきはその意見を無批判的に紙面化したメディアの側である。結果として、現職候補に与(くみ)しているということに気が付いているのか、いないのか!?…。これって、メディアの自殺行為ではないのか。

 

 一方、今回の花巻市長選に当たっては14人(定数26人、欠員2人)の市議が上田陣営の選挙対策委員に名を連ねた。うち2人は「(選対)副本部長」の肩書を持つ副議長と議会運営委員長(市の監査委員を兼務)である。「中立的な立場にある」という“理由”で、2人は上田市政下で一度も一般質問に立ったことがない。他の自治体では議長自らが登壇(質問)したケ-スも。中立の“欺瞞”が白日の下にさらされたというわけである。議会側だけではない。昨年12月議会で私は「議会事務局長と行政職トップの総合政策部長が配偶者同士にある。ガバナンス上、問題はないか」とただした。これに対し、上田市長は「適材適所」と切って捨てた。「適材」かもしれない。しかし、双方が互いに監視・牽制し合う立場にあるガバナンス(統治システム=二元代表制)の建前からは明らかに「適所」ではない。

 

 ところで、無投票当選が決して「白紙委任」ではないことは言うまでもない。地方自治法は地方自治体におけるリコ-ル(解職請求)ついて、「通常の選挙による当選の場合は選挙後1年間はリコ-ルができない」(第84条)と規定している。その一方で同条の但し書きには「無投票当選の場合は当選翌日からでもリコ-ルが可能である」という定めもある。無投票当選に伴うリスク防止のための最低限の法規制であろう。「1強多弱」という民主主義の危機が叫ばれて久しい。それを根っこで支えているのが地方自治の腐敗ではないのか。二元代表制はとうに崩壊し、メデイアを巻き込んだ”翼賛”体制(地方議会の与党化)が着々と進んでいる。無投票当選が権力の腐敗につながるケ-スはそう珍しいことではない。その責任は当然のことながら、有権者のひとりである私自身も負わなければならない。質問権がことさらに重要な所以(ゆえん)である。

 

 何となく葬送の趣(おもむき)が感じられる、と私は思った。当たり前のことだが、対立候補がいない「無投票当選」にはあの“お祭り騒ぎ”はない。この日21日、「立候補者」はわずか8時間半後には「当選者」に姿を変えていた。ことのほかに寒い冬空の下を凍えるようにして、葬列は進んで行った。マックさんの絶叫が耳の底にこだました。「おれは変えたいんだよ、この国を」―。

 

 

(写真は掲示板に張り出された、たった一人の立候補者のポスタ-=21日午前、花巻市桜町3丁目で)

 

 

 

《追記》~当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」(1月13日付)と「祝:芥川・直木賞受賞@賢治の“背後霊”!?」(同16日付)に関しての覚え書きー。


 直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』について、花巻市・宮沢賢治記念館の学芸員、牛崎敏哉さんが「内容の史実監修と、主に本文会話の花巻言葉化つまり方言化を担当していた」(1月21日付「岩手日報」)ことを明らかにした。大阪在住の作者にしては、文中の花巻弁が流暢すぎると思っていたが、そのナゾが解けた。でも、こうした手法が厳密な意味での”単著”と言えるのかという疑問も。本書は賢治とその父政次郎との親子関係を描いているが、その生命線は二人や親族との間で交わされる方言による対話。フィクションとはいえ、心臓部ともいえるその部分が第三者の手にゆだねられていたのだとしたら、読む側の読解姿勢も変わらざるを得ない。

 

 私見を述べれば、その文学性を高めるためには逆に、構成にかかる”舞台裏”(種明かし)は極力、封印するのが小説の作法ではないかと思う。今回、その細部が公にされたことで、私自身の想像力も足踏みを余儀なくされたというのが正直な気持ちである、自身が関わった作品が、権威ある文学賞を受賞したという感激は十分に理解するにしても…。最低限、監修者の名前を付記するのがフェアではなかったか。むしろ、私などは翻訳前のダイアローグ(対話)に興味を惹かれてしまったというのが本音である。一方、芥川賞の『おらおらでひとりいぐも』はまさに作者の血肉と化した母語(遠野弁)の発語である。翻訳された方言と母語としての方言…。その力の差を見せつけられた今回の受賞劇だった。

 


 

 

 

 

 

 

 

2018.01.21:masuko:コメント(0):[議会報告]

ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

  • ロ-マ法王と「焼き場に立つ少年」

 「戦争」の記憶が遠のいたような気がする時、一枚の写真と対面することにしている。「焼き場に立つ少年」―。カトリック教会のロ-マ法王庁(バチカン)のフランシスコ法王がこの写真にメッセ-ジを添えたカ-ドを印刷。広く配布するよう指示していたことが分かった。1945年、米国の従軍カメラマン、故ジョ-・オダネルさんが被爆地・長崎で撮影した。カ-ドには「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめられて血のにじんだ唇に表れている」(1月3日付「朝日新聞」)とスペイン語で記されている。当時、私は5歳。背負われた弟に近い年齢である。私の父は戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアの凍土に没した。息絶えた弟を背負う兄の真っすぐな視線の先には何が見えているのであろうか―。私が戦争を考える際の「原点」の写真である。以下に過去のブログから…。

 

 

●「焼き場に立つ少年」と題する1枚の写真が目の前にある。まだあどけなさを残す少年に背負われた幼子はすでに死んでいる。長崎市の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ-・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは8年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳で没した。その著『トランクの中の日本』にはこう書かれている。

 「この少年は弟の亡骸(なきがら)を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ-という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」。文章はこう結ばれている。「彼は急に回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った」…。少年は一体、どこに向かったのであろうか。(2015年7月17日付)

●「緑の丘の麦畑/俺らが一人でいる時に/鐘が鳴ります キンコンカン/鳴る鳴る鐘は父母の/元気でいろよ言う声よ/口笛吹いて俺らは元気」(2番)…。少年の後ろ姿に「鐘の鳴る丘」の主題歌がオ-バ-ラップする。昭和22(1947)年7月から昭和25(1950)年12月まで、790回にわたって放送されたNHKのラジオドラマで、主人公は原爆や空襲、引き揚げなどで肉親を失った“戦争孤児”だった。作家の菊田一夫の原作で、主題歌の「とんがり帽子」(作詞:菊田、作曲:古関裕而)が鳴り出すと、7歳になったばかりの私はラジオにかじりついた。戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで戦病死した父親の記憶が私にはない。その”欠損感”が無意識のうちに自分自身をドラマに重ねたのかもしれない。

 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」、「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」(2017年8月10日付「朝日新聞」)―。「戦争孤児の会」代表の金田茉莉さん(82)は12万人を超えたと言われる孤児の実態について、こう語っている。

 「本日、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」―。「極秘」と記されたソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者業務管理総局作成の死亡証書(ロシア連邦国立軍事古文書館保有)にはこう書かれていた。亡き父「増子浩一」(ますこ こういち)の死亡通知が昨年夏、厚生労働省から送られてきた。日本語に部分翻訳された資料によると、「死亡年月日」は1945(昭和20)年12月30日で、「死因」は栄養失調症。埋葬地は「プリモスク地方」(沿海地方)の第4865特別軍病院「第1墓地」となっていた。極寒の炭鉱町だった。入院から死に至るまでの2週間の刻一刻を知りたいと思い、私はカルテの翻訳を専門家に頼んだ。

 遺骨伝達式の日、骨箱を母が胸に抱き、私たち3人の遺児たちは無言で家路を急いだ。遺骨代わりの木片がカランコロンと乾いた音を立てていたことだけは幼心にも覚えている。死にゆくカルテの、淡々とした記述が逆に父親の実像を浮かび上がらせてくれたような気がした。戦後70年以上、心の中に空洞を形づくってきた戦争孤児としての欠損感がす~っと、消えていくような、そんな不思議な感覚にとらわれた。私の「戦後」にやっと、終止符が打たれたのかもしれないと思った。戦争孤児の蔑称でもある“浮浪児”はいまではとっくに死語になっている。しかし、幼子を背中に負う少年の姿は未完の戦後の「実像」として、いまも私のまなうらにはっきりと刻まれている(2017年8月14日付)


(写真はフランシスコ法王が配布を命じた「焼き場に立つ少年」=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2018.01.06:masuko:コメント(0):[議会報告]

再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

  • 再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界

 「記憶とは何か、そして忘却とは?」―。今年は一年中、こんなことを繰り返し考えてきたような気がする。第1の敗戦(第2次世界大戦)から第2の敗戦(東日本大震災)を経たいま、私たちは何を「記憶」し、何を「忘却」してしまったのだろうか。ポスト・トゥル-ス(脱真実)、オルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)、フェイクニュ-ス(ウソ情報)…。詐欺師の口上よろしく、記憶がねつ造・改ざんされたことはなかったか。「あったこと」が「なかったこと」にされ、「なかったこと」が「あったこと」にされるという歴史(記憶)への冒涜(ぼうとく)はなかったか―。この問いに一条の道筋を与えてくれたのが、イシグロ文学の世界だったように思う。

 

 「『まるで何事もなかったみたいね。どこもかしこも生き生きと活気があって。でも下に見えるあの辺はみんな』―とわたしは下の景色のほうを手で指した―『あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったのよ。それが今はどう』」―。今年、ノ-ベル文学賞を受賞した英国在住の作家、カズオ・イシグロさん(62)のデビュ-作『遠い山なみの光』(1982年)の中にこんな一節がある。イシグロさんは長崎市で生まれ、5歳の時に海洋学者だった父に連れられ、一家で英国に移住した。日本語は片言しか話せない。だから、作者の心象に宿る「日本の記憶」はまず英語で書かれ、これが翻訳者によって日本語に訳されるという手順をたどっている。イシグロさんはこの作品について、こう語っている。

 

 「私にとっての日本は子ども時代の記憶による想像の国だった。だから、心の中の美しい思い出を、日本に来ることで壊されて自分自身が“ホ-ムレス”になってしまうことを恐れていたのかもしれない」(1989年の来日時会見)―。面白い表白である。ホ-ムレス…つまりディアスポラ(故郷喪失者)に転落する寸前にすくい取られた記憶の源流とでも言おうか―イシグロ作品が「記憶文学」と言われるゆえんでもある。

 

 英国で最も権威のあるブッカ-賞を受賞した『日の名残り』(1989年)は執事の目を通して見た大英帝国の記憶の物語である。栄光に包まれた貴族社会の没落を描くためには、微に入り細をうがった「記憶の再現」が必要だったのであろう。執事が仕える貴族が一時期、ヒトラ-と宥和(ゆうわ)関係にあることを知ってしまう。外部にもれれば、国際問題に発展するのは目に見えている。執事はその門外不出の秘密をそっと、記憶の引き出しの奥にしまい込む。執事として生きる、それが誇り高き矜持(きょうじ)であり、最低限の「品格」だったのである。貴族の元を去る時がやがて訪れる。ひとすじの涙が頬を伝う描写が出てくる。執事の人間としての”素顔”が垣間見えた瞬間である。それにしても、映画化もされたこの作品の作者が日本人であることに今更ながら驚かされてしまう。

 

 「私はしばしば、忘れることと覚えていることのはざまで葛藤する個人を書いてきた」とイシグロさんは受賞記念講演で述べている。最新作『忘れられた巨人』(2017年)の原題は「The Buried Giant」…つまり「葬られた巨人」という意味である。国家や共同体の記憶はどうあるべきかという問い返しでもある。生物学者の福岡伸一さんはこんな読み解きをしている。「彼は新しい角度から『記憶』の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。…埋もれているのは社会的な記憶だ。私たちはそれを掘り返すべきなのか。掘り起こした巨人をどのように背負うべきなのか。忘れたいけれど、忘れてはならない記憶」(2017年10月15日付「朝日新聞」)

 

 イシグロさんは日本の戦争責任について、あるインタビュ-で口ごもりながらこう語っていた。「ある国が平和と安定のため、無理やりに過去を忘れなければならない場合があるかもしれない。たとえば、ナチスドイツのように。しかし、この国(日本)は余りにも多くのことを忘れてしまったのではないか。被害者に対する贖罪(しょくざい)といったようなことを含めた総量としても圧倒的な忘却。ある意味、これは『不正義』と同義ではないか」

 

 唐突に「君の名は」という言葉が脳裏によみがえった。大ヒットした、あの長編アニメ(新海誠監督)ではない。1952年から2年間、NHKラジオで放送された、菊田一夫脚本のラジオドラマである。映画やテレビドラマ、舞台などで上演された空前のメロドラマだった。主人公の「真知子」が首に巻くマフラ-が人気になり、そのファッションがブ-ムになった。放送時間には銭湯の女湯が空っぽになった。「忘却とは忘れ去ることなり」というセリフと同時にこのドラマは幕を開ける。この名セリフを私はいまも覚えている。セリフには続きがある。「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」―。真知子と春樹は互いに愛し合いながら、すれ違ってなかなか会えない。忘れてしまったらどんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない…。

 

 「記憶」と「忘却」とは―。言ってしまえば、真知子と春樹のような関係ではないのか、とふと思ってしまう。記憶を完全に忘却の彼方に葬り去ってしまうことに対する、ある種の逡巡(しゅんじゅん)…。「記憶は忘却に抗(あらが)い、忘却は記憶を誘(いざな)う」―。その歩みがたとえ牛のごとくであったとしても、その間を行きつ戻りつする「往還」こそが、人間としての最低限の良心とか正義なのかもしれない。いや、国家(共同体)にとっても…。

 

 今年のノ-ベル平和賞には国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペ-ン」(ICAN=アイキャン)が選ばれた。広島で被爆したカナダ在住のサ-ロ-節子さん(85)が受賞の喜びをこう語った。「私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう」。イシグロさんは「ICAN」の受賞に最大限の賛辞を表し、こう述べた。「分断が危険なまでに深まる時代において、私たちは耳を澄まさなければならない。まるで埋葬された怪物が目を覚ましつつあるように、文明化された通りの下でうごめいている」(12月9日付「朝日新聞」)―。

 

 原爆に対して「加害」と「被害」という二重の記憶を抱え持つ二人にとって、「The Buried Giant」とはまさに「核の脅威」そのものに違いない。分断された世界の中で、「核」という名の「忘れられた巨人」がいままさに長い眠りからむっくりと起き上がり、悪魔の一歩を踏み出そうとしているのではないか。チャップリンがそうであったように、「核」問題とはすぐれて文学上の命題である。私たちはいま、政治の想像力がそれについていけないというジレンマの世界に生きているのかもしれない。まるで「忘却」が「記憶」を駆逐してしまったかのように…。その喜劇王はクリスマスの今日12月25日が没後40年―。

 

 

 

(写真はノ-ベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさん=インタ-ネット上の公開の写真から)

 

 

《追記-1》

 年末年始のしばらくの間、当ブログを休ませていただきます。良いお年をお迎えください。なお、「記憶と忘却と…」の初出は11月1日付の当ブログを参照。また関連として、12月12日付ブログ「チャップリンと核」、同月18日付ブログ「3・11-その時 そして…山根さん夫妻」並びに同20日付ブログ「『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…」を合わせて読んでいただければ、このテーマにかかわる私の関心の所在がご理解いただけるのではないかと思います。

 

《追記ー2》

 11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」で言及した、物理学者で宮沢賢治研究者の斎藤文一さんが今年10月20日に病気で亡くなっていたことが分かった。享年92歳。北上市出身で、新潟大学名誉教授。宮沢賢治イーハトーブ館の初代館長。長女は文芸評論家の斎藤美奈子さん。

 

《追記ー3》

 長崎で被爆、「赤い背中の少年」の写真で知られた谷口稜曄(すみてる)さんが8月3日に死去。享年88歳。「私はモルモットではない。忘却が原爆肯定へと流れることを恐れる」と訴え、核廃絶運動の象徴的存在だった(12月26日付「岩手日報」追想メモリアル)

 

《追記ー4》~沖縄の記憶から

 2017年の沖縄は基地被害で明け、基地被害で暮れたと多くの県民は思っているはずだ。それほど訓練、飛行の強行、事件、事故が繰り返し起きた1年だった。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設は4月、政府が護岸工事に着手した。12月にはN5護岸が長さ273メートルに達し、ほぼ完成した。新たにK4護岸建設の砕石投下も始まった。

 現場の環境破壊が著しい。7月に絶滅の恐れのある希少サンゴ14群体が見つかったが、沖縄防衛局の県への報告では13群体が死滅した。琉球新報社が9月に実施した世論調査では80・2%が県内移設に反対だった。「辺野古ノー」の圧倒的多数の民意を踏みにじり、環境を破壊しながら建設を強行することなど許されるはずがない。訓練強行も目に余るものがあった。嘉手納基地と津堅島訓練場水域では、米軍のパラシュート降下訓練が地元の反対を押し切って繰り返された。この訓練は以前、読谷補助飛行場で実施されていた。1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、伊江島に移転することで合意したはずだ。しかし米軍は勝手に訓練場所を拡大している。やりたい放題ではないか。

 昨年12月に名護市安部沿岸に墜落した普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイは、今年も事故や緊急着陸などを繰り返した。8月には普天間所属機がオーストラリア沖で墜落し乗員3人が死亡した。緊急着陸は6月に伊江島補助飛行場と奄美空港、8月に大分空港と相次いだ。欠陥機としか言いようがない。しかしオスプレイはすぐに飛行を再開し、現在も沖縄上空を飛び続けている。危険なのはオスプレイだけではない。普天間所属のCH53E大型ヘリの事故も相次いだ。10月、東村高江の牧草地に不時着し、炎上大破した。米軍は一方的に事故機を解体し、周辺の土壌と共に現場から持ち去った。航空危険行為等処罰違反容疑の捜査対象の当事者が公衆の面前で堂々と証拠隠滅を図った。これで法治国家といえるのか。

 CH53は12月に入って、上空から次々と部品を落下させた。宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根にプラスチック製の筒が落ち、普天間第二小学校の運動場に窓を落下させた。いずれも近くに園児と児童がいた。大切な子どもたちの命が重大な危険にさらされた。ところが政府は事故を引き合いに、辺野古移設の加速化を繰り返し主張している。萩生田光一幹事長代行は「だからこそ早く移設しなければいけないという問題も一つあると思う」と明言した。言語道断だ。危険除去を主張するなら、普天間飛行場の即時閉鎖しかない。辺野古移設を正当化するため、住民を危険にさらした事故を利用するのはもってのほかだ。住民保護を放棄した政府に「国難突破」を言う資格などない(2017年12月31日付「琉球新報」社説から

 
 

 

 

 

 

2017.12.24:masuko:コメント(0):[議会報告]