戦後復興期には店舗や食堂などを第三者が負担して建設、運営する「民衆駅」が生まれた。昭和48年の国鉄法改正施行によって、国鉄自体が駅舎内での諸施設の運営を行う「駅ビル」が登場。さらに昭和50年代後半からは、地方都市における公民館やギャラリーなどとの合築による「コミュニティーセンター」が生まれている。そうした歴史を踏まえて、『駅のはなし(交通ブックス104)』は、あとがきで次のように締めくくっている。
昭和62年(1987年)4月、国鉄が解体しJRへと経営が引き継がれていった。鉄道は新たな時代へと突入し「鉄道ルネッサンス」を迎えた。その間駅舎は大きく様変わりしていった。駅舎は出会いや別れといった列車にまつわる古典的な役割の場に加えて、市町村の出張所や集会所、図書館やギャラリーセンター、物産館や温泉を併設するなど、駅舎は地域のコミュニティセンターへと様変わりしつつあり、大都市では多機能の複合施設を備えた駅ビルスタイルへと変貌しつつある。新生JRの誕生は、駅舎黄金時代への幕開けとなった。駅舎は、爛熟期へ向かって、それぞれに声高に個性を主張し始め、試行錯誤の途についたばかりである。10年先か20年先か、駅舎は絢爛たる爛熟期を迎えるであろう。楽しみである。
フラワー長井線も公民館との合築による改築を行ってきた。それは国鉄時代の駅舎が廃屋に近い状態だったから、公的施設との合築として整備するしか手段がなかったからである。さらに令和3年には長井市役所と長井駅、山形鉄道本社の合築も行っている。それらは存続の危機を脱出するための必死のあがきのようなものである。「駅舎は絢爛たる爛熟期を迎えるであろう」というが、多くの路線が廃線となり、廃駅の危機にあるのが実状であろう。ローカル線の存続意義、駅の意味、そしてここに生きる意味を考える必要があると思うのだが。
【おらだの会】写真は1986年(昭和61年)9月5日の時庭駅。写真帳には「はなはだしい荒れ方であった」と記載されている。1996年(平成8年)に公民館と併設で新設されている。山形鉄道は1988年(昭和63年)10月に開業した。
「駅」のはなし(8) 駅舎は絢爛たる爛熟期へ?
「駅」のはなし(7) 小停車場標準図
明治も後期になると鉄道網は飛躍的な進展をみせ、大都市や地方の中核的な都市においては豪華なあるいは地域の特徴を表現する駅舎が建設されるようになる。一方、大部分の中小の駅舎については、多数の建築工事に対応するため、木造駅舎の標準形式が数次にわたって提示されたという。
・明治31年(1898年) 『普通停車塲本屋及附属建物之図』『停車塲建屋定規』
・大正7年(1918年) 『小停車場本屋標準図』
・昭和5年 (1930年) 『小停車場本屋標準図』
上の写真は、昭和5年の標準図の「第3号型」の図面である。残念ながらそれ以前の資料を確認する事ができなかったが、成田駅設計の基と考えられる。その注意書には「特殊ノ理由アルモノ及ビ特殊ノ事理アルモノハ別ニ設計スルモノトス」「建設地ノ状況ニ応ジ些少ノ変更ヲナスコトヲ得」「待合室事務室ノ桁行長サハ必要ニ応ジ適時増減スルモノトス」とある。
図面はこちらから → 国鉄 木造駅舎の図面 小停車場本屋標準図
フラワー長井線には西大塚駅(大正3年開業)と羽前成田駅(大正11年開業)の2つの木造駅舎が残っている。両駅ともに標準図をもとに設計されたものであろうが、細部の意匠等の差異は大変興味深いものがある。そこには設計者と職人との意思があり、息遣いが聞こえてくるようにも思える。
多くの駅舎が改修され、人々のドラマが演じられた駅舎が、もはや写真でしか見ることができなくなっている。そんな中で、100年を超えて当時の姿を残していることは驚くべき奇跡といえるかもしれない。そこには年輪を重ねてきた捨てがたい味と深みがあり、現代人をも郷愁の世界に誘う。「小停車場」に、もう一つのドラマが生まれつつあるのかもしれない。
「駅」のはなし(6) 長井の文明開化
長井駅周辺が記載されている古い地図が残っている。一枚は大正3年の地図(上の写真)であり、それには「長井ステーション」と付記されている。もう一枚は昭和9年の地図であり、それには「長井停車場」と付記されている。
→ 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 14:長井市観光ポータルサイト | 水と緑と花のまち ようこそ、やまがた長井の旅へ
地方には法律用語の変更がやや遅れて浸透してきたということだろうか。けれども、陸蒸気の一声は、地方人にとっても文明開化、新時代の到来を告げるものであった。二つのエッセー文から当時の人々の心情をみてみたい。
//源次はたまげて「まっちゃ早ぐ見ろ、見ろ。もみどが歩いて来たでないがえ」と言うと、側にいた年上の寅次郎が「軍艦が陸さ上がって来たでないべが」と言った。(略)。 「人力車ど汽車なて、俺らんだの乗り物でないべなえ」と源次が情けなさそうに言うど「これはしたり、あんまりせわしいごど語んねで、まっちょまず。うんとかしぇでお前だどご乗せんぞ」とまっちゃが空威張りして見せた。//(寺嶋芳子著「西山のへつり」より)
→ 第12話 汽車がかかったぞ~(長井駅):おらだの会
///ぼくの故郷白鷹町は、昔の名を蚕桑村といった。(略)。この村に鉄道が開通したのは大正十二年である。ぼくは小学校の二年生であった。遠い記憶を辿ってみても、汽車が通るということは、ふるさとの村にとって、ほとんど革命的な出来事であった。遥か遠い物に思われていた「都会」の匂いや、「近代」というまばゆいものが、汽笛のひびきと共に突如として村にやってくるのだ。/// (芳賀秀次郎著「わがうちなる長井線」より)
→ わがうちなる長井線 その1:山形鉄道おらだの会
「駅」のはなし(5) 駅とステーション
洋風建築が立ち並び、陸蒸気が汽笛を鳴らして出発する。日本における文明開化は順調のように思えるが、当時の鉄道用語からみると、欧米と日本とのギャップを如何に調整するか、と苦心した姿が見えてくる。
その一つが「ステーション」である。『駅のはなし』には、新橋ステーションという名が使われている。また前回までに紹介した浮世絵のキャプションにも「新橋ステーション」の文字が見られる。これは鉄道開業の4か月前(明治5年5月4日)に布告された太政官第146号(鉄道略則)の規定に基づくもののようである。同略則ではチケットあるいは乗車券を「手形」、駅を「立場(たてば)」と表記している。また鉄道略則には、現在にも通じるような規定があるので紹介します。
///第7条 喫煙並びに女性専用部屋への男性立ち入り禁止
「ステーション」構内の禁煙箇所ならびに禁煙車内においては、喫煙を禁止する。また女性のためにある車両および部屋等に男性がみだりに立ち入ってはならない。もしこれらの禁止事項を犯し、係の者の注意を聞かない者は、車外ならびに鉄道構外にすぐに退去させる。///
明治33年には鉄道営業法が制定され、鉄道略則は廃止された。鉄道営業法では、ステーションは「停車場」に、手形は「乗車券」と表記されている。ちなみに現在一般的に使用している「駅」という用語を確認できたのは、「鉄道に関する技術上の基準を定める省令(平成13年12月25日国土交通省令第151号)」の次の条文である。
///鉄道営業法(明治33年法律第65号)第1条の規定に基づき、鉄道に関する技術上の基準を定める省令を次のように定める。
(定義)
第2条 この省令において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
1~6 (略)
7 駅 旅客の乗降又は貨物の積卸しを行うために使用される場所をいう。
8 信号場 専ら列車の行き違い又は待ち合わせを行うために使用される場所をいう。
9 操車場 専ら車両の入換え又は列車の組成を行うために使用される場所をいう。
10 停車場 駅、信号場及び操車場をいう。
11 車庫 専ら車両の収容を行うために使用される場所をいう。///
史料の見落としがなければ、「駅」が法律上登場するのは平成13年ということになる。江戸時代に宿場間に置かれた馬や役夫の中継地を指す「駅」と混同しないように配慮された、という解説もみられたが、新しい社会システムを民衆に周知させることは、建物等の建設以上に難しい問題であったのかもしれない。
「駅」のはなし(4) 時間の革命
『駅のはなし』では、鉄道がもたらしたもう一つの変革に「時間」の概念の変革をあげている。それまでの日本では約2時間を1刻(とき)とし、半刻、小半刻(約30分)を設けていて、小半刻が日常生活における最小の時間単位であった。鉄道は、人々の生活の中にいきなり分単位の時間を持ち込んだというのである。
鉄道の開通が契機となって、翌明治6年1月1日に今日の24時間制が導入された。まさに生活時間の革命である。ちなみに上の写真は明治5年東京(新橋)から横浜開業時の時刻表及び賃金表である。右の出発時間の欄に「刻」との混乱を避けるため、「時」ではなく、「字」の文字が使用されている。
生活時間が短縮される一方で、鉄道の開設によって安全で迅速で安価な旅行が可能となった。それと同時に「旅」というものも変質してきたように思う。心にゆきかう由無し事を追いかけながら、ゆったりとした時間を過ごす場所を探しても良いのではないだろうか。
旅 上 萩原朔太郎
ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて/きままなる旅にいでてみん
汽車が山道をゆくとき/みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ/うら若草のもえいづる心まかせに














