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牛谷家の門

  • 牛谷家の門
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いつも素通りしていた川西町の指定有形文化財となる”牛谷家の門”白鷹町に用事でお出かけしたので寄ってみた、この門元々は伊達家の家臣である大塚氏の居城の大塚城の大手門だったもの、天正19年に仙台に移封となると廃城となり、貞享3年(1686年)牛谷家の門として移築されたとある、・・牛谷家というのが代々国人領主的な存在で周囲の開墾や軍事労役を担っていた家系、国人領主は何かというと、在地に独自勢力を持つ武士たちを国人領主または土豪などと呼んでいるひと、藩主から郷土馬上の待遇を受けていたとある、身分によって屋敷の面積や形状も厳しく定められていた時代、現存する門も一般には上級武家以上しか認められていないことから当時の牛谷家の格式がうかがえます、長手門は切妻、茅葺、白漆喰仕上げ北が三間で2つの武者窓付床が板敷と土間、南側に出格子、土間で武芸の練習をしていたとされて江戸時代に建てられた大型の長屋門建築の遺構として貴重なもの、もと大塚城の大手門を移築改造したもの牛谷家がこの地に移築したとあります(川西HP参照)城はこの近くで門以外は何もないですが、伊達家が移封し上杉が入り、城は廃城米の貯蔵場所として使用していたとありその後に移築した門の奥には何があったの??絵図とかあると嬉しいけど昔の風景想像すると楽しい

2020.03.07:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松

  • 米沢市の世町桑山(旧万世小学校跡地)の一本松
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米沢市の万世町桑山(旧万世小学校跡地)に一本松 がある、明治14年明治天皇が東北御巡幸の際 に休憩された場所として、この地を永く後世に伝える為、明治22年に記念樹として植え られたもの樹齢は推定約200 年で、樹高13メートル・枝張り約20メートルとある、またここには明治34年(1901年)旧万世小が建てられた場所であり記念の石碑がある、私の母はこの小学校を出ている近くのびっき石は遊び場で八幡原飛行場で飛行機をよく見ていたとか聞かされたものです、この場所・・東北中央道の福島大笹生~米沢北ICが開通したことにより高速道がすぐ横を通っている、その開通を記念して草木塔も建てられている米沢で一番新しい草木塔平成29年(2017年)10月21日となる”自然の恵みに感謝し草木を供養する”と刻まれている、一番古いのが米沢市田沢にある石碑、安永9年(1780年)7月19日、上杉鷹山時代に建てられたもの自然石に【草木供養塔】と刻まれている・・自然に感謝する心大事です・昨日天気悪かったが寄ってみた

2020.03.06:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

中山道坂本宿(その2)

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碓氷峠を超えて坂本宿に入ると左側の宿中寄りに現在公認館となっている”酒屋脇本陣”がありその手前側碓氷峠寄りに坂本宿の面影を残す代表的な旅籠建築の”かぎや”が見られます高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家が坂本に移住して旅籠には役職にちなんで”かぎや”としたとあります、看板はひらがなでかかれてありわかりやすい、看板上の屋根下には彫り物などもあり趣があります、公民館横から入り車を止めるスペースがあり奥に小学校がありますがその入り口付近に赤いポストがありましたが、使われてなさそうな?使われてもいるようなかんじわかりません・・時間があればゆっくり散策しても飽きないところ、木曽街道六拾九次坂本の画には中央に用水路があるのがはっきりわかる、奥には刎石山(はねいしやま)が描かれていて東海道の平塚宿の高麗山ににているけどもこの奥行き感というか描き方が独特で好きです、坂本宿の次は軽井沢宿となる、碓氷峠はこの山を越えていくことになるのだが昔は歩きですから大変なものです・・東海道に中山道歩き旅余裕があればやってみたいものです

2020.01.26:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

中山道坂本宿(その1)

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軽井沢プリンスホテルスキー場に行くときに立ち寄りしてきた坂本宿、この坂本宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて17番目の宿場、既存の集落が発展してできたものではなく、寛永2年(1625年)3代将軍家光の時代に安中・高崎藩の領民を移住させて計画的に作られた宿であった、まっすぐな通りには中央に用水路、左右に建物があり本陣、脇本陣、馬宿、旅籠、酒屋、米屋などが立ち並ぶ、天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、家数732軒本陣2軒、脇本陣2軒旅籠40軒、人口732であったとある今でも随所に趣のある建物が残っている、屋号看板だけ残してるところもありました、この坂本宿大名行列のすれ違いのため、本陣が2つ必要とされて両脇にあります、昔中央にあった用水路は現在道路の下にうもれてしまっている。

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2020.01.26:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

万平ホテル

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昨年も、この正月も軽井沢プリンスホテルスキー場でイントラ勤務してその帰りに寄って行こうとして寄らずに帰ってしまった軽井沢万平ホテル・・1月21日から23日の3日間だけまた軽井沢に高校の修学旅行スキー対応できました。。今日は午前中で終わりそのあとのインバウンド客勤務はキャンセルして今日こそはと軽井沢の帰りに寄ってみた、このホテルの128号室前で写真撮りたくてでしたが、なんと1月13日から3月13日までメンテナンスのため月曜から木は全館休館とホテル前に看板がたててありました、残念です・・運がないですが建物の写真だけ撮ってきました・・ホテルの歴史みたいな看板にもレノンが来たことが記してあります、この軽井沢の万平ホテルにジョンレノンがはじめて訪れたのが1970年昭和45年のこと1975年に息子ショーンが誕生して音楽活動を休止、1976年から1979年の4シーズンは毎年アルプス館128号室に家族で宿泊とお気に入りだった、妻の小野洋子さん小野家の別荘が軽井沢にあったこともあって夏になると一月ほど滞在しており自転車で買い物してる姿などよく見かけた人がいるようですが地元の人はジョンとその家族をそっとしてあげていたようで居心地がよかったんじゃないかなと思うわけです、ショーンとその家族の写真など見るとどこにでもいる子煩悩な父という感じ、ここ軽井沢で過ごした時は本当に幸せだなったんだなと思います、音楽活動も休止してショーンと遊んでる姿、おばあちゃんと一緒の家族写真など心やすらぐ日々、お気に入りロイヤルミルクティー、当初このメニューはなかったが、ジョンの要望でメニューになったそう・・アップルパイも一緒にオーダーして、その時のジョンの気持ちに浸るために来る人も多く、いまでも128号室は人気なんだそうです、1980年熱狂的ファンとなのる男によりニューヨーク自宅アパート前で射殺されている、衝撃的なニュースにびっくりしたものです・・また次回です

2020.01.23:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]