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支倉常長(はせくらつねなが)

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今日から5月ですよ早いですね、山形県米沢市大字立石に関小学校がありますが、2021年4月で南原小学校と統合するとされてます、その小学校近くで生まれたのが伊達藩の家臣である支倉常長、ここに小さな資料館とその看板がある、一昨日天気も良く桜見学ついでにたちよってみた、常長がスペインに渡って400年の節目に桜の記念植樹を植えたのが2015年いま桜が満開です、伊達政宗が25歳まで常長は4歳まで米沢にいたとされているのですが4歳ではそんなに思いはないよね・・51歳でなくなってるから短いよね・・病死とあります・・元亀二年1571年生まれ1622年没、慶長18年1613年に、スペイン領メキシコ経由で、スペイン、ローマに慶長遺欧使節(けいちょうけんおうしせつ)として渡航している、施設の派遣が何の目的か誰が企画したかも不明瞭であるとされて徳川幕府キリシタンは迫害を開始していて、メキシコを経てスペインには1615年渡り1620年に帰国主目的たるメキシコとの通商は果たせなかった、命かけての渡航もむなしい、案内役のソテロは1622年マニラから日本に潜入2年後に処刑となっている、出かける慶長18年には国内情勢が大きく変化キリシタン禁教令が全国に敷かれている・・このことから一行が容易に帰国できず正使常長のみ元和6年8月仙台にやっと帰着、帰着後キリシタン御免の家とはなるが不遇のうち病死、この不遇という処置はどんなだったのでしょうか、仙台藩もキリシタンに対して迫害を開始していた本使節団はほとんど意義がなくなっていたようです・・何度か遭難にもあい出かけた常長の本当の気持ちはどんなだったのでしょうか帰国できずに帰化した人々の声を聴いてみたいものです・・

2020.05.01:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

虎列刺菩薩

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コレラの終息を祈願して、その死者を慰霊する石碑があると地区掃除のとき聞いて窪田のを見学した後、赤芝にコレラの石碑があると友人から以前聞いてたので気になってみてきました小野川温泉に向かう途中、置賜三十三観音札所二十五番となる赤芝観音の奥、赤芝羽黒神社にある、市内の桜は半分くらい散ってしまったのですが、ここの桜はまだ満開状態でした、神社の門から、神社境内の左に向かっていくと、石仏群がまとまってるとこにあります、大きな自然石の中央に虎列刺菩薩とはっきりと見れます、右に明治十二年八月三日、左側には村中安全と刻まれている江戸時代の文政五年(1822)に始まり明治になってもたびたび流行したコレラ、石碑はこうした状況のもと、コレラの終息祈願と死者の冥福を願ったもので、最初に発生した文政の時は明確な名前がなく、他の疫病と区別が不明瞭であったがこの流行の晩期にオランダ商人から”コレラ”という病名であることが伝えられて”虎列刺”とら当て字がなされたとあります、コロリと死んでしまうことから”虎狼痢”などの呼び名も広く用いられたという・・

2020.04.29:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

コレラ大明神

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移住した窪田町東江股にある春日神社に石碑群がありますが、ここにコレラの終息を祈願して、その死者を慰霊する石碑があると初めて聞きました、赤芝にコレラの石碑があると友人から聞いたことはあったのですが、窪田にもあったのは初耳でした、そんでネットで検索したら米沢市の歴史探訪のとこに載ってました、一部抜粋すると・・日本で初めてコレラが流行したのは文政五年(1822)で安政五年(1858)には江戸だけで20数万の死者を出す大流行があり、明治にもたびたび流行した、石碑が建てられた明治12年(1879)には全国で大流行し、死者10万人、米沢では八月に白布温泉で発生(旅行者から伝染?)、当時は川水の利用が主であり、コレラは下流の小野川・赤芝に伝染して、市街にも蔓延、死者数百人に達した、さらに下流の窪田村にも伝染し、死者42名と記録にある、石碑はこうした状況のもと、コレラの終息祈願と死者の冥福を願ったもの、赤芝羽黒神社に虎列刺菩薩碑、窪田の虎列刺大明神の石碑が建てられた、今日その石碑に手を合わせて現在のコロナの感染終息を願いました、コレラは明治16年にコッホ博士がコレラ菌を発見し、そののちに治療法も発見されて、上下水道の環境整備も進んで現在ではコレラの流行はなくなり石碑も忘れ去られている・・たびたび起こる伝染病ですがコロナもやがて治療法が確立されるんでしょうけど・明治の時代4年かかって菌の発見その後治療法の確立・・医療技術が進んだ昨今いつ決め手の治療法が見つかるのか?今日桜が満開の窪田東江俣の春日神社

2020.04.26:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

白布温泉石仏群

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昨日3月28日(土)は、コロナで3月7,8日の山形県準指導員検定日の延期した検定日でしたけどコロナの終息がおさまらず中止になって・・しかたなく休みとっていたので天元台でスキー練習、この時期になると湿り雪のざぶざぶ雪になる、整地しても深くえぐれて滑りにくくなり、変なブレーキもかかる・それよりも同じところを滑るこぶバーンの方がよく滑れるので昨日はこぶオンリーでした・・ようやくこぶバーンも緩い傾斜はなんなくクリア・・昔からある第二リフトのこぶバーンの斜面もモーグルメンバーのつくる細かいバーンは無理だけど緩いのはクリアできるようになった・・来年こそ初検定一発合格といきたいです・昨日帰りの白布温泉街の風景、まだここは雪が少し残ってます・・酒屋さん前の石仏が並んでいるところから西屋旅館を見る、昔は西屋、中屋、東屋と三軒の茅葺旅館が並んでいましたけどもいまは西屋さんだけ江戸時代の建物が残っている、創業が鎌倉時代まで遡る歴史ある古い旅館です・・今朝はまた春のなごり雪が降ってます

2020.03.29:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

牛谷家の門

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いつも素通りしていた川西町の指定有形文化財となる”牛谷家の門”白鷹町に用事でお出かけしたので寄ってみた、この門元々は伊達家の家臣である大塚氏の居城の大塚城の大手門だったもの、天正19年に仙台に移封となると廃城となり、貞享3年(1686年)牛谷家の門として移築されたとある、・・牛谷家というのが代々国人領主的な存在で周囲の開墾や軍事労役を担っていた家系、国人領主は何かというと、在地に独自勢力を持つ武士たちを国人領主または土豪などと呼んでいるひと、藩主から郷土馬上の待遇を受けていたとある、身分によって屋敷の面積や形状も厳しく定められていた時代、現存する門も一般には上級武家以上しか認められていないことから当時の牛谷家の格式がうかがえます、長手門は切妻、茅葺、白漆喰仕上げ北が三間で2つの武者窓付床が板敷と土間、南側に出格子、土間で武芸の練習をしていたとされて江戸時代に建てられた大型の長屋門建築の遺構として貴重なもの、もと大塚城の大手門を移築改造したもの牛谷家がこの地に移築したとあります(川西HP参照)城はこの近くで門以外は何もないですが、伊達家が移封し上杉が入り、城は廃城米の貯蔵場所として使用していたとありその後に移築した門の奥には何があったの??絵図とかあると嬉しいけど昔の風景想像すると楽しい

2020.03.07:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]