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第26回 総合工芸展(5月21日~26日ナセBA1F)

  • 第26回 総合工芸展(5月21日~26日ナセBA1F)

よねざわ市民ギャラリー(ナセBA1F)で今日5月21日から26日まで(AM10:00~PM6:00)総合工芸展が今年もあります。今年第26回ですね、木、布、革、紙、ガラス、金属などの手工芸作品展になります、一人1000円参加で3点迄、搬入展示は各自で協力して実施、当番なども参加者で行うようになってます、木工クラフトとして参加してます、3月にARTMEETOKITAMA、5月連休に町田で、そしてこの総合工芸展に出品してます、あとは地区の文化祭ですね、木工人形は年2回ほど販売してます・・・・今年も新作作らんとですね・・まずは畑を終わらせないとです

2024.05.09:li-no2:コメント(0):[気ままなつぶやき]

武道”剣道”

  • 武道”剣道”
  • 武道”剣道”

娘のとこの一人息子、小学校の学校開放で剣道を習っている。今年も絵画展で東京行き、娘宅に泊り、すぐ前の小学校での剣道の稽古見学です・・・。心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、日本で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化を見ると、『柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、柔剣道』とある。それは国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道であると制定している。小学生から初めて5年になる、あいさつに、思いやりが出てきた孫、成長してる姿に、爺もうれしい・・歳を経ても続けられる武道、教えてる先生はすごいおじいさんもいる・・

2024.05.09:li-no2:コメント(0):[気ままなつぶやき]

コーヒーブレイク

  • コーヒーブレイク

昨日、一昨日と我が家の畑の草刈りしてます、ほんと疲れたー・・そんでもって庭デッキでコーヒーブレイクです。しかし、今日はこれから、福島のスキー友さんとこにお出かけして今年のスキーシーズン反省会です・・スキーシーズン締めの打ち上げは、昨年も月山スキーしてからなんですがね、昨年は5月9日に月山へスキーしに行ったのね・・・今年は行く余裕ないかなー・・今日はスキーと山友さん集まりのバーベキュー大会、仕事終わりで集まるメンバーもいるんで夕方6時から開始です、そこで月山締めスキー予定も決めんとですねー・・その前に畑、進めないといけません、お隣さんは耕耘がすんで、マルチ敷も終わったようです・・我が家は明日戻って、明日、明後日まで耕耘しての肥料入れ、そんでマルチ敷きですね・・14日まで休み、とっているので、なんとかそこまでは植え付け完成させないとです・

2024.05.08:li-no2:コメント(0):[気ままなつぶやき]

今朝の我が家前

  • 今朝の我が家前

連休前は、絵画展の作成で忙しく、やっと完成で連休は東京へ、帰宅して昨日の朝はこんな感じ、車庫から市道までの序口だけ、山友さんが見かねて草刈りしてくれてました・・・嗚呼ありがたや・・ようやく昨日帰宅し、昨日朝から今日も畑の草刈りですわー・・

2024.05.08:li-no2:コメント(0):[気ままなつぶやき]

越後瞽女(えちごごぜ)

  • 越後瞽女(えちごごぜ)

相模原市に住んた頃、子供も大きくなり、自由な時間ができ、なんか習い事しようかと思い立ち、絵が好きだったこともあることからり、市内にある絵画教室に通い始めました。しかし、物足りなくなって相模原市の絵画サークル”どんぐり”に入りなおす。そこは毎年町田の版画美術館を主にグループ展を開催しており、ほぼ5月の連休に行います。

昨日までこの作品つくりしてました、ぎりぎり完成です。ことしは”越後瞽女”を題材に作りました、この”ごぜ”は米沢市万世に住んでいたころの母から聞いた幼少期の話、実家のある川西の玉庭地区のごぜ宿も知人から知ることができたことからこの題材にした。

一昨年は”むかさり行列”を題材にし、昨年は”ぼて娘”と、いずれも昭和の30年ころまでにあった風景とした、このごぜというのは、幼いころから病気が原因で失明する子どもが多かった時代、幼少から瞽女の弟子になるケースが多く、幼子ながら唄と三味線の厳しい修業を積みました。受け継ぐ方法は、すべて口伝え。唄の伝承は一日中続き、道を歩く時も風呂に入る時も、ひたすら暗唱させていたといいます。双方とも目が見えないのですから、教える親方にも労力がかかります。親方は弟子の背後に回り、棹(さお)を持つ弟子の左手の指に自分の指を添えて糸の押さえ方を、右手には撥(ばち)を持って弾き方を教えました。 1年のうち300日は旅をしていたといわれている瞽女さんたちは、遠い昔から村々を訪ね、一軒、一軒に唄を運んだ、暑い日も、寒い日も、よほどのことがない限り、自分の足だけが頼りの旅であった。

明治の初め、新潟には700人ほど目が不自由な女性の旅芸人”ごぜ”がいたと言われている、生活の糧として三味線をもち村々を回る、私の母は昭和4年生まれ、小さい頃、米沢市万世地区で育つ、毎年ある時期になると”ごぜ様”来ると言って地区の世話人が教えに来て、今日はごぜ様が来るから着替えて(一応よそ行きの服装があったんだと母)準備しとけと言われ、それを楽しみにしていたそうです・・唄に語りがあって、時に悲しく・・時に笑わせる・・行ったこともない旅先での話は娯楽も少なく旅に出ることもまるでなかった母には新鮮で面白かったと言います。

無償で瞽女たちを泊めて世話をしてくれる家は「瞽女宿」と呼ばれていました。瞽女宿となるのは地主などの旧家です。しかし戦後になると、ラジオやテレビの普及により瞽女の活躍の場が次第に奪われ、廃業に追いこまれる瞽女が多くなっていく。越後瞽女は主に「高田瞽女」と「長岡瞽女」が知られ、明治時代後期をピークに、戦後には「高田瞽女」とうとう一軒となってしまいます。

 

 

2024.05.01:li-no2:コメント(0):[気ままなつぶやき]