HOME > 羽前成田駅100年物語

(11)松林堂菓子舗と酬恩碑

  • (11)松林堂菓子舗と酬恩碑

 先に松林堂菓子舗として紹介した孫田家は、草岡の孫田氏から慶應3年(1867年)に分家し、現在5代目となる。3代目は昭和7、8年頃に菓子商を開業した。紅白ラクガンや味噌饅頭が有名だったが、戦時下で砂糖が手に入らなくなった昭和14、5年頃に廃業せざるを得なかった。その頃の職人の一人は、現在白鷹町にあるあんちん堂菓子舗のお爺さんであったといいます。

 

 2代目の八百次氏は長井線の線路工事や道路工事、開田工事等の土木工事をして多くの人夫を使っていたそうである。あまり仕事のない時代で働けるのは有難いと大変喜ばれ、人夫達が感謝の気持ちを込めて昭和4年に酬恩碑を建立したのだそうです。揮毫者は衆議院銀の西方利馬氏でした。実は西方利馬氏は長井線との縁が深い人だったのです。

 

 大正11年秋の鉄道会議に、次年度に着手する路線として現在の米坂線の今泉・坂町間が提案され、決定されました。この計画では米坂線が今泉経由となってしまうため、長井の住民は長井駅を経由するよう陳情したのでした。南陽市中川出身の西方氏は大正13年の衆議院選挙で当選し、長井駅経由に変更すべくまさに粉骨砕身の努力をされたのでした。けれども「長井への起点の変更は米沢市の繁栄を奪うもの」とする米沢市や東置賜郡さらには今泉地区の住民の反対運動も厳しく、実現には至らなかったのでした。西方氏に揮毫を受けた八百次氏もまた人々の幸せを願って走り回った人間だったのではなかろうか。

 

 今泉経由の経過についてはこちらから

⇒ 長井線リポート(17)  白川橋梁からの眺め:おらだの会 (samidare.jp)

 

【参考資料】ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年発行/写真も)、致芳の屋号と家紋(致芳郷土史会編:平成28年)、長井を変えた横山八次局長(横山八次・五十嵐俊栄著:平成15年発行)

2022.02.06:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(10)成田駅前の発展

  • (10)成田駅前の発展

 前回、成田駅開業当時の状況を紹介しましたが、その後成田駅前は急激に活気づいていきます。写真の地図は「成田駅前の発展」としてふるさとめぐり致芳に掲載されたもので、当会のブログ(2018年5月12日:停車場の追憶写真帳)でもとりあげていたものです。

 

 この地図では年次が明らかでないのが残念ですが、先の地図と比較すると宇右エ門曲がりがなくなり、真っ直ぐな道路になっています。山口五左エ門家が移動し、その土地に農協や郵便局が建てられたようです。あんびん屋は現在の宮崎家、松林堂菓子舗は孫田家の先祖が商売したものだそうで、駅の開業を機に地元の人達が果敢に起業していたことが伺えます。

 

 街は時代と共に変貌を余儀なくされるものであり、その記憶も途絶えやすいものです。けれどもこの小さな界隈で生まれ、消えて行ったものの中には、地元民としても忘れてはいけないものがあるような気がします。長井線や成田駅に関わった先人の足跡を幾つか紹介していきたいと思います。

 

「停車場の追憶写真帳」はこちらから ⇒ 停車場の追憶写真帳:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【参考資料】致芳の屋号と家紋(致芳郷土史会編:平成28年)、ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年発行)

2022.02.04:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(9)駅前道路は宇右エ門曲がり

  • (9)駅前道路は宇右エ門曲がり

 駅から県道までの取付道路は町村で造らねばならなかった。駅から役場までは直線で来たけれど、そこには山口五左エ門氏の住宅があって直線には出来なかった。それで役場入口の道路を拡幅して県道に接続した。停車場道路としては例のない曲がった道路になってしまった。

 

 事情はあったにしても、村当局は村民から非難されたのは当然のことであった。宇右エ門曲り等と悪口を言う人もあったが、当時(佐々木)宇右エ門氏は村議会で絶大な実力者で、この曲がった道路も彼の意向によるものだったとささやかれていた。

 

 道路工事は用地買収等に手間取り、工事が遅れて開通式直前までかかって漸く完成した。その年12月になってからは天気が悪く毎日の雨で砂利は敷いても泥んこ道だった。それでも落成式当日は役場前に芸者踊り等の余興もあり大変な賑わいであった。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より(写真も)

 

 

 

【おらだの会】上の写真にある駐在所は明治21年8月1日に成田村下宿東に配置された、と長井市史3巻(昭和57年発行)にある。また日進堂は「大正4年に菓子商を営む」と記録があるとのこと。成田駅開業の数年後、駅前の風景は大きく変貌することになるのですが、それは次回ご紹介します。

 

 日進堂のお菓子が食べたくて千葉から来ましたという方がいました。

こちらからどうぞ ⇒ 木造駅舎がお菓子になった:おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.02:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(8)高橋鯉屋さんも創業100年

  • (8)高橋鯉屋さんも創業100年

 停車場の位置が決定したのは大正9年の春だった。成田の希望通りにはならなかったし勿論献金はしなかった。(略) 駅が確定すると直ちに用地買収に入った。買収価格は時価の2倍という高値だったし、代替地は幾らでもあったので割合スムーズに進んだ。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 いよいよ敷設工事が始められます。そこで登場するのが高橋辰弥さんで、現在の高橋鯉屋さんの曽祖父にあたる方です。辰弥さんは長井線の工事作業員を束ねる仕事をしていたそうです。線路近くの田んぼの土を線路の土盛りに利用したため、土地に大きな穴があいてしまい、「はてこの窪地をどうするべ」として始めたのが鯉の養殖だったそうです。

 

 髙橋家の先祖は、江戸中期に北前船が縁で京都から移住し、成田久保町で料理屋相馬屋を開業したといいます。辰弥さんの時代には成田本宿で開明館という料理屋を営み、鉄道敷設と同時に鯉の養殖を行うようになったそうです。羽前成田駅も100年、高橋鯉屋さんも創業100年です。

 

 

【おらだの会】 鯉の養殖は、米沢藩主上杉鷹山公が福島県相馬から稚魚を取り寄せ、米沢城のお堀で育てたのが始まりといわれます。中国の故事にも出て来る「鯉」料理は、祝いの席には欠かせないソウルフード。鯉甘煮品評会で2年連続最高賞(水産庁長官賞)を授賞している高橋鯉屋さんですが、その中でも「骨まで美味しい鯉のやわらか煮」が特にお薦めです。

2022.01.31:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(7)羽前成田駅は五十川駅に?

 前回、成田区民は成田の中央部(現在の成田第3踏切の南部)に建設するよう陳情していたことを紹介した。けれども次に紹介する請願書では、長井村の駅は五十川区に建設するよう要望されているのである。成田区と五十川区の確執として役場焼討事件(明治34年)があったが、駅の建設時も綱引きがあったのであろうか。ちょっと気になるところである。

 

 

請  願  書

 長井軽便鉄道ノ延長ハ、地方民多クノ宿望ニ候処、主務官殿亦其必然ヲ認メラレ、今般長井町ヨリ長井村、蚕桑村、鮎貝村ヲ経テ、荒砥町迄延長スヘク、目下測量中ニ有之、近々其実現ヲ見ルベク、承知仕候ニ付テハ、其中下長井村大字五十川、蚕桑村大字高玉、鮎貝村大字鮎貝ノ三ヶ所ニ停車場ヲ御設置相成度請願仕候。

 

 理  由

一、長井村大字五十川ハ長井線ヲ距ル約2哩(マイル)、長井村ノ中央ニシテ、有名ナル米琉絣産物ノ中心ナリ。西ハ西根村ニ通スル要路控ヘ、東ハ最上川右岸ニ達スル渡船場ヲ有シ、肝要ノ位置ニアルヲ以テ當区適當ノ地点ニ停車場ヲ御設置相成度候。

一、蚕桑村大字高玉ハ  ・・・略・・・

一、鮎貝村大字鮎貝ハ  ・・・略・・・

 

 右沿道関係部落ヲ代表シ請願仕候

 

軽便鉄道敷設請願(雪国の春5 原敬一「置賜軽便鉄道資料」より抜粋)

2022.01.27:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]