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(21)長井駅でも貨物取扱いが廃止

  • (21)長井駅でも貨物取扱いが廃止

 昭和29年の旅客列車が気動車に代わってからも、SLは貨物列車を牽引していた。けれども昭和36年6月10日に梨郷、西大塚、時庭、羽前成田、蚕桑、鮎貝駅で貨物の取扱いが廃止となり、59634号は昭和47年に引退することとなる。

 

 昭和54年11月1日に宮内駅、今泉駅で貨物取扱いが廃止。翌年の9月10日には赤湯駅、そして最後の牙城長井駅も昭和57年11月15日に貨物取扱いが廃止となった。駅が物流の中心であった時代は終わり、主要な駅前にあった日本通運(愛称マルツウ)などの運送会社の建物も次第に姿を消すことになった。駅前の風景も変わり、長井線存続に向けた運動の時代へと入っていった。

 

さよならSLはこちらから

⇒ 「さよならSL」との再会:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【写真提供:佐久間信人氏】昭和47年「さよならSL」の際に撮影。写真右側に運送会社の建物が見える。

2022.03.10:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(20)昭和39年の光と影

  • (20)昭和39年の光と影

 長井線にディーゼルカーが導入されてから10年経った昭和39年(1964年)10月1日、東京~新大阪間に新幹線が登場した。夢の超特急である。その10日後の10月10日、アジアで初のオリンピックが開催された。日本中が熱狂の渦に沸き上がる中で、地方からは集団就職列車で若者が故郷を離れて行った。そしてこの時すでに長井線には暗い影が差していた。

 

 昭和36年6月10日に梨郷、西大塚、時庭、羽前成田、蚕桑、鮎貝駅で貨物の取扱いが廃止。昭和39年4月1日には羽前成田、蚕桑の各駅が業務委託駅となり、翌40年4月1日には梨郷、西大塚、時庭、鮎貝駅でも業務委託駅化された。

 

 以前、「成田駅の宝物Ⅰ」で使用済み用紙を利用した手作り封筒を紹介したが、そんな国鉄職員の努力をあざ笑うかのような大きな物流の変革が生まれていたのだ。昭和39年に国鉄は300億円の単年度赤字を出し、昭和41年度には繰越欠損を生じるに至った。昭和43年9月4日には国鉄諮問委員会から「廃止を検討すべき83線」が報告された。こうした動きをにらみ、昭和43年6月27日には、長井線存続既成同盟会が発足している。まさに昭和39年は光と影の分岐点であったのだと思う。

 

手作り封筒の記事はこちらから

 ⇒ 成田駅の宝物Ⅰ:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.04:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(19)旅客列車が気動車に

  • (19)旅客列車が気動車に

 長井町、長井村など1町5カ村が合併して長井市が誕生したのは昭和29年11月15日。この日、新生長井市の誕生を祝うかのように長井線の旅客列車がディーゼルカーに代わった。赤湯梨郷間開業から41年、羽前成田駅開業から32年後のことである。長井市史には「煙から解放された」とあるが、当時の市民の率直な感想であろうか。

 

 山形市の知人が昭和30年2月の車両配置表で調べてくれたところによると、この時山形機関区にはキハ45500形が12両配置されていたとのことである。そのうちの何両かが長井線に配属されたと思われる。なお45500型車両は昭和29年から30年にかけて99両製造。昭和49年から廃車が始まり昭和55年には全車が除籍されたようである。

 

 その配置表には、長井線のさよならSL列車となった蒸気機関車59634号も山形機関区に配置されていたと記されています。59634号は今も北九州市に保存されています。長井線を走った初代のディーゼルカーにも思いを寄せたい気がするのは私だけでしょうか。

 

 

【おらだの会】写真は長井市史(第4巻)より。撮影年次、車番、型式等は不明。

【追   記】この写真をご覧になった知人から連絡が入りました。「先頭車両は窓が小さいことから南東北以北向けの寒冷地仕様のキハ22形、後車がキハ17形(45000形から称号改正)とみられる。キハ22形が入っていることから撮影年次は昭和42年以降と思われる。」とのことでした。有難うございました。

2022.03.02:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(18)昭和24年の赤紙?

  • (18)昭和24年の赤紙?

 終戦後の長井線の運行状況について、長井市史第4巻では次のように記されている。

「(大正3年11月15日の赤湯~長井間)開通当時は、客車1日5往復、貨車1回の運行であったが、昭和3年には客車貨車混合で6往復となった。  (略)  敗戦直後は機関車も客車も極度に不足し、昭和20年・21年には長井線は貨車に人をのせて1往復という状況で、列車事情が曲がりなりにも回復し、東京方面への中学生の修学旅行が復活したのは昭和27年度からである。」

 

 成田駅に残されている宝物で終戦後の歩みを辿ってみたい。写真は経理関係者への訓示であり、以前「成田駅の宝物」で紹介したものである。裏面に「24.7.2?」の日付スタンプが押されており、昭和24年のものと思われる。終戦後の混乱が治まらぬ中にあって、職員に服務規律の徹底を呼び掛けたものであろうか。それにしてもこの色を見ると召集令状を連想してしまうのは私だけだろうか。

 

⇒ 成田駅の宝物 事務注意書き:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.28:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(17)終戦の詔勅を聞く

  • (17)終戦の詔勅を聞く

 

 昭和20年8月15日正午、終戦の詔勅が出された。鉄道紀行家として有名な西脇俊三氏は、玉音放送を今泉駅前で聞いた時のことを「時刻表2万キロ(角川文庫)」に次のように書いている。

 

 「駅舎からコードが伸びていて机の上のラジオにつながっていた。それを数十人が半円形に囲み、放送がはじまるとラジオが天皇であるかのように直立不動で頭を垂れた。(略) 何事もなかったかのように蒸気機関車が蒸気を吹き出しながらホームにすべり込み、顎紐をきりっと締めた機関士やショベルを握った助士の姿も、いつもと変りなかった。変わりようのないことではあるが、それが強く印象に残った。」

 

 この時、羽前成田駅の駅長は第6代の髙山季之助氏(昭和16年5月11日~昭和20年10月18日在任)であった。髙山駅長はじめ駅に集う人たちは、どんな思いでこの放送を聞いたのであろうか。

 

 

「今泉駅に残る昭和」はこちらからどうぞ

 ⇒ 長井線乗車リポート:おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.24:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]