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(26)日本一の三セク鉄道を!

  • (26)日本一の三セク鉄道を!

 長井線の存続運動が強力に進められたが、国鉄改革と地方線廃止の流れは止められなかった。ついに昭和61年10月28日、長井線は第3次特別地方交通線に選定された。明けて昭和62年3月31日には国鉄が解散し、4月1日から東日本鉄道㈱(JR)となった。そして4月20日には長井線の第三セクター方式による存続が決定されたのでした。

 

 こうした動きの中で、駅協力会は昭和62年12月30日に成田駅内でモチつき大会を行っている。「日本一の第三セクター鉄道づくりにまい進しよう」「地域の繁栄、発展の原動力として大きく育てていこう」とのインタビュー記事が載っている。駅には200人もの地区民が集まり、協力会の会員が列車に乗り込み、チラシと納豆モチをプレゼントしたともある。逆境にもめげずに常に前を見て行動していた先輩たちの偉大さを改めて感ずる。

2022.04.15:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(25)長井線を守ろうカラオケ大会も

  • (25)長井線を守ろうカラオケ大会も

 今年は羽前成田駅が開業してから100年になる。そんな節目の年に、これまでの歩みを振り返ることはこれからの活動を考えるヒントも得られそうな気がする。そんな思いを抱きながら、羽前成田駅協力会の資料をみていきたい。

 

 羽前成田駅協力会が発足した昭和59年度の事業報告を見ると/4月22日 長井線まつり参加(長井駅前)/4月30日~5月1日 長井市民号参加/7月28日 長井線を守るカラオケ大会協賛(成田駅前広場)/8月8日 羽前成田駅前ゲートボール場開き、とある。

 

 長井線まつりは荒砥までの全線開通の日(4月22日)に合わせて実施。第1回は昭和56年に行われており、以後昭和61年まで長井市、白鷹町、南陽市が会場持ち回りで開催したという。また長井市民号という事業も企画されている。

 

 成田駅ではゲートボール場を整備し、カラオケ大会が開催されるなど駅協力会と公民館、老人会などが一緒になって運動を盛り上げていたことが伺える。ある意味では羨ましく思う点がある。コロナ禍もあって困難な状況ではあるが、こうした雰囲気を創り上げていきたいものである。

 

 

【おらだの会】 写真は昭和60年の「長井線を守ろうカラオケ大会」(「写真でみる致芳のあゆみ」より)

2022.03.30:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(24)駅協力会のスタート地点

  • (24)駅協力会のスタート地点

 羽前成田駅協力会が簡易委託駅化に対応するために昭和59年4月11日に設立されたことは前回お話したとおりである。しかしながら西大塚駅は成田駅よりも早く昭和46年に簡易委託駅になりましたが、駅協力会が発足したのは昭和63年10月である。蚕桑駅と鮎貝駅も成田駅と同じ年に簡易委託駅となりましたが、駅協力会は発足しなかったようである。一方、時庭駅協力会は昭和63年9月、長井駅南長井駅協力会が平成元年1月に発足しているのをみると、各市町の考え方の違いがでているようである。

 

 それはともかく、羽前成田駅が沿線の中で最も早く駅協力会という地元組織がつくられたことは注目しておきたい。上の写真が昭和59年の羽前成田駅の様子である。玉置清吉さんはこの建屋の駅務室に入って仕事をしたのである。見るからに雨漏りがしそうなこの駅舎こそが、玉置さんと羽前成田駅協力会が立ち向かったスタート地点であり現実だったのである。

 

【写真提供:故玉置清吉氏(昭和59年8月13日撮影)】

羽前成田駅舎の変遷についてはこちらからどうぞ

→ 停車場の追憶写真帳:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.28:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(23)永遠の羽前成田駅長・玉置清吉さん

  • (23)永遠の羽前成田駅長・玉置清吉さん

 羽前成田駅では、昭和36年に貨物取扱いが廃止され、昭和39年には業務委託駅となり、さらに昭和59年には簡易委託駅となりました。その業務を担うことになったのが成田在住の元国鉄職員・玉置清吉さん(写真)でした。

 

 羽前成田駅協力会の総会資料によれば、昭和59年3月19日から玉置さんに業務を委託し、同年3月23日には簡易委託化に伴う対策について地元関係者会を開催し、4月11日には長井線沿線駅で最初の羽前成田駅協力会が設立されています。この迅速な動きの陰には当時の市議会議員や自治会、地区長会の役員、それに加えて長井市職員で長井線対策の中枢を担った故小口昭氏(成田久保町住民)等地区リーダーの存在があったはずである。

 

 そして地元住民が駅長にお願いしたのが玉置清吉さんだったのです。玉置さんは大正11年1月1日生まれ。息子さんのお話では15歳で国鉄に就職して定年退所後も成田駅に勤務し、70歳を迎えたことを区切りとして制服を脱ぐ決意をしたとのことです。駅協力会の資料によれば玉置さんが勤めた初年度の売り上げは、前年度比133パーセント増だったそうです。

 

 また駅周辺を四季折々の花々で埋め尽くした玉置さんは、その温和な人柄で「花の駅長」として皆に愛され、現在の羽前成田駅周辺の環境整備の基礎を作られたのでした。地元民にとってはまさに「羽前成田駅・永遠の駅長」であり、羽前成田駅の歴史に永遠に残されなければならない人物の一人だと思います。

 

【おらだの会】

玉置さんの記事はこちらから 

 花の想い出:おらだの会 (samidare.jp)

 線路の向こう側も・・・:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

2022.03.24:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(22)国鉄時代の終焉 ~ 線路を残す決意

  • (22)国鉄時代の終焉 ~ 線路を残す決意

 これまでの成田駅の歴史を整理すると次のように区分できるのではないかと思います。第1期は明治末から大正11年の成田駅開業までの「希望に溢れた時代」、第2期は大正末から昭和22年頃までの「戦争によって左荒線の夢が潰えた時代」、第3期は東京オリンピックが開催された昭和39年頃までの「鉄道全盛時代」です。しかし第3期には既に国鉄改革が叫ばれ、昭和43年には国鉄諮問委員会が長井線を含む廃止対象83路線を公表したのでした。

 

 第4期の昭和40年代から山形鉄道開業の昭和63年までは国鉄時代が終焉し、「線路を自分達で残す決意をした時代」といえるかもしれません。県や市町が昭和43年に長井線存続期成同盟会を設立し存続運動を展開する中で、地元がどのように動いたのか。羽前成田駅協力会の動きを中心に紹介したいと思います。

 

 写真は昭和47年1月の成田駅です。この年、貨物列車を牽引していた蒸気機関車はその役目を終えることになります。96を見送る駅員の姿がその後の困難を予感させるようで印象的です。

 

 

【おらだの会】写真提供:小笠原弘氏(昭和47年1月撮影)

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 → 「さよならSL」との再会:おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.22:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]