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(6)陳情に長井紬 ~ 成田駅の建設場所は

  • (6)陳情に長井紬 ~ 成田駅の建設場所は

 大正8年の秋頃だったが3線の中の中央部の線に決定したのだった。線路が決定すると停車場の位置問題がにわかにクローズアップされてきた。それまでノンビリしていた地域の人達も停車場のこととなると、あわてて論議し始めた。区長はじめ村会議員、区会議員等有力者が会合して成田区民の意思を統一してその筋に陳情しようということになり、早速福蔵院を会場に区民総会を開いたのである。大部分の区民が出席したらしく広い会場も溢れる程の盛会であった。この時の区長は安部秀弥氏でなかったかと思われるが確たる記憶はない。司会者が経過報告をして、成田として駅はどの位置を希望するかを諮ったのである。種々論議されたが結局成田中央部即ち赤間伴右エ門の南部と満場一致で決定した。

 

 更に希望通りに設置された場合、区有金2千円を鉄道院に献納すること、又陳情経費其の他の経費も区有金より支出することを決議したのである。この2千円は停車場敷地1町歩の買収価格であった。この時の主導者は誰であったかはよく判らないが、当時村長に就任していた佐々木覚次郎氏が影の人として活躍していた。この佐々木氏に頼まれて、私が成田地区の地図に希望の停車場の位置と県道よりの取付道路を赤インキで書いたのだった。それを持って第1回の陳情団(2名位か)が秋田鉄道管理局に行った。2回目の陳情に行ったのは、8年の暮れ12月頃でなかったか、雪が5、6寸あったのを覚えている。加藤五左エ門、横山辰蔵、長谷部甚作の3名で長井紬をお土産に持って行った。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 

【おらだの会】駅の建設にあたって資金を提供するのは昔も今も同じようであるが、成田区として支出するとしたのは興味深い。これについては次回、別の史料を紹介したい。

 陳情のお土産に長井紬を持参しているのは、当地域での養蚕と紬の生産が特筆すべきものであったことを示すものであろう。写真は全国の養蚕振興のために長井村を訪れた貞明皇后(大正天皇の后)が、昭和25年五十川にある上杉鷹山公御手植えの桑の木を視察された際のものである。

(写真で見る致芳のあゆみ:平成14年 致芳地区文化振興会発行 より)

2022.01.25:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(5)延長線測量始まる ~ 鮎貝村ハ長井線ノ終点タルベク

  • (5)延長線測量始まる ~ 鮎貝村ハ長井線ノ終点タルベク

 大正8年4月愈々線路の測量が始められた。ところが測量は1線ではなく3線同時に始められたのである。最も西側は西表の田園の真中を通り、中は現在の線路のところ、それから東側の線は遍照寺東から野川を渡り、塔の越に入り福蔵院の東、片桐氏宅の前から八百刈を突き抜けて窪前から五十川に通ったのだった。東側の線は殆んど桑園だったので測量の障碍になる桑の木は切り払われた。

 この3本の線を測量したと言うことは、最も建設費の少なく、地域住民の利用価値の高いところという配慮から比較線とかいって3本の線を検討したのであった。この3線の予定線については、地域住民はどの線を希望するというような積極的な意見もなく鉄道院の決定次第というような空気だった。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 

【おらだの会】大正8年4月の測量開始は、左岸ルートに決定されたことの証左であった。この事実に対して成田区民にはあまり大きな動揺はなかったようである。けれどもそれは現在の長井線が生まれるか否かの分岐点であった。その年の5月、西置賜郡長 清水徳太郎は郡内の町村長会の席上で「延長ルートは左岸でその終点は鮎貝駅となることは殆んど決定である。荒砥までの延長を実現すべく郡内団結せよ!」と訴えたのでした。詳しくは次の記事をご覧ください。 ⇒ 軽鉄人物伝③ 荒砥町6人衆(その4):山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

【請願書資料提供:ふるさと資料館(南陽市宮内)】

2022.01.23:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(4)左岸連合の請願書 ~ 国家ノ振興ハ

 長井以北から荒砥までのルート決定の経緯については「おらだの会2 軽鉄人物伝」でも紹介してきましたが、その多くは荒砥町を中心とする右岸側の動きでした。羽前成田駅開業の歴史を辿る本シリーズとしては、左岸側の動きを探ってみたいと思います。

 最初は原敬一氏が「雪国の春5」で紹介された次の請願書をご覧いただきたい。「国家ノ振興ハ都鄙全般ノ振興ニシテ、独リ都市ノ繁栄ヲ意味スルモノニコレナク候」と国の現状を憂い、さらに「欧州大戦ノ好影響ヲ蒙リ、正貨著シク激増」した今が、地方開発の好機であると論じるのです。なかなか格調高い請願書です。さらに村山軽便鉄道との連結も展望していることは、当時の人達の見識と情熱が見えてくるような気がします

 

 

                         軽便鉄道敷設請願

 置賜軽便鉄道長井線ヲ、長井町以北ニ延長シテ、急速ニ村山軽便鉄道ト連絡セシメラレンコトヲ請願仕リ候。国家ノ振興ハ都鄙全般ノ振興ニシテ、独リ都市ノ繁栄ヲ意味スルモノニコレナク候。而シテ堅実ナル都市ノ繁栄ハ、カエッテソノ基礎ヲ地方ノ振興ニ置クニアラザレバ、ツイニ樺花一朝ノ栄ト択ブコトナキ状態ニ陥ルベシト存ジ候。従来、政府ノ施設ヲ見ルニ、常ニ都市ニ厚クシテ地方ニ薄キ傾向アルハ、ヒソカニ遺憾トスルトコロニ御座候故ニ、地方ノ振興ハ独リ地方ノ問題ニアラズシテ、実ニ国家ノ重大問題ニコレ有リ候。(中略)

 

我ガ山形県西置賜郡ハ、全国有数ノ蚕業地ニシテ、繭生糸等ノ産額弐百万円ヲ超過シ、特産長井紬ノ生産五十万円ニ達シ、ナオ逐年逓増ノ趨勢ヲ示シツツ之有リ候、而シテ蚕業ト機業トノ主要産地ハ、実ニ同郡ノ一半ナル。長井町以北最上川ノ左岸ニ点綴スル村落ニシテ、全産額ノ殆ンドト、八分ヲ占有スルノ状況ニ候。且ツコレラ村落ノ西方一帯ハ、千古不伐ノ大森林ヲ有スル朝日嶽ノ連山ニシテ、所材木材、薪、炭等ノ産出夥多ニシテ、年産数十万円ヲ算シ、アタカモ無尽ノ状態ニコレ有リ候。コレニ加エテ各種ノ鉱物ニ富ミ、草岡、白兎、西横田尻、一ツ沢等到ル処採掘、試掘セラルルモノ少ナカラズ候。 (中略)

 

我ガ国ハ幸イニ欧州大戦ノ好影響ヲ蒙リ、正貨著シク激増シ、却ッテコレガ調節ニ苦慮セラルルノ盛況ニシテ、資金ノ調達マコトニ易々タルノ現象ニ之レ有リ候。宜シク豊富ノ資金ヲ活用シテ、地方ノ開発ヲ企図スルコト、今日ノ如キ真ニ千載一遇ノ好機会ナルベシト存ジ候、仄聞スルトコロニヨレバ、村山軽便鉄道ノ実測略終了シ、山形、左沢等停車場ノ位置既ニ決定セラレタリト、若シ置賜軽便鉄道ヲ長井町以北ニ延長スルコト十里、急速ニ村山線ニ連絡セバ、首尾貫通シテ交通至便独リ沿道ノ乗客、貨物輸送ニ便宜ナルノミナラズ、蚕業、林業及ビ鉱業等勃然トシテ振興ノ機運ヲ促進シテ、マサニ地方ノ福利ヲ開発スルノミナラズ、延ベテ国富ノ増進ニ資スルコト頗ル多大ナルベシト確信仕リ候。以上ノ事由コレ有リ候ニツキ、特別ノ御詮議ヲ持ッテ急速ニ敷設連絡相成リタク謹ンデ請願仕リ候也。

  大正 年 月 日

 

(雪国の春5 原敬一「置賜軽便鉄道資料」より抜粋/下線はおらだの会)

 

 

【おらだの会】長文を最後までお読みいただき有難うございます。なお「山形県史本篇5商工業編(昭和50年発行)」には上記の請願書について次のような説明がありました。実印入りのこの請願書を見てみたいものです。

//鮎貝村文書の「軽便鉄道敷設請願」という資料には年月日が入っていないが、「村山軽便鉄道ノ実測略々終了シ云々」などの文面から考え、大正7年ごろのものである。提出署名者は、長井村長佐々木宇右衛門をはじめ、鮎貝・蚕桑・西根各村の村長、郡会議員・村会議員、さらに各区長・区会議員などで、実印入りで名を連ねている。// 

 

2022.01.21:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(3)線路は右岸か左岸か

 長井線は大正3年部分開通で長井町まで開通したが、その先荒砥までどこを通るか地区住民の非常な関心事であったが、測量しないうちは誰にも判らなかった。憶測やデマが盛んに乱れ飛んだ。住宅にかからないように西表の真ん中を通るそうだと言う人も居り、又遍照寺の東に街を斜めに横切って、竹林あたりで松川を渡り、森、東五十川から東根に行く等と誠しやかに言うものもあった。ちょうどその頃東分教場建築が決まり敷地も大体内定したけれど、若し汽車が東を通る場合、線路は必ず校舎の前後を通らなければならない。校舎建築を見合わせたらということを真剣に論議されたこともあった。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 

【おらだの会】長井~荒砥間の建設は、大正6年12月の鉄道会議で大正8年から3か年で行うことで決定されている。当初鉄道院では最上川の右岸を通って荒砥に向かう路線を計画していたようである。最上川を挟んで鉄路の争奪戦が激しさを増すことになる。

 

2022.01.19:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(2)ガタ汽車・緑門・芸者踊り

  • (2)ガタ汽車・緑門・芸者踊り

 第1話の記事に「ガタ汽車」と「緑門」という言葉が出てきたが、この説明をしておきたい。まずは「ガタ汽車」である。これは、長井線を最初に走った列車のことである。本線を走った本格的な列車(ボギー車)と違って、マッチ箱と呼ばれた列車は横揺れが酷かったようである。この時の蒸気機関車は600型といわれるものであり、次の投稿をご覧いただきたい。

 ⇒ 軽便鉄道あれこれ:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

 

 もう一つが鮎貝駅に設置されたという「緑門」である。辞書によると「祝賀の際などに建てる常緑樹の葉で包んだ弓形の門。グリーンアーチ。」とある。ふと思い出したのが上の荒砥駅の開業時の写真である。残念ながら羽前成田駅には緑門は作られなかったようであるが、致芳郷土資料第三集沙石集によれば、「役場前に芸者踊り等の余興もあり大変な賑わいであった」と記されている。

 

 長井駅開業時には壮大なアーチが造られていたようだが、あまりにも大きすぎてそれが緑門なのかは確認できない。「村に鉄道がやって来る」ことへの地元の人々の期待の大きさがわかるようである。長井駅開業時の写真はこちらからどうぞ。

 ⇒ ながいまちなみ物語 2 長井駅前通り:長井市観光ポータルサイト | 水と緑と花のまち ようこそ、やまがた長井の旅へ (kankou-nagai.jp)

 

 

 

【写真提供:白鷹想い出写真館】

2022.01.11:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]