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(16)戦時下の青春

  • (16)戦時下の青春

 昨年は太平洋戦争開戦から80年であり、マスコミでも様々な特集が組まれたようである。「平和を求めて-わたしの戦争体験」という本がある。長井市中央史談会が発足25周年記念事業として1997年(平成9年)8月15日に発行したものである。

 寄稿された方は95名にものぼり、その中には今は亡き中学時代の恩師の顔もあった。その中から「戦時下の青春」と題した寄稿文の一部を紹介したい。時間の流れに沿って淡々と記述される寄稿文を読むと、上の写真に映し出された人たちが停車場に到達するまでの時間とその後の情景が見えてくるような気がする。

 

 昭和20年4月8日、16歳の春、私は江田島へ旅立った。その日は朝から自宅で壮行会が行われ、大勢の人が集まった。(略) 

 森部落の鎮守である津嶋神社で必勝祈願をして貰い、安藤在郷軍人会の音頭で「万歳三唱」をしてから、楽隊を先頭に、手に手に日の丸の小旗を持った壮行の隊列は、「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄立てずに帰らりょか」と歌いながら長井橋を渡り長井駅に向かった。

 長井駅前大通りは、出征兵士を見送る群衆でいっぱいだった。森の楽隊は、ラッパや太鼓の音をさらに高らかに響かせ、部落の人々は、声も枯れよとばかり軍歌を歌って行進し、私を駅まで誘導してくれた。(略)

 汽車がホームを出るときは「ばんざい」「ばんざい」の歓声と別れを惜しむ人々の糾喚で混雑を極めた。列車には大勢の出征兵士が乗っていた。興奮して泣いている人、目をつむってもの思いに沈んでいる人、その胸のうちは人さまざまであり、本人しか知る余地がない。(以下略)

 

 

【おらだの会】文中の音楽隊は、森地区に大正7年に組織された青年音楽隊のことである。写真は『写真で見る致芳のあゆみ』(致芳地区文化振興会平成14年11月発行)より。

※こちらの記事もご覧ください⇒ 停車場から戦地へ:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.22:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(15)兵隊さんの汽車

  • (15)兵隊さんの汽車

 荒砥駅まで全線開通した大正12年の9月は関東大震災に見舞われ、昭和2年には金融大恐慌さらに世界恐慌へと続いて行きます。その間、大正15年に米坂線(米沢~今泉間)開業や昭和 5年10月1日に側面乗降式客車(マッチ箱)から本線並みのボギー車が運転するなどの明るい話題はありました。しかし昭和6年9月18日に満州事変、昭和12年7月7日には盧溝橋事件が勃発し、昭和16年12月8日には宣戦の詔勅が出され太平洋戦争へと突入していきます。

 

  宣戦の詔勅(昭和16年12月8日)

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ踐(ふ)メル大日本帝國天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆(ゆうしゅう)ニ示ス 朕ココニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス 朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ 朕カ百僚有司(ひゃくりょうゆうし:役人)ハ勵精(れいせい)職務ヲ奉行シ 朕カ衆庶(しゅうしょ)ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ (以下略:一部現代語使用)

 

 今も親しまれる童謡「汽車ポッポ」の元歌「兵隊さんの汽車」が作られたのも昭和13年でした。成田駅100年物語の第2部は戦争の暗い時代から始まります。

 関連記事はこちらから⇒ 汽車ポッポの歌:おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.20:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(14)大正11年は希望に溢れた年だった

  • (14)大正11年は希望に溢れた年だった
  • (14)大正11年は希望に溢れた年だった

 これまで羽前成田駅100年物語の第1部として、大正3年頃から昭和10年頃までの成田駅を取り巻く状況を紹介してきました。その中でも成田駅が開業した大正11年は、歴史的な分岐点になった年でないかと思われます。第1部の締めくくりとして大正11年を概観したいと思います。

 

 まず大正8年(1919年)に公布された地方鉄道法によって軽便鉄道法が廃止されます。これによって軽便鉄道の呼称も大正11年9月2日で廃止され、羽前成田駅開業の時は長井軽便線は長井線となっていました。

 

 さらに大正11年4月10日に改正鉄道敷設法が公布されます。この法律は国が整備すべき予定路線を示したものですが、その別表第25号(写真参照)に「山形縣左澤ヨリ荒砥ニ至ル鐵道」として左荒線が明示されることになったのです。しかもその実施については閣議決定されたとのことです。

 

 白鷹町史(現代編)によれば、「左荒線の建設については、国としてその建設を、昭和11年4月10日の閣議で決定していたものであった。その閣議で決定した内容は、昭和15年度の完成ということと、そのための予算を特別議会に提出することであり、昭和12年4月には測量のための杭打ちまで行われていたのである。それが、昭和15年の1月11日に日中戦争のために計画が中止され、戦後になって、昭和21年8月1日に昭和22年度から再着工するとの通知が出されながら、それも立ち消えになった線路である。」と。

 

 左荒線は圏域の更なる発展への夢であり希望でもあったはずです。今から100年前、一番列車を歓喜で迎えた大正11年は、長井線の歴史の中で最も輝いて、豊かな未来を確信できた年であったかもしれません。

 

 

【おらだの会:写真はアジア歴史資料センターより】

2022.02.18:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(13)夢を引き継ぐ 佐々木素助

  • (13)夢を引き継ぐ 佐々木素助

 長井村一の資産家と評された加藤五左エ門が破産の道をたどることになった原因の一つに成田製糸工場があった。

 

 成田製糸工場は、長井市境町(現在の栄町)の竹名清助が成田駅南(赤間伴右エ門の南)に計画し、昭和元年の秋から土地買収が始められたものである。翌2年5月頃、成田駅に工場建設に係る大量の材木が代金引き換えで送られて来たが、当時駅前に支店を出して運送業をしていた加藤五左エ門がその代金3万円を弁償することとなった。

 その後加藤は次第に成田製糸工場の経営に参加することになり泥沼に足を踏み入れることになった。長年長井村第一の資産家を誇っていたが、之から数年後に破産することになるのである。昭和2年には金融恐慌あり、昭和3~4年までは何とか操業していたが、昭和4年秋の台風のため工場が倒壊し操業不能となった。昭和6年10月頃債権者による建物競売となり、加藤酒屋も破産することとなった。  

(沙石集 「幻の成田製糸工場」より)

 

 加藤氏の運送店の事務を担当していた佐々木素助氏は、その後自らが代表となり佐々木運送店を創業した。さらに出資者を募り成田劇場栄楽館を再建し、昭和30年まで運営したのである。成田駅においでになったご婦人がその当時を振り返って、「栄楽館で映画を見て、青栄そばやで支那そばを食って帰るのが最高の楽しみだった。」と語ってくれたのを思い出す。佐々木素助氏は加藤氏の夢を引き継ぎ、今も人々の記憶に残る場所を提供してくれていたのだった。

 

 成田駅界隈の歴史を辿って思うことがある。それは時代の荒波に翻弄されながらも新たな事業に果敢に挑戦していった先人の気概である。その気概は市内で最も早く結成された成田駅協力会に、そして環境整備活動を展開した駅前いきいきクラブの先輩方に引き継がれていたのではないだろうかと。鉢巻きに法被姿の佐々木氏(写真左から2番目)がとても眩しく見える。

 

 

 

【写真提供:宮崎正義氏/撮影年月不詳】

2022.02.12:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

  • (12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

 加藤酒屋は成田駅前のあんびん屋と松林堂菓子舗の間にあった。写真は大正2年10月26日の米澤新聞に掲載された加藤酒屋の広告である。赤湯~梨郷間が開業した記念号に掲載されたものであり、紙面の約半分を占める程の大きさである。特約店である旭屋が宮内町の事業者であったこともあるのだろうが、当時の加藤酒屋の事業規模を示すものと考えられる。

 

 加藤五左エ門は大正11年に鉄道が開通すると駅前に支店を建て菊地秀蔵氏と佐々木素助(そうすけ)氏の二人に住宅を建てて住まわせ、2年後に劇場栄楽館を自ら社長となって建設したのである。菊地秀蔵氏の住宅は(現在の長谷部本店近くに)総2階建てで料理屋をしていた。佐々木素助氏の一部を酒屋の運送業の事務所にしていた。(沙石集より抜粋;カッコ部分は挿入

 

 成田には3軒の酒屋があったと言われている。「沙石集 成田の豪商たち」の中では、中の酒屋(佐々木宇右衛門の分家 佐々木太左エ門)、下の酒屋(飯澤半右エ門の分家 飯沢半十郎)を紹介しているが上の酒屋の記述はなく、加藤酒屋が上の酒屋なのかは確認できない。また横山吉治氏の調査(沙石集 資料「組直り面付けと伍什組制度について」)によれば、加藤五左エ門は成田舘地区に居住しているが、宮摂取院の壇家とされている。ふるさとめぐり致芳では「ままの上酒造が酒屋の店を開く」とあることから、当時の長井町との関連も伺えるが、残念ながらこれ以上の確認はできない。

 

 さて加藤五左エ門は「長年長井村第一の資産家を誇っていた」とされるが、その後間もなく没落することになる。鉄道開通に合わせた好景気も大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌、さらには世界恐慌と続く大波に地方も翻弄されることになる。

 

2022.02.10:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]