珈琲豆屋です!

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「出張の途中に、、、」のサムネイル
「出張の途中に、、、」の画像
なぜか足尾駅に立ち寄りました。
よくこの状態でそのまま残っていたものですねぇー。
しかも現役なのですよ。

今まで何度か足尾は通ったんです。いつもバイパスを急いで走っていたのですが、今日は少し心に余裕があったのかもしれません。
街中を通ってみました。

この町では明治28年から大正時代まで、この写真の旧国鉄足尾線(=現在のわたらせ渓谷鉄道)以外に、馬車鉄道があり、その後ガソリン機関車で輸送をしていたそうです。

町の中は昭和時代に戻ったようなラビリンスです。
「講師の先生をご紹介します。」の画像
という前ふりがあって大概始まるわけですが。
この「講師の先生」とやらを何回かやらせてもらっていますが、うーむ先生と言われると、うーん、いや他にも適任者が一杯いらっしゃるのでなどと少し後ずさりをしたくなる今日この頃です。
でも、とてもありがたく思う訳のものであります。

昨日は食生活改善推進協議会の伊東会長から要請をいただき、80名ほどの方の前で「おいしいコーヒーの淹れ方」をやってきました。
以前は結構あがり症というか、カァーとなったりしたものですが、いつしかそういうこともなくなり、取りあえず順調に2回講演を終えることが出来ました。
明日も会場を移してやってきます。

さて9月になりますので、豆いちでもコーヒーの淹れ方教室を再開したいと思います。
今のところ9月14日11時から約1時間を予定しております。
コーヒー器具(やかん、ドリッパー、サーバー)はご持参ください。まだ持っていない方は用意いたします。
ケーキつきで1,000円で美味しいコーヒーが貴方のものに!!

メール、或いはお電話でお問い合わせください。


「♪嗚呼玉杯に花うけて 」の画像
というのは旧制一校の寮歌(明治35年)ですが、その5番目の歌詞の最後の最後に
♪魑魅魍魎も蔭ひそめ   金波銀波の海静か
というのが出てきます。

米沢の遊郭、新築には西側の端にその名も「銀波楼」という店がありました。
その写真が手に入りました。
多分明治30年代から40年ごろのものと思われます。
明治30年10月8日の米澤新聞には下記の通りが掲載されています。

●揚州の腰纏
米の高いのと世の不景気とは揚州まで響きて、遊客の腰纏まで軽くなりしとは左もあるべきことなり今、その先月中の景況をに記せば無事に苦しむ粋士連は矢倉炬燵温もりて雪見の暇にも見たまえかし。
○揚き(日偏に軍)楼3名、武蔵楼6名、松鶴楼5名、梅林楼10名、竹川楼5名、有明楼8名、銀波楼8名、小金楼3名、品川楼7名、、、

昭和に入ると、だいぶ名前が代わって金沢、昌平、甘水、朝日、住之江、新芳、丸喜、武蔵、東陽で戦前には大体廃業になったようです。
大正6年の大火で全て焼失していますが、自分が子供のころ残っていた建物も、この写真と大差ない感じがします。
こういったところは、だいたい造るパターンがあったんでしょう。

中野に住んでいた友人のふ付きの下宿は、どう見てももとはそういうところで、部屋のところに定員2名と書いてありましたっけ。
通常は2名でしょう。
「豆いち、本日(29日)の営業時間について」の画像
今日は先日亡くなった、妻の祖父の四拾九日法要なので15時ごろから18時までの営業となります。
ご迷惑をおかけしますが何卒宜しくお願いします。
8月限定の葉月、夏限定の夏珈琲はあと2日で終了となります。


閑話休題、
米沢市で出している年表には、米沢で映画が上映されたのは明治32年7月15日立町米沢座というふうに掲載されています。

私がマイクロフィルムでみた米澤新聞によると、最早明治30年9月20日より米沢座にて上映しているようです。
なぜ32年というふうになったのでしょうか。

映画の始まりは、1891年かの有名なエジソンが覗いてみる方式の機械を発明したことに始まります。1894年(明治27年)にニューヨークに世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)が登場、ただしスクリーンに投影される方式は1895年(明治28年)にフランスのリュミエール兄弟によって発明され、多くの人が同時に映像を見ることが出来るようになりました。

本邦では、明治29年11月17日神戸の高橋新治が輸入したエジソンのキネトスコープを小松宮彰仁親王にお見せしたことから始まります。
そして明治30年2月15日、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映し、好評を博しました。
日本初の「映画興行」である。3月6日には、東京市の「新居商会」によって、神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる興行も行われました。

それから半年後に米沢で映画が上映されたことになります。
まあ、早いと言えば早いと言えますが、明治31年には駒田好洋が北海道の利尻・礼文島まで巡業していたことを考えると、めちゃくちゃ早かったとも言えないと思います。

リュミエール(=リシエルと新聞には書いてあるが、)の有名な映像、汽車が駅に着くシーンはテレビでも何回も見ていますが、まだ汽車も来ていない米沢でこれを見た観客はどう思ったのでしょうか。
やっぱり舞台に上がり、スクリーンをめくって「どういう仕掛けになってんなだー!」と叫ぶような人がいたのでしょうか。
「29日(日曜日)の営業時間と9月のお休み。」の画像
豆いちです。
今週の日曜日29日は、都合により15時〜18時の3時間のみの営業となります。
ご迷惑をおかけいたしますが、何卒宜しくお願いいたします。

またお休み、営業時間の変更は以下の通りです。

お休み
8月31日(火)
9月7日(火)
9月14日(火)
9月21日(火)
9月28日(火)

営業時間の変更
9月2日(木)10:00〜17:00

なお1月に始めたコーヒー教室ですが、諸般の事情により開催できなかったのですが、9月から再開したいと思います。日程につきましてはまたご連絡いたしますので、電話・メールなどでお問い合わせください。
「明治32年7月26日の」の画像
米澤新聞に「米澤料理店案内」(いろは順)というのが載っています。それによると、
水田蒼茫 涼風颯々 花澤佐氏泉公園 花都
和洋御料理 高等旅館 米澤市あら町 鳳鳴楼
舊北堤上 眺望佳絶 越後番匠町 小川楼
御料理 大勉強 越後番匠町 若村楼
会席料理 大勉強の親玉 立町 よか楼
寒碧楼  今町 南部屋
清泉混々 冷風陳々 花澤佐氏泉公園 松川楼
幽鬱閑雅 雨に晴に四時佳絶 松ヶ岬公園 舞鶴楼
眺望勝絶 松涛琴の如し 立町浦舊東堤上 新鳳鳴楼
一望の青田 東風薫る 門東町 新小川楼
松川名産 鰻大蒲焼 立町神明社内 政養亭
三層楼上 眺望佳絶なり 川井小路 愛鶴亭

都合12軒リストアップされています。現在料理屋として続いているのは政養亭が可奈免として、松川楼が現在の松川弁当店でべこ屋として盛業中です。
眺望云々と言っているのは、三の丸の土手の上に料理屋が多かったことを示しています。まあやっぱり殿様気分を味わえる場所だったのでしょう。

多分この頃には先年まで営業していた東陽館、竹盛軒などもあったと思いますが、このリストには出ていません。名前が違ったりするのでしょうか。
また松岬公園内にはもう一軒招僊閣もあったはずですが、ここも載っていません。

東京庵、東家、秀の家あたりはいつからどういうことになっているのでしょう。
しかし見事になくなってますね、料理屋。
そうすると東家はかなり貴重です。

このほかに福田遊廓(通称新築)というのがあり、まあこっちはあっちのほうですが、、、
揚揮楼、武蔵楼、松鶴楼、梅林楼、竹川楼、有明楼、銀波楼、小金楼、品川楼(明治30年12月現在)となかなか賑やかだったのだと思います。

写真はこのリストには載っていない萬景楼、でも写真も古いので、時期的にはそれほど違わないと思います。
これは場所が今のポポロの北東ということなので、新鳳鳴楼の後なのでしょうか。大正6年の大火で焼失しています。
「HMV渋谷閉店に寄せて。」の画像
丁度20年で閉店と言うことで、平成2年に米沢に帰ってきたので知らなかった訳で、一回も行かずじまいでした。

東京にいた7年間の中で、レコード屋だけを振り返ってみると、渋谷と言うのはそれほど印象にありません。
センター街から少し入って左側の路地の地下の所にあった中古レコード屋は、結構いいお値段つけていました。店によってかなり違うんです、中古盤も、外国盤新譜も。

渋谷といえば私の場合は、今はあの場所でなくなったような気がするタワーレコード、あのころはハンズの斜二軒目のビルの2階にあり、ジャズ喫茶スイングも近いのでお世話になりました。
そのスイングのビルにも坂を登ってすぐレコード屋(ここは中古)がありましたが、いつ行っても私の欲しいものは一枚もない店でした。店の名前はみんな忘れました。

そうそう、もう一軒ありました。
渋谷の駅からR246の歩道橋を渡り、リンガーハットの前を通り、石橋エータロー氏がやっていたであろう三漁洞という料理屋の前を通り、山手線に並行して恵比寿方面に歩いていくと、古いビルが何軒か軒を重ねています。
ダンス教室とか、怪しげな事務所、音楽練習スタジオなどに交ざって「芽瑠璃堂」という黒人音楽専門の新譜屋がありました。
3階だったか4階だったか、結構フロアは広く、ブルース、ラテン、R&Bなどずっと見ていくと2時間ぐらいは時間を潰せました。

この芽瑠璃堂、元々は吉祥寺が本店で、本当に鰻の寝床のような小さい店内に私の大好きなものが、一杯置いてありました。
私の仲間からはあまり好かれていなかった店長は、私にはよくしてくれていたので、ついつい長居をしていろんな話をしたものです。レコードは実は2割ほど引いて貰っていました。
テナーサックスはハンク・モブレーとかティナ・ブルックス、アイク・ケベックなどがお好みで、「ラッキー・ルチアーノの本がある筈なんだ。古本屋にいったら探してきてくれ。」などと言われたり。

東京を去って数年、名古屋の出張の帰りに吉祥寺により芽瑠璃堂の前に立ちました。残念ながら店はやっていませんでした。休みだったのか閉店してしまったのかは憶えていませんが、多分閉店になっていたのだと思います。
仕方がないので、斜向いの「ニュー・バーグ」でつなぎたっぷりのハンバーグを食べて、その角の洋服屋で果物柄の生成りのアロハ風のシャツを買って米沢に戻りました。

それから数年後、このシャツを着ていたら「私もそれと同じの持ってるよ。」といいます。
タグは違うけど同じ商品の赤のやつです、Sサイズで。
で、それが今のかみさんです。

しかしみんなもう行かないんですね、CD屋さんに。
私の場合、途中から中古レコードしか買わなくなったんで、現地に行って購入したいです。
また、一回は三漁洞で一杯やりたいなあ、とも思っていたのですが敷居が高かったですね、25、6のあんちゃでは。
「米沢に映画館が一杯あった頃。」の画像
今ワーナーマイカル米沢には7スクリーンあるんだとか。

昔の米沢にも最大7館がしのぎを削った時代があったといいます。
戦後急激に景気が回復して、米織も活況を呈し、まだテレビのない時代女工の皆さんも、子供達も、大人たちも映画館に足を運んだのでしょう。

私が子供の頃稼動していたのは次の4館です。
一番最後まであった日活丸の内(グリーンハウスという時代もあったそうです。)、中央映画館(大映系、今はマンションになっている第一ホテルの南側)、米沢劇場(東宝系、現在は今村タクシーと大清の間の駐車場)遊楽館(松竹系、あら町、丸万旅館北、現在も建物の一部はある)

遊楽館には入ったことはなかったんですが、憶えています。あと3館は見に行きました。ジョーズ、ゴジラ、ガメラとかそういうものを。
それ以前にあった劇場は、今の米沢ボーリングのところにあった、その名も国際劇場、立町皇大神社の南側にあった米沢銀映、そして当時の米沢新聞社長の辻武蔵が公会堂を借りてやっていた映画館と7つあったらしいのです。

多分その頃の邦画は、東宝、松竹、東映、日活、大映、新東宝の6社ぐらいと思われるので、洋画館もあったのでしょうか。
残念ながらこの小さい町でこの状況は余り長くは続かず、協定により確か銀映が閉館の憂き目にあったと、読んだことがあります。

二階席の独特な怪しげな感じや、便所の臭さ、退廃的なムードが自分にとっての映画館でした。
それから見るとずいぶんからっとしている今の映画館はどうでしょう。
随分行ってないので、今度息子と行きましょう。

「落語絵本。」の画像
子供が生まれて少ししてから、東京でバンドをしていた頃のK先輩御夫婦からお祝いをいただきました。
それが落語絵本。随分お蔵入りの期間が長かったのですが、やっとなんとなく意味も分かるようになり最近マイブームらしく、そのシリーズを図書館で借りてきたりしています。

で、幼稚園では学期ごとに席替え、グループ替えをして、その時々にテーマを決めてグループ名を決めているようです。
今までは茄子グループとか、鯉グループとかあったのですが、今回は本のタイトルとのことで、息子のグループは何と「いちがんこく」グループになったそうです。
渋いね!

この落語絵本は、強烈な洒落とか、人が亡くなるさまなどは回避しており、「たがや」に関しては全く別な噺を作り変えていたり、このギャグは志ん朝師匠のだな、なんて分かるところもあり、大人でも面白く読めますよ。
「残暑に併せて聴くヴォーカルは、」の画像
写真右下は、映画俳優としても大きく名を残すディノことディーン・マーティン。本名ディノ・ポール・クロセッティ。
いつも煙草をふかし酒を飲みながら唄うスタイルは、サミー・ディビス・Jrなどの形態模写でも有名。シナトラ一家(ラット・パック)の番頭として活躍。
歌声は暖かく、そして大きく包み込む様は、揺り篭に抱かれているようないい気持ちになる音楽。1995年没。

写真左下は、ペリー・コモに見出され、甘いマスクと美声を武器に1950年代のスター歌手となるヴィック・ダモーン。本名ヴィト・ロッコ・ファリノーラ。
唄も甘く、ちょっと空気の中を浮遊している感じがする。シナトラをして「業界最高の声帯の持ち主」と言わしめた人物。82歳現役。

写真右上は、歌う床屋さんとして有名になったペリー・コモ。本名ペリーノ・コモ。
床屋の見習いをしている時にコンクールで優勝したため、そういった愛称になったが、その当時バーバーショップ・コーラスという言葉があったぐらい、床屋さんは唄ったらしい。
マフィアとの関係を嫌い、カジノでの出演を拒み続けたとあることでこの人の性格がわかろうというもの。2001年没。

写真左上は、ピアニスト、アレンジャーとしてもその名を残すバディ・グレコ。本名アルマンド・グレコ。
5歳でデビュー、10年間に渡ってラジオ番組を持つ、早熟の天才肌。その後ベニー・グッドマン楽団のピアニスト・アレンジャー・ヴォーカルとなりその後独立。エピックからシナトラのリプリーズに移籍した時、「これで俺も安心して引退できる。」と言ったのは有名な話。歌声は歯切れよくしかもスピード感があり、目が詰まっているといった歌唱である。84歳現役。

良くも悪くもこの辺の男性歌手はシナトラからの影響から逃れられるものではありません。
しかも、みんなイタリアン。明るく陽気な感じは正にイタリア人の美徳ですが、一番売れたフランシス・アルパート・シナトラにのみ寂しさや憂いが色濃くあります。(ただしカフェ・グレコ、或いはグレコローマンスタイルなどで分かる通り、グレコは元々はギリシャ人だったんでしょう。しかも悪い奴という愛称付きの!)
空気がふんわりと感じるので、時々かけています。
「行く夏を惜しむ、、、」の画像
昨夜、バーベキュー大会を先輩が企画してくれて、親子3人でお邪魔しました。
炭火で焼くと何でもうまいので、最初に焼くことを発見したお猿はエライ!です。
バーバキュー=焼肉のたれというイメージでしたが、今回は塩コショウと味味噌で美味しく頂きました。

子供たちは素晴らしく手入れのされた芝生の上で、跳んだり跳ねたり走ったり。遂にはトランプが御開帳となりました。
綱木(といっても三原ではありません、地名です。)の獅子舞の笛の音を聞きながら、それほど暑くも寒くもない夏の夜が静かに暮れていきました。
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「お盆なので、」の画像
御先祖のことを。

提灯を出しに行った日、家の菩提寺西蓮寺の先代和尚が亡くなった時の席次一覧の中に、親父が作った石塚家代々名という法号、死亡年月日、氏名をまとめた一枚ものが挟まれていました。
後でコピーしようとまた袋に入れたのですが、今日の朝コピーしてきました。

というのは、昨日米沢市史(昭和19年米沢市登坂又蔵刊)の善光寺如来のところを読んでいたら、
天和2年7月18日、午後八つ時過、御堂茶の間より出火、安養院の小者これを発見して急を告ぐ。このとき本城破損奉行齋藤与惣右衛門、石塚与兵衛、並びに大工四人駆け付け消し止め大事に至らず。
当番の御堂衆延命院、正福院、善正院は支度のため現場に居合わせず、遠在蟄居を命ぜられる。また安養院小者へは恩賞として身代五十匁金二十両、与惣右衛門、与兵衛へは玄米五俵宛、大工三人へは三俵宛を下賜す。
(御堂は謙信公の遺骨を納めた堂で、現在の招魂碑の場所にありました。その後明治になり遺骨は御廟に移されました。)


とあります。そういえば似たような名前が親父の書付にあったのではとくらべてみると、まさに当たりです。
遡れる一番最初に書いてある宗月道怡信士が石塚與兵ヱとなっていて、亡くなったのが元禄元年9月30日となっており、この事件は亡くなる6年前のことです。
忠臣蔵が♪頃は元禄14年ですから、古い話です。
まあ、同じ名前の別人という可能性もありますが、私としては御先祖大活躍と思いたいですね。

「お盆と従兄弟たち」の画像
家の場合は妹が上山、弟が埼玉なので、みんなが集まるのはどうしてもこの時期となります。
新盆ということで、迎え火としての花火です。

その後、男子は小一時間ほど真っ暗な中でサッカーに興じました。10時過ぎまで。
それからみんなでお風呂に入り、束の間の従兄弟会を楽しんでいました。
「本日(13日)の営業は、(豆いち!)」の画像
お墓参りがあるため、午後5時に閉店させていただきます。

写真は昨日の夜の松川東岸から見た西方向です。
「息子と墓掃除に行く。」の画像
昨日も暑い一日でした。

西蓮寺に墓掃除に行ってきました。
先日親父の納骨の時、随分汚れているなということで。

家の墓は元々松川の東岸の現在のお花見公園のところの共同墓地(現在もある)にあったらしいのですが、何軒かの墓は松川の氾濫により流され、米坂線と奥羽本線の間の共同墓地に移し、その後お寺に移したものだそうです。
平成も少し経ってから建てたものなので、それほど古くはないのですが結構気になる部分があります。

石の継ぎ目にあるゴミを洗車ブラシでごしごしやりましたが、古いので抜けてきます。石塚の文字のくぼみの部分にも黒いカビが随分生えていて、全部きれいにすることはできませんでした。

それでも30分ぐらいで結構きれいになったので、暑さも暑さなので終了しました。
丁度お盆の時に点灯する電球を電気工事の人が点けていました。



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