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越中富山を旅する‐其の3

  • 越中富山を旅する‐其の3

富山には富山地方鉄道という会社があり、市内電車のほかに5路線、約100キロメートルの鉄道線を維持している。元々水力発電が盛んで潤沢に電気を供給できた富山県らしく、全て当初から電気鉄道での開通だったというのが、他県とは随分違うところだ。

山が県の場合、国鉄以外には谷地軌道、高畠鉄道、尾花沢鉄道が蒸気機関での開通、赤湯人車軌道は人力、その後下って三山電気鉄道、庄内電気鉄道が電車での開通であった。

その電気鉄道をもう少し近代化して、今後も使い続け高齢者社会にやさしい乗り物に変えていく取り組みがなされている。富山でも自動車保有率は全国2位(1位は福井県)、山形県も第5位と言う依存度である。恒例化、少子化の波は思っているよりも早く、各都市でも早急な手当てが必要だと思う。

さて、富山と言えばなじみ深いのが越中富山の薬売りだ。私の頃はゴム風船を配りながら配置薬の方がバイクに大きな行李を付けて各家庭を回っていたものだ。その中の一つ、廣貫堂の資料館を訪れた。

そこでは栄養ドリンクを一本いただき、展示物を拝見する。江戸城である殿様が急病になった時そこに居合わせた富山藩の前田氏が持参の薬を処方したところ、回復したのでそれ以来越中の薬は効くということで、全国に販売に行くようになったことなどが説明されていた。

その後上市町に戻り、つるぎ温泉恋月という温泉に浸かってから「居魚家さかい」でぐでんぐでんになるまで日本酒を呑みましたとさ(;一_一)

ある

越中富山を旅する‐其の1

  • 越中富山を旅する‐其の1

米沢を出たのが深夜3時。NHK第一のラジオ深夜便を聞きながら車を走らせる。
小松、飯豊、小国、坂町の順に米坂線を辿っていく。新潟から北陸道へ。

新潟は長く遠い。やっと富山へ入って越中境で朝食。白海老かき揚げ蕎麦を頂く。蕎麦は信州風の黒くて平べったいもので、汁はあくまでも濃く甘い。この辺とは全く違った味であったがそれはそれで美味しく頂けた。ここで約30分ほど仮眠、気持ちよくまどろむ。

目的地は友人宅で富山市の手前にある上市町。なぜここに行こうと思ったと言えば、いつもその友人は私がやっているバンドに駆けつけてくれるのだが、彼がどのようなところに住んでいるのか興味があったのだ。そして彼が新居を建てたというのでお祝いに行くことにした。

ところが聞いていた住所を携帯のナビに入れたが、その家が見つからない。居たのは一羽のダチョウだ????それでも近くにある新しい家を見当を付けて訪ねたら、大当たり!

早速お宅拝見、シンプルではあるが、随所に彼のこだわりが感じられ本当に立派なお家だった。その後2か所ほど仕事上の視察を終えて昼食は回転寿司でパクパク頂く。

それから今回のメーンイベントである富山ライトレール、通称ポートラムに試乗をすることになった。元々は冨岩鉄道という私鉄で、その後富山地方鉄道に合併、そして国鉄に編入され富山港線として2006年まで通常の鉄道として営業していたのだが、路面電車化(LRT)して現在に至る路線なのだ。富山駅北から岩瀬浜までの7.6キロの短い区間である。

国鉄時代最盛期には年間500万人もの利用客があったが、自動車交通の進展により利用者が激減、車両や駅舎の老朽化、運転本数の減少により更に利用者が減少する負のスパイラルに陥っていた。だが、北陸新幹線富山駅などの整備に合わせて、再生を図るため路面電車に変更されたのだ。

なぜ路面電車化されたのか?路面電車化がどういうメリットがあるのかを考えてみたい。まず路面電車はワンオペでそこそこの人数(座席28人、立席52人)を運ぶことが出来る。LRTは従来の路面電車よりも低床で、線路から約30センチである。それによってホームが低く作られゆるやかなスロープは高齢者や車椅子・ベビーカー利用者でも安心して乗降できるのが大きな特徴だ。

また以前の富山港線時代は朝夕の通勤通学時間帯以外の日中は約1時間間隔ぐらいだったのが、現在は日中でも15分間隔となっており、少し待てば次の電車が来る。ほかにもICカードを使えば割引もあり、高齢者はカードを使うことで半額になる。今後富山地方鉄道市内線との相互乗り入れも検討されており、今後も発展を考える鉄道なのだ。

なぜこの鉄道に乗りたかったのかと言えば、自分の町に何か役に立つヒントが隠されていないかどうかということだ。例えば米坂線をLRT化したらと、、、、。難しいのはまず電化が基本条件になるのだが、不思議に南米沢も西米沢も、そして米沢駅もターミナルなのに何故か街らしい街がが形成されなかったということだ。今でも高校生の降りる場所としてしか機能していない。なぜだろうか。

等と考えつつ、今エボラ治療薬で駿の会社「富山化学」を右に見て、競輪場を過ぎると終点岩瀬浜駅。北前船が出入りする大きな港だった街には多くの海鮮問屋が軒を連ねていた話はまた次回。

 

 

 

 

 

蔵田国治さんに会いに行って来ました。

  • 蔵田国治さんに会いに行って来ました。
  • 蔵田国治さんに会いに行って来ました。
川西町上小松から米沢駅まで鉄道を通そうとした人がいました。
丁度福島米沢間が開通した明治32年のことです。その名も豊川炭鉱馬車鉄道、現在の飯豊町高峰から産する亜炭を小松に出して、それを米沢まで運ぶ馬車鉄道を計画したのでした。夢は小松を常磐炭鉱のような一大集散地にすることでした。
諸般の事情によりこの計画は頓挫してしまうのですが、今日この会社の社長をやられた蔵田さんの御宅にお邪魔してきました。

蔵田家は小松皇太神社の宮司しておられ、当代の蔵田国順さんと奥様にお話しを伺ったのです。いろいろお世話になりありがとうございました。

そして社長だった蔵田国治さんの写真と、豊川炭鉱馬車鉄道株式会社の仮株券を拝見させて頂きました。
いろいろなお話しを伺いながら、今から110年前の幻の大事業に想いを馳せたのは言うまでもありません。

調べ始めてここに来るまで、8年の歳月が過ぎてしまいました。

3年ぶりのお客様と1冊の本

  • 3年ぶりのお客様と1冊の本
米沢もようやく観光シーズンを迎え、県外からのお客様もちらほらおいでいただいているようです。

今日のお客様の中に「3年ぶりです。」という盛岡からのご夫妻と娘さんご夫妻の4人組がいらっしゃいました。
最初はどなたかわからなかったのですが、「あの共産党大会のー、、、」と言われてすぐ思い出しました。
そのご主人が五色温泉でその昔共産党大会が行われたと聞いたが、誰に話しても知らないというのでとのことでした。
「米沢百年」という写真集の中に確かその時の新聞のコピーがあった筈だと捜しておみせしたら、「やっぱり五色温泉でやってたんだ。」とお喜びになり珈琲をお買い上げいただいたのでした。


今日は、昔米沢は駅から川まで桜並木があったんですよ、なんていう話から絵葉書を見ていただいていたら、「板谷峠のSLの写真はありませんか。」とおっしゃるので、写真の「奥羽本線福島・米沢間慨史」をお見せしました。
かなり鉄道には詳しい方で、板谷峠を走っていたE10を米子駅で見たことがある、という話をされていました。
ここには何でもありますね、なんて言われましたが、たまたま趣味が似てるだけでしょうといって、また珈琲をお買い上げいただきお別れしました。

商売一期一会ですが、このような出会いは個人商店冥利に尽きると嬉しくなる再会でした。

新資料発見。

  • 新資料発見。
先日置賜日報社の成澤社長より「伊勢神宮御師蔵田一族の歴史:蔵田国順氏著」という本を頂戴しました。
以前より調べていた豊川炭鉱馬車鉄道の資料を提供させていただいたためです。
そしてこの中に出てくる蔵田国治がその会社の社長だったのです。

著者の蔵田国順氏は現在小松皇太神社の宮司で、当代より3代前が国治となります。
何度か米沢日報の連載していたときもも読ませていただいたのですが、今回新たに2つのことが分かりました。

1つは国治が警部をしていたことです。神主のほかに明治11年から県の書記などをやり、その後明治12年1年ほどではあるが警察官をしていたのです。
豊川炭鉱馬車鉄道専務の高野義雄も警察官をしていた時期があるのです。
手元に資料がないので分かりませんが、何かかかわり合いがあったかもしれません。

もう一つは国治の兄信が東京府南足立郡長をしていたことです。そしてその信が郡長をしているときに、エリア内に千住馬車鉄道が開通したのでした。当初この鉄道はすこぶる好調な成績を上げていた時期であり、そのとき信は内務省より非職を命じられ、翌27年1月26日に依願免官となり小松に帰りました。

そして信は28年8月8日小松で逝去しています。郡長をしていた信は千住馬車鉄道に許可を与える方だったと思われ、国治に何かアドバイスをしていたのではないでしょうか。
米沢日報に小松の有志によって鉄道馬車の計画が掲載されるのは、それから2年余りあとのことです。

それにしても、何か発信すれば少しづつ見えてくることもあるものだと妙に感心しました。