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豊川炭鉱馬車鉄道という幻  ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第十四回

◎豊川炭鉱馬車鉄道の速成を望む(Ⅱ)

ああ、わが戦捷国の国民たるものなんすれぞそれ鞠躬すべきの経営にたたるや、ああわが興隆国の民衆たるものすべからく尽〇すべきの事業に遅々たるや、大帝国戦後の経営何ぞそれひとり当局者に任ずべけんや。国民あげてこれに当たらざりべからざるなり。興隆国の国家的大事業はあにそれ目前の小利に眩惑せらるるの徒が企画し得べきものならんやえるも、わが戦後の経営にしてしばしば挫折ししばしば失敗し紀綱〇廃財政〇乱ついに経済界の大恐慌を来たし、全国の蒼生土炭に苦しみつつあるは、けだし当局者の罪大なりといわざるべからざるなり。

今やわが米沢停車場の大工事も着々と歩を進めて本年八月中旬にはその落成を告げ、陸地の一大港湾は実際に現出せんとし、板嶺を横断し来るの奥羽鉄道はすでに尾崎坂を貫き関根より直ちに佐氏泉畔に猛進し鉄道驎々笛声劉々まさにわが郷人なにをもってこれに対せんとするか。

わが郷人のすでに熟知せらるるごとく、米沢停車場の計画たる実にかの東都上野停車場と同等にしてその規模広壮、その結搆〇大ゆうに奥羽府の大停車場たるべきの画策なりというにあらずや。もしそれこれを海港場に比せんか、まさにかの五港と同位置たるべきなり。ああわが郷人山間四塞の地に俄然一大港湾を得んとす。いかがの策かもってこれに対せんとすか。あにそれ従来のいかが排源洞裡に〇居頑夢を貪るを得んや。いわんやまた財政上の緊縮と経済界の恐慌は奥羽線の工事をして米沢停車場の落成に中止せしめんと云うにあらずや。しからば即ちこれわが両羽に現出すべき幾多の小港湾は永く中絶せられてひとりわが三郡の貨物のみならず三郡の人類のみならずわが山形県下の貨物人類いな両羽の貨物人類ことごとくわが米沢停車場なる両羽の一大港湾において蒐集せられ配散せられんとするにあらずや。なおかつ従来太平洋海岸を経て津軽海峡を迂回し日本海に出て酒田港に入り、両羽の地に配散せしところの塩および砂糖その他の貨物はまたことごとく安全なる陸路の港湾より輸入せられて、米沢停車場に来りしかして両羽の地に配散せられとするにあらずや。ああわが郷人またかくのごとき交通上の大激変に如何の策がある。

曩にしばしばいわうごとく道路は実にこれ国土の脈絡なり。神経なり。人身にして脈絡貫通せざるところあらんか。その用を為さざるべく神経の通ぜざる部分あらんか。これ即ち病根たるべし。国土また然り。その脈絡たり神経たるの道路にして通ぜざるの地あらんか。病弊たちまち生じその地方の生霊困憊しその地方の社会ついに衰弊し延いて全邦土の病原たらんのみ今や邦家の大動脈板嶺を横断し来たりてわが郷土に注留せんとす。わが郷土の脈管にしてこの大動脈に伴なわざらんか。郷土の営養を欠き、地方の病根生じわが郷十七万の注震はついに困憊衰弊するに至らんか。奥羽鉄道貫通に対するの策多々あるべしといえども、わが郷土の細脈管をして大動脈に並進せしめ地方の交通機関を敏活ならしむるより急なるはなけん。交通機関の発達をはかるは地方民人の便益を謀るなり。地方産業の作振を促すなり。文化の普及を敏捷ならしむなり。ああわが郷土の営養をして充分ならしめんと欲せば、実にまず脈絡の敏活を謀らざるべからざるなり。わが郷一市三郡のためにはかるに、まさに貫通せんとしつつある奥羽鉄道に対するの作戦計画は実にそれわが郷土を連結せる交通機関の敏活をはかるより最大急なるはなからん。  

(第14回  続く)

2022.09.24:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

豊川炭鉱馬車鉄道という幻  ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第十三回

◎豊川炭鉱馬車鉄道の速成を望む(1)

明治30年12月9日の米澤新聞に株式申込の広告が掲載されたが、申し込みがはかばかしくしくないため、速成を望むというキャンペーン記事が31年6月25日より3回にわたって掲載された。

 わが郷の有識者相謀り、豊川炭鉱馬車鉄道株式会社が創立されんとするや吾人とわが郷の公利共益を増進する大なるを見、まさにその挙を賛する。なおかつその速成を切望しその成功一日も早くすればわが郷土は一日の大幸福を享くべきを説き、その成立一日でも遅れればわが郷土は一日の損害を受けるものたるを論せり。しかり、しかして該会社の計画着々歩武を進るごとくにして、甚だ遅々たるの感あるは何ぞや。あるいは沿道頑迷の愚民ありて未だ文明の利器を利用するを知らざるためなるか、あるいはその利益の洪大なるを妬みてその事業を妨害せんとするの徒あるがためなるか、乞う、先ず該会社が創立の主旨数件を左に掲げて世人の熟読を煩わさんとす。

「交通上の公益」

道路はこれ国土の脈絡なり。神経なり。人身にして脈絡の体質発育に伴わざるあらば病必ず生ずべく、神経の通せざるあらば局部必ず用を為さざるべし。国家にして脈絡の社会進運に伴わざる処あらば病弊必ず生ずべく神経の通ぜざる土地あらば生霊困憊して倒れんのみ。交通機関の国家の隆興と并進せざるべからざる実にそのごとく道路の社会の進運は両行せざるべからざる実にかくの如し。しかして今やわが郷鉄道なる大脈管板嶺を横断し、米沢の東端より直ちに丹泉を貫き山形を経秋田に入り青森に出て日本鉄道東北線に連絡線とす。わが郷土の交通機関に一大激震を与える将に近きにあり。これが支線たり。細管たり。脈管またこれに伴わざるあらば各局部しの営業を欠き、神経を絶ち病弊忽ち生じ、十万生霊また困憊するに至る論を待たざるなり。われら相謀り炭鉱馬車鉄道を創設しわが郷置賜三郡唇歯補け補車相依るの各局部をして大脈管に伴い神経を敏活なさしめ栄養を十分ならしめ交通機関をして国土の隆興に伴わしめ社会の進運を添しめ、もって国家の発達を謀り公衆の利便を策せんとす。本線は小松より窪田を経て米沢に達し窪田より分岐して赤湯に至るを第一回とし、次いで小松並びに赤湯より長井町に延長し尚且つ奥羽線貫通後の実況に徴して高畠町に及ぼしをもって各局部の栄養をして益々完全ならしめ各支線各細管の脈絡をして益々敏活ならしめんとす。

「石炭使用に関する公益」

燃料の人生に必須なるは実に食料の人生に必須如くなるごときしかり。しかして社会発達は益々薪炭の需要を増加し工業の進歩はいよいよ燃料の供給を要す。社会の発達は駸々としてその停止するところを知らず。工業の進歩は隆々としてその限界する所を見ざるも限りあるの原野限りである山嶽はまた薪炭の供給に限りあらんとす。況や頃者山林の濫代は益々薪炭の供給を減少するにおいてか、薪炭の供給は需要と伴わず価格益々昂騰してわが郷土生活上年に日に困難に陥らんとす。しかしてまた工業の発達を阻害し社会の進捗を防厭せんとするの恐れあり。わが郷土のために謀り公衆万年の大計を策戦と欲するものあに天府を利用して外に燃料を求めずしてかならんや。然りしかして数年前西置賜の地、燃料に最も好適せる石炭の発見ありしといえども不幸にして採掘者その人を得ず、みだりに品質粗悪なりとしてこれを退けたりしもその後尚不休不屈の有志者ありて数十間の試掘を経、遂に良好の石炭を採掘するを得たるは実にわが郷土の一大幸福ならずや。然りといえども採掘の事業たるや多額の資本を要すると同時に、経験ある人これに従事するにあらずんばその効果を収るすこぶる難事たるをいかが、これこの会社を創立し大いにわが郷土の公益を謀らんとする所以なり。

豊川炭鉱馬車鉄道という幻  ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第十二回

◎小松より米沢までのルートとその変更

明治31年2月27日の米澤新聞に当初予定のルートが出ているので見てみよう。

●馬車鉄道と窪田村

いまだ敷設に至らざるつとに世人の渇望しつつある小松米沢間馬車鉄道は元第百二十五銀行支配人たりし石坂祐吉氏新たに入社せらし以来着々その歩武を進めつつあるとなるが、該道は小松町より中街道を経て当市停車場に至るものにて、公共の利益を増進すると莫大なる事業なれば、沿道各町村にて相当の補助を為すべしと主張する者あり。かくの如く公私の熱望するところの事業なれば、各々我が町村を経過せしめんと欲するは自然の結果なるべきは勿論、窪田村においてもこれを延長せしめ六郷村より藤泉、沖を経て窪田村に達する直線を引かんとのことにて同村有志者は夫々相談中なるよし。果たしてしからんには同村の享受すべき利益は実に莫大なるべし。一朝汽車貫通の暁に至らば同村は米沢、糠の目両停車場の間に介在してひとり不便を感するとなるべければ、同村より輸入する貨物米穀二万俵、酒三千駄を下らざるべきをこの鉄道をもって運搬に供すれば半額の賃金をもって支弁せらるべく、また往復の人もこれによって大なる利益を得るべし。加うるに同地方は薪炭に欠乏するところなれば豊川炭鉱会社の石炭をもって薪炭に代えたらんには、これまた些少の利益にあらざるべし。同会社がこの延長に要する経費は少なからざるべしといえども、この貨物を運搬しまた往来の人を乗車せしめれば、会社が得べき利益も決して鮮少ならざるべく、相互の利益かくのごとくなれば余輩は同会社が同地に延長せられんと欲するものなり。

 とある。しかし4月19日の米沢新聞には次のようにルートの変更が発表された。

●馬車鉄道の変更談(六郷村 大幸福)

小松町および米沢市有力者の発起により四方有志の賛成多くその歩を進めつつある小松米沢間の豊川炭鉱馬車鉄道は六郷村より東折して窪田村に回さんとし、同村の有力者が運動しつつあることは過日の本紙上に記載したりしが、その後なお六郷村の有力者久坂部善弥氏のごときは、交通の便を開くは地方幸福増進の一大要務なれば該鉄道を窪田に回し新たに一つの道路を開鑿する。これ実に闔村の一大幸福なりとて率先同会社の発起人となり、なお同村の有力家、遠藤、加藤、森谷その他諸氏の賛成を得て同村のために大いに尽力せらるるよしなり。同会社においても過日の本紙上に掲載したりし如く馬車鉄道米沢より赤湯に延長するの計画なれば、窪田米沢小松間の道路をして窪田に出でしめば、窪田より直ぐに赤湯に延長せしむるの便あり。ひとり同地の利益あるのみならず会社の利益また大なればいよいよ六郷より東折して窪田に迂回することに決定し六郷窪田間の道路を新鑿し、道幅を広め橋梁を改築し往来も便をも謀らんとの計画なりという。地方のためには実に喜ぶべきことなり。しかしてこの線路迂回のためにことに意外の幸福を得るものは六郷村ならんか。同村はけだし鬼面川貫流して時にあるいは濁浪氾濫橋梁を焼失し、各字間の交通を遮断し隣保相救い近村急を告げるを得ざらしむあり。しかるを鉄道線路の窪田に通づるあらば鬼面川には堅牢なる橋梁を架設し、往来を便にするのみならず、いかなる洪水の氾濫するあるも流失の憂いなからしめ且つ、馬車鉄道の便によって数時間に小松、米沢、赤湯等に出づるを得べく、交通の便を開き殖産を発達せしめ、人智を開発せしめるを得ん。同村の幸福思うべきなり。

 

当初は小松町から中郡に出て中街道を南下、六郷に入り六郷橋を渡り塩井町、徳正寺町(現在の徳町)、信夫町で左折、堀立川を渡り座頭町、粡町辻西から粡町を右折、立町に入り現在のカフェ・ラボラトリーを左折、川井小路、桶屋町を通り現在の竹田餅屋から右折堤防に出て、まだ住の江橋は架設していないので、相生橋を渡り米沢駅に出るルートだったのだと思う。

そして2月27日の記事によれば六郷村より藤泉、沖を経て窪田村に支線を通す計画のようだ。酒三千駄は浜田酒造だろうか。

その次の4月19日になると赤湯ルートが浮上してきて六郷村窪田村間が支線ではなく本線になると思われる。つまり小松から中街道を経て途中の六郷村から東折し鬼面川を渡り窪田村に出て、その後国道13号線上、中田、芦付、北町、土橋町、長町、銅屋町を経て現在の登起波牛肉店角で左折し当初の計画のルート繋がるということだ。この時点で計画から十ヶ月ほどで何となくルートがまとまった。

豊川炭鉱馬車鉄道という幻  ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第十一回

◎豊川炭鉱及び人車鉄道計画の諸表

明治30年10月29日、30日の米澤新聞に創業の概算、営業損益が掲載されているので詳細を見てみる。尚この時点ではまだ馬車鉄道ではなく人車鉄道の計画となっていることをお断りしておく。

〇米沢小松間人車鉄道敷設概算

一金一万九千七百六十七円五十銭固定資本額

内訳

金一万三千五百円 九ポンドレール九哩(マイル)

         但し一哩千五百円

金四千五十円   右敷設但一間五十銭枕木共

金三百三十七円五十銭 市中レール中敷木

         但し一間三十七千五厘

金百八十円    右敷設費但し一間二十銭

金六百円     貨車四十輌但し一台十五円

金五百円     客車十輌但し一台五十円

金一百円   クロッシング五組但し一組二十円

金五百円     創業費

〇人車鉄道営業損益予算

一金八千百七十円         (収入総額)

内訳

金六千二百五十円 貨物運賃二万五千駄

但し一駄二十五銭

金一千九百二十円 旅客金一千六百人

但し一人二十銭

一金五千二百三十四円        (支出総額)

内訳

金二千二百五十円 貨物運送人夫給料但し一駄九銭宛二万五千駄分人夫一人一日四十五銭

金七百二十円   客車用人夫給料但し客車引人夫一人にて三人乗り一車持ちにて往復す

金百円    レール修繕費

金八十円   橋賃費但し一ケ月十円宛八ケ月分

金八十円   客車修繕費但し一ケ月一台一円宛

金百六十円  貨車修繕費但し一ケ月一台五十銭

金二百円   社長給料

金三百六十円 事務員給料二人分一人一ケ月十五円

金三百八十四円 店員四名給料但し一人一ケ月八円

金三百六十円 家賃二ケ所但し一か所一ケ月十五円

金二百四十円 事務所費二ケ所但し一ケ月十円

金百円    監査役給料但し二人分

金二百円   取締役給料但し四人分

金四百円   雑費

差引金二千九百三十六円       (純益金)

    (以上明治30年10月29日米澤新聞)

〇豊川炭鉱起業概算

一金一万〇百二十六円九十五銭  固定資本額

内訳

金三千九百八十六円 鉱区譲渡金

   九十五銭五厘 但し坪一銭五厘宛

金二千四百円    木道敷設費但し鉱区より手野子迄二千四百円地代共

金二百円      開坑費但し一坑道四十円宛

          にて五坑道分

金二百円      器械器具費但し鶴嘴唇鍬鏨粮槌等四十人分

金四百五十円    坑夫部屋建築費但し一坪十五円宛建坪三十坪

金百六十円     事務所建築費但し一坪二十円

          建坪八坪

金一千八百円    馬買入費十五頭分但し一頭

六十円づつ(計算合わず・注)

金六百円    馬車馬具買入費但し一頭分二十円

金百八十円   運炭車十二台但し小松米沢間使用

金百五十円 運炭車十台但し鉱区より手野子間使用

金九十五円五十五銭 予備費

〇炭鉱損益予算

一金二万三千七百円         (収入総額)

内訳

金一万九百五十円  米沢市売上金

但し一俵三十銭宛にして三万六千五百俵

金二千七百円    小松町及び近在へ売上金但し一俵二十七銭宛にして一万俵

金一万五十円    長井町宮内町及近在売上金但

         一俵三十銭にて三万三千五百俵

一金一万五千三百五十四円      (支出総額)

内訳

金三千円  馬糧費三十頭分但し一日一頭四十銭宛

金二千六百二十五円 馬丁給料三十人分

但し一人一日三十五銭

金一千九十五円   米沢市小松町間運賃但し一俵

三銭宛にて三万六千五百俵分

金二千八百円    石炭採掘費一俵三銭五厘宛にて八万俵分

金一千二百円    坑木費一俵一銭五厘宛にて八万俵分

金四百円      坑内運搬費但し一俵五厘づつにて八万俵分

金六百四十円 選炭並びに造炭費但し一俵八厘づつ

金一千二百円    鉱区より手野子迄運賃但し一俵一銭五厘づつ八万俵分

金八百円   人物代八万俵分但し一俵一銭の割り

金百五十円     諸公税

金百六十円     木道修繕費但し一ケ月二十円づつ八ケ月

金七十五円  蹄鉄費三十頭分但し一円五十銭づつ

金四十五円     馬具修繕費三十頭分但し一頭一円五十銭

金三百円   技師給料一人分一ケ月二十五円づつ

金三百円   事務員給料二人分但し一人一ケ月十五円一人十円

金百円    家賃一ヶ年分但し手野子貯炭庫一棟

金六十円    雑費一ヶ年分但し一ケ月五円づつ

金三百二十八円   馬車並運炭車修繕費但し馬車一台一ケ月一円運炭車五十銭

差引金 八千三百四十六円        (純益)

(以上明治30年10月30日米澤新聞)

当初から利益が確保されるという見積りであるが、株主はその辺をどう見ていたのだろうか。

豊川炭鉱馬車鉄道という幻  ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第十回

◎蔵田国治と蔵田家と馬車鉄道

前号でこの会社の代表となった蔵田国治についてである。資料としては「伊勢神宮御師蔵田一族の歴史 蔵田国順著 置賜日報社発行」、「山形県議会歴代議員名鑑 山形県議会発行」から拾ってみる。

国治は蔵田国直の次男として、嘉永二年(一八四九)米沢城下神明片町に生まれた。明治五年李山村諏訪神社祠掌になったのを皮切りに、上杉神社、東町皇太神宮などの祠掌を務めた。また同八年置賜県管内神道教導取締、置賜県租税課中勧業掛、同九年置賜県を免職。神道事務局副長、第六八五神風講社副社長、同十年山形県置賜神道事務支局長に任じら れている。その年山形県の第二大区書記、区務所新築世話掛、西村山郡郡書記に任じられた。

ここで国治は突如、同十二年九月山形県十等警部となっている。同十三年谷地警察署詰、警察本部詰、四月に職務課勤務となったが、八月に依願退職している。

 

これは推測の域を出ないが、この山形県十等警部になったことが、馬車鉄道に関わる遠因になったような気がする。

というのは、豊川炭鉱馬車鉄道以外でも米沢新聞などでコンビを組む高野義雄が同じ時期に警察官であったことだ。(高野義雄小伝 上泉治著)高野義雄は明治九年福島県の警察採用試験に合格、認知に赴任とある。米沢の警察署の行政区分は福島にその本部があり、米沢はその支所という形になっていたといわれる。明治九年から十四年まで警察官をしていた。

その時二人が顔見知りだったかは知るよしもないが、その後義雄は後添いに国治の妹さくを迎えることからも、因縁浅からぬものを感じざるを得ない。

 

明治十三年山形県皇典講究所委員、同十七年大講義、同年置賜神道事務局長、同十八年稲葉管長より少教生に任命された。

それに先立つ同十六年上小松村村会議予備員に当選し地方議員をスタートさせている。すぐに村会議員、同年東置賜郡各村連合議員、同十七年第四番学区町村連合会議員、東置賜郡全村連合会議員、東置賜郡県会議員補欠員で当選した。

 その後も東置賜郡連合衛生会会員、連合勧業会会員、物産取調委員、教育委員、所得税調査委員など様々な議員、委員を歴任して多くの寄付も行っている。

 人望厚い国治は民間事業にも進出する。

明治三十年米沢水力電気株式会社の監査役、同年には米澤新聞株式会社取締役に就任している。そして明治三十二年二月十五日豊川炭鉱馬車鉄道株式会社の代表取締役となっている。

 国治の兄信は弘化四年(一八四七)に米沢に生まれ、役人として教部省、岡山県、山形県、福島県、栃木県などを目まぐるしく転勤、明治十九年東京府南足立郡長となり明治二十七年に依願免職となる。その間南足立郡千住茶釜橋より埼玉県北足立郡草加町を経て南埼玉郡粕壁町に至る千住馬車鉄道が明治二十六年二月に営業を開始している。信は明治二十六年十二月に東京から小松町に転籍しており、小松に戻る直前の開業だった。そして同二十八年四十九歳で逝去している。

 私信だが、多分兄信は弟国治にこの馬車鉄道と云う簡便にして客貨両方運べる運搬方法を教示したのではなかろうか。